第51話 同じ一冊を手に取る、その前に
木曜日の朝、天野ひよりは自室の本棚の前で、三冊の文庫本を手に取ったまま考え込んでいた。
制服への着替えも朝食も済ませているため、あとは鞄を持って家を出るだけだった。それなのに、昨夜から考えていたことが気になり、もう一度本棚を確かめずにはいられなかったのだ。
手元にある三冊は、どれもひよりが気に入っている物語だった。一冊は幼なじみ同士のすれ違いを描いた恋愛小説で、もう一冊は小さな町の喫茶店を舞台にした連作短編集。そして最後の一冊は、離れて暮らす家族が手紙を通じて少しずつ心を通わせていく物語だった。
(橘君におすすめするなら、どれがいいんだろう。登場人物の気持ちを考えるのが面白い本って言ってたけど、好きな雰囲気までは聞いてなかったな)
昨日の昼休み、海斗と千夏を交えて本の感想を話した時間は、とても楽しかった。
同じ場面を読んでも、三人の受け取り方は少しずつ違っていた。主人公が黙って立ち去った理由についても、ひよりは相手を傷つけたくなかったからだと考え、千夏は何も説明されない側の気持ちを指摘していた。
海斗はどちらの意見にも耳を傾けながら、自分の考えを言葉にしていた。
その様子を思い出すと、ひよりは自然に頬を緩めた。
(橘君って、本当に人の話をちゃんと聞いてくれるんだよね。だから、私も安心して感想を話せるのかもしれない)
ひよりは三冊を机に並べ、表紙を見比べた。
どれか一冊を選んで貸すことも考えたが、相手の好みをもう少し聞いてからのほうがよさそうだった。自分が好きだからといって、相手にも必ず気に入ってもらえるとは限らない。
そのことを考えたところで、ひよりはふと北条真樹の顔を思い浮かべた。
土曜日には、真樹がよく通う書店へ案内してもらうことになっている。
真樹も、きっと今の自分と同じように、どんな本を紹介しようか考えてくれているのだろうか。
そう思うと、何だか嬉しくなった。
「ひよりー、そろそろ時間よー!」
一階から母の由美の声が聞こえ、ひよりは慌てて時計を確認した。
「あっ、もうこんな時間!」
ひよりは三冊を本棚へ戻すと、机の上に置いていた水色のノートを鞄へしまった。
ノートの間には、日曜日に千夏と買った花柄の付箋が挟まっている。読書の感想だけでなく、気になった言葉や友達と話したことも書き留めるようになってから、ページを開く機会が増えていた。
鞄のファスナーを閉め、ひよりは部屋を出た。
階段を下りると、玄関では兄の悠一が靴を履いているところだった。
「お、ひより。今日はいつもより遅いな」
「ちょっと本を選んでたら、時間がかかっちゃって」
「朝から読書か?」
「読むんじゃなくて、おすすめする本を考えてたの。学校の友達に、何か面白い本を教えてほしいって言われてるんだ」
ひよりが答えると、悠一は感心したように眉を上げた。
「へえ。ひよりに本を聞くなら、相手も結構読む人なんだろうな」
「最近、よく本の話をするようになったんだ。自分と違う感想を聞けるから、すごく楽しいよ」
ひよりはそう話しながら、靴へ足を入れた。
悠一は妹の横顔を見て、少しだけ表情を和らげた。
以前から本が好きな妹だったが、最近は読んだ内容を誰かと話すことも増えたらしい。学校の課題がうまくいったときも嬉しそうだったし、火曜日には別の学校の友達と出かけていた。
妹の交友関係が少しずつ広がっていることは、兄として喜ばしい。
ただ、ひよりが以前、長く想っていた相手へ気持ちを伝えようとしていたことも、悠一は覚えていた。
その後どうなったのか、本人からはまだ聞いていない。
無理に尋ねるつもりはなかったが、気にならないと言えば嘘になる。
「ひより、最近学校楽しそうだな」
悠一が何気なく言うと、ひよりは少し驚いたように顔を上げた。
「そうかな?」
「ああ。前より話すことが増えた気がする」
ひよりは一瞬だけ言葉を止めた。
颯太へ告白した日のことが、頭をよぎったのだ。
あの日、帰宅してからの自分は、きっと家族にも心配をかけていたのだろう。
