第60話 何でもない土曜日に、君へ伝えたくなったこと
土曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の向こうには気持ちのよい青空が広がっていた。
昨夜は冷え込んでいたため、窓ガラスの端にはうっすらと結露が残っている。それでも、カーテンの隙間から差し込む朝日は明るく、学校へ行く日のように慌てて起きなくてもよいことが、ひよりには少し嬉しかった。
枕元の時計を確かめると、時刻は八時を少し過ぎたところだった。
いつもの休日なら、もう少し布団の中で過ごしていたかもしれない。けれど、今日は昨日学校の図書室で借りた本を読みたいと思っていたため、ひよりは思い切って身体を起こした。
(昨日は結局、北条君に薦めてもらった本を読んでたから、新しく借りたほうはまだ開いてないんだよね)
机の上には、二冊の本が並んでいる。
一冊は、先週の土曜日に真樹と訪れた書店で買った、古い町を舞台にした短編集。もう一冊は、昨日学校の図書室で借りた、商店街を舞台にした連作短編集だった。
どちらも町の暮らしや人々の思い出を描いた物語だが、表紙の雰囲気は少し違っている。
真樹から薦められた本には、長い年月を重ねてきた町並みが描かれていた。一方、昨日借りた本の表紙には、夕暮れの商店街を歩く人々の姿があり、どこか身近な温かさが感じられる。
ひよりは二冊を見比べてから、机の端に置いた水色のノートを開いた。
昨日書き足した文章が目に入る。
『誰かが好きな景色を見せてくれると、その人の毎日を少し知れた気がする。』
その言葉を見た途端、昨夜真樹から送られてきた写真を思い出した。
夕暮れの公園。
淡い橙色に染まった空。
その手前に座る、大きな黒犬のノア。
ひよりは思わず頬を緩めた。
(ノア、可愛かったなあ。あの公園も、すごくきれいだった)
真樹は、またノアと散歩するときに寄ってみないかと誘ってくれた。
具体的な日程はまだ決まっていないが、ひよりはその約束を楽しみにしている。
真樹が普段歩いている場所を、自分も見てみたい。
その気持ちは、特別な理由を考えるまでもなく自然に生まれたものだった。
ひよりはノートを閉じ、カーディガンを羽織った。
まずは朝食を食べて、それから本を読もう。
そう決めて階段を下りると、台所から母の由美が食器を並べる音が聞こえてきた。
「おはよう、お母さん」
「あら、ひより。おはよう。今日は早いのね」
「うん。読みたい本があるから、ちょっと早く起きちゃった」
ひよりが答えると、由美は笑いながら食卓を指した。
「それなら、先に朝ご飯を食べちゃいなさい。今日はお父さんもお休みだから、あとで少し片づけをする予定なの」
「片づけ?」
「ええ。居間の棚に、昔の写真や書類を入れた箱があるでしょう? あれを整理しようと思って」
ひよりは少し考えた。
居間の奥にある収納棚には、家族の写真や昔の学校行事の記録などが入っている。
小さいころに見せてもらったことはあるが、最近はほとんど開けていなかった。
「私も手伝おうか?」
「いいの? お休みなんだから、無理しなくてもいいのよ」
「大丈夫。午前中に少し本を読んで、午後から手伝うね」
ひよりがそう言うと、由美は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、午後はお願いしようかしら」
ひよりは頷き、朝食の席へ向かった。
◇
朝食を終えたひよりは、自室へ戻って机に向かった。
窓から差し込む光は柔らかく、部屋の中には休日らしい静けさがある。階下からは父の浩介と由美が話す声が聞こえてくるが、それも遠くの生活音として心地よく感じられた。
ひよりは昨日借りた本を手に取り、最初のページを開いた。
物語の舞台は、駅から少し離れた場所にある古い商店街だった。
大きな店が並ぶ繁華街とは違い、昔から暮らしている人々が互いの顔を知っているような、小さな通り。
主人公は、その商店街にある文房具店で働く若い女性だった。
店には学生や近所の住人が訪れ、ときには何も買わずに世間話だけをして帰る人もいる。主人公は最初、そうした時間を少し不思議に思っていたが、働くうちに店が商品を売るだけの場所ではないことに気づいていく。
ひよりはページをめくりながら、静かに物語へ引き込まれていった。
最初の話では、年配の男性が古い万年筆の替えインクを探しに来る。
