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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第56話 あなたの知らない私の一日を、少しだけ


 火曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。昨夜から続いていた冷たい風は少し弱まっているようだったが、カーテンの隙間から見える空には冬らしい淡い色が残っており、布団から出るには少し勇気が必要だった。


 枕元の時計を確かめると、いつも起きる時間より五分ほど早い。ひよりはもう少しだけ布団の温かさを楽しもうかと迷ったものの、机の上に置いた文庫本が目に入り、昨日読んだ物語の続きを思い出して身体を起こした。


(昨日のお話、最後のところが気になったままだったんだよね。帰ってから読もうと思ったけど、朝なら少しだけ時間があるかな)


 昨日の夜、真樹から薦められた短編集の三編目を読み終えたひよりは、感想を水色のノートに書き留めていた。幼いころに同じ町で過ごした二人が、年月を経て再会する物語で、同じ思い出を持っているはずの二人が、それぞれ違う場面を大切に覚えているところが印象に残っていた。


 ひよりはベッドから降り、カーディガンを羽織って机へ向かった。昨夜閉じたままのノートを開くと、花柄の付箋を貼ったページに、自分の文字が並んでいる。


『同じ時間を過ごしても、同じ気持ちになるとは限らない。だから、相手の感じたことを聞いてみたい。』


 改めて読み返してみると、昨夜とは少し違うことを考えた。


 物語の中の二人は、昔の出来事を互いに忘れてしまったわけではなかった。ただ、何を大切に覚えていたのかが違っていただけで、それを知ったからこそ、相手が自分とは違う時間を過ごしてきたことに気づけたのだ。


(私も、北条君のことをまだ知らないことがいっぱいあるんだろうな)


 ひよりはペンを手に取り、ノートの余白に小さく書き足した。


『知らないことがあるのは、寂しいことばかりじゃない。これから聞けることがあるってことかもしれない。』


 書き終えたところで、廊下から足音が近づいてきた。


「ひより、起きてる? 朝ご飯、もう少しでできるって」


 扉の向こうから聞こえたのは、兄の悠一の声だった。


「起きてるよ。今行く!」


 ひよりが返事をすると、悠一は「了解」と短く答えて階段のほうへ戻っていった。ひよりはノートを閉じ、今日の授業で使う教科書を確かめてから、制服へ着替えることにした。


 朝食の席には、すでに父の浩介と母の由美が座っていた。悠一は食卓の端で湯気の立つ味噌汁を飲んでおり、ひよりが入ってくると、自分の隣の椅子を少し引いてくれた。


「おはよう。今日は早いな」


「おはよう、お兄ちゃん。ちょっと本の感想を書いてたの」


「朝から読書か。相変わらず好きだなあ」


 悠一は感心したように笑い、ひよりの前に置かれた皿を少し寄せた。由美が用意した朝食は焼き鮭と卵焼き、それに温かな味噌汁で、台所からは炊きたてのご飯の香りが漂っている。


「最近は、本を読むだけじゃなくて感想を書くのも楽しくなってきたんだ。前からノートには書いてたけど、誰かと話したあとだと、また違うことに気づけるから」


 ひよりがそう説明すると、浩介が新聞を畳んで顔を上げた。


「人と話すと、自分では気づかなかった考え方に出会えるからな。お父さんも、同じ本を読んだ人と話して驚いたことがあるよ」


「お父さんも?」


「ああ。昔、お母さんと同じ小説を読んだことがあってね。お父さんは主人公の仕事のことばかり気になったんだけど、お母さんは主人公の家族の気持ちをよく覚えていたんだ」


 浩介が懐かしそうに言うと、由美は少し笑って箸を置いた。


「そんなこともあったわね。あなた、あのとき主人公の転職先が現実的かどうかをずっと考えていたでしょう」


「そこが気になったんだから仕方ないだろう」


 父母のやり取りに、ひよりは思わず笑った。普段から仲のよい二人ではあるが、同じ本を読んで感想を話していたという話は初めて聞いた気がする。


「でも、そういうのって面白いね。お父さんとお母さんでも、全然違うところを読んでたんだ」


「そうね。ひよりも、お友達とたくさん話してみるといいわ。自分の好きなものを誰かに知ってもらえるのは、嬉しいことだから」


 由美はそう言って、ひよりの茶碗にご飯をよそった。


 ひよりは礼を言いながら受け取り、昨日の真樹とのメッセージを思い出した。自分が好きな『雨上がりの手紙』を、真樹も読んでくれている。学校では海斗も同じ本を読み進めていて、二人がそれぞれどんな感想を持つのか楽しみだった。


 食卓ではそのあとも、今日の天気や悠一の仕事の予定について話が続いた。ひよりは家族の会話に加わりながら、何でもない朝の時間が以前より少し賑やかに感じられることに気づいていた。


 佐伯颯太に気持ちを伝える前は、朝から緊張して食事が喉を通りにくい日もあった。告白したあとの数日間も、家族に心配を掛けないよう笑顔を作っていたことがある。


 今でも、あの日のことを思い出せば胸が少し痛む。


 けれど、その痛みだけが自分の毎日を占めているわけではなくなっていた。


(……こうやって、少しずつ普通に笑えるようになるんだね)


 ひよりは温かな味噌汁を一口飲み、目の前で話している家族の声へ耳を傾けた。


 食事を終えて玄関へ向かうと、由美が台所から声を掛けた。


「ひより、今日は帰りに雨が降るかもしれないから、折り畳み傘を持っていきなさい」


「えっ、雨なの?」


「午後は少し天気が崩れるかもしれないって。使わなくても、持っていれば安心でしょう」


 ひよりは靴箱の横に置いていた紺色の折り畳み傘を取り、鞄の外側のポケットへしまった。


「ありがとう、お母さん。行ってきます!」


 由美の見送りを受けて外へ出ると、ひよりは空を見上げた。雲はまだ薄く、すぐに雨が降り出すようには見えなかったが、風には昨日と違う湿り気が混じっているようだった。


 ひよりはマフラーを整え、学校へ向かって歩き始めた。


     ◇


 青葉高校の教室へ入ると、窓際の席では数人の生徒が昨日のテレビ番組について話していた。廊下側では友達同士で宿題を見せ合っている生徒もおり、朝の教室には授業前特有の落ち着かない賑やかさが広がっている。


