第65話 私の言葉が、誰かの一冊になる日
木曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、窓の外では冬の冷たい風が庭木の枝を揺らしている。布団の中には昨夜の温もりが残っていたけれど、ひよりはいつものように二度寝をする気にはならなかった。
今日は、学校の図書室へおすすめ本の紹介文を提出する日だった。
(……ちゃんと持っていかないと)
身体を起こして机へ目を向けると、昨夜のうちに準備しておいた透明なファイルが、教科書の隣に置かれていた。
中に入っているのは、たった一枚の用紙。
けれど、その一枚を書き上げるために、ひよりは何度も悩み、文章を書き直し、いろいろな人から話を聞いた。
自分が大好きな『雨上がりの手紙』を、まだ読んだことのない誰かへ紹介する。
それは思っていた以上に難しく、同時に、想像していた以上に楽しいことだった。
ひよりはベッドから降りると、机へ近づいてファイルを開いた。
用紙の上には、丁寧に書いた文字が並んでいる。
『一通の手紙から始まる、人と人との小さな物語。すぐには伝わらなかった気持ちも、相手を思う時間の中で少しずつ形になっていきます。』
その下には、物語を読んだ自分が感じたことを書いた。
『同じ言葉でも、読む人や読むときの気持ちによって、違う意味を持つことがあります。この本を読んだあと、誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなりました。』
ひよりは最後まで読み終えると、小さく息を吐いた。
昨夜、北条真樹と千夏に見せた文章だ。
二人とも最後の一文が好きだと言ってくれた。自分では気づかなかったけれど、二人にはその言葉がひよりらしく感じられたらしい。
(……ひよりらしい、かあ)
そんなふうに言われると、少しくすぐったい。
自分がどんな人間なのか、ひより自身にはまだよく分からないところがある。けれど、誰かの話をきちんと聞きたいという気持ちだけは、これからも大切にしたかった。
ひよりは用紙をファイルへ戻し、鞄の中に入れた。
それから机の隅へ目を向ける。
そこには、茶色のぬいぐるみのくるみが座っていた。
幼いころの自分が大切にしていたぬいぐるみ。家族と昔の写真を見返したことをきっかけに思い出し、再び手元へ戻ってきた存在だった。
今では、少し傾いた耳も、使い込まれた柔らかな毛並みも、ひよりには懐かしく感じられる。
「くるみ、今日はちゃんと提出してくるね」
ひよりはそう話しかけ、ぬいぐるみの頭をそっと撫でた。
もちろん返事はない。
それでも、声に出してみると不思議と緊張が和らいだ。
制服に着替え、髪を整え、鞄の中身をもう一度確かめる。
階下からは母の由美が朝食を準備する音が聞こえ、焼いたパンの香りが廊下まで漂ってきていた。
ひよりは部屋の扉を開け、いつもより少し軽い足取りで階段を下りた。
◇
「おはよう、お母さん」
「おはよう、ひより。今日は早いわね。まだ少し時間があるから、ゆっくり食べられるわよ」
台所から顔を出した由美が微笑む。
食卓には温かなスープとトースト、卵料理が並べられていた。父の浩介はすでに席についており、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。
「おはよう、お父さん」
「おはよう。今日は何だか機嫌がよさそうだな」
「えっ、そう見える?」
「ああ。いつもより目が覚めてる感じがする」
浩介が笑うと、ひよりは少し頬を膨らませた。
「それじゃ、いつもは寝ぼけてるみたいじゃない」
「そんなことは言ってないぞ。ただ、今日は楽しみなことでもあるのかなと思っただけだ」
父の穏やかな口調に、ひよりもつられて笑ってしまった。
席につき、温かなスープを一口飲む。
冷えた身体へじんわり熱が広がり、ようやく朝が始まったような気がした。
「実はね、昨日話してた本の紹介文、完成したの。今日、図書室に提出しようと思って」
「あら、もう完成したのね」
由美が嬉しそうに言う。
「うん。昨日、何度も書き直したんだけど、やっと自分でもいいかなって思える文章になったんだ」
「そう。それならよかったわね。何を紹介することにしたの?」
「『雨上がりの手紙』だよ。前に読んで、すごく好きになった本なの」
ひよりは説明しながら、自然と表情を明るくした。
