第62話 月曜日の教室で、君に話したいことが増えていく
月曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、窓の外には薄い雲が広がっている。布団から出ると足元に冷たい空気が触れたため、ひよりはベッドの脇に置いていたカーディガンを羽織り、暖房のスイッチを入れてから机のほうへ向かった。
本棚の一角には、昨日見つかった茶色のぬいぐるみが座っている。
幼いころの自分が「くるみ」と名づけたそのぬいぐるみは、片方の耳を少し傾けたまま、昨日と変わらない表情でひよりを見つめていた。隣には淡い黄色のリボンが丁寧に置かれ、右腕の付け根には美月と一緒に直した小さな縫い目が残っている。
「おはよう、くるみ」
ひよりは小さく声を掛け、指先で倒れた耳を整えた。
もちろん返事があるわけではない。それでも、長い間忘れていた名前をもう一度呼べるようになったことが嬉しくて、ひよりは自然と頬を緩めた。
(昨日は、いろんなことがあったな。お姉ちゃんとくるみを直して、お母さんから名前を教えてもらって……それから、北条君にノアの小さいころの写真も見せてもらったんだ)
机の上に置いたスマートフォンへ視線を移すと、昨夜のうちに送ろうと思っていたメッセージのことを思い出した。
くるみの名前が分かったことを、真樹にも伝えたい。
けれど、朝の支度を始める時間になっていたため、ひよりはスマートフォンを手に取るのをやめ、先に制服へ着替えることにした。
階下からは食器の触れ合う音が聞こえ、由美が朝食を準備している気配がする。ひよりは髪を整え、鞄の中身を確認してから部屋を出た。
階段を下りると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、ひより。今日は少し早いのね」
由美は鍋の火を弱めながら振り返った。
「うん。目覚ましが鳴る前に起きちゃった」
「そうなの。寒くなってきたから、朝は布団から出るのが大変でしょう?」
「ちょっとだけね。でも、暖房をつけたら平気だったよ」
ひよりが笑うと、由美も穏やかに微笑んだ。
食卓には焼き魚と卵焼き、小鉢に盛られた野菜が並んでいる。ひよりが席につくころには浩介も新聞を畳んで椅子へ座り、少し遅れて悠一が眠そうな顔で現れた。
「おはよう……。月曜日って、どうしてこんなに早く来るんだろうな」
悠一が大きな欠伸をすると、浩介は苦笑した。
「日曜日の次だからだろう」
「父さん、そういうことじゃなくてさ。もう少し休日が長くてもいいと思わない?」
「それは俺も思うけどな」
あっさり同意した浩介に、悠一は少し驚いた顔をした。
ひよりは二人のやり取りを聞きながら、湯気の立つ味噌汁を口へ運んだ。
温かな汁が喉を通ると、起きたばかりの身体が少しずつ目覚めていくように感じられる。
「そういえば、ひより。昨日のぬいぐるみ、ちゃんと飾れた?」
由美に尋ねられ、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん。本棚に座らせたよ。リボンも隣に置いてあるの」
「そう。よかったわね」
「名前も思い出せたし、何だか昨日よりずっと身近に感じるんだ」
ひよりがそう話すと、浩介は懐かしそうに笑った。
「くるみ、だったな。あのころは毎日のように名前を呼んでたのに、いつの間にか聞かなくなったなあ」
「お父さんも覚えてたんだね」
「そりゃ覚えてるさ。ひよりが大事にしてたんだから」
その言葉に、ひよりは少しだけ照れくさくなった。
自分が覚えていない幼いころの出来事を、家族はこんなにも覚えていてくれる。
昨日から何度も感じていることなのに、改めて聞くと胸の奥が温かくなった。
朝食を終え、玄関で靴を履いていると、美月が廊下から顔を出した。
「ひより、昨日直したところ、今朝も大丈夫だった?」
