第58話 まだ知らない君の好きなものを、ひとつずつ
木曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、部屋の中にはまだ冬の冷たさが残っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日は柔らかく、窓辺に置いた小さな時計の文字盤を淡く照らしている。昨日は一日を通してよく晴れていたが、夜の間に気温が下がったらしく、布団から出した指先が少し冷たく感じられた。
ひよりは枕元の時計を確かめ、いつもより数分早く目が覚めたことに気づいた。
(今日はまだ時間があるね。昨日の続き、少しだけ読めるかな)
机の上には、土曜日に真樹と訪れた書店で購入した短編集が置かれていた。
昨日の夜は四つ目の物語を途中まで読み進めたところで、真樹からメッセージが届いた。ノアの散歩の話から始まった会話は、互いの学校の授業や本の感想へと広がり、気づけば思っていたより長い時間を過ごしていた。
その最後に交わした言葉を思い出すと、ひよりは自然に頬を緩めた。
『私も、北条君と話す時間が好きだよ!』
昨夜、自分が送った文章だった。
特別な意味を込めたつもりはなかった。真樹と話す時間が楽しいことも、彼が薦めてくれた本を読むのが嬉しいことも、ひよりにとっては素直な気持ちだった。
けれど、今朝になって思い返すと、あの言葉を伝えられてよかったと思う。
(北条君も楽しいって言ってくれたんだよね。私ばっかり話してるのかなって思うときもあったけど、そうじゃないなら嬉しいな)
ひよりはベッドから降り、カーディガンを羽織って机へ向かった。
短編集のしおりを挟んだページを開くと、昨日読んだ場面がすぐに思い出された。
四つ目の物語の主人公は、長い間離れていた故郷へ戻り、昔よく通った道を歩いていた。町の建物や人々の暮らしは少しずつ変わっていたが、主人公が最も戸惑っていたのは、かつて親しかった友人との距離だった。
同じ町で育ったはずなのに、離れていた時間の分だけ、互いの知らない出来事が増えている。
それを寂しいと感じる一方で、主人公は再会した友人が新しい場所で見つけた好きなものについて、少しずつ話を聞くようになっていた。
ひよりはページをめくり、昨日の続きを読み始めた。
物語の中で、主人公は友人から、昔は苦手だった料理を今では自分で作るようになったと聞かされる。
幼いころの記憶だけで相手を見ていた主人公は、驚きながらも、その変化を嬉しく感じる。
ひよりはその場面で手を止めた。
(……昔のことを知ってるからって、今のことも全部知ってるわけじゃないんだね)
真樹とは、まだ出会ってからそれほど長い時間が経っていない。
だから、知らないことが多いのは当たり前だ。
けれど、長く付き合っている家族や千夏についても、知らないことはきっとあるのだろう。
ひよりはそこで、昨日の千夏の言葉を思い出した。
『最近ちょっと変わったよね』
千夏は、自分が以前よりいろいろなことを話すようになったと言ってくれた。
毎日顔を合わせている親友だからこそ、気づいてくれた変化だったのかもしれない。
ひよりは本を閉じず、ページの端を指先で押さえたまま、少し考えた。
(私も、千夏のことをもっと知りたいな。いつも一緒にいるから、何でも知ってる気になってたかもしれない)
そのとき、階下から母の由美の声が聞こえた。
「ひより、そろそろ朝ご飯よ!」
「はーい! 今行くね!」
ひよりはしおりを挟み、本を丁寧に閉じた。
物語の結末までは、まだ少し残っている。
けれど、続きを読む楽しみがあることも、今は嬉しかった。
◇
朝食の席では、由美が焼いたトーストと温かな野菜スープが用意されていた。
父の浩介はすでに食事を始めており、兄の悠一は仕事へ持っていく鞄を足元へ置いている。美月はまだ部屋にいるらしく、ひよりが椅子へ座ったときには姿が見えなかった。
「おはよう、ひより。今日は少し寒いわね」
「おはよう、お母さん。うん、起きたときにびっくりしちゃった」
ひよりは両手でスープの器を包み、温かさを確かめた。
由美はその様子を見ながら、食卓の端に置いていた天気予報の画面へ目を向けた。
「今日は晴れるみたいだけど、朝と夕方は冷えるそうよ。マフラー、忘れないようにね」
「うん。ちゃんと持っていく」
ひよりが答えると、悠一がトーストを一口食べてから笑った。
「ひよりは本を持っていくのは忘れないけど、寒さ対策はたまに忘れるからな」
「お兄ちゃんまでそんなこと言うの?」
