第57話 君の何気ない言葉が、私の一日を少し変えていく
水曜日の朝、天野ひよりがカーテンを開けると、昨日までの雨が嘘のように澄んだ空が広がっていた。
窓ガラスの向こうには薄い雲がゆっくり流れ、住宅街の屋根には朝日が柔らかく降り注いでいる。道路の端には昨夜の雨が残した小さな水たまりがあり、通りかかった自転車がその脇を慎重に走り抜けていった。
ひよりは窓辺に立ったまま、少しだけ空を眺めた。
(今日はいいお天気になりそう。昨日は帰るときに雨が降ってたから、何だか久しぶりに青い空を見た気がするな)
窓を少し開けると、冷たい空気が頬に触れた。雨上がりの湿った土の匂いが微かに漂い、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
ひよりは寒さに肩をすくめながら窓を閉め、机の上へ視線を向けた。
そこには、土曜日に真樹と訪れた書店で購入した短編集と、水色の感想ノートが並んでいる。
昨夜は真樹と学校生活についてメッセージを交わしたあと、四つ目の物語を少しだけ読み進めた。まだ物語の途中だったが、主人公が久しぶりに故郷へ帰り、以前とは違う気持ちで昔の景色を眺める場面が印象に残っていた。
ひよりは本の表紙にそっと触れた。
真樹が薦めてくれた本を読むようになってから、物語の中で気になったことを、以前より長く考えるようになった気がする。
それまでも読書は好きだったし、登場人物の気持ちを想像することもあった。けれど今は、自分がどう感じたのかだけでなく、誰かが同じ場面を読んだらどう受け止めるのかまで、自然に考えるようになっている。
(北条君は、このお話のどこが好きなんだろう。全部読み終わってから聞こうと思ってたけど、途中の感想を話すのも楽しそうだな)
そう考えたところで、ひよりは昨夜のやり取りを思い出した。
真樹には神崎蓮という仲のよい友達がいて、歴史の授業が好きなのだという。
考えてみれば、真樹がどんな学校生活を送っているのか、今まであまり詳しく尋ねたことがなかった。
初めて出会ったときは、黒犬のノアの飼い主という印象が強かった。
それから少しずつ話すようになり、本が好きなことや、穏やかで人の話を丁寧に聞いてくれることを知った。
けれど、真樹が学校で友達と笑っているところも、授業を受けているところも、ひよりは見たことがない。
(……知らないことがいっぱいあるんだね。でも、昨日みたいに少しずつ聞けたら、それだけで嬉しいかも)
ひよりは机の上のノートを開き、昨夜書いた一文を読み返した。
『知らない毎日を、少しずつ教えてもらうのも楽しい。』
自分で書いた言葉なのに、朝の光の中で見ると、昨夜より少し明るく感じられた。
そのとき、廊下から軽い足音が聞こえた。
「ひより、起きてる?」
姉の美月だった。
「うん。起きてるよ!」
「よかった。お母さんが朝ご飯できたって。今日は私も早く出るから、先に食べちゃおうと思って」
「分かった。すぐ行くね」
ひよりはノートを閉じ、制服へ着替え始めた。
階段を下りると、台所から焼いたパンの香りが漂ってきた。
食卓にはスクランブルエッグとサラダ、温かなスープが並んでいる。母の由美は台所で最後の皿を用意しており、父の浩介は食卓の端で新聞を読んでいた。
「おはよう、ひより。今日はよく晴れたわね」
「おはよう、お母さん。うん、窓から見たらすごく綺麗だったよ」
ひよりが椅子に座ると、由美はスープの入った器を目の前へ置いてくれた。
「昨日は傘を使ったでしょう? 帰ってからちゃんと乾かした?」
「あっ……玄関で広げておいたけど、まだ畳んでないかも」
「それなら帰ってから片づけておいてね。濡れたまましまうと傷んじゃうから」
「うん、そうする。昨日は持たせてくれてありがとう」
ひよりが素直に礼を言うと、由美は柔らかく微笑んだ。
隣では美月がパンにバターを塗りながら、そんな二人の会話を聞いていた。
「ひよりって、昔から雨の日に本を濡らさないようにするのはすごく気をつけるのに、自分の傘のことは忘れるよね」
「えっ、そんなことないよ。昨日だって、ちゃんと袋に入れて帰ってきたもん」
「そういうところがひよりらしいって話」
美月が楽しそうに笑うと、ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
浩介も新聞から顔を上げ、穏やかな声で会話に加わる。
「でも、借りた本を大事にするのはいいことだよ。お父さんも昔、図書館で借りた本を雨から守ろうとして、自分の肩だけびしょ濡れになったことがあるからね」
「あなた、それを自慢するような話じゃないでしょう」
由美が呆れたように言うと、浩介は困った顔で笑った。
「いや、もちろん傘の使い方は気をつけたほうがいいという話だよ」
そのやり取りに、ひよりも美月も笑い出した。
家族と一緒に食事をしていると、朝の時間は思っているより早く過ぎていく。
ひよりは温かなスープを飲みながら、昨日の夜に真樹と話したことを思い出した。
自分の学校での出来事を伝えると、真樹はいつも丁寧に返事をしてくれる。