「うん。ちゃんとくっついてるよ。お姉ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして。あんまり強く引っ張らなければ平気だと思うけど、もしまたほつれたら教えてね」
美月はそう言って微笑み、ひよりのマフラーが少し曲がっていることに気づくと、手を伸ばして軽く整えてくれた。
「今日は冷えるみたいだから、帰りも気をつけてね」
「うん。行ってきます!」
ひよりは家族に見送られ、玄関を出た。
空気は冷たいものの、風はそれほど強くない。住宅街の道には通学途中の学生や駅へ向かう人たちの姿があり、ひよりも鞄を持ち直して歩き始めた。
昨日までの休日とは違い、今日は学校がある。
けれど、ひよりの足取りは思っていたより軽かった。
(千夏に、くるみのことを話そうかな。それから、北条君にも……)
話したいことがあると思うだけで、いつもの通学路が少し違って見える。
ひよりはマフラーへ顎を埋め、冷たい朝の空気の中を歩いていった。
◇
県立青葉高校の教室は、朝からいつもどおり賑やかだった。
窓際では数人の生徒が週末に見た映画の話をしており、廊下側の席では小テストの範囲を確認する声が聞こえている。暖房が入った教室には外から持ち込まれた冷たい空気がまだ少し残っていて、ひよりは自分の席へ向かいながら手袋を外した。
「ひより、おはよう!」
先に登校していた藤崎千夏が、明るい声で手を振った。
「おはよう、千夏」
「今日は早いね。私が来たときにはまだ誰もいなかったのに、もう結構集まってるし」
「うん。今朝は少し早く起きちゃったんだ」
ひよりが鞄を机の横へ掛けると、千夏はその表情を見て少し首を傾げた。
「何かいいことあった?」
「えっ?」
「だって、朝からすごく楽しそうなんだもん。昨日、何かあったのかなって」
千夏の言葉に、ひよりは思わず笑ってしまった。
「実はね、昔大切にしてたぬいぐるみが見つかったの」
「ぬいぐるみ?」
「うん。土曜日に家族で昔の写真を整理してたんだけど、そのときに写ってた子が、昨日の片づけで見つかったんだ」
ひよりは椅子へ腰を下ろし、千夏へ昨日の出来事を話し始めた。
長い間しまわれていたこと。
腕の縫い目が少しほつれていたこと。
美月と一緒に修理したこと。
そして、幼いころに「くるみ」と名づけていたこと。
千夏は途中で何度も驚いたり笑ったりしながら、楽しそうに聞いていた。
「へえ、いいね! 昔のぬいぐるみが見つかるなんて、何だか宝探しみたい」
「私もそう思ったよ。もう残ってないかもしれないって思ってたから、見つかったときは本当にびっくりしたの」
「しかも、自分で直したんでしょう? すごいじゃん」
「お姉ちゃんがほとんど教えてくれたんだけどね。私も少し縫えたから、嬉しかった」
ひよりは照れくさそうに笑った。
千夏はその様子を見つめ、ふっと表情を柔らかくした。
少し前までのひよりは、笑っていてもどこか無理をしているように見えることがあった。
佐伯颯太へ気持ちを伝え、優しく断られたあと、ひよりは周囲に心配を掛けまいとして、普段どおりに振る舞おうとしていた。
けれど、今朝のひよりは違う。
昨日あった出来事を誰かに話したくて仕方がないというように、自然な笑顔を浮かべている。
(……よかった。ひより、ちゃんと元気になってきてる)
千夏はそう思いながら、机へ頬杖をついた。
「ねえ、そのくるみちゃんって、どんな子なの? 写真ある?」
「うん。昨日撮ったよ」
ひよりはスマートフォンを取り出し、くるみの写真を表示した。
千夏は画面を覗き込むと、すぐに笑顔になった。
「可愛い! ちょっと首を傾げてるみたいに見えるね」
「そうなの。片方の耳が倒れちゃってるから、どこから撮ってもこんな感じなんだ」
「でも、それがいいと思う。何だか、ひよりの話を聞いてくれそうな顔してる」
千夏がそう言うと、ひよりは思わず頬を緩めた。
「ふふ。小さいころは、本当にいろんなことを話してたのかもしれないね」