 ひよりが鞄を机へ置いたところで、千夏が近づいてきた。


「おはよう、ひより。今日、傘持ってきた?」


「おはよう。うん、お母さんに言われて折り畳み傘を持ってきたよ。千夏も?」


「私は長い傘にしちゃった。帰りに降らなかったら、ちょっと邪魔かもしれないけどね」


 千夏は机の横へ立て掛けた傘を見て笑った。


 ひよりもつられて笑い、教科書を取り出した。千夏はその手元に水色のノートが見えたことに気づき、少し興味深そうに顔を寄せた。


「昨日も感想を書いたんだ?」


「うん。北条君に薦めてもらった短編集の三つ目を読んだの。昔から知ってる二人が、大人になって再会するお話だったんだけど、同じ思い出でも覚えてることが違うんだなって」


 ひよりはノートの表紙へ指先を添え、思い出すように言葉を続けた。


「それでね、今朝、お父さんとお母さんも昔同じ本を読んで感想を話したことがあるって聞いたの。お父さんは仕事のこと、お母さんは家族の気持ちが気になったんだって」


「へえ。ひよりのお父さんとお母さん、そういう話もするんだね」


「私も初めて聞いたからびっくりしたよ。でも、何だか素敵だなって思った」


 千夏はその話を聞きながら、ひよりの表情を見つめた。


 最近のひよりは、好きなものについて話すとき、以前よりも相手の感想を楽しみにしているように見える。単に自分の好きな本を紹介するだけでなく、相手がどう受け止めたのかを聞くことにも喜びを感じているのだろう。


「じゃあ、私がその短編集を読んだら、ひよりと全然違う感想になるかもしれないね」


「うん。それも楽しみなんだ。千夏がどこを好きになるのか、聞いてみたいな」


 ひよりが笑顔で答えると、千夏は小さく頷いた。


「だったら、ちゃんと読まないとね。ひよりに薦めてもらう本、楽しみにしてる」


 二人はそんな話をしながら、朝の準備を進めた。


 しばらくすると、橘海斗が教室へ入ってきた。海斗は友人と挨拶を交わしてから自分の席へ向かい、鞄を下ろしたところで、ひよりたちに気づいて軽く手を上げた。


「おはよう、天野さん、藤崎さん」


「おはよう、橘君」


 ひよりが答えると、海斗は机の上に置いた鞄を開き、少しだけ困ったように笑った。


「昨日、あの本をもう少し読もうと思ってたんだけど、途中で時間がなくなっちゃってさ。続きが気になるところで止まってるんだ」


「『雨上がりの手紙』?」


「うん。ちょうど、手紙を受け取った人の視点に変わったところ。書いた側が何を考えてたのかは分かるけど、受け取った側がどう感じるのか、まだ読めてないんだよね」


 海斗の説明を聞いて、ひよりはその場面を思い出した。


 物語の中では、一通の手紙が届いたあと、しばらく送り手の様子が描かれなくなる。代わりに、手紙を受け取った人物の日常が語られ、書いた本人には見えていなかった事情が少しずつ分かってくる構成になっていた。


「そこ、私も続きが気になったところだよ。読み終わったら、また印象が変わるかもしれないね」


 ひよりは先の展開を明かさないように気をつけながら答えた。


 海斗はその言い方に気づき、少し嬉しそうに笑った。


「天野さん、ちゃんとネタバレしないでくれるんだね。俺、つい先のこと聞きたくなるときがあるから助かる」


「私も、知らずに読んで驚くのが好きだから。橘君にも、最初は自分で読んでほしいなって思って」


 ひよりはそう言いながら、机の上のノートを閉じた。


 海斗はその様子を見て、ふと気になったことを尋ねた。


「そういえば、天野さんが土曜日に行った本屋さんって、どんなところだったの?」


 ひよりは顔を上げた。


「駅の近くにある、小さめのお店だよ。木の棚が並んでて、落ち着いた雰囲気なの。北条君が前から気に入ってるお店なんだって」


「へえ。駅の近くなら、俺も行ったことあるかもしれないな」


 海斗は少し考えるように視線を上げた。


 ひよりは書店の外観を説明しようとして、入り口の近くにあった小さな案内板や、窓越しに見えた本棚のことを思い出した。


「大きな看板があるお店じゃないから、知らないと通り過ぎちゃうかもしれない。私も北条君に連れていってもらわなかったら、気づかなかったと思う」


「そうなんだ。今度、駅に行くとき探してみようかな」


「うん。静かに本を選べるお店だから、橘君も気に入ると思うよ」


 ひよりは何の迷いもなくそう答えた。


 海斗はその笑顔を見ながら、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


 ひよりが自分の好きなものを楽しそうに話してくれるのは嬉しい。けれど、その話の中に自然に登場する北条という名前が、以前より気になるようになっていることにも気づいていた。


(……別の学校の友達って言ってたよな。ずいぶん仲がよさそうだけど、どういうきっかけで知り合ったんだろう)


 海斗はそう考えたものの、ひよりへ尋ねることはしなかった。


 まだ親しくなり始めたばかりの相手に、友人との関係を細かく聞くのは不自然な気がしたからだ。


 その代わり、海斗は自分の鞄から文庫本を取り出し、表紙を軽く撫でた。


「とりあえず、今はこっちを読み終わらないとな。図書室で借りてるから、返す日もあるし」


「うん。無理しないで読んでね。感想は、いつでも聞けるから」


 ひよりの言葉に海斗は頷き、授業の準備を始めた。


 その会話を隣で聞いていた千夏は、ひよりが窓際の席へ向かうのを見送ってから、海斗へ一度だけ視線を向けた。


 海斗はすでに教科書を取り出していたが、その表情にはどこか考え事をしているような様子が残っている。


(……橘君、北条君のことが気になってるのかな)


 千夏はそう思ったものの、今のところは推測にすぎないと考え直した。


 ひより自身が真樹をどう思っているのかも、まだはっきりしていない。友達として大切にしていることは確かでも、その気持ちが恋に変わるかどうかは、本人にしか分からないことだった。


 千夏は机へ戻り、朝のホームルームが始まるのを待った。


     ◇


 同じころ、桜陵学園の教室では、一ノ瀬玲奈がスマートフォンの画面を見つめていた。


 昨夜、真樹と喫茶店へ行く約束が決まってから、玲奈は帰宅後に気になっていた店の情報を改めて確認していた。以前、雑誌で見かけた小さな喫茶店で、落ち着いた内装と季節の焼き菓子が評判らしい。


