第52話 明日の約束が、いつもより特別に思える理由
金曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計の音に手を伸ばしながら、いつもより少しだけ早く目を覚ましたことに気づいた。
カーテンの向こうから差し込む光はまだ淡く、部屋の空気には冬らしい冷たさが残っている。布団から出るのをためらうほど寒い朝だったが、ひよりは枕元のスマートフォンを確認すると、自然に頬を緩めた。
画面には、昨夜の真樹とのやり取りが残っていた。
『俺も、天野の好きなものをもっと知りたい』
何度も読み返すような長い文章ではない。それでも、ひよりはその言葉を思い出すたび、何となく嬉しくなってしまう。
明日は、真樹と二人で書店へ行く日だった。
約束をしたときから楽しみにしていたけれど、前日になってみると、どんな本を見ようかという期待だけではなく、真樹とどんな話ができるだろうという気持ちも大きくなっている。
(北条君が好きな本、ちゃんと聞いてみたいな。それに、私の好きな本も紹介できたら嬉しい)
ひよりは布団から起き上がり、足元のスリッパを履いた。
机の上には、昨夜読み返していた『雨上がりの手紙』が置かれている。橘海斗へ紹介した本だったが、読み直すうちに以前とは違うところが気になり、結局、予定より長く読んでしまった。
物語の中で、主人公は大切な相手へ手紙を書く。
伝えたいことはたくさんあるのに、相手の負担になりたくなくて、何度も文章を書き直す。
ひよりはその場面を読んだとき、真樹のことを少しだけ思い出した。
真樹は、相手が困っているときでも無理に理由を聞こうとしない。
必要なときには声を掛けてくれるけれど、話したくないことまで聞き出そうとはしない。
その優しさに、ひよりは何度も助けられてきた。
(……でも、北条君だって、話したいことがあるかもしれないよね)
今までは自分が話を聞いてもらうことのほうが多かった気がする。
明日は真樹の好きな本だけでなく、普段どんなことを考えているのかも、少し聞いてみたい。
ひよりはそう思いながら、制服へ着替え始めた。
朝食の時間になると、一階の食卓には焼いた食パンとスクランブルエッグ、温かなスープが並んでいた。
母の由美が台所で洗い物をしており、父の浩介は新聞を広げながらコーヒーを飲んでいる。兄の悠一はすでに食事を終えかけていて、ひよりが椅子へ座ると、顔を上げて挨拶した。
「おはよう、ひより。今日は早いな」
「おはよう、お兄ちゃん。いつもとそんなに変わらないよ?」
「いや、昨日より五分くらい早い」
「そんな細かいところまで見てるの?」
ひよりが笑うと、悠一は得意げに肩をすくめた。
「兄だからな」
「それ、理由になってないと思う」
二人のやり取りを聞いていた由美が、小さく笑った。
「朝から元気ね。ひより、スープが冷めないうちに食べなさい」
「はーい」
ひよりは両手を合わせ、朝食を食べ始めた。
温かなスープを飲むと、冷えていた指先まで少しずつ温まっていくようだった。窓の外には青空が広がっているが、庭の木々は風に揺れている。
由美は窓へ目を向けながら言った。
「今日は晴れるみたいだけど、風が冷たいらしいわよ。明日も朝は寒そうだから、出かけるなら暖かくしていきなさいね」
ひよりはパンを口へ運びかけたところで顔を上げた。
「うん。マフラーしていくつもり」
「そういえば、明日は本屋さんだったわね」
「うん! 北条君がよく行くお店に案内してくれるんだ」
ひよりが嬉しそうに答えると、由美は穏やかに微笑んだ。
「楽しそうね。駅の近くなんでしょう?」
「そうだよ。午後一時に駅の改札前で待ち合わせして、それから歩いて行く予定なの」
その言葉を聞き、悠一が顔を上げた。
「北条君って、前に話してた黒い犬の飼い主の子だよな?」
「うん。ノアの飼い主さんだよ」
「今回は犬も一緒なのか?」