物語の内容をすべて話すことはしなかったけれど、手紙を通じて人と人が少しずつ互いを理解していく作品なのだと伝える。
由美は手を止め、娘の話へ耳を傾けていた。
「ひよりがそんなに好きなら、私もちょっと読んでみたくなるわね」
「本当? お母さんも好きだと思うな。登場人物の気持ちが丁寧に描かれてるんだよ」
「それなら、今度貸してもらおうかしら」
「うん、もちろん!」
ひよりが嬉しそうに答えると、浩介が新聞を畳んだ。
「ひよりは本当に本が好きだな。昔から読書はしてたけど、最近は前より楽しそうに話すようになった気がするよ」
「……そうかな?」
「ああ。前は読み終わったら自分の中で大切にしている感じだったけど、今は誰かに話したくなることが増えたんじゃないか?」
ひよりは少し考えた。
確かに、以前は本を読んでも、その感想を誰かへ話す機会はそれほど多くなかった。
千夏とはよく話していたけれど、最近は真樹と本を薦め合うようになり、海斗とも同じ物語について感想を交わした。
誰かの感じ方を聞くと、自分では気づかなかったところが見えてくる。
その楽しさを知ってから、本を読む時間が少し変わったように思う。
「……うん。最近、同じ本を読んだ人と話すのが楽しいんだ」
ひよりがそう答えると、浩介は満足そうに頷いた。
「いいことじゃないか。好きなものを誰かと分け合えるのは、楽しいことだからな」
そこへ兄の悠一が食卓へやってきた。
「おはよう。何か朝から盛り上がってるな」
「おはよう、お兄ちゃん。昨日の紹介文、今日提出するんだ」
「ああ、あれか。完成したんだな」
悠一は椅子に座りながら、ひよりへ視線を向けた。
「結局、全部説明しようとするのはやめたのか?」
「うん。お兄ちゃんが言ってくれたこと、参考にしたよ。読んだことがない人が、自分で楽しめる余地を残そうと思って」
「それならよかった。俺の適当な助言も、たまには役に立つんだな」
「適当だったの?」
ひよりが驚いたように尋ねると、悠一は笑った。
「いや、ちゃんと考えて言ったよ。ただ、ひよりほど真剣には考えてなかったってこと」
「もう、お兄ちゃんったら」
家族の笑い声が食卓に広がった。
ひよりも笑いながら、朝食を食べ進める。
特別なことをしているわけではない。
ただ、学校で提出する一枚の紹介文について話しているだけだ。
それでも、家族が自分の小さな挑戦を覚えていてくれることが嬉しかった。
食事を終えたあと、ひよりは食器を片づけ、玄関へ向かった。
「じゃあ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
由美の声に手を振って応え、ひよりは家を出た。
冷たい空気が頬へ触れ、思わずマフラーへ顔を埋める。
けれど、足取りは軽かった。
(……今日は、ちゃんと出してこよう)
鞄の中にある一枚の紙を思い浮かべながら、ひよりは学校へ向かって歩き始めた。
◇
県立青葉高校の昇降口には、登校してきた生徒たちの声が響いていた。
靴箱の前では友人同士が昨日の出来事を話しており、廊下の奥からは朝の準備をする教員の足音が聞こえてくる。
ひよりが上履きに履き替えていると、背後から聞き慣れた声がした。
「ひより、おはよう!」
振り返ると、藤崎千夏が笑顔で近づいてきた。
「千夏、おはよう。今日は同じくらいの時間だったね」
「うん。ちょっと早く家を出られたんだ。それより、どう? 今日は提出できそう?」
千夏はひよりの鞄へちらりと目を向けた。
その様子が何だかおかしくて、ひよりは笑ってしまった。
「うん。ちゃんと持ってきたよ」
「よかった! 昨日の夜、完成したって連絡もらったから、私もちょっと楽しみだったんだ」
「ありがとう。放課後、一緒に図書室へ行ってもらってもいい?」
「もちろん。最初からそのつもりだよ」
二人は並んで階段を上り始めた。
朝の校舎はまだ少し冷えていて、窓際を通るたびに外気の冷たさが伝わってくる。階段の踊り場では、掲示物を貼り替えている生徒たちがいて、紙を押さえる手元へ朝日が差し込んでいた。
「ねえ、ひより。昨日の紹介文、北条君にも見せたんでしょう?」
千夏が尋ねると、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん。写真を送って読んでもらったの。すごくいいって言ってくれたよ」