それが当たり前のように感じられるほど、二人は自然にメッセージを交わすようになっていた。
けれど、当たり前だと思えることほど、実は大切なのかもしれない。
ひよりはそんなことを考えながら、残りの朝食を食べ終えた。
◇
青葉高校へ向かう道には、昨日の雨で落ちた葉がところどころに残っていた。
ひよりは足元に気をつけながら歩き、校門へ続く坂道を上っていく。
校舎の窓には朝日が反射しており、昇降口の近くでは部活動の朝練を終えた生徒たちが楽しそうに話していた。
教室へ入ると、千夏がすでに席についていた。
「おはよう、ひより。今日は晴れてよかったね」
「おはよう、千夏。うん、昨日の帰りは結構降ってたもんね」
ひよりは鞄を机へ置き、教科書を取り出した。
千夏はその様子を見ながら、少しだけ首を傾げる。
「ひより、何かいいことあった?」
「えっ? どうして?」
「朝から楽しそうだから。別に変ってわけじゃないけど、何となく」
ひよりは少し考えてから、昨日の夜のことを思い出した。
「昨日ね、北条君と学校の話をしたんだ」
「北条君と?」
「うん。今まで本とかノアの話をすることが多かったから、学校ではどんなふうに過ごしてるのかなって気になって」
ひよりは椅子へ座りながら、嬉しそうに言葉を続けた。
「北条君、歴史の授業が好きなんだって。それから、神崎蓮君っていう仲のいいお友達がいるらしいの」
千夏はその名前を聞き、少し興味深そうに頷いた。
「へえ。北条君にも、いつも一緒にいる友達がいるんだね」
「うん。考えてみれば当たり前なんだけど、私、北条君の学校でのことってあまり知らなかったなって」
「学校が違うんだから、そういうものじゃない? でも、相手の普段の様子を知ると、ちょっと身近に感じるよね」
「そうなの。昨日もそんな感じだった」
ひよりは笑顔で答えた。
千夏はその表情を見ながら、胸の奥で静かに考えていた。
ひよりは真樹の話をするとき、以前よりも自然に笑うようになっている。
もちろん、それだけで恋愛感情が芽生えたと決めつけることはできない。
ひよりにとって真樹は、失恋したあとも変わらず接してくれた大切な友達だ。
ただ、最近のひよりは、真樹が自分へ何をしてくれるかだけでなく、真樹自身がどんな毎日を送っているのかにも興味を持ち始めているようだった。
(……北条君のこと、少しずつ知りたいって思ってるんだね)
千夏はそう感じたが、今は何も言わなかった。
ひよりが自分の気持ちをどう受け止めるのかは、本人の時間の中で決まっていくことだからだ。
「そういえば、ひより。昨日話してた短編集、今どこまで読んだの?」
千夏が話題を変えると、ひよりは鞄から水色のノートを取り出した。
「四つ目のお話を読み始めたところだよ。まだ途中なんだけど、主人公が昔住んでた町に帰るところが印象に残ってて」
「故郷に帰るお話なんだ?」
「うん。でも、ただ懐かしいっていうだけじゃなくてね。昔は当たり前だと思ってた景色が、大人になって見ると少し違って感じられるみたいなの」
ひよりは物語の内容を思い出しながら、言葉を選んだ。
千夏は机に肘をつかず、身体を少しひよりのほうへ向けて聞いていた。
「何だか分かる気がするな。小学校のころによく通った道とか、今歩くとすごく短く感じたりするもん」
「あっ、それに近いかもしれない。昔は遠いと思ってた場所が、今はすぐそこに感じられるとか」
「逆に、昔は平気だった場所が、今だとちょっと寂しく感じることもあるよね」
千夏がそう言うと、ひよりは少し目を瞬かせた。
物語の主人公も、かつて賑やかだった通りが静かになっていることに気づき、懐かしさだけではない感情を抱いていた。
「……千夏の言い方、何だかそのお話に合ってるかも」
「本当? まだ読んでないのに?」
「うん。だから、千夏にもいつか読んでほしいな」
ひよりが嬉しそうに笑うと、千夏もつられて微笑んだ。
そのとき、教室の扉が開き、海斗が入ってきた。
海斗は近くの友人と挨拶を交わしてから自分の席へ向かい、ひよりたちの姿に気づくと軽く手を上げた。
「おはよう、天野さん、藤崎さん」
「おはよう、橘君」
ひよりが答えると、海斗は鞄を下ろしながら、少しだけ嬉しそうな表情を浮かべた。
「昨日、帰ってから『雨上がりの手紙』を結構読めたんだ」
「本当?」
「うん。手紙を受け取った人の事情が分かってきたところまで進んだよ。最初に読んだときと、手紙の印象が変わってきた気がする」
海斗は文庫本を取り出し、表紙を見ながら続けた。
「最初は、書いた人がすごく遠慮してるように感じたんだ。でも、受け取った側のことが分かると、あの言葉を選んだ理由も少し違って見えてきてさ」
ひよりはその説明を聞きながら、静かに頷いた。
自分が好きだったところを、海斗も丁寧に読んでくれている。
そのことが嬉しかった。
「うん。私もそこ、印象に残ってるよ。どっちの気持ちも分かるから、簡単にどちらが正しいって言えないんだよね」
「そうなんだよ。俺、最初はもっと素直に書けばいいのにって思ったんだけど、事情を知ると、それも簡単じゃないんだなって」
