第59話 君に見せたい景色が、またひとつ増えました
金曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの向こうには薄い朝日が差し込み、窓ガラスには夜の冷え込みでできた小さな曇りが残っている。布団の中はまだ温かく、すぐに起き上がるのが惜しくなるような寒さだったが、ひよりは枕元の時計を確認してから、ゆっくりと身体を起こした。
昨日は、北条真樹から薦められた短編集の四つ目の物語を読み終えた。
昔の友人と再会した主人公が、互いの知らなかった年月を少しずつ受け入れていく話だった。ひよりはその結末が好きで、昨夜は真樹とも感想を伝え合い、同じ場面を読んでも違うところに心を動かされるのだと改めて感じていた。
(北条君、町の景色が変わっていくところが好きだったんだよね。私は友達との会話のほうが印象に残ってたけど、北条君の話を聞いてから読み返したら、また違って見えるかもしれないな)
ひよりはベッドから降り、机の上に置いてある水色のノートを開いた。
昨日書いた感想の下には、真樹と話したあとに書き足した文章がある。
『相手のことを知るのは、昔の答えを探すことじゃなくて、今のその人を知ることなのかもしれない。』
ひよりはその文字を見つめながら、少しだけ微笑んだ。
真樹とは学校が違うため、普段どんなふうに過ごしているのかを直接見ることはできない。それでも、互いに学校の出来事を話したり、好きな本の感想を伝え合ったりすることで、少しずつ知らなかった一面に触れられる。
それが最近のひよりには、とても楽しかった。
机の端には、まだ最後まで読んでいない短編集が置かれている。
残りの物語を読むのも楽しみだったが、今日は金曜日だ。授業が終われば週末が待っていると思うと、ひよりは少しだけ気持ちが軽くなった。
(今日はちゃんと授業を頑張って、帰ってから続きを読もうかな。千夏にも、読み終わったら貸すって約束してるし)
ひよりはノートを閉じ、制服へ着替え始めた。
階下からは朝食の準備をする音が聞こえてくる。
いつもと変わらない朝だったが、ひよりにはその何でもない時間が少し心地よく感じられた。
◇
朝食の席では、母の由美が温かな味噌汁をよそっていた。
父の浩介は新聞を読みながら食事を進めており、兄の悠一は仕事へ持っていく書類を確認している。姉の美月は少し遅れて食卓へやってきて、ひよりの隣へ座った。
「おはよう、ひより。今日は金曜日だね」
「おはよう、お姉ちゃん。うん、やっと週末だね」
ひよりが笑顔で答えると、美月は少し楽しそうに目を細めた。
「何か予定あるの?」
「今のところは特にないかな。本の続きを読みたいのと、宿題を早めに終わらせたいくらい」
「ひよりらしいね。たまにはのんびりするのもいいと思うよ」
美月はそう言って、味噌汁の器を手に取った。
ひよりは頷きながら、焼き魚を少しずつ食べた。
先週の土曜日には真樹と書店へ出かけた。
その時間はとても楽しかったが、今週末は特に約束をしていない。真樹にも予定があるだろうし、自分も家でゆっくり本を読む時間を大切にしたいと思っていた。
「そういえば、ひより」
由美が台所から声を掛けた。
「この前話してた玲奈ちゃんとは、その後も連絡してるの?」
ひよりは顔を上げた。
「うん。ときどきメッセージしてるよ。玲奈ちゃん、学校が違うから毎日は会えないけど、またお茶しようねって話してるの」
「そうなの。前に会ったとき、とても楽しかったんでしょう?」
「うん。すごく楽しかったよ。玲奈ちゃん、優しくて話しやすいんだ」
ひよりは嬉しそうに答えた。
由美はその表情を見て、穏やかに微笑んだ。
「また機会があったら、おうちにも遊びに来てもらっていいのよ。もちろん、玲奈ちゃんの都合がよければだけど」
「うん。ありがとう、お母さん」
ひよりは素直に頷いた。
以前にも由美から同じようなことを言われていたが、まだ玲奈を自宅へ誘ったことはない。