「へえ、どの辺がよかったって?」
「最後の一文が好きだって。千夏と同じところだったんだよ」
ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「二人とも同じところを好きって言ってくれたから、何だか自信が持てた気がする」
千夏はその表情を見つめ、穏やかに微笑んだ。
真樹がひよりをどう思っているのか、本人から聞いたわけではない。
けれど、ひよりの話を聞いていると、真樹が彼女の言葉を丁寧に受け取っていることは伝わってくる。
ただ「いいね」と返すだけではなく、どこがよかったのかを伝える。
それは、ひよりにとって嬉しいことだろう。
(……北条君、ちゃんとひよりのことを見てくれてるんだな)
千夏はそう思いながら、隣を歩く親友へ目を向けた。
少し前まで、ひよりは好きだった相手への告白がうまくいかなかったことで、ひどく落ち込んでいた。
今でも、その出来事が完全に消えたわけではないだろう。
それでも、最近は新しいことを楽しみにする表情が増えている。
その変化が、千夏には嬉しかった。
「じゃあ、今日は自信を持って提出しようね」
「うん。……でも、ちょっと緊張するかも」
「大丈夫だよ。私も一緒にいるから」
千夏が笑うと、ひよりはほっとしたように頷いた。
「ありがとう、千夏」
二人は教室へ入り、それぞれの席へ向かった。
ひよりは鞄を机の横へ掛け、透明なファイルが折れないように入っていることをもう一度確かめた。
まだ朝のホームルームも始まっていない。
放課後までは、長い時間がある。
それでも、今日という一日が少し楽しみだった。
◇
二時間目の授業が終わった休み時間、ひよりは机の上に広げたノートを片づけていた。
次の授業の準備をしながら、ふと鞄の中のファイルへ目を向ける。
紹介文は完成している。
もう書き直す必要はない。
そう思っているのに、何度も確認したくなってしまう。
「天野さん、今日提出するんだっけ?」
顔を上げると、橘海斗が机の横に立っていた。
「あ、橘君。うん。放課後に千夏と図書室へ行く予定だよ」
「そっか。昨日、完成したって言ってたもんね」
海斗は穏やかに笑った。
「俺も少し気になってたんだ。どんな文章になったのかなって」
ひよりは少し考え、鞄からファイルを取り出した。
「まだ提出してないんだけど、よかったら読んでみる?」
「えっ、いいの?」
「うん。橘君にも助言してもらったから、ちゃんと見てもらいたくて」
海斗は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。じゃあ、読ませてもらうね」
ひよりは用紙をファイルから取り出し、海斗へ手渡した。
海斗は窓から差し込む光の下で、丁寧に書かれた文字へ目を落とした。
文章は短い。
けれど、何度も考えて書かれたことが伝わってくる。
特に、物語の内容を簡潔に説明したあと、自分が感じたことへ自然につなげているところが印象的だった。
(……ちゃんと、昨日話したことを考えてくれたんだな)
海斗はそう思いながら、最後の一文まで読み進めた。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……うん。すごくいいと思う」
ひよりは少し緊張した表情で尋ねた。
「本当?」
「うん。どんな物語なのか分かるし、天野さんがどうしてこの本を好きなのかも伝わってくる」
海斗は用紙を見つめながら続けた。
「特に最後のところ、俺も好きだな。誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなったっていう部分」
ひよりは思わず目を瞬かせた。
「……そこ、千夏と北条君も好きって言ってくれたんだ」
「へえ、そうなんだ」
海斗は少し驚いたように笑った。
「でも、分かる気がするよ。『雨上がりの手紙』を読んだあと、俺も似たようなことを考えたから」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「橘君もそう感じたんだね」
「うん。あの物語って、言葉が足りなかったからすれ違ったっていうだけじゃなくて、受け取る側にもいろいろな事情があるんだなって思ったんだ」
海斗は少し考えながら言葉を続けた。
「だから、同じ言葉でも意味が違って見えることがあるっていう紹介文、すごく合ってると思う」
