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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第67話 土曜日の午後、君と過ごす時間の意味


 土曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には久しぶりに青空が広がっていた。昨日まで空を覆っていた雲はほとんど見当たらず、カーテンの隙間から差し込む陽射しが、机の上に置かれた本の表紙を柔らかく照らしている。ひよりは布団の中で小さく伸びをすると、いつもより少し遅い時間を示している時計を眺めた。


 今日は学校が休みで、急いで制服へ着替える必要もない。机の隅に座る茶色のぬいぐるみ、くるみの傾いた耳へ目を向けると、昨日の夜に書いた読書ノートのことが思い出された。誰かに薦めた本を、もう一度読み返してもらえることが嬉しい。そんな気持ちを文字に残しただけなのに、今朝も胸の奥には穏やかな温かさが続いていた。


(今日は何をしようかな。お母さんに本を貸して、それから千夏と買い物の相談をして……時間があったら、読みかけの本も進めたいな)


 ひよりは布団を畳んでから窓を開け、部屋へ朝の空気を入れた。外からは近所の家の庭木が揺れる音と、少し離れた道を走る車の音が聞こえてくる。晴れた休日らしい静かな空気の中で、ひよりは机の上の『雨上がりの手紙』を手に取った。


 昨日、母の由美へ貸すために用意しておいた一冊だ。ひよりは表紙を指先で撫で、折れや汚れがないことをもう一度確かめると、本を胸元へ抱えて階下へ向かった。


 台所では由美が朝食の準備をしており、父の浩介は食卓で新聞を読んでいた。ひよりが挨拶すると、由美は振り返って笑い、手に持っていた皿を食卓へ置いた。


「おはよう、ひより。今日はいいお天気ね。昨日はゆっくり眠れた?」


「うん、よく眠れたよ。あのね、お母さん。昨日話してた本、持ってきたの」


 ひよりが『雨上がりの手紙』を差し出すと、由美は手を拭いてから丁寧に受け取った。表紙を眺め、題名をゆっくり読んだあと、娘へ穏やかな笑顔を向ける。


「ありがとう。ひよりがそんなに大切にしている本なら、お母さんも楽しみだわ。読んだあと、感想を聞いてくれる?」


「もちろん。お母さんがどんなところを好きになるのか、私も聞いてみたいな」


 ひよりが答えると、由美は本を食卓の端へ置き、朝食の準備へ戻った。浩介も新聞から顔を上げ、娘と妻のやり取りを微笑ましそうに見ている。


「ひよりは最近、本の話をする相手が増えたみたいだな。学校でも紹介文を書いたんだろう?」


「うん。図書室で募集してたから、思い切って出してみたの。まだ展示されてないけど、千夏も橘君も応援してくれて、北条君も読んでくれたんだ」


 浩介は頷きながら、娘の表情を見つめた。以前よりも、学校であった出来事を楽しそうに話すことが増えている。何がきっかけだったのかを細かく尋ねるつもりはなかったが、ひよりが自分の好きなことを大切にできているなら、それが何より嬉しかった。


「そうか。誰かに読んでもらう文章を書くのは、案外勇気がいるものだろう。よく頑張ったな」


 父の言葉に、ひよりは少し照れながら笑った。褒められることが目的ではなかったけれど、自分が迷いながら取り組んだことを認めてもらえると、やはり嬉しい。ひよりは「ありがとう」と答え、朝食の席へ座った。


     ◇


 同じころ、北条真樹は自室でスマートフォンを確認していた。画面には今日の予定が表示されており、午後二時に駅で一ノ瀬玲奈と待ち合わせることになっている。真樹は時間を確かめると、机の上へスマートフォンを置き、窓際で寝そべっている黒犬のノアへ視線を向けた。


 ノアは朝の散歩を終えたばかりで、満足そうに身体を伸ばしていた。真樹が近づくと、片方の耳を動かして顔を上げる。大きな身体に似合わない甘えた仕草に、真樹は笑いながら頭を撫でた。


「今日は午後から出かけるから、少し留守番しててくれよ。帰ってきたら、また一緒に遊ぼうな」


 ノアは言葉の意味をすべて理解しているわけではないだろうが、真樹の声に反応して尻尾を揺らした。真樹はその様子を見て、以前ひよりへ送った子犬のころの写真を思い出した。あの写真を見たひよりは、ノアの小さな姿をとても喜んでくれた。


