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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第66話 金曜日の約束は、それぞれ違う色をしている


 金曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。雨が降るほど暗い空ではなかったものの、カーテンの隙間から入ってくる光は柔らかく、部屋の中にはまだ夜の冷たさが少し残っている。ひよりは布団から片手を伸ばして目覚まし時計を止めると、昨日の放課後に図書室へ提出した紹介文のことを思い出した。


 透明なファイルを入れていた鞄のポケットは、今朝は空になっている。昨夜まで何度も確認していた一枚の紙がそこにないことを、ひよりは少し不思議に感じた。失くしたわけでも、忘れたわけでもない。自分の手を離れた文章が、学校の図書室で展示の準備を待っているのだ。


(誰かが読んでくれるのは、まだ先かもしれないけど……提出できたんだよね)


 机の隅に座る茶色のぬいぐるみ、くるみの傾いた耳へ目を向けると、ひよりは自然と頬を緩めた。昨夜も報告したばかりなのに、今朝はまた別の気持ちで話しかけたくなる。けれど声に出す前に階下から食器の触れ合う音が聞こえ、ひよりはくるみの頭を軽く撫でてから制服へ着替え始めた。


 朝食の席では、母の由美が週末の買い物について父の浩介と相談していた。ひよりが椅子を引くと、由美は温かいスープの皿を寄せながら「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」と尋ねた。ひよりが「うん、紹介文を出せて安心したから」と答えると、父は新聞から顔を上げて笑った。


「それならよかった。提出したあとも、何かしなくちゃいけないのかと思っていたけど、あとは展示を待つだけなんだな」


「そうなの。図書委員の人が準備してくれるって言ってたから、いつ貼り出されるかはまだ分からないんだけどね。もし展示されたら、私も見に行ってみたいな」


 ひよりが答えると、由美は嬉しそうに頷いた。昨日の朝に『雨上がりの手紙』を読んでみたいと話したことも覚えていたようで、食事の途中に「その本、今度お母さんにも貸してね」と改めて声を掛けてくる。ひよりはすぐに貸したい気持ちになったが、本棚のどこへ置いてあるかを確かめてから渡そうと思い、「帰ってから探しておくね」と約束した。


「そういえば、前に話してたクッキーも、まだ一緒に作れてないわね。今週末は買い物があるけど、材料を見ておくことくらいならできるかしら」


 由美の言葉に、ひよりはスプーンを止めた。以前、家で焼き菓子を作る話になってから、学校のことや本のことに気を取られ、具体的な予定を決めないままになっていたのだ。


「うん、見てみたい。お母さんが忙しくなかったらでいいんだけど、今度は私もちゃんと作ってみたいな。美月お姉ちゃんが前に焼いてくれたみたいに、きれいな形になるかな」


「最初から形をそろえようとしなくても大丈夫よ。お姉ちゃんだって、初めてのころは大きさがばらばらだったもの」


 由美は笑いながら、焼き菓子の型をどこへしまったか考え始めた。ひよりも、家にある材料を先に確認してから足りないものを買えばいいのだと気づく。作る日を決めたわけではないけれど、楽しみが一つ具体的になった気がして、朝食の時間が少し賑やかになった。


     ◇


 青葉高校の教室に入ると、藤崎千夏は自分の席で筆箱の中身を整理していた。ひよりが声を掛けると、千夏は顔を上げて笑い、机の端へ寄せていた小さな紙片を見せてくれた。そこには雑貨店で見たいものが書かれており、以前話していた机周りの整理用品や、小さな花を飾れる容器のことが並んでいる。


「昨日、家の机を片づけてたら、やっぱり本を置くところが狭くてさ。かわいいだけじゃなくて、ちゃんと使えるものがいいなって思って、候補を書いてみたんだ」


「千夏、すごい。もうちゃんと考えてるんだね。前に写真を見せてもらったときも、机の上がきれいだなって思ったけど、まだ工夫したいところがあるんだ」


 ひよりが感心すると、千夏は「写真に写してないところが問題なの」と少し照れくさそうに笑った。千夏の机には本やノートが増えていて、読みかけのものを重ねると探しにくくなるらしい。ひよりも似た経験があったため、どんな大きさなら使いやすいか、授業前の短い時間に一緒に考えた。