 ただ、再来週の土曜日に行くとしても、店が混んでいるかもしれない。真樹とゆっくり話したいと思う一方で、相手に負担を掛けたくない気持ちもあり、玲奈は昨夜のうちに詳細を送ることができなかった。


(……普通に送ればいいだけなのに。どうして、こんなに考えちゃうんだろう)


 画面には、店の外観と営業時間を確認したページが表示されている。


 玲奈は一度スマートフォンを閉じ、机の上へ置いた。


 約束が決まっただけで嬉しかった。


 それなのに、次は何を着ていこうか、どんな話をしようか、真樹は楽しみにしてくれているだろうかと、考えたいことが次々に増えていく。


 幼いころから知っている相手なのに、二人で喫茶店へ行くというだけで、こんなにも緊張する自分が不思議だった。


「玲奈、おはよう。何かいいことあった?」


 声を掛けられて顔を上げると、三浦沙耶が鞄を肩に掛けたまま立っていた。


「沙耶、おはよう。どうして?」


「だって、朝からちょっと嬉しそうなんだもん。昨日、喫茶店の予定が決まったって言ってたし、それかなって」


 沙耶は柔らかく笑いながら、自分の席へ鞄を下ろした。


 玲奈は頬が少し熱くなるのを感じ、慌てて髪を耳へ掛けた。


「……そんなに顔に出てた?」


「そんなにってほどじゃないよ。でも、玲奈って嬉しいことがあると、考え事してるときでも口元が少し緩むから」


 沙耶はからかうというより、親しい友人の変化を楽しむような口調だった。


 玲奈は困ったように笑い、机の上のスマートフォンへ目を向けた。


「前から行ってみたいお店だったから、楽しみなのは本当だよ。ただ、まだ時間とか決めてないし、ちゃんと調べてから送ろうと思って」


「そっか。お店の場所って、駅から遠いの?」


「そんなに遠くないみたい。歩いて行ける距離なんだけど、土曜日は混むかもしれないから、少し気になってるの」


 玲奈は店の情報を簡単に説明した。


 沙耶は真剣に聞きながら、混雑が心配なら早めの時間を考えてみてもいいかもしれないと提案した。


「午後に行くなら、待ち合わせを少し早めにして、お店の様子を見てもいいんじゃない? もちろん、真樹君の予定もあるだろうけど」


「うん。そうだね。まずは何時ごろがいいか聞いてみる」


 玲奈は頷き、少し肩の力を抜いた。


 真樹と出かけることを特別なものにしたいと思うほど、失敗したくない気持ちが強くなっていた。けれど、まだ何も起きていないうちから心配しすぎても仕方がない。


 沙耶は玲奈の表情が少し和らいだのを見て、安心したように微笑んだ。


「楽しみにしてるなら、その気持ちも大事にしたらいいと思うよ。せっかくの約束なんだし」


 玲奈はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「……ありがとう、沙耶」


 沙耶は笑って手を振り、授業の準備へ戻った。


 玲奈は机の下でスマートフォンを持ち直し、真樹とのメッセージ画面を開いた。送る文章を一度読み返してから、今度は迷わず送信する。


『真樹、おはよう。昨日話してた喫茶店なんだけど、駅から歩いて行けるところにあるの。再来週の土曜日、午後の何時ごろが都合いいかな?』


 送信したあと、玲奈はスマートフォンを鞄へしまった。


 すぐに返事が来なくても構わない。


 真樹には真樹の予定があるし、授業が始まれば自分も画面を確認できなくなる。


 そう分かっていても、返事を待つ時間が少しだけ長く感じられた。


 教室の前方では、真樹が蓮と話していた。


 玲奈はその横顔を一度だけ見つめ、ゆっくり息を整えてから教科書を開いた。


     ◇


 午前の授業を終えた真樹が玲奈のメッセージに気づいたのは、昼休みに入ってからだった。


 教室の窓際では、蓮が弁当を広げながら昨日の課題について話していた。真樹はスマートフォンを取り出し、画面に表示された玲奈の名前を確認する。


 店の場所は駅から歩いて行ける距離らしい。


 午後の何時ごろがよいかと尋ねられていたため、真樹は予定表を開き、再来週の土曜日をもう一度確認した。


「一ノ瀬から?」


 蓮が何気なく尋ねると、真樹は頷いた。


「ああ。喫茶店の時間を決めようと思って。午後なら空いてるから、二時くらいでどうか聞いてみる」


「いいんじゃない? お前、最近は土曜日もいろいろ予定があるみたいだし、先に決めといたほうが楽だろ」


 蓮は弁当箱の蓋を横へ置きながら答えた。


 真樹は「そうだな」と頷き、玲奈へ返信した。


『おはよう。再来週の土曜日なら、午後二時ごろでどうかな。駅から歩けるなら、待ち合わせは駅でも大丈夫だよ』


 送信を終えると、真樹はスマートフォンを机へ置いた。


 蓮はその様子を見ながら、少しだけ考えていた。


 玲奈と真樹は長い付き合いだ。


 本人たちにとって、二人で喫茶店へ行くことは自然な約束なのかもしれない。


 ただ、玲奈がその約束をどんな気持ちで楽しみにしているのか、蓮には少し気になるところがあった。


 昨日も、真樹から予定が決まったと声を掛けられたあと、玲奈は明らかに嬉しそうだった。


(……一ノ瀬の気持ち、俺の考えすぎならいいんだけどな)


 蓮はそう思いながら、目の前の友人へ視線を戻した。


 真樹はすでに昼食の準備を始めている。


 ひよりへの恋心を知っている蓮からすれば、真樹が玲奈との外出をどう捉えているのかは想像できた。けれど、玲奈の側まで同じだと決めつけることはできない。


 蓮は箸を取り、別の話題を持ち出した。


「そういえば、真樹。天野さんに薦められた本、どこまで読んだ?」


「半分くらいかな。手紙を書いた人だけじゃなくて、受け取った人の事情も少しずつ分かってくるところまで読んだ」


「へえ。面白い?」


 蓮が尋ねると、真樹は少し考えてから頷いた。


「面白いよ。最初は静かな話だと思ってたけど、読んでると、登場人物が言葉を選ぶ理由を考えたくなるんだ」


 真樹はそこで、ひよりが書店で本を手に取ったときのことを思い出した。


 ひよりは表紙を見ただけでなく、どんなところが好きなのかを丁寧に話してくれた。物語の結末を明かさないように気をつけながら、それでも自分が大切にしている場面を伝えようとしていた。


