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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第61話 小さなぬいぐるみに残っていた、忘れかけた約束


 日曜日の朝、天野ひよりは階下から聞こえてきた物音で目を覚ました。


 休日の朝にしては少し早い時間だったが、廊下の向こうから聞こえるのは、何か重いものを床へ置くような音と、母の由美が誰かに声を掛ける声だった。ひよりは枕元の時計を確かめると、まだ八時前であることに少し驚きながら、掛け布団を肩まで引き上げた。


(……お母さんたち、もう昨日の片づけの続きをしてるのかな)


 昨日は家族で古い写真を整理したものの、思い出話に夢中になってしまい、予定していた作業の半分ほどしか終わらなかった。父の浩介は途中から写真を眺める係のようになり、兄の悠一も昔の出来事を次々と思い出していたため、結局、由美が残りの箱を棚の横へまとめておいたのだった。


 ひよりはしばらく布団の中で耳を澄ませていたが、やがて美月の笑い声まで聞こえてきたため、気になって身体を起こした。


 窓の外には薄い雲が広がっているものの、雨が降りそうな気配はない。昨日より少し冷え込んでいるようで、窓際へ近づくと足元にひんやりとした空気が流れてきた。


 ひよりは厚手の靴下を履き、淡い色のカーディガンを羽織ってから部屋を出た。


 階段を下りる途中、居間のほうから悠一の声が聞こえてくる。


「だから、これは捨てなくていいだろ。まだ使えるんじゃないか?」


「お兄ちゃん、それ何年前のものだと思ってるの? 使えるかどうか以前に、今まで存在を忘れてたでしょ」


「いや、見たら思い出したんだって」


 美月の呆れた声に、悠一が少し不満そうに答えている。


 ひよりが居間を覗くと、昨日とは違う段ボール箱が床に置かれていた。その周囲には古い文房具や小さな玩具、色あせた布製の袋などが並べられている。


「おはよう。みんな、もう片づけしてたんだね」


 ひよりが声を掛けると、由美が振り返った。


「おはよう、ひより。昨日の続きなんだけど、奥からもう一箱出てきたのよ。朝ご飯の準備をする前に中身だけ確認しようと思ったら、みんな集まってきちゃって」


「俺はたまたま通りかかっただけだぞ」


 悠一がそう主張すると、美月は彼の手元にある古い筆箱を指さした。


「そのわりには、十分くらいずっとそれを眺めてるけど?」


「懐かしいものは仕方ないだろ。ほら、ひよりも見てみろよ。これ、俺が小学校のころに使ってたやつ」


 差し出された筆箱には、今ではあまり見かけない派手な模様が描かれていた。表面には細かな傷がついているが、悠一は大切そうに蓋を開け、中に残っていた短い鉛筆を見せてくれた。


「お兄ちゃん、物持ちがいいんだね」


「だろ? ちゃんと残ってたんだから、何かに使えるかもしれない」


「残ってたのは、お母さんが片づけてくれてたからでしょう」


 美月が指摘すると、悠一は言い返そうとしてから口を閉じた。その様子が可笑しくて、ひよりも由美も笑ってしまう。


 ひよりは空いている場所へ腰を下ろし、箱の中を覗き込んだ。


 上のほうには小学校で使っていた名札や工作の材料があり、その下には布で包まれた何かが入っている。ひよりが由美に目を向けると、母は中身を確かめるように首を傾げた。


「それ、何だったかしら。ずいぶん前にしまったものだと思うけど」


「開けてみてもいい?」


「ええ。埃がついているかもしれないから、ゆっくりね」


 ひよりは布包みを膝の上へ移し、端をそっとほどいた。


 中から現れたのは、少しくたびれた茶色のぬいぐるみだった。


 丸い耳に、柔らかそうな手足。以前はもっとふっくらしていたのだろうが、今は身体の綿が少し偏っていて、片方の耳が斜めに倒れている。


 ひよりはそれを見た瞬間、思わず息を止めた。


「……あっ」


 声が漏れた途端、昨日見た写真の光景が頭の中に浮かんだ。


 幼い自分が両腕で抱えていた、大きなぬいぐるみ。


 写真の中では身体の半分ほどもあるように見えたそれが、今はひよりの膝の上に収まっている。


「これ……昨日の写真の……」


 ひよりが呟くと、由美も目を見開いた。


「あら、本当だわ。こんなところにしまってあったのね」


 美月が隣へ移動し、ぬいぐるみの顔を覗き込む。


「懐かしい! ひより、これがないと寝られなかったんだよね。私も何回か探すのを手伝った覚えがある」


「私、昨日はどこにあるか全然分からなかったのに……」


 ひよりは両手でぬいぐるみを持ち上げた。


 思っていたより軽く、手触りも昔の記憶とは少し違っている。それでも、丸い鼻と少し離れた目の形を見ているうちに、胸の奥へ懐かしさが込み上げてきた。


(……本当に、残ってたんだ)