ひよりは写真を眺めながら、昨日のことを思い出した。
真樹にも同じ写真を送った。
真樹は可愛いと言ってくれて、修理したことも喜んでくれた。
そのあと、子犬のころのノアの写真まで見せてもらったのだ。
「そういえばね、北条君にも写真を送ったんだ」
ひよりが何気なく言うと、千夏の目が少しだけ細くなった。
「へえ、北条君にも?」
「うん。前の日にぬいぐるみの話をしてたから、見つかったことを伝えたくて」
「そっか。それで、北条君は何て?」
「可愛いって言ってくれたよ。それから、自分で直したなら前よりもっと大切になったんじゃないかって」
ひよりは嬉しそうに答えた。
千夏はその表情を見つめ、胸の内で小さく息を吐いた。
(……北条君、やっぱりひよりのことを大切にしてるんだろうな)
もちろん、真樹本人から気持ちを聞いたわけではない。
それでも、ひよりの話を聞いていると、真樹が彼女の小さな出来事を一つずつ大事に受け止めていることが伝わってくる。
千夏はそれ以上踏み込まず、代わりに笑いながら尋ねた。
「北条君って、ノアの写真もよく送ってくれるんだよね?」
「うん! 昨日は子犬のころの写真を見せてもらったの。すっごく可愛かったよ!」
ひよりの声が少し弾んだため、千夏は思わず笑った。
「そんなに?」
「うん。今のノアも可愛いけど、小さいころは本当にぬいぐるみみたいだったの」
ひよりは画面を操作しかけてから、ふと手を止めた。
真樹が送ってくれた写真を、本人に確認せずほかの人へ見せてもいいのだろうか。
千夏は親友だし、きっと真樹も嫌がらないとは思う。
けれど、勝手に見せるのは少し違う気がした。
「……今度、北条君に聞いてみるね。写真、千夏にも見せたいんだけど」
ひよりがそう言うと、千夏は少し驚いてから微笑んだ。
「うん、ありがとう。急がなくていいよ」
そのとき、教室の前方から予鈴が鳴った。
ひよりと千夏はスマートフォンをしまい、授業の準備を始めた。
千夏は教科書を取り出しながら、隣で楽しそうにノートを開くひよりをちらりと見た。
恋愛のことを急いで考えなくてもいい。
今は、ひよりがこうして笑っていられることが何より大切だと思った。
◇
一時間目の授業が終わると、ひよりは教科書を閉じ、次の授業で使う資料を鞄から取り出した。
教室の中では席を立つ生徒が増え、廊下へ出ていく足音や友人同士の会話が重なっている。ひよりが机の上を整理していると、少し離れた席から橘海斗が近づいてきた。
「天野さん、今ちょっといい?」
ひよりは顔を上げた。
「あ、橘君。うん、どうしたの?」
「この前借りた『雨上がりの手紙』のことで、少し聞きたいことがあってさ」
海斗はそう言いながら、手に持っていた文庫本を見せた。
学校の図書室で借りた本には透明な保護カバーが掛けられており、海斗は表紙を傷めないように丁寧に持っている。
ひよりはその様子を見て、自然と笑顔になった。
「もう結構読んだ?」
「うん。週末に少し進めたんだ。まだ最後までは読んでないけど、受け取る側の気持ちが分かるところまで来てさ」
海斗は本を開かずに、表紙へ視線を落とした。
「最初は、手紙を書いた人の気持ちばかり考えてたんだけど、受け取る側にもいろんな事情があるんだなって思った」
ひよりは頷いた。
「うん。私もそこを読んだとき、少し考え方が変わったよ」
「天野さんは、どっちの気持ちのほうが分かりやすかった?」
海斗に尋ねられ、ひよりは少し考えた。
この本を読んだとき、自分は手紙を書いた人物の気持ちに強く引き寄せられた。
伝えたいことがあるのに、なかなか言葉にできない。
そのもどかしさが、当時の自分の気持ちと重なったからだ。
けれど、今は少し違う受け止め方もできるようになっている。
「私は、最初は書いた人の気持ちのほうが分かりやすかったかな。でも、読み進めると、受け取る人にも簡単には言えない気持ちがあるんだなって思ったの」