「天野が薦めてくれた理由も、少し分かってきた気がする」


 真樹がそう言うと、蓮は穏やかに笑った。


「そっか。好きな人のおすすめだからってだけじゃなくて、本自体も気に入ったんだな」


「……そういうことになるかな」


 真樹は少し照れたように視線を逸らした。


 蓮はその反応を見ても、必要以上にからかわなかった。


 真樹がひよりへの気持ちを大切にしていることは、もう十分に分かっている。だからこそ、友人としては、その時間が真樹にとって無理のないものであってほしかった。


「それなら、読み終わったあとに感想を話すのも楽しみだな」


「ああ。天野も、また話したいって言ってくれてる」


 真樹はそう答え、弁当へ箸を伸ばした。


 蓮はその表情を見ながら、少しだけ安心した。


 ひよりに気持ちを伝えることを急がなくても、真樹は自分なりに彼女との時間を楽しめている。


 その関係がこれからどう変わっていくのかは、まだ誰にも分からない。


 けれど、今の真樹が以前より自然に笑うようになったことだけは、蓮にもはっきり感じられた。


     ◇


 青葉高校では、午後の授業が始まるころから窓の外が少しずつ暗くなっていた。


 雲は朝より厚くなり、校庭の向こうに見える木々も風に揺れている。ひよりは授業中、窓ガラスへ小さな雨粒が当たり始めたことに気づき、朝に折り畳み傘を持たせてくれた母へ心の中で感謝した。


 放課後になると、廊下には傘を持ってきたかどうかを確認する生徒たちの声が広がった。


 千夏は教室の窓から外を眺め、少し困ったように笑った。


「やっぱり降っちゃったね。長い傘にして正解だったかも」


「うん。私も持ってきてよかった。朝は全然降りそうに見えなかったのに」


 ひよりは鞄から折り畳み傘を取り出し、濡れないように袋へ入っていることを確認した。


 二人が帰り支度を進めていると、海斗が近づいてきた。


「天野さん、藤崎さん。今日はもう帰る?」


「うん。橘君も?」


 ひよりが答えると、海斗は頷いた。


「俺も。図書室に寄って本を少し読もうかと思ってたんだけど、雨が強くなる前に帰ったほうがよさそうだから」


 海斗は窓の外へ目を向けた。


 校庭には細かな雨が降り続いており、遠くの建物が少し霞んで見える。


「本は家でも読めるしね。橘君、傘は持ってきた?」


「うん。朝、天気予報を見て入れてきた。天野さんたちも大丈夫そうだね」


 ひよりは折り畳み傘を見せ、千夏も自分の長い傘を持ち上げた。


 三人は教室を出て、昇降口へ向かった。


 廊下では部活動へ向かう生徒たちが慌ただしく行き交っており、窓の外からは雨音が聞こえている。昇降口には傘を広げる順番を待つ生徒が集まっていたため、ひよりたちは少し端へ寄り、人の流れが落ち着くのを待つことにした。


 海斗はその間、鞄の中の本が濡れていないか確かめた。


「図書室の本だから、濡らしたら大変だしな」


 そう言って鞄の口を閉じる海斗を見て、ひよりは微笑んだ。


「大事にしてくれてるんだね」


「借り物だからね。それに、まだ最後まで読んでないし」


 海斗は少し照れたように笑った。


「天野さんが好きな本だって聞いたから、ちゃんと読みたいんだ」


 ひよりはその言葉に目を瞬かせた。


 海斗が本を丁寧に扱ってくれていることも、自分の薦めた作品を最後まで読もうとしてくれていることも嬉しかった。


「ありがとう、橘君。そう言ってもらえると、薦めてよかったなって思うよ」


 ひよりが素直に答えると、海斗は少しだけ視線を逸らした。


 千夏は二人の間に流れた空気を感じ取りながら、傘の持ち手を握り直した。


 海斗の言葉は、本の話としても自然に聞こえる。


 けれど、ひよりが好きなものを大切にしたいという気持ちが、その言葉の中に含まれているようにも感じられた。


(……橘君、やっぱりひよりのことを特別に見てるのかな)


 千夏はそう考えたものの、二人の会話へ割り込むことはしなかった。


 やがて昇降口の混雑が落ち着き、三人はそれぞれ傘を広げて外へ出た。


 雨はまだ強くなかったが、風が吹くたびに細かな雫が斜めに流れてくる。校門へ向かう道には小さな水たまりができ始めており、生徒たちは濡れないよう足元を確かめながら歩いていた。


 ひよりは傘を少し低く持ち、隣を歩く千夏へ顔を向けた。


「千夏、今日の帰り道、滑りやすそうだね」


「うん。ひよりも気をつけて。昨日みたいに本のこと考えながら歩いてたら、水たまりに入っちゃうよ」


 千夏が冗談めかして言うと、ひよりは笑った。


「そんなにぼんやりしてないよ」


「どうかなあ。朝からずっと本の話してたし」


 千夏の言葉に、ひよりは少しだけ頬を膨らませた。


 海斗はそのやり取りを聞きながら、自然に笑っていた。


 授業中のひよりは真面目で、文学の話になると丁寧に言葉を選ぶ。けれど、千夏と一緒にいるときには、年相応に拗ねたり、冗談を言い返したりする姿も見せる。


 海斗はその違いを、少し新鮮に感じていた。


(……天野さんって、まだ知らないところがたくさんあるんだな)


