第53話 君と選ぶ一冊は、いつもより特別で
土曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。
まだ布団の温もりが残る部屋には、カーテンの隙間から淡い日差しが差し込んでいる。窓の外では風が吹いているらしく、庭木の枝が揺れる音がかすかに聞こえていた。
ひよりは枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認した。午前七時を少し過ぎたところだった。
待ち合わせは午後一時。今から慌てる必要はないと分かっているのに、いつもより早く目が覚めてしまったことが少しおかしくて、ひよりは布団の中で小さく笑った。
(今日は北条君と本屋さんに行くんだ。どんなお店なんだろう)
昨日、真樹から届いたメッセージを思い出す。
『明日、天野に見せたい本があるんだ』
どんな本なのか尋ねても、真樹は教えてくれなかった。
明日のお楽しみ。
そう返されたときは少しだけ意地悪だと思ったけれど、今になってみると、何を紹介してもらえるのか想像する時間まで楽しかった。
ひよりは布団から起き上がり、机の横へ目を向けた。
椅子の背には、昨日のうちに選んでおいた服が掛けてある。淡いベージュ色のニットに紺色のスカート、寒さに備えて用意したタイツとコートも揃えていた。
姉の美月に見てもらったときは、ひよりらしくて可愛いと言ってもらえた。
その言葉を思い出しながら、ひよりは少しだけ頬を緩めた。
(……北条君、何か言ってくれるかな)
そんな考えが浮かんだ直後、ひよりは自分で少し驚いた。
真樹に服を褒めてもらうために選んだわけではない。
ただ、せっかく二人で出かけるのだから、少しでもきちんとした格好をしていきたいと思っただけだ。
ひよりはそう考え直し、クローゼットの扉を開けた。
着替えを済ませ、髪を整えてから一階へ下りると、台所から朝食の香りが漂ってきた。
母の由美がフライパンを片づけており、食卓では父の浩介が新聞を読んでいる。兄の悠一もすでに起きていて、コーヒーを飲みながらスマートフォンを眺めていた。
「おはよう!」
ひよりが声を掛けると、三人が顔を上げた。
「おはよう、ひより。今日は早いのね」
由美が笑顔で言うと、ひよりは少し照れたように頷いた。
「うん。何だか早く目が覚めちゃって」
「楽しみな予定がある日は、そういうこともあるわよね」
由美は穏やかに笑い、ひよりの前へ温かなスープを置いた。
悠一は妹の服装を見て、少しだけ眉を上げた。
「お、今日はいつもと雰囲気違うな」
「えっ、そう?」
「うん。何か、ちゃんとお出かけって感じ」
ひよりは少しだけ頬を赤くした。
「だって、今日は本屋さんに行くんだもん」
「本屋に行くのに、そんなに気合い入れるのか?」
悠一が笑いながら言うと、ひよりは少しだけ唇を尖らせた。
「もう、お兄ちゃん。別に気合い入れてるわけじゃないよ」
「はいはい。そういうことにしとく」
「本当に違うんだから!」
二人のやり取りを聞いていた浩介が、新聞を畳みながら笑った。
「まあ、楽しんでおいで。ただし、帰りが遅くなるようなら連絡するんだぞ」
「うん。ちゃんと連絡するね」
ひよりは笑顔で答え、朝食を食べ始めた。
食卓にはいつもと変わらない穏やかな空気が流れている。
けれど、ひよりの胸の中には、いつもより少し大きな期待があった。
朝食を終えたあと、ひよりは自室へ戻り、鞄の中身を確認した。
財布、ハンカチ、スマートフォン、水色のノート。
それから、もし本を買ったときに入れられるよう、折り畳み式の小さな布袋も用意していた。
ひよりは一つずつ確かめながら、忘れ物がないことを確認した。
時計を見ると、まだ午前十時前だった。
待ち合わせまでには十分な時間がある。
ひよりは机へ向かい、昨日読みかけだった本を開いた。
けれど、数ページ読んだところで、自然に真樹のことを考えてしまった。
(……北条君、もう起きてるかな)
いつもなら、こんな時間に真樹が何をしているのか考えることはあまりない。
けれど、今日は同じ約束を楽しみにしている相手がいる。
そのことが、何だか不思議だった。