「ひよりは週末、何か予定ある? 急に誘って困らせたくないから、今日はまず聞くだけにしようと思ってたんだけど」


 千夏の問いに、ひよりは家での話を思い返した。母と買い物をする可能性はあるが、時間も日付もまだ決まっていない。真樹とノアとの公園散歩についても、来週の休日なら都合が合うかもしれないと話しているだけだった。


「お母さんと買い物に行くかもしれないけど、まだ決まってないんだ。今日帰ったら聞いてみるね。千夏と雑貨を見に行くのも楽しそうだから、予定が合ったら一緒に行きたいな」


「ありがとう。無理に今週じゃなくてもいいよ。ひよりと見て回る時間も楽しみだし、買うものを考える時間も結構好きなんだ」


 千夏が紙片を筆箱へしまうと、教室の前方では日直が黒板の連絡事項を書き始めた。ひよりは鞄から教科書を取り出し、千夏とそれぞれの席へ戻る。いつもなら何気なく過ぎる朝の会話だったが、週末に向けた小さな予定が一つ増えたことで、金曜日らしい軽やかさを感じた。


 二時間目の休み時間、橘海斗がひよりの席へやってきた。手には図書室で借りていた『雨上がりの手紙』があり、表紙の角を傷めないように持っている。海斗はすでに本を読み終え、先週にはひよりや千夏と結末について感想を交わしていたが、借りた本を返す機会を見つけられずにいたらしい。


「天野さん、昨日は紹介文を見せてくれてありがとう。今日、この本を返そうと思ってるんだけど、返す前にちょっとだけ聞いてもいい?」


「うん、もちろん。どうしたの?」


 ひよりが椅子の向きを少し変えると、海斗は表紙を見下ろしながら言葉を選んだ。結末について改めて質問するのではなく、紹介文に書かれていた「言葉の受け取り方」という表現が、読み終えたあとに自分が考えたこととつながったのだという。


「この本、読み終えたときは、手紙を書いた人の気持ちを中心に考えてたんだ。でも昨日の紹介文を読んだあと、受け取った人のほうにも、その人だけの時間があるんだなって思ってさ。前に話したときと、少し違うところが気になったんだよね」


 ひよりはその話を聞き、嬉しくなった。自分が書いた文章を読んだことがきっかけで、すでに読み終えた物語にもう一度目を向けてくれたのだ。誰かに本を薦めることは、新しい一冊を手に取ってもらうことだけではないのかもしれない。


「私もね、北条君や橘君と感想を話してから、前と違って見えるところがあったよ。同じ本なのに、誰かの話を聞くと、読み返したくなる場面が増えるんだよね」


「分かる。だから返す前に、気になったページだけもう一回読んじゃった。借りっぱなしにするわけにもいかないし、今日はちゃんと返してくるよ」


 海斗が笑うと、ひよりもつられて笑った。図書室に返せば、次に借りる誰かの手へ渡る。昨日提出した紹介文がいつか展示されたとき、その人が本棚からこの一冊を選ぶこともあるのだろうかと考え、ひよりは胸の奥に静かな期待を覚えた。


「じゃあ、もし展示されたら、本棚のところも見に行ってみようかな。誰かが借りてくれたかどうかは分からないけど、同じ本がそこにあるって思うと嬉しいから」


「うん。俺も、展示されたら見に行くよ。昨日の文章、すごくよかったから」


 海斗は本を持ち直し、予鈴が鳴る前に自分の席へ戻った。ひよりは机の上に置いた教科書を開きながら、昨日まで自分の中で大きかった「提出する」という目標が、今日は少し別の形に変わっていることに気づいた。書き終えることだけではなく、その先に誰かがいるかもしれないと考えるのが、今は楽しかった。