 そう考えたとき、海斗は自分がひよりのことを知りたいと思っている理由について、改めて考えた。


 同じ班で課題に取り組んでいたころは、真面目で話しやすいクラスメイトだと思っていた。


 今は、それだけではない。


 好きな本の話をしているときの笑顔や、友達と笑い合う姿を、もっと見てみたいと思う。


 その気持ちが何なのか、まだはっきりした答えは出せなかった。


 校門を出たところで、海斗は二人とは別の道へ向かうことになった。


「じゃあ、俺はこっちだから。また明日」


「うん。気をつけてね、橘君」


 ひよりが笑顔で手を振ると、海斗も傘を持っていないほうの手を軽く上げた。


 千夏も挨拶を返し、二人はいつもの通学路へ歩き出した。


 海斗は少しだけその後ろ姿を見送ってから、自分の帰り道へ向かった。


 雨の音が傘の上で静かに続いている。


 鞄の中には、まだ読み終えていない『雨上がりの手紙』が入っていた。


 海斗は帰宅したら続きを読もうと考え、歩幅を少しだけ速めた。


     ◇


 ひよりと千夏は、傘を並べて住宅街の道を歩いていた。


 雨は少しずつ強くなっていたが、二人の会話が聞こえなくなるほどではない。道路脇の植え込みには細かな雫が溜まり、車が通るたびに濡れた路面から小さな音が上がっていた。


「橘君、あの本を気に入ってくれてるみたいだね」


 千夏が言うと、ひよりは嬉しそうに頷いた。


「うん。私も嬉しいな。最初は橘君がどんな本を好きなのか分からなかったけど、薦めてよかったと思う」


「ひより、ちゃんと橘君の好みを聞いてから選んだもんね」


「そうなの。せっかく読んでもらうなら、楽しんでほしかったから」


 ひよりは傘の柄を持ち直しながら答えた。


 千夏はその横顔を見て、少しだけ微笑んだ。


 ひよりは誰かのために何かを選ぶとき、相手の気持ちを丁寧に考える。


 それは昔から変わらないところだった。


 だからこそ、海斗もひよりに惹かれているのかもしれない。


 千夏はそう思ったが、今はその考えを口にしなかった。


「そういえば、北条君には今日も感想を送るの?」


 千夏が尋ねると、ひよりは少し考えた。


「うーん、まだ決めてない。昨日も話したし、北条君にも自分の時間があるから。でも、三つ目のお話の感想は、いつか聞いてみたいな」


「そっか。別に毎日話さなくても、次に話す楽しみがあるもんね」


「うん。北条君も『雨上がりの手紙』を読んでる途中だから、そっちの感想も楽しみなんだ」


 ひよりは穏やかに笑った。


 千夏はその返事を聞き、少しだけ安心した。


 ひよりは真樹との関係を大切にしているが、無理に距離を縮めようとしているわけではない。相手の時間も尊重しながら、自然に話せることを楽しみにしている。


 今のひよりには、そのくらいの穏やかな時間が合っているのかもしれなかった。


 二人はしばらく学校の話を続け、いつもの分かれ道へ到着した。


「じゃあ、ひより。また明日ね」


「うん。千夏も気をつけて帰ってね」


 千夏は笑顔で手を振り、傘を傾けながら自宅の方向へ歩いていった。


 ひよりも手を振り返し、少しだけ雨の音へ耳を傾けた。


 傘の上へ落ちる雫は、一定のようでいて少しずつ違う音を立てている。


 ひよりはその音を聞きながら、ふと土曜日の書店を思い出した。


 静かな店内で、真樹と同じ棚を眺めた時間。


 自分が知らなかった本を紹介してもらい、好きな物語を相手へ薦めた時間。


 あのときの真樹は、普段より少し楽しそうに見えた。


(……北条君、またあのお店に行きたいって思ってくれてるかな)


 ひよりはそう考えてから、少しだけ笑った。


 真樹はまた一緒に行こうと言ってくれている。


 だから、きっと自分と同じように楽しかったのだろう。


 そう思うと、胸の奥が温かくなった。


 ひよりは足元の水たまりを避けながら、家へ向かって歩き続けた。


     ◇


 その日の放課後、桜陵学園では玲奈が真樹からの返事を確認していた。


 昼休みに届いていたメッセージには、再来週の土曜日は午後二時ごろがよいこと、駅で待ち合わせても構わないことが書かれていた。


 玲奈は授業が終わるまで返信を控えていたが、帰り支度を始めたところで改めて画面を開いた。


(……二時なら、お店にもゆっくり行けそう。駅で待ち合わせできるなら、分かりやすいし)


 玲奈は一度店の情報を確認してから、真樹へ返事を送った。


『二時で大丈夫だよ。じゃあ、駅で待ち合わせにしようか。お店の場所も送っておくね』


 続けて、調べていた喫茶店の案内を送信した。


 まだ細かな待ち合わせ場所は決めていないが、駅で会うことと時間が決まれば、当日の予定はかなり具体的になる。


 玲奈は画面を閉じ、鞄へスマートフォンをしまった。


 そのとき、沙耶が近づいてきた。


「玲奈、今日は一緒に帰れる?」


「うん。大丈夫だよ」


 玲奈が答えると、沙耶は嬉しそうに笑った。


「よかった。雨が降ってるから、駅まで一緒に歩こうと思って」


「そうだね。私も傘持ってきたし、一緒に帰ろう」


 二人は教室を出て、昇降口へ向かった。


 廊下の窓からは、雨に濡れた校庭が見えている。玲奈はその景色を眺めながら、ひよりと喫茶店へ行った日のことを思い出した。


 あの日は、ひよりと二人でケーキを食べ、学校のことや好きなものについて話した。


 ひよりは真樹のことを大切な友達だと言っていた。


 その言葉に安心した自分がいた一方で、ひよりが真樹を大切に思っていること自体は、少し羨ましくもあった。


 真樹とひよりは、いつの間にか自分の知らない時間を共有している。


 そのことを考えると、胸の奥に小さな寂しさが生まれる。


(……私も、真樹の知らないところをもっと知りたいな)


 玲奈はそう考えながら、隣を歩く沙耶へ視線を向けた。


 沙耶は傘を持ち直し、窓の外を見ていた。


「玲奈、雨、思ったより強いね」


「うん。朝はまだ降ってなかったのにね」


 玲奈はいつもの調子で答えた。


 沙耶はその声を聞き、友人の横顔へ一度だけ目を向けた。


 玲奈は最近、楽しそうにしている時間が増えた一方で、ときどき何かを考え込むようになっている。


 その理由をすべて知っているわけではない。


 けれど、沙耶は玲奈が自分から話してくれるまで、無理に聞き出さないつもりだった。


 昇降口へ着くと、二人は傘を広げ、雨の中へ歩き出した。


 玲奈の鞄の中では、スマートフォンが短く震えた。


 真樹からの返事だった。


『了解。再来週の土曜日、午後二時に駅で。お店も確認しておくよ』


 玲奈は屋根のある場所まで歩いてから、画面を確認した。


 その短い文章を読み、自然に笑顔になる。


 沙耶は隣でその様子を見ていたが、何も言わずに歩幅を合わせた。


 玲奈はスマートフォンをしまい、傘の下で小さく息を吐いた。


(……楽しみだな。今度は、真樹と二人でゆっくり話せるんだ)


