第54話 同じ物語を読んでも、君の心まではまだ分からない
日曜日の朝、天野ひよりは自室の机に置かれた一冊の文庫本を眺めながら、昨日の書店で過ごした時間を思い返していた。
窓の外には薄い雲が広がっており、昨日ほど強くはないものの、時折吹く風が庭の木々を揺らしている。部屋の暖房はつけたばかりで、まだ少し冷たい空気が残っていた。
ひよりは両手で温かなマグカップを包み、机の上に置いた本へ視線を戻した。
昨日、北条真樹が紹介してくれた短編集だった。
古い町並みを舞台に、そこに暮らす人々の何気ない日常が描かれている。昨夜は最初の一編を読み終えたところで眠くなってしまったが、その物語の余韻は今朝になっても心に残っていた。
(北条君が好きだって言ってた理由、少し分かる気がするな)
ひよりはマグカップを置き、本を手に取った。
最初の物語では、古い時計店を営む老人と、町へ戻ってきた若い女性が登場する。
二人は以前から顔見知りだったが、長い間、ほとんど言葉を交わしていなかった。けれど、時計の修理をきっかけに少しずつ会話を重ねるうちに、互いが知らなかった時間や想いが明らかになっていく。
大きな事件が起きるわけではない。
それでも、何気ない言葉の中に隠れていた気持ちが少しずつ見えてくるところが、ひよりにはとても印象的だった。
特に、女性が老人へ「昔から変わらないと思っていました」と告げる場面が好きだった。
老人はその言葉を聞き、少しだけ笑う。
そして、自分も変わったし、町も変わったのだと静かに答える。
ひよりはその場面を読んだとき、何となく真樹のことを思い出した。
最初に出会ったころ、真樹は少し無口で落ち着いた男の子だと思っていた。
けれど、ノアと一緒にいるときは柔らかい表情を見せるし、本の話になると普段より言葉が増える。昨日も、歴史小説の魅力を話しているときの真樹は、とても楽しそうだった。
ひよりはその表情を思い出し、自然に頬を緩めた。
(……まだまだ、知らないことがいっぱいあるんだろうな)
真樹がどんな本を読んできたのか。
どんな場所が好きなのか。
学校では、どんなふうに友達と過ごしているのか。
考えてみると、知りたいことはいくらでも浮かんでくる。
けれど、ひよりはそれを急いで知ろうとは思わなかった。
昨日のように、一緒に過ごす時間の中で少しずつ知っていけたら嬉しい。
そんなことを考えていると、階下から母の由美が呼ぶ声が聞こえた。
「ひより、朝ご飯できたわよ」
「はーい! 今行く!」
ひよりは返事をして本へしおりを挟み、椅子から立ち上がった。
机の上には、昨日書店で購入した本の紙袋も残っている。
ひよりはそれを一度だけ眺め、温かな気持ちのまま部屋を出た。
食卓では、父の浩介が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。母の由美は台所で食器を並べており、兄の悠一はまだ起きていないらしい。
日曜日らしい、少しゆっくりした朝だった。
「おはよう、お母さん。お父さんも」
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
由美が尋ねると、ひよりは笑顔で頷いた。
「うん。帰ってから本を読んでたら、いつの間にか眠くなっちゃって」
「昨日買ってきた本?」
「そうだよ。北条君が教えてくれた短編集なの」
ひよりは椅子へ腰を下ろし、温かなスープへ目を向けた。
由美は娘の前にパンを置きながら、穏やかに微笑んだ。
「昨日はずいぶん楽しそうに帰ってきたものね。本屋さん、気に入った?」
「うん! すごく素敵なお店だったよ。大きなお店じゃないんだけど、本棚の並べ方が落ち着いてて、ゆっくり本を選べるの」
ひよりは嬉しそうに話し始めた。
木製の扉が印象的だったことや、店内に静かな音楽が流れていたこと。真樹が好きな本を紹介してくれたことも、自然に言葉へ出てきた。
由美はその話を聞きながら、娘がどれほど楽しい時間を過ごしたのかを感じ取っていた。
「そう。それはよかったわね」
「うん。それにね、北条君も私が好きな本を買ってくれたんだよ」
ひよりが言うと、浩介が新聞から顔を上げた。
「ほう。お互いに本を薦め合ったのか」