海斗は少し考え込むように視線を落とした。
「言葉って、書いた人の気持ちだけで決まるわけじゃないんだね。受け取る人が何を知ってるかでも、意味が変わるんだなって思った」
ひよりはその言葉を聞き、昨日真樹と話したことを思い出した。
同じ言葉でも、相手がどんな毎日を送っているかを知らなければ、気づけないことがあるのかもしれない。
「橘君の感想、面白いね。私、そこまで言葉にして考えてなかったかも」
ひよりが素直に答えると、海斗は少し驚いたように顔を上げた。
「そう? 天野さんなら、もっといろいろ考えてると思ってた」
「私も考えてはいるけど、全部気づけるわけじゃないよ。だから、橘君の感想を聞けて嬉しいな」
ひよりは穏やかに笑った。
海斗はその笑顔を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分の考えを、ひよりがちゃんと受け止めてくれる。
それが嬉しくて、もう少し話していたいと思った。
(……天野さんって、相手の話を聞くとき、本当に楽しそうにするんだな)
海斗はそう思いながら、文庫本を鞄へ戻した。
「まだ最後まで読んでないから、読み終わったらまた話してもいい?」
「もちろん。私も楽しみにしてるよ」
ひよりが答えると、海斗は嬉しそうに頷いた。
千夏はそのやり取りを聞きながら、二人の表情を静かに見比べていた。
ひよりは純粋に本の感想を話せることを喜んでいる。
海斗も本を楽しんでいるのは確かだが、それだけではないようにも見える。
ただ、今の海斗自身が、その気持ちをはっきり理解しているかどうかは分からなかった。
千夏は余計なことを言わず、朝のホームルームが始まるまでの時間を三人で過ごした。
◇
同じころ、桜陵学園の教室では、北条真樹が机の上に歴史の教科書を広げていた。
午前の授業で扱う予定の範囲に目を通していると、隣から蓮が声を掛けてきた。
「真樹、おはよう。朝から予習?」
「おはよう。昨日の続きが気になったから、少し読んでただけだよ」
「相変わらずだな。俺なんて、昨日の課題を終わらせるだけで精一杯だったのに」
蓮は冗談めかして言いながら、真樹の机の横へ立った。
真樹は教科書を閉じず、少し笑って答える。
「お前、昨日は早めに終わったって言ってなかったか?」
「終わったよ。でも、終わったあとに別のことしてたら、思ったより時間が過ぎてただけ」
「それなら仕方ないな」
真樹が穏やかに返すと、蓮は少し肩をすくめた。
二人の会話はいつも通りだった。
けれど、蓮は真樹の表情が以前より柔らかくなっていることに気づいていた。
最近の真樹は、何かを楽しみにしているような様子を見せることが増えた。
それがひよりとの交流によるものだということも、蓮は知っている。
「そういえば、昨日は天野さんと話した?」
蓮が何気なく尋ねると、真樹は少しだけ目を瞬かせた。
「ああ。学校のことを聞かれたよ」
「学校?」
「普段どんなふうに過ごしてるのかって。歴史の授業が好きなこととか、休み時間のこととか話した」
真樹はそこで少し笑った。
「お前の名前も出したよ」
「俺?」
蓮は思わず自分を指さした。
「何て紹介したんだ?」
「同じ学校の友達で、よく話すって。それから、たまに余計なことも言うけど、いいやつだって」
「おい、余計なことって何だよ」
蓮は呆れたように言ったものの、すぐに笑い出した。
「まあ、間違ってないかもしれないけどさ。天野さん、どんな反応だった?」
「仲のいい友達なんだねって。いつかどんな人なのか聞いてみたいって言ってた」
真樹が答えると、蓮は少しだけ表情を和らげた。
「へえ。じゃあ、いつか会うこともあるかもしれないな」
「そうだな。機会があったら紹介するって返したよ」
真樹は自然な口調で言った。
蓮はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
自分はまだ、ひよりに直接会ったことがない。
真樹から話を聞く限り、穏やかで本が好きな女の子なのだろうと思っている。
ただ、真樹がどうして彼女を好きになったのか、その理由をすべて理解しているわけではない。
(……いつか会えたら、真樹が好きになった理由も少し分かるのかな)
蓮はそう思いながら、友人へ視線を戻した。
「まあ、紹介してくれるなら楽しみにしてるよ。天野さんには、俺が余計なことばっかり言うやつじゃないって説明しといてくれ」
「それは実際に会ってから判断してもらうよ」
「ひどいな、お前」
蓮が笑うと、真樹も小さく笑った。
そのとき、教室の入り口から玲奈が入ってきた。
玲奈は友人たちと挨拶を交わしながら自分の席へ向かい、真樹たちの姿に気づくと柔らかく微笑んだ。
「真樹、蓮君、おはよう」
「おはよう、一ノ瀬」
「おはよう」
二人が返事をすると、玲奈は鞄を机へ置いた。
昨日、真樹との喫茶店の予定が決まったことを思い出し、玲奈の胸には小さな喜びが広がった。
再来週の土曜日、午後二時に駅で待ち合わせる。
それはまだ少し先の約束だったが、日付と時間が決まったことで、以前よりずっと現実的なものに感じられた。