けれど、悠一は結果を知らない。
ひよりはそのことを思い出し、少しだけ視線を落としたあと、穏やかに笑った。
「……うん。最近、楽しいことが増えたんだ」
悠一はその答えを聞き、余計なことは尋ねなかった。
「そっか。ならよかった。ほら、遅刻するなよ」
「お兄ちゃんこそ、早く行かないと遅れるよ?」
「俺は大丈夫だって」
二人は笑い合いながら玄関を出た。
外には冷たい風が吹いていたが、空はよく晴れている。ひよりはマフラーを整え、兄と別れて学校へ向かった。
歩きながら、先ほどの会話を思い返す。
(……お兄ちゃんにも、いつかちゃんと話したほうがいいのかな)
告白がうまくいかなかったことを、いつまでも隠しておきたいわけではない。
ただ、今はまだ、自分の言葉で落ち着いて説明できる自信がなかった。
ひよりは小さく息を吐き、前を向いた。
焦らなくてもいい。
誰かへ話したくなったときに、少しずつ言葉にしていけばいいのだと思った。
県立青葉高校へ到着すると、教室では藤崎千夏が友達と話していた。
ひよりが挨拶すると、千夏はすぐに振り返り、嬉しそうに手を振った。
「ひより、おはよう! 今日はちょっと寒かったね」
「おはよう、千夏。うん、手が冷たくなっちゃった」
ひよりは鞄を机へ置き、両手を軽くこすり合わせた。
千夏はその様子を見ながら、机の上に置いていた小さな使い捨てカイロを持ち上げた。
「これ、予備なんだけど使う? 朝、二つ持ってきちゃったから」
「えっ、いいの?」
「もちろん。私のはもう温かくなってるし」
ひよりが礼を言って受け取ると、千夏は笑顔で頷いた。
カイロを両手で包み込むと、少しずつ温かさが伝わってくる。
「ありがとう、千夏。すごく助かる」
「どういたしまして。そういえば、昨日の本の話、面白かったね」
「うん! 私、家に帰ってからも少し考えちゃった」
ひよりは椅子へ座り、水色のノートを取り出した。
千夏はその表紙を見て、日曜日に一緒に文房具を選んだことを思い出した。
「そのノート、もう結構使ってるんだね」
「そうなの。橘君と話したこととか、千夏が言ってたことも書いてあるんだよ」
ひよりがページを開くと、そこには丁寧な文字で感想が並んでいた。
余白には花柄の付箋が貼られ、気になった部分には小さな印が付いている。
千夏はその几帳面さに感心しながらも、思わず笑ってしまった。
「ひよりって、本当にこういうの好きだよね。私だったら途中から面倒になって、たぶん適当に書いちゃう」
「そんなことないよ。千夏のメモ、分かりやすいもん」
「それは課題のときだけ頑張ったんですー」
二人は顔を見合わせて笑った。
ひよりはノートを閉じながら、今朝考えていたことを思い出した。
「そうだ、千夏。橘君におすすめする本、まだ決められなくて」
「ああ、前に頼まれてたやつ?」
「うん。いくつか候補はあるんだけど、どれがいいか迷ってるんだ」
千夏は少し考えたあと、ひよりへ顔を向けた。
「だったら、橘君にどんな話が好きか聞いてみたら? ひよりが全部決めなくてもいいと思うよ」
その言葉に、ひよりは目を瞬かせた。
自分でも同じことを考えていたはずなのに、千夏から言われると、ずっと簡単なことのように感じられた。
「……そうだよね。せっかくなら、橘君が読みたい本を紹介したいし」
「うん。それに、本の話をするきっかけにもなるでしょ?」
千夏は何気なく言ったが、その言葉のあとで少しだけ海斗の顔を思い浮かべた。
海斗は最近、ひよりと話す機会を嬉しそうにしている。
それは昨日も感じたことだった。
けれど、ひよりはまだ、海斗の変化に気づいていないらしい。
千夏はそのことを口にせず、教科書を机へ出した。
ひよりにとって今は、誰かから好意を向けられているかもしれないと意識するより、友達との時間を自然に楽しめることのほうが大切だと思ったからだ。
午前の授業は、比較的穏やかに進んだ。
現代文では短い随筆を読み、書き手が直接説明していない感情を、文章のどこから読み取れるか考える時間があった。
