第55話 君が好きな物語の、その先を知りたくて
月曜日の朝、天野ひよりは玄関の扉を開けたところで、思っていたよりも冷たい風に頬を撫でられ、思わずマフラーへ顎を埋めた。
週末は比較的穏やかな天気だったが、今朝は空に薄い雲が広がり、道路脇の植え込みも風に揺れている。制服の上に着たコートの前をきちんと留めてから、ひよりは鞄を肩へ掛け直した。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。今日は寒いから、帰りも気をつけてね」
台所から聞こえてきた母の由美の声に返事をして、ひよりは門の外へ歩き出した。
いつもの通学路には、同じ学校へ向かう生徒たちの姿がちらほら見える。自転車で通り過ぎる人もいれば、友達同士で肩を並べながら歩いている人もいて、土曜日の駅前とはまた違った賑やかさがあった。
ひよりは歩きながら、鞄の中に入れた文庫本のことを考えていた。
昨日の夜までに、真樹から紹介された短編集の二編目まで読み終えた。
最初の物語では、時間とともに変わっていく人間関係が描かれていた。二つ目の物語では、同じ出来事を経験した人たちが、それぞれ違う記憶を抱えていることが印象的だった。
どちらも派手な展開があるわけではないのに、読み終わったあと、しばらく登場人物たちのことを考えてしまう。
(北条君、こういう物語を見つけるのが上手なんだな)
ひよりはマフラーの端を整えながら、土曜日の書店を思い出した。
木製の扉を開けたときの、紙と木が混ざったような香り。
落ち着いた照明の下で並んだ本棚。
そして、普段より少し楽しそうに本の話をしていた真樹の横顔。
ひよりは自然に微笑んだ。
昨日もメッセージで感想を話したばかりなのに、もう続きを読み終えたら伝えたいことが増えている。
自分が好きな物語を誰かと共有できるのは、こんなにも楽しいことだっただろうか。
もちろん、千夏とも本の話はする。
学校の文学の授業でも、海斗たちと感想を話し合う機会があった。
それでも、真樹と話すときには、少し違った発見がある。
同じ場面を読んでいても、真樹は物語の背景や時代の変化に目を向けることが多い。ひよりは登場人物の気持ちを考えることが多いため、真樹の感想を聞くたび、自分では気づかなかった景色が見えてくるようだった。
(次は、三つ目のお話を読もうかな。帰ってからのお楽しみにしよう)
そう考えながら角を曲がると、少し先に見慣れた後ろ姿があった。
藤崎千夏だった。
「千夏、おはよう!」
ひよりが声を掛けると、千夏が振り返った。
「あ、ひより。おはよう。今日は結構寒いね」
「うん。家を出たとき、びっくりしちゃった」
ひよりが隣へ並ぶと、千夏はその顔を見て小さく笑った。
「でも、ひよりは朝から元気そうだね。週末、楽しかった?」
「うん! 土曜日の本屋さん、すごくよかったんだよ」
ひよりは待っていたと言わんばかりに笑顔を見せた。
千夏はその様子に目を細めたが、からかうことはせず、歩幅を合わせて歩き始めた。
「昨日も少し聞いたけど、そんなに気に入ったんだ?」
「うん。お店の雰囲気も素敵だったし、北条君がいろいろ教えてくれてね。私が普段あまり読まない本も見られたんだ」
ひよりは鞄へ軽く手を添えながら、嬉しそうに続けた。
「それで、北条君がおすすめしてくれた短編集を買ったの。もう二つ読んだんだけど、どっちも面白かったよ」
「へえ。ひよりがそんなに夢中になるなら、私もちょっと気になるな」
「読み終わったら貸そうか? 千夏も好きそうなお話があると思う」
ひよりの申し出に、千夏は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、お願いしようかな。でも、先にひよりが全部読んでからでいいよ。北条君とも感想を話したいんでしょ?」
「うん。まだ全部読んでないから、これからどんなお話が出てくるのか楽しみなんだ」
千夏はその返事を聞きながら、ひよりの横顔をそっと見た。
少し前まで、ひよりは佐伯颯太への想いを胸に抱え、どうすれば気持ちを伝えられるのか悩んでいた。
そして、勇気を出して告白したあと、返ってきた答えを受け止めようと懸命だった。
その出来事が、ひよりの中から完全に消えたわけではないだろう。
それでも、今こうして新しい楽しみを見つけ、自然に笑える時間が増えている。
千夏には、それが何より嬉しかった。
(……ひよりが元気になってきたのは、本当によかった)
ただ、その笑顔の理由に真樹が深く関わっていることも、千夏は感じていた。
本人たちは友達として過ごしているつもりなのかもしれない。
少なくとも、ひよりはそう思っているように見える。
けれど、真樹がひよりへ向けている気持ちまで、同じだとは限らない。