ひよりはその感想を聞き、胸の奥が温かくなった。
自分が書いた文章を、海斗は物語の内容と重ねながら読んでくれている。
そのことが嬉しかった。
「ありがとう、橘君。昨日も今日も、いろいろ聞いてもらっちゃったね」
「全然。俺も好きな本の話ができて楽しかったよ」
海斗は用紙を返しながら、少し照れくさそうに笑った。
「展示されたら、また見に行くね」
「うん。ぜひ見てほしいな」
ひよりが笑顔で答えると、海斗も自然と笑みを深めた。
次の授業の予鈴が鳴り、海斗は自分の席へ戻っていった。
ひよりは受け取った用紙をファイルへ戻しながら、少し考えた。
同じ本を読んでも、人によって感じ方は違う。
けれど、今日は三人が同じ一文を好きだと言ってくれた。
それは、自分の言葉が少しだけ誰かへ届いたような気がして、嬉しかった。
◇
昼休みになると、ひよりと千夏はいつものように弁当を広げた。
教室には昼食の匂いが漂い、あちらこちらから楽しそうな会話が聞こえてくる。窓の外では雲の切れ間から日差しが差し込み、校庭の一角を明るく照らしていた。
「ひより、何だか今日は落ち着かないね」
千夏が笑いながら言う。
「えっ、そうかな?」
「うん。さっきから何回も鞄のほう見てるし」
ひよりは思わず苦笑した。
「……やっぱり分かる?」
「分かるよ。そんなに緊張してるの?」
「うん。紹介文を出すだけなのに、知らない人が読むかもしれないって思うと、ちょっとドキドキするんだ」
ひよりは箸を置き、少し考えた。
「自分が好きな本だからこそ、ちゃんと伝わってほしいって思っちゃうのかもしれない」
千夏はその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「でも、それって悪い緊張じゃないと思うよ」
「悪い緊張じゃない?」
「うん。ひよりが一生懸命考えて書いたからこそ、誰かに読んでもらうのが緊張するんでしょう?」
千夏は少し首を傾げた。
「それに、紹介文を読んだ人が全員同じ感想を持つわけじゃないと思うけど、それでも一人でも興味を持ってくれたら嬉しいじゃない」
ひよりはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
確かに、全員が『雨上がりの手紙』を好きになるとは限らない。
自分が好きなところを、ほかの人も同じように感じるとは限らない。
けれど、誰かが興味を持ってくれたら、それだけでも嬉しい。
「……うん。そうだね」
ひよりは少し笑った。
「私、たぶん、読んだ人に絶対好きになってほしいって思ってたわけじゃないんだ。ただ、こんな本があるんだよって知ってもらいたかったのかもしれない」
「それなら、十分いい紹介文になってると思うよ」
千夏はそう言って笑った。
ひよりも頷き、再び弁当へ箸を伸ばした。
放課後までは、あと数時間。
その時間が少し長く感じられる。
けれど、もう不安だけではなかった。
自分の言葉を誰かへ届けてみたい。
そんな小さな期待が、胸の奥に生まれていた。
◇
同じころ、私立桜陵学園では、北条真樹が神崎蓮と昼食を終えたところだった。
教室の窓際には柔らかな日差しが差し込み、生徒たちはそれぞれ友人との会話や読書を楽しんでいる。
真樹はスマートフォンを机へ置き、昨夜ひよりから送られてきた紹介文の写真を思い返していた。
「真樹、何かいいことあった?」
蓮が尋ねると、真樹は少し驚いて顔を上げた。
「どうして?」
「いや、さっきから何となく機嫌よさそうだから」
真樹は少し考え、苦笑した。
「……昨日、天野が書いた紹介文を見せてもらったんだ」
「ああ、前に話してたやつか」
「そう。『雨上がりの手紙』を紹介する文章なんだけど、すごくよかったよ」
真樹はそう言いながら、少しだけ目を細めた。
ひよりが選んだ言葉。
短い文章の中に、彼女が物語を大切に読んできたことが表れていた。
特に最後の一文は、今も心に残っている。
「へえ。そんなによかったんだ」
蓮が笑うと、真樹は頷いた。
「ああ。天野らしい文章だった」
「……真樹、そういうところ本当に好きなんだな」
蓮が何気なく言うと、真樹は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、そうだな」
その素直な返事に、蓮は少し驚いたように笑った。