ひよりは教科書へ視線を落としながら、昨日まで海斗たちと話していた内容を思い出した。
人の気持ちは、言葉にされているものだけではない。
何を言わなかったのか、どうしてその場を離れたのか、相手の言葉を聞いたあとにどんな行動を取ったのか。
そうした部分にも、登場人物の感情が表れる。
教師が生徒たちへ意見を求めると、ひよりはノートに書いた考えを見直した。
少し迷ったものの、手を上げて発言する。
「書き手が相手の返事を待たずに帰ったのは、怒っていたからだけじゃなくて、返事を聞くのが怖かったからかもしれないと思いました。前の段落で、相手に嫌われたくないっていう気持ちが読み取れるので」
教師は頷き、ひよりが挙げた箇所を黒板へ書き加えた。
「なるほど。直前の文章と結びつけて考えられていますね。ほかにも違う読み方があるかもしれませんから、皆さんも考えてみましょう」
ひよりは席へ座り、少しだけ胸を撫で下ろした。
以前なら、考えがまとまっていても人前で発言することに躊躇していたかもしれない。
けれど、共同課題の発表を経験したことで、少しだけ勇気が持てるようになった。
隣の列から千夏が小さく親指を立ててくれたのが見え、ひよりは照れながら微笑んだ。
昼休みになると、ひよりは千夏と一緒に弁当を広げた。
教室の窓からは柔らかな日差しが差し込み、廊下には購買へ向かう生徒たちの足音が響いている。暖房の効いた室内は心地よかったが、窓際へ近づくとガラス越しに冬の冷たさが伝わってきた。
ひよりが卵焼きを口へ運んでいると、海斗が弁当を持って近づいてきた。
「天野さん、藤崎さん。ここ、座ってもいい?」
「もちろん。橘君、どうぞ」
ひよりが笑顔で答えると、海斗は近くの椅子を借りて腰を下ろした。
以前は共同課題の相談があるときだけ集まっていた三人だったが、最近はこうして昼休みに話すことも増えていた。
海斗は弁当の蓋を開きながら、午前中の現代文を思い出したように口を開いた。
「天野さん、さっきの授業の意見、分かりやすかったよ」
「えっ、本当?」
「うん。俺、最初は怒って帰ったのかなって思ってたんだけど、前の段落とつなげると確かに違って見えるなって」
ひよりは少し照れながら笑った。
「ありがとう。私も最初は迷ったんだけど、昨日みんなで話したことを思い出したら、そういう読み方もあるかなって思ったの」
千夏は二人の会話を聞きながら、弁当箱を机へ置いた。
「昨日の話、役に立ったんだね。私も授業聞きながら、ちょっと似たこと考えてたよ」
「うん。誰かと話してみると、自分では気づかなかったところが見えるよね」
ひよりが嬉しそうに言うと、海斗も頷いた。
しばらく三人で授業の話をしたあと、ひよりは今朝から考えていたことを切り出した。
「そういえば橘君、おすすめの本のことなんだけど、ちょっと聞いてもいい?」
海斗は箸を止め、ひよりへ顔を向けた。
「うん。何?」
「橘君って、どんな雰囲気のお話が好き? いくつか紹介したい本はあるんだけど、せっかくだから好みに合うものがいいなって思って」
ひよりは鞄からノートを取り出し、候補を書いていたページを開いた。
海斗はその様子を見て、少し驚いた。
自分が何気なく頼んだことを、ひよりは覚えていてくれた。
しかも、ただ本の名前を挙げるだけでなく、どんな作品が合うか考えてくれていたらしい。
(……天野さん、こんなに考えてくれてたんだ)
海斗は嬉しさを感じながら、少しだけ考え込んだ。
「そうだな……。事件が起きたり、すごい展開が続いたりする話も嫌いじゃないけど、最近は普通の日常の中で人の気持ちが変わっていくような話が好きかもしれない」
「日常のお話?」
「うん。最初は何でもない会話だったのに、あとから読むと意味が違って見えるとか。そういうの、面白いなって思うんだ」
ひよりはその言葉に目を輝かせた。
「分かる! 最初に読んだときは気づかなかったことが、読み返すと見えてくるんだよね」