千夏はそこまで考えたところで、隣を歩く親友へ視線を戻した。
「そういえば、北条君もひよりのおすすめを買ったんだよね?」
「うん。『雨上がりの手紙』を買ってくれたんだ」
「それって、橘君にもおすすめした本?」
「そうだよ。橘君は図書室で借りたって言ってたけど、北条君は本屋さんで買ってくれたの」
ひよりは何気なく答えた。
千夏はその言葉を聞き、少しだけ考え込んだ。
海斗がひよりの薦めた本を読んでいることは知っている。
最近、文学の授業で一緒に話す機会が増えたことも、すぐそばで見ていた。
真樹と海斗。
二人はまだ顔を合わせたことがないはずだが、どちらもひよりの好きな物語へ興味を持っている。
もちろん、それだけで恋愛感情があると決めつけることはできない。
それでも、千夏には少し気になる重なり方だった。
「……そっか。同じ本を二人が読んでるんだね」
千夏が言うと、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん! なんだか面白いよね。北条君と橘君、感想が違うかもしれないし」
ひよりは本当に楽しそうだった。
千夏はその表情を見て、小さく笑った。
「そうだね。ひよりにとっては、感想を聞く楽しみが二つあるってことか」
「そうなの。二人とも、どんなところが好きになるんだろう」
ひよりは少し先に見えてきた校門へ目を向けた。
学校の前では、登校してきた生徒たちが挨拶を交わしている。
千夏は隣の親友に合わせて歩きながら、胸の内で静かに思った。
(……今は、ひよりが自分の気持ちを大切にできるなら、それでいいかな)
誰かの想いを先回りして教える必要はない。
ただ、ひよりが困ったときには、いつでも話を聞ける友達でいたかった。
二人は並んで校門をくぐり、いつもの教室へ向かった。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が登校していた。
窓際では男子生徒たちが週末の出来事を話しており、黒板の近くでは女子生徒が友達と課題の確認をしている。暖房が入っているため廊下よりは暖かかったが、窓のそばにはまだ冷たい空気が残っていた。
ひよりが自分の席へ向かうと、近くにいた橘海斗が顔を上げた。
「天野さん、おはよう。藤崎さんも」
「おはよう、橘君」
「おはよう。今日、寒いよね」
千夏が言うと、海斗は頷いた。
「うん。駅から歩いてきたら、思ったより風が強くてさ。もう少し厚いマフラーにすればよかった」
海斗はそう言って笑い、机の上に置いていた文庫本へ視線を落とした。
ひよりはその本に気づき、少しだけ目を輝かせた。
「あ、それ……『雨上がりの手紙』?」
「うん。金曜日に借りたやつ。昨日、結構読み進めたんだ」
海斗は本の表紙をひよりへ向けた。
ひよりは嬉しそうに頷いたが、すぐに少しだけ遠慮がちな表情になった。
「どうだった? ……あ、でも、まだ途中なら無理に感想を聞かないほうがいいかな」
「いや、話せるところはあるよ。全部は読み終わってないけど、思ってたよりずっと面白い」
海斗はそう答えながら、本の間に挟んだしおりを指先で押さえた。
「最初は、手紙を書くことが中心の話なのかなって思ってたんだけど、読んでみると、書けなかった言葉のほうにも意味があるんだなって感じた」
ひよりはその言葉を聞き、目を瞬かせた。
「……うん。私も、そこが好きなんだ」
思わず声が弾んだ。
自分が大切にしている物語の魅力を、海斗も感じ取ってくれたらしい。
海斗はその反応を見て、少しだけ嬉しくなった。
「天野さんが薦めてくれなかったら、たぶん自分では選ばなかったと思う。普段はもう少し展開がはっきりしてる話を読むことが多いから」
「そうなんだ。じゃあ、いつもと違う感じだった?」
「うん。でも、静かな場面にもちゃんと意味があるんだなって。読んでて、あとから気づくことが多かった」
海斗はそこで少し言葉を探した。
ただ面白かったと伝えるだけでは、何となく足りない気がした。
「……それに、相手のために言葉を選んでるつもりでも、何も伝えなかったら分からないこともあるんだなって思った」
ひよりはその言葉を聞き、少しだけ表情を変えた。
胸の奥に、颯太へ告白した日の記憶が静かに浮かんだからだ。
ずっと伝えられなかった気持ち。
勇気を出して言葉にした想い。
そして、望んでいた答えではなかったけれど、颯太が誠実に返してくれた言葉。
ひよりは机の端へ指先を添え、ゆっくり息を整えた。
(……伝えたからって、全部がうまくいくわけじゃない。でも、言わなかったら、きっと分からないままだったんだよね)
その気持ちを今ここで説明するつもりはなかった。
海斗は自分が失恋したことを知らないし、わざわざ話題にする必要もない。
