第68話 君の知らない昨日と、私が見つけた今日
日曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込む陽射しが、ベッドの端に淡い光の帯を作っていた。昨日に続いて空はよく晴れているらしく、窓の向こうからは小鳥の鳴き声と、近所の家で洗濯物を干しているらしい物音が聞こえてくる。平日なら慌ただしく制服へ着替えている時間だったが、今日は急いで起きる必要もなく、ひよりは布団の温かさをもう少しだけ楽しんでから、ゆっくりと身体を起こした。
枕元の時計を確かめると、休日にしては少し早い時間だった。二度寝をするほど眠くはなかったので、ひよりはベッドから降り、机の隅に座っている茶色のぬいぐるみへ目を向けた。少し傾いた耳と、くるみの実のような鼻を持つそのぬいぐるみは、姉の美月に縫い目を直してもらってからも、変わらず同じ場所でひよりを見守っている。
「おはよう、くるみ。今日はお母さんとお買い物に行けるかな」
ひよりはくるみの頭へそっと触れ、窓を開けた。朝の空気は思っていたよりも涼しく、薄い部屋着の袖口から入り込んだ風に少し肩をすくめる。それでも陽射しは穏やかで、庭木の葉が光を受けて揺れる様子を見ていると、気持ちまで明るくなってくるようだった。
机の上には、昨日読み進めた連作短編集と、水色の読書ノートが並んでいた。真樹に薦められて購入したその本は、古い街を舞台に、人々の記憶や小さな約束が少しずつつながっていく物語だ。まだ最後まで読み終えていないが、昨日読んだ部分では、昔の何気ない出来事を二人の登場人物が違う形で覚えていたことが印象に残っていた。
(同じ場所にいて、同じ時間を過ごしていても、覚えていることって少しずつ違うんだよね。でも、だからこそ、あとから話してみると新しい発見があるのかもしれない)
ひよりはノートを開き、昨日書いた文章を読み返した。今は何でもないと思っている一日も、いつか大切な思い出になるかもしれない。そんな考えが残されているのを見て、昨日の自分が感じた温かさまで思い出した。
ふと、スマートフォンへ目を向ける。昨夜、北条真樹と交わしたメッセージは、休日をどう過ごしたかという穏やかなものだった。ひよりが母とクッキー作りの準備をしていると伝えると、真樹は楽しみにしていると言ってくれた。
何気ない会話だったはずなのに、その返事を思い出すと、ひよりの口元には自然と笑みが浮かぶ。
(北条君は、私が楽しみにしていることを、いつもちゃんと聞いてくれるんだよね)
自分でも不思議に思うくらい、真樹には日常の小さな出来事を話したくなる。新しく読んだ本のことも、くるみのことも、母と作る予定のクッキーのことも、以前なら誰かにわざわざ伝えようとは思わなかったかもしれない。
それでも、今は違う。
ひよりはスマートフォンを手に取ったものの、まだ朝早いことに気づいて画面を伏せた。何か伝えたいことができたら、そのときに連絡すればいい。そう思えるくらいには、真樹とのやり取りが日常の一部になりつつあった。
階下から食器の触れ合う音が聞こえてきたので、ひよりは部屋着を整え、読書ノートを閉じた。くるみの傾いた耳を軽く撫でてから廊下へ出ると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。
階段を下りた先では、母の由美が朝食の準備をしており、父の浩介は食卓で新聞を広げていた。日曜日らしい静かな朝の光景に、ひよりはほっとしながら挨拶する。
「おはよう、お父さん、お母さん。今日はいいお天気だね」
「おはよう、ひより。昨日も晴れていたけど、今日も気持ちがいいな。洗車でもしようかと思っていたところだよ」
浩介は新聞を畳みながら笑った。由美も台所から振り返り、ひよりへ箸を並べてもらえるかと頼む。
「ありがとう。今日は買い物へ行こうと思っているんだけど、ひよりも一緒にどう? 昨日話していたクッキーの材料も見てこようかと思って」
「行きたい! ちょうど私も、どんなクッキーを作ろうかなって考えてたの」
ひよりが嬉しそうに答えると、由美は少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。幼いころは一緒に台所へ立つこともあったが、学校生活が忙しくなってからは、こうして娘のほうから料理の話をする機会が減っていたからだ。
「じゃあ、朝ごはんのあとに出かけましょう。今日は材料を買うだけにして、作る日はまた相談しましょうね。生地を休ませる時間もあるし、慌てて作るよりゆっくり楽しみたいもの」
「うん。私、ちゃんと最初から作ってみたいな。型抜きだけじゃなくて、生地を混ぜるところも」
「もちろんよ。失敗したら一緒に直せばいいんだから、遠慮しないでやってみましょう」
その言葉が嬉しくて、ひよりは食器棚から取り出した箸を並べながら笑った。何かに挑戦するとき、失敗するかもしれないと考えてしまうことは今でもある。けれど、母が当たり前のように「一緒に直せばいい」と言ってくれると、難しく考えすぎなくてもいいのだと思えた。
浩介はそんな二人の会話を聞きながら、湯呑みにお茶を注いでいた。