ひよりは本を閉じ、スマートフォンを手に取った。
真樹へメッセージを送ろうか迷ったが、まだ午前中だったため、少し考えてから画面を閉じた。
約束の時間になれば会える。
今は、その時間を楽しみに待っていよう。
そう思い、ひよりは再び本を開いた。
一方、北条真樹も、いつもより少し早く起きていた。
朝食を済ませたあと、自室で明日の予定ではなく、今日の予定をもう一度確認していた。
午後一時、駅の改札前。
そこから歩いて、真樹がよく通う小さな書店へ向かう。
真樹は机の上に置いていた一冊の文庫本を手に取った。
昨日、ひよりへ見せたいと伝えた本だった。
表紙には、古い町並みと夕暮れの空が描かれている。
真樹が以前読んで気に入った短編集で、歴史のある町を舞台に、そこに暮らす人々の小さな出来事が描かれていた。
派手な事件が起きるわけではない。
けれど、何気ない会話の中に人の気持ちが隠れていて、読み終えたあとに静かな余韻が残る。
ひよりなら、こういう物語をどう読むのだろう。
真樹はそのことを考えながら、本を鞄へしまった。
足元では、ノアが伏せたまま真樹を見上げている。
「……何だよ、ノア」
真樹が声を掛けると、ノアは尻尾をゆっくり揺らした。
真樹は笑いながら、ノアの頭を撫でた。
「今日はお前、留守番だからな。天野と本屋に行ってくる」
ノアは真樹の手へ鼻先を寄せた。
真樹はその様子に少しだけ苦笑した。
「分かってるのか?」
ノアは答える代わりに、もう一度尻尾を揺らした。
真樹はその頭を撫でながら、ひよりのことを思い浮かべた。
初めて会ったとき、ひよりはノアに驚いていた。
それなのに、今ではノアのことを大切に思ってくれている。
そして、自分ともこうして二人で出かける約束をしてくれるようになった。
その変化が、真樹には嬉しかった。
(……焦らなくていい。今日は、天野と一緒に本を選べるだけで十分だ)
真樹はそう考え、静かに息を吐いた。
ひよりが失恋したばかりであることを、真樹は知っている。
だからこそ、今の関係を大切にしたかった。
無理に距離を縮めるのではなく、ひよりが自然に笑っていられる時間を増やしていきたい。
真樹は鞄を閉じ、時計へ目を向けた。
待ち合わせまで、まだ少し時間がある。
真樹はノアと少しだけ庭へ出ることにした。
昼前になると、ひよりは昼食を軽く済ませ、出かける準備を整えた。
鏡の前で髪を確認し、マフラーを巻く。
淡いベージュ色のニットに紺色のスカート、暖かなコートを合わせると、落ち着いた雰囲気になった。
ひよりは鏡に映る自分を見つめ、少しだけ笑った。
(……よし。これなら大丈夫かな)
鞄を肩へ掛け、一階へ下りる。
玄関では由美が待っていた。
「ひより、準備できた?」
「うん。そろそろ行ってくるね」
由美は娘の服装を見て、穏やかに微笑んだ。
「似合ってるわよ。寒くないようにね」
「ありがとう、お母さん」
ひよりは嬉しそうに答えた。
由美は玄関の扉を開ける娘へ声を掛けた。
「楽しんでおいで。帰るときは連絡してね」
「うん! 行ってきます!」
ひよりは元気よく答え、家を出た。
外には冷たい風が吹いていたが、空はよく晴れている。
ひよりはマフラーを整え、駅へ向かって歩き始めた。
途中、道端の木々が風に揺れているのを見て、ノアのことを思い出した。
昨日も真樹と散歩をしたのだろうか。
今日、留守番をしているノアは何をしているのだろう。
そんなことを考えながら歩いているうちに、駅が見えてきた。
時計を確認すると、待ち合わせの十分ほど前だった。
(……ちょっと早く着いちゃった)
ひよりは改札前の広い場所へ向かい、人の流れを避けて立ち止まった。
土曜日の駅は平日とは違う賑わいがあり、買い物へ向かう人や友達同士で待ち合わせをしている人たちが行き交っている。
ひよりは周囲を見渡し、真樹の姿を探した。
すると、改札の少し離れたところに、見覚えのある人影があった。
黒いコートを着た真樹が、スマートフォンを確認している。
ひよりは思わず笑顔になった。
「北条君!」
声を掛けると、真樹が顔を上げた。
ひよりの姿を見つけた瞬間、真樹の表情が柔らかくなる。
「天野。早いな」
「北条君こそ、もう来てたんだね」