ひよりは言葉を選びながら答えた。
「だから、どっちが正しいって決めるより、二人が何を考えていたのか知りたくなったんだ」
海斗はその言葉を聞き、少しだけ目を見開いた。
「……そっか。そういう読み方もあるんだね」
「橘君は?」
「俺は、最初は書いた人の行動がちょっと遠回りに感じたんだ。でも、受け取る側の話を読んだら、簡単に言えないこともあるんだなって思って」
海斗は少し照れくさそうに笑った。
「普段、こういう話を誰かとすることってあんまりなかったから、何だか新鮮なんだ」
ひよりはその言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。
「私も、誰かと本の話をするの好きだよ。同じところを読んでも、違うことを考えてたりするから」
「うん。それ、最近ちょっと分かってきた気がする」
海斗は本を持ち直した。
ひよりが楽しそうに話している姿を見ると、自分ももう少し読んでみたいと思える。
以前なら、授業の課題でもない本をこんなに丁寧に読むことはなかったかもしれない。
けれど、ひよりが薦めてくれたという理由だけで手に取った本が、今は自分にとっても面白いものになっている。
(……天野さんと話してると、本を読むのが楽しくなるんだよな)
海斗はそう思いながら、ひよりへ笑いかけた。
「読み終わったら、また感想を聞いてもらってもいい?」
「もちろん。私も橘君が最後まで読んでどう思うか、聞いてみたいな」
ひよりが答えると、海斗は嬉しそうに頷いた。
そのとき、次の授業の準備を知らせる声が教室の前方から聞こえてきた。
海斗は本を鞄へしまい、ひよりに軽く手を振って自分の席へ戻っていった。
ひよりはその背中を見送りながら、机の上のノートを整えた。
同じ本を読んでいる人が増えると、感想を話す楽しみも増えていく。
そのことが、ひよりには素直に嬉しかった。
◇
一方、私立桜陵学園では、北条真樹が昼休みの教室で神崎蓮と話していた。
窓の外には薄い雲が広がっているが、校庭では体育の授業を終えた生徒たちが片づけをしている。真樹は昼食を終え、机の上に置いていた本を鞄へしまおうとしていた。
「真樹、それもう読み終わったんだっけ?」
蓮が指さしたのは、『雨上がりの手紙』だった。
「ああ。土曜日に読み終わったよ」
「へえ。結構じっくり読んでたよな」
「そうだな。途中で考えながら読むところも多かったし」
真樹は本の表紙へ目を向けた。
ひよりが薦めてくれた一冊。
読み始めたころは、彼女がどんなところを好きなのか知りたいという気持ちが強かった。
けれど、読み終えた今は、自分自身にとっても印象に残る本になっている。
「天野さんとは感想を話したのか?」
蓮が尋ねると、真樹は頷いた。
「土曜日の夜に少しね。最後の手紙について、天野がどう思ったのか聞けたよ」
「ふうん。それで、どうだった?」
「……楽しかったよ」
真樹は少し考えてから答えた。
蓮はその表情を見て、口元を緩めた。
「まあ、顔見れば分かるけどな」
「何だよ、それ」
「いや、別に。楽しそうで何よりってこと」
蓮は笑いながら椅子の背もたれへ身体を預けた。
真樹は少し呆れたように息を吐いたが、否定はしなかった。
ひよりとのやり取りが楽しいのは事実だ。
そのことを、蓮に隠す必要もない。
「そういえば、昨日はノアの子犬のころの写真を天野に送ったんだ」
真樹が何気なく話すと、蓮は目を瞬かせた。
「子犬のころ? ああ、あの小さかったときの写真か」
「そう。昔の写真を見てたら見つけてさ」
「天野さん、喜んだだろ?」
「かなりね。今のノアも好きだけど、子犬のころも可愛いって」
真樹は思い出し笑いを浮かべた。
蓮はその様子を見つめ、少しだけ表情を柔らかくした。
「……真樹、最近本当に楽しそうだな」
その言葉に、真樹は顔を上げた。
「そう見える?」
「見えるよ。前から落ち着いてたけど、最近は何か、話してるときの雰囲気が違うっていうか」
