第64話 君が選んだ言葉を、私は読んでみたい
水曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、窓の向こうには薄い雲が広がっている。布団の温かさを惜しみながら身体を起こすと、昨夜机に広げたままにしていた水色のノートが目に入った。
表紙の端から、花の形をした付箋が一枚覗いている。
昨日、学校の図書室で見つけたおすすめ本の紹介募集。
そのために書き始めた文章は、まだ完成していなかった。
ひよりは寝癖のついた髪を指先で整えながら机へ近づき、ノートを開いた。
『言葉にできなかった気持ちも、誰かを思う時間の中で少しずつ形になっていく。』
昨夜書いた一文が、白い紙の上に残っている。
書いた直後は、これなら自分の感じたことを伝えられるかもしれないと思った。けれど、一晩経って読み返すと、今度は別のことが気になってくる。
(この文章だけだと、どんなお話なのか分からないかな。それに、少し難しく書きすぎたかもしれない)
ひよりは椅子に腰掛け、ペンを手に取った。
けれど、すぐには続きを書かなかった。
『雨上がりの手紙』を初めて読んだとき、自分は何に惹かれたのだろう。
登場人物たちが手紙を通じて少しずつ互いの気持ちを知っていくところ。言葉を受け取る側にも、その人なりの事情や時間があること。そして、同じ文章でも、読むときの気持ちによって違う意味を持つこと。
思い浮かぶものはいくつもあった。
それでも、一番伝えたいことを選ぼうとすると、なかなか決まらない。
「ひよりー、起きてる?」
階下から母の由美の声が聞こえた。
「あっ、起きてるよ! 今行くね!」
ひよりは返事をし、慌ててノートを閉じた。
考えることに夢中になって、着替えも途中だった。
制服を整え、鏡の前で髪を結び直してから、机の隅に座る茶色のぬいぐるみへ目を向ける。
「くるみ、今日はちゃんと続きを考えてくるね」
少し傾いた耳と丸い瞳は、いつもと変わらない。
ひよりは小さく笑い、鞄を持って部屋を出た。
階段を下りる途中、台所から焼いたパンの香りが漂ってきた。食器の触れ合う音に混じって、父の浩介がニュース番組を見ながら何かを呟いている声が聞こえる。
いつもの朝だった。
けれど、ひよりの頭の片隅には、まだ書きかけの紹介文が残っていた。
◇
「ひより、今日はいつもより早いのね」
食卓へ着くと、由美が温めたスープを運びながら声を掛けた。
「うん。ちょっと早く目が覚めちゃって」
「珍しいな。いつもなら、もう少し寝ていたいって顔をしてるのに」
新聞から顔を上げた浩介が笑う。
「お父さん、それはちょっとひどいよ。私だって早起きすることあるんだから」
ひよりが頬を膨らませると、浩介は楽しそうに笑った。
向かい側では、兄の悠一がトーストにバターを塗っている。妹のやり取りを聞いていたらしく、顔を上げると少し意地悪そうな表情を浮かべた。
「何か楽しみなことでもあるのか?」
「えっ?」
「最近、朝から機嫌いいこと多いだろ。前は学校に行く前、もうちょっと眠そうだった気がするけど」
ひよりは返事に迷い、スープの器へ視線を落とした。
確かに、最近は学校へ行くのが楽しい。
千夏と話すことも、教室での何気ない会話も、図書室で新しい本を探す時間も好きだった。
それに、学校が違っていても、真樹や玲奈と話せる時間がある。
けれど、それをすべて説明しようとすると、何だか照れくさい。
「今日は学校で、ちょっと考えたいことがあるの」
「考えたいこと?」
「図書室で、おすすめの本を紹介する企画があるんだって。参加しようかなって思ってるんだけど、文章がなかなか決まらなくて」
ひよりが説明すると、由美が嬉しそうに微笑んだ。
「あら、素敵じゃない。ひより、本を読むのが好きだものね」
「うん。でも、自分が好きだと思ったところを、知らない人にも伝わるように書くのって難しいなって」
すると、悠一がパンを皿へ戻し、少し考えた。
「紹介文って、長さは決まってるのか?」
「うん。用紙が決まってるから、そんなに長くは書けないと思う」