玲奈とは学校が違うため、予定を合わせるのも簡単ではないだろう。
それでも、いつか自分の家で一緒にお茶を飲んだり、本の話をしたりできたら楽しそうだと思った。
(今度、玲奈ちゃんに聞いてみようかな。でも、急に誘ったら困るかもしれないし、まずは予定があるか聞いてからだよね)
ひよりはそう考えながら、朝食を続けた。
そのとき、悠一が書類を鞄へしまいながら言った。
「ひより、最近友達増えたよな。前から千夏ちゃんとは仲よかったけど、学校の外でもいろいろ知り合いができてるみたいだし」
「そうかな?」
「そうだろ。前は家で本を読んでることが多かったけど、最近は出かけることも増えたし」
悠一は少し笑った。
ひよりはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
確かに、黒犬のノアと出会ってから、以前より外へ出る機会が増えた。
真樹と知り合い、玲奈とも友達になり、学校では海斗と本の話をするようになった。
けれど、その変化は自分で意識して起こしたものではなかった。
ただ、目の前の人と話しているうちに、少しずつ毎日が広がっていったような気がする。
「……うん。最近、いろんな人と話すのが楽しいんだ」
ひよりはそう答えた。
悠一はその笑顔を見て、少しだけ安心したように頷いた。
「そっか。それならよかった」
美月は隣でそのやり取りを聞きながら、妹の表情を静かに見つめていた。
ひよりが颯太へ気持ちを伝え、望んだ答えを得られなかったことを、美月は知っている。
あの日の妹は、笑おうとしてもどこか無理をしているように見えた。
けれど、今は少し違う。
好きな本の話をし、友達との時間を楽しみにし、家族の会話にも自然に笑っている。
美月はその変化を嬉しく思いながら、今は何も言わずに味噌汁を飲んだ。
◇
青葉高校の教室へ入ると、千夏が窓際で友人と話していた。
ひよりに気づくと、千夏は笑顔で手を振った。
「おはよう、ひより。今日も寒いね」
「おはよう、千夏。うん、朝は手が冷たくなっちゃった」
ひよりは鞄を机へ置き、マフラーを外した。
千夏はその様子を見ながら、昨日話していた模様替えのことを思い出したように言った。
「そうそう、ひより。昨日、家で机の周りを少し片づけたんだ」
「もう始めたの?」
「うん。週末にまとめてやろうと思ってたんだけど、ちょっと気になっちゃって」
千夏は少し照れたように笑った。
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「いいなあ。どんな感じになったの?」
「まだ途中なんだけど、使ってないものを片づけたら結構すっきりしたよ。あとは小物をどう置くか考えたいんだ」
千夏はスマートフォンを取り出し、昨日撮った写真をひよりへ見せた。
写真には、机の上に並べられた文房具や、小さな写真立てが写っていた。
ひよりは画面を覗き込み、目を輝かせた。
「わあ、すごくきれい! この写真立て、可愛いね」
「ありがとう。前から持ってたんだけど、どこに置こうか迷ってたんだ」
千夏は嬉しそうに笑った。
ひよりは写真を眺めながら、少し考えた。
「この横に小さなお花とか置いたら、もっと可愛くなりそう」
「やっぱりそう思う? 私も何か置きたいなって考えてたんだ」
二人はそのあとも、机の周りに置く小物や色の組み合わせについて話した。
ひよりは千夏の新しい楽しみを知れたことが嬉しかった。
いつも一緒にいる親友でも、知らなかったことはたくさんある。
そのことを昨日から考えていたひよりにとって、千夏が楽しそうに話してくれる時間は、何だか特別に感じられた。
やがて朝のホームルームが近づき、二人はそれぞれの席へ戻った。
◇
午前の授業が終わるころ、ひよりは国語のノートを閉じ、少しだけ息を吐いた。
今日の授業では、同じ文章を読んでも人によって受け取り方が違うことについて話し合った。
以前の文学発表でも似たような経験をしたが、最近は本の感想を誰かと話す機会が増えたため、授業の内容が以前より身近に感じられる。