蓮は少し言葉を探した。
「無理に何か進めようとしてる感じじゃなくて、今の時間を楽しんでるように見える」
真樹はその言葉を聞き、しばらく黙った。
ひよりが失恋したことを知っている。
だからこそ、自分の気持ちを急いで伝えるつもりはない。
けれど、ただ待っているだけでもない。
ひよりと話し、彼女の好きなものを知り、自分のことも少しずつ伝えている。
その時間は、真樹にとって大切なものになっていた。
「……そうかもしれないな」
真樹が静かに答えると、蓮は小さく頷いた。
「なら、いいんじゃないか。焦る必要もないだろ」
「ああ。俺もそう思ってる」
真樹はそう言って、本を鞄へしまった。
蓮はそれ以上踏み込まず、話題を午後の授業へ移した。
その自然な切り替えが、真樹にはありがたかった。
◇
同じころ、一ノ瀬玲奈は三浦沙耶と一緒に廊下を歩いていた。
昼休みの廊下には生徒たちの声が響き、窓際では友人同士が並んで話している。玲奈は手に持った飲み物の蓋を確かめながら、沙耶の話へ耳を傾けていた。
「そういえば玲奈、前に話してたカフェ、楽しみにしてるんでしょう?」
沙耶が何気なく尋ねると、玲奈は少しだけ足を緩めた。
「……うん。まだ少し先だけどね」
「でも、時間も決まったんでしょ?」
「午後二時に駅で待ち合わせることになったの。お店も決めたし、あとは当日を待つだけかな」
玲奈はそう答えながら、自然と頬を緩めた。
真樹と二人で喫茶店へ行く。
その約束ができたことは、玲奈にとって大きな喜びだった。
幼いころから一緒に過ごしてきた相手だからこそ、改めて二人で出かけるというだけで、少し特別な気持ちになる。
「へえ、いいじゃん。どんなお店なの?」
「駅から歩いて行ける、小さなカフェだよ。季節の焼き菓子があるみたいで、落ち着いた雰囲気のお店なの」
「玲奈らしいね。にぎやかなところより、ゆっくり話せる場所を選んだんだ」
沙耶が笑うと、玲奈も頷いた。
「うん。真樹も静かなところのほうが落ち着けると思ったから」
その言葉を口にしたあと、玲奈は少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
真樹の好みを考えて店を選んだ。
そのことを、沙耶に話すのは少し恥ずかしい。
けれど、沙耶はからかうことなく、穏やかに微笑んでいた。
「楽しめるといいね」
「……ありがとう」
玲奈は小さく答えた。
廊下の先では、真樹と蓮が教室から出てくるところだった。
玲奈はその姿に気づき、自然と視線を向けた。
真樹は蓮と何か話しながら歩いている。
普段どおりの落ち着いた表情だったが、時折笑っているのが見えた。
玲奈はその笑顔を見つめ、胸の奥に小さな期待が生まれるのを感じた。
(……今度のカフェでも、あんなふうに笑ってくれたらいいな)
真樹が自分と一緒に過ごす時間を、楽しんでくれたら嬉しい。
それ以上のことを期待してしまう気持ちもある。
けれど、今はまだ、その気持ちを言葉にする勇気がなかった。
玲奈は飲み物を持ち直し、沙耶と一緒に歩き始めた。
◇
放課後、ひよりは千夏と一緒に学校の図書室へ向かった。
金曜日に借りた商店街の連作短編集を、少しだけ読み進めたいと思ったからだ。
廊下の窓から差し込む午後の光は朝より柔らかく、階段を上る生徒たちの足音が静かに響いている。図書室の扉を開けると、紙と木の混ざった落ち着いた匂いが広がった。
室内には数人の生徒がいて、それぞれ机に向かったり書棚を眺めたりしている。
ひよりと千夏は窓際の席へ向かい、向かい合って腰を下ろした。
「ひより、今日はその本を読むの?」
千夏が尋ねると、ひよりは鞄から文庫本を取り出した。
「うん。金曜日に借りたんだけど、まだ最初のほうしか読めてなくて」
「商店街が舞台の話だったよね?」
「そう。いろんなお店の人が出てくるんだよ。最初に読んだのは、古い文房具店と万年筆のお話だったの」