「だったら、全部書こうとしないほうがいいんじゃないか。どんな本か分かって、ちょっと気になるくらいで十分だろ」
ひよりは驚いて兄を見た。
「お兄ちゃんも千夏と同じこと言うんだね」
「千夏ちゃんもそう言ってたのか?」
「うん。北条君にも似たようなことを言われたよ」
何気なく答えてから、ひよりは自分が真樹の名前を出したことに気づいた。
悠一は一瞬だけ目を細めたものの、特にからかうことはしなかった。
「じゃあ、みんな同じことを思ったんだろ。ひよりは丁寧に考えすぎるところがあるからな」
「……そんなに考えすぎかな?」
「悪いことじゃないよ。ただ、読む人が自分で本を楽しむ余地も残しておけばいいってこと」
兄の言葉に、ひよりは少し考えた。
昨日から何度も聞いている「全部を説明しなくてもいい」という助言。
けれど、悠一の言葉には、もう一つ新しい意味があるように感じた。
(読む人が、自分で楽しめる余地……。そうか、私が感じたことと、次に読む人が感じることは同じじゃなくてもいいんだ)
ひよりはスープを一口飲み、ゆっくり頷いた。
「ありがとう、お兄ちゃん。何だか少し分かった気がする」
「それならよかった。まあ、俺が書いたら『面白かったです』で終わりそうだけどな」
悠一が肩をすくめると、由美が笑った。
「それじゃ紹介にならないでしょう」
「だから、ひよりのほうが向いてるってことだよ」
家族の笑い声が食卓に広がる。
ひよりも一緒に笑いながら、胸の奥にあった小さな緊張が和らいでいくのを感じた。
自分の好きなものを誰かに伝えようとするとき、こんなふうに家族からも言葉をもらえる。
そのことが嬉しかった。
◇
県立青葉高校へ到着すると、ひよりは昇降口で靴を履き替えながら、廊下の向こうに千夏の姿を見つけた。
「千夏、おはよう!」
声を掛けると、千夏は振り返って笑顔を見せた。
「ひより、おはよう。今日は早いね」
「うん。朝から紹介文のこと考えてたら、いつもより早く準備できちゃった」
「えっ、もうそんなにやる気になってるの?」
千夏は驚いたように目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「昨日はまだ迷ってるって言ってたのに」
「参加するかどうかは、まだ決めきれてないんだけど……。でも、書いてみたいなって気持ちは強くなったかも」
二人は並んで階段を上り始めた。
朝の校舎には、生徒たちの足音や挨拶が響いている。階段の踊り場に差し込む光は淡く、窓の外では風に揺れた木の枝がゆっくり動いていた。
「それで、何の本にするか決まった?」
「『雨上がりの手紙』にしようかなって思ってるの」
ひよりが答えると、千夏は納得したように頷いた。
「ああ、あの本。ひより、前から好きだもんね」
「うん。それに、北条君も橘君も読んでくれたでしょう? 二人の感想を聞いて、私も前より好きになった気がするんだ」
千夏はその言葉を聞き、ひよりの横顔を見た。
真樹と海斗。
二人の名前が並んでも、ひよりは何のためらいもなく、ただ本の話をしている。
千夏には、それが少しおかしくもあり、ひよりらしくも思えた。
(本人は本当に、本の話をしてるつもりなんだろうなあ)
けれど、千夏はそのことを口には出さなかった。
ひよりが今、誰かの気持ちを意識せずに穏やかに過ごせているなら、その時間を大切にしてほしい。
少なくとも、親友としてはそう思っていた。
「じゃあ、今日は放課後に図書室へ行く?」
「うん。紹介用紙のことも、もう少し聞いてみたいな」
「私も一緒に行くよ。昨日借りた本、まだ途中だけど、ほかの展示も見たいし」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、千夏」
二人は教室へ向かいながら、昨日読んだ本の話や、今日の授業の予定について話し始めた。
いつもと変わらない学校の朝。
けれど、ひよりにとっては、放課後を少し楽しみにできる朝だった。
◇
三時間目の授業が終わったあと、ひよりは机の上に広げたノートを見つめていた。