(天野がまた会いたいって言ってたな。来週の予定が合えば、公園を一緒に歩けるかもしれない)


 真樹はそう考えながら、ノアの背中をゆっくり撫でた。ひよりと過ごす時間を楽しみにしている自分がいる一方で、今日は玲奈との約束がある。幼いころからの友人と久しぶりにゆっくり話せる機会なのだから、そちらも大切にしたいと思っていた。


 真樹は立ち上がり、クローゼットから外出用の服を選んだ。落ち着いた色のシャツに薄手の上着を合わせ、鏡の前で身だしなみを整える。特別に着飾るつもりはなかったが、約束した相手と出かける以上、きちんとした格好でいたかった。


 そのころ玲奈は、自室の鏡の前で何度目かの確認をしていた。昨夜から用意していた淡い色のニットと落ち着いたスカートを身につけ、髪を整えている。いつもより少し丁寧に選んだ服装は、派手すぎず、それでいて普段の制服とは違う雰囲気になっていた。


(変じゃないかな。真樹、何か言ってくれるかな……でも、そんなことばかり期待しちゃだめだよね)


 玲奈は鏡の中の自分を見つめ、ゆっくり息を吐いた。沙耶に言われたように、今日は自分が楽しむことも大切にしたい。真樹がどう思うかばかり考えていたら、せっかくの時間が緊張だけで終わってしまうかもしれない。


 机の上には、小さなバッグが用意されていた。財布とハンカチ、スマートフォンを確かめ、玲奈は最後に髪を整える。鏡の中の自分が少しだけ笑っていることに気づき、胸の奥に広がる期待を隠しきれなかった。


     ◇


 午前中、ひよりは自室で読みかけの短編集を開いていた。真樹に薦められて購入した、古い街を舞台にした連作短編集だ。これまでにいくつかの物語を読み進めてきたが、まだ最後までたどり着いていない。


 窓から差し込む陽射しがページの上へ落ち、紙の白さを柔らかく際立たせている。ひよりは栞を挟んでいたところから読み始め、登場人物たちが昔の記憶をたどる場面にゆっくりと引き込まれていった。


 物語の中では、長いあいだ会っていなかった人同士が、かつて交わした何気ない約束を思い出していた。大きな事件が起こるわけではない。それでも、時間が過ぎたあとで初めて分かる気持ちがあるのだと感じられ、ひよりは何度かページを戻して読み返した。


(昔は当たり前だと思っていたことが、あとになって大切だったって分かることもあるんだね)


 ひよりは机の隅に座るくるみへ目を向けた。幼いころからそばにあったぬいぐるみも、今では思い出の詰まった大切な存在になっている。姉の美月が腕の縫い目を直してくれたことで、くるみにはまた新しい思い出が増えた。


 読み進めているうちに、スマートフォンが震えた。千夏からのメッセージで、昨日話していた雑貨店へ行く日について相談したいという内容だった。


『ひより、おはよう! 昨日の話なんだけど、来週の放課後に少しだけ雑貨を見に行くのはどうかな? 週末の予定を急いで決めなくてもいいかなって思って』


 ひよりは画面を見ながら、来週の学校の予定を思い返した。放課後なら母との買い物とも重ならず、千夏とゆっくり店を見られるかもしれない。まだ具体的な曜日は決まっていないため、まずは相談してみようと思った。


『おはよう、千夏! 来週の放課後なら私も行けそうだよ。何曜日がいいか、月曜日に学校で相談しようか?』


 すぐに返事が届き、千夏もそれでいいと言ってくれた。ひよりはスマートフォンを置き、再び本へ目を戻す。休日の予定が一つずつ形になっていくことが、なんだか嬉しかった。


     ◇


 午後一時を過ぎたころ、真樹は家を出た。駅へ向かう道には休日らしい人の流れがあり、買い物袋を持つ人や、友人同士で歩く学生の姿が見える。真樹は腕時計を確かめ、待ち合わせには十分間に合うことを確認してから、歩く速度を少し緩めた。