ひよりは表紙を指先でなぞった。
古い商店街を描いた柔らかな色合いの表紙には、夕方の街灯と小さな店の並びが描かれている。
ひよりはその絵を見ながら、昨日のくるみのことを思い出した。
長い間大切にされてきたもの。
誰かの思い出が残っているもの。
古い文房具店の話にも、そんなものが登場していた。
「何だか、昨日のぬいぐるみのことと少し似てる気がするんだ」
ひよりがそう言うと、千夏は興味深そうに顔を上げた。
「へえ、どういうところが?」
「古い万年筆を大切にしてる人が出てくるんだけど、ただ古いから残してるんじゃなくて、その人にとって大事な思い出があるんだなって思って」
ひよりは少し考えながら続けた。
「昨日、くるみを直したときも、昔の思い出だけじゃなくて、今の思い出が増えた気がしたの。だから、何だかそのお話を思い出しちゃった」
千夏はその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
「そっか。ひより、最近そういうところによく気づくようになったね」
「えっ、そうかな?」
「うん。本を読んで終わりじゃなくて、自分の生活のことと結びつけて考えてる感じがする」
ひよりは少し照れくさくなり、視線を本へ落とした。
「……そうかもしれない。北条君と本の感想を話すようになってから、前よりいろんなことを考えるようになった気がするんだ」
その言葉に、千夏は小さく微笑んだ。
ひより自身は、まだ気づいていないのかもしれない。
けれど、真樹との交流が彼女の日常に少しずつ影響を与えていることは、傍から見ていても分かる。
千夏はそれを急いで指摘するつもりはなかった。
ひよりが自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ前へ進んでいけばいい。
「じゃあ、私はこっちの本を読もうかな」
千夏は鞄から借りていた本を取り出した。
二人はしばらく、それぞれの読書へ集中した。
図書室にはページをめくる音や、遠くで椅子が動く小さな音だけが響いている。
ひよりは物語の続きを読み進めながら、ときどき窓の外へ目を向けた。
校庭では部活動の生徒たちが準備を始めている。
冬の夕方は日が傾くのが早く、窓から差し込む光も少しずつ色を変えていた。
ひよりはしおりを挟み、本を閉じた。
今日は少しだけ読み進めるつもりだったため、無理に最後まで読もうとは思わなかった。
千夏も顔を上げ、時計を確かめた。
「そろそろ帰ろうか。暗くなるの早いし」
「うん。そうだね」
二人は本を鞄へしまい、静かに席を立った。
◇
帰り道、ひよりと千夏は並んで歩いていた。
夕方の空は薄い橙色に染まり始めており、住宅街の道には学校帰りの生徒たちの姿が見える。冷たい風が吹くたびに、ひよりはマフラーへ少し顎を埋めた。
「そういえば、ひより。北条君とは、またノアのお散歩に行く予定あるの?」
千夏が尋ねると、ひよりは顔を上げた。
「うん。昨日、また一緒に行けたらいいねって話したの」
「へえ。日にちは決まった?」
「まだだよ。お互いの予定を確認してからにしようって」
ひよりはそう答えながら、少し嬉しそうに笑った。
「前に北条君が送ってくれた公園の写真がきれいだったから、いつかノアと一緒に歩いてみたいんだ」
「そっか。楽しみだね」
「うん!」
ひよりの返事は明るかった。
千夏はその横顔を見つめながら、少しだけ考えた。
真樹とひよりの関係は、以前より確実に近づいているように見える。
けれど、ひよりはまだ恋愛のことを意識している様子ではない。
それでも、真樹と過ごす時間を楽しみにしていることは、十分伝わってくる。
(……北条君、焦らずにいてくれるといいな)
千夏はそう思いながら、ひよりと並んで歩き続けた。