「そうなの。私は北条君が好きな短編集を買って、北条君は『雨上がりの手紙』を買ったんだ」
「同じ本を読んで感想を話せるのは、楽しそうだな」
浩介が穏やかに言うと、ひよりは大きく頷いた。
「うん! 読み終わったら、また話そうって約束したの」
その言葉を聞き、由美は少しだけ目を細めた。
娘は以前から本が好きだった。
けれど、最近は本そのものだけではなく、誰かと感想を共有することにも喜びを感じているらしい。
それはきっと、ひよりにとって大切な変化なのだろう。
「いいお友達ができたわね」
由美がそう言うと、ひよりは少し照れたように笑った。
「……うん。私もそう思う」
その返事を聞き、由美は何も言わずに微笑んだ。
ひよりが真樹をどんな相手として見ているのか、母親だからといってすべて分かるわけではない。
ただ、娘がその相手との時間を大切に思っていることは、十分に伝わってきた。
朝食を終えたひよりは食器を片づけ、再び自室へ戻った。
今日は特別な予定がない。
宿題は昨日までに終わらせていたため、午前中は本を読むことにした。
椅子へ腰を下ろし、短編集の続きを開く。
窓の外では雲の間から日差しが差し込み、机の上へ柔らかな光が落ちていた。
ひよりはページをめくりながら、物語の世界へゆっくり入り込んでいった。
同じころ、北条真樹も自室で読書をしていた。
机の上には、昨日ひよりに薦められて購入した『雨上がりの手紙』が置かれている。
昨夜から読み始めたものの、まだ物語の前半だった。
真樹は普段、歴史小説を読むことが多い。
そのため、家族や友人との関係を中心に描いた物語は、いつもとは少し違った感覚で読み進めていた。
けれど、不思議と退屈することはなかった。
むしろ、登場人物が何気ない言葉を選ぶ理由や、伝えられなかった気持ちが後になって明らかになる構成に、自然と引き込まれていた。
(……天野が好きそうな話だな)
真樹はページをめくりながら、昨日のひよりを思い出した。
書店で『雨上がりの手紙』を手に取ったとき、ひよりは本当に嬉しそうだった。
物語の説明をしている間も、表情がころころ変わっていた。
真樹はその様子を見ているだけで楽しかった。
そして、ひよりが好きな本を自分も読んでみたいと思った。
その気持ちは、今も変わっていない。
真樹は本を閉じ、少しだけ息を吐いた。
まだ読み終わっていないため、感想を送るには早い。
けれど、途中まで読んだ印象をひよりへ伝えたくなった。
真樹はスマートフォンを手に取り、メッセージ画面を開いた。
『天野、おはよう。昨日の本、少しずつ読んでる』
送信すると、数分後に返事が届いた。
『北条君、おはよう! 私も今、短編集の続きを読んでたところだよ』
真樹はその文章を見て、自然に笑った。
同じ時間に、それぞれが昨日買った本を読んでいる。
偶然とはいえ、そのことが少し嬉しかった。
『そっちはどう?』
真樹が尋ねると、ひよりから少し長い返事が届いた。
『すごく面白いよ! 最初の時計屋さんのお話、読み終わったんだけど、最後の会話が好きだったな』
『最初は普通の言葉に見えたところが、最後に読むと違って感じられるんだよね』
真樹はその感想を読み、思わず頬を緩めた。
自分も、あの物語では最後の会話が印象に残っていた。
ただ、ひよりがどの言葉に心を動かされたのか、もう少し詳しく聞いてみたかった。
『分かる。俺もあの終わり方が好きなんだ』
『天野は、どのあたりが一番印象に残った?』
送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。
『うーん、言葉にするの難しいんだけど、長い間会っていなかったからこそ、相手が変わったことに気づけなかったところかな』
『でも、変わったからって、昔の気持ちが全部なくなるわけじゃないんだなって思ったの』
真樹はその文章をゆっくり読んだ。
自分が読んだときは、古い町が変わっていく様子と、人々がその変化を受け入れるところに惹かれた。
ひよりは、人と人との関係が時間によってどう変わるのかを見ていたらしい。
同じ物語を読んでも、目を向けるところが違う。
それが面白かった。
『なるほど。俺は町の変化のほうを意識して読んでたから、天野の感想は新鮮だな』