その万年筆は、亡くなった妻から若いころに贈られたものだった。
男性は新しい筆記具を買うこともできたが、長年使い続けた万年筆を手放したくなかった。
主人公は最初、その理由を詳しく知らないまま商品を探していた。
けれど、何度か店を訪れる男性と話すうちに、万年筆には大切な思い出があることを知る。
ひよりはその場面を読み、少しだけ胸が温かくなった。
(……物って、使う人によって大切さが違うんだよね)
同じ万年筆でも、ただの古い筆記具だと思う人もいれば、かけがえのない思い出が詰まったものだと思う人もいる。
ひよりは自分の机を見渡した。
そこには、いつも使っているペンケースや、学校で使うノート、以前千夏と一緒に選んだ小さな文房具が並んでいる。
どれも特別に高価なものではない。
けれど、買ったときのことや、誰かと一緒に選んだ時間を思い出すものもある。
ひよりは水色のノートへ視線を向けた。
このノートも、千夏と出かけた日に買ったものだった。
今では、読んだ本の感想だけでなく、その日に感じたことを書き留める大切な場所になっている。
(私も、いつかこのノートを見返したら、今のことを思い出すのかな)
ひよりは少しだけ微笑み、続きを読み始めた。
物語の終盤、主人公はようやく替えインクを見つける。
男性は大げさに喜ぶわけではなかったが、万年筆を手にしたとき、長い時間をかけて大切にしてきたものを確かめるように微笑んだ。
その描写が、ひよりには印象的だった。
読み終えたあと、ひよりは本を閉じず、しばらく余韻を味わった。
誰かにとって大切なものを、別の誰かが理解しようとする。
それは、最近読んでいる真樹の短編集にも通じるところがあるように感じられた。
ひよりはしおりを挟み、水色のノートを開いた。
『同じものでも、大切にしている理由は人によって違う。理由を知ると、そのものまで違って見えることがある。』
そう書き終えたところで、階下から悠一の声が聞こえてきた。
「ひよりー! 昼飯、もう少しでできるって!」
ひよりは時計を見て驚いた。
読み始めたときにはまだ午前中だったのに、いつの間にか昼近くになっている。
「はーい! 今行く!」
ひよりは返事をし、本を閉じた。
階段を下りながら、午後の片づけでどんな写真が出てくるのだろうと考えた。
◇
同じころ、北条真樹は自室で『雨上がりの手紙』を読んでいた。
窓の外には青空が広がり、庭ではノアがゆっくりと歩いている。
真樹は午前中にノアの散歩を済ませ、昼食までの時間を使って本の続きを読んでいた。
ひよりから薦められたこの本は、最初に思っていた以上に静かな物語だった。
大きな事件が次々に起こるわけではない。
登場人物たちは、普段の生活を送りながら、過去に伝えられなかった言葉や、相手へ向けていた気持ちを少しずつ見つめ直していく。
真樹はそうした描写を読むうちに、何度もページを戻していた。
特に印象に残ったのは、手紙を受け取った人物が、送り手の気持ちをすべて理解できたわけではないと認める場面だった。
相手を大切に思っているからといって、その人の考えを何もかも分かるわけではない。
それでも、分からないことを理由に距離を置くのではなく、知ろうとすることはできる。
真樹はその文章を読み、しばらく考え込んだ。
(……天野は、この場面をどう読んだんだろう)
ひよりは、この物語が好きだと言っていた。
書店で薦めてくれたときも、登場人物の気持ちを丁寧に話していた。
真樹はその表情を思い出し、少しだけ頬を緩めた。
ひよりは、相手の気持ちを大切にする人だ。
だからこそ、自分の言葉が相手へどう届くのかを考えすぎてしまうこともあるのかもしれない。
真樹は本へ視線を戻した。
物語の最後では、登場人物たちがすべての問題を解決するわけではなかった。
過去の出来事を変えることもできない。
けれど、これからどう向き合うのかを、自分たちで選ぼうとしていた。
真樹は最後のページを読み終え、ゆっくりと本を閉じた。
しばらくの間、何もせずに表紙を眺める。
ひよりがこの本を薦めてくれた理由が、少しだけ分かった気がした。
(……いい本だったな)
真樹は素直にそう思った。
恋愛の物語としてだけでなく、人と人が向き合うことの難しさや、言葉を伝える意味について考えさせられる作品だった。
真樹は机の引き出しから小さなメモ帳を取り出し、印象に残った場面を書き留めた。
歴史の本を読むときには、年代や出来事を記録することが多い。