「ううん。明日は本屋さんだから、ノアはお留守番なの」
ひよりが少し残念そうに答えると、悠一は笑った。
「まあ、本屋に大きな犬を連れていくわけにはいかないもんな」
「そうなんだよね。でも、また今度一緒にお散歩できたらいいなって思ってる」
ひよりはそう言いながら、ノアの姿を思い浮かべた。
大きな黒い体で嬉しそうに駆け寄ってくる様子や、撫でているときに気持ちよさそうに目を細める姿は、思い出すだけで笑顔になってしまう。
浩介は新聞を畳み、娘へ視線を向けた。
「帰りが遅くなるようなら連絡するんだぞ。駅の周りも、夕方になると冷えるからな」
「うん、分かってる。遅くならないようにするね」
ひよりが答えると、浩介は安心したように頷いた。
由美は娘の表情を見ながら、少しだけ目を細めた。
ひよりは以前から本が好きだったが、最近は誰かと本の話をすることも楽しんでいるらしい。学校の友達だけでなく、別の学校にも親しい相手ができたことは、母親として嬉しかった。
ただ、明日の約束について話すひよりは、いつも以上に楽しそうだった。
由美はその理由を深く尋ねず、食卓へ視線を戻した。
「そうそう、ひより。明日着ていく服、今夜のうちに決めておくといいわよ。朝になって慌てなくて済むから」
「うん。そうする!」
ひよりは元気よく答えた。
その横で、悠一が少しだけ笑った。
「そんなに楽しみなのか?」
「もちろん! だって、知らない本屋さんに行けるんだよ?」
ひよりが当然のように答えると、悠一は苦笑した。
「なるほど。本好きには大事なイベントなんだな」
「そういうこと!」
ひよりは笑顔で頷き、残っていたパンを食べ終えた。
朝食のあと、鞄の中身を確認して家を出る。
玄関を開けると、冷たい風が頬へ触れた。
ひよりはマフラーを巻き直し、いつもの通学路を歩き始めた。
明日は土曜日。
そのことを考えるだけで、金曜日の学校生活まで少し楽しみに感じられた。
県立青葉高校の教室へ入ると、藤崎千夏が窓際の席で友達と話していた。
ひよりの姿に気づくと、千夏はすぐに手を振った。
「ひより、おはよう!」
「千夏、おはよう。今日は寒いね」
「本当だよ。駅から学校まで歩いてる間に、耳が冷たくなっちゃった」
千夏はそう言いながら、両手で耳を軽く覆ってみせた。
ひよりは笑いながら、自分のマフラーへ触れた。
「私も、今日はマフラーしてきてよかったって思った」
「明日も寒そうだよね。ひより、本屋さんに行くんでしょ?」
千夏が尋ねると、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん。午後一時に待ち合わせしてるんだ」
「そっか。いよいよ明日なんだね」
千夏は笑顔で答えながら、ひよりの表情を見つめた。
以前、ひよりが佐伯颯太へ告白する前日にも、こうして学校で話したことがあった。
あのときのひよりは、緊張と不安で落ち着かない様子だった。
もちろん、明日の約束は告白とは違う。
けれど、ひよりが誰かと会うことを楽しみにしている姿を見ていると、千夏は少しだけ安心した。
「ねえ、ひより。明日、何か買う予定あるの?」
「まだ決めてないんだ。北条君のおすすめも聞きたいし、自分でも気になる本を探してみたいなって」
「いいね。そういうの楽しそう」
千夏は頷き、少しだけ声を弾ませた。
「それにしても、ひよりって最近、本の話をする相手が増えたよね。北条君もそうだし、橘君ともよく話してるし」
「うん。千夏ともいっぱい話せるしね」
ひよりが嬉しそうに答えると、千夏は思わず笑った。
「もちろん私も入れてくれるんだ?」
「当たり前だよ。千夏と話すのも楽しいもん」
その言葉に、千夏は少し照れたように笑った。
ひよりは本当に、相手を喜ばせる言葉を自然に口にする。
本人に特別な意識はないのだろうけれど、だからこそ、その言葉を受け取った人は嬉しくなるのかもしれない。