ひよりは少しだけ微笑んで、海斗へ顔を向けた。
「……そうだね。言葉にするのって、難しいよね」
海斗はその返事に、何かを感じたようにひよりを見た。
いつもの明るい声より、ほんの少しだけ落ち着いた響きがあった。
けれど、その理由までは分からない。
海斗は無理に尋ねず、静かに頷いた。
「うん。だからこそ、ちゃんと考えて伝えたいなって思った」
ひよりはその言葉に穏やかに笑った。
「橘君の感想、聞けてよかった。読み終わったら、また教えてね」
「もちろん。天野さんも、好きな場面があったら教えてほしい」
二人が話している間、千夏は少し離れた自分の席で教科書を取り出していた。
会話のすべてが聞こえたわけではないが、海斗がひよりの話を丁寧に聞いていることは分かった。
ひよりも楽しそうに答えている。
その様子は、ごく自然な友達同士の会話だった。
けれど、海斗がひよりの表情を確かめるように見つめていたことに、千夏は気づいていた。
(……橘君も、少しずつ変わってきてるのかな)
千夏はそう考えたものの、今は何も言わなかった。
やがて始業前の予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席へ戻り始めた。
海斗も本を鞄へしまい、ひよりへ軽く会釈して自分の席へ向かった。
ひよりは教科書を取り出しながら、先ほどの会話を思い返していた。
同じ本を読んでも、感じることは人によって違う。
真樹は、言葉を選ぶ理由や、その背景にある気持ちに興味を持っているようだった。
海斗は、伝えなかった言葉が相手にどう影響するのかを考えていた。
そして自分は、登場人物たちが不器用でも相手を大切に思っているところが好きだった。
ひよりはその違いを思い浮かべ、静かに微笑んだ。
(……本って、やっぱり面白いな)
月曜日の授業が始まった。
午前中はいつもどおりに進み、ひよりは黒板へ書かれた内容をノートへ写しながら、先生の説明へ耳を傾けていた。
休み時間には千夏と課題の確認をし、次の授業で使うプリントを取り出す。
週末に楽しい出来事があったからといって、学校生活が大きく変わるわけではない。
それでも、ひよりはいつもより少しだけ穏やかな気持ちで一日を過ごしていた。
昼休みになると、ひよりと千夏はいつものように弁当を広げた。
教室には食事をしながら話す生徒たちの声が重なり、廊下からも賑やかな足音が聞こえてくる。
ひよりが弁当箱の蓋を開けると、千夏が向かいの席から顔を寄せた。
「そういえば、ひより。昨日、北条君とは本の感想を話したんだよね?」
「うん。メッセージで少しだけ」
「どんな感じだった?」
ひよりは箸を持ったまま、少し考えた。
「最初のお話の感想を話したんだけど、北条君は町の変化が印象に残ったんだって。私は登場人物の気持ちのほうを考えてたから、同じところを読んでても違うんだなって思ったよ」
千夏は頷きながら聞いていた。
「なるほどね。北条君、歴史が好きなんだっけ?」
「そうなの。昔の人がどんなふうに暮らしてたのか考えるのが面白いんだって」
「へえ。ひよりとは少し違うところに興味があるんだね」
「うん。でも、だから話してて楽しいのかもしれない」
ひよりは自然に答えた。
千夏はその言葉を聞き、箸を動かす手を少しだけ止めた。
ひよりは気づいていないようだったが、今の言葉には単に本が好きというだけではない響きがあった。
相手と自分が違うことを、面白いと思える。
知らない考え方に触れることを、楽しいと思える。
それは、人と親しくなっていくうえで大切なことなのかもしれない。
「……いいね、そういうの」
千夏が穏やかに言うと、ひよりは嬉しそうに笑った。
「うん。千夏とも、もっといろんな本の話したいな」
「もちろん。まずはその短編集を読み終わってからね」
二人は笑い合い、昼食を続けた。
少しして、千夏が何気ない調子で尋ねた。
「そういえば、ひより。北条君とまた本屋さんに行く約束もしたんだっけ?」
「うん。また一緒に行こうって話したよ。いつになるかは、まだ決まってないけど」
「そっか。ノアにも会いたいって言ってたよね」
「そうなの! 最近、ノアに会えてないから、また一緒にお散歩したいな」
ひよりは嬉しそうに答えた。
千夏はその様子に小さく笑った。
ひよりにとって、真樹とノアはすでに日常の中で大切な存在になっている。
それは間違いない。
けれど、ひよりがその気持ちをどう捉えているのかは、まだ分からなかった。
千夏は弁当箱へ視線を戻し、無理に踏み込むことはしなかった。
同じころ、私立桜陵学園では、北条真樹が昼休みに神崎蓮と話していた。
教室の窓からは冬の弱い日差しが差し込み、暖房の効いた室内には穏やかな空気が流れている。