 その気持ちが、今の玲奈には何より大切だった。


     ◇


 夕方、ひよりが自宅へ帰ると、玄関には姉の美月の靴が置かれていた。


 普段より少し早く帰ってきたらしい。


「ただいま!」


 ひよりが声を掛けると、居間のほうから美月の返事が聞こえた。


「おかえり、ひより。雨、大丈夫だった?」


「うん。折り畳み傘持ってたから、そんなに濡れなかったよ」


 ひよりは玄関で傘の水気を落とし、袋へ入れてから靴を脱いだ。


 居間へ入ると、美月はソファに座って雑誌を読んでいた。テーブルには温かな紅茶が置かれており、窓の外では雨が静かに降り続いている。


「お姉ちゃん、今日は早いんだね」


「うん。今日はちょっと予定が変わって、早めに帰れたの。ひよりもお疲れさま」


 美月は雑誌を閉じ、ひよりへ笑顔を向けた。


「学校、どうだった?」


「うん、楽しかったよ。今日は友達と本の話をしたの」


 ひよりは鞄を下ろしながら答えた。


 美月はその言葉に少し興味を示した。


「最近、本の話が多いね。前から好きだったけど、今は誰かと感想を話すのが楽しいのかな?」


「うん。自分と違う感想を聞くと、面白いんだよね」


 ひよりは美月の向かいへ座った。


 美月は妹の表情を見ながら、少しだけ目を細めた。


 ひよりが颯太に告白して、望んだ答えを得られなかったことを、美月は知っている。


 あのときのひよりは、無理に笑おうとしているように見えた。


 けれど、今は少し違う。


 学校であったことを自然に話し、楽しそうに笑う時間が増えている。


 美月はその変化を嬉しく思いながらも、急に何かを尋ねることはしなかった。


「そういえば、土曜日に本屋さんへ行ったんでしょ? どうだった?」


 美月が尋ねると、ひよりの顔が明るくなった。


「すごくよかったよ。北条君が前から好きなお店なんだって。静かで、本棚も見やすくてね。私が普段読まない本もたくさんあったの」


 ひよりは書店の雰囲気を思い出しながら、少し身を乗り出した。


「それで、北条君がおすすめしてくれた短編集を買ったんだ。今、三つ目まで読んだところなんだけど、どれも面白くて」


 美月は妹の話を聞きながら、ゆっくり頷いた。


「そっか。いい時間を過ごせたんだね」


「うん。北条君と本の話をしてると、自分では気づかなかったことが分かるんだ」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


 美月はその笑顔を見つめ、少しだけ考えた。


 妹が颯太への想いを整理しようとしていることは知っている。


 そして、その時期に真樹という友達がそばにいてくれたことも、ひよりの話から何となく感じ取っていた。


 けれど、ひよりが真樹を恋愛対象として意識しているのかどうかは、まだ分からない。


 美月は妹の気持ちを決めつけたくなかった。


「ひよりが楽しそうでよかった。好きなものを一緒に楽しめる友達がいるって、嬉しいことだよね」


 美月がそう言うと、ひよりは穏やかに頷いた。


「うん。私もそう思う」


 少しの間、二人は雨の音を聞きながら過ごした。


 ひよりはテーブルの上に置かれた雑誌へ目を向け、美月が読んでいた記事について尋ねた。美月は気になっていた雑貨の特集を見せてくれ、ひよりもその中にあった小さな花柄の小物へ興味を示した。


 姉妹の会話は、本の話から雑貨の話へ自然に移っていった。


 やがて、ひよりは自室へ戻るために立ち上がった。


「お姉ちゃん、話聞いてくれてありがとう」


「どういたしまして。また面白い本があったら教えてね」


「うん。今度、お姉ちゃんにもおすすめする!」


 ひよりは笑顔で答え、鞄を持って階段へ向かった。


 美月はその後ろ姿を見送りながら、静かに息を吐いた。


(……少しずつ、元気になってきたんだね)


 妹が自分の気持ちを大切にしながら、新しい時間を楽しめていることが嬉しかった。


 美月はそれ以上考え込まず、テーブルの紅茶を一口飲んだ。


     ◇


 夕食を終えたひよりは、自室の机で宿題を片づけていた。


 窓の外では雨がまだ続いていたが、夕方よりは少し弱まっている。机のライトがノートを照らし、部屋の中には鉛筆を動かす小さな音だけが響いていた。


 ひよりは最後の問題を解き終え、答えを確認してから教科書を閉じた。


 時計を見ると、まだ少し自由な時間がある。


 机の端には、真樹から薦められた短編集が置かれていた。


 ひよりは本を手に取り、昨日まで読んだところへ挟んでいたしおりを確かめた。


(今日は四つ目を少し読んでみようかな。でも、昨日の三つ目のお話も、まだ考えたいところがあるんだよね)


 ひよりは本を開く前に、水色のノートを取り出した。


 昨夜書いた感想を読み返すと、朝に書き足した文章が目に入った。


『知らないことがあるのは、寂しいことばかりじゃない。これから聞けることがあるってことかもしれない。』


 ひよりはその言葉を見つめながら、今日一日のことを思い返した。


 学校では海斗と『雨上がりの手紙』の話をした。


 千夏とは、同じ本を読んでも感想が違うことについて話した。


 家では美月が、自分の話を楽しそうに聞いてくれた。


 そして、真樹とは昨日、メッセージで本の感想を話したばかりだった。


 自分の毎日には、思っていた以上にたくさんの人との会話がある。


 その中で、相手の知らなかった一面に気づくこともあれば、自分のことを新しく知ってもらえることもある。


 ひよりはペンを持ち、ノートの余白へもう一つ文章を書き足した。


『誰かの好きなものを知ると、その人のことを少し近く感じる。』


 書き終えたあと、ひよりは少しだけ考えた。


 真樹が歴史を好きなことは知っている。


 本を読むことが好きで、静かな場所を好むことも知っている。


 ノアを大切にしていることは、初めて会ったころから何度も感じていた。


 けれど、真樹が学校でどんなふうに過ごしているのかは、あまり知らない。


 どんな授業が好きなのか。


 休み時間には何をしているのか。


 友達とはどんな話をするのか。


 ひよりはそこまで考えて、少しだけ首を傾げた。


(……そういえば、北条君の学校の話って、あんまり聞いたことないかも)