ひよりが昼食の準備を始めたところで、海斗が近づいてきた。
「天野さん、藤崎さん。今、少しいい?」
「うん。どうしたの?」
ひよりが顔を上げると、海斗は鞄から文庫本を取り出した。
表紙には『雨上がりの手紙』と書かれている。
「昨日の夜、やっと最後まで読んだんだ」
海斗は少し照れたように笑った。
ひよりはその言葉に目を輝かせた。
「本当? どうだった?」
「すごくよかったよ。最初は静かな話だと思ってたけど、最後まで読むと、最初の場面の意味が少し変わって見えるんだね」
海斗は本の表紙を見つめながら続けた。
「手紙を書いた人も、受け取った人も、相手のことを考えてるのに、うまく伝わらないところがあってさ。でも、最後には少しずつ分かり合おうとしてるのがよかった」
ひよりはその感想を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が好きな物語を、海斗も最後まで読んでくれた。
しかも、ただ読み終えただけでなく、登場人物の気持ちを丁寧に考えてくれている。
「私も、そこが好きなんだ。全部を言葉にできなくても、相手を知ろうとする気持ちって大事なんだなって思って」
ひよりが答えると、海斗は嬉しそうに頷いた。
「うん。天野さんがこの本を薦めてくれた理由、少し分かった気がする」
その言葉に、ひよりは少し照れた。
「えへへ。そう言ってもらえると嬉しいな」
海斗は少しだけ考えてから、もう一つ尋ねた。
「天野さんは、最後の手紙のところ、どう思った?」
ひよりはその場面を思い出した。
物語の終盤、登場人物は長い間伝えられなかった気持ちを、ようやく自分の言葉で書き始める。
それは劇的な告白ではなく、これまで言えなかった感謝や、相手を大切に思っていたことを伝える手紙だった。
「私は、すごく好きだったよ。最初から上手に書けたわけじゃなくて、何度も書き直してたでしょう? だからこそ、最後の言葉が大切に感じられたんだ」
ひよりは少し考えながら続けた。
「気持ちを伝えるのって、簡単じゃないこともあるけど……それでも、ちゃんと伝えようとすることに意味があるのかなって」
その言葉を口にしたとき、ひよりの胸の奥に、颯太へ気持ちを伝えた日の記憶が浮かんだ。
緊張して、何度も言葉を考え直した。
それでも、最後には自分の気持ちを伝えた。
望んだ答えは得られなかったが、あのときの自分が間違っていたとは思いたくなかった。
(……あのときも、ちゃんと伝えられてよかったんだよね)
ひよりは心の中でそう呟き、静かに息を整えた。
海斗はひよりの表情が少しだけ変わったことに気づいたが、理由までは分からなかった。
ただ、彼女がこの物語を大切に読んでいることは伝わってきた。
「……そうだね。俺も、最後の手紙はすごくよかったと思う」
海斗は穏やかに答えた。
ひよりはその言葉に微笑んだ。
千夏は二人の会話を聞きながら、ひよりの横顔を静かに見つめていた。
ひよりが颯太へ告白したことを知っている千夏には、今の言葉が少しだけ違う意味を持って聞こえた。
けれど、海斗の前でその話を持ち出すつもりはなかった。
ひよりが自分から話したくなるまでは、そっとしておきたいと思った。
「橘君、最後まで読んでくれてありがとう」
ひよりが改めて言うと、海斗は少し照れたように笑った。
「こちらこそ。いい本を教えてくれてありがとう。今度は、自分でも何か探してみようかな」
「うん! また面白い本があったら、教えてね」
ひよりは嬉しそうに答えた。
海斗はその笑顔を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
ひよりと話す時間が楽しい。
それは本の話だけではなく、彼女が自分の考えを丁寧に聞いてくれるからなのかもしれない。
海斗はその気持ちをまだはっきり言葉にできなかったが、今はこの時間を大切にしたいと思っていた。
◇
同じころ、桜陵学園では真樹が蓮と昼食を取っていた。