けれど、今回は登場人物の気持ちについて書いている。
その違いに気づき、真樹は少し笑った。
「……天野の影響かな」
小さく呟いたところで、庭から戻ってきたノアが部屋の入り口に姿を見せた。
真樹が顔を上げると、ノアはゆっくり近づき、足元へ座った。
「お疲れ。散歩もしたし、少し休むか?」
真樹はノアの頭を撫でた。
ノアは気持ちよさそうに目を細め、そのまま敷物の上へ身体を横たえた。
真樹はその様子を見ながら、机の上のスマートフォンへ視線を向けた。
ひよりへ、本を読み終えたことを伝えようか。
そう考えたが、すぐにメッセージを送ることはしなかった。
今日は土曜日だ。
ひよりにも家族との時間や、自分の予定があるだろう。
感想は急いで伝えなくてもいい。
真樹はそう考え、スマートフォンを机へ戻した。
それでも、読み終えたことを話すのが楽しみだった。
◇
午後になると、天野家の居間では収納棚の片づけが始まった。
浩介が棚の奥から段ボール箱を取り出し、由美が中身を確かめながら種類ごとに分けている。
ひよりは床に敷いた布の上へ写真の束を並べ、美月は古いアルバムの表紙を拭いていた。
悠一も手伝っていたが、途中から昔の写真を見つけては笑い出すため、作業はなかなか進まなかった。
「おい、ひより。これ見てみろよ」
悠一が一枚の写真を差し出した。
そこには、小さなひよりが大きなぬいぐるみを抱え、真剣な顔でカメラを見つめている姿が写っていた。
「えっ、何これ!」
ひよりは思わず声を上げた。
写真の中の自分は、今よりずっと幼く、前髪も短い。
抱えているぬいぐるみは身体の半分ほどの大きさがあり、どうしても手放したくないというように、両腕でしっかり抱き締めていた。
「懐かしいなあ。ひより、このぬいぐるみ大好きだったよな」
悠一が笑いながら言うと、ひよりは少し頬を赤くした。
「覚えてないよ、こんな写真!」
「でも、このぬいぐるみは覚えてるだろ?」
「うん。それは覚えてるけど……」
ひよりは写真をもう一度見つめた。
確かに、幼いころによく一緒に寝ていたぬいぐるみだった。
今はどこにしまってあるのか分からないが、柔らかな手触りや、抱き締めたときの安心感は何となく覚えている。
美月も写真を覗き込み、楽しそうに笑った。
「ひより、これを洗濯する日になると大変だったんだよ。乾くまでずっと気にしてたんだから」
「ええっ、そうなの?」
「そうそう。お母さんが洗濯してる間、何回もベランダを見に行ってたの」
美月が説明すると、由美も懐かしそうに頷いた。
「本当にそうだったわね。あのころは、この子がいないとお昼寝できないって言ってたもの」
ひよりは少し恥ずかしくなり、写真を胸元へ引き寄せた。
「もう、みんな覚えすぎだよ……」
その反応に、家族は笑った。
ひよりも最初は恥ずかしかったが、やがて一緒に笑い始めた。
写真には、自分が覚えていない時間が残っている。
けれど、家族はそのときのことを覚えていて、今でも楽しそうに話してくれる。
ひよりはそのことが、少し不思議で嬉しかった。
片づけを続けていると、今度は浩介が古いアルバムを見つけた。
「これは、家族で出かけたときの写真かな」
浩介は表紙を開き、ページをめくった。
そこには、まだ幼いひよりと美月、少し若い悠一が、両親と一緒に公園で過ごしている写真が並んでいた。
ひよりはその中の一枚へ目を止めた。
広い芝生の上で、家族が並んで座っている。
空は青く、遠くには木々が見える。
写真の中のひよりは、何かを指さしながら笑っていた。
「この公園、どこだったっけ?」
ひよりが尋ねると、浩介は少し考えた。
「昔、家族でよく行ってた公園だよ。今はあまり行かなくなったけどね」
「そうなんだ。私、あんまり覚えてないかも」
ひよりは写真を見つめた。
楽しかったことは何となく覚えている。
けれど、何を見て笑っていたのかまでは思い出せなかった。
由美が隣へ来て、写真を覗き込んだ。
「ああ、この日ね。ひよりが池にいた鴨を見つけて、ずっと追いかけようとしてたのよ」
「えっ、そうなの?」
「ええ。でも、近づくと鴨が泳いで離れていくから、なかなか追いつけなくてね」
由美は笑いながら続けた。
「それでも諦めなくて、最後はお父さんに抱っこしてもらって見てたの」
ひよりは驚きながら、写真の中の自分を見つめた。
自分では覚えていない出来事。
けれど、母はそのときの様子をはっきり覚えている。