真樹は昼食を終え、机の上に置いていた本を鞄へしまおうとしていた。
その表紙を見た蓮が、少しだけ眉を上げた。
「お、珍しいな。真樹がそういう本を読んでるの」
真樹は手元へ視線を落とした。
「そうか?」
「いや、お前って歴史小説とか、昔の町が舞台の話を読んでることが多いだろ。家族の手紙が中心の物語って、ちょっと意外だった」
蓮は笑いながら言った。
真樹は本を鞄へ入れ、少しだけ頬を緩めた。
「天野に薦められたんだ」
その名前を聞いた瞬間、蓮の表情が少し変わった。
「……なるほどね」
「何だよ、その顔」
「別に。土曜日の本屋さん、楽しかったんだろうなって思っただけ」
蓮はわざとらしく肩をすくめた。
真樹は一瞬だけ黙ったあと、窓の外へ視線を向けた。
「……楽しかったよ」
蓮はその素直な返事に、少し驚いたように目を瞬かせた。
以前の真樹なら、こういう話題になるともう少し言葉を濁していた気がする。
けれど、今は違う。
照れている様子はあるものの、ひよりと過ごした時間が楽しかったことを隠そうとはしなかった。
「へえ。じゃあ、結構いい感じだったんじゃない?」
蓮が軽い調子で言うと、真樹はすぐに首を横へ振った。
「そういう意味じゃない。普通に本を選んで、話してただけだよ」
「分かってるって。別に、何か進展があったかって聞いてるわけじゃない」
蓮は笑いながら答えた。
真樹は少しだけ息を吐いた。
蓮には、自分がひよりを好きだと話している。
だからこそ、こういう話題になると自然にからかわれてしまう。
けれど、真樹は蓮のことを嫌だとは思っていなかった。
自分の気持ちを知っている相手がいることは、思っていた以上に心強かった。
「……天野が楽しそうだったから、それで十分だよ」
真樹が静かに言うと、蓮は少しだけ表情を和らげた。
「そっか」
蓮はそれ以上からかわず、机へ肘をついた。
「でも、お前も楽しめたならよかったじゃん。好きな相手と一緒に出かけて、ずっと気を遣ってたら疲れるだろ」
真樹はその言葉を聞き、少し考えた。
確かに、ひよりが楽しめるようにしたいという気持ちはあった。
けれど、土曜日は自分も自然に楽しんでいた。
好きな本の話をして、ひよりの感想を聞いて、普段とは違う表情を見られた。
それは、無理をして作った時間ではなかった。
「……そうだな。俺も楽しかった」
真樹は小さく笑った。
蓮はその表情を見て、穏やかに頷いた。
「なら、いいんじゃない?」
真樹はその言葉に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
ひよりが失恋したことを、蓮も知っている。
だから、真樹が急いで想いを伝えようとしていない理由も理解してくれていた。
蓮はしばらく黙っていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、お前、一ノ瀬とも喫茶店に行くって話してなかった?」
「ああ。再来週の土曜日なら、今のところ大丈夫そうだって伝えた」
「日程は決まったの?」
「まだ。向こうの予定もあるだろうし、ちゃんと確認してからにしようと思ってる」
真樹は何気なく答えた。
蓮はその言葉を聞き、少しだけ考え込んだ。
玲奈と真樹は幼いころからの付き合いだ。
二人で出かけること自体は、特別珍しいことではないのかもしれない。
けれど、最近の玲奈を見ていると、真樹への気持ちが単なる幼なじみとしての親しさだけなのか、少し気になることがあった。
もちろん、本人から直接聞いたわけではない。
だから、蓮も勝手に決めつけるつもりはなかった。
「……そっか。まあ、約束してるなら、ちゃんと決めとけよ」
蓮がそう言うと、真樹は頷いた。
「ああ。今日、確認してみる」
真樹はそれ以上深く考えず、机の上の教科書を揃えた。
蓮はその横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
(……真樹って、こういうところは本当に鈍いんだよな)
ただ、その考えを口にすることはしなかった。
玲奈の気持ちは、まだ確かめられていない。
自分の推測だけで真樹へ何かを言うのは、違う気がした。
昼休みが終わりに近づくと、教室の後方から女子生徒たちの笑い声が聞こえてきた。
真樹は何気なくそちらへ目を向けた。
一ノ瀬玲奈が、三浦沙耶と話している。
玲奈は楽しそうに笑っていたが、真樹が視線を向けたことには気づかなかった。
真樹は午後の授業が始まる前に予定を確認しようと思い、スマートフォンのカレンダーを開いた。
再来週の土曜日には、今のところ予定が入っていない。
念のため確認しておきたいことはあったが、喫茶店へ行く時間は取れそうだった。
