第63話 小さな写真から広がる、まだ知らない君の話
火曜日の朝、天野ひよりは制服の袖に腕を通しながら、机の上に置いたスマートフォンへ目を向けた。
昨夜、北条真樹から送られてきたメッセージは、まだ画面の中に残っている。子犬のころのノアの写真を親友の千夏に見せてもいいかと尋ねたところ、真樹は快く了承してくれた。
ひよりはその返事を思い出し、自然と口元を緩めた。
(今日、千夏に見せたらきっと喜ぶだろうな。あの写真、本当に可愛かったもん)
スマートフォンを手に取って写真を開くと、そこには今よりずっと小さな黒犬が写っていた。
柔らかそうな黒い毛に覆われた身体はまだ丸みを帯びていて、大きな前足を少し不器用に投げ出している。今のノアにも面影のある澄んだ瞳が、写真を撮っている相手をまっすぐ見つめていた。
ひよりは画面を見つめながら、以前ノアと一緒に過ごした時間を思い返した。
初めて出会ったころは、その大きな身体に少し驚いたこともあった。けれど、ノアはいつも穏やかで、ひよりの様子を確かめるように近づいてきてくれた。
落ち込んでいた日に、そっと寄り添ってくれたこともある。
(小さいころから、こんなに優しい目をしてたんだね)
写真の中のノアへ心の中で語りかけてから、ひよりはスマートフォンを鞄へしまった。
机の隅には、昨日から変わらず茶色のぬいぐるみが座っている。
「くるみ、行ってくるね」
ひよりが声を掛けると、少し傾いた耳が朝の光を受けて柔らかく見えた。
幼いころの自分がつけた名前を、今こうして呼べることが嬉しい。
昨日、千夏にもその話をした。
そして今朝は、ノアの写真を見せる約束がある。
ひよりは鞄を肩に掛け、部屋の扉を開けた。
階下からは朝食の準備をする音が聞こえてくる。焼いたパンの香りが廊下まで漂い、いつもと変わらない家の朝が始まっていた。
◇
「ひより、おはよう!」
県立青葉高校の教室へ入ると、藤崎千夏がいつもの席から手を振った。
ひよりも笑顔で応え、鞄を机の横へ掛ける。
「おはよう、千夏。昨日言ってた写真、北条君に聞いてみたよ」
ひよりがそう切り出すと、千夏はぱっと表情を明るくした。
「えっ、本当? 見せてもらってもいいって?」
「うん。喜んでもらえたら嬉しいって言ってくれたの」
「やった! 昨日からちょっと楽しみにしてたんだよね」
千夏は椅子を少し寄せ、ひよりがスマートフォンを取り出すのを待った。
朝の教室には、登校してきた生徒たちの挨拶や椅子を引く音が響いている。窓際では数人が昨日のテレビ番組について話しており、黒板の前では日直の生徒が連絡事項を書き込んでいた。
ひよりは周囲の邪魔にならないよう、画面を千夏のほうへ向けた。
「これが、小さいころのノアだよ」
千夏は画面を覗き込んだ瞬間、両手を口元へ持っていった。
「……えっ、ちょっと待って。可愛すぎない?」
思わず声が大きくなり、千夏は慌てて周囲を見回した。
近くの席にいた女子生徒が何事かと顔を上げたものの、千夏が照れくさそうに笑うと、すぐに友人との会話へ戻っていった。
「ごめん、びっくりしちゃった。でも本当に可愛い! この前足、今のノアからは想像できないくらい小さいね」
「そうでしょう? 私も初めて見たとき、すごく驚いたの」
ひよりは嬉しそうに笑いながら、写真の中のノアを指さした。
「でも、目元は今と似てる気がしない?」
「分かる。優しそうな目をしてるね。それに、ちょっと眠そうにも見える」
「ふふ、確かに」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
千夏はもう一度写真へ視線を戻した。
今のノアは立派な黒犬だと、ひよりから何度も聞いている。実際に会ったことはないけれど、写真を見るたびに、その大きさと穏やかな表情が印象に残っていた。