ひよりはふと、真樹から薦められた短編集の三つ目の物語を思い出した。
同じ時間を過ごしていても、覚えていることは人によって違う。
あの物語を読んだときには、登場人物の気持ちを考えていた。
けれど、今は自分の家族にも同じことがあるのだと感じられた。
(……私が覚えてないことを、お母さんたちは覚えてるんだね)
ひよりは少しだけ微笑んだ。
「お母さん、ほかにも昔のこと聞いていい?」
「もちろんよ。何が知りたいの?」
由美が優しく答えると、ひよりはアルバムを開いたまま、いくつかの写真を指さした。
そのあとは、片づけというより家族の思い出話になった。
悠一が小学生のころに運動会で転んだ話。
美月が初めて自分で作ったお菓子を家族へ振る舞った話。
ひよりが幼稚園で描いた絵を、浩介がしばらく仕事用の机に飾っていた話。
どれも大きな事件ではなかった。
けれど、家族それぞれが違う場面を覚えていて、そのたびに新しい話が出てくる。
ひよりはその時間が楽しかった。
気づけば、最初に予定していた片づけはまだ半分ほどしか終わっていなかった。
「……これ、今日中に終わるかな?」
美月が笑いながら言うと、悠一は肩をすくめた。
「無理じゃないか? 写真が出てくるたびに誰かが止まるし」
「一番止まってるの、お兄ちゃんだよ」
ひよりが言い返すと、悠一は少し困ったように笑った。
「それは否定できないな」
家族の笑い声が、居間に広がった。
◇
夕方、片づけがひと段落すると、ひよりは自室へ戻った。
机の上には、午前中に読んだ本と、水色のノートが置かれている。
ひよりは椅子へ座り、今日の出来事を思い返した。
古い写真。
家族の思い出。
自分が覚えていなかった幼いころの出来事。
それらを聞いているうちに、ひよりは不思議な気持ちになっていた。
同じ家で暮らしていても、家族が何を大切に覚えているのかは違う。
けれど、その違いを知ることで、今まで知らなかった家族の一面に触れられる。
ひよりはノートを開き、今日の感想を書き始めた。
『昔の写真には、自分が覚えていない時間も残っている。誰かが覚えていてくれることも、嬉しいことなのかもしれない。』
書き終えたあと、ひよりは少しだけ考えた。
今日の出来事を、真樹にも話してみたい。
真樹は歴史が好きだ。
昔の町や人々の暮らしについて考えることも好きだと言っていた。
だから、古い写真を見ながら家族の思い出を聞いた話も、面白がってくれるかもしれない。
(……でも、家族の昔話なんて、北条君にはあんまり関係ないかな)
ひよりは一度そう考えた。
けれど、すぐに昨日のメッセージを思い出した。
真樹は、自分が見た夕暮れの景色を写真に撮って送ってくれた。
それは特別な観光地ではなく、普段の散歩道にある公園だった。
それでも、ひよりは嬉しかった。
真樹が自分の毎日の一部を見せてくれたように感じられたからだ。
(……だったら、私も今日のことを話してみてもいいのかな)
ひよりはスマートフォンを手に取った。
メッセージ画面を開くと、昨日の夕暮れの写真が残っている。
ひよりは少しだけ微笑み、文章を入力した。
『北条君、こんばんは。今日は何してた?』
送信してから、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。
返事を待つ間に、午前中に読んだ本の続きを少し読もうと思った。
けれど、ページを開いたところで、スマートフォンが短く震えた。
『こんばんは。今日はノアの散歩をして、あとは本を読んでたよ』
『天野は?』
ひよりは嬉しそうに画面を見つめた。
『私は午前中に本を読んで、午後は家族と昔の写真を整理してたの』
『小さいころの写真がいっぱい出てきて、すごく懐かしかったよ』
真樹からは、少し間を置いて返事が届いた。
『そうなんだ。昔の写真を見るのって面白いよね』
『どんな写真があった?』
ひよりはその質問を読み、少し考えた。
ぬいぐるみを抱えている写真。
公園で鴨を追いかけようとしていた写真。
家族で並んで笑っている写真。
どれも思い出深かったが、真樹へ話すならどれがいいだろう。
ひよりは少し迷ってから、文章を入力した。
『小さいころ、大きなぬいぐるみを抱えてる写真があったの』
『お兄ちゃんたちに、ずっと離さなかったんだよって言われて恥ずかしかった』
真樹はその文章を読み、思わず笑った。
幼いひよりが、大きなぬいぐるみを抱えている姿。
想像すると、何だか微笑ましかった。