 真樹とは学校が違う。


 だから、互いの日常をすべて知っているわけではないのは当然だった。


 けれど、今まで特に気にしていなかったことが、今日は少し気になった。


 ひよりはスマートフォンを手に取り、真樹とのメッセージ画面を開いた。


 最後に交わしたのは、昨日の夜の本の話だった。


 ひよりは少し迷ってから、短い文章を入力した。


『北条君、こんばんは。今日もお疲れさま!』


 送信してから、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。


 すぐに返事が来るとは限らない。


 真樹にも宿題や家の用事があるだろうし、ノアの散歩へ行っているかもしれない。


 ひよりはその間に本を開き、四つ目の物語を読み始めた。


     ◇


 そのころ、真樹は自室で『雨上がりの手紙』を読んでいた。


 夕方の雨で散歩の時間が短くなったノアは、すでに足元の敷物の上で丸くなっている。ときどき耳を動かしていたが、真樹がページをめくる音には慣れているのか、特に顔を上げる様子はなかった。


 真樹は本の中の一節を読み返し、少しだけ考え込んでいた。


 手紙を書いた人物は、相手を心配させないように言葉を選んでいる。


 けれど、受け取った人物は、その遠慮の中にある寂しさに気づいていた。


 どちらも相手を大切に思っているのに、伝えたいことが少しずつずれてしまう。


 真樹はその描写を読みながら、ひよりがこの物語を好きだと言った理由を考えていた。


(……天野は、こういうところをどう読んだんだろう)


 真樹は本を閉じず、しおりを指で押さえたまま窓の外へ目を向けた。


 雨粒がガラスを伝い、庭の灯りをぼんやりと滲ませている。


 ひよりと書店へ行った日は、こんな雨ではなかった。


 駅前を歩きながら、二人で本の話をした。


 ひよりは気になる棚を見つけるたびに足を止め、どんな本が並んでいるのか楽しそうに眺めていた。


 真樹はその姿を思い出し、自然に頬を緩めた。


 そのとき、机の上のスマートフォンが短く震えた。


 画面には、ひよりからのメッセージが表示されていた。


『北条君、こんばんは。今日もお疲れさま!』


 真樹は少しだけ驚き、すぐにスマートフォンを手に取った。


 昨日も話したばかりだったため、今日は特に連絡をする予定を考えていなかった。


 それでも、ひよりからのメッセージが届くと、胸の奥が温かくなる。


『こんばんは。天野もお疲れ』


『今日は雨だったけど、帰りは大丈夫だった?』


 送信すると、少しして返事が届いた。


『うん! お母さんに言われて折り畳み傘を持っていったから大丈夫だったよ』


『北条君は? ノアのお散歩、雨で大変じゃなかった?』


 真樹は足元で眠っているノアへ目を向けた。


 雨が降り始める前に少し歩けたものの、いつもの散歩より短くなってしまった。


 ノアは帰宅後、しばらく玄関のほうを気にしていたが、今はすっかり落ち着いている。


『俺も大丈夫。ノアは散歩が短くなって、ちょっと不満そうだったけど』


『今はもう寝てるよ』


 ひよりからは、すぐに笑っているような文章が届いた。


『ノアらしいね。昨日は寒くて早く帰りたそうだったのに、今日はもっと歩きたかったんだ』


『本当に可愛いなあ』


 真樹はその返事を読み、思わず笑った。


 ノアはひよりのことが好きだ。


 それは、初めて出会ったころから変わっていない。


 ひよりもノアを大切に思ってくれている。


 真樹は足元の黒い毛並みへ手を伸ばし、静かに頭を撫でた。


「……お前、天野にずいぶん気に入られてるな」


 ノアは薄く目を開け、真樹を見上げた。


 それから、また安心したように目を閉じる。


 真樹は小さく笑い、スマートフォンへ視線を戻した。


 すると、ひよりから新しいメッセージが届いていた。


『そういえば、北条君って学校ではどんなふうに過ごしてるの?』


 真樹はその文章を読み、少しだけ目を瞬かせた。


 ひよりから学校生活について尋ねられたのは、初めてではない。


 けれど、ここまで直接的に普段の過ごし方を聞かれたことは、あまりなかった。


 真樹は少し考えてから、返事を入力した。


『普通だよ。授業を受けて、休み時間は本を読んだり、友達と話したりしてる』


『歴史の授業は結構好きかな』


 送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。


『やっぱり歴史が好きなんだね!』


『北条君って、授業中もすごく真面目そう』


 真樹はその文章を読み、少し困ったように笑った。


 ひよりが自分をどんなふうに想像しているのか、何となく分かる気がした。


『どうだろう。真面目には受けてるつもりだけど、蓮には考えすぎって言われることもあるよ』


 ひよりからは、少し間を置いて返事が届いた。


『蓮君って、北条君のお友達?』


 真樹は頷くように画面を見つめた。


『ああ。神崎蓮っていう、同じ学校の友達』


『よく話すし、たまに余計なことも言うけど、いいやつだよ』


 ひよりはその文章を読み、思わず微笑んだ。


 真樹にも、学校で気軽に話せる友達がいる。


 当たり前のことなのに、名前を聞くと少しだけ身近に感じられた。


『そうなんだ。北条君がそんなふうに言うなら、きっと仲のいいお友達なんだね』


『いつか、どんな人なのか聞いてみたいな』


 真樹はその言葉を見つめ、少しだけ考えた。


 蓮は、自分がひよりを好きだと知っている。


 もし二人が会うことになったら、蓮はどんな反応をするだろう。


 からかわれる可能性は高い。


 けれど、蓮ならひよりを困らせるようなことはしないだろうとも思った。


『機会があったら紹介するよ。たぶん、天野とも普通に話せると思う』


 真樹がそう返信すると、ひよりから嬉しそうな返事が届いた。


『うん。ありがとう!』


 ひよりはスマートフォンを持ちながら、少しだけ頬を緩めた。


 真樹の学校での様子を、ほんの少し知ることができた。


 神崎蓮という友達がいること。


 歴史の授業が好きなこと。


 休み時間には本を読んだり、友達と話したりしていること。


 どれも大きな秘密ではない。


 けれど、ひよりにとっては新しい発見だった。


(……北条君にも、私の知らない毎日があるんだよね)