そんなノアにも、当然ながら小さなころがあった。
当たり前のことなのに、こうして写真を見ると何だか不思議な気持ちになる。
「北条君、こんなころからノアと一緒にいたんだね」
「うん。昨日もノアとお散歩してたみたいだよ。小さいころからずっと一緒なんだって」
ひよりはそう答えながら、真樹がノアのことを話すときの表情を思い出した。
普段は落ち着いている真樹も、ノアの話になると少し柔らかく笑う。
その様子が、ひよりには印象的だった。
「北条君にとって、ノアは家族みたいな存在なんだろうな」
ひよりが何気なく言うと、千夏は静かに頷いた。
「そうだろうね。ずっと一緒にいたなら、いろんな思い出があるだろうし」
千夏は画面を見つめたまま、少し考えた。
「ひよりのくるみちゃんもそうだけど、昔から一緒にいるものって、見た目だけじゃ分からない大切さがあるんだろうね」
その言葉に、ひよりは目を瞬かせた。
昨日、くるみのことを話したときにも似たようなことを考えた。
けれど、千夏の言葉を聞くと、また少し違う角度からその意味が見えてくる。
「……うん。そうかもしれないね」
ひよりはゆっくり頷いた。
自分にとってのくるみと、真樹にとってのノア。
もちろん同じものではない。
それでも、大切な存在と過ごしてきた時間が、今の自分たちにつながっているという点では、少し似ているのかもしれなかった。
千夏はそんなひよりの横顔を見つめ、ふっと微笑んだ。
「ねえ、ひより。今度ノアに会うとき、私も一緒に行ってみたいな」
「えっ、千夏も?」
「うん。もちろん、北条君たちの都合がよければだけど。写真を見てたら、実際に会ってみたくなっちゃった」
ひよりは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「いいね! 私も千夏にノアを紹介したいな」
けれど、すぐに思い直したように首を傾げる。
「でも、今度のお散歩はまだ日にちも決まってないから、北条君に聞いてみないとね」
「うん、それでいいよ。無理に予定を合わせなくても大丈夫だし」
千夏はそう答え、ひよりのスマートフォンから視線を離した。
ひよりが誰かと出かける予定を立てるとき、以前よりずっと自然に楽しそうな顔をするようになった。
その変化を、千夏は嬉しく感じていた。
ただ、今度の散歩に自分が加わることで、真樹がどう思うかは少し気になる。
(北条君、ひよりと二人で過ごしたい気持ちもあるだろうし……。でも、ノアには本当に会ってみたいんだよね)
千夏は心の中で苦笑した。
自分の好奇心と、親友を見守りたい気持ち。
その両方があることを、千夏自身も自覚していた。
やがて予鈴が鳴り、二人はそれぞれの席へ戻った。
ひよりはスマートフォンをしまいながら、今日の放課後に真樹へ聞いてみようと考えた。
◇
二時間目の授業が終わったあと、ひよりは廊下の掲示板の前で足を止めた。
そこには、図書委員会からのお知らせが貼られていた。
季節に合わせたおすすめ本の紹介を募集するという内容で、図書室の一角に小さな展示スペースを設けるらしい。
ひよりは思わず足を止め、案内を読み始めた。
「……おすすめの本、かあ」
展示は希望者が自由に参加できる形式で、好きな本を一冊選び、短い紹介文を書くというものだった。
名前を出すかどうかも選べるらしい。
ひよりは掲示板を見つめながら、最近読んだ本のことを思い浮かべた。
真樹と書店で選んだ短編集。
学校の図書室で借りた商店街の物語。
そして、海斗にも薦めた『雨上がりの手紙』。
どれも自分にとって大切な本だった。
(もし紹介するとしたら、どれがいいかな……)
考え込んでいると、後ろから声がした。
「天野さん、何見てるの?」
振り返ると、橘海斗が立っていた。
「あ、橘君。図書室のお知らせだよ」