「この前、玄関まで行ってから手袋取りに戻ってきただろ」
「あれは、鞄に入れたと思ってただけだもん」
ひよりが少し頬を膨らませると、浩介が楽しそうに笑った。
「まあ、忘れ物は誰にでもあるよ。お父さんなんて、昨日は職場に書類を置いて帰りそうになったからね」
「あなた、それは気をつけてくださいね」
由美がすかさず言うと、浩介は少し困ったように頷いた。
食卓に笑い声が広がる。
ひよりはその何気ない会話を聞きながら、今朝読んだ物語を思い出していた。
家族とは毎日顔を合わせている。
けれど、父が仕事でどんな一日を過ごしているのか、兄がどんなことに悩んだり喜んだりしているのか、詳しく聞く機会はそれほど多くない。
ひよりはスープを一口飲んでから、悠一へ顔を向けた。
「ねえ、お兄ちゃん。最近、仕事で何か面白いことあった?」
悠一は少し驚いたように目を瞬かせた。
「急にどうした?」
「ううん。いつも忙しそうだなって思ってたから、どんなことしてるのかなって」
ひよりは少し照れながら答えた。
悠一は一度考え、それから穏やかに笑った。
「面白いことっていうと難しいけど、昨日は前から時間がかかってた作業がやっと片づいたんだ。何人かで相談しながら進めてたから、終わったときは結構嬉しかったな」
「そうなんだ。お兄ちゃん、一人でやってたわけじゃないんだね」
「もちろん。仕事って、自分だけでできることばかりじゃないからな。ほかの人の考えを聞いて、やり方を変えることもあるよ」
その言葉に、ひよりは少しだけ目を輝かせた。
「何だか、学校の班活動みたいだね」
「まあ、似てるところはあるかもな。意見が違うときもあるし、誰かが気づいたことで助かることもある」
悠一はそう言って、ひよりの顔を見た。
「ひよりも学校でそういうことあるだろ?」
「うん。前に文学の発表をしたときも、千夏や橘君と相談しながら進めたんだ。自分じゃ思いつかなかったことがいっぱいあったよ」
ひよりは以前の班活動を思い出しながら答えた。
あのころは、颯太へ気持ちを伝えることを考えていた時期でもあった。
緊張や不安が大きかったが、班の仲間と一つの発表を完成させた時間は、今でも大切な思い出になっている。
悠一は妹の表情を見て、少しだけ目を細めた。
「そっか。いい経験になったんだな」
「うん。大変だったけど、楽しかったよ」
ひよりは素直に頷いた。
悠一はその返事を聞き、安心したように微笑んだ。
妹が以前より自然に笑うようになったことには気づいていた。
ただ、颯太への告白がどうなったのかまでは知らない。
ひよりが自分から話さない以上、今は無理に尋ねるつもりもなかった。
「また何かあったら聞かせてくれよ。学校の話でも、本の話でも」
「うん。お兄ちゃんも、また仕事の話聞かせてね」
ひよりが答えると、悠一は少し照れたように笑った。
「そんなに面白い話ばっかりじゃないけどな」
由美はそのやり取りを聞きながら、温かな紅茶を二人の前へ置いた。
ひよりはカップを受け取り、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
相手のことを知りたいと思うのは、恋愛だけに限らない。
家族でも、友達でも、誰かの毎日に興味を持つことはできる。
そのことが、今朝は少し新鮮に思えた。
◇
青葉高校の教室へ入ると、千夏は窓際で友人と話していた。
ひよりに気づくと、千夏は手を振りながら近づいてくる。
「おはよう、ひより。今日も寒いね」
「おはよう、千夏。うん、朝は手が冷たくなっちゃった」
ひよりは鞄を机へ置き、マフラーを外した。
千夏はその様子を見ながら、昨日の約束を思い出したように言った。
「そうそう。昨日の国語の随筆、家でもう一回読んだよ」
「本当? 私も読んだ!」
二人は顔を見合わせ、自然に笑った。
千夏は自分のノートを取り出し、昨日の授業で気になった部分を開いた。
「私ね、最初は筆者が昔の町を懐かしんでるだけだと思ってたんだけど、読み返したら、少し寂しそうにも感じたんだ」
「うん。私もそこ、気になったよ」
ひよりは頷き、ノートの端に貼った付箋を見せた。
「昔と同じ場所に戻ってきたのに、前と同じ気持ちにはなれないっていうところかな。自分が変わったことに気づくのって、嬉しいだけじゃないのかもしれないね」
千夏はその言葉を聞き、少し考えた。
「でも、変わったからこそ分かることもあるんだよね。昨日、ひよりが授業で言ってたみたいに」
「そうだね。だから、寂しいだけのお話じゃないのかなって思った」