千夏はそんなことを考えながら、教科書を机へ出した。
「そういえば、昨日おすすめしてた本、橘君はどうするって言ってたっけ?」
「まずは自分で探してみるって。もし見つからなかったら、私のを貸してもいいかなって思ってる」
「そっか。あの本、ひよりのお気に入りなんだよね」
「うん。何度読んでも新しい発見があるんだ」
ひよりはそう言いながら、鞄から水色のノートを取り出した。
昨日、図書室で書いた感想が残っている。
千夏はそのノートを見て、少しだけ笑った。
「ひより、本当に楽しそうだね」
「そうかな?」
「うん。好きなことを誰かと話せるって、いいことだよね」
ひよりはその言葉に、穏やかに頷いた。
「……うん。私もそう思う」
予鈴が鳴り、生徒たちが席へ戻り始めた。
ひよりはノートをしまい、今日の授業の準備を始めた。
一方、私立桜陵学園では、北条真樹が教室の窓際で神崎蓮と話していた。
窓の外には澄んだ青空が広がり、校庭では体育の授業に向かう生徒たちが歩いている。
真樹は机の上に教科書を並べながら、鞄の中へ入れていた文庫本を取り出した。
昨日から読み進めている歴史小説だった。
蓮はその表紙を見て、少しだけ笑った。
「北条、また本読んでるの?」
「またって何だよ。休み時間に読むくらいいいだろ」
「いや、別に悪いとは言ってないよ。ただ、明日も本屋に行くのに、今日も読んでるんだなって」
真樹は苦笑しながら、本へしおりを挟んだ。
「本屋に行くからって、読むのをやめる理由にはならないだろ」
「それはそうだけどさ」
蓮は笑いながら椅子へ腰を下ろした。
そして、少しだけ声を落とした。
「明日、楽しみなんだろ?」
真樹は一瞬だけ視線を上げた。
蓮はからかうような笑みを浮かべている。
けれど、真樹はもう、その質問を無理に否定するつもりはなかった。
「……楽しみだよ」
真樹が素直に答えると、蓮は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お、今日はあっさり認めた」
「別に隠すことでもないだろ」
「まあ、そうだけど」
蓮は笑顔で頷いた。
真樹がひよりを好きだと知っているのは、自分だけではないかもしれない。
けれど、少なくとも真樹本人から気持ちを聞いた友人として、蓮はその恋を応援したいと思っていた。
ただ、ひよりが失恋したばかりであることも知っている。
だからこそ、無責任に背中を押すつもりはなかった。
「明日はどんな本を見せる予定?」
蓮が尋ねると、真樹は少し考えた。
「歴史小説と短編集かな。天野が好きそうなものも何冊かあるけど、本人に聞いてから決めようと思ってる」
「へえ。ちゃんと考えてるんだね」
「そりゃ、せっかく来てもらうんだからな」
真樹は自然に答えた。
蓮はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
真樹は普段から落ち着いているが、ひよりのことになると、いつも以上に相手の気持ちを考える。
それは、真樹の優しさなのだろう。
けれど、蓮は昨日話したことを思い出していた。
ひよりは真樹の好きな本も知りたいと言っているらしい。
ならば、真樹が一方的に案内役へ徹する必要はない。
「北条、明日は自分も楽しんできなよ」
蓮が言うと、真樹は少し不思議そうに顔を上げた。
「何だよ、急に」
「いや、天野さんを楽しませることばっかり考えてる気がしたから。北条も好きな本の話をして、一緒に楽しめばいいと思うよ」
真樹はその言葉に少しだけ黙った。
確かに、自分はひよりが楽しめるかどうかを考えることが多かった。
けれど、ひよりは自分の好きなものを知りたいと言ってくれている。
それなら、遠慮せずに話してもいいのかもしれない。
「……そうだな。ありがと」
真樹が答えると、蓮は満足そうに笑った。
「どういたしまして。で、明日は何時に待ち合わせ?」
「午後一時。駅の改札前だ」