休み時間のうちに紹介文の候補を書き直そうと思ったものの、なかなか納得できる文章にならない。
昨日の一文に説明を加えると、今度は長くなりすぎてしまう。
短くしようとすると、好きな理由が薄くなってしまう。
ひよりは消しゴムを手に取り、書きかけの文章を見つめた。
「天野さん、何書いてるの?」
顔を上げると、橘海斗が机の横に立っていた。
「あ、橘君。昨日のおすすめ本の紹介文を考えてるんだ」
「もう書き始めたんだね」
海斗は少し驚いたように笑った。
「うん。でも、まだ全然まとまらなくて」
ひよりが苦笑すると、海斗は机の上のノートへ視線を向けた。
ただし、勝手に覗き込むことはせず、ひよりが見せてくれるのを待っている。
その様子に気づいたひよりは、少し考えてからノートを持ち上げた。
「まだ途中なんだけど、ちょっと読んでもらってもいい?」
「もちろん。俺でよければ」
海斗はそう答え、ひよりからノートを受け取った。
そこには、何度も書き直した跡が残っていた。
文章の一部には線が引かれ、余白には小さな文字で「内容を説明しすぎない」「読んだ人の楽しみを残す」と書かれている。
海斗はその丁寧な書き込みを見て、少しだけ表情を柔らかくした。
(天野さん、こんなに真剣に考えてるんだな)
以前、ひよりに『雨上がりの手紙』を薦めてもらったときのことを思い出す。
あのときも彼女は、物語の結末を明かさないように気をつけながら、自分が好きだったところを楽しそうに話してくれた。
その表情を見て、読んでみようと思ったのだった。
海斗はノートの文章を読み終え、顔を上げた。
「これ、すごくいいと思う」
「本当?」
「うん。特に、言葉にできなかった気持ちが少しずつ形になっていくってところ。俺も読んでて、そういう話だなって思ったから」
ひよりは嬉しそうに笑った。
「よかった。そこは残したいなって思ってたの」
「ただ、最初にどんなお話なのか、もう少しだけ書いてもいいかもしれないね」
海斗はノートを指さした。
「俺はもう読んでるから分かるけど、知らない人が見たら、恋愛の話なのか、家族の話なのか、ちょっと想像しにくいかもしれない」
ひよりはその言葉を聞き、はっとしたように頷いた。
「……そっか。読んだことがある人には伝わっても、初めて見る人には分からないことがあるんだね」
「うん。でも、全部説明する必要はないと思う。手紙をきっかけに人と人が少しずつ分かり合っていく物語、くらいでもいいんじゃないかな」
海斗は少し照れくさそうに笑った。
「ごめん。俺、文章を書くのはそんなに得意じゃないんだけど」
「ううん、すごく参考になったよ。ありがとう、橘君」
ひよりが真剣な表情で礼を言うと、海斗は少しだけ目を逸らした。
自分の言葉が役に立ったことが嬉しい。
それ以上に、ひよりが迷っていることを自分へ相談してくれたのが嬉しかった。
「完成したら、俺も読んでみたいな」
海斗がそう言うと、ひよりは笑顔で頷いた。
「うん。図書室に展示してもらえたら、ぜひ見てほしいな」
その返事に、海斗は自然と笑みを深めた。
「楽しみにしてる」
次の授業の予鈴が鳴り、海斗は自分の席へ戻っていった。
ひよりはノートを開き直し、先ほどの言葉を余白へ書き加えた。
読む人が、まだその本を知らないということ。
当たり前のことなのに、考えるのを忘れていた。
(橘君に聞いてよかったな。自分だけで考えてたら、気づかなかったかもしれない)
ひよりはペンを置き、黒板のほうへ身体を向けた。
紹介文はまだ完成していない。
けれど、少しずつ形が見えてきた気がした。
◇
その日の昼休み、私立桜陵学園では、一ノ瀬玲奈が三浦沙耶と並んで廊下を歩いていた。
昼食を終えた生徒たちが教室へ戻るなか、二人は窓際の掲示板の前で足を止めた。
「玲奈、土曜日の服、もう決めた?」
沙耶が何気なく尋ねると、玲奈は少し困ったように笑った。
「まだなの。何着か考えてるんだけど、なかなか決まらなくて」
「そんなに迷ってるんだ」
「だって……あんまり気合いを入れすぎても変かなって思うし、でも、せっかくだから少しおしゃれしたい気持ちもあるし」
玲奈は言いながら、頬をほんのり赤くした。