玲奈は昨夜、店の案内をもう一度確認していた。
ただ、どんな話をするかまでは決めていない。
真樹と二人で過ごす時間を楽しみにしている一方で、意識しすぎて普段通りに話せなくなったらどうしようという不安もあった。
(……いつも通りでいいんだよね。真樹と話すのは、初めてじゃないんだから)
玲奈はそう自分へ言い聞かせながら、教科書を取り出した。
真樹は玲奈の様子に特別な違和感を覚えることなく、蓮との会話へ戻っていた。
玲奈はその横顔を一度だけ見つめ、ゆっくり視線を落とした。
自分にとって特別な約束でも、真樹にとっては幼なじみとの普通の外出なのかもしれない。
その違いを考えると、少し寂しくなる。
けれど、今は約束ができたことを素直に喜びたかった。
◇
午前の授業が進むにつれ、青葉高校の教室には明るい日差しが差し込むようになった。
ひよりは国語の授業で配られた文章を読みながら、教師の説明へ耳を傾けていた。
今日扱っているのは、ある人物が幼いころに過ごした町を訪れ、昔の記憶と現在の景色を比べる随筆だった。
偶然にも、昨夜読み始めた短編集の物語と少し似た題材だったため、ひよりはいつも以上に興味を持って文章を読んでいた。
教師は黒板へ一節を書き出し、生徒たちへ問い掛けた。
「ここで筆者は、昔と同じ道を歩いているのに、違う場所へ来たように感じています。これは単に町の様子が変わったからでしょうか。それとも、ほかにも理由があると思いますか」
教室のあちこちで、教科書を読み返す音がした。
ひよりも文章へ目を落とし、少し考えた。
筆者が訪れた町には、昔のまま残っている建物もある。
けれど、筆者自身はすでに大人になっていて、幼いころと同じ気持ちでは景色を眺められない。
その違いが、文章の中で丁寧に描かれているように思えた。
教師が何人かの生徒へ意見を求めたあと、ひよりも手を挙げた。
「天野さん、どうぞ」
「はい。町が変わったこともあると思うんですけど、筆者自身が大人になって、昔とは違う経験をしてきたことも関係していると思います。同じ道でも、今の自分だから気づけることがあるのかなって」
ひよりは少し緊張しながら答えた。
教師は頷き、黒板の文章へ視線を向けた。
「なるほど。景色を見る側の変化ですね。確かに、本文にもそれを示す表現があります。ほかの人はどうでしょう」
そこから、別の生徒の意見が続いた。
ひよりは自分の発言をノートへ書き留めながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。
昨夜読んだ物語と、今日の授業で扱った文章。
内容は違っていても、どちらにも共通する考え方がある。
ひよりはそのつながりを見つけられたことが嬉しかった。
(……本を読んでると、学校の授業でも気づけることが増えるんだね)
授業が終わったあと、千夏がひよりの席へやってきた。
「さっきのひよりの意見、よかったね」
「ありがとう。でも、昨日読んだお話と少し似てたから、考えやすかっただけかも」
「それでも、ちゃんと自分の言葉で説明できてたじゃん。私、最初は町が変わったことばっかり考えてたから、なるほどって思ったよ」
千夏はそう言って、自分のノートを見せた。
そこには教師が黒板へ書いた言葉の横に、小さく『見る人の変化』と書き加えられていた。
ひよりはそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「千夏も書いてくれたんだ」
「うん。自分では思いつかなかったから。こういうのって、友達の意見を聞くと面白いよね」
「そうだね。私も、千夏の考えを聞くと気づくことがあるよ」
二人はしばらく授業の話を続けた。
その近くでは、海斗が自分のノートを整理していた。
ひよりが授業中に発言した内容を、海斗も聞いていた。
以前の班活動でも感じていたことだが、ひよりは文章を読むとき、登場人物や筆者の気持ちを丁寧に考える。
しかも、自分の意見を正解として押しつけるのではなく、ほかの人の考えも受け止めようとする。
海斗はその姿勢を、素直にすごいと思っていた。
(……天野さんと本の話をすると、俺ももっとちゃんと読んでみようって思うんだよな)
海斗はノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。
校庭には昼前の日差しが広がり、体育の授業を受けている生徒たちの声が聞こえてくる。
海斗は今日の帰宅後も『雨上がりの手紙』を読み進めようと考えた。
ひよりと感想を話すためだけではない。
物語そのものが面白くなってきたことも、確かだった。
けれど、読み終えたあとにひよりがどんな顔で話を聞いてくれるのか、楽しみにしている自分もいた。
◇
昼休み、桜陵学園では玲奈が沙耶と一緒に昼食を取っていた。
窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、教室の中では友人同士の会話が賑やかに続いている。
沙耶は弁当箱を開きながら、玲奈へ顔を向けた。