真樹は画面を閉じ、玲奈へ声を掛けるタイミングを考えた。
午後の授業が終わったあとでいいだろう。
そう判断して、スマートフォンを鞄へしまった。
そのころ、玲奈も昼休みの終わりを迎えていた。
沙耶と話していたのは、週末に見かけた新しい雑貨店のことだった。
玲奈は可愛い小物の話をしながらも、時折、教室の前方にいる真樹へ目を向けていた。
真樹は蓮と何か話している。
笑っている様子を見ると、何だか安心する。
けれど、その笑顔が自分へ向けられたものではないことに、少しだけ寂しさを覚えることもあった。
(……土曜日、ひよりちゃんと楽しく過ごせたのかな)
玲奈は心の中でそう考え、すぐに視線を戻した。
ひよりとは火曜日に喫茶店へ行き、楽しい時間を過ごした。
そのことは、今でも大切な思い出になっている。
けれど、真樹とひよりが二人で出かけたと聞いたとき、胸の奥に小さな痛みがあったのも事実だった。
玲奈はその気持ちを、まだうまく整理できていなかった。
ひよりは優しい女の子だ。
真樹のことも、大切な友達だと言っていた。
その言葉を聞いたときは安心した。
けれど、人の気持ちは変わることもある。
そして、真樹がひよりをどう思っているのか、玲奈には分からない。
玲奈は机の上の筆箱へ視線を落とし、小さく息を吐いた。
「玲奈?」
沙耶の声に顔を上げると、友人が少し心配そうにこちらを見ていた。
「どうしたの? 何か考え事?」
「……ううん。ちょっとぼんやりしてただけ」
玲奈は慌てて笑顔を作った。
沙耶はその表情を見つめたあと、無理に理由を尋ねることはしなかった。
「そっか。午後も頑張ろうね」
「うん。ありがとう、沙耶」
玲奈は笑顔で答えた。
沙耶はその言葉に頷き、自分の席へ戻っていった。
玲奈は友人の後ろ姿を見送りながら、胸の奥に残る気持ちをそっと押し込めた。
真樹と喫茶店へ行く約束が、まだ正式には決まっていない。
けれど、その日を楽しみにしている自分がいる。
それだけは、確かだった。
放課後、青葉高校では、ひよりが千夏と一緒に教室を出ようとしていた。
廊下には部活動へ向かう生徒たちが行き交い、窓の外には少し傾いた冬の日差しが差し込んでいる。
ひよりは鞄を肩へ掛け直し、千夏へ顔を向けた。
「千夏、今日はまっすぐ帰る?」
「うん。ちょっと家でやることがあるから。ひよりは?」
「私も帰るよ。昨日の本の続きが読みたいし」
ひよりが笑うと、千夏もつられて笑った。
「本当に気に入ったんだね」
「うん。今度、千夏にも読んでもらいたいな」
二人が廊下を歩き始めたところで、後ろから声が掛かった。
「天野さん、藤崎さん。ちょっといい?」
振り返ると、海斗が教室から出てきたところだった。
手には『雨上がりの手紙』を持っている。
「橘君、どうしたの?」
ひよりが尋ねると、海斗は少しだけ笑った。
「朝、途中まで読んだって話しただろ。さっき、帰る前に少し読んでたら、気になるところがあってさ」
ひよりは興味深そうに顔を向けた。
「どんなところ?」
「主人公が手紙を書き直す場面なんだけど、あそこって、最初の言葉が間違ってたわけじゃないよな?」
海斗は本の表紙を見つめながら続けた。
「ただ、相手にちゃんと伝わるように考え直したんだと思うんだけど、天野さんはどう読んだ?」
ひよりは少しだけ考えた。
その場面は、自分も好きなところだった。
主人公は何度も手紙を書き直す。
けれど、それは本当の気持ちを隠したいからではない。
大切な相手へ、自分の言葉をきちんと届けたいからだった。
「……私も、そう思うよ」
ひよりは穏やかに答えた。
「最初に書いた言葉も、きっと本当の気持ちだったんだと思う。でも、相手が読んだときにどう感じるかを考えて、少しずつ変えていったんじゃないかな」
海斗はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「やっぱり、そうだよな」
「うん。でも、私は最初の文章も好きなんだ。うまく書けてなくても、ちゃんと気持ちがこもってる気がして」
ひよりは少し照れたように笑った。
海斗はその表情を見つめながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
ひよりは物語を読むとき、登場人物の不器用さまで大切にしている。
うまく言葉にできなかったことを、簡単に否定しない。
その考え方が、海斗にはとても優しく感じられた。
「……天野さんらしい感想だね」
海斗が言うと、ひよりは不思議そうに首を傾げた。
「そうかな?」
「うん。何となくだけど、天野さんって、相手が何を伝えようとしたのか考えるのが上手な気がする」
ひよりはその言葉に少し驚いた。