「ああ。少し早く着いた」
真樹はそう答えながら、ひよりの姿へ目を向けた。
普段は制服姿を見ることが多いため、今日の服装は少し新鮮だった。
淡い色のニットと紺色のスカートがよく似合っている。
真樹は一瞬だけ言葉を探した。
「……その服、似合ってるな」
ひよりは目を瞬かせた。
「えっ?」
「いや、いつもと雰囲気が違うから。いいと思う」
真樹は少し照れたように視線を逸らした。
ひよりはその言葉を聞き、頬が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう。北条君も、今日の服かっこいいね」
ひよりが素直に答えると、真樹は少し驚いたように顔を上げた。
そして、小さく笑った。
「ありがと」
二人の間に、少しだけ照れくさい空気が流れた。
けれど、それは決して嫌なものではなかった。
ひよりはマフラーへ軽く触れながら、笑顔で言った。
「今日はよろしくね!」
「ああ。こっちこそ」
真樹は頷き、駅の出口へ視線を向けた。
「じゃあ、行くか。店はここから少し歩いたところにある」
「うん!」
二人は並んで歩き始めた。
駅前の通りには買い物客が行き交い、店先には冬物の服や雑貨が並んでいる。
ひよりは周囲を眺めながら、真樹へ顔を向けた。
「北条君、その本屋さんにはよく行くの?」
「そうだな。学校帰りに寄ることもあるし、休みの日に行くこともある」
「へえ。そんなにお気に入りなんだ」
「ああ。大きな店じゃないけど、落ち着いて本を選べるんだ」
真樹はそう説明しながら、少しだけ笑った。
ひよりはその表情を見て、嬉しくなった。
真樹が好きな場所へ、自分を案内してくれる。
そのことが、何だか特別に感じられた。
「楽しみだな。北条君が好きなお店、私も気に入るといいな」
ひよりが言うと、真樹は穏やかに頷いた。
「たぶん、天野も好きだと思う」
二人は会話を続けながら、駅前の賑やかな通りを抜けていった。
少し歩くと、人通りが落ち着いた道へ入った。
通り沿いには小さな店が並び、古い建物と新しい建物が自然に混ざり合っている。
その一角に、木製の看板を掲げた小さな書店があった。
大きなガラス窓の向こうには、背の高い本棚が見える。
入口の近くには新刊の案内が置かれ、店内には柔らかな照明が灯っていた。
「ここだよ」
真樹が立ち止まると、ひよりは目を輝かせた。
「わあ……!」
ひよりは店の外観を見つめた。
大きな書店とは違い、静かで落ち着いた雰囲気がある。
木製の扉や窓辺に並ぶ本が、どこか温かく感じられた。
「すごく素敵なお店だね」
ひよりが嬉しそうに言うと、真樹も少しだけ笑った。
「気に入ってもらえそうでよかった」
真樹は扉を開け、ひよりが入りやすいように少し横へ避けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ひよりは笑顔で答え、店内へ足を踏み入れた。
扉が閉まると、外の風の音が遠くなった。
店内には紙と木の混ざったような穏やかな香りが漂い、静かな音楽が小さく流れている。
本棚は通路を挟んで並び、棚ごとに丁寧な案内が付けられていた。
ひよりは思わず周囲を見渡した。
「……本当に落ち着くね」
真樹は隣で頷いた。
「だろ? ここ、棚の並べ方も好きなんだ」
「うん。何だか、一冊ずつゆっくり見たくなる」
ひよりはそう言いながら、近くの棚へ目を向けた。
そこには小説や短編集が並び、表紙の色や大きさが少しずつ違っている。
真樹はひよりの様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
連れてきてよかった。
その気持ちが、自然に胸へ広がった。
「まず、どこから見る?」
真樹が尋ねると、ひよりは少し考えた。
「北条君のおすすめから見たいな」
「俺の?」
「うん。昨日、見せたい本があるって言ってたでしょ?」
ひよりは少しだけ楽しそうに笑った。
「ずっと気になってたんだよ?」
真樹はその言葉に、少し照れたように笑った。
「……覚えてたか」
「もちろん!」
ひよりが即答すると、真樹は小さく頷いた。
「じゃあ、こっち」