「クッキーか。できたらお父さんにも一枚残しておいてくれよ。美月が小さいころ、形が崩れた星のクッキーを作ったことがあったな」
「お父さん、あれ覚えてるの?」
「もちろん。形は少し変わっていたけど、味はおいしかったからな。ひよりも一生懸命、型を押していたじゃないか」
父が楽しそうに話すと、ひよりは幼いころの台所を思い浮かべた。姉の美月が生地を広げ、自分は小さな手で型を押していた。焼き上がるまで何度もオーブンを覗こうとして、母に危ないから少し離れていなさいと言われた記憶まで、ぼんやりとよみがえってくる。
(お父さんも覚えてたんだ。私が忘れかけていたことを、家族は覚えてくれているんだね)
昨日読んだ物語と、目の前の家族の会話が静かにつながったような気がした。ひよりは朝食の席へ着き、今日の買い物がますます楽しみになった。
◇
同じ朝、北条真樹は自室の窓際で、大きな黒犬のノアの頭を撫でていた。朝の散歩を終えたばかりのノアは、満足そうに床へ寝そべっている。真樹が撫でる手を止めると、黒い鼻先をそっと押しつけてくるので、思わず笑ってしまった。
「分かったよ。まだ撫でてほしいんだな。朝からずいぶん甘えん坊じゃないか」
ノアは返事の代わりに尻尾を揺らし、真樹の手へ顔を寄せた。子犬だったころから変わらない仕草を見ていると、昨日玲奈と話した昔の思い出が自然と浮かんでくる。
駅近くのカフェで過ごした午後は、穏やかで楽しい時間だった。玲奈が気に入っていた焼き菓子はおいしかったし、ノアがまだ小さかったころの出来事を話しているうちに、忘れかけていた記憶もいくつかよみがえった。
昔からの友人と話すと、説明しなくても通じることがある。真樹はその心地よさを改めて感じていた。
ただ、帰り際の玲奈の表情だけは、少し気になっている。
彼女は笑顔で「またこうやって出かけてもいい?」と尋ねた。真樹はもちろんだと答えたが、そのとき玲奈がほっとしたように笑ったことが、妙に印象に残っていた。
(何か気にしていたのかな。久しぶりに二人で出かけたから、少し緊張していたのかもしれない)
真樹にとって玲奈は、幼いころから親しくしている大切な友人だ。学校でも顔を合わせるし、互いの家族やノアのこともよく知っている。だからこそ、昨日の彼女がいつもより慎重に言葉を選んでいたように感じたことが、不思議だった。
けれど、その理由までは分からない。
真樹は考え込みかけたところで、ノアが前足を動かして身体を寄せてきたため、再び笑った。
「お前はいつでも分かりやすいな。嬉しいときは尻尾を振るし、遊びたいときはこうやって近づいてくるし」
ノアの背中を撫でながら、真樹はふとひよりのことを思い出した。
彼女も嬉しいときには、言葉の端にその気持ちが表れる。『雨上がりの手紙』の紹介文を提出できたときも、くるみの名前を教えてくれたときも、ひよりは小さな出来事を大切そうに話してくれた。
けれど、彼女が抱えているすべての気持ちを、自分が知っているわけではない。
以前の告白で傷ついたことも、簡単に忘れられるものではないだろう。真樹はひよりへの想いを自覚しているが、だからといって相手にすぐ答えを求めたいとは思っていなかった。
(天野が安心して笑っていられる時間を、これからも一緒に増やしていけたらいいな)
机の上には、ひよりから以前薦められた『雨上がりの手紙』が置かれていた。真樹はその表紙を眺め、ひよりが学校の図書室へ提出した紹介文のことを思い出す。展示の準備が終わったら写真を送ると言ってくれていたが、まだ掲示されたという連絡はない。
真樹は楽しみに待つつもりだった。ひよりが自分の言葉で選んだ一冊を、ほかの誰かが手に取るかもしれない。そのことが、彼女自身にとって大切な経験になると思っていたからだ。
ノアが再び鼻先を押しつけてきたので、真樹は本から視線を戻した。
「はいはい。今日はお前と過ごす時間もたっぷりあるから、そんなに急かすなよ」
真樹の声に、ノアは満足そうに目を細めた。
◇
午前十時を少し過ぎたころ、ひよりは由美と一緒に近所のスーパーへ向かっていた。浩介は家に残って洗車をすることになり、兄の悠一は昨夜の帰宅が遅かったため、まだ休んでいる。母娘二人で歩く道には休日らしいゆったりとした空気が流れ、道路沿いの植え込みには小さな花が咲いていた。
ひよりは薄手の上着の前を軽く押さえながら、隣を歩く母へ話しかけた。
「お母さん、クッキーって、作る人によって味が変わるのかな。材料が同じでも、焼き方とかで違う?」
「変わるわよ。生地の厚さや焼き時間でも食感が違ってくるし、混ぜ方でも少し変わることがあるの。だから、最初は基本の作り方でやってみるといいと思うわ」
「そっか。私、昔は型を抜くのが一番楽しかったけど、今度はちゃんとおいしく作れるようになりたいな」
由美はその言葉を聞いて、ひよりの横顔を見た。娘は真剣に考えているようで、歩きながら時折指先を動かし、クッキーの形を想像しているらしい。
「ひよりは昔から、何かを好きになると丁寧に向き合うところがあるものね。本もそうでしょう? 最近は読書ノートまで書いているんだもの」
「えへへ……でも、ノートはまだそんなに上手に書けないよ。思ったことを忘れないようにしてるだけだから」