やがて二人の帰り道が分かれる場所へ着くと、千夏は足を止めた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。千夏、気をつけて帰ってね」
「ひよりもね!」
二人は手を振って別れた。
ひよりは一人になってからも、しばらく今日の出来事を思い返していた。
千夏とくるみの話をしたこと。
海斗と『雨上がりの手紙』について話したこと。
図書室で新しい物語を少し読み進めたこと。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、誰かと話したいと思えることが、少しずつ増えている。
ひよりはそのことを嬉しく感じながら、家へ向かって歩いていった。
◇
夕食を終えたあと、ひよりは自室で宿題を済ませ、スマートフォンを手に取った。
今日こそ、真樹へくるみの名前が分かったことを伝えたい。
ひよりはメッセージ画面を開き、少し考えてから文章を入力した。
『北条君、こんばんは。昨日のぬいぐるみのことで、もう一つ分かったことがあるんだ』
送信すると、しばらくして真樹から返事が届いた。
『こんばんは。何が分かったの?』
ひよりは嬉しそうに微笑み、続けて入力した。
『あの子、昔は「くるみ」って名前だったんだって』
『お母さんが昔の写真を見せてくれて、思い出したの』
真樹はその文章を読み、少しだけ目を細めた。
昨日見せてもらった茶色のぬいぐるみ。
丸い鼻と、少し傾いた耳。
その姿を思い浮かべると、「くるみ」という名前はよく似合っているように感じられた。
『くるみ、いい名前だね』
『天野が小さいころにつけたの?』
ひよりはすぐに返信した。
『うん。丸いお鼻がくるみみたいだからって、私がつけたらしいの』
『自分ではあんまり覚えてなかったんだけど、名前を聞いたら何だか懐かしくなったよ』
真樹はその言葉を読み、少し考えた。
幼いころの記憶は、すべてがはっきり残っているわけではない。
けれど、家族の話や写真を通じて、忘れていたことを思い出すことがある。
真樹にも、そうした経験はあった。
『家族が覚えててくれるのって、嬉しいよね』
『自分では忘れてたことでも、誰かの中には残ってるんだなって思う』
ひよりはその文章を読み、静かに頷いた。
昨日、由美が見せてくれた写真。
美月が覚えていた、幼いころの自分の姿。
浩介が話してくれた、ぬいぐるみを外へ持っていこうとした日のこと。
どれも、自分だけでは思い出せなかったものだった。
『うん。本当にそう思ったよ』
『私、家族にこんなにいろんなことを覚えててもらってたんだなって、ちょっとびっくりしたの』
真樹はその返事を読み、穏やかに微笑んだ。
ひよりが家族のことを大切にしているのは、以前から感じていた。
けれど、こうして昔の話を聞くと、彼女がどんな時間を過ごしてきたのか、少しずつ分かるような気がする。
『天野の家族、温かいね』
ひよりはその一文を見つめ、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。
家族と過ごす時間は、普段は当たり前のように感じている。
けれど、真樹にそう言われると、改めて大切なものなのだと思えた。
『ありがとう。私もそう思う』
『北条君に話せてよかった』
真樹はその文章を読み、少しだけ指を止めた。
ひよりが自分へ話してくれること。
それを嬉しいと思ってくれること。
その一つ一つが、真樹には大切だった。
『俺も聞けて嬉しかったよ』
『くるみのこと、また何か思い出したら教えてね』
ひよりは自然と笑顔になった。
『うん! ありがとう』
やり取りがひと段落したあと、ひよりはふと昨日のノアの写真を思い出した。
千夏にも見せたいと思っていたことを、真樹へ聞いてみよう。
『そういえば、昨日送ってくれた子犬のころのノアの写真なんだけど、千夏にも見せてもいいかな?』
真樹はそのメッセージを読み、すぐに頷いた。
千夏がひよりの親友であることは知っている。