「なるほど。じゃあ、遅刻するなよ」
「しないって」
二人は笑い合った。
そのとき、教室の扉が開き、一ノ瀬玲奈が入ってきた。
玲奈は真樹の姿を見つけると、自然に笑顔を浮かべた。
「真樹、おはよう」
「一ノ瀬。おはよう」
真樹が答えると、玲奈は蓮にも挨拶した。
蓮は軽く手を振り、二人の会話を見守った。
「真樹、昨日の予定のことなんだけど」
玲奈が少しだけ声を落とすと、真樹はすぐに頷いた。
「ああ。喫茶店のことか」
「うん。まだ急がなくていいんだけど、予定が分かったら教えてほしくて」
玲奈は穏やかに笑った。
真樹は少し考え、鞄からスマートフォンを取り出した。
「昨日、帰ってから確認した。再来週の土曜日なら、今のところ空いてる」
玲奈は一瞬、目を瞬かせた。
真樹が約束を覚えていてくれたことは分かっていた。
けれど、具体的な日を考えてくれていたことが、思っていた以上に嬉しかった。
「……本当?」
「ああ。ただ、まだ少し先だから、予定が変わらないか確認しておきたい。正式に決めるのは、もう少し待ってもらっていいか?」
真樹は申し訳なさそうに言った。
玲奈はすぐに首を横に振った。
「ううん、全然大丈夫。考えてくれてありがとう」
玲奈は笑顔で答えた。
その声には、自然な喜びが含まれていた。
真樹は安心したように頷いた。
「じゃあ、また連絡する」
「うん。楽しみにしてるね」
玲奈はそう言って微笑んだ。
真樹も穏やかに頷いた。
蓮はそのやり取りを見ながら、何も言わなかった。
玲奈の笑顔は、普段より少しだけ柔らかく見えた。
けれど、それがどんな気持ちから生まれたものなのか、蓮にはまだ分からない。
玲奈は二人へ軽く手を振り、自分の席へ向かった。
歩きながら、胸の奥に広がった喜びを静かに感じていた。
(……真樹、ちゃんと考えてくれてたんだ)
それだけで、今日は少し特別な一日になった気がした。
けれど、すぐに明日のことも思い出した。
真樹は明日、ひよりと書店へ行く。
玲奈はその約束を知っている。
火曜日の喫茶店で、ひよりが楽しみにしていることも聞いていた。
だからこそ、少しだけ複雑な気持ちになった。
(……ひよりちゃんも楽しみにしてるんだよね)
玲奈は机へ鞄を置き、椅子へ腰を下ろした。
ひよりとの友情は大切にしたい。
真樹への想いも、簡単に諦めたくない。
その二つの気持ちが、今日も玲奈の中で静かに重なっていた。
午前の授業を終えた青葉高校では、昼休みの教室に賑やかな声が広がっていた。
ひよりは千夏と一緒に弁当を広げ、窓際の机で昼食を取っていた。
外では風が強くなっているらしく、校庭の木々が大きく揺れている。
「ひより、明日は何着ていくの?」
千夏が何気なく尋ねると、ひよりは箸を止めた。
「えっ、服?」
「うん。せっかくのお出かけだし、何か考えてるのかなって」
ひよりは少しだけ考えた。
今朝、母にも服を決めておくように言われた。
けれど、まだ具体的には選んでいない。
「まだ決めてないんだ。寒そうだから、暖かい服がいいなって思ってるけど」
「それは大事だね。明日も風が冷たいみたいだし」
千夏は頷きながら、ひよりの表情を見つめた。
「でも、ひよりって淡い色の服似合うよね。この前着てたクリーム色のカーディガンとか、可愛かったよ」
「本当? ありがとう」
ひよりは少し照れたように笑った。
千夏はその様子を見て、少しだけ考えた。
明日は真樹と二人で出かける。
ひよりは友達として楽しみにしているのだろうけれど、真樹の気持ちをある程度察している千夏には、少しだけ特別な約束にも思えた。
ただ、ひよりへ余計な意識をさせるつもりはなかった。
「まあ、ひよりが着たい服が一番だよ。寒くないのが大事だし」
千夏が笑うと、ひよりも頷いた。
「うん。帰ったら考えてみるね」
そのとき、海斗が弁当を持って近づいてきた。
「天野さん、藤崎さん。ここ、座ってもいい?」