海斗はひよりの反応が嬉しくて、自然に笑った。
「そうそう。だから、そういう話があったら読んでみたい」
ひよりはノートを見つめ、少し考えた。
今朝選んでいた三冊のうち、一冊が条件に合いそうだった。
「だったら、『雨上がりの手紙』っていう本はどうかな。離れて暮らす家族が手紙をやり取りするお話なんだけど、最初は何でもない文章に見えるところが、読み進めると少し違って感じられるの」
海斗は興味深そうに頷いた。
「へえ。手紙で話が進むんだ?」
「全部が手紙ってわけじゃないんだけどね。登場人物が直接会って話す場面もあるし、同じ出来事を違う人の立場から考えるところもあるの。私はそこが好きだったな」
ひよりは結末を明かさないように気をつけながら、作品の魅力を説明した。
海斗は話を聞くうちに、その本を読んでみたくなっていた。
「面白そう。今度、本屋で探してみるよ」
「もし見つからなかったら、私のを貸してもいいよ。家にあるから」
ひよりが自然に申し出ると、海斗は一瞬だけ返事に詰まった。
借りれば、読み終えたあとに返す機会ができる。
そのとき、またひよりと話せるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった自分に、海斗は少し驚いた。
けれど、ひよりは親切心で言ってくれているだけだ。
その気持ちに甘えて、必要以上に期待するのは違う気がした。
「ありがとう。でも、まずは自分で探してみるよ。もし見つからなかったら、そのとき相談してもいい?」
「もちろん! 読んだら感想聞かせてね」
ひよりが笑顔で答えると、海斗も嬉しそうに頷いた。
千夏はそのやり取りを見ながら、海斗が一瞬だけ言葉を選んだことに気づいていた。
ひよりのほうは、純粋に本を紹介できたことを喜んでいる。
けれど、海斗にとっては、それ以上の意味が少しずつ生まれているのかもしれない。
千夏は二人の会話を遮らず、穏やかに微笑んだ。
そのあと話題は、週末の過ごし方へ移った。
千夏が土曜日に家の買い物を手伝う予定だと話すと、ひよりは真樹との約束を思い出した。
「私は土曜日、本屋さんに行くんだ」
ひよりが言うと、千夏はすぐに笑顔になった。
「あ、北条君と約束してたんだよね」
「うん。北条君がよく行くお店に案内してくれるの」
海斗は箸を動かしかけた手を止めた。
北条君。
以前にも、ひよりがその名前を口にしたことがある。
共同課題の発表が終わった金曜日、ひよりが楽しそうに話していた相手だ。
海斗はその名前を覚えていたが、誰なのか詳しく聞いたことはなかった。
「北条君って、天野さんの友達?」
海斗が尋ねると、ひよりは自然に頷いた。
「うん。別の学校の友達なんだ。私と同じように本が好きで、よく行く書店を教えてくれることになったの」
ひよりは嬉しそうに説明した。
海斗はその表情を見つめながら、少しだけ考えた。
別の学校の友達。
本が好きで、ひよりと一緒に書店へ行く相手。
それだけでは、どんな人物なのか分からない。
けれど、ひよりがその約束を楽しみにしていることは、よく伝わってきた。
「そうなんだ。いいね。気に入った本が見つかるといいね」
海斗は穏やかに笑った。
ひよりも嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。橘君におすすめした本も、もし置いてあったら見てみようかな」
その言葉に、海斗は少しだけ表情を緩めた。
ひよりは自分との会話も覚えていてくれる。
それが嬉しかった。
千夏は海斗の様子を見ながら、心の中で小さく息を吐いた。
(……橘君、やっぱりひよりのことが気になってるのかな。でも、今はまだ本人もはっきり分かってないのかもしれない)
千夏はそう考えたが、何も言わなかった。
ひよりには、ひよりの時間がある。
海斗にも、自分の気持ちを確かめる時間が必要なのだろう。
三人はそのあとも本の話を続け、昼休みが終わるまで穏やかな時間を過ごした。