「そういえば、玲奈。喫茶店の予定、ちゃんと決まったんだよね?」
「うん。再来週の土曜日、午後二時に駅で待ち合わせることになったよ」
玲奈は少し嬉しそうに答えた。
「お店も前から気になってたところだから、楽しみなんだ」
「よかったね。前に話してたとき、時間が合うか少し心配してたもんね」
「そうなの。でも、ちゃんと予定を確認してくれたから」
玲奈は箸を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
真樹は約束を曖昧にせず、予定を確かめてから返事をしてくれた。
それは真樹らしい誠実さだと思う。
玲奈は幼いころから、そういうところを何度も見てきた。
けれど、今はその何気ない行動さえ、以前より特別に感じてしまう。
沙耶は玲奈の表情を見て、柔らかく微笑んだ。
「玲奈、本当に楽しみなんだね」
「……うん。久しぶりに、ゆっくり話せそうだから」
玲奈は少し照れたように答えた。
沙耶はそれ以上詳しく尋ねなかった。
玲奈が誰と出かけるのか、どんな気持ちでその日を待っているのか、沙耶にも気になるところはある。
ただ、玲奈がまだ言葉にしていないことを、無理に聞き出すつもりはなかった。
「だったら、当日は楽しんできてね。お店の感想、あとで聞かせて」
「うん。ありがとう、沙耶」
玲奈はそう答え、少し肩の力を抜いた。
昼食を終えたあと、二人は午後の授業で使う資料を確認した。
玲奈はノートを開きながら、ふとひよりのことを思い出した。
ひよりと喫茶店へ行った日も、こんなふうに楽しみにしていた。
初めて二人だけでゆっくり話すことに少し緊張していたが、実際に会ってみると、ひよりは自然に笑ってくれた。
学校のことや好きな本のことを話し、互いの知らない一面を少しずつ知ることができた。
玲奈はその時間を、今でも大切に思っている。
(……ひよりちゃんとも、また会いたいな)
そう考えたあと、玲奈は少しだけ複雑な気持ちになった。
ひよりと友達でいたいという気持ちは本当だ。
けれど、真樹がひよりと親しくしていることを考えると、胸の奥に小さな寂しさが生まれることもある。
ひよりは何も悪くない。
真樹も、玲奈を傷つけようとしているわけではない。
だからこそ、自分の感情をどう扱えばいいのか分からなくなることがあった。
玲奈はノートの端を指先で押さえ、ゆっくり息を整えた。
(……今は、二人とも大切にしたい。それでいいよね)
答えを急ぐ必要はない。
そう思いながら、玲奈は午後の授業へ意識を向けた。
◇
放課後、青葉高校の教室では、帰り支度をする生徒たちの声が広がっていた。
ひよりは机の中を確かめ、宿題に必要な教科書を鞄へ入れていた。
千夏は隣で、今日の国語の授業についてまだ少し考えているようだった。
「ねえ、ひより。今日の随筆、もう一回読んでみようかな」
「授業で読んだところ?」
「うん。最初は普通に読んでたけど、みんなの意見を聞いたあとだと、違うところが気になりそうだから」
千夏は教科書を閉じながら言った。
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「分かるよ。私も、家でもう一度読んでみたいなって思ってた」
「じゃあ、明日また話そうよ。ひよりがどんなことに気づいたか聞きたい」
「うん。私も千夏の感想、楽しみにしてる」
二人はそんな約束を交わし、教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちが行き交い、窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。
昇降口へ向かう途中、千夏はひよりへ何気なく尋ねた。
「そういえば、今日は北条君に連絡するの?」
ひよりは少し考えた。
「うーん、まだ決めてないよ。昨日も話したし、今日は短編集の続きを読もうかなって思ってる」
「そっか。じゃあ、今日は読書の日だね」
「うん。でも、北条君も『雨上がりの手紙』を読んでる途中だから、読み終わったら感想を聞きたいな」
ひよりはそう答え、靴を履き替えた。
千夏はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
ひよりは真樹とのやり取りを楽しみにしている。
けれど、毎日必ず連絡しなければならないと思っているわけではない。
互いに自分の時間を過ごしながら、話したいことができたら言葉を交わす。
今の二人には、そんな自然な距離感があるように見えた。
校門を出ると、昨日とは違う明るい空が広がっていた。
雨上がりの道路はすっかり乾き始めており、街路樹の葉が風に揺れている。
ひよりと千夏は並んで歩きながら、今日の授業や週末の予定について話した。
途中、千夏がふと足を緩めた。
「ひより、最近ちょっと変わったよね」
「えっ? 何が?」
ひよりは驚いて顔を向けた。
千夏は少し考えてから、穏やかに答えた。
「前より、自分からいろんなことを話すようになった気がする。好きな本のこともそうだし、学校で気づいたこととか、誰かと話して面白かったこととか」