『天野らしい気がする』
送信してから、真樹は少しだけ考えた。
ひよりは今でも、大切なものを丁寧に扱う。
書店で本を選ぶときも、表紙を傷つけないように気をつけていた。
ノアと接するときも、いつも優しく声を掛けてくれる。
だから、幼いころにお気に入りのぬいぐるみを大切にしていたという話は、何となく納得できた。
ひよりからは、すぐに返事が届いた。
『ええっ、そうかな?』
『北条君までそう言うの?』
真樹はその文章を読み、少し笑った。
『悪い意味じゃないよ』
『大切なものをちゃんと大切にするところが、天野らしいと思ったんだ』
ひよりはその返事を読み、少しだけ目を瞬かせた。
真樹は、そんなふうに自分を見てくれているのだろうか。
ひよりはスマートフォンを持つ手を少し緩めた。
大切なものを大切にする。
それは、自分ではあまり意識したことのない部分だった。
けれど、真樹にそう言われると、何だか嬉しかった。
『……ありがとう、北条君』
『何だかちょっと照れちゃうね』
真樹はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。
ひよりが喜んでくれたことが嬉しかった。
それから、ひよりは公園で鴨を追いかけようとしていた話も伝えた。
真樹はその話を聞き、少し驚いた。
『天野、そんなに活発だったんだ』
『今の印象と少し違うかも』
ひよりは思わず笑った。
『私も覚えてないんだよね』
『お母さんに聞いてびっくりしたの』
真樹はその返事を読み、少しだけ考えた。
自分が知っているひよりは、穏やかで優しく、少し恥ずかしがり屋なところがある。
けれど、幼いころには鴨を追いかけようとするほど元気な一面もあったらしい。
そのことが、真樹には新鮮だった。
『昔の話を聞くと、知らなかった一面が分かるね』
真樹がそう送ると、ひよりから嬉しそうな返事が届いた。
『うん! 私もそう思った』
『同じ家族でも、覚えてることが違うんだなって』
真樹はその文章を読み、少しだけ目を細めた。
ひよりが最近読んでいる短編集にも、似たような場面があった。
同じ時間を過ごした人たちが、違う思い出を持っている。
その違いを知ることで、相手のことを少し深く理解できる。
真樹はその物語を思い出しながら返信した。
『この前の短編集にも、似た話があったよね』
『天野が好きだって言ってた三つ目の話』
ひよりはその返事を読み、目を輝かせた。
『そうなの! 私も今日、あのお話を思い出したんだ』
『本で読んだことが、自分の生活にもあるんだなって思ったよ』
真樹はその文章を読み、自然に微笑んだ。
ひよりは物語を読むだけでなく、そこから自分の生活へ考えを広げている。
その姿勢が、真樹にはとても魅力的に感じられた。
『天野らしい読み方だと思う』
『そういう感想、俺は好きだよ』
ひよりはその言葉に、少しだけ頬を赤くした。
真樹は時々、こうして自然に嬉しいことを言ってくれる。
大げさに褒めるわけではない。
けれど、自分が大切にしているものを、真樹も大切に受け止めてくれる。
ひよりはそのことが嬉しかった。
『ありがとう。北条君と本の話をするようになってから、前よりいろんなことを考えるようになった気がする』
送信したあと、ひよりは少しだけ考えた。
それは本当の気持ちだった。
以前から本を読むことは好きだった。
けれど、今は読み終えたあとに誰かの感想を聞きたくなる。
自分が感じたことを伝えたくなる。
その変化には、真樹との出会いが大きく関わっているように思えた。
真樹はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……俺も同じだよ、天野)
真樹は心の中でそう呟いた。
ひよりと知り合ってから、自分も少しずつ変わっている。
以前は、好きな本を一人で読む時間が何より心地よかった。
今でもその時間は大切だ。
けれど、読み終えたあとにひよりへ感想を伝えたいと思うようになった。
散歩中にきれいな景色を見つければ、ひよりにも見せたいと思う。
何でもない出来事の中に、誰かと共有したいものが増えている。
真樹は少し考えてから、返信した。
『俺も、天野と話すようになってから、今まで気にしてなかったことを考えるようになったよ』
『本の読み方も、少し変わったかもしれない』
ひよりはその返事を読み、嬉しそうに微笑んだ。
『本当? 何だか嬉しいな』