一方、私立桜陵学園では、一ノ瀬玲奈が昼休みの教室で三浦沙耶と話していた。
窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、教室の中には昼食を取る生徒たちの声が広がっている。
玲奈は弁当を片づけながら、スマートフォンに届いたメッセージを確認した。
相手はひよりだった。
『玲奈ちゃん、この前の写真、お母さんにも見せたよ! すごく可愛いお店だねって言ってた』
『また一緒に行けたら嬉しいな』
玲奈はその文章を読み、自然に微笑んだ。
ひよりと過ごした火曜日の放課後は、今でも鮮明に覚えている。
最初は少し緊張していたけれど、学校のことや好きなものの話をしているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。
ひよりは、玲奈が選んだ店を本当に気に入ってくれたらしい。
(……よかった。あのお店にして正解だったな)
玲奈は返信を打ち込んだ。
『嬉しい! ひよりちゃんのお母さんにもよろしく伝えてね』
『また別のお店も探してみようかな。今度は違うケーキも食べてみたいね』
送信すると、玲奈はスマートフォンを机へ置いた。
その様子を見ていた沙耶が、少しだけ笑った。
「玲奈、最近よくスマホ見て笑ってるね」
「えっ、そう?」
「うん。前に話してた、別の学校のお友達?」
玲奈は少し驚いたあと、頷いた。
「そうだよ。火曜日に一緒に喫茶店へ行った子」
「へえ、そんなに仲よくなったんだ。よかったじゃん」
沙耶は嬉しそうに笑った。
玲奈も自然に笑顔になった。
「うん。すごく話しやすい子なんだ。私が選んだお店も気に入ってくれたみたいで」
「それは嬉しいね。玲奈って、相手が楽しめるかどうか結構気にするもんね」
沙耶が言うと、玲奈は少し照れたように笑った。
「そんなことないよ。ただ、せっかく一緒に出かけるなら楽しいほうがいいでしょ?」
「それはそうだけど。玲奈、相手のことを考えてお店選ぶの得意だと思うよ」
玲奈はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
火曜日の喫茶店も、ひよりが落ち着いて話せそうな場所を選んだつもりだった。
実際、ひよりは喜んでくれた。
そのことは素直に嬉しい。
けれど、ひよりと話した真樹のことを思い出すと、胸の奥に別の感情が生まれる。
玲奈はそれを表へ出さないようにしながら、沙耶へ顔を向けた。
「沙耶はさ、友達と好きな人の話をするときって、どんな感じ?」
沙耶は少し驚いたように目を瞬かせた。
「えっ、急にどうしたの?」
「ううん。何となく気になっただけ」
玲奈は笑顔で答えたが、沙耶はその表情を少しだけ見つめた。
玲奈が恋愛の話題を持ち出すこと自体は珍しくない。
けれど、今の質問には、いつもより慎重な響きがあった。
「そうだなあ……。相手によるんじゃない? 何でも話せる友達もいるし、逆に大切だからこそ言いにくいこともあると思う」
沙耶は少し考えながら答えた。
玲奈は静かに頷いた。
「……大切だからこそ、言いにくいことか」
「うん。例えば、相手がどう思うか分からないときとか。自分の気持ちを話したことで、今までの関係が変わっちゃうかもしれないって考えることもあるでしょ?」
沙耶は何気なく言ったが、玲奈はその言葉を聞いて少しだけ視線を落とした。
ひよりに真樹への気持ちを話したら、どうなるのだろう。
ひよりは優しいから、きっと真剣に聞いてくれる。
けれど、そのあとも今までと同じように笑い合えるのかは分からない。
それに、真樹がひよりをどう思っているのか、玲奈自身も知らない。
(……今の私には、まだ話せないかな)
玲奈は小さく息を吐いた。
沙耶はその様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「玲奈、何か悩んでる?」
玲奈は顔を上げた。
沙耶の声には、からかうような響きはなかった。
ただ、友達として心配してくれていることが伝わってくる。