以前の真樹なら、もう少し言葉を濁していたかもしれない。
けれど、今はひよりへの気持ちを、少なくとも蓮の前では隠そうとしなくなっている。
蓮はその変化を、悪いものだとは思わなかった。
「それで、天野さんは今日提出するのか?」
「ああ。昨日、明日持っていこうかなって言ってた」
「そっか。うまくいくといいな」
蓮がそう言うと、真樹は穏やかに頷いた。
「そうだな」
真樹はスマートフォンへ視線を落とした。
ひよりが書いた紹介文は、彼女自身の小さな挑戦だ。
自分にできることは、応援することくらいかもしれない。
それでも、彼女が楽しみにしていることを、一緒に楽しみにできるのは嬉しかった。
◇
同じ昼休み、一ノ瀬玲奈は三浦沙耶と一緒に教室の窓際に立っていた。
玲奈は手に持った飲み物を少し口へ運びながら、週末の予定について考えていた。
真樹と二人でカフェへ行く約束。
午後二時に駅で待ち合わせることになっている。
その日が近づくにつれて、楽しみな気持ちと緊張が少しずつ大きくなっていた。
「玲奈、土曜日の服、決まった?」
沙耶が尋ねると、玲奈は少し照れくさそうに笑った。
「うん。昨日、家で何着か合わせてみたの」
「へえ、どんなの?」
「淡い色のニットに、落ち着いた色のスカートを合わせようかなって思ってる」
玲奈はそう答えながら、少しだけ頬を赤くした。
沙耶は嬉しそうに笑った。
「いいじゃん。玲奈に似合いそう」
「ありがとう。でも、あんまり気合いを入れすぎてるって思われないかな」
「大丈夫だと思うよ。せっかく出かけるんだから、おしゃれしたっていいじゃない」
沙耶はそう言って微笑んだ。
玲奈は少し考え、ゆっくり頷いた。
真樹に可愛いと思ってもらいたい。
その気持ちは確かにある。
けれど、それだけではなく、自分自身も楽しめる時間にしたい。
昨日、沙耶に言われたことを思い出す。
何かを確かめるためだけに出かけるのではなく、まずは一緒に過ごす時間を楽しめばいい。
(……うん。そうだよね)
玲奈は心の中で頷いた。
真樹と過ごす時間が、楽しいものになればいい。
今は、その気持ちを大切にしたかった。
◇
放課後、ひよりは千夏と一緒に図書室へ向かった。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外では運動部の掛け声が聞こえている。
ひよりは鞄の中のファイルを確かめながら、少しだけ深呼吸した。
「ひより、大丈夫?」
千夏が隣から尋ねる。
「うん。ちょっと緊張してるだけ」
「ふふ。じゃあ、行こうか」
二人は顔を見合わせて笑い、図書室の扉を開けた。
室内には紙と木の落ち着いた匂いが漂い、窓際の席では数人の生徒が静かに本を読んでいる。
受付の近くには、おすすめ本の紹介募集の案内が置かれていた。
ひよりは透明なファイルを取り出し、受付へ近づいた。
「すみません。おすすめ本の紹介文を持ってきたんですけど……」
受付にいた図書委員の女子生徒が顔を上げた。
「あ、ありがとうございます。参加してくださるんですね」
「はい。よろしくお願いします」
ひよりは少し緊張しながら、用紙を差し出した。
女子生徒は受け取ると、丁寧に内容を確認した。
ひよりはその様子を見守りながら、胸の奥が少し落ち着かなくなるのを感じた。
文字が読みにくくないだろうか。
文章が長すぎないだろうか。
何か書き忘れていないだろうか。
そんなことを考えていると、女子生徒が顔を上げた。
「ありがとうございます。とても丁寧に書いてくださってますね」
ひよりは驚いて目を瞬かせた。
「……本当ですか?」
「はい。紹介したい気持ちが伝わってきます」
女子生徒は穏やかに微笑んだ。
「展示の準備ができたら、図書室の一角に貼り出す予定です。少し時間が掛かるかもしれませんが、楽しみにしていてください」
ひよりはほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
頭を下げて受付から離れると、千夏が嬉しそうに笑った。
「ひより、お疲れさま!」
「……うん。出せたよ」
ひよりは小さく笑った。
たった一枚の紙を提出しただけ。
けれど、胸の奥には、何かをやり遂げたような温かさが広がっていた。
「よかったね」
千夏がそう言うと、ひよりは頷いた。
「うん。千夏が一緒に来てくれて、心強かったよ」
「どういたしまして。展示されるの、楽しみだね」