教室の窓からは冬の淡い日差しが差し込み、校庭では体育の授業を終えた生徒たちが校舎へ戻っている。
蓮は弁当箱を開きながら、真樹へ顔を向けた。
「そういえば、真樹。『雨上がりの手紙』、もう読み終わった?」
「いや、まだ少し残ってる。昨日も読んでたんだけど、途中で天野と本の話をしてたから」
真樹は少し笑った。
蓮はその返事を聞き、楽しそうに目を細めた。
「相変わらず仲いいな」
「……普通に本の話をしてるだけだよ」
「その普通の時間が楽しいんだろ?」
蓮がそう言うと、真樹は少しだけ視線を逸らした。
「まあ、そうだな」
蓮はその反応を見て笑ったが、それ以上からかうことはしなかった。
真樹がひよりへの気持ちを大切にしていることは、もう十分に分かっている。
そして、ひよりが最近つらい経験をしたことも知っている。
だからこそ、真樹が急いで関係を変えようとしていないことには、蓮も安心していた。
「でもさ、真樹。最近は天野さんと本の話ばっかりしてるんだな」
「そうかもしれない。もともと二人とも本が好きだから、話題が多いんだよ」
真樹はそう答え、少し考えた。
ひよりとは、ノアを通じて知り合った。
最初は犬の話をすることが多かったが、少しずつ互いの好きなものについて話すようになった。
今では本の感想だけでなく、学校での出来事や家族の話もする。
その変化が、真樹には嬉しかった。
「……でも、本の話だけじゃないよ。最近は学校のことも話すようになったし」
真樹がそう言うと、蓮は穏やかに頷いた。
「そっか。いいことじゃん」
そのとき、教室の反対側から玲奈の笑い声が聞こえた。
玲奈は沙耶と一緒に昼食を取っており、何か楽しそうに話している。
真樹は一度だけそちらへ目を向け、それから蓮へ顔を戻した。
「そういえば、一ノ瀬と行く喫茶店の場所も確認したよ。駅から歩いて行けるところだった」
「ああ、再来週の土曜日だっけ?」
「うん。午後二時に駅で待ち合わせることになってる」
真樹は落ち着いて答えた。
蓮はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
玲奈が真樹との約束を楽しみにしていることは、以前から感じている。
けれど、その気持ちが友情だけなのか、それ以上のものなのか、蓮にはまだ分からなかった。
(……真樹は普通に友達として行くつもりなんだろうけど、一ノ瀬はどうなんだろうな)
蓮はそう考えたものの、今は何も言わなかった。
本人たちの気持ちを確かめないまま、余計なことを言うべきではないと思ったからだ。
「楽しんでこいよ。せっかくの約束なんだし」
「ああ。ありがとう」
真樹はそう答え、昼食を続けた。
◇
放課後、青葉高校の図書室には静かな時間が流れていた。
ひよりは千夏と一緒に、返却期限が近づいていた本を返しに来ていた。
千夏は借りていた雑誌を返却し、ひよりは以前借りた小説をカウンターへ差し出した。
「ありがとうございました」
図書委員の生徒へ礼を言うと、ひよりは本棚の並ぶ奥へ目を向けた。
図書室の窓からは夕方の光が差し込み、背表紙の文字を柔らかく照らしている。
「ひより、少し見ていく?」
千夏が尋ねると、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん。ちょっとだけ見たいな」
二人は本棚の間をゆっくり歩き始めた。
ひよりは文学の棚で足を止め、最近気になっていた作家の本を探した。
千夏は隣の棚に並ぶエッセイを眺めながら、時折気になった表紙を手に取っている。
しばらくすると、ひよりは一冊の本を見つけた。
表紙には、夕暮れの町並みが描かれている。
ひよりはその絵を見つめ、真樹から薦められた短編集を思い出した。
歴史ある町を舞台にした物語。
そこに暮らす人々の思い出や、時間の流れによって変わっていく景色。
ひよりは最近、そういう物語にも興味を持つようになっていた。
(……前だったら、こういう本はあまり手に取らなかったかもしれないな)