「……ちょっとだけね。でも、まだ自分でもうまく説明できないんだ」
玲奈はそう答えた。
沙耶は無理に続きを尋ねなかった。
「そっか。じゃあ、話したくなったら聞くよ。私でよければだけど」
「ありがとう、沙耶」
玲奈は穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、沙耶も安心したように頷いた。
昼休みが終わるまで、二人は別の話題へ移り、午後の授業について話し始めた。
けれど、玲奈の心には、沙耶の言葉が静かに残っていた。
大切だからこそ、言いにくいことがある。
それは、ひよりに対してだけではない。
真樹に対しても同じだった。
午後の授業を終えた北条真樹は、教室で帰り支度をしながら、鞄の中に入れていた文庫本を取り出した。
昨日から読み進めている歴史小説だった。
週末にひよりを案内する書店で購入したもので、古い町並みを舞台にした物語が気に入っていた。
真樹はしおりを挟んだページを確認し、再び鞄へしまった。
隣では神崎蓮が帰り支度を終え、椅子の背へ軽く寄りかかっている。
「北条、今日は何か予定ある?」
「特には。帰ったらノアの散歩かな」
「そっか。じゃあ、駅まで一緒に帰らない?」
「ああ、いいぞ」
二人は教室を出て、廊下を歩き始めた。
放課後の校舎には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、階段の近くでは数人の生徒が週末の予定について話している。
蓮はその声を聞きながら、真樹へ顔を向けた。
「そういえば、土曜日の本屋、もう何か考えてるの?」
「何かって?」
「天野さんにおすすめする本とか、どの棚から見ようとかさ」
真樹は少し考えた。
「一応、いくつか候補はある。でも、天野が何を見たいか聞いてから決めるつもりだ」
「相変わらず慎重だなあ」
蓮が笑うと、真樹も少しだけ笑った。
「せっかく来てもらうんだから、楽しんでほしいだろ」
「それはそうだけど。北条が好きな本を紹介するのも、天野さんは嬉しいんじゃない?」
真樹はその言葉に少しだけ足を緩めた。
蓮は続けた。
「だって、北条がよく行く本屋に案内するんでしょ? だったら、どんな本を読んでるのか知りたいと思うんじゃないかな」
真樹はしばらく考えた。
ひよりは以前、自分が好きな本について興味を示してくれた。
ただ、真樹はひよりが楽しめるようにすることばかり考え、自分の好みをどこまで話そうかはあまり意識していなかった。
(……確かに、天野は俺の好きな本も聞いてくれたんだよな)
真樹は少しだけ表情を緩めた。
「……そうだな。俺が好きな本も、何冊か見てもらおうかな」
「うん。それでいいと思うよ」
蓮は笑顔で頷いた。
真樹は鞄の持ち手を握り直し、廊下の先へ視線を向けた。
土曜日は、ひよりと二人で出かける。
ノアを連れて散歩するときとは違い、書店では本の話を中心に過ごすことになるだろう。
ひよりがどんな本を手に取るのか、どんな表紙に惹かれるのか。
そんな小さなことを知れるだけでも、真樹には楽しみだった。
昇降口へ向かう途中、蓮は少しだけ声を落とした。
「北条、一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
「一ノ瀬さんとは、今度喫茶店に行くんだよね」
真樹は頷いた。
「ああ。再来週以降で予定を合わせることになってる」
「そっか。日程はまだ決まってないんだ」
「そうだな。今週中に予定を確認するって言ったから、帰ったら見ておこうと思ってる」
真樹は自然に答えた。
蓮はその横顔を見つめた。
真樹にとって、玲奈は昔からの大切な友達だ。
長い付き合いがあるからこそ、二人の間には気を遣わずに話せる雰囲気がある。
けれど、蓮には以前から、玲奈が真樹へ向ける表情に少し特別なものを感じることがあった。
それが恋愛感情なのかどうかは分からない。
本人から聞いたわけではないし、確かなことを言える立場でもなかった。