「もちろん。橘君、おはよう……じゃなくて、こんにちはかな」
ひよりが笑うと、海斗も笑った。
「もう昼休みだから、こんにちはでいいんじゃない?」
「そうだね」
三人は笑い合い、海斗は近くの椅子へ腰を下ろした。
弁当を食べながら、海斗は昨日ひよりから紹介された本のことを思い出した。
「そういえば天野さん、『雨上がりの手紙』、学校の図書室にあったよ」
ひよりは目を輝かせた。
「本当? 私も昨日見つけたんだ」
「うん。今日の朝、少し早く来たから図書室に寄ってみたんだ。まだ借りられたから、借りてきた」
海斗は鞄から一冊の文庫本を取り出した。
ひよりが昨日、図書室で手に取ったものと同じ本だった。
「わあ、もう借りたんだ!」
「うん。昨日話を聞いて、気になっちゃって」
海斗は少し照れたように笑った。
ひよりは嬉しそうに表紙を眺めた。
「どうだった? まだ読み始めたばかりかな?」
「うん。最初のところだけ。でも、雰囲気が好きだなって思った」
海斗は本を開き、しおりを挟んだページを見せた。
「主人公が手紙を書こうとして、最初の一文を何度も書き直すところ。あそこ、何だか分かる気がしたんだ」
ひよりは静かに頷いた。
「うん。私もあの場面好き。伝えたいことがあるのに、どう書けばいいか分からなくなるんだよね」
海斗はその言葉に頷いた。
「そうそう。相手にどう受け取られるか考え始めると、簡単な言葉でも難しくなるんだろうなって」
千夏は二人の会話を聞きながら、少しだけ笑った。
「二人とも、もう本の話が始まってるね」
ひよりははっとして千夏へ顔を向けた。
「あ、ごめん、千夏。つい夢中になっちゃった」
「いいよ、いいよ。私も聞いてて面白いし」
千夏は笑顔で答えた。
海斗も少し照れたように笑った。
「ごめん。まだ最初しか読んでないのに、つい話したくなっちゃって」
「それだけ気に入ったなら、ひよりも嬉しいんじゃない?」
千夏が言うと、ひよりは大きく頷いた。
「うん! すごく嬉しいよ」
海斗はその笑顔を見て、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
ひよりは、自分が紹介した本を相手が楽しんでくれることを、本当に喜んでいる。
その素直な反応が、海斗には嬉しかった。
しばらく本の話をしたあと、海斗はふと思い出したように尋ねた。
「天野さん、明日は本屋に行くんだよね?」
「うん。北条君と行く予定だよ」
ひよりは自然に答えた。
海斗はその名前を聞き、少しだけ考えた。
北条君。
別の学校の友達で、本が好きな男の子。
ひよりが楽しそうに話す相手。
海斗はそのことを知っているが、まだ本人に会ったことはない。
「いいね。何か面白い本が見つかったら、また教えてほしいな」
海斗は穏やかに笑った。
ひよりも嬉しそうに頷いた。
「もちろん! 橘君が好きそうな本があったら、覚えておくね」
その言葉に、海斗は少しだけ表情を緩めた。
ひよりは明日の約束を楽しみにしている。
けれど、その中でも自分のことを思い出してくれるかもしれない。
そんな小さなことが、嬉しかった。
千夏は海斗の表情を見ながら、少しだけ目を細めた。
(……橘君、やっぱりひよりのことが気になってるんだろうな)
ただ、ひよりはまだ気づいていない。
そして、海斗自身も、今の気持ちをどう受け止めればいいのか分かっていないように見えた。
千夏は何も言わず、二人の会話を見守った。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴り、三人はそれぞれの席へ戻る準備を始めた。
ひよりはノートを鞄へしまいながら、明日の書店でどんな本に出会えるだろうと考えていた。
放課後、桜陵学園では玲奈が沙耶と一緒に昇降口へ向かっていた。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外では夕方の光が校庭を照らしている。