ひよりはその言葉を聞き、少しだけ目を瞬かせた。
自分では、そこまで大きく変わったつもりはなかった。
けれど、思い返してみると、最近は確かに誰かへ話したいことが増えている。
「……そうかな」
「うん。もちろん、前からひよりは本の話になると楽しそうだったけどね。でも今は、自分が好きなものを誰かに知ってもらうのも、誰かの好きなものを知るのも楽しそう」
千夏は優しく笑った。
ひよりはその言葉を胸の中でゆっくり受け止めた。
以前は、自分の気持ちを伝えることが怖くなった時期もあった。
颯太に告白したあと、相手へ気持ちを伝えることそのものに少し臆病になっていたのかもしれない。
けれど、真樹や千夏、海斗と本の話をしているうちに、自分の考えを言葉にする楽しさを少しずつ思い出していた。
(……私、ちゃんと変わってきてるのかな)
ひよりは少しだけ視線を落とした。
変わることが、必ずしも以前の自分を否定することではない。
好きだった気持ちも、傷ついた経験も、今の自分につながっている。
そのうえで、新しい楽しみを見つけられるのなら、それは嬉しいことだと思えた。
「……ありがとう、千夏」
ひよりが静かに言うと、千夏は少し驚いたように顔を向けた。
「えっ、どうしたの?」
「何だか、嬉しかったから。自分じゃ気づかなかったことを、千夏が教えてくれた気がして」
ひよりは少し照れながら笑った。
千夏はその表情を見て、柔らかく微笑んだ。
「それならよかった。私も、ひよりが楽しそうにしてると嬉しいよ」
二人はそれ以上大げさなことを言わず、いつもの道を歩き続けた。
やがて分かれ道へ着くと、千夏は手を振った。
「じゃあ、また明日ね。今日の随筆、ちゃんと読み返しておくから」
「うん。私も読んでおくね。気をつけて帰ってね」
ひよりは笑顔で手を振り返し、自宅へ向かって歩き出した。
千夏の言葉が、胸の奥に温かく残っていた。
◇
その日の夕方、真樹は自宅の庭でノアと過ごしていた。
昨日の雨で湿っていた地面は少しずつ乾き、庭木の葉には夕日が柔らかく差し込んでいる。
ノアは足元の芝生を確かめるように歩き回り、ときどき真樹のほうへ振り返っていた。
「今日は昨日より歩けたんだから、満足しただろ?」
真樹が声を掛けると、ノアは尻尾を動かしながら近づいてきた。
真樹はその頭を撫で、少しだけ笑った。
昨日は雨のため散歩が短くなってしまったが、今日はいつものように外を歩くことができた。
ノアも機嫌がよさそうだった。
真樹は庭の端にあるベンチへ腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。
画面には、昨日ひよりと交わしたメッセージが残っている。
学校での過ごし方を尋ねられたこと。
蓮の名前を伝えたこと。
ひよりが自分の学校生活について話してくれたこと。
どれも何気ないやり取りだったが、真樹にとっては嬉しい時間だった。
(……天野が俺のことを知りたいと思ってくれた。それが、こんなに嬉しいんだな)
真樹はそう考えながら、少しだけ空を見上げた。
ひよりとは学校が違う。
毎日顔を合わせることはできない。
それでも、メッセージを交わしたり、休日に会ったりすることで、少しずつ互いのことを知っていける。
真樹はその関係を、大切にしたかった。
ただ、昨日ひよりから聞いた海斗の名前が、ふと頭に浮かんだ。
ひよりの学校には、同じ本を読んで感想を話せる男子生徒がいる。
それ自体は何も不思議なことではない。
ひよりが学校で楽しく過ごしているのなら、真樹も嬉しい。
けれど、自分の知らない場所でひよりと時間を共有している相手がいることに、少しだけ落ち着かない気持ちが生まれるのも事実だった。
(……俺が気にすることじゃない。天野には天野の学校生活があるんだから)
真樹は自分へそう言い聞かせ、足元のノアへ視線を向けた。
ノアは芝生の上に座り、真樹を見上げている。
「……お前は気楽でいいな」
真樹が小さく笑うと、ノアは首を傾げた。
その仕草が何だか可笑しくて、真樹はもう一度頭を撫でた。
ひよりへの気持ちは、まだ伝えていない。
そして、今すぐ伝えるつもりもなかった。
ひよりが失恋の痛みから少しずつ立ち直っていることを、真樹は知っている。
だからこそ、自分の気持ちを急いで押しつけることはしたくなかった。
ただ、ひよりと過ごす時間が増えるほど、自分の中で彼女の存在が大きくなっていることも感じていた。
真樹はゆっくり息を吐き、立ち上がった。
「そろそろ戻ろうか、ノア」
ノアはすぐに立ち上がり、真樹の隣へ歩み寄った。
二人が家へ戻るころには、庭の影が少しずつ長くなり始めていた。
◇
夕食を終えたひよりは、自室で今日の国語の授業を振り返っていた。
机の上には教科書とノート、それから真樹に薦められた短編集が並んでいる。
ひよりは授業で扱った随筆をもう一度読み返し、気になった部分へ小さな付箋を貼った。
昔と同じ景色を見ても、今の自分には違って見える。
その考え方は、短編集の四つ目の物語にも通じるものがあった。