「……北条って、一ノ瀬さんと二人で出かけること、結構あるの?」
蓮が尋ねると、真樹は少し考えた。
「昔は家同士の付き合いもあったし、一緒に出かけることもあったな。最近は学校で話すことが多いけど」
「なるほどね」
「どうしたんだよ、急に」
真樹が不思議そうに尋ねると、蓮は軽く首を横に振った。
「いや、幼なじみってどんな感じなのかなと思って。俺にはそういう相手いないからさ」
真樹は納得したように頷いた。
「別に特別なことはないぞ。昔から知ってるから、気を遣わずに話せるってくらいだ」
蓮はその答えを聞き、少しだけ複雑な気持ちになった。
真樹にとっては、確かにそうなのだろう。
けれど、玲奈も同じように思っているとは限らない。
蓮はそれ以上踏み込まず、話題を変えた。
「まあ、とりあえず土曜日は楽しんできなよ。天野さんの好きな本、たくさん聞けるといいね」
真樹は少し照れたように笑った。
「ああ。そうする」
二人はそのまま昇降口を出て、駅へ向かう道を歩き始めた。
冬の夕方の空には薄い雲が広がり、街路樹の枝が冷たい風に揺れていた。
真樹は歩きながら、土曜日にひよりへ紹介したい本を思い浮かべた。
歴史小説だけでなく、以前読んで気に入った短編集もある。
けれど、ひよりがどんな本を選ぶのかも見てみたい。
自分が知らない作品を教えてもらえるかもしれないし、同じ一冊について違う感想を持つこともあるだろう。
そう考えると、書店へ行くことそのものより、ひよりと一緒に本を選ぶ時間が楽しみになっていた。
同じころ、ひよりは青葉高校の図書室に立ち寄っていた。
放課後の図書室は静かで、窓際の席には数人の生徒が座っている。机の上には参考書やノートが広げられ、ページをめくる音が時折聞こえてきた。
ひよりは返却予定の本を受付へ出したあと、文庫本の並ぶ棚へ向かった。
今日、海斗へ紹介した『雨上がりの手紙』が学校の図書室にもあるか確かめたかったのだ。
棚の前で背表紙を一つずつ見ていくと、探していた作品が見つかった。
「あ、あった……」
ひよりは小さな声で呟き、本を手に取った。
家にあるものと同じ表紙だった。
ページを開くと、以前読んだときに心に残った場面が自然と思い出された。
手紙に書かれた何気ない一文。
その言葉の意味が、物語の後半で少し違って見えてくる。
ひよりはページをめくりながら、海斗がどんな感想を持つのか想像した。
(橘君なら、私が気づかなかったところにも気づくかもしれないな)
ひよりは本を棚へ戻し、図書室の窓際へ目を向けた。
外では夕方の光が校庭を照らし、部活動の生徒たちが走っている。
静かな図書室にいると、自然に気持ちが落ち着いた。
ひよりは鞄から水色のノートを取り出し、今日の昼休みに話したことを書き留めた。
海斗が日常の中で感情が変わっていく話を好むこと。
千夏が、相手の立場から考えることも大切だと言っていたこと。
そして、自分が誰かへ本を紹介するとき、相手の好みをもっと知りたいと思ったこと。
そこまで書いたところで、ひよりはふと手を止めた。
真樹も、自分に本を紹介するとき、同じように考えてくれているのだろうか。
ひよりはノートの余白を見つめながら、少しだけ微笑んだ。
(……土曜日、北条君がどんな本を好きなのか、ちゃんと聞いてみよう)
自分の好きな本を見つけるだけでなく、真樹がどんな物語を読んでいるのか知りたい。
そう考えると、書店への外出がますます楽しみになった。
ひよりはノートを閉じ、鞄へしまった。
図書室を出ると、廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響いていた。
ひよりは昇降口へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。
真樹へメッセージを送ろうと思ったのだ。
『北条君、今日もお疲れさま!』
『土曜日の本屋さんなんだけど、北条君の好きな本も教えてほしいな』