ノアの写真を見せることに、特に問題はなかった。
『もちろん。藤崎さんにも見てもらえたら嬉しいよ』
ひよりはほっとしたように微笑んだ。
『ありがとう! 明日、千夏に見せるね』
真樹はその返事を読み、足元で眠っているノアへ目を向けた。
「お前の子犬のころの写真、また人気が出そうだぞ」
ノアは声に反応して片耳を動かしたものの、すぐに目を閉じた。
真樹はその様子に笑い、スマートフォンへ視線を戻した。
◇
少し時間が経ってから、ひよりは真樹へもう一つメッセージを送った。
『北条君、ノアとのお散歩のことなんだけど、来週の予定を少し確認してみたよ』
真樹はその文章を読み、姿勢を正した。
昨日、互いに予定を確認しようと話していた。
ひよりがその約束を覚えていてくれたことが、素直に嬉しかった。
『ありがとう。俺も確認してみたよ』
『天野は、いつごろが都合よさそう?』
ひよりは手帳を開き、学校の予定を書き込んだページへ目を向けた。
平日は授業があるため、ゆっくり散歩するなら休日のほうがよさそうだ。
ただし、家族の予定もまだすべて確認できていない。
ひよりは少し考えてから、正直に伝えることにした。
『まだはっきり決められないんだけど、来週の休日なら時間が取れるかもしれないの』
『家族の予定も確認してから、また連絡してもいい?』
真樹はその返事を読み、穏やかに微笑んだ。
『もちろん。急がなくて大丈夫だよ』
『俺も予定を見ながら、都合が合う日を考えておくね』
ひよりはその言葉に、安心したように息を吐いた。
真樹はいつも、こうして自分の都合を大切にしてくれる。
その優しさが、ひよりには嬉しかった。
『ありがとう、北条君』
『ノアにも会えるの、楽しみにしてるね』
真樹はその文章を読み、足元のノアへ目を向けた。
大きな黒犬は、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
真樹は小さく笑いながら返信した。
『ノアもきっと喜ぶよ』
『俺も楽しみにしてる』
ひよりはその返事を見つめ、頬を緩めた。
まだ日にちは決まっていない。
けれど、いつか一緒に散歩する時間が、少しずつ近づいているように感じられた。
◇
夜が更けるころ、ひよりはスマートフォンを机へ置き、水色のノートを開いた。
今日の出来事を振り返ると、話したいことがいくつも浮かんでくる。
千夏にくるみの写真を見せたこと。
海斗と本の感想を話したこと。
真樹へくるみの名前を伝えられたこと。
そして、ノアとの散歩の予定を少しずつ考え始めたこと。
ひよりはペンを持ち、今日のページへゆっくり文字を書き込んだ。
『誰かに話したいことがあると、いつもの一日が少し楽しみになる。』
書き終えたあと、ひよりはしばらくその文章を見つめた。
以前は、学校から帰ると一日の出来事を自分の中だけで振り返ることも多かった。
けれど、最近は違う。
千夏に話したいことがある。
家族に聞いてほしいことがある。
真樹へ伝えたいことも、少しずつ増えている。
ひよりはその変化を、何だか嬉しく感じていた。
ノートを閉じると、本棚のくるみへ目を向けた。
くるみは今日も、片方の耳を傾けたまま座っている。
その隣には、真樹と書店で選んだ短編集が並んでいた。
ひよりは小さく微笑み、明日の準備を始めた。
明日は千夏にノアの写真を見せよう。
海斗が本を読み終えたら、また感想を聞いてみたい。
真樹には、学校であったことを少し話せたらいい。
そんなことを考えながら、ひよりは部屋の灯りを消した。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
月曜日は、特別な出来事が起きたわけではなかった。
それでも、ひよりにとっては、誰かに話したいことが少しずつ増えた一日だった。
そして、その中には、まだ自分でも気づいていない小さな気持ちが、静かに積み重なり始めていた。