     ◇


 桜陵学園では、北条真樹が昼休みに神崎蓮と校舎の渡り廊下を歩いていた。窓の向こうには曇り空が広がり、植え込みの葉が風に揺れている。食堂へ向かう生徒たちとすれ違いながら、蓮は真樹が鞄へしまいかけたスマートフォンを見て、少し面白そうに笑った。


「今日は天野さんから何か連絡があったのか?」


「いや、朝に昨日のお礼を一言送っただけ。紹介文を出せてよかったって話をしたから、それ以上は特に何もないよ」


 真樹が答えると、蓮は「別に毎日大きな話題がなくてもいいんだろうな」と言った。その口調にはからかいよりも、友人を見守る落ち着きがあった。真樹は廊下の窓へ目を向け、少し考えてから頷く。


「そうだね。天野が話したいことを話してくれるのは嬉しいけど、俺のほうから何かを急かしたいわけじゃない。あいつが自分の好きなことを楽しんでるなら、それでいいと思う」


「そういうところは真樹らしいな。でも、お前自身の予定もちゃんと大事にしろよ。明日は一ノ瀬と出かけるんだろ?」


 真樹は蓮へ顔を向けた。玲奈とは土曜日の午後二時に駅で待ち合わせ、以前から話していた静かなカフェへ行く予定になっている。幼いころからの付き合いがある相手と出かけることを、真樹は特別に構えてはいなかった。


「ああ。季節の焼き菓子がある店らしいから、玲奈も楽しみにしてると思う。最近は学校で話すことが多かったし、落ち着いて近況を話せればいいかな」


 蓮は返事を急がず、真樹の横顔を見た。玲奈が真樹に向ける視線には、長い付き合いの友人というだけでは説明しにくいものがあると感じている。けれど、それは蓮の推測であって、本人が打ち明けたことではない。


「そうか。なら、ちゃんと楽しんでこいよ。相手が昔からの友達でも、約束して出かけるなら、そこで一緒に過ごす時間を大切にするのは同じだろ」


「もちろん。約束したからには、楽しい時間にしたいと思ってるよ」


 真樹の返事は素直だった。蓮はそれ以上踏み込まず、食堂の扉へ手を掛けた。玲奈の気持ちを勝手に代弁することも、真樹の心を責めることも、友人として自分の役目ではない。ただ、それぞれが大切にしているものが違うかもしれないという予感だけが、胸の片隅に残った。


 その少しあと、玲奈は三浦沙耶と教室で昼食を終え、窓際の空いた席に並んで座っていた。沙耶が持ってきた雑誌には秋冬の服装が載っていたが、玲奈はページをめくる手を止め、鞄の中の小さな手帳へ視線を落としていた。明日の待ち合わせ時刻はすでに確認しているのに、何となくもう一度見たくなる。


「玲奈、そんなに確認してたら二時って数字が夢に出てきそうだよ」


 沙耶が笑うと、玲奈は頬を赤くして手帳を閉じた。「だって、久しぶりに二人でゆっくり出かけるんだもの」と答えながらも、自分が少し浮き足立っていることは分かっていた。淡い色のニットと落ち着いたスカートを合わせるつもりで、昨夜は靴まで出してみたのだ。


「楽しみなのはいいことじゃない。玲奈、真樹君といるときって、いつも相手がどう思ってるか先に考えちゃうでしょう。明日は玲奈自身が食べたいものも、見たいものも、ちゃんと言っていいんだからね」


「……そうだね。私、真樹が退屈しないかとか、気にしてばっかりだったかもしれない」


 玲奈は窓の外へ目を向けた。真樹は昔から、誰かが困っているとさりげなく気づいて手を貸す人だった。その優しさをよく知っているからこそ、自分がどこまで望んでいいのか分からなくなるときがある。


(明日は、私が一緒にいて楽しいってことも、ちゃんと伝えられたらいいな)