 ひよりは少し考えてから、今度は自分の学校でのことを伝えようと思った。


『私の学校ではね、最近は千夏と本の話をすることが多いよ』


『あと、橘君も『雨上がりの手紙』を読んでくれてるから、感想を話すことがあるんだ』


 真樹はその文章を読み、少しだけ目を止めた。


 昨日も聞いた橘という名前が、また出てきた。


 真樹は自分の胸の奥に小さな落ち着かなさが生まれるのを感じたが、すぐにスマートフォンを置くことはしなかった。


 ひよりが学校で楽しく過ごしていることは、喜ばしいことだ。


 その相手が男子生徒だからといって、何かを決めつける理由にはならない。


(……天野が話してくれることを、ちゃんと聞きたい)


 真樹はそう考え、落ち着いて返信した。


『そうなんだ。天野が薦めた本を気に入ってくれる人がいるのは嬉しいな』


『俺も、まだ途中だけど面白く読んでるよ』


 ひよりはその返事を読み、嬉しそうに笑った。


『よかった! 北条君がどんなところを好きになるのか、楽しみにしてる』


『私も、北条君の短編集を読み終わったら感想を話したいな』


 真樹はその言葉に、自然と頬を緩めた。


『ああ。楽しみにしてる』


 それから二人は、今日の雨のことや、学校での何気ない出来事を少しずつ話した。


 真樹は歴史の授業で扱った昔の町の暮らしについて簡単に説明し、ひよりは国語の授業で読んだ文章の解釈について話した。


 どちらも相手にとっては初めて聞く話だった。


 それでも、互いに興味を持って質問すると、自然に会話が続いていく。


 ひよりは途中で、真樹が自分の話を丁寧に聞いてくれていることに気づいた。


 学校であった小さな出来事まで、面白そうに受け止めてくれる。


 そのことが、何だか嬉しかった。


(……北条君って、私の話をちゃんと聞いてくれるんだよね)


 ひよりはスマートフォンを持つ手を少し緩め、窓の外へ目を向けた。


 雨はすでに弱くなり、遠くの街灯が濡れた道路を淡く照らしている。


 同じ空の下で、真樹も自分の部屋にいるのだろう。


 学校も家も違うけれど、こうして話すことができる。


 ひよりはそのことを、少し不思議で、嬉しいことだと思った。


 やがて時計を確認すると、思っていたより時間が過ぎていた。


『北条君、そろそろ明日の準備するね。今日は学校の話、聞けて楽しかったよ』


 ひよりが送ると、真樹から返事が届いた。


『俺も楽しかった。天野の学校の話も聞けてよかったよ』


『また話そう。おやすみ』


 ひよりは画面を見つめ、穏やかに微笑んだ。


『うん。またね。おやすみなさい!』


 送信を終えると、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。


 そのまま水色のノートを開き、今日の最後の感想を書き足した。


『知らない毎日を、少しずつ教えてもらうのも楽しい。』


 ひよりはその文字を見つめながら、今日の会話を思い返した。


 真樹の友達の名前を知ったこと。


 学校で好きな授業を聞いたこと。


 自分の学校での出来事を話したこと。


 それらは、特別な事件ではない。


 けれど、ひよりにとっては、真樹を少し近くに感じられる時間だった。


 ひよりはノートを閉じ、机の上へ丁寧に置いた。


     ◇


 真樹もまた、ひよりとのやり取りを終えたあと、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。


 今日、ひよりは自分の学校生活について尋ねてくれた。


 そのことが、思っていた以上に嬉しかった。


 ひよりは自分の好きな本だけでなく、学校での過ごし方にも興味を持ってくれている。


 もちろん、それが恋愛感情によるものだとは思っていない。


 ひよりは友達として、自然に尋ねてくれたのだろう。


 それでも、真樹には十分だった。


(……天野が俺のことを知りたいと思ってくれた。それだけで、こんなに嬉しいんだな)


 真樹はスマートフォンを机へ置き、足元のノアへ目を向けた。


 ノアはいつの間にか起きており、真樹を見上げていた。


「どうした? もう寝る時間だぞ」


 真樹が声を掛けると、ノアはゆっくり立ち上がり、真樹の足元へ近づいてきた。


 真樹はその頭を撫でながら、小さく笑った。


「……今日は天野と学校の話をしたんだ」


 ノアは真樹の手に鼻先を寄せ、静かに尻尾を動かした。


 真樹はその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。


 ひよりの学校には、千夏がいる。


 海斗もいる。


 自分の知らない友達や、知らない出来事がたくさんある。


 それをすべて知る必要はない。


 けれど、ひよりが話してくれることを、一つずつ大切にしていきたいと思った。


 真樹は机の上に置いた『雨上がりの手紙』へ視線を向けた。


 物語の中では、登場人物たちが互いの気持ちを知ろうとしている。


 言葉にできなかったこと。


 伝えたつもりでも届かなかったこと。


 そして、時間を掛けて少しずつ理解できるようになったこと。


 真樹はその物語を読みながら、自分とひよりの関係についても考えていた。


 今はまだ、ひよりへ恋心を伝えるつもりはない。


 けれど、いつか自分の気持ちを言葉にするときが来るのなら、そのときには相手を困らせるだけの言葉にはしたくなかった。


 真樹はノアの頭をもう一度撫で、穏やかに息を吐いた。


「……少しずつでいいよな」


 ノアは返事をするように尻尾を動かし、再び敷物の上へ戻っていった。


 真樹はその姿を見届けてから、本を開いた。


 窓の外では雨がほとんど止み、夜の静けさが戻り始めている。


 同じころ、ひよりも自室の明かりを少し落とし、明日の学校へ向けて眠る準備をしていた。


 今日、二人は互いの知らない日常をほんの少しだけ知った。


 それは、誰かにとっては何でもない会話かもしれない。


 けれど、ひよりにとっても真樹にとっても、相手のことを新しく知る時間は大切なものになっていた。


 まだ恋人ではない二人の間には、言葉にされていない気持ちが残っている。


 それでも、好きな本の話から始まった小さな会話は、少しずつ互いの日常へ広がっていた。


 火曜日の夜は、そんな穏やかな余韻を残しながら静かに更けていった。

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