褒められると思っていなかったため、頬がほんのり温かくなる。
「……ありがとう。でも、私も分からないこと、いっぱいあるよ」
ひよりは少しだけ笑った。
「本を読んでても、あとから気づくことがあるし、友達と感想を話して初めて分かることもあるから」
海斗はその返事を聞き、穏やかに頷いた。
「だから、感想を話すのって面白いんだろうね」
「うん。私もそう思う」
二人が笑い合うと、隣にいた千夏も自然に微笑んだ。
ただ、千夏は海斗がひよりを見つめる時間が、以前より少し長くなっていることに気づいていた。
ひよりは本の話に夢中で、特に意識していないようだった。
千夏はその様子を見ながら、何も言わずに鞄を持ち直した。
「じゃあ、橘君。また明日ね」
千夏が声を掛けると、海斗は顔を上げた。
「ああ、引き止めてごめん。二人とも気をつけて」
「ううん。感想聞けて楽しかったよ」
ひよりは笑顔で答えた。
「橘君も、気をつけて帰ってね」
海斗はその言葉に頷き、二人を見送った。
廊下の向こうへ歩いていくひよりの後ろ姿を見つめながら、海斗は手元の本へ視線を落とした。
(……もっと、いろんな話をしてみたいな)
最初は文学の授業で一緒になったことがきっかけだった。
けれど、最近は授業と関係のない話も増えている。
ひよりが好きな本。
ひよりが大切にしている言葉。
そして、ひよりが何を考えて笑うのか。
海斗はそうしたことを、少しずつ知りたいと思うようになっていた。
その気持ちを恋と呼ぶのかどうか、まだ自分でも分からない。
ただ、ひよりと話す時間が以前より楽しみになっていることは、確かだった。
海斗は本を鞄へしまい、教室へ戻って帰り支度を整えた。
同じころ、桜陵学園でも午後の授業が終わっていた。
真樹は教科書を鞄へしまいながら、少し離れた席にいる玲奈へ目を向けた。
玲奈は沙耶と話している。
真樹は二人の会話が一区切りつくのを待ってから、玲奈へ声を掛けた。
「一ノ瀬、ちょっといいか?」
玲奈は顔を上げた。
「真樹? どうしたの?」
「この前話してた喫茶店のことなんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、玲奈の表情が少し明るくなった。
沙耶も二人へ目を向けたが、玲奈が真樹と話し始めたのを見て、自然に少し離れた。
真樹は鞄を持ちながら、落ち着いた声で続けた。
「再来週の土曜日、午後なら時間が取れそうなんだ。まだ一ノ瀬の予定が空いてるなら、どうかなと思って」
玲奈は一瞬だけ言葉を失った。
真樹が覚えていてくれた。
それだけでも嬉しかったのに、こうして自分から予定を確認してくれたことが、胸の奥へ温かな気持ちを広げていく。
「……うん。大丈夫だよ」
玲奈は少しだけ声を弾ませた。
「私も、その日は空いてるから」
「そっか。じゃあ、再来週の土曜日にしよう」
真樹は穏やかに頷いた。
玲奈はその言葉を聞き、自然に笑顔になった。
「ありがとう、真樹。楽しみにしてるね」
「ああ。店の場所とか、また教えてくれる?」
「うん。前に気になってたところがあるから、あとで送るね」
玲奈は嬉しそうに答えた。
真樹は頷き、少しだけ笑った。
「分かった。じゃあ、よろしく」
「こちらこそ」
二人はそう言葉を交わし、それぞれ帰り支度へ戻った。
真樹にとっては、幼なじみと以前から話していた喫茶店へ行く約束が決まっただけだった。
けれど、玲奈にとっては違う。
ずっと楽しみにしていた時間が、ようやく形になった。
まだ待ち合わせの時刻も、店の詳しい場所も決まっていない。
それでも、再来週の土曜日に真樹と二人で出かけられる。
そのことが嬉しかった。
玲奈は鞄を持ちながら、少しだけ頬を緩めた。
(……本当に、行けるんだ)
そのとき、隣から沙耶が小さく声を掛けた。
「玲奈、よかったね」
玲奈は驚いて顔を向けた。
「えっ?」
「喫茶店の予定、決まったんでしょ?」
沙耶は笑顔で言った。
玲奈は少し照れたように頷いた。
「……うん。再来週の土曜日になったよ」
「そっか。楽しみだね」
沙耶はそれ以上詳しく尋ねなかった。
けれど、玲奈が嬉しそうにしていることは、十分に伝わってきた。
玲奈は友人の優しさに少しだけ安心し、穏やかに微笑んだ。
「うん。すごく楽しみ」
その言葉は、自然に口からこぼれたものだった。
放課後の帰り道、ひよりと千夏は並んで歩いていた。
夕方の空には薄い雲が広がり、冷たい風が制服の裾を揺らしている。
ひよりはマフラーを整えながら、千夏へ顔を向けた。
「千夏、今日も橘君と本の話ができて楽しかったな」
「うん。橘君、ちゃんと読んでくれてるみたいだね」
「そうなの。私が好きなところを、橘君も気に入ってくれたみたいで嬉しかった」
ひよりは笑顔で答えた。