「それで十分じゃないかしら。自分が感じたことを残しておくのって、あとから読み返したときに楽しいと思うわ」
ひよりは母の言葉に頷いた。読書ノートを始めたころは、本の感想をどのように書けばいいのか迷うことも多かった。けれど今では、文章をきれいにまとめることよりも、自分が何を感じたのかを大切にしたいと思っている。
学校の図書室へ提出した紹介文も、そうやって考えながら完成させたものだった。
「そういえば、図書室に出した紹介文はどうなったの? もう貼り出された?」
「まだだよ。木曜日に提出したばかりで、図書委員の人が準備ができたら展示するって言ってくれたの。いつになるかは分からないけど、楽しみなんだ」
「そうなのね。きっと、ひよりの文章を読んで本を手に取る人もいるわよ」
由美は何気なくそう言ったが、ひよりは少し照れて視線を落とした。
「そうだったら嬉しいな。でも、知らない人が読むって考えると、まだちょっと緊張するんだよね」
「緊張するのは、それだけ大切に書いたからでしょう。お母さんも読んでみたいわ」
「展示されたら、写真を撮って見せるね。北条君にも送るって約束してるんだ」
ひよりが自然に真樹の名前を口にすると、由美は穏やかに微笑んだ。最近、娘がその名前を話すことが増えているのには気づいていたが、詳しく尋ねるつもりはなかった。
「楽しみにしてくれる人がいるって、いいことね」
その一言に、ひよりは少しだけ頬を赤くした。自分の書いたものを待ってくれる人がいる。そう考えると、紹介文を提出した日の緊張まで、少し違う意味を持つように感じられた。
スーパーへ入ると、休日らしく買い物客で賑わっていた。入口近くには季節の果物が並び、野菜売り場では店員が新しく届いた商品を棚へ並べている。由美は買い物メモを取り出し、まず夕食に使う材料から選ぶことにした。
「ひより、今日は何か食べたいものある? お父さんに聞いたら何でもいいって言っていたから、せっかくだし好きなものを作ろうと思って」
「お母さんの煮込み料理が食べたいな。野菜がたくさん入ってるやつ」
「いいわね。じゃあ、今日は一緒に材料を選んでみましょうか」
由美はそう言って野菜売り場へ向かった。ひよりはカートを押しながら母の隣へ並び、野菜の状態を確かめる方法や、煮込んだときに形が崩れにくい切り方について教えてもらった。
普段なら、食卓に並んだ料理をおいしく食べるだけで終わっていたかもしれない。けれど今日は、料理ができるまでにいくつもの選択があることを知り、ひよりは新鮮な気持ちになっていた。
「お母さん、いつもこういうことを考えながら買い物してるの?」
「毎回そんなに難しく考えているわけじゃないけどね。家に残っている材料もあるし、みんなの予定によって作りやすいものも違うでしょう?」
「そっか。料理って、作る前からいろいろ考えることがあるんだね」
ひよりが感心すると、由美は笑いながら頷いた。
「本を読むときだって、読む前にどれを選ぼうか考えるでしょう? 少し似ているかもしれないわね」
その例えに、ひよりは思わず笑った。確かに、本屋や図書館で一冊を選ぶときにも、今の気分や読みたい物語を考えている。何を作るか、何を読むか。違うことのようで、どちらにも自分の気持ちを大切にする時間があるのだと思った。
夕食の材料を選び終えると、二人は製菓材料の売り場へ向かった。棚には小麦粉や砂糖、チョコレート、飾り用の材料などが並んでおり、ひよりはその種類の多さに目を丸くした。
「こんなにいろいろあるんだね。クッキーって、もっと簡単な材料だけで作るものだと思ってた」
「基本はそんなに多くないわよ。でも、少し工夫するだけで味も見た目も変わるから、選ぶのも楽しいのよね」
由美は必要な材料を一つずつ確かめながら、買い物かごへ入れていった。ひよりは棚に並んだ小さなチョコレートの袋へ目を留め、以前美月と作った星形のクッキーを思い出す。
「お母さん、これも使ってみてもいいかな。全部につけるんじゃなくて、星の真ん中に少しだけ飾ったらかわいいと思うんだけど」
「いいわね。じゃあ、少しだけ買っておきましょう。ひよりがどんな形にしたいのか、作る日までに考えておいてね」
ひよりは嬉しそうに頷き、袋をかごへ入れた。買い物をしているだけなのに、まだ作っていないクッキーの香りまで想像できそうだった。
会計を済ませて店を出るころには、陽射しが朝よりも少し強くなっていた。由美は買い物袋を持ち直し、ひよりと並んで帰り道を歩き始める。
「今日は付き合ってくれてありがとう。ひよりと一緒に買い物できて楽しかったわ」
「私も楽しかったよ。いつもお母さんに任せきりだったから、こんなに考えることがあるんだって初めて知ったかも」
「また一緒に行きましょう。ひよりが作りたいものを決めて、それに必要な材料を選ぶのもいいわね」
その言葉に、ひよりは笑顔で頷いた。母と過ごす時間が、以前より少しだけ新鮮に感じられる。大きな出来事があったわけではないけれど、自分から何かをしてみたいと思うことで、いつもの日常にも新しい楽しさが生まれるのだと感じていた。
◇