 ひよりはしばらくその顔を見つめていたが、やがて右腕の付け根に小さなほつれがあることに気づいた。


 縫い目が数センチほど開いていて、白い綿が少し覗いている。


「あれ……ここ、破れちゃってる」


 ひよりが指先で縫い目を確かめると、美月も身体を寄せた。


「本当だね。古いものだから、糸が弱くなってるのかも。あんまり引っ張らないほうがいいよ」


「うん……」


 ひよりは腕を傷めないように持ち直した。


 昨日、家族から聞いた話が蘇る。


 幼いころの自分は、このぬいぐるみを洗濯する日になると、乾くまで何度もベランダを見に行っていたらしい。


 そんなに大切にしていたものを、いつから抱かなくなったのだろう。


 ひよりには、はっきりとした記憶がなかった。


     ◇


 朝食のあと、ひよりはぬいぐるみを自室へ持ち帰った。


 机の上に清潔なタオルを敷き、その中央へそっと座らせる。昨日買ったわけでも、誰かから新しく贈られたわけでもないのに、そこにあるだけで部屋の雰囲気が少し変わったように感じられた。


 ひよりは椅子に腰掛け、倒れた耳を指先で整えた。


 よく見ると、片方の目の周囲にも少し毛並みの薄くなったところがある。長い間しまわれていたせいか、布にはわずかに収納箱の匂いが残っていた。


(……こんなに小さかったっけ。昔は、もっと大きいと思ってたのに)


 両腕で抱えると、胸元にすっぽりと収まる。


 幼いころは、自分の身体のほうがずっと小さかったのだ。


 ひよりはその当たり前のことに、今さらながら少し驚いた。


 昨日の写真には、このぬいぐるみを抱えた自分が写っていた。


 けれど、写真に写っていない日にも、きっと一緒に過ごしていたのだろう。


 眠れない夜や、遊び疲れた午後。


 家族に叱られて泣いた日も、嬉しいことがあった日も、幼い自分はこのぬいぐるみを抱えていたのかもしれない。


 ひよりは右腕のほつれへ目を向けた。


(……直せるかな)


 裁縫は学校の授業で習ったことがあるし、簡単なボタン付けなら自分でもできる。ただ、古いぬいぐるみを縫い直した経験はないため、布を傷めずに修理できるかどうかは分からなかった。