ひよりが掲示板を指さすと、海斗も隣へ並んだ。
「おすすめ本の紹介か。へえ、面白そうだね」
「うん。好きな本を紹介できるんだって」
海斗は案内を読みながら、少し考えた。
「天野さん、参加するの?」
「まだ決めてないけど、ちょっと気になってるんだ」
「そっか。天野さんなら、いろんな本を紹介できそうだよね」
海斗がそう言うと、ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「そんなことないよ。好きな本はたくさんあるけど、紹介文を書くのは難しそうだなって思って」
「でも、天野さんが話してくれる本って、読んでみたくなるんだよな」
海斗は何気なくそう言った。
ひよりは少し驚いて顔を上げた。
「……本当?」
「うん。『雨上がりの手紙』もそうだったし。あのとき天野さんが話してくれなかったら、たぶん自分では手に取らなかったと思う」
海斗は少し照れくさそうに笑った。
「だから、天野さんの紹介文なら読んでみたいなって」
ひよりはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が好きな本を、誰かが読んでくれる。
そのうえ、面白いと思ってくれる。
それは、ひよりにとってとても嬉しいことだった。
「ありがとう、橘君。そう言ってもらえると、ちょっと勇気が出るよ」
ひよりが笑うと、海斗も嬉しそうに頷いた。
そのとき、廊下の向こうから千夏が歩いてきた。
「あれ、二人とも何してるの?」
「千夏、これ見て。図書室でおすすめ本の紹介を募集するんだって」
ひよりが案内を指さすと、千夏は興味深そうに覗き込んだ。
「へえ、いいじゃん! ひより、参加したら?」
「今、橘君にもそう言ってもらったところなの」
「それなら決まりじゃない?」
千夏が楽しそうに言うと、ひよりは慌てて首を振った。
「まだ決めてないよ。紹介する本も考えたいし」
その反応に、千夏と海斗は顔を見合わせて笑った。
ひよりは少し頬を赤くしながらも、もう一度掲示板へ目を向けた。
誰かに本を紹介する。
それは普段の会話でもしていることだ。
けれど、知らない誰かが読むかもしれない文章を書くとなると、少し緊張する。
(でも……やってみたいな)
ひよりは心の中でそう思った。
まだ決めたわけではない。
けれど、その小さな興味は、授業が始まってからも胸の中に残っていた。
◇
昼休み、ひよりは千夏と一緒に弁当を広げていた。
教室の窓からは柔らかな日差しが差し込み、暖房の効いた室内には昼食の匂いが漂っている。
千夏は卵焼きを口へ運びながら、午前中に見た掲示板の話を持ち出した。
「ねえ、ひより。おすすめ本の紹介、やっぱりやってみたらいいと思うよ」
「うーん……。興味はあるんだけど、何を書けばいいのか迷っちゃって」
ひよりは箸を置き、少し考えた。
「好きなところを全部書こうとしたら、長くなっちゃいそうだし」
「それなら、一番伝えたいところだけにしたら?」
千夏が何気なく言うと、ひよりは顔を上げた。
「一番伝えたいところ?」
「うん。ひよりがその本を読んで、どんな気持ちになったのかとか。全部説明しなくても、気になった人が読んでくれればいいんじゃない?」
ひよりはその言葉を聞き、少し考えた。
確かに、本の内容をすべて紹介する必要はない。
むしろ、読んでいない人が自分で物語を楽しめるように、余白を残したほうがいいのかもしれない。
「……そうだね。全部説明しようとしなくてもいいんだ」
「そうそう。ひよりが友達に本を薦めるときだって、最初から最後まで説明するわけじゃないでしょ?」
「うん。好きだったところを話したり、どんな雰囲気のお話なのか伝えたりするかな」
「それと同じでいいと思うよ」
千夏はそう言って微笑んだ。
ひよりはゆっくり頷いた。