ひよりはそう答えながら、今朝読んだ短編集の場面を思い出した。
故郷へ戻った主人公も、友人が変わってしまったことを寂しく感じていた。
けれど、今の友人が好きなものを知るうちに、離れていた時間を否定するのではなく、これからの関係を大切にしようとしていた。
「そういえば、今読んでる短編集にも似たお話があるんだ」
ひよりが言うと、千夏は興味深そうに顔を向けた。
「昨日話してた四つ目のお話?」
「うん。まだ最後まで読んでないんだけど、昔からの友達が再会して、知らなかったことを少しずつ知っていくの」
ひよりは物語の結末を明かさないように気をつけながら、簡単に説明した。
千夏はしばらく考え、それから小さく笑った。
「何だか、ひよりが最近考えてることと似てるね」
「えっ、そうかな?」
「うん。昨日も北条君の学校の話を聞けて嬉しかったって言ってたし。今朝はその本を読んで、また誰かのことを知りたいって思ったんじゃない?」
千夏の言葉に、ひよりは少し驚いた。
まさに今朝、自分が考えていたことだった。
「……千夏、すごい。どうして分かったの?」
「ひよりが分かりやすいからかな」
千夏は楽しそうに笑った。
ひよりは少し照れながらも、その言葉を否定できなかった。
「実はね、今朝、お兄ちゃんに仕事の話を聞いてみたんだ。いつも忙しそうだけど、どんなことしてるのかあまり知らなかったなって思って」
「へえ。悠一さん、何て?」
「みんなで相談して進めてた仕事が終わって、嬉しかったんだって。私、仕事ってもっと一人でやることが多いのかなって思ってたから、少し意外だった」
ひよりは嬉しそうに話した。
千夏はその様子を見ながら、穏やかに頷いた。
「そういうの、いいね。家族でも知らないことってあるもんね」
「うん。だから、千夏のことももっと知りたいなって思ったんだ」
ひよりが何気なく言うと、千夏は少し目を瞬かせた。
「私のこと?」
「うん。いつも一緒にいるけど、千夏が最近どんなことを楽しみにしてるのか、ちゃんと聞いたことなかったかもって」
ひよりは少し照れたように笑った。
千夏はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
親友として長い時間を過ごしてきた。
だからこそ、改めて自分のことを知りたいと言われると、少し不思議で嬉しかった。
「そうだなあ。最近は、前に話してた雑貨屋さんの新しい商品が気になってるかな。あと、今度の休みに部屋の模様替えをしたいんだ」
「模様替え?」
「うん。机の周りをもう少し使いやすくしたくて。写真とか小物を飾る場所も作りたいんだよね」
千夏は少し楽しそうに説明した。
ひよりはその話を聞きながら、以前二人で買い物へ行ったときのことを思い出した。
千夏は雑貨を見るのが好きで、色や形を組み合わせることにも興味がある。
けれど、部屋の模様替えを考えていることまでは知らなかった。
「楽しそう! どんな感じにするの?」
「まだ迷ってるんだけど、落ち着いた色でまとめたいなって。ひよりが買った水色のノートみたいな色も可愛いよね」
「えへへ、あのノート、私もすごく気に入ってるんだ」
ひよりは鞄の中から水色のノートを少しだけ見せた。
千夏は表紙を眺め、嬉しそうに笑った。
「やっぱり可愛いね。今度、模様替えの相談に乗ってよ」
「うん! 私でよければ」
二人はそんな話をしながら、朝の準備を進めた。
ひよりは千夏の新しい楽しみを知れたことが嬉しかった。
いつも一緒にいるからこそ、聞かなくても分かっていると思っていたことがある。
けれど、実際に話してみると、知らなかったことはまだたくさんあった。
(……こういうのも、楽しいね)
ひよりは心の中でそう呟き、ノートを机へしまった。
◇
同じころ、桜陵学園では、北条真樹が蓮と一緒に教室へ入っていた。
朝の廊下には生徒たちの声が響き、窓の外では冷たい風に木々が揺れている。
蓮は鞄を肩へ掛け直しながら、真樹へ顔を向けた。
「そういえば、昨日の夜も天野さんと話したんだって?」
真樹は少しだけ驚いたように目を向けた。
「何で分かるんだ?」
「今朝のお前、何となく機嫌よさそうだから」
蓮は冗談めかして笑った。
真樹は少し困ったように息を吐いた。
「そんなに顔に出てるか?」
「俺には分かるってだけ。ほかのやつが見ても、いつも通りだと思うよ」
蓮はそう答え、教室の扉を開けた。
真樹は自分の席へ向かいながら、昨日のやり取りを思い出した。
ひよりは、自分と話す時間が好きだと言ってくれた。