 そう考えると、胸の中の緊張がほんの少しだけ形を変えた。沙耶は玲奈がようやく笑ったのを見て、雑誌のページを閉じる。明日の結果を急いで尋ねるつもりはないが、週明けに玲奈がどんな顔で登校してくるのか、気にならないと言えば嘘になる。


     ◇


 青葉高校の午後の授業が終わるころには、窓の外の雲が少し薄くなっていた。ひよりはノートを閉じ、教科書を鞄へ入れながら、朝に千夏と話した雑貨店のことを思い出す。教室の後ろでは部活動へ向かう生徒が慌ただしく荷物をまとめ、廊下からは体育館へ急ぐ足音が聞こえてきた。


「ひより、今日ちょっとだけ図書室に寄ってもいい? 昨日借りた本の続きが気になってるんだけど、週末に読む本も探したくて」


 千夏が近づいてきて尋ねた。ひよりはすぐに頷いたものの、昨日提出したばかりの紹介文を思い出し、少し照れくさくなった。図書委員の人から展示まで時間が掛かるかもしれないと聞いているので、もう貼られているとは思っていない。


「うん、行こう。私も少し本を見たいな。昨日の紹介文が気にならないわけじゃないけど、まだ準備中だと思うし、今日は普通に本を探そうかな」


「それがいいよ。毎日受付をのぞいてたら、ひよりのほうが落ち着かなくなっちゃうもんね」


 千夏の冗談に笑いながら、二人は教室を出た。図書室へ続く廊下は放課後の静けさが戻りつつあり、窓の向こうでは校庭を走る生徒たちの声が遠く聞こえる。ひよりは千夏と並んで歩きながら、展示を待つ時間も本を読む時間も、どちらも楽しめたらいいと思った。


 図書室へ入ると、受付の横には昨日と同じ募集案内が置かれていた。紹介文の展示場所として予定されている棚の一角にはまだ何も貼られておらず、図書委員が数枚の色紙を机に並べている。ひよりは作業を邪魔しないように軽く会釈してから、千夏と別々の棚へ向かった。


 ひよりが向かったのは、最近よく手に取る短編集の棚だった。学校の図書室から借りた、古い商店街を舞台にした連作短編集はまだ読み終えていない。続きを読みたい気持ちはあるものの、今日は棚に並ぶほかの作品の背表紙も見てみたかった。


 少し離れた場所で、返却台へ本を置く音がした。顔を上げると海斗が『雨上がりの手紙』を返却しているところで、受付の図書委員と短く言葉を交わしていた。海斗はひよりに気づくと軽く手を上げ、邪魔にならない距離から微笑んだ。


「天野さん、来てたんだ。さっき、ちゃんと返してきたよ。借りてる間に何度か読み返したところもあるし、いい本を教えてもらえてよかった」


「こちらこそ、読んでくれてありがとう。橘君と感想を話せたの、私も楽しかったよ」


 ひよりが答えると、海斗は少し照れたように笑った。彼はほかにも借りたい本があるらしく、別の棚へ向かっていく。ひよりはその背中を見送ってから、返却された一冊が次の読者を待つことを想像した。


 やがて千夏が数冊の候補を抱えて戻ってきた。どれも厚すぎない本で、週末の空いた時間に読み進められそうなものを選んだという。ひよりはそれぞれのあらすじを一緒に読み、千夏が最後に選んだ一冊を見て「これ、表紙の色も千夏が好きそう」と笑った。


「ひより、そういうところよく見てるよね。内容で選んだつもりなのに、言われてみたら確かに好きな色だ」


「だって、千夏の机に置いてあるものって、落ち着いた色が多いでしょう? この本も、そこに並んだら似合いそうだなって思ったの」


 千夏は本を胸元へ引き寄せ、嬉しそうに頷いた。二人は貸出手続きを済ませ、窓の外が暗くなり始める前に図書室を出た。ひよりの紹介文はまだ展示されていないが、そのことを残念だとは感じなかった。今は誰かが準備を進めてくれているという事実だけで、十分だった。