 しばらく考えたあと、ひよりはぬいぐるみをタオルごと持ち上げ、姉の部屋へ向かった。


 美月の部屋の扉は少し開いていて、中から衣類を畳む音が聞こえている。


「お姉ちゃん、今ちょっといい?」


 ひよりが声を掛けると、美月はベッドの上に広げていた洗濯物から顔を上げた。


「いいよ。どうしたの……って、ああ、その子ね」


 ひよりの腕に抱かれたぬいぐるみを見て、美月はすぐに事情を察したらしい。


「うん。腕のところがほつれてるから、直せないかなって思って」


「見せてみて。布そのものが破れてなければ、縫い直せると思うけど」


 美月はぬいぐるみを受け取ると、窓際の明るい場所へ移動した。


 腕の付け根を無理に広げないように確かめ、指先で残っている糸をなぞる。ひよりはその隣に立ち、姉の表情を見守った。


「うん、これなら大丈夫そう。縫い目の糸が切れてるだけみたいだから、同じところを閉じれば直せるよ。ただ、布が古いから、強く引っ張らないようにしないとね」


「本当? よかった……」


 ひよりがほっと息を吐くと、美月は小さく笑った。


「そんなに心配だった?」


「だって、せっかく見つかったんだもん。昨日までどこにあるかも分からなかったのに、また傷んじゃったら嫌だなって」


 ひよりは少し照れながら答えた。


 美月はその言葉を聞き、ぬいぐるみをもう一度見つめた。


「そっか。じゃあ、ちゃんと直そうか。ひよりも一緒にやってみる?」


「私も?」


「うん。難しいところは私がやるけど、少しずつならできると思うよ。自分で直したほうが、きっと嬉しいでしょう?」


 ひよりは一瞬迷ったものの、やがて頷いた。


「……うん。やってみたい」


 美月は裁縫箱を取り出し、必要な道具を机の上へ並べ始めた。


     ◇


 修理を始める前に、美月はまずぬいぐるみの状態を丁寧に確認した。


 腕の縫い目以外にも傷んだところがないか、布が薄くなっていないか、綿が大きく偏っていないかを調べる。ひよりはその横で、姉が指さす部分を一つずつ確かめた。


「古いぬいぐるみって、見た目は平気でも糸が弱くなってることがあるんだよ。だから、今回は腕のところだけ直して、ほかは無理に触らないほうがいいかもね」


「そっか……。洗ってあげたいなって思ったんだけど、やめたほうがいい?」


「丸洗いはちょっと心配かな。中の綿が乾きにくいかもしれないし、今の状態なら表面を優しく拭くくらいにしておこう。お母さんにも相談してみようか」


 ひよりは頷いた。


 何でもきれいにすればよいわけではない。


 長い時間を経たものには、その状態に合った扱い方があるのだと、姉の説明を聞いて少し理解できた。


 美月は裁縫箱から茶色に近い糸を選び、ひよりへ見せた。


「この色なら目立ちにくいと思う。縫い目が内側に入るようにして、少しずつ閉じていこうね」


「うん。お姉ちゃん、こういうの上手だよね」


「慣れてるだけだよ。ひよりだって、ゆっくりやればできると思う」


 美月は針に糸を通し、最初の数針を自分で縫って見せた。


 針を入れる位置や、糸を引く強さを説明しながら進めていく。ひよりは隣から覗き込み、針先が布の端を行き来する様子を真剣に見つめていた。


「ここまでやったら、ひよりもやってみる?」


「……うん。ちょっと緊張するけど」


「急がなくていいよ。縫い目が少しくらい不揃いでも、腕がちゃんとつながれば大丈夫だから」


 ひよりは針を受け取り、ぬいぐるみを膝の上へ置いた。


 左手で布を支え、右手で針を動かす。


 最初の一針は、思っていたより難しかった。


 布が柔らかいため、針を入れようとすると少し沈み込み、狙った位置からずれてしまう。


「あっ……」


 ひよりが小さく声を漏らすと、美月がすぐに手元を覗いた。


「大丈夫。まだ糸を引いてないから、位置を直せるよ。ほら、こっちの布を少しだけ支えてみて」


「こう?」


「そうそう。いい感じ」


 美月に教わりながら、ひよりはゆっくり針を進めた。


 一針縫うたびに、開いていた布の隙間が少しずつ閉じていく。


 急げばもっと早く終わるのかもしれないが、ひよりは糸を引く強さを確かめながら慎重に作業した。


 しばらくすると、姉が隣で微笑んだ。


「ひより、ずいぶん真剣だね」


「だって、失敗したくないんだもん」


「ふふ。昔からそういうところ、変わらないね」


 美月の言葉に、ひよりは顔を上げた。


「昔から?」


「うん。小さいころも、この子のリボンが曲がってると、ちゃんと直してあげようとしてたよ。まだ自分じゃ上手に結べないのに、何回も挑戦してた」


 ひよりは驚いて、膝の上のぬいぐるみを見た。


「そんなことまでしてたの?」


「してたよ。結局、お母さんに手伝ってもらってたけどね」


 美月は懐かしそうに笑った。


 ひよりはその話を聞き、少しだけ頬を緩めた。


 昨日の写真整理から、知らなかった自分の話をいくつも聞いている。


 それは不思議な感覚だった。


 今の自分とは違う、幼いころの自分。


 けれど、姉が話してくれる姿には、どこか今と変わらない部分もあるらしい。


(……お姉ちゃんは、ずっと前から私のことを見てくれてたんだね)