 駅前の広場には、午後の陽射しが斜めに差し込んでいた。人の往来が多い場所ではあるが、待ち合わせに使われる時計の近くは見通しがよく、真樹はそこへ向かう。約束の時間より少し早く到着したため、周囲を眺めながら玲奈を待つことにした。


 しばらくすると、広場の向こうから玲奈が歩いてくるのが見えた。淡い色のニットに落ち着いたスカートを合わせ、肩から小さなバッグを掛けている。普段の制服姿とは違う雰囲気に、真樹は少しだけ目を細めた。


「玲奈……じゃなくて、一ノ瀬。こっちだよ」


 真樹が手を上げると、玲奈はすぐに気づいて近づいてきた。彼女は真樹の前で足を止め、少し照れたように笑う。


「真樹、待たせちゃった? まだ時間前だと思ってたんだけど」


「大丈夫。俺も少し早く着いただけだから。今日はいい天気になってよかったね」


 玲奈は頷きながら、真樹の服装へ目を向けた。落ち着いた色合いの服は彼によく似合っており、いつもの制服姿とは違う大人びた雰囲気がある。思わず見つめてしまいそうになり、玲奈は慌てて視線を戻した。


「うん、本当に。昨日まで曇ってたから、雨が降らないか少し心配してたの。今日は歩いてても気持ちよさそうだね」


 真樹は笑って頷き、二人は駅前の通りを歩き始めた。玲奈は隣を歩く真樹との距離を意識しながらも、なるべく自然に話そうとした。沙耶に言われたように、今日は自分も楽しむことを忘れたくなかった。


 目的のカフェは駅から少し歩いたところにあり、通りに面した大きな窓から店内の様子が見える。木製のテーブルと落ち着いた照明が並び、入口の近くには季節の焼き菓子を紹介する小さな看板が置かれていた。


「ここだね。前に話してたお店、思ってたより落ち着いた雰囲気だな」


 真樹が看板を眺めながら言うと、玲奈は嬉しそうに頷いた。写真で見たときから気になっていた店だったが、実際に来ると木の温かさや焼き菓子の香りが感じられ、期待していた以上に居心地がよさそうだった。


「うん。私、こういう雰囲気のお店が好きなの。あんまり賑やかすぎないところで、ゆっくり話せるのがいいなって思って」


「それなら、今日はちょうどよさそうだね。入ろうか」


 真樹が扉を開けると、玲奈は小さく礼を言って店内へ入った。二人は窓際の席へ案内され、向かい合って座る。外の光がテーブルの上へ柔らかく落ち、店内には控えめな音楽が流れていた。


     ◇


 席に着いた玲奈は、メニューを開きながら少し緊張していた。真樹と二人で過ごすこと自体は初めてではないが、今日は自分で選んだ服を着て、楽しみにしていた店へ来ている。その違いが、いつもよりも相手の表情を気にさせた。


「玲奈……じゃなくて、一ノ瀬は、何か気になってるものある?」


 真樹が尋ねると、玲奈はメニューの一角を指さした。季節限定の焼き菓子と温かい紅茶の組み合わせが載っており、写真には小さな果物が添えられている。


「これが気になってるの。甘すぎないって書いてあるし、紅茶にも合いそうでしょう? 真樹はどうする?」


「俺も焼き菓子を頼もうかな。せっかく来たんだし、ここのおすすめを食べてみたい」


 玲奈はその返事に安心し、二人は注文を決めた。店員が去ると、しばらくは窓の外を歩く人たちの姿を眺めながら、学校の近況について話した。


 玲奈は最近の授業であった出来事や、沙耶と話していたことを伝えた。真樹も蓮との会話や、ノアの散歩中の様子を話す。幼いころから互いを知っているため、共通の思い出も多く、会話は自然に続いていった。