玲奈は鞄を肩へ掛けながら、今日の朝に真樹と話したことを思い返していた。
再来週の土曜日なら、今のところ予定が空いている。
まだ正式な約束ではないけれど、その言葉だけでも嬉しかった。
「玲奈、今日ちょっと機嫌いいね」
沙耶が笑いながら言うと、玲奈は少し驚いたように顔を上げた。
「えっ、そう?」
「うん。何かいいことあった?」
玲奈は少しだけ迷った。
真樹と喫茶店へ行く予定が、少しだけ具体的になった。
そのことを沙耶へ話してもいい。
けれど、真樹への気持ちまでは、まだ言葉にする勇気がなかった。
「……ちょっと楽しみな予定ができそうなんだ」
玲奈はそう答えた。
沙耶は嬉しそうに笑った。
「へえ、いいじゃん。どこか出かけるの?」
「うん。まだちゃんと決まってないんだけど、喫茶店に行こうって話してて」
「この前のお友達とは別?」
玲奈は一瞬だけ言葉を止めた。
沙耶は、火曜日に会った友達がひよりだということをまだ知らない。
そして、真樹との喫茶店の約束についても、詳しく話していなかった。
「……うん。別の人だよ」
玲奈は穏やかに答えた。
沙耶はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「そっか。楽しみだね」
「うん」
玲奈は笑顔で頷いた。
沙耶はそれ以上尋ねなかった。
玲奈が話したくなったら、きっと自分から話してくれる。
そう思ったからだ。
二人は昇降口で靴を履き替え、校門へ向かって歩き始めた。
冬の夕方の空気は冷たかったが、玲奈の足取りは少し軽かった。
そのころ、ひよりは青葉高校の昇降口で千夏と別れようとしていた。
校門の向こうには夕方の光が差し込み、帰宅する生徒たちが次々と歩いていく。
「ひより、明日楽しんできてね」
千夏が笑顔で言うと、ひよりも嬉しそうに頷いた。
「うん! ありがとう、千夏」
「寒いみたいだから、ちゃんと暖かくしていくんだよ」
「分かってるよ。千夏も風邪ひかないでね」
二人は笑い合った。
千夏はひよりの表情を見ながら、少しだけ考えた。
ひよりは明日の約束を心から楽しみにしている。
それが恋愛感情なのかどうか、今のひより自身にも分からないのだろう。
けれど、誰かと会うことを楽しみにできるようになったことは、確かな変化だった。
千夏はその変化を大切にしてほしいと思った。
「じゃあ、また月曜日ね」
「うん。またね!」
ひよりは手を振り、帰り道を歩き始めた。
鞄の中には水色のノートが入っている。
明日の書店で気になった本があれば、そこへ書き留めようと思っていた。
そして、真樹がどんな本を紹介してくれるのかも、楽しみだった。
帰宅すると、ひよりは自室へ向かい、鞄を机へ置いた。
宿題を終わらせてから、明日の服を選ぶつもりだったが、クローゼットの前を通ると、つい足が止まってしまった。
(……何を着ていこうかな)
ひよりは扉を開け、並んだ服を見つめた。
普段の休日なら、あまり深く考えずに服を選ぶ。
けれど、明日は真樹と二人で出かける。
せっかくなら、少し可愛い服を着ていきたい気もした。
ただ、寒さを我慢するのは嫌だった。
ひよりはしばらく考え、淡いベージュ色のニットと紺色のスカートを取り出した。
その上に、暖かなコートを羽織ればよさそうだった。
鏡の前で合わせてみると、落ち着いた雰囲気になった。
「……これならいいかな」
ひよりは小さく呟いた。
そのとき、部屋の扉が軽くノックされた。
「ひより、入ってもいい?」
姉の美月の声だった。
「うん、いいよ!」
ひよりが答えると、美月が顔を覗かせた。
大学から帰宅したばかりらしく、肩には鞄を掛けている。
「お母さんから聞いたよ。明日、本屋さんに行くんだって?」
「うん。北条君と行くんだ」
ひよりが答えると、美月は少しだけ目を細めた。
「へえ。楽しそうじゃない」