真樹は店の奥にある短編集の棚へ向かった。
ひよりもそのあとを追い、隣へ並んだ。
真樹は棚の中から一冊の文庫本を取り出した。
表紙には、古い町並みと夕暮れの空が描かれている。
「これ。俺が前に読んで、結構気に入った本なんだ」
ひよりは本を受け取り、表紙を眺めた。
「……綺麗な表紙だね」
「ああ。中身も、こういう落ち着いた雰囲気の話が多い」
真樹は少し考えながら説明した。
「古い町を舞台にした短編集なんだけど、登場人物の何気ない会話とか、昔の出来事が少しずつつながっていく感じが好きなんだ」
ひよりは興味深そうに頷いた。
「へえ……。北条君、こういうお話も読むんだね」
「歴史小説が多いけど、短編集も結構好きだよ」
真樹はそう答えた。
ひよりは本を開き、最初の数ページへ目を通した。
文章は静かで、古い町の情景が丁寧に描かれている。
ひよりはその雰囲気に引き込まれ、少しだけページをめくった。
「……何だか、好きかもしれない」
ひよりが小さく呟くと、真樹は嬉しそうに笑った。
「本当?」
「うん。まだ少ししか読んでないけど、景色が浮かんでくる感じがする」
真樹はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が好きな本を、ひよりも気に入ってくれるかもしれない。
それだけで、今日ここへ来た意味があるように思えた。
「よかった。無理にすすめるつもりはないけど、天野なら好きかなって思ったんだ」
真樹が言うと、ひよりは笑顔で首を横に振った。
「無理なんかじゃないよ。北条君が好きな本、私も読んでみたい」
その言葉に、真樹は一瞬だけ黙った。
ひよりは自然に言ったのだろう。
けれど、真樹にはその言葉がとても嬉しかった。
(……俺の好きなものを、天野も知りたいって思ってくれてるんだな)
真樹は小さく息を吐き、穏やかに笑った。
「……ありがと」
ひよりは少し不思議そうに首を傾げた。
「どうしてお礼?」
「いや、何でもない」
真樹は少し照れたように笑った。
ひよりもつられて笑った。
二人はそのあと、短編集の棚をゆっくり見て回った。
真樹は以前読んだ本をいくつか紹介し、ひよりは気になった表紙やあらすじについて尋ねた。
同じ棚を眺めていても、目に留まる本は少しずつ違う。
真樹は歴史や町の背景が丁寧に描かれた作品へ興味を示し、ひよりは登場人物の気持ちや人間関係を描いた物語へ惹かれていた。
けれど、その違いが会話を楽しくしていた。
「北条君って、歴史が好きなんだよね」
ひよりが尋ねると、真樹は頷いた。
「ああ。昔の人が何を考えて、どうやって生きてたのか知るのが面白いんだ」
「へえ……。私、歴史は授業で習うことが多いけど、そういうふうに考えたことなかったかも」
ひよりは感心したように言った。
真樹は少しだけ笑った。
「俺も最初は年号とか出来事を覚えるだけだったけど、小説を読むようになってから見方が変わったんだ」
「そうなんだ」
「同じ出来事でも、立場が違えば感じ方も違うだろ。そういうところが面白い」
ひよりはその言葉を聞き、昨日まで海斗たちと話していたことを思い出した。
同じ物語でも、読む人によって受け取り方が違う。
それは歴史でも同じなのかもしれない。
「……何だか、分かる気がする」
ひよりは穏やかに笑った。
「私も、登場人物の気持ちを考えるのが好きなんだ。だから、北条君の話を聞いてると、歴史小説も読んでみたくなる」
真樹はその言葉に、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、今度は読みやすい歴史小説も紹介するよ」
「本当? 嬉しい!」
ひよりは笑顔で頷いた。
二人はそのまま棚を移動し、今度はひよりが気になる本を探し始めた。
ひよりは一冊の文庫本を手に取った。
表紙には、雨上がりの道と小さな傘が描かれている。
「……あ、これ」
ひよりが呟くと、真樹が顔を向けた。
「知ってる本?」
「うん。前に読んだことがあるんだ。『雨上がりの手紙』っていうお話」
真樹は表紙を見つめた。
「へえ。どんな話?」
ひよりは嬉しそうに説明し始めた。