沙耶はその様子を見つめ、柔らかく笑った。
「別にいいんじゃない? 真樹と出かけるのが楽しみなんだから、好きな服を着ていけば」
「……そうかな」
「うん。玲奈が着てて落ち着く服が一番だと思うよ」
玲奈は少し考えた。
真樹とは幼いころからの付き合いだ。
昔は、何を着て会うかなんて深く考えたこともなかった。
けれど、最近は違う。
少しでも可愛く見られたいと思う。
それなのに、真樹が自分をどう見ているのかは、分からない。
(……私だけが、こんなに意識してるのかな)
胸の奥に小さな不安が浮かぶ。
玲奈はそれを表情に出さないようにしながら、窓の外へ視線を向けた。
薄い雲の向こうから差し込む日差しが、校庭の一角を明るく照らしている。
「沙耶はさ……」
玲奈が小さく口を開くと、沙耶は隣へ顔を向けた。
「うん?」
「昔から仲がいい相手と、二人で出かけるのって……やっぱり普通のことだと思う?」
沙耶はすぐには答えなかった。
玲奈が何を確かめたいのか、何となく分かる。
けれど、真樹の気持ちを知らない以上、軽々しく期待を持たせることはできない。
「普通かどうかは、人によるんじゃないかな」
沙耶はゆっくり答えた。
「仲がいいから二人で出かけることもあるだろうし、特別な気持ちがあるから誘うこともあると思う。でも、今の段階でどっちか決めなくてもいいんじゃない?」
玲奈は黙ってその言葉を聞いていた。
「玲奈は、真樹とカフェに行きたいと思ったんでしょう?」
「……うん」
「だったら、まずはその時間を楽しんできたらいいと思う。何かを確かめるためだけに出かけるんじゃ、もったいないよ」
玲奈は少し驚いたように沙耶を見た。
そして、ゆっくり笑った。
「……ありがとう、沙耶」
「どういたしまして。帰ってきたら、どんなケーキ食べたか教えてね」
沙耶が明るく言うと、玲奈は思わず笑った。
「そこが気になるの?」
「もちろん。季節の焼き菓子があるんでしょう? それは気になるよ」
二人の笑い声が、昼休みの廊下に小さく響いた。
玲奈は胸の奥に残っていた緊張が、少しだけ和らぐのを感じた。
真樹との約束は、まだ先の土曜日だ。
その日がどんな時間になるのかは分からない。
けれど、楽しみにしている気持ちまで隠す必要はないのかもしれなかった。
◇
同じ昼休み、真樹は神崎蓮と教室で話していた。
蓮が購買で買った飲み物を机へ置きながら、真樹のスマートフォンへちらりと目を向ける。
「何か連絡来たのか?」
「いや、昨日の天野とのやり取りを見返してただけだよ」
真樹はそう答え、画面を閉じた。
蓮は少しだけ口元を緩めた。
「へえ。何か面白い話でもしたのか?」
「学校の図書室で、おすすめ本を紹介する企画があるらしいんだ。天野が参加しようか迷ってて」
「ああ、そういうの好きそうだな、天野さん」
蓮は納得したように頷いた。
真樹は少し笑った。
「そうだな。文章をどう書けばいいか考えてるみたいで、俺にも相談してくれたんだ」
「それは嬉しかっただろ」
蓮が何気なく言うと、真樹は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、嬉しかったよ」
その素直な返事に、蓮は少し驚いたように笑った。
「最近、前より隠さなくなったな」
「お前にはもう知られてるからな」
真樹が苦笑すると、蓮は肩をすくめた。
真樹がひよりを好きだと知っている。
そのことを、蓮は軽く扱うつもりはなかった。
だからこそ、真樹がひよりとの何気ないやり取りを嬉しそうに話すと、少し安心する。
恋愛がどう進むかは分からない。
けれど、真樹が誰かを大切に思うことで、こんな表情をするようになったのは悪い変化ではない。
「それで、天野さんは何の本を紹介するんだ?」
「『雨上がりの手紙』を候補にしてるらしい」
「お前がこの前読んでた本か」
「ああ。天野に薦めてもらったんだ」
真樹は机の上に置いた文庫本へ視線を向けた。
すでに読み終えたその本には、登場人物たちがすれ違いながらも、少しずつ相手を理解していく姿が描かれていた。