「うん。北条君がよく行くお店なんだって。私も行ってみたかったから、すごく楽しみなの」
美月は妹の表情を見ながら、穏やかに微笑んだ。
ひよりが颯太に告白し、断られたことを、美月は知っている。
あの日、ひよりは泣きながら話してくれた。
それから少しずつ元気を取り戻していることも、そばで見てきた。
だからこそ、今のひよりが誰かとの約束を楽しみにしている姿を見ると、嬉しくなる。
「その服、明日着ていくの?」
美月が尋ねると、ひよりは少し照れたように頷いた。
「うん。どうかな?」
美月はひよりの持っている服を見比べ、少し考えた。
「いいと思うよ。ひよりらしいし、落ち着いてて可愛い。ただ、明日は寒いみたいだから、タイツも履いたほうがいいかも」
「あ、そっか。そうだね」
ひよりは頷き、引き出しからタイツを取り出した。
美月はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「ひより、何だか楽しそうだね」
「うん。だって、北条君と本の話ができるんだもん」
ひよりは自然に答えた。
美月はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
妹はまだ、真樹を大切な友達として見ているのだろう。
けれど、真樹と過ごす時間を楽しみにしていることは、よく伝わってくる。
美月は無理に恋愛の話へ結びつけるつもりはなかった。
ひよりが自分の気持ちに気づくなら、それは本人の時間の中で自然に起きることだと思ったからだ。
「そっか。じゃあ、いっぱい楽しんでおいで」
美月が笑顔で言うと、ひよりも嬉しそうに頷いた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
美月は少しだけ表情を和らげた。
「それと、何か困ったことがあったら連絡してね。帰りが遅くなるようなら、お母さんにもちゃんと伝えるんだよ」
「うん。分かってる」
ひよりは笑顔で答えた。
美月は安心したように頷き、部屋を出ていった。
ひよりは選んだ服を丁寧に畳み、椅子の上へ置いた。
そして、机へ向かい、宿題を始めた。
そのころ、真樹は自宅でノアと過ごしていた。
夕方の散歩を終えたノアは、リビングの床に伏せている。
真樹はソファへ腰を下ろし、明日の予定を確認していた。
午後一時、駅の改札前。
ひよりとは、そこで待ち合わせることになっている。
書店までは歩いて向かう予定だった。
真樹はスマートフォンの画面を見つめながら、少しだけ考えた。
ひよりは明日、どんな服を着てくるのだろう。
どんな本を手に取るのだろう。
そして、自分の好きな本を紹介したとき、どんな感想を言ってくれるのだろう。
そんなことを考えていると、自然に頬が緩んだ。
足元では、ノアが顔を上げて真樹を見つめている。
「……何だよ」
真樹が声を掛けると、ノアは尻尾を揺らした。
真樹は笑いながら、ノアの頭を撫でた。
「明日はお前、留守番だからな」
ノアは何も答えず、真樹の手へ鼻先を寄せた。
真樹はその様子を見ながら、少しだけ苦笑した。
「天野と本屋に行くんだよ。お前も会いたいだろうけど、今回は我慢してくれ」
ノアは真樹を見上げ、ゆっくり瞬きをした。
真樹はその表情に笑った。
「……分かってるのか、分かってないのか」
そう言いながらも、声には優しさが滲んでいた。
真樹はノアの頭をもう一度撫で、スマートフォンを手に取った。
ひよりへ、明日の待ち合わせを確認するメッセージを送る。
『天野、明日は午後一時に駅の改札前で大丈夫か?』
しばらくして、返事が届いた。
『うん! 大丈夫だよ』
『北条君、明日はよろしくね。すごく楽しみにしてる!』
真樹はその文章を読み、少しだけ目を細めた。
ひよりも楽しみにしてくれている。
そのことが、素直に嬉しかった。