     ◇


 帰り道、ひよりと千夏は商店街の入口にある小さな店先で足を止めた。店の前には季節の花が並び、ガラス越しには小さな鉢や籠が見える。千夏は以前から机に置く花を考えていたため、通り過ぎる前に少しだけ眺めたいと言った。


 ひよりは千夏の隣へ立ち、店先の花を見比べた。白や淡い黄色の小さな花は、曇り空の下でも柔らかく見える。千夏は花を飾るなら手入れのしやすさも大切だと話し、ひよりも水を替える場所や机の広さを考えるのが楽しくなった。


「今日は買わないけど、実物を見ると大きさが分かるね。写真だけだと、もっと小さいと思ってた」


「そうだね。千夏の机なら、あまり大きくないほうが本を置きやすそう。今度雑貨を見に行くときも、置く場所の大きさを測ってから行くといいかもしれないね」


「それ、いい考え。帰ったら測っておくよ。ひよりも、お母さんとの予定が決まったら教えてね」


 千夏はそう言いながら、鞄からスマートフォンを取り出してメモを残した。ひよりはその横顔を見て、千夏が自分の好きなものを少しずつ選んでいる時間も楽しそうだと思った。誰かに薦める本を考えるのと、毎日使うものを選ぶのは違うようでいて、自分にとって何が大切かを考えるところは似ているのかもしれない。


 分かれ道に着くと、二人は週末の予定が分かったら連絡することを約束した。千夏が角を曲がるまで手を振り、ひよりは一人になった道を歩き始める。夕方の空気は冷たかったが、商店街から漂ってきた焼き菓子の甘い香りが、朝に母と話したクッキー作りを思い出させた。


(お母さんと作るなら、どんな形にしようかな。お姉ちゃんにも見てもらえたら、きっと喜んでくれるよね)


 家族と作る焼き菓子を想像しながら歩いていると、鞄の中でスマートフォンが小さく震えた。安全な場所で立ち止まって確認すると、真樹から短いメッセージが届いていた。


『天野、今週もお疲れさま。昨日の紹介文のこと、今日も少し考えてた。展示が楽しみだね』


 ひよりは思わず笑顔になった。自分が昨日提出した文章を、真樹が今日も覚えていてくれたことが嬉しい。返信は家に帰ってから落ち着いて書こうと決め、スマートフォンを鞄へ戻して再び歩き始めた。


     ◇


 その日の夕方、真樹はノアといつもの散歩道を歩いていた。大きな黒犬は落ち葉の積もった道端で足を止め、風に運ばれてくる匂いを確かめている。真樹がリードを緩めて待っていると、ノアは満足したように顔を上げ、今度は少し先の道へ進みたそうに尻尾を揺らした。


「今日はそっちが気になるのか。分かったから、そんなに急ぐなよ」


 真樹が声を掛けると、ノアは一度だけ振り返った。人の言葉をどこまで理解しているのか分からないが、少なくとも自分の名前と散歩の終わりが近づいたときの雰囲気には敏感だ。真樹はその様子を見て笑い、歩幅を合わせた。


 明日の午後は玲奈とカフェへ行く予定がある。真樹は帰宅後に待ち合わせ場所をもう一度確認しようと考えていたが、それは玲奈と交わした約束を大切にするためであって、ほかの誰かと比較するものではなかった。幼いころから知る相手と、落ち着いて話す時間を持つのも久しぶりだ。


 道の向こうには、以前ひよりへ写真を送った小さな公園へ続く角が見えてきた。夕暮れにはまだ少し早く、空は雲の隙間から淡い光を落としている。真樹はノアが歩く方向へ合わせながら、ひよりとこの道を一緒に歩くなら、どんな話をするだろうと考えた。


(天野なら、きっとノアが立ち止まるたびに付き合ってくれるんだろうな。景色の話をしたり、最近読んだ本の話をしたり……それくらいの時間が、今はちょうどいいのかもしれない)