 ひよりは針を持ち直し、残りの縫い目へ目を向けた。


 作業を続けているうちに、開いていた部分はほとんど閉じた。


 最後の糸の始末は美月が引き受け、縫い目がほどけないように丁寧に仕上げてくれた。


「はい、これで大丈夫だと思う。腕を強く引っ張ったりしなければ、普通に飾っておけるよ」


 美月がぬいぐるみを差し出すと、ひよりは両手で受け取った。


 右腕の付け根には小さな縫い目が残っているが、白い綿はもう見えない。


 ひよりはその部分を指先でそっとなぞり、嬉しそうに笑った。


「……直った。ありがとう、お姉ちゃん!」


「どういたしまして。ひよりも頑張ったね」


 美月はそう言ってから、少しだけ表情を柔らかくした。


「昔は私が直してあげるだけだったけど、今日はひよりも一緒にできたね」


 ひよりはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。


 ぬいぐるみが直ったことも嬉しい。


 けれど、姉と一緒に直したという新しい思い出ができたことは、それ以上に嬉しかった。


     ◇


 昼食の席では、修理を終えたぬいぐるみが話題になった。


 ひよりが腕の縫い目を直したことを報告すると、由美は嬉しそうに頷き、浩介も懐かしそうに笑った。


「そうか。あれ、まだ残ってたんだな。ひよりが小さいころ、本当にいつも抱えてたよな」


「お父さんも覚えてるの?」


「もちろん。出かけるときも持っていこうとして、お母さんに止められてたことがあったぞ」


 浩介が笑いながら話すと、ひよりは驚いて箸を止めた。


「えっ、外にも持っていこうとしてたの?」


「そうだよ。雨の日だったかな。濡れちゃうから置いていこうって言っても、なかなか納得してくれなくてね」


 由美が懐かしそうに続ける。


「結局、帰ってきたら一緒に遊ぼうって約束したら、ようやく置いていってくれたのよ」


 ひよりは少し恥ずかしくなり、俯いた。


「……私、そんなに離したくなかったんだ」


「大切だったんでしょうね。小さい子にとっては、ぬいぐるみも家族みたいなものだから」


 由美は穏やかな声で言った。


 ひよりはその言葉を聞き、ふとノアのことを思い出した。


 もちろん、ノアは生きている犬で、ぬいぐるみとは違う。


 けれど、大切な存在と一緒にいると安心する気持ちは、少し似ているのかもしれない。


 ノアと初めて出会った日のことも、ひよりには忘れられない思い出になっている。


 あの日、黒い犬が自分の前に現れなかったら、真樹と知り合うこともなかったのだろう。


 ひよりはそんなことを考えながら、味噌汁の椀を手に取った。


「そういえば、ひより。そのぬいぐるみ、今度はどこに置くの?」


 悠一が尋ねた。


「自分の部屋に飾ろうかなって思ってる。せっかく見つかったし、また箱にしまうのはちょっと寂しいから」


「いいんじゃないか。昔みたいに一緒に寝てもいいんだぞ?」


 悠一がからかうように言うと、ひよりは頬を膨らませた。


「もう、子どもじゃないんだから!」


「いや、別に大人でもぬいぐるみと寝る人はいるだろ」


「そういう意味じゃなくて……!」


 ひよりが言い返そうとすると、美月が笑いながら間に入った。


「お兄ちゃん、あんまりからかわないの。ひよりが大事にしたいって思ってるんだから、それでいいじゃない」


「分かってるって。俺だって、別に悪いことだとは思ってないよ」


 悠一は笑いながら答えた。


 ひよりは少しだけ口を尖らせていたが、やがて自分も笑ってしまった。


 家族と一緒に食べる昼食は、いつもと大きく変わらない。


 それでも、今日は昔の自分を知る話が増えたせいか、普段より少し賑やかに感じられた。


     ◇


 午後、北条真樹はノアを連れて庭へ出ていた。


 午前中に短い散歩を済ませていたため、今は外で少し遊ばせているところだった。冬の空気は冷たいものの、雲の間から時折日差しが差し込み、芝生の上には柔らかな光が落ちている。


 ノアは庭の端に置かれた玩具を鼻先で押し、しばらく転がしてから真樹のほうへ顔を向けた。


「持ってこいってことか?」


 真樹が尋ねると、ノアは尻尾を揺らした。


 真樹は笑いながら玩具を拾い、少し離れた場所へ投げた。


 ノアは勢いよく走り出し、玩具をくわえて戻ってくる。


 ただし、真樹の手元まで運んできたところで、すぐには離そうとしない。


「……おい。持ってきたなら渡してくれないと、次は投げられないだろ」


 真樹がしゃがんで声を掛けると、ノアは玩具をくわえたまま、楽しそうに尻尾を振った。


 どうやら、引っ張り合いをしたいらしい。


 真樹は苦笑しながら玩具の端を軽く持ち、ノアの様子を見ながら少しだけ引いた。


 ノアは嬉しそうに踏ん張るが、真樹が手を離すと、今度は不思議そうに顔を上げる。


「今日はずいぶん元気だな。昨日はあんなに大人しかったのに」


 真樹はノアの頭を撫で、庭の椅子へ腰を下ろした。


 ノアはしばらく玩具で遊んでいたが、やがて真樹の足元へ戻ってきた。


 大きな身体を横たえ、満足そうに息を吐く。


 真樹はその様子を眺めながら、昨夜ひよりと交わしたメッセージを思い出した。


 幼いころのぬいぐるみの話。


 家族の写真の話。


 そして、『雨上がりの手紙』についての感想。


 ひよりは、自分が大切にしているものを少しずつ教えてくれる。


 真樹にとって、それは嬉しいことだった。


(……天野が小さいころに大切にしてたぬいぐるみか。どんなものだったんだろう)