そのころ、一ノ瀬玲奈は自室で、昨日撮影した写真を眺めていた。スマートフォンの画面には、カフェの窓際に置かれた焼き菓子と紅茶が写っている。午後の陽射しを受けた白い皿は柔らかく輝き、テーブルの木目まできれいに残っていた。
玲奈は写真を指先で拡大し、昨日の出来事を思い返した。
待ち合わせの駅前で真樹を見つけたときの安心感。普段の制服とは違う服装で隣を歩いたときの緊張。カフェで昔の話をしながら笑い合った時間。
どれも大切な思い出だった。
それなのに、写真を見返していると、胸の奥に小さな寂しさも生まれてくる。
(昨日は本当に楽しかった。真樹も楽しかったって言ってくれたし、また出かけようって言ってくれた。でも……私は、それだけで満足できるのかな)
玲奈はスマートフォンを膝の上へ置き、窓の外へ目を向けた。真樹と一緒にいる時間は、昔から自然で心地よかった。彼が笑えば自分も嬉しくなるし、困っているときには力になりたいと思う。
けれど、いつからだろう。彼が自分の知らない誰かと楽しそうに話していると、胸の奥が落ち着かなくなるようになったのは。
昨日、真樹は『雨上がりの手紙』という本について話していた。言葉にできなかった気持ちが、時間を掛けて少しずつ伝わっていく物語だという。彼がその本を説明するとき、表情が柔らかくなったことを玲奈は覚えていた。
真樹が誰に薦められて読んだのか、玲奈は聞かなかった。
ただ、思い当たる相手はいた。
(ひよりちゃん、かな)
青葉高校に通う天野ひより。穏やかな話し方をする、本が好きな女の子だ。玲奈自身もひよりとやり取りをしたことがあり、嫌な印象を持ったことはない。
むしろ、彼女の素直なところや、好きなものを大切にするところには好感を持っていた。
だからこそ、簡単に割り切れない。
(ひよりちゃんが悪いわけじゃないのに。真樹が楽しそうなのも、嬉しいはずなのに……どうして、少しだけ置いていかれるような気持ちになるんだろう)
玲奈は唇を軽く結び、机の上へ視線を落とした。自分が真樹を好きなのだということは、もうずっと前から分かっている。けれど、その気持ちを伝える勇気はまだ持てずにいた。
もし告白して、今までの関係が変わってしまったら。
もし真樹が、自分を昔からの友人としてしか見ていなかったら。
そんなことを考えるたび、胸が苦しくなる。
それでも、昨日の時間を後悔しているわけではなかった。真樹と一緒に焼き菓子を食べ、昔の思い出を話し、笑い合ったことは確かに嬉しかったのだ。
スマートフォンが震えたのは、玲奈がもう一度写真へ目を戻そうとしたときだった。
画面には、三浦沙耶からのメッセージが表示されている。
『玲奈、おはよう! 昨日のカフェ、どうだった? 楽しめた?』
玲奈は思わず笑みを浮かべた。昨日のことを気に掛けてくれていた友人の存在が、今はありがたかった。
『おはよう、沙耶。うん、すごく楽しかったよ。お店も素敵だったし、真樹とゆっくり話せたの』
返信を送ると、ほどなくして沙耶から明るい言葉が返ってきた。
『よかった! 玲奈、前から楽しみにしてたもんね。焼き菓子はどうだった?』
玲奈はカフェで撮った写真を一枚選び、送信した。続けて、甘すぎなくておいしかったことや、店内が落ち着いた雰囲気だったことを伝える。
すると沙耶から、少し意外な質問が届いた。
『玲奈は、自分が食べたいものをちゃんと選べた?』
その文章を読んで、玲奈は昨日の自分を思い返した。店へ入る前は真樹が気に入ってくれるかばかり気にしていたが、席に着いてからは、自分が前から食べたかった焼き菓子を選んだ。
『うん。私が気になってたものを頼んだよ。真樹もおいしいって言ってくれた』
『それならよかった。玲奈が楽しめたなら、昨日はいい一日だったんだと思うよ』
玲奈はその言葉を何度か読み返した。
沙耶は、真樹が何を言ったのか、どれくらい玲奈を特別扱いしたのかとは尋ねなかった。ただ、玲奈自身が楽しめたかどうかを気にしてくれた。
(そっか。私が楽しかったことも、ちゃんと大切にしていいんだよね)
玲奈は胸の奥に残っていた緊張が、少しだけほどけるのを感じた。昨日の時間が恋人同士のデートではなかったとしても、自分にとって大切だったことは変わらない。
その事実まで否定する必要はないのだ。
『ありがとう、沙耶。昨日はちゃんと楽しめたよ。また学校で話を聞いてね』
返信を送ると、すぐに快い返事が届いた。玲奈はスマートフォンを机へ置き、鏡の前に掛けてある昨日の服へ目を向けた。
淡い色のニットも、落ち着いたスカートも、自分で選んだものだった。真樹から特別な言葉をもらえたわけではないが、昨日の自分がその服を着て出かけたかったことも、間違いではなかったと思う。
玲奈はゆっくり息を吐き、窓の外の青空を眺めた。
まだ伝えられない気持ちがある。
けれど、今すぐ答えを出さなければならないわけでもない。
少なくとも今日だけは、昨日の楽しかった時間を、そのまま大切にしていたかった。
◇
昼過ぎ、ひよりは買い物から帰宅し、由美と一緒に購入した材料を片づけていた。冷蔵庫へ入れるものと戸棚へしまうものを分けながら、母に教えてもらったことを思い返す。小麦粉や砂糖は使う量を量ってから混ぜること、生地を冷やすと型が抜きやすくなること、焼き時間は生地の厚さによって調整が必要なこと。