真樹は画面を見つめ、少しだけ頬を緩めた。
『本当だよ』
短い返事だったが、真樹の気持ちはそこに込められていた。
◇
しばらくして、真樹は今日『雨上がりの手紙』を読み終えたことを伝えた。
ひよりはそのメッセージを見た瞬間、思わず声を上げそうになった。
『えっ、読み終わったの?』
『どうだった?』
真樹は少し考えながら、文章を入力した。
『すごくよかったよ』
『最初は静かな物語だと思ってたけど、最後まで読むと、登場人物が言葉を選んでいた理由が分かってくるんだね』
ひよりはその返事を読み、嬉しそうに頷いた。
自分が好きな作品を、真樹も最後まで読んでくれた。
そのことだけでも嬉しいのに、物語の大切な部分を丁寧に受け止めてくれている。
『うん! 私もそこが好きなの』
『最後の手紙のところ、どう思った?』
真樹はその質問を読み、少しだけ考えた。
物語の最後に書かれた手紙。
それは、過去のすべてを解決するためのものではなかった。
ただ、今の自分が相手へ伝えたいことを、できるだけ正直に書いたものだった。
真樹はその場面を思い出しながら、ゆっくり文章を入力した。
『全部を分かり合えたわけじゃないけど、それでも相手と向き合おうとしてるところがよかった』
『言葉にするのって難しいけど、伝えようとすること自体に意味があるんだと思った』
ひよりはその返事を読み、しばらく画面を見つめた。
昼休みに海斗とも、同じ場面について話した。
海斗は、最後の手紙によって最初の場面の意味が変わって見えることを印象的だと言っていた。
真樹は、登場人物が相手と向き合おうとする姿勢を大切に感じたらしい。
どちらの感想も、ひよりには嬉しかった。
同じ物語を読んでも、人によって心に残るところは違う。
それを知ることが、こんなにも楽しいのだと改めて思った。
『北条君の感想、聞けてよかった』
『私も、伝えようとすることが大事なんだなって思ったよ』
真樹はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。
ひよりは続けて、もう一つメッセージを送った。
『でもね、私は最後の手紙を読んだとき、少し安心したんだ』
『全部うまくいかなくても、気持ちを伝えたことが無駄になるわけじゃないんだなって』
真樹はその言葉を読み、指を止めた。
ひよりが以前、誰かへ気持ちを伝え、望んだ答えを得られなかったことを、真樹は知っている。
だからこそ、今の言葉には、物語の感想だけではない気持ちが含まれているのかもしれないと思った。
けれど、真樹はそのことを直接尋ねなかった。
ひよりが今、何を考えているのかを勝手に決めつけたくなかったからだ。
真樹は少し考えてから、返信した。
『俺もそう思う』
『伝えたことで、すぐに何かが変わらなくても、その言葉が大切だったことは変わらないんじゃないかな』
ひよりはその返事を読み、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
颯太へ告白した日のことを、今でも思い出す。
緊張して、何度も言葉を考え直した。
それでも、自分の気持ちを伝えた。
望んだ答えは得られなかった。
けれど、あのときの自分が大切にしていた気持ちまで、間違いだったことにはならない。
(……うん。そうだよね)
ひよりは静かに息を吐いた。
真樹が自分の気持ちをすべて知っているわけではない。
それでも、今の言葉はひよりの心に優しく届いた。
『ありがとう、北条君』
『この本、薦めてよかったなって思う』
真樹はその返事を読み、穏やかに微笑んだ。
『俺も、天野に薦めてもらえてよかった』
『いい本を教えてくれてありがとう』
ひよりは画面を見つめ、嬉しそうに笑った。
自分が好きな物語を、真樹も好きになってくれた。
そのことが、今夜は何より嬉しかった。
◇
同じ土曜日の夜、玲奈は自室で机に向かっていた。
再来週の土曜日には、真樹と喫茶店へ行く約束がある。
待ち合わせは午後二時。
場所は駅。
行く予定の店も、すでに真樹へ伝えている。
玲奈はそのことを思い出しながら、机の上に置いた手帳を開いた。
予定を書き込んだページには、小さな印がついている。
(……まだ少し先なのに、こんなに楽しみにしてるなんて)
玲奈は少しだけ笑った。
真樹とは幼いころから知り合いだ。
一緒に過ごした時間も長い。
けれど、最近は真樹の知らない一面が増えているように感じられた。