「離れて暮らす家族が、手紙を通じて少しずつ気持ちを伝えていくお話なの。最初は何でもない言葉に見えるところが、あとから読むと違う意味に感じられてね」
真樹は興味深そうに頷いた。
「面白そうだな」
「うん。私、すごく好きなんだ」
ひよりは本を大切そうに持ちながら、少しだけ笑った。
「昨日、学校の友達にもおすすめしたんだよ」
真樹はその言葉に、自然に頷いた。
「そうなんだ。天野が好きな本なら、俺も読んでみたいな」
ひよりは目を輝かせた。
「本当?」
「ああ。今の話だけでも気になる」
真樹はそう答えた。
ひよりは嬉しそうに本を見つめた。
自分が好きな物語に、真樹も興味を持ってくれた。
そのことが、何だか特別に感じられた。
「じゃあ、北条君も読んでみて。きっと面白いと思う!」
ひよりが言うと、真樹は笑顔で頷いた。
「分かった。探してみる」
真樹は本棚へ視線を向けた。
ひよりはその横顔を見ながら、少しだけ考えた。
真樹は、自分の話をいつも丁寧に聞いてくれる。
そして、今日も自分が好きな本に興味を持ってくれた。
そのことが嬉しかった。
二人はそのあとも店内をゆっくり歩き、気になる本を手に取っては感想を話した。
ひよりは普段あまり読まないジャンルの棚にも足を止め、真樹はひよりが好きそうな作品を一緒に探した。
同じ本を手に取ったとき、二人の指先が少しだけ近づくこともあった。
そのたびに、真樹はわずかに意識してしまう。
けれど、ひよりは本の表紙へ夢中になっていて、特に気にしていないようだった。
真樹はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
(……本当に、本が好きなんだな)
ひよりが楽しそうにしているだけで、自分まで嬉しくなる。
真樹はその気持ちを胸の奥へしまい、ひよりの話へ耳を傾けた。
しばらくして、ひよりは最初に紹介してもらった短編集を手に取った。
「北条君、私、これ買おうかな」
真樹は少し驚いたように顔を上げた。
「気に入った?」
「うん。まだ少ししか読んでないけど、続きが気になるし、北条君が好きな本ならちゃんと読んでみたいなって」
ひよりは笑顔で答えた。
真樹はその言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
「……そっか。ありがと」
「だから、どうしてお礼なの?」
ひよりが笑うと、真樹もつられて笑った。
「いや、嬉しいんだよ」
真樹が素直に答えると、ひよりは少しだけ目を瞬かせた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……私も嬉しいよ。北条君の好きな本、教えてもらえて」
二人は顔を見合わせ、自然に笑った。
そのあと、真樹も『雨上がりの手紙』を購入することにした。
ひよりが好きな本を、自分も読んでみたかったからだ。
レジへ向かう途中、ひよりは真樹の手元を見て、少し驚いた。
「北条君、本当に買うの?」
「ああ。天野がそんなに好きなら、読んでみたい」
真樹は穏やかに答えた。
ひよりはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、読み終わったら感想聞かせてね!」
「もちろん」
真樹は頷いた。
二人はそれぞれ本を購入し、店を出た。
外へ出ると、冷たい風が頬へ触れた。
ひよりはマフラーを整えながら、手に持った紙袋を見つめた。
中には、真樹が紹介してくれた短編集が入っている。
真樹の紙袋には、ひよりが好きな『雨上がりの手紙』が入っていた。
ひよりはそのことが何だか嬉しくて、自然に笑顔になった。
「北条君、今日はありがとう。すごく楽しかった!」
ひよりが言うと、真樹も穏やかに微笑んだ。
「俺も楽しかった。天野が気に入ってくれてよかったよ」
「うん。あのお店、また行きたいな」
ひよりが言うと、真樹は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、また今度一緒に行こう」
その言葉に、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん! 約束ね」