最初にひよりから薦めてもらったときは、単純に面白そうだと思った。
けれど、実際に読んでみると、彼女がこの物語を好きだと言った理由を少し知れた気がした。
「天野がどんな紹介文を書くのか、俺も楽しみなんだ」
真樹が静かに言うと、蓮は穏やかに笑った。
「そういうの、いいな」
「何が?」
「同じ本を読んで、感想を話したり、相手が書いた文章を楽しみにしたりするのってさ。派手なことじゃないけど、ちゃんと一緒に時間を重ねてる感じがする」
真樹はその言葉を聞き、少し考えた。
ひよりとは学校が違う。
毎日顔を合わせられるわけでもない。
それでも、本を薦め合ったり、写真を送り合ったり、何気ない出来事を伝えたりする時間がある。
その一つ一つが、真樹にとって大切なものになっていた。
「……そうだな」
真樹はゆっくり頷いた。
蓮はそれ以上からかわず、飲み物を手に取った。
窓の外では、雲の切れ間から少しだけ青空が覗いていた。
◇
放課後、ひよりと千夏は予定どおり図書室へ向かった。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外では運動部の掛け声が聞こえ始めている。
図書室の扉を開けると、校舎の喧騒が少し遠のいた。
室内には紙と木の落ち着いた匂いが漂い、窓際の席では数人の生徒が静かに本を読んでいる。
受付の近くには、昨日見たおすすめ本の紹介募集の案内が置かれていた。
ひよりは千夏と顔を見合わせ、ゆっくり受付へ近づいた。
「すみません。おすすめ本の紹介について、少し聞いてもいいですか?」
受付にいた図書委員の女子生徒が顔を上げた。
「はい。参加希望ですか?」
「まだ迷っているんですけど、紹介文の長さとか、どういうふうに書けばいいのか知りたくて」
ひよりがそう答えると、女子生徒は用紙を一枚取り出した。
「この枠の中に収まれば大丈夫ですよ。あらすじを短く書いてもいいですし、好きなところやおすすめしたい理由を書いてもらっても構いません」
ひよりは用紙を受け取り、印刷された枠を見つめた。
思っていたよりも小さなスペースだった。
けれど、その中に自分の言葉を書けると思うと、少し楽しみになる。
「ありがとうございます。名前は書かなくてもいいんですよね?」
「はい。書いても書かなくても大丈夫です。ただ、本の題名と著者名は必ずお願いします」
ひよりは頷いた。
千夏も隣から用紙を覗き込み、少し考えるように首を傾げた。
「ひより、これなら昨日考えてた文章も入れられそうじゃない?」
「うん。もう少し短くしたら、ちょうどよさそう」
ひよりは用紙を大切に鞄へしまった。
そのあと、二人は書棚の間をゆっくり歩いた。
ひよりは『雨上がりの手紙』が置かれている棚の前で足を止めた。
以前、海斗が借りた本と同じ題名が、背表紙に並んでいる。
ひよりはその本を手に取り、表紙を眺めた。
何度も読んだ物語。
けれど、今は以前とは少し違う気持ちで見つめている。
誰かに薦めるために、改めてこの本と向き合っているからだろうか。
(……私が好きなところを、ちゃんと伝えたいな)
ひよりは本を胸の前で持ちながら、静かに考えた。
千夏は少し離れた棚で別の本を見ていたが、やがてひよりの隣へ戻ってきた。
「やっぱり、その本にする?」
「うん。たぶん、これにしようと思う」
ひよりが答えると、千夏は嬉しそうに笑った。
「いいと思う。ひよりが本当に好きな本だもんね」
「……ありがとう」
ひよりは本を棚へ戻し、もう一度背表紙を見つめた。
そのとき、近くの机に座っていた一年生らしい女子生徒が、同じ棚へ近づいてきた。
少女は何冊かの本を見比べたあと、少し迷うように手を止めている。
ひよりはその様子に気づいたものの、声を掛けることはしなかった。
相手が何を探しているのか分からないし、静かに本を選びたいのかもしれない。
ただ、少し離れたところから、その姿を見守っていた。
やがて少女は一冊の本を手に取り、表紙を開いた。
その表情が、ほんの少し明るくなる。
ひよりはその様子を見て、胸の奥が温かくなった。
自分が本を選ぶときも、きっとこんな顔をしているのだろう。