自分が好きなものを、誰かへ伝える。
それは難しいことのように感じていたけれど、普段の会話の延長にあるのかもしれない。
「ありがとう、千夏。少し考えてみるね」
「うん。もし書いたら、私にも見せてよ」
「もちろん!」
ひよりは嬉しそうに答えた。
そのあと、二人は週末の話や授業のことを話しながら昼食を続けた。
けれど、ひよりの頭の片隅には、図書室の展示のことが残っていた。
誰かが自分の紹介文を読んで、本を手に取ってくれるかもしれない。
そう考えると、少し緊張する。
それと同じくらい、楽しみでもあった。
◇
一方、私立桜陵学園では、北条真樹が昼休みの教室で神崎蓮と話していた。
窓の外には薄い雲が流れ、校庭では昼休みを利用して身体を動かしている生徒たちの姿が見える。
真樹は昼食を終え、スマートフォンに届いていた家族からの連絡を確認していた。
「真樹、今週末って何か予定あるのか?」
蓮が尋ねると、真樹は顔を上げた。
「今週末?」
「うん。別に大した用事じゃないんだけど、久しぶりにどこか行かないかと思ってさ」
真樹は少し考えた。
今週末には、玲奈と約束しているカフェの予定がある。
以前から決まっていた約束なので、忘れるわけにはいかない。
「土曜日は一ノ瀬と出かける予定があるんだ」
真樹がそう答えると、蓮は少しだけ眉を上げた。
「へえ、玲奈と?」
「ああ。前からカフェに行こうって話してて」
真樹は落ち着いた口調で答えた。
蓮はその表情を見つめ、少し考えた。
玲奈が真樹へ特別な感情を抱いているのではないかと、蓮は以前から感じている。
けれど、本人から確かめたわけではない。
真樹もそのことには気づいていないようだった。
(……玲奈にとっては、結構大事な約束なのかもしれないな)
蓮はそう思ったものの、口には出さなかった。
今ここで余計なことを言えば、真樹が必要以上に意識してしまうかもしれない。
それに、玲奈自身の気持ちを勝手に話すようなこともしたくなかった。
「そっか。じゃあ、また別の日にしようぜ」
「悪いな。日曜日なら今のところ空いてるけど」
「いや、急ぎじゃないから大丈夫。来週でもいいし」
蓮は軽く手を振った。
真樹も頷き、スマートフォンを机へ置いた。
そのとき、蓮がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、天野さんとはまたノアの散歩に行くんだっけ?」
「ああ。まだ日にちは決まってないけど、予定を確認してるところだよ」
「へえ。楽しみだな」
蓮が笑うと、真樹は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……まあ、そうだな」
その反応を見て、蓮は小さく笑った。
真樹がひよりのことを大切に思っているのは、もう十分に分かっている。
けれど、今の真樹は以前よりも落ち着いて見えた。
ひよりとの関係を急いで進めようとはせず、今ある時間を大切にしている。
その姿勢は、蓮には悪くないものに思えた。
「まあ、ノアが一番喜ぶかもしれないけどな」
蓮がそう言うと、真樹は苦笑した。
「それは否定できないな」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
◇
同じころ、一ノ瀬玲奈は三浦沙耶と一緒に教室の窓際に立っていた。
玲奈は手に持った飲み物を少し口へ運びながら、週末の予定について考えていた。
真樹と二人で出かける約束。
午後二時に駅で待ち合わせ、静かなカフェで過ごす。
その予定を思い浮かべるだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
「玲奈、何だか楽しそうだね」
沙耶が笑いながら言うと、玲奈は少し驚いて顔を上げた。