「そういえば、ノアは最近どう? この前会ったときも元気そうだったけど、相変わらず散歩が好きなの?」


 玲奈が尋ねると、真樹は笑いながら頷いた。昨日も散歩の途中で何度も寄り道をしたことや、昔から変わらない好奇心旺盛なところを話す。


「本当に変わらないよ。身体は大きくなったけど、気になる匂いがあるとすぐ立ち止まるんだ。昨日もなかなか帰ろうとしなくてさ」


「ふふ、想像できる。小さいころからそうだったものね。真樹が呼んでも、もう少し遊びたいって顔をしてたのを覚えてる」


 玲奈は懐かしそうに笑った。ノアがまだ子犬だったころ、真樹の家で一緒に遊んだ時間を思い出す。大きくなった今も、あのころの無邪気さが残っていることが嬉しかった。


 やがて注文した焼き菓子と紅茶が運ばれてきた。温かな香りがテーブルの上へ広がり、玲奈は思わず表情を明るくした。真樹も皿の上の焼き菓子を眺め、楽しそうに笑う。


「おいしそうだね。こういう店を見つけるの、一ノ瀬は上手だな」


「ありがとう。前から気になってたから、一緒に来られて嬉しい」


 玲奈はそう答え、フォークを手に取った。焼き菓子を一口食べると、ほどよい甘さと香ばしさが広がり、自然と頬が緩む。真樹も同じように味わい、二人はしばらく食べ物の感想を交わした。


 玲奈はその時間がとても心地よかった。特別な話題がなくても、真樹と向かい合って笑い合えることが嬉しい。けれど同時に、彼にとって今日がどんな意味を持つのかを考えると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。


(真樹は、きっと昔からの友達と出かけてるだけなんだよね。でも、私は……)


 玲奈は言葉にならない気持ちを胸の中へしまい、紅茶のカップを持ち上げた。今ここで何かを確かめようとすれば、せっかくの穏やかな時間が変わってしまうかもしれない。だからこそ、今日はまず、この時間を大切にしようと思った。


     ◇


 同じ午後、ひよりは母の由美と台所でクッキーの材料を確認していた。まだ作る日を決めたわけではないが、家にある小麦粉や砂糖、バターの量を見ておけば、買い物のときに迷わずに済む。由美は戸棚から材料を取り出し、ひよりへ一つずつ見せながら説明した。


「型はこの箱に入ってるのよ。昔、美月と一緒に作ったときに使ったものだけど、まだちゃんと使えると思うわ」


 由美が取り出した箱には、星や花の形をした小さな型が入っていた。ひよりは懐かしそうにそれを眺め、幼いころに姉が焼いてくれたクッキーのことを思い出す。形が少し崩れていても、家族で食べたときはとてもおいしく感じた。


「これ、覚えてる。美月お姉ちゃんが星の形をたくさん作ってくれたんだよね。私、花の形も好きだったな」


「そうそう。あのときはひよりが小さかったから、型を押すのも一生懸命だったわね。今度は自分で生地を作るところからやってみる?」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。母と一緒に作るなら、失敗しても教えてもらえる。何かを自分の手で作る時間は、本を読むのとはまた違う楽しさがありそうだった。


 材料を確認し終えると、由美は買い足すものをメモに書き留めた。ひよりも隣で見ながら、どんな形にしたいか考える。まだ具体的な日付は決まっていないが、準備をしているだけで少しわくわくした。


 そのあと、ひよりは自室へ戻り、読みかけの本を再び開いた。午後の陽射しが机の上へ差し込み、くるみの茶色い毛並みを柔らかく照らしている。ひよりは椅子へ座り、物語の続きをゆっくり読み始めた。


 ふと、真樹のことが頭に浮かんだ。昨日の夜、ノアの散歩の話をしてくれたときの文章を思い出し、ひよりは小さく笑う。今日は休日だから、真樹もノアとゆっくり過ごしているのだろうか。


(北条君、今日は何してるのかな。ノアと散歩に行ったり、本を読んだりしてるのかな)


 ひよりはそう考えたものの、すぐにスマートフォンを手に取ることはしなかった。相手にも休日の予定があるだろうし、何か話したいことができたときに連絡すればいい。ひよりは本へ視線を戻し、静かな午後を楽しむことにした。


     ◇


 カフェでは、玲奈と真樹の会話が少しずつ落ち着いたものへ変わっていた。学校の近況やノアの話を終え、二人は幼いころの思い出を話し始めていた。窓の外では午後の光が少し傾き、通りを歩く人たちの影が長く伸びている。