それが友達としての言葉だと分かっていても、嬉しかったことに変わりはない。
真樹は鞄を机へ置き、少しだけ笑った。
「まあ、昨日も少し話したよ。学校の授業のこととか、本のこととか」
「そっか。楽しそうで何よりだな」
蓮は椅子へ座りながら答えた。
それから、少しだけ表情を真面目にする。
「でも、無理して毎日連絡してるわけじゃないんだろ?」
「もちろん。天野にも自分の時間があるし、俺もそうだから」
真樹は落ち着いて答えた。
蓮はその返事を聞き、安心したように頷いた。
「ならいいんだ。お前、好きな相手のことになると考えすぎるところあるからさ」
「……否定はしないけど」
真樹が少し照れたように言うと、蓮は笑った。
「まあ、考えるのが悪いわけじゃないよ。ただ、相手のことばっかり考えて、自分が疲れたら意味ないだろ」
真樹はその言葉を聞き、少し考えた。
確かに、ひよりのことを大切に思うほど、何を言えばいいのか迷うことがある。
けれど、最近は以前より自然に話せるようになっていた。
ひよりが自分の考えを素直に伝えてくれるからだろう。
「ありがとう、蓮。今のところは大丈夫だよ」
「ならよかった」
蓮はそう答え、教科書を取り出した。
真樹も授業の準備を始めたが、ふと昨日のひよりの言葉を思い出した。
『私も、北条君と話す時間が好きだよ!』
その文章が、今も胸の奥に温かく残っている。
(……急がなくていい。今は、この時間を大切にしたい)
真樹はそう考え、教科書を開いた。
◇
青葉高校では、午前の授業が終わるころ、教室の中に昼休みを待つ落ち着かない空気が広がっていた。
ひよりは最後の板書をノートへ写し、教師が教室を出ていくのを見送った。
千夏が昼食の準備を始めたところで、海斗が近づいてきた。
「天野さん、藤崎さん。今、少しいい?」
「うん。どうしたの?」
ひよりが顔を上げると、海斗は鞄から文庫本を取り出した。
表紙には『雨上がりの手紙』と書かれている。
「昨日の夜、また続きを読んだんだ。まだ最後までは行ってないんだけど、ちょっと気になったところがあって」
海斗は少し照れたように笑った。
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん。どこが気になったの?」
「手紙を受け取った人が、すぐに返事を書かなかったところ。最初は、どうして返さないんだろうって思ったんだけど、読んでるうちに、簡単には返せなかったのかなって」
海斗は本を開き、しおりを挟んでいたページを確かめた。
ひよりはその説明を聞きながら、物語の場面を思い出した。
返事を書こうとしても、言葉が見つからない。
相手を大切に思っているからこそ、何を伝えればいいのか分からなくなる。
そんな人物の迷いが描かれていた。
「私もそこ、印象に残ってるよ。返事をしないことと、返事をしたくないことって、同じじゃないんだよね」
ひよりが言うと、海斗は少し驚いたように顔を上げた。
「そう、それ! 俺もそんな感じがしたんだ。でも、うまく言葉にできなくて」
海斗は嬉しそうに笑った。
「天野さんに聞くと、自分が何を考えてたのか分かることがあるな」
ひよりはその言葉に少し照れた。
「そんなことないよ。橘君がちゃんと読んで考えてるからだと思う」
「でも、天野さんが薦めてくれなかったら、たぶん読んでなかった本だから」
海斗は少し真面目な表情で続けた。
「だから、薦めてくれてありがとう。まだ途中だけど、読んでよかったと思ってる」
ひよりはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分の好きな本を、誰かが大切に読んでくれている。
そのことが、何より嬉しかった。
「こちらこそ、読んでくれてありがとう。橘君の感想、私も楽しみにしてるよ」
ひよりが笑顔で答えると、海斗は少しだけ頬を緩めた。
千夏は二人の会話を聞きながら、静かに微笑んでいた。
海斗が本を楽しんでいることは、もう疑いようがない。
けれど、それと同じくらい、ひよりと話す時間を楽しみにしているようにも見える。
千夏はその気持ちを、今は口にしなかった。
ひよりがまだ自分の気持ちを整理している途中であることを、千夏は知っている。
そして、海斗自身も、自分の感情をはっきり言葉にできていないように見えた。
だからこそ、今は二人の自然な会話を大切にしたかった。
「そういえば、橘君」
ひよりがふと思い出したように声を掛けた。
「この前、本屋さんの話をしたでしょう? 駅の近くの小さなお店」