「えっ、そう見える?」
「見えるよ。さっきからちょっと笑ってるもん」
玲奈は慌てて表情を整えようとしたが、沙耶は楽しそうに笑った。
「別に隠さなくてもいいじゃん。楽しみなんでしょう?」
「……うん。楽しみだよ」
玲奈は素直に頷いた。
沙耶はその様子を見つめ、少しだけ表情を柔らかくした。
「だったら、当日はあんまり考えすぎないほうがいいかもね」
「考えすぎ?」
「うん。何を話そうとか、どうしたら楽しい時間になるかなとか、いろいろ考えちゃうかもしれないけど」
沙耶は窓の外へ目を向けた。
「玲奈と真樹って、昔から仲いいんでしょう? だったら、普段どおりでも十分楽しいと思うよ」
玲奈はその言葉を聞き、しばらく黙った。
確かに、真樹とは幼いころから一緒に過ごしてきた。
何気ない話もできるし、沈黙が続いても気まずくなることは少ない。
それなのに、二人でカフェへ行くというだけで、いつもよりずっと緊張している。
(……私、少し意識しすぎてるのかな)
玲奈はそう思いながら、飲み物の容器を両手で包んだ。
「……そうだね。いつもどおりに話せたらいいな」
玲奈が静かに答えると、沙耶は優しく微笑んだ。
「うん。それが一番だと思う」
玲奈は頷き、窓の外へ視線を向けた。
週末まで、あと数日。
その時間が待ち遠しくもあり、少しだけ怖くもあった。
◇
放課後、ひよりは千夏と一緒に図書室へ向かった。
午前中に見たおすすめ本の展示について、もう少し詳しく知りたいと思ったからだ。
図書室へ入ると、受付の近くに小さな案内用紙が置かれていた。
ひよりはそれを手に取り、内容を確認した。
紹介文は決められた用紙に書き、図書室の担当者へ提出する形式らしい。
紹介する本は、学校の図書室にあるものでも、自分で持っているものでも構わない。
ただし、展示する際には書名と著者名を記載する必要があると書かれていた。
「へえ、思ってたより自由なんだね」
千夏が隣から覗き込んだ。
「うん。好きな本を選んでいいんだって」
ひよりは案内を読みながら、少し考えた。
紹介したい本はいくつもある。
けれど、今回は一冊だけ。
何を選ぶかで、伝えられることも変わってくる。
「ひより、迷ってる?」
千夏が尋ねると、ひよりは小さく頷いた。
「うん。好きな本がいくつかあるから、どれにしようかなって」
「じゃあ、今日すぐ決めなくてもいいんじゃない?」
「そうだね。少し考えてみる」
ひよりは案内用紙を一枚持ち、鞄へしまった。
そのあと、二人は書棚をゆっくり見て回った。
ひよりは背表紙を眺めながら、最近読んだ本のことを思い返していた。
真樹に薦めてもらった短編集には、知らない町の人々の暮らしが描かれていた。
学校で借りた商店街の物語には、古いものを大切にする人たちが登場する。
そして、『雨上がりの手紙』には、言葉にできなかった気持ちと、時間を掛けて相手を理解しようとする人々の姿があった。
(……どれも好きなんだよね)
ひよりは心の中で呟いた。
そのとき、千夏が隣の書棚から顔を出した。
「ひより、これ見て。前に話してた本とちょっと似てない?」
千夏が手にしていたのは、古い町並みを表紙に描いた文庫本だった。
ひよりは近づき、表紙を覗き込んだ。
「本当だ。雰囲気が似てるね」
「こういうお話、ひより好きそうだなって思って」
千夏は少し照れくさそうに笑った。
ひよりはその言葉を聞き、嬉しくなった。
自分の好きなものを、友達が覚えていてくれる。
それは、何気ないことのようで、とても温かいことだった。
「ありがとう、千夏。ちょっと見てみたいな」
二人は近くの机へ移動し、表紙やあらすじを確かめた。
ひよりは新しい本との出会いを楽しみながら、図書室の静かな時間を過ごした。
◇
夕方、家へ帰ったひよりは、宿題を終えてから机の上へ案内用紙を広げた。