ひよりと知り合ってから、真樹は以前より楽しそうに本の話をするようになった。
玲奈も読書が嫌いなわけではないが、真樹ほど詳しいわけではない。
だからこそ、真樹がひよりと楽しそうに話していることを思い出すと、少しだけ胸が痛む。
(……私も、真樹の好きなものをもっと知りたいな)
玲奈は手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の庭には、柔らかな灯りがともっている。
ひよりとは、以前一緒に喫茶店へ行った。
そのとき、ひよりは真樹のことを大切な友達だと言っていた。
玲奈はその言葉を思い出し、少しだけ息を吐いた。
ひよりは優しい人だ。
一緒に話していると楽しく、友達になれてよかったと思う。
それなのに、真樹のことを考えると、時々ひよりが羨ましくなる。
玲奈はそんな自分の気持ちを、まだうまく整理できずにいた。
(……でも、ひよりちゃんのことを嫌いになりたいわけじゃない)
玲奈は心の中でそう呟いた。
ひよりと過ごした時間は、本当に楽しかった。
それは、真樹への気持ちとは別に大切にしたいものだった。
玲奈はスマートフォンを手に取り、ひよりとのメッセージ画面を開いた。
最後に交わしたのは、学校での出来事についての短いやり取りだった。
玲奈は少し考えてから、文章を入力した。
『ひよりちゃん、こんばんは。今日はゆっくりできた?』
送信したあと、玲奈はスマートフォンを机へ置いた。
すぐに返事が来なくても構わない。
ひよりにも自分の時間がある。
そう思いながら、玲奈は手帳をもう一度開いた。
再来週の土曜日。
真樹と二人で過ごす時間。
その約束が、玲奈には大切だった。
◇
ひよりが玲奈からのメッセージに気づいたのは、真樹とのやり取りを終えたあとだった。
画面に玲奈の名前が表示されているのを見て、ひよりは嬉しそうに微笑んだ。
『玲奈ちゃん、こんばんは!』
『今日は家族と昔の写真を整理してたんだ。小さいころの写真がいっぱい出てきて面白かったよ』
少しして、玲奈から返事が届いた。
『そうなんだ。楽しそう!』
『昔の写真って、見始めるとなかなか止まらなくなるよね』
ひよりはその言葉に頷いた。
『うん! 片づけのはずだったのに、途中からずっと思い出話になっちゃった』
玲奈からは、笑っているような文章が届いた。
『分かるなあ。私も前にアルバムを整理したとき、全然進まなかったよ』
ひよりはその返事を読み、少しだけ考えた。
玲奈にも、自分が知らない幼いころの思い出がある。
真樹とは昔からの知り合いだと聞いているが、二人がどんな時間を過ごしてきたのかは、まだ詳しく知らない。
ひよりは少し興味を持ったものの、急に昔のことを尋ねるのは不自然かもしれないと思い直した。
その代わり、今日の出来事についてもう少し話すことにした。
『私はね、小さいころ大きなぬいぐるみをずっと抱えてたんだって』
『家族みんなに笑われちゃった』
玲奈はその文章を読み、思わず微笑んだ。
幼いひよりがぬいぐるみを抱えている姿は、何となく想像できる。
『ひよりちゃん、可愛いね』
『今でもそのぬいぐるみ持ってるの?』
ひよりは少し考えた。
『たぶん、どこかにしまってあると思うんだけど、今日は見つからなかったの』
『今度探してみようかな』
玲奈はその返事を読み、穏やかに笑った。
『見つかるといいね』
それから二人は、昔の写真や家族の思い出について少しずつ話した。
玲奈は幼いころ、家族で出かけた先で買ってもらった小さな髪飾りを、長い間大切にしていたことを話してくれた。
ひよりはその話を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
『玲奈ちゃんにも、そういう思い出があるんだね』
『何だか嬉しいな』
玲奈はその言葉を読み、少しだけ目を細めた。
ひよりは、自分の話を丁寧に聞いてくれる。
真樹のことが関わらなければ、こんなにも自然に友達として笑い合える。
玲奈はそのことを改めて感じた。
(……ひよりちゃんと友達になれて、よかったな)
玲奈はそう思いながら、返信した。
『また今度、ゆっくりお話ししようね』
ひよりからは、すぐに返事が届いた。
『うん! またお茶しようね』
玲奈はその文章を見つめ、穏やかに微笑んだ。
ひよりとの約束も、真樹との約束も、どちらも大切にしたい。
その気持ちは、今の玲奈にとって確かなものだった。