ひよりはどれも忘れたくなくて、買い物メモの裏へ簡単に書き留めていた。
「ひより、そんなに真剣に覚えなくても大丈夫よ。作るときにはちゃんと教えるから」
由美が笑いながら言うと、ひよりは少し照れたように顔を上げた。
「うん。でも、せっかくだから覚えておきたくて。お母さんがいつも作ってくれるものって、こうやっていろいろ考えてるんだなって分かったから」
由美はその言葉を聞き、手を止めた。娘に料理を教えることは嬉しいが、それ以上に、普段の何気ない家事へ関心を向けてくれたことが温かく感じられた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、お母さんも嬉しいわ」
ひよりは母の表情を見て、胸の奥がじんわりと温かくなった。自分が何かを覚えることが、母にとっても嬉しいことなのだと知り、クッキー作りの日がますます楽しみになる。
片づけを終えると、由美は買ってきた材料を確認しながら、ひよりへ作る日の相談をした。今週は家族それぞれの予定がまだはっきりしていないため、無理に日付を決めず、都合のいい日を選ぶことにする。
「学校もあるし、急いで作らなくていいからね。ひよりがゆっくりできる日にしましょう」
「うん。私も、ちゃんと時間がある日に作りたいな。お母さんと一緒に、最初から最後までやってみたい」
由美は笑顔で頷いた。
ひよりはそのあと自室へ戻り、机の上の本を整理した。真樹に薦められた短編集はまだ読み終えていないため、栞を挟んだまま横へ置く。今日は学校の図書室で借りている、古い商店街を舞台にした連作短編集の続きを読もうと思っていた。
表紙には、夕暮れの商店街が描かれている。店先の明かりがぽつぽつと灯り始め、通りを歩く人たちの影が長く伸びている絵だ。ひよりはその表紙をしばらく眺めてから、栞を挟んでいたページを開いた。
以前読んだ物語では、文房具店を営む女性が、年配の男性の万年筆へインクを補充する場面が印象に残っていた。その万年筆は亡くなった妻から贈られたもので、男性は長い年月を経ても大切に使い続けている。
ひよりは続きを読みながら、物を大切にする理由について考えた。
便利だから使い続けるものもあれば、思い出があるから手放せないものもある。古くなったからといって、必ずしも価値がなくなるわけではない。
(くるみも、そうなのかな。新しいぬいぐるみを買うことはできるけど、くるみと過ごした時間は、ほかのものじゃ代わりにならないもんね)
ひよりは机の隅へ目を向けた。くるみは相変わらず少し傾いた耳をしており、その横には色褪せた淡い黄色のリボンが大切に置かれている。
以前、家族と古い写真を整理していたとき、幼い自分がくるみを抱いている写真を見つけた。写真の裏には「くるみ」と書かれており、忘れかけていた名前をもう一度思い出すことができた。
そのあと、美月が縫い目を直してくれた。
くるみは昔から同じぬいぐるみなのに、今では新しい思い出まで増えている。
ひよりは本を閉じずに、しばらくそのことを考えていた。物語の中の男性が万年筆を大切にしている理由と、自分がくるみを手放したくない理由は、まったく同じではないかもしれない。
けれど、どちらにも大切な時間が詰まっているのだと思う。
ひよりは水色の読書ノートを開き、今日感じたことを書き留めた。
『大切なものは、新しいか古いかだけでは決まらない。誰かと過ごした時間や、そのものに込められた思い出があるから、手放したくないと思うこともある。』
書き終えた文章を読み返し、ひよりは少しだけ笑った。
以前は、本を読んで感動しても、その気持ちをうまく言葉にできないことがあった。今でも迷うことはあるが、読書ノートへ書き留めるようになってからは、自分が何に心を動かされたのかを考える時間が増えている。
その変化は、学校の図書室へ提出した紹介文にもつながっていた。
ひよりは透明なファイルに残してある紹介文の控えを取り出し、最後の一文へ目を向けた。
『この本を読んだあと、誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなりました。』
何度も考えて選んだ言葉だった。
千夏も、真樹も、その一文をいいと言ってくれた。橘海斗は、初めて読む人にも物語の雰囲気が伝わるようにしたほうがいいと助言してくれた。
それぞれ違う形で支えてもらいながら完成させた文章だと思うと、ひよりは少し誇らしい気持ちになった。
(私一人で書いた文章だけど、一人だけで完成させたわけじゃないんだよね)
ひよりは控えをファイルへ戻し、机の上へ置いた。
まだ展示されていない紹介文が、いつか誰かの目に留まるかもしれない。その日を想像すると少し緊張するが、今は楽しみのほうが大きくなっていた。
◇
午後の時間がゆっくり過ぎていくころ、藤崎千夏は自室で机の上を片づけていた。学校で使う教科書やノートを整理しながら、以前から気になっていた小さな収納用品を置く場所を考えている。
机の隅には文房具がいくつか並んでおり、千夏はそれを見比べながら、来週ひよりと雑貨店へ行く予定を思い出した。