おすすめ本の紹介。
短い文章で、自分の好きな一冊を誰かへ伝える。
考えてみると、少し難しい。
けれど、やってみたい気持ちは朝より強くなっていた。
ひよりは水色のノートを開き、候補になりそうな本の名前を書き出した。
その中には、『雨上がりの手紙』もあった。
ひよりはその題名を見つめ、少し考えた。
この本は、真樹にも海斗にも薦めた一冊だ。
二人とも読んでくれて、それぞれ違う感想を聞かせてくれた。
そのことが、ひよりにはとても嬉しかった。
(……もしこの本を紹介したら、また誰かが読んでくれるかもしれない)
そう思うと、胸の奥が少し弾んだ。
ひよりはペンを持ち、紹介文の下書きを始めた。
けれど、最初の一文を書いたところで手が止まった。
物語の内容を説明するだけでは、自分が好きな理由が伝わらない気がする。
かといって、感想を長く書きすぎても、読む人には分かりにくいかもしれない。
ひよりは少し考え、書いた文章を消した。
「……難しいなあ」
小さく呟いてから、椅子の背もたれへ身体を預けた。
そのとき、机の上のスマートフォンが短く震えた。
画面には、真樹からのメッセージが表示されている。
『天野、こんばんは。今日は学校どうだった?』
ひよりは思わず笑顔になった。
今日の出来事を、誰かに話したい。
そう思っていたところだった。
『こんばんは、北条君!』
『今日はね、図書室でおすすめ本の紹介を募集してるのを見つけたんだ』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『へえ、面白そうだね。天野も参加するの?』
『まだ決めてないけど、ちょっとやってみたいなって思ってるの』
『でも、どの本を紹介するか迷ってるんだ』
真樹はその文章を読み、少し考えた。
ひよりが本を好きなことは、よく知っている。
書店で一緒に過ごしたときも、彼女は一冊一冊を大切に手に取り、楽しそうに表紙やあらすじを眺めていた。
そんなひよりが本を紹介するなら、きっと読む人にもその気持ちが伝わるだろう。
『天野が好きな本なら、どれでもいい紹介になりそうだね』
『何冊か候補があるの?』
ひよりは頷きながら返信した。
『うん。北条君に薦めてもらった短編集も好きだし、今読んでる商店街のお話も気になってるの』
『それから、『雨上がりの手紙』も紹介したいなって思ってる』
真樹はその題名を見て、少しだけ目を細めた。
ひよりが薦めてくれた一冊。
読み終えたあとも、心に残っている物語だった。
『『雨上がりの手紙』、いいと思うよ』
『俺も天野に薦めてもらって、読んでよかったと思ったから』
ひよりはその返事を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな』
『でも、紹介文ってどう書けばいいのか迷っちゃって』
真樹は少し考えてから返信した。
『天野がその本を読んで、一番心に残ったことを書いてみたらどうかな』
『全部説明しなくても、天野が好きだと思った理由が伝われば、読んでみたいと思う人もいるんじゃないかな』
ひよりはその文章を見つめた。
昼休みに千夏が言ってくれたことと、少し似ている。
全部を説明しなくてもいい。
自分が一番伝えたいことを、言葉にすればいい。
ひよりは小さく頷いた。
『……うん。そうだね』
『千夏にも似たことを言われたんだ。全部説明しようとしなくてもいいんじゃないって』
『二人にそう言ってもらえたら、何だか書けそうな気がしてきたよ』
真樹はその返事を読み、穏やかに微笑んだ。
『それならよかった』
『完成したら、よかったら俺にもどんな文章を書いたのか教えてね』
ひよりは嬉しそうに頷いた。
『うん! まだ参加するか決めてないけど、書けたら見てもらいたいな』