 真樹は足元のノアを見下ろした。


 ノアにも、子犬のころから気に入っている玩具がある。


 今ではすっかり身体が大きくなったため、昔使っていた小さな玩具では遊べないものも多いが、長く使っているものを見ると、真樹も子犬のころの姿を思い出すことがある。


「お前も、小さいころからずいぶん変わったよな」


 真樹が話しかけると、ノアは片耳を動かした。


「昔は抱き上げても平気だったのに、今じゃ簡単には持ち上げられないし」


 真樹はそう言って笑った。


 ノアは言葉の意味を理解しているのかいないのか、真樹の膝へ鼻先を寄せてくる。


 その仕草が子犬のころとあまり変わっていないことに気づき、真樹は少しだけ目を細めた。


 姿が変わっても、変わらないものはある。


 真樹はノアの首元を優しく撫でながら、ひよりが昔の写真を見て感じたことを、少しだけ想像した。


 やがて庭を吹き抜ける風が冷たくなり、真樹は立ち上がった。


「そろそろ中に入ろうか。お前も水を飲みたいだろ」


 ノアはゆっくり身体を起こし、真樹のあとをついて歩き始めた。


     ◇


 ひよりが真樹へメッセージを送ったのは、午後三時を少し過ぎたころだった。


 昼食のあとに自室を片づけ、修理したぬいぐるみを本棚の空いた場所へ座らせていたひよりは、ふと昨夜のやり取りを思い出した。


 真樹は、幼いころに大切にしていたぬいぐるみの話を楽しそうに聞いてくれた。


 そのぬいぐるみが今日見つかったことを伝えたら、きっと驚くだろう。


 ひよりはスマートフォンを手に取り、文章を入力した。


『北条君、こんにちは。昨日話してたぬいぐるみ、今日見つかったんだよ!』


 送信してから、ひよりは本棚へ目を向けた。


 ぬいぐるみは少し斜めに座っているが、修理した腕も自然な位置に収まっている。


 ひよりはその姿を見て微笑み、もう一通メッセージを送った。


『ずっとしまってあったみたいで、腕のところが少しほつれてたの。でも、お姉ちゃんと一緒に直せたんだ』


 真樹から返事が届いたのは、数分後だった。


『本当? 昨日ちょうど話してたから、見つかってよかったね』


『修理もできたなら安心だ』


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


『うん! 今は私の部屋に飾ってるよ』


『よかったら写真送ってもいい?』


 真樹はそのメッセージを読み、少しだけ驚いた。


 ひよりが幼いころから大切にしていたものを、自分にも見せてくれる。


 それが何だか嬉しかった。


『もちろん。見てみたい』


 返事を受け取ったひよりは、ぬいぐるみを本棚から下ろし、窓際の机へ移動した。


 背景に余計なものが写らないようにノートを少し片づけ、ぬいぐるみを座らせる。何度か角度を変えてみたものの、片方の耳が倒れているせいで、どこから撮っても少し首を傾げているように見えた。


(……これも、この子らしいのかな)


 ひよりは小さく笑い、自然な姿のまま写真を撮った。


 画面を確かめてから、真樹へ送信する。


『この子だよ。昔はもっと大きいと思ってたんだけど、今見ると意外と小さくてびっくりしたの』


 真樹は届いた写真を開いた。


 そこには、少しくたびれた茶色のぬいぐるみが座っている。


 片方の耳は斜めに倒れ、腕の付け根には小さな縫い目が見えた。


 新品のぬいぐるみのような華やかさはない。


 けれど、長い時間を大切にされてきたことが伝わるような、柔らかな表情をしていた。


 真樹は思わず微笑んだ。


『可愛いね。大切にしてたのが分かる気がする』


『腕のところも、きれいに直ってるね』


 ひよりはその返事を読み、嬉しそうに笑った。


『ありがとう! お姉ちゃんが教えてくれたから、私も少し縫えたんだ』


『最初は難しかったけど、ちゃんと直せて嬉しかったよ』


 真樹はその文章を読み、ひよりが真剣な表情で針を動かしている姿を想像した。


 書店で本を選んでいたときも、ひよりは一冊ずつ丁寧に扱っていた。


 大切なぬいぐるみを自分の手で直そうとしたという話は、真樹が知っているひよりの姿と自然につながっている。


『天野が自分で直したなら、前よりもっと大切なものになったんじゃない?』


 ひよりはその言葉に、少しだけ目を瞬かせた。


 修理する前も、大切なぬいぐるみだった。


 けれど、今は姉と一緒に縫い直した時間まで、そのぬいぐるみに結びついている。


 ひよりは本棚へ視線を向けた。


(……そうかもしれない。昔の思い出だけじゃなくて、今日のことも残ったんだ)


 ひよりはゆっくり返信した。


『うん。お姉ちゃんと一緒に直したことも、きっと忘れないと思う』


『昔の思い出があるものに、新しい思い出が増えるのって不思議だね』


 真樹はその文章を読み、しばらく考えた。


 古いものには、過去の時間が残っている。


 けれど、それを今も大切にすることで、新しい時間も重なっていく。


 真樹は歴史の本を読むとき、昔の建物や道具がどのように使われてきたのかを考えることがある。


 ひよりのぬいぐるみも、規模は違うが、長い時間を経て今へつながっているものなのだろう。


『本当にそうだね』


『昔のものを大切にするって、ただ残しておくことだけじゃないのかもしれない』


 ひよりはその返事を読み、少しだけ考えた。


 昨日の写真整理では、古いものを見つけるたびに家族の思い出話が始まった。


 今日のぬいぐるみも、ただ箱から取り出しただけなら、懐かしいと思って終わっていたかもしれない。


 けれど、姉と一緒に直したことで、これからも大切にしたいと思えるようになった。


『北条君の言うこと、何だか分かる気がする』


『この子、これからも大切にしようと思う』


 真樹はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。


『うん。きっと喜んでると思うよ』


 ひよりはその返事を見て、思わず笑ってしまった。


『ふふ、そうだったら嬉しいな』


 画面の向こうで真樹も笑っているような気がして、ひよりは少しだけ頬を緩めた。


     ◇


 やり取りがひと段落したころ、真樹は足元で眠っているノアへ目を向けた。


 ひよりが送ってくれたぬいぐるみの写真を見ているうちに、ノアが子犬だったころの写真も久しぶりに見たくなっていた。


 真樹はスマートフォンの写真を遡り、数年前の画像を探し始めた。


 今よりずっと小さなノアが、庭の芝生の上に座っている写真。


 まだ耳の形も幼く、真樹の靴より少し大きいくらいの玩具を抱えている写真。


 散歩に慣れていなかったころ、玄関の前で不思議そうに首を傾げている写真。


 真樹は懐かしさに目を細めた。


(……こんなに小さかったんだな)