『こちらこそ。寒そうだから、暖かくしてこいよ』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『ありがとう! 北条君も風邪ひかないようにね』
真樹は小さく笑った。
そして、少し考えてから、もう一つメッセージを送った。
『明日、天野に見せたい本があるんだ』
送信してから、真樹は少しだけ照れくさくなった。
何となく、明日まで秘密にしておいてもよかった気がした。
けれど、ひよりに楽しみにしていてほしいと思ったのも事実だった。
しばらくして、返信が届いた。
『えっ、本当? どんな本?』
真樹は画面を見つめ、少しだけ笑った。
『それは明日のお楽しみ』
すぐに返事が届いた。
『もう、北条君! 気になるよ!』
その文章を見て、真樹は思わず声を立てて笑ってしまった。
ノアが不思議そうに顔を上げる。
真樹はその頭を軽く撫でた。
「……悪い。ちょっと面白くて」
ノアは尻尾を揺らし、再び床へ伏せた。
真樹はスマートフォンを見つめながら、明日が楽しみで仕方なくなっていた。
夜、ひよりは自室のベッドに腰を下ろし、真樹とのメッセージを読み返していた。
『明日、天野に見せたい本があるんだ』
その言葉が、何だか嬉しかった。
真樹が自分に紹介したいと思ってくれた本。
どんな物語なのだろう。
歴史小説かもしれないし、短編集かもしれない。
もしかしたら、ひよりが今まで読んだことのないジャンルなのかもしれない。
(……楽しみだな。北条君がどんな本を選んでくれたのか、早く知りたい)
ひよりはスマートフォンを置き、机の上に用意した服へ目を向けた。
淡いベージュ色のニットと紺色のスカート。
暖かなコートとマフラー。
明日の準備は、ほとんど終わっている。
鞄の中には財布とハンカチ、スマートフォン、それから水色のノートを入れる予定だった。
ひよりは立ち上がり、もう一度鞄の中身を確認した。
忘れ物はなさそうだった。
そのとき、机の上に置いた『雨上がりの手紙』が目に入った。
ひよりは本を手に取り、表紙を眺めた。
今日、海斗が図書室で借りたと話してくれた本だった。
海斗はまだ読み始めたばかりだが、最初の場面を気に入ってくれたらしい。
そのことが嬉しかった。
ひよりは本を本棚へ戻しながら、少しだけ考えた。
明日は真樹と書店へ行く。
そこで見つけた本を、千夏や海斗にも紹介できるかもしれない。
そして、真樹が好きな本を、自分も読んでみたい。
同じ物語を読んで、感想を話す。
その時間を想像すると、自然に笑顔になった。
ひよりはベッドへ戻り、枕元のスマートフォンを手に取った。
真樹から、最後のメッセージが届いていた。
『じゃあ、また明日。おやすみ』
ひよりはその文字を見つめ、穏やかに微笑んだ。
『うん。また明日ね。おやすみ、北条君』
送信すると、スマートフォンを枕元へ置いた。
部屋の照明を消すと、窓の外には冬の夜空が広がっていた。
ひよりは布団へ入り、ゆっくり目を閉じた。
明日は、真樹と二人で書店へ行く。
それは、ただの友達同士の約束なのかもしれない。
けれど、ひよりにとっては、今まで知らなかった真樹の一面を知ることができる、大切な時間になりそうだった。
そして同じころ、真樹も自室で明日のことを考えていた。
机の上には、ひよりへ紹介したいと思っている本が一冊置かれている。
真樹はその表紙を見つめながら、少しだけ微笑んだ。
ひよりがどんな反応を見せるのか、今から楽しみだった。
足元では、ノアが静かに眠っている。
真樹はその寝顔へ目を向け、小さく呟いた。
「……明日、楽しんでくるよ」
ノアは眠ったまま、尻尾を少しだけ動かした。
真樹はその様子に笑い、部屋の照明を落とした。
金曜日の夜は、静かに更けていく。
ひよりも真樹も、まだ互いの気持ちをすべて知っているわけではない。
けれど、明日一緒に過ごす時間を楽しみにしていることだけは、同じだった。
そして、その小さな期待が、二人の距離をまた少しだけ近づけようとしていた。