◇
夜が深まり、ひよりは自室の机で水色のノートを開いていた。
今日一日を思い返すと、いろいろなことがあった。
午前中には新しい本を読み、午後は家族と昔の写真を整理した。
夜には真樹と『雨上がりの手紙』の感想を話し、玲奈とも幼いころの思い出についてやり取りした。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、ひよりにはその一つひとつが心に残っていた。
ひよりはペンを手に取り、ノートの余白へ文章を書き足した。
『何でもない一日でも、誰かに話したくなることがある。』
書き終えたあと、少しだけ考えた。
真樹が送ってくれた夕暮れの写真。
自分が話した昔のアルバムのこと。
玲奈が教えてくれた幼いころの思い出。
それぞれ違う場所で過ごしている人たちが、少しずつ自分の時間を教えてくれる。
そのことが、ひよりには嬉しかった。
(……明日は何をしようかな)
ひよりは机の上の本を見つめた。
まだ読みたい物語がある。
千夏へ貸したい本もある。
真樹とノアと一緒に歩いてみたい公園もある。
玲奈とまたお茶をする約束も、いつか実現させたい。
ひよりは少しだけ微笑んだ。
以前は、何かを楽しみにすることが怖く感じられる日もあった。
期待して、うまくいかなかったらどうしよう。
そんなふうに考えてしまうこともあった。
けれど、今は少し違う。
すべてが思い通りになるわけではないと分かっていても、楽しみにできることがある。
そのことが、ひよりには嬉しかった。
ひよりはノートを閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
窓の外には、冬の静かな夜が広がっている。
明日も、きっと特別な事件が起こるわけではない。
けれど、何でもない一日の中に、誰かへ伝えたくなる出来事があるかもしれない。
ひよりはそう思いながら、部屋の灯りを少し落とした。
◇
同じころ、真樹も自室で一日を振り返っていた。
机の上には、読み終えた『雨上がりの手紙』が置かれている。
その隣には、今日書いた感想のメモがあった。
真樹はメモを手に取り、もう一度読み返した。
物語の中で、登場人物たちは互いの気持ちを完全に理解できたわけではなかった。
それでも、相手を知ろうとすることを諦めなかった。
真樹はその姿勢が印象に残っていた。
ひよりと話していると、自分も同じようなことを考える。
彼女のことをもっと知りたい。
けれど、急いで何もかも知ろうとする必要はない。
ひよりにはひよりの時間があり、自分には自分の時間がある。
その中で、少しずつ互いのことを知っていけたらいい。
(……今は、それでいいんだ)
真樹は静かにそう思った。
ひよりへの気持ちは、以前よりはっきりしている。
彼女と話す時間が好きだ。
笑っている姿を見ると嬉しくなる。
自分の好きな景色を、ひよりにも見せたいと思う。
けれど、今すぐその気持ちを伝えるつもりはなかった。
ひよりが最近経験したことを、真樹は知っている。
だからこそ、彼女が安心して笑える時間を大切にしたかった。
真樹は机の上のスマートフォンへ視線を向けた。
今日、ひよりは家族の昔話を聞かせてくれた。
幼いころのぬいぐるみのこと。
公園で鴨を追いかけようとしていたこと。
どれも、真樹が知らなかったひよりの一面だった。
真樹はその話を思い出し、少しだけ笑った。
「……本当に、まだ知らないことがたくさんあるな」
足元で眠っていたノアが、真樹の声に耳を動かした。
真樹はその頭を優しく撫でた。
「お前も、天野のことが好きなんだよな」
ノアは薄く目を開け、真樹を見上げた。
そのまま尻尾を一度だけ動かし、再び目を閉じる。
真樹は小さく笑った。
「……お前は誰の味方だよ」
その言葉に答えるように、ノアはもう一度尻尾を動かした。
真樹はその様子を見ながら、ひよりとノアと一緒に歩く日を思い浮かべた。
まだ日程は決まっていない。
けれど、ひよりは楽しみにしてくれている。
真樹も、その日が楽しみだった。
窓の外では、冬の夜が静かに深まっている。
何でもない土曜日。
けれど、真樹にとっては、ひよりとまた一つ新しい話ができた日だった。
そして、これから先にも、きっとそんな日が少しずつ増えていく。
真樹はそう思いながら、読み終えた本を本棚へ戻した。
ひよりから薦められた一冊は、これからも大切にしたい本になっていた。