千夏はその表情を見て、少しだけ考えた。
真樹と本の話をするときも、海斗と話すときも、ひよりは本当に楽しそうだ。
ただ、二人への気持ちは同じなのだろうか。
千夏には、まだ分からなかった。
ひより自身も、きっとそこまで考えていない。
「……ひよりってさ、本当に本が好きだよね」
千夏が言うと、ひよりは少し不思議そうに笑った。
「急にどうしたの?」
「いや、好きな本の話になると、すごく楽しそうだから」
千夏は穏やかに答えた。
ひよりは少し照れたように笑い、前方へ視線を向けた。
「……うん。好きだよ」
そして、少しだけ考えてから続けた。
「でも、最近は本を読むだけじゃなくて、誰かと感想を話すのも好きになってきたかもしれない」
千夏はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「そっか。それはいいことだね」
「うん。自分では気づかなかったことを教えてもらえるし、同じところが好きだって分かると嬉しいんだ」
ひよりは穏やかに笑った。
千夏はその横顔を見ながら、少しだけ目を細めた。
ひよりは今、自分の世界を少しずつ広げている。
それは恋愛だけの話ではない。
新しい友達と出会い、違う学校の人と親しくなり、自分が好きなものを誰かと共有している。
そうした経験が、ひよりの毎日を少しずつ変えているのだろう。
千夏はその変化を、これからもそばで見守っていきたいと思った。
夕方、ひよりは自宅へ帰り、制服から部屋着へ着替えた。
机の上には、昨日の短編集が置かれている。
ひよりは鞄を片づけたあと、スマートフォンを確認した。
真樹から新しいメッセージが届いていた。
『天野、今日も学校お疲れ』
ひよりは自然に笑顔になった。
『北条君もお疲れさま!』
『今日はすごく寒かったね』
少しして、返事が届いた。
『ああ。帰りは特に風が強かった』
『ノアも散歩のとき、いつもより早く帰りたそうにしてたよ』
ひよりはその文章を読み、思わず笑った。
『ノアでも寒い日は早く帰りたいんだね』
『なんだか可愛いな』
真樹からは、少し間を置いて返事が届いた。
『今日は玄関に戻ったら、すぐ暖かいところへ行ってた』
『今はもう寝てる』
ひよりはその様子を想像し、頬を緩めた。
大きな黒犬が暖かな場所で丸くなって眠っている。
その姿を思い浮かべるだけで、何だか心が和んだ。
『今度会ったら、いっぱい撫でたいな』
送信すると、真樹からすぐに返事が届いた。
『きっと喜ぶよ』
ひよりはスマートフォンを持ったまま、少しだけ考えた。
ノアに会いたい。
真樹とも、また話したい。
けれど、今週は学校の予定もある。
無理に約束を決める必要はないと思い、ひよりは話題を変えた。
『そういえば、今日も『雨上がりの手紙』の話をしたんだ』
真樹からの返事は、少しだけ時間を置いて届いた。
『学校で?』
『うん。クラスの橘君っていう子が読んでくれてて、感想を話したの』
真樹はその文章を読み、少しだけ目を止めた。
橘君。
以前、ひよりが学校で一緒に文学の課題をしていると話していた相手だろう。
真樹はその名前を見ながら、ひよりが学校でも楽しそうに本の話をしている様子を想像した。
自分とは違う学校で、ひよりにはひよりの日常がある。
そこには、自分が知らない友達や出来事がたくさんあるのだろう。
真樹はそのことを当たり前だと思っていた。
けれど、ひよりが別の男子生徒と同じ本を読んで感想を話していると知ると、胸の奥にほんの少しだけ落ち着かないものが生まれた。
(……天野が楽しそうなら、それでいいはずなんだけどな)
真樹は自分の気持ちに少し戸惑った。
海斗がどんな人物なのか、真樹は知らない。
ひよりとどれほど親しいのかも分からない。
だから、勝手に何かを想像するのは違うと思った。
真樹は一度スマートフォンを置き、机の上にある『雨上がりの手紙』へ目を向けた。
ひよりが好きな物語。
自分も、少しずつその魅力を感じ始めている。
それは誰かと比べるために読んでいるわけではない。
ひよりが大切にしているものを、自分も知りたいと思ったからだ。
真樹は静かに息を吐き、再びスマートフォンを手に取った。
『そうなんだ。学校でも感想を話せる相手がいるのはいいな』
『天野が薦めてくれた本、俺も続きが楽しみだよ』
送信すると、ひよりから嬉しそうな返事が届いた。
『うん! 北条君とも、また感想を話したいな』
真樹はその文章を見つめた。
胸の奥にあった小さな落ち着かなさが、少しだけ和らいだ。
ひよりは自分とも話したいと思ってくれている。
そのことが、素直に嬉しかった。
『ああ。読み終わったら、またゆっくり話そう』
真樹はそう返信し、スマートフォンを机へ置いた。
足元ではノアが静かに眠っている。