真樹はその文章を読み、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
ひよりが自分の書いたものを見せたいと思ってくれる。
そのことが、素直に嬉しかった。
『楽しみにしてるよ』
ひよりはその返事を見つめ、自然と笑顔になった。
◇
やり取りがひと段落したあと、ひよりはもう一つ、朝から考えていたことを思い出した。
千夏がノアに会ってみたいと言っていたことだ。
ひよりは少し考えてから、真樹へメッセージを送った。
『そういえば北条君、もう一つ聞いてもいい?』
『もちろん。どうしたの?』
『今日、千夏に子犬のころのノアの写真を見せたら、すごく喜んでくれたの』
『それで、いつかノアに会ってみたいって言ってたんだけど、もし都合が合えば千夏も一緒にお散歩してもいいかな?』
真樹はその文章を読み、少しだけ考えた。
ひよりと二人で過ごせる時間は、もちろん嬉しい。
けれど、千夏はひよりの大切な友達だ。
以前から話には聞いているし、いつか会う機会があってもいいと思っていた。
それに、ノアは人懐っこい性格をしている。
千夏が会いに来てくれたら、きっと喜ぶだろう。
『もちろん大丈夫だよ』
『藤崎さんにもノアを紹介できたら嬉しいな』
ひよりはその返事を読み、ほっとしたように笑った。
『ありがとう! 千夏も喜ぶと思う』
『まだ日にちは決まってないから、予定が合いそうなときに相談させてね』
『うん。無理のない日にしよう』
真樹はそう返信し、スマートフォンを机へ置いた。
足元では、ノアが大きな身体を丸めて眠っている。
真樹はその頭をそっと撫でた。
「お前、また友達が増えるかもしれないぞ」
ノアは薄く目を開け、真樹の手へ鼻先を寄せた。
その仕草に、真樹は小さく笑った。
「……本当に、お前は誰の味方だよ」
そう言いながらも、その声はどこか嬉しそうだった。
◇
夜、ひよりは再び机へ向かい、おすすめ本の紹介文を考えていた。
真樹と千夏に言われたことを思い出しながら、今度は自分が一番伝えたいことを探してみる。
『雨上がりの手紙』を読んで、何が心に残ったのか。
手紙を書いた人の気持ち。
受け取った人の事情。
すぐには伝わらなかった言葉が、時間を掛けて相手へ届いていくこと。
ひよりはしばらく考え、ノートへ一文を書き込んだ。
『言葉にできなかった気持ちも、誰かを思う時間の中で少しずつ形になっていく。』
書き終えると、ひよりはその文章を見つめた。
まだ紹介文として完成しているわけではない。
けれど、今度はすぐに消そうとは思わなかった。
自分がこの本を読んで感じたことが、少しだけ言葉になった気がしたからだ。
(……もう少し考えてみよう。急がなくても、ちゃんと自分の言葉で書きたいな)
ひよりはペンを置き、ノートを閉じた。
窓の外には静かな夜が広がり、遠くから車の走る音がかすかに聞こえてくる。
今日も、いろいろな人と話した。
千夏とノアの写真を見たこと。
海斗と図書室の展示について話したこと。
真樹に紹介文の相談をしたこと。
どれも、ひよりにとって大切な時間だった。
ひよりはスマートフォンを手に取り、真樹とのメッセージをもう一度読み返した。
『完成したら、よかったら俺にもどんな文章を書いたのか教えてね』
その一文を見つめると、胸の奥が少し温かくなった。
自分が書いたものを、誰かが楽しみにしてくれている。
それは、思っていた以上に嬉しいことだった。
ひよりはスマートフォンを机へ戻し、明日の準備を始めた。
まだ紹介文は完成していない。
ノアとの散歩の日にちも決まっていない。
けれど、楽しみにできることが少しずつ増えている。
ひよりはそのことを嬉しく思いながら、部屋の灯りを消した。
そして、静かな夜の中で、明日はどんな話を誰に伝えようかと考えながら、ゆっくり目を閉じた。