 公園散歩の日付はまだ決まっていない。ひよりは来週の休日なら空いているかもしれないと話していたが、家族の予定を確かめてからということになっている。真樹は焦って日程を決めるつもりはなく、ノアがまた道端の匂いを嗅ぎ始めるのを見て、少しだけ苦笑した。


「お前は誰の味方だよ。天野が一緒だったら、もっと寄り道が増えそうだな」


 ノアは何も答えず、黒い尻尾を大きく振った。その無邪気な様子に真樹は笑い、散歩道をゆっくり進んだ。


     ◇


 ひよりが帰宅すると、由美は台所で夕食の下ごしらえをしていた。ひよりは手を洗ってから学校での出来事を話し、千夏と雑貨店へ行くかもしれないことを伝える。由美は包丁を置いて予定を思い返し、週末の買い物はまだ時間を決めていないから、ひよりが友達と出かけるなら無理に合わせなくていいと言った。


「でも、お母さんと材料を見に行くのも楽しみなんだ。どっちかを急いで決めなくてもいいかな?」


「もちろん。買い物は来週でもできるし、クッキーだって急がなくていいもの。ひよりがどんなふうに作りたいか考えておいてくれたら、それで十分よ」


 由美の返事に、ひよりは安心した。千夏との買い物も、母とのクッキー作りも、どちらも楽しみだからこそ、片方を諦めるような決め方はしたくなかった。まずは千夏へ、まだ日程を相談できることを伝えておこうと思う。


 夕食の前に自室へ戻ると、ひよりは本棚から『雨上がりの手紙』を取り出した。母へ貸すつもりの本を手に持つと、初めて読んだときの気持ちや、真樹と海斗がそれぞれ違う感想を話してくれた時間が思い出される。表紙をそっと撫でてから、折れや汚れがないことを確かめ、机の上へ置いた。


 その隣には、読みかけの二冊がある。真樹に薦められて買った古い街を舞台にした短編集と、学校の図書室で借りた商店街の連作短編集だ。どちらもまだ読み終えていないため、週末に少しずつ続きを読みたいと思った。


 ひよりは千夏へメッセージを送り、母の買い物は日程未定なので、雑貨店へ行く日を相談できそうだと伝えた。千夏からはすぐに「じゃあ、明日また都合を見て決めよう。急がなくて大丈夫!」と返ってくる。ひよりは笑顔でお礼を送り、次に真樹とのやり取りを開いた。


『北条君、こんばんは。さっきはメッセージありがとう。今日は橘君が『雨上がりの手紙』を図書室に返してたよ。紹介文を読んだあと、もう一度気になるところを読み返したんだって』


 送信してから、ひよりは少し考えた。真樹は海斗と直接会ったことがないが、同じ本を読んだ学校の友人として名前を知っている。誰かの読書の話を共有するのは、ひよりにとって自然なことだった。


 しばらくして届いた返信には、海斗が本を読み返したことへの素直な感想が書かれていた。


『そうなんだ。読んだあとで別のところが気になるの、分かる気がするよ。天野の紹介文が、もう一度読むきっかけになったなら嬉しいね』


『うん。私もすごく嬉しかった。まだ展示は始まってないけど、書いてよかったなって思ったよ』


 真樹はその言葉を読み、散歩から戻ったノアが足元へ寄ってくるのを感じながら微笑んだ。ひよりの文章が誰かの読み方を変えたという話は、自分が褒めたこととは別の喜びがある。彼女が好きなものを自分の言葉で伝えようとしたことが、少しずつ誰かへ届いているのだ。


『それは本当によかった。展示が始まったら、きっとまた違う感想を持つ人もいると思う。どんなふうに受け取られるか、楽しみだね』


 ひよりは返事を読みながら、机の上の本へ目を向けた。誰かが違う感想を持つことを、以前の自分なら少し怖いと感じたかもしれない。けれど、真樹や海斗と話すうちに、違うからこそ聞いてみたいと思えるようになっていた。