『そうなんだ! 北条君の見方も聞いてみたい』
真樹は少し考えてから、文章を打ち始めた。
昔からある建物が残っていても、そこに暮らす人は少しずつ変わっていくこと。
変化を寂しいと感じる人もいれば、新しいものを受け入れる人もいること。
そして、どちらの気持ちも間違いではないと思ったこと。
長くなりすぎないように気をつけながら送信すると、ひよりから嬉しそうな返事が届いた。
『わあ、そういう読み方もあるんだね!』
『北条君と感想を話すと、自分だけじゃ気づかなかったことが分かって楽しいな』
真樹はその文章を見つめた。
胸の奥が、ゆっくり温かくなる。
ひよりは、ただ本を気に入ってくれただけではない。
自分と話す時間も楽しいと言ってくれている。
それが嬉しかった。
『俺も楽しいよ。また続きの感想、聞かせてくれ』
『うん! 北条君も『雨上がりの手紙』、ゆっくり読んでね』
真樹は笑顔で返事を送り、スマートフォンを机へ置いた。
足元ではノアが静かに眠っている。
真樹は椅子から立ち上がり、ノアの頭を軽く撫でた。
「……天野、もう最初の話を読み終わったらしいぞ」
ノアは薄く目を開け、真樹を見上げた。
真樹はその様子に小さく笑った。
「俺も、もう少し読もうかな」
ノアは尻尾を一度だけ動かし、再び目を閉じた。
真樹はその寝顔を見ながら、昨日のひよりの笑顔を思い出した。
また一緒に書店へ行こうと約束したとき、ひよりは嬉しそうに頷いてくれた。
その約束がいつになるのかは、まだ決まっていない。
けれど、次に一緒に本を選ぶ日が来ることを、真樹は今から楽しみにしていた。
昼前、ひよりは読書をいったん中断し、台所へ下りていった。
由美が昼食の準備をしており、ひよりはその隣へ立った。
「お母さん、何か手伝うことある?」
「ありがとう。じゃあ、サラダのお皿を出してもらえる?」
「うん!」
ひよりは食器棚から皿を取り出し、食卓へ並べ始めた。
台所には温かな料理の香りが漂い、窓の外からは時折、風の音が聞こえてくる。
由美は野菜を切りながら、娘へ声を掛けた。
「ひより、今日はずっと本を読んでたの?」
「うん。昨日買った本の続きが気になっちゃって」
「そんなに面白いの?」
「うん。北条君が好きだって言ってた理由、少し分かる気がするんだ」
ひよりは嬉しそうに答えた。
由美はその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「ひより、最近は北条君のお話が多いわね」
ひよりは皿を置く手を止めた。
「えっ、そうかな?」
「ええ。ノアちゃんのお話もよくするし、本屋さんのことも楽しそうに話してくれるから」
由美は穏やかに答えた。
ひよりは少しだけ考えた。
確かに、最近は真樹やノアのことを話す機会が増えたかもしれない。
けれど、それは一緒に過ごす時間が楽しいからだと思っていた。
「……北条君って、すごく優しいんだよ」
ひよりは自然に言った。
由美は包丁を置き、娘へ顔を向けた。
「そうなの?」
「うん。私が話してると、ちゃんと聞いてくれるし、困ってるときも無理に理由を聞いたりしないの」
ひよりは少しだけ視線を落とした。
颯太へ告白して断られた日のことが、胸の奥へ浮かんだ。
あの日、真樹は自分が泣いている理由を無理に尋ねなかった。
ただ、そばにいてくれた。
ノアも一緒だった。
その時間が、どれほど救いになったのか。
ひよりは今でも、よく覚えている。
「……それに、一緒にいると落ち着くんだ」
ひよりが小さく言うと、由美は娘の表情を見つめた。
その言葉には、普段の楽しそうな話とは少し違う響きがあった。
由美は理由を尋ねようか迷ったが、ひよりが自分から話すまで待つことにした。
「そう。安心できるお友達がいるのは、いいことね」
由美が穏やかに言うと、ひよりは顔を上げた。
「……うん」
ひよりは小さく笑い、食卓へ残りの皿を並べた。
由美はその横顔を見ながら、娘が少しずつ成長していることを感じていた。
親の知らないところで出会った人たちと、親の知らない時間を過ごしている。
それは少し寂しくもあり、同時に嬉しいことでもあった。
昼食のあと、ひよりは千夏から届いたメッセージに気づいた。