ひよりはもう一度受付のほうへ目を向けた。
自分が書いた文章は、今、あの場所にある。
やがて誰かが読んでくれるかもしれない。
そのことが、少し不思議で、嬉しかった。
◇
図書室を出たあと、ひよりと千夏は昇降口へ向かって歩いていた。
夕方の校舎には、部活動の生徒たちの声が遠くから響いている。
ひよりは鞄の持ち手を握りながら、少しだけ笑った。
「……何だか、ほっとした」
千夏が隣で頷いた。
「うん。ずっと頑張って考えてたもんね」
「最初は、こんなに緊張すると思わなかったよ」
「でも、楽しかったでしょう?」
ひよりは少し考えた。
文章がまとまらなくて悩んだ時間。
何度も書き直したこと。
友人たちに読んでもらったこと。
そして、今日ようやく提出できたこと。
どれも、今となっては大切な時間だった。
「……うん。楽しかった」
ひよりは笑顔で答えた。
千夏はその表情を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、よかったね」
二人は並んで校舎を出た。
外の空気は冷たく、頬に触れる風が冬の近さを感じさせる。
ひよりはマフラーを少し整え、千夏と一緒に帰り道を歩き始めた。
◇
夕食を終えたあと、ひよりは自室で宿題を済ませ、スマートフォンを手に取った。
今日、紹介文を提出できたことを真樹へ伝えたい。
そう思いながらメッセージ画面を開くと、ちょうど真樹から連絡が届いていた。
『天野、こんばんは。今日は紹介文、提出できた?』
ひよりは思わず笑顔になった。
自分が話す前に、真樹が覚えていてくれた。
そのことが嬉しかった。
『こんばんは、北条君!』
『うん。今日、千夏と一緒に図書室へ行って提出してきたよ』
すぐに返事が届いた。
『よかったね。お疲れさま』
『緊張した?』
ひよりは少し笑いながら返信した。
『すごく緊張したよ』
『でも、図書委員の人が丁寧に書けてるって言ってくれて、ほっとしたの』
真樹はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。
『それは嬉しいね』
『天野が頑張って考えた文章だから、きっと伝わったんだと思う』
ひよりはその返事を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『ありがとう』
『北条君にも見てもらえたから、安心して出せた気がするよ』
真樹はその言葉を読み、少しだけ指を止めた。
自分が何か特別なことをしたわけではない。
ただ、ひよりが書いた文章を読んで、感じたことを伝えただけだ。
それでも、彼女の背中を少し押せたのなら嬉しい。
『少しでも役に立てたならよかった』
『展示されたら、また教えてね』
ひよりは嬉しそうに頷いた。
『うん! 写真も送るね』
真樹はその返事を読み、自然と笑顔になった。
ひよりが楽しみにしていることを、自分も楽しみにできる。
その時間が、真樹には大切だった。
◇
やり取りがひと段落したあと、ひよりは水色のノートを開いた。
今日の出来事を、少しだけ書き残しておきたかった。
紹介文を提出したこと。
図書委員の人が丁寧に受け取ってくれたこと。
千夏が一緒に来てくれたこと。
真樹が覚えていてくれたこと。
ひよりはペンを持ち、今日のページへゆっくり文字を書き込んだ。
『自分の好きなものを誰かへ伝えるのは、少し勇気がいる。でも、伝えようとした時間も、受け取ってもらえた瞬間も、大切な思い出になる。』
書き終えたあと、ひよりはしばらくその文章を見つめた。
まだ展示は始まっていない。
誰が読むのかも分からない。
それでも、自分の言葉が誰かの目に触れるかもしれないと思うと、胸の奥が少し弾んだ。
ひよりはノートを閉じ、机の隅に座るくるみへ目を向けた。
「……ちゃんと出せたよ」
小さく声を掛けると、くるみの丸い瞳がこちらを見ているように感じられた。
ひよりは笑い、明日の準備を始めた。
窓の外には静かな夜が広がり、遠くから車の走る音がかすかに聞こえてくる。
今日、自分の言葉を一枚の紙に託した。
その言葉が、いつか誰かの一冊につながるかもしれない。
ひよりはそんな小さな期待を胸に抱きながら、部屋の灯りを消した。
そして、まだ知らない誰かが自分の紹介文を読んでくれる日を楽しみにしながら、ゆっくり目を閉じた。