「覚えてる? 昔、ノアがまだ小さかったころ、庭で一緒に遊んでたら、真樹が転びそうになったこと」


 玲奈が笑いながら尋ねると、真樹は少し驚いた顔をした。記憶をたどるように目を細め、それから苦笑する。


「ああ、あったね。ノアが急に走り出して、俺が追いかけたんだっけ。あのときは一ノ瀬が笑いすぎて、しばらく話せなくなってた」


「だって、真樹がすごく真剣な顔で追いかけてたんだもの。ノアは楽しそうだったし、真樹だけが必死で……」


 二人は顔を見合わせて笑った。昔の出来事を覚えている人が目の前にいることは、玲奈にとって特別な安心感があった。言葉にしなくても通じる思い出があり、同じ時間を過ごしてきたことを確かめられる。


 けれど、真樹がふと窓の外へ目を向けたとき、玲奈はその横顔に少しだけ違うものを感じた。彼が何を考えているのかは分からない。ただ、最近の真樹には、自分の知らない時間が増えているような気がしていた。


「真樹、最近は本を読むことも増えたんだよね。前よりも、そういう話をすることが多くなった気がする」


 玲奈が何気ない口調で言うと、真樹は頷いた。ひよりから薦められた『雨上がりの手紙』のことが思い浮かび、自然と表情が柔らかくなる。


「そうだね。最近、読んでよかったと思える本に出会ったんだ。人によって感想が違うのも面白いし、同じ本を読んだ相手と話すのも楽しいなって思ってる」


 玲奈はその言葉を聞き、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。真樹が誰と本の話をしているのか、具体的に聞かなくても思い当たる相手がいた。以前から彼が話題にすることのある、青葉高校の天野ひよりだ。


(ひよりちゃんと、また本の話をしたのかな)


 玲奈はそう考えたが、すぐに表情を整えた。ひよりは自分にとっても好感の持てる女の子で、彼女が本を好きなことも知っている。だからこそ、真樹がひよりと楽しそうに話していることを、素直に喜びたい気持ちもあった。


「そうなんだ。真樹が楽しそうに話してると、私も読んでみたくなるな。今度、どんな本だったか教えてくれる?」


「もちろん。『雨上がりの手紙』っていう本なんだけど、言葉にできなかった気持ちが少しずつ伝わっていく話でね。読む人によって気になるところが違うと思う」


 真樹は本の内容を簡単に話し、結末には触れないように気をつけた。玲奈はその説明を聞きながら、ひよりが好きそうな物語だと思った。真樹がその本を読んだきっかけを、彼女はまだ尋ねていない。


「素敵な話みたいだね。私も今度、本屋さんで探してみようかな」


「うん。気になったら読んでみて。感想を聞けたら嬉しいよ」


 真樹は穏やかに笑った。玲奈はその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのと同時に、少しだけ苦しくなった。彼が誰にでも優しく、好きなものを分け合うことを楽しむ人だと知っている。それでも、自分だけに向けられる特別な言葉を、どこかで期待してしまう。


     ◇


 カフェを出たころには、午後の陽射しが少し傾き始めていた。真樹と玲奈は駅へ戻る道をゆっくり歩きながら、店の焼き菓子の感想を話していた。玲奈は今日の時間が終わってしまうことを少し寂しく感じていたが、それを表に出しすぎないようにしていた。


「今日はありがとう、真樹。すごく楽しかった。あのお店、また行きたいな」


「こちらこそ。いい店だったね。一ノ瀬が気に入ってた理由も分かった気がするよ」


 真樹の返事に、玲奈は嬉しそうに笑った。駅前の広場へ近づくにつれて人通りが増え、二人は歩く速度を少し緩めた。待ち合わせた時計の近くまで戻ると、玲奈は足を止めた。


「真樹、またこうやって出かけてもいい?」


 玲奈の声は穏やかだったが、その奥には小さな勇気が込められていた。真樹は特に迷う様子もなく頷き、いつものように柔らかく笑った。


「もちろん。予定が合えば、またどこか行こう。今日みたいに落ち着いて話せるのもいいね」


 その言葉に、玲奈は胸の奥が温かくなった。真樹にとっては自然な返事だったのかもしれないが、自分にとっては大切な約束のように感じられた。


「うん。ありがとう。また誘うね」


 玲奈はそう言い、真樹へ小さく手を振った。彼が駅の向こうへ歩いていく姿を見送りながら、今日の出来事を一つずつ思い返す。服装について特別な言葉はなかったけれど、カフェで笑い合った時間は確かに楽しかった。