 今のノアは、立ち上がればかなりの存在感がある。


 それでも、写真の中のノアも今のノアも、同じように真樹を見上げている。


 真樹は一枚の写真を選び、ひよりへ送ることにした。


『そういえば、ノアの子犬のころの写真を見つけたんだ』


『今とはずいぶん違うけど、見てみる?』


 ひよりからは、すぐに返事が届いた。


『見たい! 絶対可愛いと思う!』


 真樹は笑いながら写真を送信した。


 そこには、庭の芝生の上で小さな玩具を前足に挟み、こちらを見上げている黒い子犬が写っている。


 ひよりは写真を開いた瞬間、思わず声を上げた。


「……か、可愛い!」


 あまりに自然に声が出てしまったため、ひよりは慌てて口元を押さえた。


 けれど、写真から目を離すことはできなかった。


 今のノアも十分可愛い。


 大きな身体で甘えてくるところも、優しい目で見上げてくるところも、ひよりは大好きだ。


 それでも、子犬のころのノアには、また違った可愛らしさがあった。


 ひよりはすぐに返信した。


『北条君!! ノア、すっごく可愛い!!』


『こんなに小さかったんだね! 今のノアも大好きだけど、子犬のころも可愛すぎるよ!』


 真樹はその勢いのある文章を読み、思わず声を出して笑った。


 普段のひよりは穏やかで、メッセージでも丁寧に言葉を選ぶことが多い。


 けれど、ノアのことになると、ときどきこうして感情がそのまま伝わってくる。


『そんなに喜んでもらえるなら、送ってよかった』


『今のノアに見せたら、どう思うんだろうね』


 ひよりはその返事を読み、笑いながら画面を見つめた。


『自分だって分かるのかな?』


『今度会ったときに、写真を見せてみたいな』


 真樹はその文章を読み、少しだけ考えた。


 ひよりは以前から、またノアに会いたいと言ってくれている。


 昨日も、夕暮れの公園の写真を見て、いつか一緒に歩きたいと話していた。


 真樹自身も、ひよりとノアと一緒に散歩する時間を楽しみにしている。


 ただ、学校や家族の予定もあるため、まだ具体的な日程は決めていなかった。


(……そろそろ、ちゃんと予定を聞いてみてもいいかもしれないな)


 真樹はスマートフォンを持ち直し、文章を入力した。


『そうだね。今度ノアと会うときに見せてみようか』


『前に話してた公園の散歩も、天野の都合がいい日に行けたらと思ってる』


 ひよりはそのメッセージを読み、胸が少し弾むのを感じた。


 夕暮れの公園。


 落ち葉の積もった道。


 その中をノアと一緒に歩く時間。


 想像するだけで、何だか楽しそうだった。


『うん! 私も行きたいな』


『来週の予定、学校のことも確認してみるね』


 真樹はその返事を読み、穏やかに頷いた。


『分かった。俺も予定を確認しておくよ』


『無理に急がなくていいからね』


 ひよりはその言葉に、自然と笑みを浮かべた。


 真樹はいつも、こうして自分の都合を大切にしてくれる。


 約束を楽しみにしてくれていることも伝わるのに、急がせたり、返事を求めたりはしない。


 ひよりはその優しさを、以前より自然に受け取れるようになっていた。


『ありがとう、北条君』


『また予定が分かったら連絡するね』


 真樹からは、すぐに返事が届いた。


『うん。楽しみにしてる』


 ひよりはその文章を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。


     ◇


 夕方になると、ひよりは修理したぬいぐるみを本棚の一角へ飾り直した。


 その隣には、先週真樹と訪れた書店で買った短編集が置かれている。


 まだ最後まで読み終えていないため、千夏へ貸す約束も残っていた。


 ひよりは本を手に取り、しおりの位置を確かめた。


 古い町を舞台にした物語は、読み進めるたびに違う人物の暮らしが見えてくる。


 今日はぬいぐるみの修理に時間を使ったため、あまり読書は進まなかった。


 けれど、ひよりはそれを残念だとは思わなかった。


 今日は今日で、楽しいことがあったからだ。


 ひよりは水色のノートを開き、今日の出来事を書き留めることにした。


 まず、ぬいぐるみが見つかったこと。


 姉と一緒に腕のほつれを直したこと。


 そして、真樹が子犬のころのノアの写真を送ってくれたこと。


 ひよりは一つずつ文章にしながら、自然と頬を緩めた。


『昔から大切だったものに、今日の思い出が増えた。』


 その一文を書いたあと、ひよりは少しだけペンを止めた。


 今日のぬいぐるみは、長い間しまわれていたものだった。


 昨日までは、どこにあるのかも分からなかった。


 それなのに、今は自分の部屋に座っている。


 ひよりはその姿を眺めながら、幼いころの自分がどんな気持ちで抱き締めていたのかを想像した。


(……あのころの私は、この子と一緒にいると安心したんだろうな)