ひよりは本を開き、あらすじを読んだ。
それは、古い商店街を舞台にした連作短編集だった。
町に暮らす人々が、日常の中で小さな出来事に出会い、それぞれの思い出や気持ちを見つめ直していく物語らしい。
ひよりは少しだけ目を輝かせた。
「千夏、これ面白そう」
ひよりが声を掛けると、千夏が隣へ来た。
「どれどれ?」
ひよりは表紙を見せ、簡単にあらすじを説明した。
千夏は少し考えてから笑った。
「ひより、最近こういう町のお話も好きになってきたんだね」
「うん。北条君に薦めてもらった本を読んでから、ちょっと気になるようになったの」
ひよりは素直に答えた。
千夏はその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「好きなものが増えるのって、いいことだね」
「うん。自分じゃ選ばなかった本を読んでみるのも楽しいなって思う」
ひよりは本の表紙をもう一度見つめた。
そのとき、ふと真樹のことが頭に浮かんだ。
真樹なら、この本をどう思うだろう。
歴史のある町が舞台なら、興味を持つかもしれない。
けれど、真樹はすでにたくさんの本を読んでいるため、この作品も知っている可能性がある。
(……北条君に、今度この本のこと聞いてみようかな)
ひよりはそう考え、本を借りることにした。
千夏も気になっていたエッセイを一冊選び、二人はカウンターへ戻った。
貸出手続きを終えると、ひよりは本を鞄へしまった。
まだ読み始めていないが、新しい物語との出会いが楽しみだった。
◇
学校を出ると、空には薄い雲が広がっていた。
雨が降る気配はなかったが、夕方の風は冷たく、ひよりはマフラーを少しきつく巻き直した。
千夏は隣を歩きながら、さきほど借りた本の表紙を思い出していた。
「ひより、あの本、読み終わったら感想聞かせてね」
「うん。千夏もエッセイどうだったか教えてね」
二人は笑い合いながら歩いた。
しばらくすると、千夏がふと思い出したように言った。
「そういえば、ひより。北条君とは最近も連絡してるんだよね?」
「うん。昨日も本の感想を話したよ」
「そっか。楽しそうでよかった」
千夏は穏やかに微笑んだ。
ひよりはその言葉を聞き、少しだけ首を傾げた。
「千夏、最近よくそう言うね」
「えっ、そう?」
「うん。私が北条君の話をすると、楽しそうでよかったって」
ひよりは不思議そうに笑った。
千夏は少しだけ考え、言葉を選んだ。
真樹がひよりへ特別な気持ちを抱いているのではないかと、千夏は以前から感じている。
けれど、それは本人から聞いたことではない。
そして、ひより自身が真樹をどう思っているのかも、まだはっきりしていない。
千夏は友達として、ひよりの気持ちを大切にしたかった。
「だって、ひよりが最近すごく楽しそうだから。前はちょっと元気がない日もあったし、今みたいに笑ってると私も嬉しいんだよ」
千夏がそう答えると、ひよりは少しだけ目を瞬かせた。
颯太へ気持ちを伝えたあとのことを、千夏はずっと気に掛けてくれていた。
そのことを思い出すと、胸の奥が温かくなる。
「……ありがとう、千夏」
ひよりは小さく笑った。
「私も、最近は楽しいことが増えたなって思う」
「うん。それならよかった」
千夏はそう答え、歩幅を合わせた。
二人はそのあと、週末の予定や学校の宿題について話しながら帰った。
いつもの分かれ道へ着くと、千夏は手を振った。
「じゃあ、ひより。また月曜日ね」
「うん。千夏もよい週末を!」
二人は笑顔で別れ、それぞれの家へ向かった。
◇
夕方、真樹はノアと一緒に散歩へ出ていた。
空は少しずつ夕暮れの色へ変わり、住宅街の道には長い影が伸びている。
ノアはいつものように落ち着いた足取りで歩き、ときどき道端の植え込みへ鼻先を向けていた。
真樹はリードを持ちながら、今日の学校での出来事を思い返していた。
蓮との会話。
歴史の授業で扱った古い町の資料。
昼休みに読んだ『雨上がりの手紙』の続き。