まだ曜日は決まっていないが、月曜日に学校で相談することになっている。千夏はスマートフォンを手に取り、昨日ひよりと交わしたメッセージを読み返した。
(ひより、最近いろいろ楽しそうだな。図書室の紹介文も出せたし、北条君とも本の話をしてるみたいだし)
千夏は友人の変化を嬉しく思っていた。
少し前まで、ひよりは失恋の痛みを抱えながら、何とか普段どおりに過ごそうとしていた。千夏はそのことを知っているからこそ、最近のひよりが自分の好きなものを楽しそうに話してくれることに安心していた。
もちろん、失恋の傷が完全に消えたかどうかは分からない。ひより自身も、まだ自分の気持ちを整理している途中なのだろう。
それでも、前を向こうとしていることは伝わってくる。
千夏は机の上に置いていた小さなメモ帳を開き、雑貨店で見たいものを書き出した。落ち着いた色の小物入れ、机へ飾れる小さな花、使いやすい付箋。
その横へ、ひよりと一緒に見たいものも思い浮かべる。
ひよりなら、本に挟める栞や、読書ノートに使える文房具を喜ぶかもしれない。
(せっかくだし、ひよりにも何かいいものが見つかるといいな)
千夏はそう考えながら、メモ帳を閉じた。
ひよりが北条真樹のことをどう思っているのか、千夏にはまだ分からない。けれど、彼の話をするときのひよりの表情が、以前とは少し違って見えることには気づいていた。
その変化を無理に言葉へさせるつもりはなかった。
今はただ、親友が自分の歩幅で毎日を楽しめているなら、それでいいと思っていた。
◇
夕方、真樹はノアといつもの散歩道を歩いていた。休日のため普段より少し早い時間に家を出たこともあり、道にはまだ明るい陽射しが残っている。住宅街の塀の上には長い影が伸び、庭先の木々が風に揺れるたび、葉の擦れる音が静かに聞こえてきた。
ノアは道端の落ち葉へ鼻先を近づけ、何か気になる匂いを確かめている。真樹はリードを緩めすぎないように持ちながら、その様子を見守っていた。
「今日はそっちが気になるのか。昨日も同じところで立ち止まってた気がするけど、何か変わったのかな」
真樹が声を掛けると、ノアは一度だけ顔を上げたものの、すぐに地面へ鼻先を戻した。真樹は苦笑しながら、急がずに待つことにした。
ノアとの散歩は、ただ歩くだけの時間ではない。犬にとっては、いつもの道にも新しい匂いや気になるものがあるのだろう。
そんなふうに考えていると、ひよりと一緒にこの道を歩く日のことが思い浮かんだ。
まだ具体的な日付は決まっていないが、来週の休日に予定が合えば、夕暮れの公園を案内できるかもしれない。ひよりは以前送った写真を気に入ってくれており、ノアと一緒に歩くことも楽しみにしているようだった。
(天野がここへ来たら、どんなところに目を留めるんだろう。きっと、俺が普段気づかないものも見つけるんだろうな)
真樹はひよりが本の話をするときの様子を思い出した。彼女は物語の大きな出来事だけではなく、登場人物が何気なく口にした言葉や、小さな仕草にも心を動かされることがある。
だから、同じ景色を見ても、自分とは違うものを見つけるかもしれない。
真樹はそれを楽しみにしていた。
公園へ近づくと、ノアは少し足を速めた。真樹は周囲に人がいることを確かめ、リードを持ち直しながら歩く。入口近くでは小さな子どもを連れた親子がベンチへ座っており、少し離れた場所では年配の男性がゆっくり散歩をしていた。
真樹は人の邪魔にならない道を選び、ノアと並んで進んだ。
木々の間から差し込む夕陽は、昨日よりも少し赤みを帯びている。地面には長い影が伸び、風が吹くたびに枝葉の影が揺れた。
真樹は足を止め、スマートフォンを取り出した。
ノアはその気配に気づいたのか、真樹を振り返って首を傾げる。黒い毛並みの輪郭を夕陽が柔らかく照らし、背景には淡い橙色の空が広がっていた。
「いい顔してるな。ちょっとそのままでいてくれよ」
真樹は笑いながら写真を撮った。
画面を確認すると、ノアの表情も公園の景色も、思っていたよりきれいに写っている。真樹はしばらく写真を眺め、それからひよりへ送ってみようかと考えた。
昨日も休日の話をしているし、今日も連絡するのは少し多いだろうか。
そんな考えが一瞬浮かんだが、ひよりがノアの写真を喜んでくれたことを思い出し、真樹は自然と笑った。
(無理に話題を作る必要はないけど、これは見せたいな)
真樹は写真を保存し、帰宅してから送ることにした。散歩の途中でスマートフォンばかり見ていては、ノアとの時間がもったいない。
ノアが再び歩き始めたので、真樹もその隣へ並んだ。
「お前、今度天野が来たら、ちゃんといいところ見せてくれよ。いつもみたいに寄り道ばっかりしてたら、笑われるかもしれないぞ」
ノアは言葉の意味を理解したかのように顔を上げ、嬉しそうに尻尾を振った。真樹はその姿に笑い、リードを握る手へ少しだけ力を込めた。
「……お前は誰の味方だよ」
もちろん、ノアは答えない。
ただ、真樹の隣を楽しそうに歩いていた。
◇
夜、ひよりは家族と夕食を囲んでいた。由美が作った煮込み料理には、昼間一緒に選んだ野菜がたっぷり入っており、温かな湯気とともに食欲をそそる香りが広がっている。