「ああ。北条君と行ったっていうところ?」
「うん。あのお店、歴史の本とか、少し昔の町を舞台にした物語も多かったんだ。橘君が今読んでる本とは雰囲気が違うかもしれないけど、面白そうな本がたくさんあったよ」
ひよりは楽しそうに説明した。
海斗はその言葉を聞き、少し考えた。
「へえ。そういう本もいいな。俺、最近は家族の話とか、日常の中で少しずつ気持ちが変わっていく話が面白いと思うようになってきたんだ」
「そうなんだ!」
ひよりは目を輝かせた。
「じゃあ、今度おすすめできそうな本があったら教えるね」
「うん。ありがとう」
海斗は嬉しそうに頷いた。
そのあと、三人は昼食を取りながら、授業や最近読んだ本について話した。
ひよりは海斗の好みが少しずつ分かってきたことを嬉しく思っていた。
海斗もまた、ひよりが自分の話を丁寧に聞いてくれることに、静かな喜びを感じていた。
◇
桜陵学園の昼休み、一ノ瀬玲奈は沙耶と一緒に窓際の席で昼食を取っていた。
教室の外では冷たい風が吹いていたが、日差しの入る窓辺は比較的暖かかった。
沙耶は弁当箱を開きながら、玲奈へ顔を向けた。
「玲奈、再来週の喫茶店、もうお店の場所は確認した?」
「うん。駅から歩いて行けるところだから、そんなに迷わないと思う」
玲奈は少し嬉しそうに答えた。
真樹との約束は、再来週の土曜日、午後二時に駅で待ち合わせることになっている。
まだ少し先の予定だったが、玲奈は時間があるときに店の案内を確認していた。
「前から気になってたお店だから、楽しみなんだ」
「そっか。玲奈、最近その話すると嬉しそうだもんね」
沙耶が柔らかく笑うと、玲奈は少し頬を赤くした。
「……そんなに分かりやすい?」
「うん。でも、いいことじゃない? 楽しみな予定があると、毎日もちょっと明るくなるし」
沙耶はそう言って、箸を持ち直した。
玲奈はその言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。
確かに、約束が決まってから、何でもない時間にその日のことを考えるようになった。
どんな服を着ていこうか。
どんな話をしようか。
真樹は、どんな飲み物を選ぶだろうか。
幼いころから知っている相手なのに、今さら知らないことがたくさんあるように感じる。
(……真樹って、喫茶店では何を頼むんだろう。前は甘いものも普通に食べてたけど、今はどうなのかな)
玲奈はそんなことを考え、少しだけ笑った。
沙耶はその表情を見ながら、穏やかに言った。
「当日は、あんまり考えすぎないで楽しんできてね」
「……うん。そうする」
玲奈は素直に頷いた。
真樹との時間を特別なものにしたいと思うほど、失敗したくない気持ちが強くなる。
けれど、相手のことを知りたいなら、まずは自然に話すことが大切なのかもしれない。
玲奈はそう考えながら、昼食を続けた。
ふと、ひよりのことが頭に浮かんだ。
以前、二人で喫茶店へ行ったとき、ひよりは好きな本の話を楽しそうにしていた。
真樹のことを大切な友達だと言っていた表情も、今でも覚えている。
玲奈はその記憶を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。
ひよりと友達でいたい気持ちは本当だ。
けれど、真樹がひよりと親しくしていることを考えると、寂しさを感じることもある。
その感情を、玲奈はまだ誰にも話していなかった。
(……ひよりちゃんのことも、真樹のことも、大切にしたいんだよね)
玲奈は心の中でそう呟き、ゆっくり息を整えた。
今すぐ答えを出す必要はない。
そう思いながら、沙耶との会話へ意識を戻した。
◇
放課後、青葉高校の教室では、帰り支度をする生徒たちの声が広がっていた。
ひよりは鞄へ教科書をしまいながら、今日の授業で気になったことをノートへ書き留めていた。
千夏は隣で、週末の模様替えについて考えているようだった。
「ねえ、ひより。今度、雑貨屋さんに行くとき一緒に見てくれない?」
「うん、もちろん。何か探してるものがあるの?」
「机の上に置く小さな収納とか、写真を飾るものとか。まだ決めてないんだけどね」
千夏は少し照れたように笑った。
ひよりはその話を聞き、嬉しそうに頷いた。
「楽しそう! 千夏の部屋、どんな感じになるのか見てみたいな」
「完成したら写真送るよ。もし変だったら正直に言ってね」
「そんなことないと思うけど、ちゃんと感想言うね」
二人は笑い合いながら、教室を出た。