どれも特別な出来事ではない。
けれど、ひよりと学校の話をするようになってから、何でもない一日の中にも、伝えたいことが少しずつ増えている気がした。
(……天野、今日も本を読んでるかな)
真樹はふと、そんなことを考えた。
ひよりは最近、短編集を読み進めている。
昨日は四つ目の物語を読み終えたと教えてくれた。
その感想を話しているとき、ひよりは自分の考えを丁寧に伝えてくれた。
真樹はその時間が楽しかった。
ノアが足元で立ち止まり、真樹を見上げた。
「どうした?」
真樹が声を掛けると、ノアは少し先の公園へ視線を向けた。
公園の入り口には、落ち葉が少し残っている。
真樹はその様子を見て、少し笑った。
「寄っていきたいのか?」
ノアは尻尾を動かした。
真樹は周囲を確かめてから、公園の中へ入った。
夕方の公園には、小さな子どもを連れた親子が数組いるだけで、比較的静かだった。
木々の枝には葉が少なくなり、冬の空が広く見える。
真樹はノアと一緒に園路を歩きながら、ふと足を止めた。
公園の奥には、夕日が差し込む小さな広場がある。
その場所から見る空は、建物に遮られることが少なく、夕暮れの色がよく見えた。
真樹はしばらくその景色を眺めた。
空の低いところには淡い橙色が残り、その上には薄い青が広がっている。
冷たい風が吹いていたが、静かな景色だった。
(……天野にも、見せたいな)
真樹は自然にそう思った。
ひよりは本の中の景色を想像するのが好きだ。
書店で見た古い町並みの表紙にも、楽しそうに目を輝かせていた。
だから、こういう夕暮れの景色も気に入るかもしれない。
真樹はスマートフォンを取り出し、空の写真を一枚撮った。
画面には、夕暮れの広場と、その手前に座ったノアの後ろ姿が写っていた。
真樹は写真を確認し、少しだけ笑った。
「……お前も写ってるな」
ノアは真樹の声に振り返り、尻尾を動かした。
真樹はその頭を撫でながら、写真を保存した。
今すぐひよりへ送るかどうかは、まだ決めていない。
けれど、次に話すときに見せたいと思った。
◇
そのころ、ひよりは自宅の居間で、母の由美と一緒に夕食の準備をしていた。
今日は由美が少し忙しかったため、ひよりは野菜を切るのを手伝っていた。
「ひより、ありがとう。助かるわ」
「ううん。私もお料理するの好きだし」
ひよりはまな板の上の人参を切りながら答えた。
由美は鍋の中をかき混ぜ、少し笑った。
「最近、ひよりがよく手伝ってくれるから嬉しいわ」
「えへへ。お母さんの料理、いつも美味しいから、私も覚えたいなって」
ひよりは少し照れたように笑った。
由美はその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「それなら、今度一緒に何か作りましょうか。ひよりの好きなものでもいいわよ」
「本当? じゃあ、クッキーとか作りたいな」
ひよりは嬉しそうに答えた。
クッキーという言葉を口にしたとき、ふと以前のことが頭に浮かんだ。
颯太へ渡そうとしていた、手作りのチョコレートクッキー。
あの日は渡せなかった。
そのあと、黒犬のノアと出会い、真樹と知り合った。
思い返せば、あの日から自分の毎日は少しずつ変わっていったのだ。
(……あのときは、こんなふうになるなんて思ってなかったな)
ひよりは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
由美は娘の表情が少し変わったことに気づいたが、何も尋ねなかった。
ひよりは人参を切り終え、皿へ移した。
「お母さん、これでいい?」
「ええ、ありがとう。あとはこっちに入れてくれる?」
「うん!」
二人はそのあとも、夕食の準備を進めた。
台所には温かな湯気が立ち上り、窓の外では夕暮れが少しずつ深まっていた。
◇
夕食を終えたひよりは、自室で宿題を片づけていた。
机の上には、今日図書室で借りた新しい本が置かれている。
夕暮れの商店街を描いた表紙を見るたびに、早く読み始めたい気持ちが強くなった。