知らない物語と出会う瞬間。
その楽しさを、誰かへ伝えられたら嬉しい。
ひよりはそう思いながら、千夏と一緒に図書室をあとにした。
◇
帰り道、ひよりと千夏は駅へ向かう道を並んで歩いていた。
夕方の空は薄い雲に覆われていたが、遠くの建物の向こうには淡い橙色が広がっている。
歩道の脇では、自転車を押して歩く学生たちが談笑していた。商店の前からは焼き菓子の甘い香りが漂い、通りを行き交う人々の足音が重なっている。
「ひより、今日の図書室、行ってよかったね」
千夏が言うと、ひよりは頷いた。
「うん。用紙ももらえたし、何を書けばいいのか少し分かってきたよ」
「完成したら見せてね」
「もちろん。千夏にも読んでもらいたいな」
二人は顔を見合わせて笑った。
しばらく歩いたところで、千夏がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、ノアのお散歩のこと、北条君に聞いてみた?」
「あっ、うん。昨日の夜に聞いてみたよ」
ひよりは嬉しそうに笑った。
「千夏も一緒に来ていいって。北条君、ノアを紹介できたら嬉しいって言ってくれたの」
「本当? よかった!」
千夏はぱっと表情を明るくした。
「でも、まだ日にちは決まってないんだよね?」
「うん。北条君の予定もあるし、千夏の都合も聞いてから決めようと思って」
ひよりは少し考えた。
「千夏、最近お部屋の片づけもしてるでしょう? 無理のない日がいいよね」
「そうだね。でも、そんなに急いでるわけじゃないから大丈夫だよ」
千夏は笑いながら答えた。
「それに、ノアに会えるなら楽しみが増えるし」
ひよりはその言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。
自分が大切に思っているノアを、親友にも紹介できる。
そのことが、ひよりにはとても楽しみだった。
「ノア、きっと千夏のことも好きになると思うな」
「そうかな?」
「うん。すごく優しい子だし、人と一緒にいるのが好きみたいだから」
ひよりは以前ノアと過ごした時間を思い出した。
大きな身体でそっと寄り添ってくれたこと。
嬉しそうに尻尾を振ってくれたこと。
そして、真樹の隣で安心したようにくつろいでいた姿。
その一つ一つが、今も心に残っている。
「……早く会ってみたいな」
千夏が呟くと、ひよりは笑った。
「私も楽しみ!」
二人はそのあとも、ノアの写真の話や、週末にやりたいことについて話しながら歩いた。
駅前で別れるころには、空の橙色が少し濃くなっていた。
「じゃあ、ひより。また明日ね」
「うん。千夏も気をつけて帰ってね」
手を振って別れたあと、ひよりは家へ向かう道を歩き始めた。
鞄の中には、図書室でもらった紹介用紙が入っている。
その紙が、いつもより少し大切なものに感じられた。
◇
家へ帰ったひよりは、夕食までの時間を使って紹介文を書き直すことにした。
机の上へ水色のノートと用紙を並べ、まずは昨日書いた文章を読み返す。
そのあと、海斗に言われたことを思い出しながら、物語の雰囲気が伝わる短い説明を加えた。
『一通の手紙から始まる、人と人との小さな物語。すぐには伝わらなかった気持ちも、相手を思う時間の中で少しずつ形になっていきます。』
ひよりはそこまで書き、少し考えた。
まだ何か足りない気がする。
自分がこの本を好きな理由。
それをもう少しだけ加えたい。
ひよりはペン先を紙の上で止め、窓の外へ目を向けた。
夕方の空は、少しずつ夜の色へ変わり始めている。
遠くから聞こえる車の音と、家の中で由美が夕食の準備をする音が重なっていた。
(……この本を読んで、私は何を一番感じたんだろう)
ひよりはゆっくり考えた。
手紙に書かれた言葉が、すぐに相手へ届くとは限らない。
相手がどんな気持ちで受け取るのかも、書いた人には分からない。
それでも、伝えようとすることには意味がある。
そして、受け取った人がその言葉をどう感じるかも、大切なのだと思う。
ひよりは少しずつ、自分の気持ちを言葉にしていった。