ひよりは自分が買い物に参加したこともあって、いつも以上に料理を楽しみにしていた。
「今日の野菜、ひよりも一緒に選んでくれたのよ」
由美がそう話すと、浩介は嬉しそうに頷いた。悠一も箸を止め、妹へ笑顔を向ける。
「へえ、ひよりが? 最近、料理にも興味出てきたのか」
「うん。お母さんとクッキーを作る約束をしてて、今日はその材料も買ってきたんだ。料理も少しずつ覚えてみたいなって思って」
ひよりが答えると、悠一は少し意外そうに目を細め、それから楽しそうに笑った。
「いいじゃん。じゃあ、そのうち俺にも作ってくれるのか?」
「上手にできたらね。でも、最初はお母さんと一緒に作るから、失敗するかもしれないよ」
「失敗したって食べられるなら大丈夫だろ。焦がしすぎなければ、俺は喜んで食べるよ」
悠一の言葉に、食卓へ笑い声が広がった。由美は少し呆れたように息子を見たが、その表情は穏やかだった。
「悠一、ひよりに余計なプレッシャーを掛けないの。最初は楽しく作ることが一番なんだから」
「分かってるって。楽しみにしてるって言いたかっただけだよ」
ひよりは兄のやり取りを見ながら、自然と笑った。家族が自分の挑戦を楽しみにしてくれていることが嬉しい。失敗したらどうしようという不安も少しあるが、それ以上に、作ってみたいという気持ちが大きくなっていた。
夕食のあと、ひよりは由美と一緒に食器を片づけた。台所へ並んで立ちながら、今日買ってきた材料のことや、クッキーの形について話す。
「星の形も作りたいけど、花の形もかわいいよね。お母さん、昔使ってた型って、まだ全部そろってる?」
「昨日見た箱に入っていると思うわ。今度作る前に、もう一度確認しておきましょうか」
ひよりは頷き、洗い終えた皿を布巾で拭いた。母とこうして台所へ立つ時間も、以前より少し楽しく感じられる。
片づけを終えて自室へ戻ると、窓の外にはすっかり夜の色が広がっていた。机の上では、読みかけの本と水色の読書ノートが静かに並んでいる。
ひよりは椅子へ座り、スマートフォンを確認した。
画面には、真樹から新しいメッセージが届いていた。
『天野、こんばんは。今日はノアと少し早めに散歩してきたよ。公園の木がきれいだったから、また写真を撮った』
続けて送られてきた写真には、夕暮れの光を受けた木々と、その手前に立つノアの姿が写っていた。黒い毛並みの輪郭が柔らかく照らされ、背景には淡い橙色の空が広がっている。
ひよりは思わず笑顔になり、写真を拡大した。
ノアは少しだけ首を傾げており、まるで何かを尋ねているように見える。その表情がかわいらしくて、ひよりは何度も写真を見返してしまった。
(ノア、本当にかわいいな。こんな表情で見つめられたら、きっと何でもしてあげたくなっちゃう)
ひよりは笑いながら返信を打ち始めた。
『こんばんは、北条君! 写真ありがとう。すごくきれいだね。ノアもかわいい! 夕方の公園って、こんなに優しい色になるんだね』
少しして、真樹から返事が届いた。
『今日は特にきれいだったよ。ノアも機嫌がよくて、いつもより寄り道が多かった。天野と一緒に歩くときも、こんな景色が見られたらいいね』
その文章を読んだ瞬間、ひよりの胸の奥がふわりと温かくなった。
真樹は、まだ決まっていない約束を覚えてくれている。
それだけのことなのに、嬉しかった。
ひよりはスマートフォンを両手で持ち、もう一度写真を眺めた。ノアと真樹と一緒に公園を歩く自分を想像すると、自然と頬が緩む。
(北条君とノアと一緒に歩いたら、どんな話をするのかな。本のことも話したいし、ノアの小さいころの話も、もっと聞いてみたいな)
ひよりは少し考えてから、返信を送った。
『うん、私も楽しみにしてる。来週の予定、明日学校から帰ったらもう一度確認してみるね。ノアにも会いたいし、公園の景色も見てみたいな』
真樹からは、無理のない日で大丈夫だからゆっくり決めよう、という返事が届いた。
ひよりはその言葉に安心した。
急がなくていい。
まだ決まっていない約束を、楽しみに待っていてもいい。
そんなふうに思えることが、今のひよりには心地よかった。
ひよりはスマートフォンを机へ置き、水色の読書ノートを開いた。今日読んだ物語の感想に続けて、母と買い物へ行ったことや、真樹から公園の写真が届いたことを書き留めたくなった。
少し迷ってから、ペンを動かす。
『楽しみにしていることがあると、まだ来ていない日まで少し明るく見える。誰かと一緒に過ごす時間を、急がずに待つのも悪くない。』
書き終えた文章を読み返すと、ひよりは小さく笑った。
以前の自分なら、誰かとの約束が近づくたびに、相手がどう思っているのかを気にしすぎていたかもしれない。けれど今は、真樹とノアに会える日を素直に楽しみにできている。
もちろん、胸の奥にはまだ整理しきれていない気持ちもある。
佐伯颯太へ想いを伝えた日のことを、完全に忘れたわけではない。あのときの緊張も、返事を聞いた瞬間の苦しさも、今でも思い出そうと思えば思い出せる。
それでも、最近はその記憶だけに心を占められることが少なくなっていた。