けれど、まずは真樹から薦められた短編集を最後まで読みたいと思っていた。
ひよりは宿題を終えると、短編集を手に取った。
残りの物語は、まだいくつかある。
今日は少しだけ読み進めようと考え、しおりを挟んだページを開いた。
物語の中では、古い町の小さな店を舞台に、店主と訪れた客との会話が描かれていた。
ひよりはその文章を読みながら、真樹と訪れた書店を思い出した。
木の棚が並ぶ静かな店内。
窓から差し込む柔らかな光。
真樹が楽しそうに本を紹介してくれた時間。
ひよりは少しだけ頬を緩めた。
(……またあのお店に行きたいな)
そう思ったとき、机の上のスマートフォンが短く震えた。
画面には、真樹からのメッセージが表示されていた。
『天野、こんばんは。今日もお疲れ』
ひよりは嬉しそうにスマートフォンを手に取った。
『北条君、こんばんは! 北条君もお疲れさま』
少しして、真樹から新しいメッセージが届いた。
『今日、ノアと散歩してたら夕暮れがきれいだったんだ』
『写真撮ったから、よかったら見て』
続けて送られてきた写真を開くと、ひよりは思わず目を輝かせた。
夕暮れの空には淡い橙色が広がり、その下には静かな公園の景色が写っている。
手前には、黒い毛並みのノアが座っていた。
「わあ……きれい」
ひよりは小さく呟いた。
写真の中のノアは、夕日を背にして座っている。
黒い毛並みの輪郭が柔らかな光に包まれ、いつもより少し大人びて見えた。
ひよりは写真をしばらく眺めてから、返信した。
『すごくきれい! ノアも写ってるね』
『こんな場所があるんだ。知らなかった!』
真樹からは、すぐに返事が届いた。
『いつもの散歩道の近くにある公園だよ』
『夕方は空がよく見えるんだ』
ひよりはその文章を読み、少しだけ考えた。
真樹とノアが普段歩いている場所。
自分はまだ知らない景色が、そこにはたくさんあるのだろう。
ひよりは写真をもう一度見つめた。
『北条君、こういう景色を見ながらノアとお散歩してるんだね』
『何だか素敵だな』
真樹はその返事を読み、自然に微笑んだ。
ひよりが写真を気に入ってくれたことが嬉しかった。
『天野も、きっと気に入ると思ったんだ』
『今度、ノアと一緒に散歩するときに寄ってみる?』
送信したあと、真樹は少しだけ考えた。
ひよりとは、またノアと散歩しようと話していた。
ただ、具体的な予定はまだ決まっていない。
今日の写真をきっかけに、自然に誘うことができた。
真樹は少し緊張しながら、返事を待った。
ひよりはそのメッセージを読み、目を輝かせた。
『行ってみたい!』
『ノアにも会いたいし、北条君が好きな景色も見てみたいな』
真樹はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ひよりは、自分が好きな景色を見てみたいと言ってくれた。
その言葉が、真樹にはとても嬉しかった。
『じゃあ、また都合のいい日を相談しよう』
『うん! 楽しみにしてるね』
二人はそのあと、少しだけ散歩の話を続けた。
ひよりはノアが公園でどんなふうに過ごしていたのかを尋ね、真樹は夕暮れの広場で座っていたことや、帰り道ではいつも通り元気に歩いていたことを伝えた。
ひよりはその様子を想像し、思わず笑った。
『ノア、夕日を見てたのかな?』
『どうだろう。たぶん、早く歩きたいと思ってたんじゃないかな』
『ふふっ、ノアらしいね』
真樹はその返事を読み、足元で眠っているノアへ目を向けた。
「……お前、天野に会えるかもしれないぞ」
ノアは薄く目を開け、真樹を見上げた。
真樹が頭を撫でると、ノアは安心したように目を閉じた。
その様子に、真樹は少し笑った。
やがて、ひよりから新しいメッセージが届いた。
『そういえば、今日ね、学校の図書室で新しい本を借りたんだ』
『古い商店街が舞台のお話で、北条君が薦めてくれた短編集に少し雰囲気が似てるかもしれないの』
真樹はその文章を読み、興味を持った。
『そうなんだ。どんな本?』