『ひより、昨日の本屋さんどうだった?』
ひよりはすぐに返信した。
『すごく楽しかったよ! 北条君のお気に入りのお店、落ち着いてて素敵だった!』
『おすすめの短編集も買っちゃった』
少しして、千夏から返事が届いた。
『よかったね! ひよりが楽しめたなら何よりだよ』
『北条君とはいっぱい話せた?』
ひよりは昨日のことを思い返しながら、文章を打った。
『うん! 本の話だけじゃなくて、北条君が歴史を好きになった理由も聞けたよ』
『私が好きな本も買ってくれたんだ』
千夏は自室でそのメッセージを読み、少しだけ目を細めた。
ひよりは本当に楽しそうだった。
文字だけでも、その様子が伝わってくる。
けれど、千夏にはもう一つ気になることがあった。
真樹は、ひよりのことが好きなのではないか。
そう感じる場面が、これまで何度もあった。
もちろん、本人から直接聞いたわけではない。
だから、確かなことは分からない。
ただ、ひよりが大切にしている本を真樹も買ったと聞くと、その可能性を考えずにはいられなかった。
(……北条君、ひよりのことをもっと知りたいんだろうな)
千夏はスマートフォンを見つめながら、少しだけ考えた。
ひよりはまだ、颯太への気持ちを整理している途中だ。
以前より笑顔は増えたけれど、失恋したことがなかったことになるわけではない。
だからこそ、誰かの気持ちを勝手に決めつけたり、ひよりを急かしたりしたくなかった。
千夏は少し考えてから、返信を送った。
『それ、いいね。お互いの好きな本を読めるって楽しそう』
『また学校で感想聞かせてね』
ひよりからは、すぐに返事が届いた。
『うん! 千夏にもおすすめしたい本が増えちゃった』
千夏はその文章を読み、自然に笑った。
「……本当に、ひよりらしいな」
小さく呟き、スマートフォンを机へ置いた。
千夏は、ひよりが自分の気持ちを大切にしながら進んでいけたらいいと思っていた。
誰を好きになるのか。
誰と一緒にいたいと思うのか。
それは、ひより自身が決めることだからだ。
午後、私立桜陵学園の生徒である一ノ瀬玲奈は、自宅の自室でスマートフォンを眺めていた。
画面には、火曜日にひよりと撮った写真が表示されている。
小さな喫茶店で、二人並んで笑っている写真だった。
玲奈はその写真を見るたび、ひよりと過ごした時間を思い出す。
最初は、真樹を通じて知り合った女の子だった。
けれど、実際に話してみると、ひよりは想像していた以上に話しやすかった。
学校のこと、本のこと、ノアのこと。
話題が途切れて困ることもなく、気づけばあっという間に時間が過ぎていた。
玲奈はそのことを嬉しく思っている。
ただ、写真を眺めていると、どうしても真樹のことも考えてしまった。
昨日、真樹はひよりと書店へ行ったはずだった。
どんな時間を過ごしたのだろう。
ひよりは、どんな表情で笑っていたのだろう。
そして、真樹はひよりと一緒にいて、何を感じたのだろう。
玲奈はスマートフォンを持つ手を少しだけ緩めた。
(……気になるけど、聞くのは違う気がする)
ひよりとは友達になれた。
だからこそ、昨日のことを尋ねても不自然ではないかもしれない。
けれど、今の自分が聞きたい理由は、単なる友達としての興味だけではなかった。
真樹がひよりとどれほど楽しく過ごしたのか。
そのことを知るのが、少し怖かった。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。
庭には冬の弱い日差しが落ちている。
風に揺れる木の枝を眺めながら、玲奈は金曜日の朝のことを思い出した。
真樹は、再来週の土曜日なら喫茶店へ行けそうだと言ってくれた。
まだ正式な約束ではない。
けれど、予定を確認してくれたことが嬉しかった。
(……私との約束も、ちゃんと覚えててくれたんだよね)
玲奈は小さく微笑んだ。
その気持ちを大切にしたかった。
ひよりとの友情も、真樹への想いも。
どちらかを簡単に捨てられるものではない。
だからこそ、今は自分の気持ちを急いで答えへ変えようとせず、少しずつ向き合っていこうと思った。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には三浦沙耶の名前が表示されている。