真樹はその寝顔を見ながら、小さく笑った。
「……俺も、まだまだだな」
ノアは眠ったまま、耳をわずかに動かした。
真樹はその様子に少しだけ笑い、椅子へ深く腰を下ろした。
ひよりのことが好きだ。
その気持ちは、もう自分の中ではっきりしている。
けれど、好きだからこそ、知らないことが気になってしまう。
ひよりが学校でどんなふうに過ごしているのか。
誰と話し、どんなことに笑っているのか。
そうした日常を、もっと知りたいと思う。
ただ、それを急いで知ろうとする必要はない。
ひよりが話してくれることを、一つずつ大切に受け取っていけばいい。
真樹はそう考えながら、本を開いた。
その夜、ひよりは夕食と入浴を終えたあと、自室で短編集の三つ目の物語を読み始めていた。
机の上には水色のノートが開かれており、気になった言葉を書き留められるよう、花柄の付箋もそばに置いてある。
三つ目の物語は、幼いころに同じ町で暮らしていた二人が、大人になって再会する話だった。
長い間会っていなかった二人は、昔の思い出を少しずつ語り合う。
けれど、同じ出来事を覚えているはずなのに、記憶の細かなところが違っていた。
一人にとっては何気ない出来事でも、もう一人にとっては忘れられない思い出になっている。
ひよりはその場面を読みながら、ページをめくる手を少しだけ止めた。
(……同じ時間を過ごしていても、感じ方は違うんだね)
今日、千夏や海斗と話したことを思い出す。
そして、真樹と交わしたメッセージも。
同じ本を読んでも、心に残る場面は少しずつ違う。
同じ出来事を経験しても、覚えていることは同じとは限らない。
それは少し寂しいことのようにも思える。
けれど、だからこそ、言葉を交わす意味があるのかもしれない。
ひよりは水色のノートへ、ゆっくり文字を書き込んだ。
『同じ時間を過ごしても、同じ気持ちになるとは限らない。だから、相手の感じたことを聞いてみたい。』
書き終えてから、その文章をもう一度読み返す。
ひよりは少しだけ微笑んだ。
真樹と出会ってから、知らなかったことがたくさん増えた。
ノアのこと。
真樹が好きな本のこと。
真樹がどんなふうに物語を読むのかということ。
そして、自分とは違う考え方に触れる楽しさ。
それらは、ひよりの日常へ少しずつ新しい色を加えていた。
ひよりは本を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の空には雲が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。
冷たい風が窓を小さく揺らした。
ひよりは机の上のスマートフォンへ目を向けた。
真樹とのやり取りが、まだ画面に残っている。
『読み終わったら、またゆっくり話そう』
その言葉を思い出し、ひよりは自然に頬を緩めた。
(……北条君と、また本の話ができるんだ)
それが楽しみだった。
今のひよりにとって、真樹は大切な友達だ。
一緒にいると安心できて、知らないことを教えてくれる人。
そして、自分が好きなものを大切にしてくれる人。
その気持ちがこれからどう変わっていくのか、ひよりにはまだ分からない。
けれど、今はその関係を大切にしたかった。
ひよりは本へしおりを挟み、明日の学校の準備を整えた。
同じころ、真樹も自室で『雨上がりの手紙』を読み進めていた。
物語の中では、主人公がようやく自分の気持ちを手紙へ書き始めている。
何度も書き直しながら、それでも相手へ届けたい言葉を探している。
真樹はその場面を読み、少しだけ考えた。
自分も、ひよりへ伝えたい気持ちがある。
けれど、今すぐ言葉にするつもりはなかった。
ひよりが失恋したばかりであることを知っているからだ。
そして、今の関係を大切にしたいと思っているからでもある。
真樹は本を閉じ、机の上へ置いた。
窓の外には静かな夜が広がっている。
足元ではノアが眠っており、時折小さく寝息を立てていた。
真樹はその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
「……また、天野と話したいな」
ノアは眠ったまま、尻尾を少しだけ動かした。
真樹はその頭を優しく撫でた。
同じ物語を読んでも、相手の心まですべて分かるわけではない。
けれど、言葉を交わすことで、少しずつ知ることはできる。
真樹はそのことを、ひよりと過ごす時間の中で感じていた。
そして、ひよりもまた、同じように新しい発見を重ねている。
まだ二人の気持ちは、同じ名前では呼べない。
それでも、互いの好きなものを知ろうとする小さな気持ちは、今日も静かに積み重なっていた。
月曜日の夜は、そんな穏やかな余韻を残しながら更けていった。