廊下では部活動へ向かう生徒たちが行き交い、窓の外には夕方の柔らかな光が広がっている。
昇降口へ向かう途中、ひよりはふと千夏へ顔を向けた。
「千夏、今日ね、橘君がまた『雨上がりの手紙』の感想を話してくれたんだ」
「うん。昼休みに話してたね」
「橘君、最初はあまり読まない種類のお話だったみたいだけど、今は結構気に入ってくれてるんだって」
ひよりは嬉しそうに続けた。
「私、自分が好きな本を誰かに薦めるのって、ちょっと緊張することもあるんだ。相手が楽しめなかったらどうしようって」
千夏はその言葉を聞き、少し驚いたように顔を向けた。
「ひよりでもそう思うんだ?」
「うん。だって、好きなものって人によって違うでしょう? 私が面白いと思っても、相手も同じとは限らないから」
ひよりは少し考えながら答えた。
千夏はその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「でも、ひよりは相手の好みをちゃんと聞いてから薦めてるじゃん。それって、すごく大事なことだと思うよ」
「そうかな」
「うん。橘君も、ひよりが自分のことを考えて選んでくれたのが嬉しかったんじゃない?」
千夏はそう言ってから、少しだけ言葉を選んだ。
海斗がひよりへ向ける気持ちについて、千夏には気になるところがある。
けれど、今はそれを直接伝えるつもりはなかった。
ひよりはまだ、海斗を本の話ができるクラスメイトとして見ている。
その関係を、周囲の推測で急に変えてしまいたくなかった。
「……そうだったら嬉しいな」
ひよりは少し照れながら笑った。
千夏はその表情を見て、静かに頷いた。
二人は校門を出て、いつもの通学路を歩き始めた。
冷たい風が吹くたびに、ひよりはマフラーへ顎を埋めた。
千夏はその様子を見て笑った。
「ひより、今日はちゃんとマフラー持ってきたんだね」
「うん。お母さんにも言われたし、朝すごく寒かったから」
「よかった。昨日みたいに雨じゃないけど、風邪ひいたら大変だもんね」
「千夏も気をつけてね」
ひよりはそう答え、少しだけ笑った。
何でもない会話だった。
けれど、こうして毎日一緒に帰る時間も、ひよりにとっては大切なものだった。
◇
夕方、真樹は自宅へ戻ると、ノアと一緒に庭へ出た。
空はまだ明るかったが、冬の夕方らしい冷たい風が吹いている。
ノアは庭の端まで歩いてから振り返り、真樹がついてきていることを確かめるように尻尾を動かした。
「分かってるよ。ちゃんと見てるから」
真樹が声を掛けると、ノアは安心したように歩き始めた。
真樹はその姿を眺めながら、今日の学校での出来事を思い出していた。
蓮との会話。
授業で扱った歴史の資料。
昼休みに玲奈が沙耶と楽しそうに話していたこと。
どれも、普段と大きく変わらない一日だった。
けれど、昨日ひよりと学校の話をしたことで、何でもない出来事を少し違う目で見るようになっていた。
(……天野に話したら、どんな反応するかな)
真樹はふと、そんなことを考えた。
以前は、学校であったことをひよりへ伝える機会はそれほど多くなかった。
けれど、昨日からは少しずつ話すようになっている。
ひよりが自分の学校生活に興味を持ってくれたことが、真樹には嬉しかった。
そのとき、ノアが足元へ戻ってきた。
真樹はしゃがみ込み、黒い毛並みをゆっくり撫でた。
「お前も、天野に会いたいか?」
ノアは真樹の顔を見上げ、尻尾を大きく動かした。
その反応に、真樹は思わず笑った。
「……分かりやすいな」
ノアは何も答えず、ただ嬉しそうに真樹の手へ鼻先を寄せた。
真樹はその頭を撫でながら、ひよりの笑顔を思い出した。
ひよりはノアに会うと、いつも嬉しそうに声を掛ける。
ノアもまた、ひよりの姿を見つけると真っ先に近づこうとする。
その光景を見るたびに、真樹は温かな気持ちになった。
(……また三人で散歩できたらいいな)
真樹はそう考え、ゆっくり立ち上がった。
今すぐ予定を決める必要はない。
互いの都合が合うときに、また自然に会えればいい。
真樹はそう思いながら、ノアと一緒に家へ戻った。
◇
その日の夜、ひよりは自室の机で宿題を終え、短編集の続きを読んでいた。
四つ目の物語は、ようやく終わりに近づいている。
主人公は、昔の友人と再会したあと、互いの知らなかった時間について少しずつ話を聞いていた。
かつて同じ町で過ごしていた二人は、離れていた年月の間に、それぞれ違う経験をしていた。
けれど、知らなかったことを寂しがるだけでなく、これから知っていけることを楽しみにするようになっていく。