 今の自分にも、安心できる場所や時間がある。


 家族と過ごす食卓。


 千夏と話す学校の教室。


 玲奈とお茶を飲んだ喫茶店。


 そして、真樹やノアと一緒に過ごす時間。


 ひよりはそのことを思い浮かべながら、ペンを置いた。


 安心できるものは、年齢とともに少しずつ変わっていくのかもしれない。


 けれど、大切なものを見つけたときの嬉しさは、昔も今も変わらないように思えた。


 そのとき、部屋の扉が軽く叩かれた。


「ひより、ちょっといい?」


 美月の声だった。


「うん、どうぞ」


 ひよりが返事をすると、美月が小さな布袋を手に入ってきた。


「さっき、お母さんと残りの箱を確認してたら、こんなのが出てきたんだけど」


 美月は袋を開き、中から細い布製のリボンを取り出した。


 淡い黄色のリボンで、少し色あせているものの、形はきれいに残っている。


 ひよりはそれを見て、目を瞬かせた。


「これ……?」


「昔、そのぬいぐるみにつけてたリボンだと思う。写真にも写ってたから、たぶん間違いないよ」


 美月がそう言うと、ひよりは昨日の写真を思い出した。


 確かに、幼い自分が抱えていたぬいぐるみの首元には、小さなリボンが結ばれていた。


 今日見つけたときには何もついていなかったため、すっかり忘れていた。


「わあ……これも残ってたんだ」


 ひよりが嬉しそうに受け取ると、美月は微笑んだ。


「古いものだから、無理に結び直さなくてもいいと思うけど、どうする?」


 ひよりはリボンを指先で広げた。


 布は少し柔らかくなっていて、何度も結び直すと傷んでしまいそうだった。


 ひよりはしばらく考えてから、ぬいぐるみの隣へそっと置いた。


「今日はこのままにしておく。せっかく残ってたから、大事にしたいし」


「うん。それがいいかもね」


 美月は頷き、ひよりの隣へ腰を下ろした。


 二人はしばらく、ぬいぐるみとリボンを眺めていた。


 やがて美月が、少し懐かしそうに口を開いた。


「そういえば、ひより。この子に名前をつけてたの、覚えてる?」


 ひよりは驚いて姉を見た。


「えっ、名前があったの?」


「うん。確か、ひよりが自分でつけたんだよ」


 美月はそう言ってから、少し考え込んだ。


「でも、ごめん。何て名前だったか、私もすぐには思い出せないな。お母さんなら覚えてるかもしれないけど」


 ひよりはぬいぐるみへ視線を戻した。


 名前。


 幼いころの自分が、この子にどんな名前をつけていたのだろう。


 今まで思い出せなかったことが、また一つ増えた。


 けれど、ひよりは不思議と寂しくなかった。


 昨日から、家族に聞けば知らなかった思い出をいくつも教えてもらえることを知ったからだ。


「……あとで、お母さんに聞いてみようかな」


「そうだね。思い出せるといいね」


 美月はそう言って微笑んだ。


 ひよりも頷き、ぬいぐるみの顔をそっと見つめた。


 小さな耳。


 丸い鼻。


 少し斜めになった腕。


 長い時間を経て、ようやく自分の部屋へ戻ってきた存在。


 ひよりはその姿を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。


     ◇


 夜、真樹は自室で翌週の予定を確認していた。


 学校の課題や家の用事を書き込んだ手帳を開き、空いている時間を確かめる。


 ひよりとノアの散歩へ行く日程は、まだ決まっていない。


 けれど、互いに予定を確認してみようという話ができたことが、真樹には嬉しかった。


 机の足元では、ノアがいつものように横になっている。


 真樹は手帳を閉じ、ノアへ目を向けた。


「天野が、またお前に会いたいってさ」


 ノアは声に反応して顔を上げた。


 真樹は笑いながら、その頭を撫でた。


「子犬のころの写真を見せたら、すごく喜んでたぞ。今のお前も好きだって」


 ノアは尻尾をゆっくり動かし、真樹の手へ鼻先を寄せてきた。


 真樹はその仕草を見ながら、今日ひよりから送られてきたぬいぐるみの写真を思い出した。


 古くなっても、大切にされているもの。


 傷んだところを直して、これからも一緒にいたいと思えるもの。


 真樹はその写真から、ひよりの優しさを改めて感じていた。


(……天野は、昔からそういうところがあったんだな)