『玲奈、昨日話してた喫茶店の予定、決まりそう?』
玲奈は少しだけ驚いたあと、笑顔になった。
『まだ正式には決まってないけど、再来週の土曜日になりそうだよ』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『いいじゃん! 楽しみだね』
玲奈はその文章を読み、少しだけ頬を緩めた。
『うん。楽しみ』
それだけ送信し、スマートフォンを胸元へ寄せた。
沙耶は、相手が真樹だとは知らない。
けれど、玲奈が楽しみにしていることを一緒に喜んでくれる。
その優しさが嬉しかった。
玲奈は窓の外へ視線を戻し、静かに息を吐いた。
真樹と喫茶店へ行く日が、本当に決まったら。
そのときは、どんな話をしよう。
そんなことを考えながら、玲奈は少しだけ笑った。
一方、青葉高校の橘海斗は、自室で『雨上がりの手紙』を読み進めていた。
金曜日に学校の図書室で借りた本だった。
ひよりが好きだと言っていた物語。
最初は、ひよりがどんな本を読むのか知りたいという気持ちから手に取った。
けれど、読み進めるうちに、物語そのものにも引き込まれていた。
主人公は、大切な相手へ手紙を書こうとしている。
伝えたいことはあるのに、言葉を選びすぎてしまい、なかなか書き進められない。
海斗はその場面を読みながら、少しだけ考えた。
(……相手のことを大切に思うほど、簡単には言えなくなるのかもしれないな)
海斗は本を閉じ、机へ置いた。
窓の外には曇り空が広がっている。
静かな日曜日の午後だった。
海斗は金曜日の昼休みを思い出した。
ひよりは、真樹と書店へ行く予定だと楽しそうに話していた。
別の学校の友達だという北条君。
海斗はまだ会ったことがない。
けれど、ひよりがその名前を口にするとき、自然に笑顔になることは知っていた。
海斗は少しだけ視線を落とした。
(……天野さんにとって、北条君ってどんな人なんだろう)
ただの友達なのかもしれない。
それとも、自分が知らない何かがあるのかもしれない。
けれど、今の海斗には確かめる理由がなかった。
ひよりが誰と出かけるのかを、詳しく聞く立場でもない。
海斗はそのことを分かっていた。
それでも、ひよりが真樹とどんな時間を過ごしたのか、少し気になってしまう。
その気持ちが何なのか、まだはっきりとは分からなかった。
海斗は再び本を開いた。
物語の中では、主人公がようやく手紙の最初の一文を書き始めていた。
海斗はその文章を読みながら、ひよりがこの場面をどう感じたのか考えた。
月曜日になったら、感想を話してみたい。
ひよりがどんなことを考えながら読んだのか、聞いてみたい。
その気持ちは、自然なものだった。
海斗は静かにページをめくり、物語の続きを読み始めた。
夕方になると、ひよりは短編集の二つ目の物語を読み終えていた。
窓の外は少しずつ暗くなり、部屋の照明が必要な時間になっている。
ひよりは本を閉じ、机の上に置いた水色のノートを開いた。
そこには、昨日から気になった場面や感想を書き留めている。
最初の物語では、人と人との関係が時間によって変わること。
二つ目の物語では、同じ出来事でも、立場によって受け取り方が違うこと。
ひよりはその二つを並べて書きながら、少しだけ考えた。
真樹がこの本を好きな理由は、物語の背景や町の変化にもあるらしい。
自分は登場人物の気持ちへ目が向きやすい。
どちらが正しいというわけではない。
同じ物語を読んでも、違うところに心を動かされる。
その違いを話せることが、ひよりには楽しかった。
(……北条君と感想を話すと、もっといろんなことに気づけそう)
ひよりはノートへもう一行書き加えた。
そして、少しだけ迷ってからスマートフォンを手に取った。
真樹へ、二つ目の物語も読んだことを伝えようと思った。
『北条君、二つ目のお話も読んだよ!』
『最初のお話とはまた違う感じで、すごく面白かった』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『もう二つ目まで読んだのか。結構早いな』
ひよりは思わず笑った。
『面白くて、つい読んじゃった』
『北条君は『雨上がりの手紙』どう?』