『うん。みんなが同じ感想じゃなくても、その人が何を感じたのか聞けたら嬉しいな』


 送信したあと、ひよりは少し迷ってから、もう一つだけ書き加えた。


『そういえば、ノアは今日も元気だった? この前の子犬の写真を思い出してたら、また会いたくなっちゃった』


 真樹は足元のノアへ視線を落とした。散歩を終えたばかりの黒犬は、満足そうに身体を横たえている。ひよりがその姿を見たら、きっと嬉しそうに名前を呼ぶだろう。


『元気だよ。今日は散歩の途中で何度も寄り道してた。天野が会いに来たら、たぶんまた大喜びすると思う』


『ふふ、楽しみ。公園のことも、家の予定が分かったらちゃんと連絡するね』


『ありがとう。急がなくて大丈夫だから、都合が合う日を探そう』


 ひよりはその言葉にほっとして、スマートフォンを机へ置いた。公園散歩はまだ約束の途中にあるけれど、だからこそ予定を考える時間も楽しみだった。相手の都合を大切にしながら、いつか同じ夕暮れを見られたらいいと思う。


     ◇


 その夜、玲奈は自室で明日の服を椅子の背に掛け、鏡の前へ立っていた。淡い色のニットに落ち着いたスカートを合わせると、普段の制服とは違う雰囲気になる。何度も見慣れた自分の姿なのに、明日真樹と会うのだと思うと、襟元のわずかなずれまで気になってしまった。


 机の上のスマートフォンが震え、真樹からのメッセージが届いた。内容は待ち合わせの確認で、明日は予定どおり午後二時に駅で会おうという簡潔なものだった。玲奈はその文字を読み、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


『うん、二時に駅でね。楽しみにしてる。明日はよろしくね』


 送信してから、玲奈はしばらく画面を見つめた。真樹からは「こちらこそ。気をつけて来て」と返ってくる。いつもどおりの穏やかな言葉なのに、明日会えるという約束があるだけで、少し特別に見えた。


(明日は、真樹とどんな話ができるかな。昔のことばかりじゃなくて、今の私が好きなものも話せたらいいな)


 玲奈はスマートフォンを伏せ、鏡の前に置いた服をもう一度確かめた。沙耶に言われたように、自分が楽しいと思える時間を過ごしたい。そう考えながら、明日のために鞄へハンカチと財布をしまった。


 一方、ひよりは自室で水色の読書ノートを開いていた。今日の出来事を全部書こうとすると長くなりそうだったため、しばらく考えてから、心に残ったことを一つだけ選ぶ。昨日提出した紹介文が、海斗に本を読み返すきっかけを与えたという話だった。


『読み終えた本にも、誰かの言葉を聞いたあとで、もう一度開きたくなるページがある。自分の書いた文章が、そのきっかけになったと知って嬉しかった。』


 ひよりはペンを置き、文字の並びを静かに眺めた。図書室での展示はまだ始まっていないけれど、今日すでに一人の読者から新しい感想をもらえたことになる。紹介文を書く前には、そんなことを想像していなかった。


 机の隅では、くるみがいつものように座っている。ひよりはその横へ本を一冊置き、明日は母へ『雨上がりの手紙』を渡そうと思いながら、ノートを閉じた。週末には千夏との買い物の相談があり、家族とのクッキー作りも少しずつ形になりそうだった。


 窓の外では、雲の切れ間から月の光が薄く差し込んでいる。ひよりは明日の天気を気にしながらカーテンを閉め、机の灯りを消した。誰かと交わした約束がすべて同じ日に叶うわけではないけれど、待っている時間にも、それぞれの楽しみがある。


 ひよりはまだ知らなかった。明日の午後、真樹と玲奈が二人でカフェへ出かけることを。そして玲奈が、その約束に友人同士の外出以上の願いを込めていることを。


 それぞれの金曜日が静かに終わり、土曜日が近づいていた。


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