『同じ言葉でも、読む人や読むときの気持ちによって、違う意味を持つことがあります。この本を読んだあと、誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなりました。』
書き終えたあと、ひよりはしばらくその文章を見つめた。
今度は、すぐに消したいとは思わなかった。
むしろ、少しだけ嬉しくなった。
自分が感じたことが、ようやく文章になった気がしたからだ。
「……これなら、いいかな」
ひよりは小さく呟き、紹介用紙へ丁寧に書き写し始めた。
文字が枠からはみ出さないように気をつけながら、一文字ずつゆっくり書いていく。
書き終えるころには、窓の外がすっかり暗くなっていた。
ひよりは用紙を持ち上げ、少し離して眺めた。
まだ提出したわけではない。
けれど、自分の言葉で一冊の本を紹介する文章が、ひとまず形になった。
そのことが嬉しかった。
◇
夕食後、ひよりはスマートフォンを手に取り、真樹へメッセージを送った。
『北条君、こんばんは!』
『おすすめ本の紹介文、ひとまず書けたよ』
少しして、返事が届いた。
『こんばんは、天野』
『もう書けたんだね。お疲れさま』
ひよりはその言葉を読み、自然と笑顔になった。
『ありがとう。まだ提出してないんだけど、ちょっと見てもらってもいい?』
『もちろん。俺でよければ』
ひよりは用紙を机の上へ置き、文字が読めるように写真を撮った。
少し緊張しながら送信すると、画面に既読の表示がついた。
真樹は自室の机で、届いた写真を開いた。
そこには、ひよりらしい丁寧な文字が並んでいる。
文章は長くない。
けれど、一冊の本を大切に思っている気持ちが、静かに伝わってくる。
真樹はゆっくり読み進めた。
特に最後の一文が、心に残った。
『この本を読んだあと、誰かの言葉をもう少し大切に受け取りたくなりました。』
真樹はその文章を見つめ、少しだけ目を細めた。
ひよりらしい言葉だと思った。
彼女は普段から、相手の話を丁寧に聞こうとする。
自分の知らないことがあれば、すぐに決めつけず、相手へ尋ねる。
そんなひよりだからこそ、この文章を書けたのかもしれない。
(……天野は、やっぱり優しいな)
真樹は心の中でそう思いながら、返信を打ち始めた。
『すごくいいと思う』
『特に最後の一文が好きだな。天野がこの本を読んで何を感じたのか、ちゃんと伝わってくる』
ひよりはその返事を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『本当? よかった……!』
『何度も書き直したから、ちょっと不安だったんだ』
『でも、北条君にそう言ってもらえて安心したよ』
真樹はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。
『天野が大切に考えて書いた文章なんだろうなって思ったよ』
『きっと、読んでみたいと思う人がいると思う』
ひよりはスマートフォンを両手で持ち、しばらく画面を見つめた。
自分が好きな本を、誰かへ伝えたい。
その気持ちから始めた小さな挑戦だった。
けれど、こうして真樹が読んでくれて、言葉を返してくれる。
そのことが、想像していた以上に嬉しい。
『ありがとう、北条君』
『明日、図書室に持っていってみようかな』
『うん。いいと思うよ』
真樹はそう返信したあと、少し考えた。
そして、もう一つメッセージを送った。
『天野が書いた紹介文、俺も学校で見られたらよかったんだけどね』
ひよりはその文章を読み、少し驚いた。
真樹は別の学校に通っている。
だから、青葉高校の図書室に展示されたとしても、簡単に見に来られるわけではない。
当たり前のことなのに、今まであまり意識していなかった。
(……そっか。北条君には、学校で見てもらえないんだ)
ひよりは少し考え、返信した。
『じゃあ、展示してもらえたら写真を送るね』
『北条君にも見てもらいたいから』
真樹はその文章を読み、思わず頬を緩めた。
ひよりが、自分にも見せたいと思ってくれる。
その小さな言葉が、胸の奥へ静かに残った。