真樹からの返事は、少し時間を置いて届いた。
『まだ途中だけど、面白いよ』
『登場人物が言葉を選ぶ理由を考えるのが楽しい』
ひよりはその文章を読み、嬉しくなった。
真樹は、ちゃんと物語を楽しんでくれている。
そのことが伝わってきた。
『よかった! 私もあの本、言葉の選び方が好きなんだ』
『読み終わったら、またいっぱい話そうね』
真樹からは、すぐに返事が届いた。
『ああ。楽しみにしてる』
ひよりはスマートフォンを置き、静かに微笑んだ。
昨日の書店で過ごした時間は、もう終わっている。
けれど、そこで選んだ本を通じて、今日も真樹と話すことができた。
そのことが、何だか嬉しかった。
夜、ひよりは夕食を終えたあと、自室で明日の学校の準備をしていた。
教科書を鞄へ入れ、筆箱とノートを確認する。
水色のノートは、いつもの場所へしまった。
明日、千夏に昨日のことを話そう。
海斗が『雨上がりの手紙』をどこまで読んだのかも、少し気になる。
そして、真樹とはまた本の感想を話したい。
そんなことを考えながら準備をしていると、スマートフォンが震えた。
画面には真樹からのメッセージが表示されていた。
『天野、明日からまた学校だな』
ひよりは少し笑った。
『そうだね。休みってあっという間だよね』
『でも、昨日すごく楽しかったから、明日からも頑張れそう!』
送信すると、真樹から返事が届いた。
『俺も楽しかったよ』
『また一緒に本屋に行こうな』
ひよりはその文章を見つめた。
昨日も、また一緒に行こうと約束した。
けれど、こうして改めて言ってもらえると、何だか嬉しかった。
『うん! 絶対また行こうね』
ひよりは笑顔で返信した。
そして、少し考えてから、もう一つメッセージを送った。
『それと、今度はノアにも会いたいな』
真樹からの返事は、すぐに届いた。
『ノアも天野に会いたがってると思う』
『また散歩に誘うよ』
ひよりはその文章を読み、自然に笑顔になった。
『楽しみにしてる!』
送信すると、スマートフォンを枕元へ置いた。
ひよりはベッドへ腰を下ろし、今日読んだ短編集へ目を向けた。
真樹が好きな本。
自分が好きな本。
同じ物語を読んでも、感じることは少しずつ違う。
けれど、その違いを知ることが楽しい。
ひよりはそのことを、昨日と今日で改めて感じていた。
(……北条君のこと、もっと知りたいな)
その気持ちは、まだ恋という言葉には結びついていなかった。
ただ、真樹と一緒にいる時間が心地よくて、話すたびに新しい発見がある。
そのことが、ひよりには嬉しかった。
同じころ、真樹も自室で『雨上がりの手紙』を閉じたところだった。
物語はまだ途中だったが、ひよりが好きだと言っていた理由が少しずつ分かってきた気がした。
真樹は机の上に本を置き、スマートフォンを確認した。
ひよりとのやり取りが残っている。
『絶対また行こうね』
その言葉を見つめ、真樹は静かに微笑んだ。
昨日、ひよりと過ごした時間は本当に楽しかった。
けれど、今日もこうして本の話ができたことが嬉しかった。
真樹は椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
夜の空には雲が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。
足元ではノアが静かに眠っていた。
真樹はその寝顔を見ながら、小さく呟いた。
「……また、天野と一緒に散歩しような」
ノアは眠ったまま、尻尾を少しだけ動かした。
真樹はその様子に笑い、再び机へ向かった。
ひよりが好きな物語を、もっと知りたい。
そして、ひより自身のことも、少しずつ知っていきたい。
その気持ちは、昨日よりも確かになっていた。
真樹は本を開き、続きを読み始めた。
同じ物語を読んでも、相手の心まですべて分かるわけではない。
けれど、言葉を交わし、感じたことを伝え合うことで、少しずつ近づくことはできる。
ひよりも真樹も、まだその距離の変化をはっきりとは意識していなかった。
それでも、互いの好きなものを知ろうとする小さな気持ちは、静かに積み重なっていた。
そして、冬の日曜日は、穏やかに終わろうとしていた。