ひよりは二つの文章を比べながら、水色のノートへ感想を書き始めた。
『同じ場所でも、見る人が変われば違う景色になる。自分が変わったからこそ、気づけることもある。』
書き終えたあと、ひよりは少しだけ考えた。
今日、千夏は自分が以前よりいろいろなことを話すようになったと言ってくれた。
自分では気づかなかった変化だった。
けれど、千夏の言葉を聞いてから一日を振り返ると、確かに以前とは少し違うように感じられる。
海斗と本の感想を話すこと。
千夏と授業の文章について考えること。
真樹の学校生活を知りたいと思うこと。
どれも、自分の世界が少しずつ広がっているように感じられた。
(……私、前よりいろんなことを楽しめるようになってきたのかな)
ひよりはペンを置き、窓の外へ目を向けた。
夕方の空はすでに暗くなり、住宅街には家々の明かりが灯っている。
遠くから車の走る音が聞こえ、家の中では母が食器を片づける小さな音がしていた。
ひよりはその穏やかな空気の中で、少しだけ微笑んだ。
颯太への想いが、すべて消えたわけではない。
あの日のことを思い出せば、今でも胸が痛むことはある。
けれど、その痛みを抱えたままでも、新しい楽しみを見つけられる。
誰かと笑い合うこともできる。
ひよりはそのことを、少しずつ実感し始めていた。
机の上の短編集を手に取り、四つ目の物語の続きを開いた。
主人公は故郷の町を歩きながら、昔の友人と再会する。
互いに違う場所で過ごしてきた時間があるからこそ、同じ景色を見ても感じ方が違う。
けれど、その違いを知ることで、相手のことを以前より深く理解できるようになっていく。
ひよりはその場面を読みながら、昨日真樹と交わした学校の話を思い出した。
(……北条君も、私の知らない毎日を過ごしてるんだよね。だから、これからもいろんなことを聞いてみたいな)
ひよりはしばらく読み進め、区切りのよいところで本を閉じた。
まだ物語は終わっていない。
けれど、続きを読む楽しみがあることが嬉しかった。
そのとき、机の上のスマートフォンが短く震えた。
画面には、真樹からのメッセージが表示されていた。
『こんばんは、天野。今日は雨が上がってよかったね』
ひよりは思わず笑顔になった。
『こんばんは、北条君! うん、今日はすごくいいお天気だったね』
『ノアもお散歩できた?』
少しして返事が届いた。
『ああ。今日はいつも通り歩けたよ。ノアも満足そうだった』
『よかった! 昨日はちょっと物足りなさそうだったもんね』
ひよりはノアの姿を思い浮かべながら、自然に頬を緩めた。
真樹からは、庭で撮ったノアの写真が送られてきた。
夕日を浴びた黒い毛並みが柔らかく光り、ノアは芝生の上で少し首を傾げている。
『可愛い! 何だか、北条君の話を聞いてるみたいな顔してるね』
ひよりが送ると、真樹から笑っているような返事が届いた。
『ちょうど話しかけてたところだったから、そう見えるのかもしれない』
『何を話してたの?』
ひよりは何気なく尋ねた。
真樹は画面を見つめ、少しだけ考えた。
ノアへ話していたのは、ひよりのことだった。
けれど、そのまま伝えるには少し照れくさい。
真樹は落ち着いて文章を入力した。
『今日はたくさん歩けてよかったなって。ノアは満足そうだったよ』
ひよりはその返事を読み、穏やかに笑った。
『そっか。ノア、きっと嬉しかったんだね』
『また会えたら、いっぱい撫でたいな』
真樹はその言葉を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ひよりはノアのことを、本当に大切に思ってくれている。
その気持ちが嬉しかった。
『ノアも喜ぶと思う。また都合が合う日に散歩しよう』
『うん! 楽しみにしてるね』
二人はそのあと、今日の学校であったことを少しずつ話した。
ひよりは国語の授業で読んだ随筆について伝え、真樹は歴史の授業で扱った昔の町の暮らしについて話した。
ひよりが同じ景色でも見る人によって印象が変わると話すと、真樹は少し考えてから返事を送った。
『歴史でも似たことがあるよ。同じ町でも、そこに住んでいた人の立場によって記録に残ることが違うんだ』
『だから、一つの資料だけじゃ分からないこともある』
ひよりはその文章を読み、目を輝かせた。
『そうなんだ! 何だか本の感想を話すのと似てるね』
『同じものを見ても、気になるところが違うんだね』
真樹はその返事を読み、自然に微笑んだ。
『そうだね。天野と話してると、そういう違いが面白いって思えるよ』
ひよりはその言葉を見つめ、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
自分も同じことを思っていた。
真樹と話していると、今まで気づかなかったことに出会える。
それが嬉しくて、また話したいと思う。
『私もだよ。北条君と話すと、知らなかったことをいっぱい知れるから楽しい』
ひよりはそう送信した。
真樹はその文章を読み、しばらく画面を見つめていた。
ひよりにとっては、友達への自然な言葉なのだろう。