ひよりはその場面を読みながら、今日一日のことを思い返した。
朝は悠一から仕事の話を聞いた。
学校では千夏が模様替えを楽しみにしていることを知った。
海斗からは、今まであまり読まなかった種類の本を楽しめるようになってきたと聞いた。
そして、真樹とは昨日、互いの学校生活について話した。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、相手のことを少しずつ知る時間が、ひよりには嬉しかった。
物語を読み終えると、ひよりは本を閉じ、しばらく表紙を見つめた。
(……いいお話だったな)
主人公と友人は、昔とまったく同じ関係へ戻ったわけではない。
けれど、今の互いを知ることで、新しい関係を作り始めていた。
ひよりはその結末が好きだった。
昔の思い出を大切にすることと、今の相手を知ろうとすること。
その二つは、どちらか一方を選ばなければならないものではないのだろう。
ひよりは水色のノートを開き、四つ目の物語の感想を書き始めた。
『昔の相手を知っていることと、今の相手を知っていることは違う。変わったところを寂しがるだけじゃなくて、新しく知れたことを喜べたら素敵だと思う。』
書き終えたあと、ひよりは少しだけ考えた。
今日、千夏と話したことが頭に浮かぶ。
親友だから何でも知っていると思っていた。
けれど、千夏にも自分の知らない楽しみがある。
それを知れたことが、ひよりには嬉しかった。
ひよりはノートの余白へ、もう一文を書き足した。
『知らなかったことを聞けるのは、これからも仲良くなれるということなのかもしれない。』
その文章を見つめながら、ひよりは穏やかに微笑んだ。
そして、ふと真樹のことを思い出した。
真樹はこの物語を、どんな気持ちで読んだのだろう。
故郷へ戻った主人公の気持ちを、どう受け止めたのだろう。
ひよりは少し考えてから、スマートフォンを手に取った。
昨日も話したばかりだったが、今日は短編集の四つ目を読み終えたことを伝えたくなった。
ひよりはメッセージ画面を開き、ゆっくり文章を入力した。
『北条君、こんばんは! 今日、短編集の四つ目のお話を読み終わったよ』
送信してから、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。
すぐに返事が来るとは限らない。
真樹にも自分の時間がある。
ひよりはその間にノートを整理し、明日の授業で使う教科書を鞄へ入れた。
しばらくすると、スマートフォンが短く震えた。
『こんばんは、天野。四つ目まで読んだんだね』
『どうだった?』
ひよりは画面を見つめ、嬉しそうに笑った。
『すごくよかったよ。昔の友達と再会して、知らなかったことを少しずつ知っていくところが好きだった』
『北条君は、あのお話のどこが好き?』
送信すると、少し間を置いて返事が届いた。
『俺は、主人公が昔の町を歩く場面が好きかな』
『同じ場所でも、時間が経つと見え方が変わるところが面白いと思った』
ひよりはその文章を読み、目を輝かせた。
『あっ、私もそこ好き! 昨日の国語の授業でも似たような文章を読んだんだ』
『昔と同じ道でも、自分が変わると違って見えるっていうお話だったの』
真樹からは、すぐに返事が届いた。
『そうなんだ。偶然だけど、面白いね』
『天野は授業でどんなことを考えた?』
ひよりはその質問を読み、少しだけ考えた。
昨日の授業では、自分が変わったからこそ気づけることがあると発言した。
千夏と話したあとには、変わることには寂しさもあるのだと気づいた。
ひよりはその二つを思い出しながら、丁寧に文章を入力した。
『同じ景色でも、見る人が変われば違って感じるのかなって思ったよ』
『でも、千夏と話してたら、変わったことを寂しく思う気持ちもあるんだなって気づいたの』
真樹はその返事を読み、少しだけ考えた。
ひよりは自分の考えだけでなく、千夏との会話から気づいたことも大切にしている。
その姿勢が、真樹にはとても彼女らしく感じられた。
『なるほど。確かに、懐かしいだけじゃないよね』
『俺は、変わったことを受け入れるのも、その人との関係を続けるためには大事なのかなって思った』
ひよりはその言葉を読み、しばらく画面を見つめた。
変わったことを受け入れる。
その考え方は、自分が書いた感想にも少し似ていた。
けれど、真樹の言葉を聞くと、また違う意味が見えてくる。
(……北条君は、関係を続けることまで考えたんだね)