 ひよりが幼いころにどんな子どもだったのか、真樹はまだほとんど知らない。


 それでも、今日聞いた話から、少しだけ想像できるようになった。


 真樹は机の上のスマートフォンを手に取り、ひよりとのメッセージ画面を開いた。


 最後に送ったのは、散歩の予定についての返事だった。


 そのあと、ひよりからは可愛らしい犬の足跡の絵文字が届いている。


 真樹はその画面を見つめ、自然と微笑んだ。


 ひよりとの関係は、まだ友人同士だ。


 自分の気持ちを伝える日は、今ではないと思っている。


 けれど、こうして何でもない日常を共有できることが、真樹には嬉しかった。


 彼女が大切にしているものを知り、自分の大切なものも見せられる。


 その時間を、これからも少しずつ増やしていきたい。


 真樹はスマートフォンを置き、ノアの背中を優しく撫でた。


「……次に会うときも、ちゃんと仲良くしてくれよ」


 ノアは目を細め、気持ちよさそうに息を吐いた。


 真樹はその反応に笑い、部屋の灯りを少し落とした。


     ◇


 ひよりが眠る準備を始めたころ、由美が部屋の扉を叩いた。


「ひより、まだ起きてる?」


「うん。どうしたの?」


 扉を開けると、由美は小さなアルバムを手にしていた。


「美月から聞いたんだけど、ぬいぐるみの名前を思い出したいんですって?」


 ひよりは驚いて頷いた。


「うん。お母さん、覚えてるの?」


「たぶんね。これを見たら、ひよりも思い出すかもしれないと思って」


 由美はアルバムを開き、一枚の写真を指さした。


 そこには、幼いひよりがぬいぐるみを抱え、小さな紙を掲げている姿が写っていた。


 紙には、子どもの字で名前らしいものが書かれている。


 ひよりは写真へ顔を近づけた。


 文字は少し曲がっていて、ところどころ線が重なっている。


 けれど、何度か見つめているうちに、ひよりはようやく読むことができた。


「……くるみ?」


 由美は嬉しそうに微笑んだ。


「そう。『くるみ』って名前だったのよ」


 ひよりは思わず、机の上のぬいぐるみを振り返った。


「くるみ……」


 声に出してみると、どこか懐かしい響きがした。


 はっきりとした記憶が戻ってきたわけではない。


 それでも、幼いころの自分がその名前を呼んでいた光景を、少しだけ想像できた。


「どうして、くるみって名前にしたの?」


 ひよりが尋ねると、由美は少し考えた。


「確か、丸いお鼻がくるみみたいだからって言ってたと思うわ。小さいころのひよりは、そういうところをよく見ていたのよ」


 ひよりはぬいぐるみの鼻へ目を向けた。


 確かに、丸くて少し茶色い。


 言われてみれば、くるみに似ているような気もする。


 ひよりは思わず笑ってしまった。


「……そっか。くるみって名前だったんだね」


 由美はその様子を見ながら、優しく微笑んだ。


「名前も思い出せてよかったわね。今日は美月と一緒に直したんでしょう?」


「うん。お姉ちゃんが教えてくれたの。ちょっと難しかったけど、ちゃんと直せたよ」


「そう。ひよりも大きくなったわね」


 由美は穏やかに言った。


 ひよりは少し照れながら、ぬいぐるみを見つめた。


 昔は自分でリボンを結ぶこともできず、母や姉に手伝ってもらっていた。


 今は、姉に教わりながらではあるが、自分の手で縫い直すことができた。


 その変化が、ひよりには少し嬉しかった。


「お母さん、写真を見せてくれてありがとう」


「どういたしまして。ほかにも昔の写真があるから、また時間があるときに一緒に見ましょうね」


 由美はそう言ってアルバムを閉じ、部屋を出ていった。


 ひよりは扉を閉めると、机の上のぬいぐるみへ近づいた。


 丸い耳をそっと整え、名前を呼んでみる。


「……くるみ。久しぶりだね」


 もちろん、ぬいぐるみから返事はない。


 けれど、ひよりはその顔を見つめながら、自然と微笑んでいた。


 昨日までは、どこにあるのかも分からなかった。


 今日、見つけて、直して、名前まで思い出した。


 長い間忘れかけていたものが、少しずつ自分の生活へ戻ってきたように感じられた。


 ひよりはくるみを本棚へ座らせ、その隣に淡い黄色のリボンを丁寧に置いた。


 それから水色のノートを開き、今日最後の文章を書き足した。


『忘れていた名前を、もう一度呼べるようになった。』


 ひよりはその文字をしばらく見つめた。


 今日のことは、きっと忘れない。


 姉と一緒に針を動かした時間も、家族から昔の話を聞いたことも、真樹が子犬のころのノアの写真を送ってくれたことも。


 どれも特別な事件ではなかった。


 けれど、ひよりにとっては大切な一日だった。


 ノートを閉じたあと、ひよりはスマートフォンを手に取った。


 真樹へ、くるみの名前が分かったことを伝えようかと少し考える。


 けれど、時計はもう遅い時間を示していた。


 明日も学校がある。


 真樹も、そろそろ休むころかもしれない。


(……明日、話そうかな。きっと聞いてくれるよね)


 ひよりはスマートフォンを机へ戻し、部屋の灯りを消した。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 ひよりは布団へ入り、枕元から見える本棚へ目を向けた。


 薄暗い部屋の中で、くるみが静かに座っている。


 幼いころの自分が大切にしていたもの。


 そして、今の自分がもう一度大切にしたいと思ったもの。


 ひよりは小さく微笑み、目を閉じた。


 明日は月曜日。


 学校では千夏と話せるし、海斗とも本の話をする機会があるかもしれない。


 真樹には、くるみの名前が分かったことを伝えたい。


 ノアとの散歩の日程も、少しずつ考えていけたらいい。


 そんな楽しみを胸に、ひよりはゆっくり眠りへ落ちていった。

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