それでも、自分との時間を楽しいと思ってくれていることが、真樹には何より嬉しかった。
『ありがとう。俺も、天野と話す時間が好きだよ』
送信したあと、真樹は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
好きだという言葉を使ったことに、今さら気づいたからだ。
もちろん、話す時間が好きだという意味で送った。
けれど、自分の本当の気持ちを知っているからこそ、少しだけ意識してしまう。
(……変に受け取らせるつもりはないけど、これくらいなら自然だよな)
真樹はそう考え、スマートフォンを机へ置いた。
一方、ひよりはその返事を読み、嬉しそうに微笑んでいた。
『私も、北条君と話す時間が好きだよ!』
ひよりは迷わずそう返した。
その言葉に、特別な意味を込めたつもりはなかった。
真樹と本の話をする時間も、ノアの話をする時間も、学校での出来事を伝え合う時間も、ひよりにとって大切なものだった。
だから、素直にそう伝えたかった。
真樹は届いた返事を読み、思わず息を止めた。
画面に並ぶ文字は、何度読み返しても変わらない。
ひよりは自分と話す時間が好きだと言ってくれている。
それが恋愛感情ではないことは分かっている。
けれど、真樹の胸には静かな喜びが広がっていた。
(……ありがとう、天野)
真樹は心の中でそう呟き、ゆっくり息を吐いた。
それから、落ち着いた文章を返した。
『またいろいろ話そう。短編集の感想も楽しみにしてる』
『うん! 今、四つ目を読んでるところだから、読み終わったら話したいな』
ひよりはそう送信し、机の上の本へ目を向けた。
真樹も『雨上がりの手紙』を読み進めている。
互いに薦めた本を読み、感想を話す。
それは、二人にとって少しずつ当たり前の楽しみになっていた。
やがて時間が遅くなり、ひよりは明日の準備をすることにした。
『北条君、そろそろ明日の準備するね。今日も話せて楽しかったよ』
『俺も楽しかった。おやすみ、天野』
『おやすみなさい! ノアにもよろしくね』
ひよりは最後のメッセージを送り、スマートフォンを机へ置いた。
そのあと、水色のノートを開き、今日の出来事を振り返った。
千夏が、自分は以前よりいろいろなことを話すようになったと言ってくれたこと。
海斗が『雨上がりの手紙』を丁寧に読んでくれていること。
真樹と学校の話をして、互いの考え方の違いを面白いと思えたこと。
どれも大きな事件ではない。
けれど、ひよりの一日を少しずつ明るくしてくれた出来事だった。
ひよりはペンを取り、ノートの新しいページへゆっくり書き始めた。
『誰かの何気ない言葉で、自分の一日が少し変わることがある。』
書き終えたあと、ひよりは少しだけ考え、もう一文を付け加えた。
『私の言葉も、誰かにとってそんなふうになれたら嬉しい。』
ひよりはその文章を見つめ、穏やかに微笑んだ。
誰かの気持ちをすべて理解することはできない。
けれど、知ろうとすることはできる。
言葉を交わし、相手の話を聞き、自分の考えを伝える。
そうした小さな積み重ねが、人との距離を少しずつ変えていくのかもしれない。
ひよりはノートを閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
◇
同じころ、真樹も自室でスマートフォンを置いていた。
足元ではノアが静かに眠っている。
真樹は机の上に置いた『雨上がりの手紙』へ視線を向けた。
まだ読み終わっていない物語の中では、登場人物たちが互いの気持ちを少しずつ理解しようとしている。
真樹はその物語を読みながら、自分とひよりの関係についても考えていた。
今はまだ、恋人ではない。
ひよりは自分を大切な友達だと思ってくれている。
その関係を壊したくないという気持ちは、今も変わらなかった。
けれど、ひよりが自分との時間を好きだと言ってくれたことは、真樹にとって大きな喜びだった。
真樹は足元のノアへ目を向け、少しだけ笑った。
「……今日は、いい一日だったよ」
ノアは眠ったまま耳を動かした。
真樹はその様子を見ながら、穏やかに息を吐いた。
ひよりと出会ってから、何気ない日常の中に楽しみが増えた。
本を読んでいても、散歩をしていても、学校で過ごしていても、ふと彼女のことを思い出す。
その気持ちを急いで伝えるつもりはない。
けれど、いつか自分の想いを言葉にするときが来るのなら、今日のような何気ない時間も大切にしてきたことを、きちんと伝えたいと思った。
真樹は本を開き、しおりを挟んでいたページから続きを読み始めた。
窓の外では、冬の夜が静かに深まっている。
ひよりもまた、自室の明かりを少し落とし、明日の学校へ向けて眠る準備をしていた。
二人はまだ、互いの気持ちをすべて知っているわけではない。
それでも、今日交わした何気ない言葉は、それぞれの胸に温かな余韻を残していた。
誰かの言葉が、自分の一日を少し変えることがある。
そして、自分の言葉もまた、知らないうちに誰かの心へ届いているのかもしれない。
水曜日の夜は、そんな小さな変化を静かに抱きながら更けていった。