『ありがとう。楽しみにしてるよ』
真樹はそう返信し、スマートフォンを机へ置いた。
足元では、ノアが大きな身体を丸めて眠っている。
真樹はその頭をそっと撫でながら、窓の外へ目を向けた。
夜の空には雲が広がり、星はほとんど見えなかった。
けれど、真樹の気持ちは穏やかだった。
ひよりと過ごす時間は、まだ少しずつしか増えていない。
それでも、彼女が何かに挑戦しようとするとき、その話を聞けることが嬉しい。
完成した文章を見せてもらえることも、同じくらい嬉しかった。
「……ノア、天野はすごいな」
真樹が静かに言うと、ノアは眠たそうに目を開けた。
そして、真樹の手へ鼻先を寄せる。
真樹は小さく笑い、もう一度その頭を撫でた。
「お前も、また会えるの楽しみにしてるだろ」
ノアは返事の代わりに、尻尾をゆっくり動かした。
その仕草に、真樹は柔らかく笑った。
◇
ひよりは真樹とのやり取りを終えたあと、千夏にも紹介文の写真を送った。
しばらくすると、すぐに返事が届いた。
『ひより、すごくいいじゃん!』
『最後のところ、私も好きだな』
ひよりは思わず笑顔になった。
『ありがとう! 北条君にも見てもらったんだけど、同じところが好きって言ってくれたの』
送信してから、ひよりは少しだけ首を傾げた。
千夏と真樹が、同じ一文を気に入ってくれた。
そのことが何だか嬉しい。
すぐに千夏から返事が届いた。
『へえ、北条君も!』
『やっぱり、ひよりらしい文章なんだと思うよ』
ひよりはその言葉を読み、少し照れくさくなった。
『そうかな?』
『うん。ひよりって、人の話をちゃんと聞こうとするでしょう? だから、こういう文章が書けるんだと思う』
ひよりはしばらく画面を見つめた。
自分では、そんなふうに考えたことはなかった。
ただ、相手が何を思っているのか知りたい。
自分の知らないことを聞いてみたい。
そう思って話しているだけだった。
(……千夏は、私のことをそんなふうに見てくれてるんだ)
胸の奥が、じんわり温かくなる。
ひよりはゆっくり返信した。
『ありがとう、千夏』
『明日、勇気を出して提出してみるね』
千夏からは、すぐに応援する言葉が届いた。
ひよりはそのメッセージを読み、笑顔でスマートフォンを置いた。
机の上には、完成した紹介用紙がある。
明日、図書室へ持っていく。
そう決めた途端、少しだけ緊張してきた。
けれど、その緊張は嫌なものではなかった。
自分が好きな本を、誰かへ伝えるための緊張。
その気持ちを、ひよりは大切にしたいと思った。
◇
夜が更けるころ、ひよりは紹介用紙を折れないように透明なファイルへ入れた。
明日の教科書と一緒に鞄へしまい、机の上を片づける。
水色のノートを閉じようとしたところで、ひよりはふと思い立ち、最後のページを開いた。
今日の出来事を、少しだけ書き残しておきたくなったのだ。
『好きなものを誰かに伝えるとき、自分が感じたことを大切にしたい。』
ひよりはそこまで書き、少し考えてから続きを加えた。
『同じ本を読んでも、感じることは人それぞれ違う。それでも、相手の言葉を聞くことで、自分では気づかなかったことを知れる。』
書き終えたあと、ひよりはペンを置いた。
今日は、たくさんの人に助けてもらった。
朝は家族に。
学校では千夏と海斗に。
夜には真樹に。
みんなが少しずつ違う言葉をくれたから、自分の文章を形にすることができた。
ひよりはノートを閉じ、机の隅に座るくるみへ目を向けた。
「……明日、ちゃんと出してくるね」
小さく声を掛けると、くるみの丸い瞳がこちらを見ているように感じられた。
ひよりは笑い、部屋の灯りを消した。
布団へ入ると、窓の外から風の音が聞こえてきた。
明日、紹介文を提出したら、どんな気持ちになるのだろう。
誰かが読んでくれるだろうか。
その誰かが、『雨上がりの手紙』を手に取ってくれたら嬉しい。
ひよりはそんなことを考えながら、ゆっくり目を閉じた。
まだ知らない誰かへ、自分の言葉が届くかもしれない。
その小さな可能性が、明日を少しだけ楽しみにしてくれていた。