ひよりは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
『北条君の感想、すごく好きだな』
『私、変わったことを知るのが嬉しいって考えてたけど、受け入れることも大事なんだね』
真樹はその文章を読み、自然に微笑んだ。
ひよりが自分の考えを大切に受け止めてくれたことが嬉しかった。
『ありがとう。でも、天野の感想もいいと思うよ』
『知らなかったことを喜べるって、簡単そうで難しいこともあるから』
ひよりはその返事を読み、少しだけ考えた。
確かに、知らなかったことが必ずしも嬉しいとは限らない。
相手が自分の知らない場所で楽しく過ごしていると聞いて、寂しくなることもあるかもしれない。
それでも、相手の毎日を知りたいと思うことはできる。
ひよりはその考えを、ゆっくり文章にした。
『そうだね。でも、私は北条君の知らなかったことを聞けると嬉しいよ』
『昨日も学校の話を聞けて楽しかったし、またいろんなこと教えてほしいな』
真樹はその文章を読み、少しだけ息を止めた。
ひよりは、また自分のことを知りたいと言ってくれている。
それが友達としての自然な言葉だと分かっていても、胸の奥が温かくなった。
『もちろん。天野も、また学校の話とか聞かせて』
『うん! 今日もいろいろあったから、また話すね』
二人はそのあと、短編集のほかの物語についても少し話した。
ひよりは三つ目の物語で気になった場面を伝え、真樹は自分がその場面をどう読んだのかを説明した。
同じ物語を読んでいても、印象に残るところは少しずつ違う。
けれど、その違いを知ることが、二人には楽しかった。
やがて時計を確認すると、思っていたより時間が過ぎていた。
『北条君、そろそろ明日の準備するね。今日も感想を話せて楽しかったよ』
ひよりが送ると、真樹から返事が届いた。
『俺も楽しかった。残りのお話も、ゆっくり読んでね』
『うん。読み終わったら、また感想聞いてね』
『もちろん。おやすみ、天野』
『おやすみなさい! ノアにもよろしくね』
ひよりは最後のメッセージを送り、スマートフォンを机へ置いた。
そのあと、水色のノートをもう一度開いた。
今日の感想を読み返し、最後に小さく書き足す。
『相手のことを知るのは、昔の答えを探すことじゃなくて、今のその人を知ることなのかもしれない。』
ひよりはその文章を見つめ、穏やかに微笑んだ。
真樹のことも、千夏のことも、家族のことも。
まだ知らないことはたくさんある。
けれど、それを少しずつ知っていけるなら、毎日は今よりもっと楽しくなるのかもしれない。
ひよりはノートを閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
◇
同じころ、真樹は自室で『雨上がりの手紙』を開いていた。
足元ではノアが静かに眠っている。
真樹はひよりとのやり取りを思い出しながら、しおりを挟んだページへ目を向けた。
ひよりは、自分の知らなかったことを聞けると嬉しいと言ってくれた。
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
真樹は少しだけ笑い、ノアへ視線を向けた。
「……天野って、本当に人の話を聞くのが好きなんだな」
ノアは眠ったまま耳を動かした。
真樹はその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
ひよりはまだ、自分の恋心を知らない。
そして、今すぐ知ってもらう必要もないと思っている。
ただ、彼女が自分のことを知りたいと思ってくれる時間を、大切にしたかった。
真樹は本へ視線を戻し、続きを読み始めた。
物語の中では、手紙を書いた人物と受け取った人物が、互いの知らなかった事情を少しずつ理解しようとしている。
真樹はその描写を読みながら、ひよりがこの本を好きな理由を、以前より少し深く理解できた気がした。
(……俺も、天野のことをもっと知りたいな)
そう思いながら、ページをめくる。
窓の外では、冬の夜が静かに深まっていた。
ひよりもまた、自室の明かりを落とし、明日の学校へ向けて眠る準備をしているころだろう。
二人はまだ、互いの気持ちをすべて知っているわけではない。
それでも、同じ本を読み、違う感想を伝え合う時間は、少しずつ二人の距離を変えていた。
知らないことがあるからこそ、聞いてみたいと思う。
違う考え方があるからこそ、もっと話してみたいと思う。
そんな小さな気持ちが積み重なり、木曜日の夜は穏やかに更けていった。