(今日は、ちゃんと楽しめた。真樹と一緒に過ごせて、嬉しかった)


 玲奈はその気持ちを大切に抱えながら、帰り道を歩き始めた。胸の奥に残る小さな切なさの理由を、今はまだ深く考えたくなかった。


     ◇


 夕方、真樹が帰宅すると、ノアは玄関の近くまで迎えに来た。大きな黒い身体を揺らしながら近づいてくる姿に、真樹は笑ってしゃがみ込む。


「ただいま、ノア。ちゃんと留守番してたか?」


 ノアは嬉しそうに尻尾を振り、真樹の手へ鼻先を押しつけた。真樹は頭を撫でながら、今日のカフェで過ごした時間を思い返す。玲奈が楽しそうに笑っていたことや、昔の話で盛り上がったことが心に残っていた。


 幼いころからの友人と過ごす時間は、やはり落ち着く。けれど、ひよりと本の話をしているときに感じる胸の高鳴りとは、どこか違うものだった。真樹はその違いを無理に言葉へしようとはせず、ノアの背中をゆっくり撫でた。


 そのころ、ひよりは夕食のあとに自室へ戻り、水色の読書ノートを開いていた。今日は母へ本を貸したことや、千夏と来週の予定を相談したこと、クッキー作りの材料を確認したことなど、いくつもの小さな出来事があった。


 ひよりは少し迷ってから、今日読んだ短編集の感想を書き始めた。昔の約束が時間を経て違う意味を持つことや、誰かと同じ思い出を覚えていることの温かさについて、ゆっくりと言葉を選ぶ。


『同じ時間を過ごした人と、あとになって思い出を話せることは、きっと幸せなことなんだと思う。今は何でもない一日でも、いつか大切な思い出になるのかもしれない。』


 書き終えると、ひよりはノートを閉じ、机の隅のくるみへ目を向けた。今日は穏やかな休日だった。特別な出来事がなくても、家族や友人との小さな約束が増えていくことが嬉しい。


 スマートフォンを確認すると、真樹から短いメッセージが届いていた。


『天野、今日はいい天気だったね。ノアも元気にしてるよ。週末、ゆっくり過ごせてる?』


 ひよりは笑顔になり、すぐに返信を打ち始めた。


『うん、今日は家で本を読んだり、お母さんとクッキーの材料を確認したりしてたよ。北条君も楽しい休日だった?』


 真樹はそのメッセージを読み、少し考えてから返事を送った。


『うん。久しぶりにゆっくり話せる時間もあって、いい一日だったよ。クッキー、作るの楽しみだね』


 ひよりはその言葉を読み、真樹も穏やかな休日を過ごせたのだと感じて安心した。彼が誰と、どこで時間を過ごしていたのかは知らない。けれど、相手が楽しい一日を過ごせたなら、それだけで嬉しかった。


『ありがとう。作ったら、うまくできたか報告するね』


 真樹からは、楽しみにしているという返事が届いた。ひよりはスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。夜空には薄い雲が流れ、遠くの街灯が静かに光っている。


 同じ土曜日でも、過ごした時間は人によって違う。ひよりは家族との穏やかな一日を楽しみ、真樹は玲奈とカフェで昔の思い出を語り合った。そして玲奈は、真樹と過ごした時間を胸に抱えながら、少しだけ切ない気持ちを残していた。


 ひよりはまだ、その違いを知らない。


 けれど、知らないままでも、明日へ続いていく約束がある。ノアと歩く公園の道も、千夏と見に行く雑貨店も、母と作るクッキーも、まだこれからの楽しみとして残っていた。


 ひよりはくるみの傾いた耳をそっと撫で、明日も穏やかな一日になりますようにと心の中で願った。


 それぞれの胸に違う色の思い出を残しながら、土曜日の夜は静かに更けていった。


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