二人は笑い合った。
駅へ戻る道を歩きながら、ひよりは今日のことを思い返した。
真樹が好きな本。
真樹がよく通う書店。
真樹が歴史小説を好きになった理由。
今まで知らなかったことを、今日はたくさん知ることができた。
そして、真樹も自分の好きな本を知ろうとしてくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
駅へ着くと、二人は改札の近くで立ち止まった。
「今日はありがとう、北条君」
ひよりはもう一度礼を言った。
真樹は少しだけ笑った。
「こちらこそ。気をつけて帰れよ」
「うん。北条君もね」
ひよりは笑顔で手を振った。
真樹も小さく手を振り返した。
二人はそれぞれの帰り道へ向かった。
ひよりは歩きながら、紙袋の中の本を思い浮かべた。
早く帰って読みたい。
そして、読み終わったら真樹と感想を話したい。
そんなことを考えていると、自然に足取りが軽くなった。
一方、真樹も帰り道で紙袋を見つめていた。
中には、ひよりが好きな本が入っている。
同じ物語を読めば、ひよりがどんなところに心を動かされたのか、少し分かるかもしれない。
そう考えると、読むのが楽しみだった。
帰宅すると、ノアが嬉しそうに迎えてくれた。
真樹は笑いながらしゃがみ込み、ノアの頭を撫でた。
「ただいま、ノア」
ノアは尻尾を大きく揺らし、真樹へ体を寄せた。
真樹はその様子に笑った。
「今日は楽しかったよ」
ノアは真樹を見上げ、静かに尻尾を振った。
真樹は紙袋を持ち直し、穏やかに微笑んだ。
「……天野と、また一緒に本屋に行きたいな」
ノアは答える代わりに、真樹の手へ鼻先を寄せた。
真樹はその頭を撫でながら、今日のひよりの笑顔を思い浮かべた。
同じ本を手に取ったときの嬉しそうな表情。
自分の好きな本を紹介したときの真剣な眼差し。
そして、また一緒に行きたいと言ってくれたこと。
その一つ一つが、真樹の胸に残っていた。
夜、ひよりは自室の机で、今日購入した短編集を開いていた。
ページをめくるたび、真樹が話してくれたことを思い出す。
古い町並み。
そこに暮らす人々。
何気ない会話の中に隠された気持ち。
ひよりは静かに読み進めながら、少しだけ微笑んだ。
(……北条君、こういうお話が好きなんだね)
自分が知らなかった真樹の一面を、今日は少しだけ知ることができた。
そして、真樹も自分の好きな本を読んでくれる。
そのことが嬉しかった。
ひよりは本を閉じ、スマートフォンを手に取った。
『北条君、今日は本当にありがとう!』
『買った本、さっそく読み始めたよ。すごく面白い!』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『俺も読み始めた。天野が好きな理由、少し分かる気がする』
ひよりはその文章を読み、自然に笑顔になった。
『本当? 嬉しい!』
『読み終わったら、またいっぱい話そうね』
真樹からの返事は、すぐに届いた。
『ああ。楽しみにしてる』
ひよりはスマートフォンを胸元へ寄せ、静かに微笑んだ。
同じ一冊を読む。
そして、感じたことを話す。
それだけのことなのに、今までより少し特別に感じられた。
ひよりは再び本を開き、ページをめくった。
そのころ、真樹も自室で『雨上がりの手紙』を読んでいた。
ひよりが好きだと言っていた物語。
そこには、言葉にできない気持ちを抱えながら、それでも誰かへ想いを伝えようとする人々が描かれていた。
真樹はページをめくりながら、少しだけ考えた。
ひよりは、この物語のどんなところが好きなのだろう。
どの場面で心を動かされたのだろう。
そして、自分が読んだあと、どんな感想を話せば喜んでくれるだろう。
真樹はそのことを考えながら、静かに微笑んだ。
今日、ひよりと過ごした時間は、とても楽しかった。
けれど、それ以上に嬉しかったのは、ひよりが自分の好きなものを知ろうとしてくれたことだった。
真樹は本へ視線を戻し、ゆっくりページをめくった。
同じ物語を読むことで、ひよりのことを少しでも知ることができたらいい。
そんな願いを胸に抱きながら、土曜日の夜は静かに更けていった。