ひよりは表紙の写真を撮り、真樹へ送った。
『これだよ。まだ読んでないんだけど、あらすじが面白そうだったから借りてみたの』
真樹は写真を開き、表紙を眺めた。
夕暮れの商店街が描かれた、落ち着いた雰囲気の本だった。
真樹はタイトルを確認し、少し考えた。
『その本はまだ読んだことないな』
『でも、面白そうだね。古い町が舞台なら、俺も気になる』
ひよりはその返事を読み、嬉しそうに笑った。
『やっぱり? 北条君も好きそうだなって思ったんだ』
『読み終わったら、感想聞いてね』
『もちろん。楽しみにしてる』
真樹はそう返信した。
ひよりが自分の好きなものを知ろうとしてくれること。
そして、自分が好きそうな本を見つけたときに思い出してくれること。
そのどちらも、真樹には嬉しかった。
ひよりはスマートフォンを机へ置き、もう一度夕暮れの写真を開いた。
静かな公園。
淡い橙色の空。
その中に座るノア。
ひよりは写真を見つめながら、いつか真樹とノアと一緒にその場所を歩く自分を想像した。
(……楽しみだな。北条君が好きな景色、私も見てみたい)
その気持ちは、今のひよりにとって自然なものだった。
真樹と一緒にいる時間は楽しい。
ノアに会えるのも嬉しい。
そして、まだ知らない景色を見られることにも、胸が弾んだ。
ひよりは水色のノートを開き、今日の最後の感想を書き足した。
『誰かが好きな景色を見せてくれると、その人の毎日を少し知れた気がする。』
書き終えたあと、ひよりは少しだけ微笑んだ。
真樹が見ている景色。
自分が見ている景色。
まだ違う場所で過ごしている二人の毎日には、知らないことがたくさんある。
けれど、こうして少しずつ教え合うことができる。
そのことが、ひよりには嬉しかった。
◇
真樹もまた、ひよりとのやり取りを終えたあと、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
今日撮った夕暮れの写真。
ひよりが気に入ってくれたことが、思っていた以上に嬉しかった。
真樹は写真をもう一度開き、少しだけ笑った。
公園の景色は、普段から見慣れているものだった。
特別な観光地でも、有名な場所でもない。
けれど、ひよりに見せたいと思った瞬間、その景色が少し違って見えた。
(……天野と一緒に見たら、また違うんだろうな)
真樹はそう考え、足元のノアへ視線を向けた。
ノアはすでに眠っており、黒い毛並みが部屋の灯りを柔らかく受けている。
「お前も、また天野に会えるといいな」
真樹が小さく声を掛けると、ノアは眠ったまま耳を動かした。
真樹はその様子を見て、静かに笑った。
ひよりとは、まだ次の散歩の日程を決めていない。
互いの都合が合う日を相談する必要がある。
けれど、ひよりが楽しみにしてくれていることは分かった。
それだけで、真樹には十分だった。
真樹はスマートフォンを机へ置き、『雨上がりの手紙』を手に取った。
物語は、もう終わりに近づいている。
手紙を書いた人物と受け取った人物が、少しずつ互いの気持ちを理解しようとしている。
真樹はその文章を読みながら、ひよりがこの本を好きな理由を考えた。
相手のことを知ろうとする気持ち。
言葉にできなかった思いを、少しずつ伝えようとすること。
そのどちらも、今の自分には身近に感じられた。
真樹はページをめくり、静かに読み進めた。
窓の外では、冬の夜が深まっている。
ひよりもまた、自室で本を読んでいるころだろう。
同じ空の下で、それぞれ違う時間を過ごしている。
けれど、今日見つけた景色を伝え合うことで、二人の毎日は少しだけ重なった。
真樹は本を読みながら、次にひよりとノアと歩く日を思い浮かべた。
夕暮れの公園。
広く見える空。
その景色を、ひよりがどんな表情で眺めるのか。
まだ分からない。
けれど、想像するだけで胸の奥が温かくなった。
知らないことがあるからこそ、楽しみにできる時間がある。
真樹はそのことを、今夜も静かに感じていた。