千夏と本の話をしたり、橘海斗と感想を交わしたり、家族と昔の写真を見たり、真樹とノアの話をしたり。
そうした時間が少しずつ増えることで、ひよりの毎日には新しい楽しみが生まれていた。
(忘れなきゃいけないわけじゃないんだよね。あのときの気持ちも大切だったけど、これからの時間も大切にしていいんだ)
ひよりはペンを置き、机の隅のくるみへ目を向けた。
くるみはいつものように座っている。少し傾いた耳も、色褪せた毛並みも、昔から変わらない。
けれど、ひより自身は少しずつ変わっているのかもしれない。
その変化を、今は悪いものだと思わなかった。
◇
同じ夜、真樹は自室でスマートフォンを眺めていた。ひよりから届いたメッセージには、公園の景色を楽しみにしていることと、ノアへ会いたいという気持ちが素直に書かれている。
真樹はその文章を読み返し、自然と笑みを浮かべた。
まだ日付は決まっていない。
それでも、ひよりが楽しみにしてくれていることが嬉しかった。
足元ではノアが丸くなって眠っている。真樹はその寝顔を見下ろし、声を潜めて話しかけた。
「天野、またお前に会いたいってさ。よかったな」
ノアは眠ったまま耳を少し動かしただけだった。
真樹はその様子に笑い、スマートフォンを机へ置いた。
昨日、玲奈と過ごした時間も楽しかった。昔からの友人として、互いの近況を話し、思い出を振り返ることができた。
けれど、ひよりから届いた短いメッセージを読むとき、自分の胸に生まれる気持ちは少し違う。
彼女が喜んでくれたことが嬉しい。
彼女と一緒に景色を見たい。
彼女が何を感じるのか、隣で聞いてみたい。
そうした気持ちが、自然と積み重なっていく。
(やっぱり、俺は天野のことが好きなんだな)
真樹はその想いを胸の中で確かめた。
すぐに何かを変えたいわけではない。ひよりが安心して自分の気持ちを大切にできるように、今は急がずにいたかった。
けれど、いつか自分の想いを伝える日が来るのなら、そのときにはきちんと言葉にしたいとも思っている。
真樹は窓の外へ目を向けた。夜空には薄い雲が流れ、遠くの街灯が静かに光っている。
明日からまた学校が始まる。
ひよりは青葉高校へ、真樹は桜陵学園へ向かう。それぞれ違う場所で一日を過ごし、違う出来事を経験する。
それでも、夜になれば、今日のように小さな出来事を話せるかもしれない。
真樹はそのことを楽しみに思いながら、眠っているノアの背中へそっと手を伸ばした。
◇
ひよりが眠る準備を始めたころ、玲奈も自室の明かりを少し落としていた。
机の上には、昨日カフェで撮った写真を表示したスマートフォンが置かれている。玲奈はもう一度その画面を眺め、焼き菓子の写真を見ながら小さく笑った。
昨日の時間は楽しかった。
真樹と一緒に笑い、昔の話をし、また出かけようという約束もできた。
それでも、自分が彼にとってどんな存在なのかは、まだ分からない。
(いつか、ちゃんと聞ける日が来るのかな。私の気持ちも、ちゃんと伝えられるのかな)
玲奈はその問いに答えを出せないまま、スマートフォンの画面を消した。
今はまだ、勇気が足りない。
けれど、昨日の時間を大切に思う気持ちまで、消してしまいたくはなかった。
玲奈はベッドへ腰を下ろし、窓の外へ目を向けた。夜の街には穏やかな明かりが点々と灯り、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。
同じ日曜日の夜。
ひよりは、家族との買い物や読書の時間を振り返りながら、これから訪れる約束を楽しみにしていた。
真樹は、ひよりとノアと一緒に歩く公園の道を思い浮かべていた。
玲奈は、昨日真樹と過ごした時間を胸に抱きながら、まだ伝えられない想いと向き合っていた。
それぞれが知っていることも、知らないことも、胸に抱いている気持ちも違っている。
ひよりは、玲奈が昨日真樹とカフェへ出かけたことを知らない。玲奈が真樹へ特別な想いを抱いていることも、まだ知らなかった。
真樹もまた、玲奈が昨日の約束へどれほどの期待を込めていたのか、気づいてはいない。
それでも、三人の時間は少しずつ進んでいく。
ひよりは最後にもう一度、真樹から届いたノアの写真を眺めた。夕暮れの公園で首を傾げる黒犬の姿が、画面の中で優しく光っている。
「また会おうね、ノア」
小さく呟いてから、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。
くるみの傾いた耳をそっと撫で、部屋の明かりを消す。
明日から始まる学校生活には、まだいくつもの楽しみが残っている。
図書室へ提出した紹介文がいつ展示されるのか。千夏と雑貨店へ行く日はいつになるのか。母とクッキーを作るのはいつになるのか。そして、真樹とノアと一緒に公園を歩けるのは、いつになるのか。
まだ決まっていないことばかりだった。
けれど、ひよりはその一つ一つを、急いで答えに変えたいとは思わなかった。
楽しみに待つ時間にも、きっと意味がある。
そう感じられるようになったことが、今のひよりには少し嬉しかった。
窓の外では夜風が静かに木々を揺らしている。
それぞれの胸に違う想いを残しながら、日曜日の夜はゆっくりと更けていった。