送信してから、ひよりは少しだけ考えた。
自分の好きな本を紹介してもらうだけではなく、真樹自身のことも知りたい。
その気持ちを、もう少し言葉にしてみたくなった。
『私が知らない本もいっぱいありそうだから、楽しみにしてるね』
ひよりは送信すると、スマートフォンを鞄へしまった。
返事は帰宅してから確認すればいい。
そう考え、校門へ向かって歩き始めた。
夕方、真樹は自宅でノアの散歩へ出る準備をしていた。
玄関の近くでは、ノアが尻尾を揺らしながら待っている。
真樹がリードを手に取ると、ノアは嬉しそうに一歩近づいた。
「分かったから、少し待てって」
真樹は笑いながらリードを付け、ノアの首元を軽く撫でた。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を確認すると、ひよりからメッセージが届いていた。
真樹は内容を読み、少しだけ目を細めた。
『北条君の好きな本も教えてほしいな』
その一文を見つめながら、真樹は先ほど蓮と話したことを思い出した。
ひよりは、自分が好きな本にも興味を持ってくれている。
蓮の言ったとおりだった。
(……天野、俺のことも知ろうとしてくれてるんだな)
真樹は自然に頬を緩めた。
誰かに好きなものを尋ねられることは、特別珍しいことではない。
けれど、ひよりから聞かれると、少し違って感じられた。
自分が大切にしているものを、ひよりにも知ってもらえる。
そのことが嬉しかった。
真樹は返信を打ち込んだ。
『お疲れさま。もちろん。俺が好きな本も何冊か紹介するよ』
『天野のおすすめも聞いてみたい』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『本当? 嬉しい!』
『私も何冊か考えておくね』
真樹はその文章を見て、小さく笑った。
ノアが足元で待ちきれない様子を見せている。
「悪い、ノア。もう行くから」
真樹はスマートフォンをしまい、玄関の扉を開けた。
外には冷たい空気が広がっていたが、ノアは嬉しそうに歩き始めた。
いつもの公園へ向かう道を歩きながら、真樹は土曜日のことを考えた。
ひよりがどんな本を紹介してくれるのか。
自分の好きな歴史小説に、どんな反応を見せるのか。
同じ一冊を手に取ったとき、どんな会話が生まれるのか。
考えるだけで、自然に楽しみが増えていった。
公園へ着くと、ノアは落ち葉の残る遊歩道へ鼻先を近づけた。
真樹はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「お前は本より落ち葉のほうが気になるよな」
ノアは顔を上げ、真樹を見つめた。
その表情が何とも得意げに見え、真樹は思わず笑ってしまった。
「……まあ、お前はそれでいいけど」
真樹はノアの頭を撫で、ゆっくり歩き始めた。
そのころ、玲奈は自室で手帳を開き、来週以降の予定を確認していた。
真樹とは再来週以降に喫茶店へ行く約束をしている。
まだ日程は決まっていないが、昨日、真樹は予定を確認すると言ってくれた。
玲奈は手帳の空いている日を見ながら、少しだけ考えた。
どんな服を着ていこう。
何を話そう。
真樹はどんな飲み物を選ぶだろう。
そんなことを考えるだけで、自然に頬が緩んだ。
けれど、すぐにひよりの顔が浮かんだ。
火曜日の喫茶店で、ひよりは真樹を大切な友達だと言っていた。
その言葉は、今でも玲奈の心に残っている。
ひよりは本当に優しい女の子だった。
自分の話を丁寧に聞いてくれて、写真を撮ろうと誘ってくれた。
今日も、喫茶店の写真を母親に見せたと嬉しそうに報告してくれた。
玲奈はスマートフォンを取り出し、ひよりとのメッセージを開いた。
そこには、また一緒に出かけたいという言葉が残っている。
(……私も、ひよりちゃんとまた出かけたいんだよね)
玲奈は静かに息を吐いた。
真樹への想いと、ひよりとの友情。
どちらも大切だった。
だからこそ、簡単には答えを出せない。
玲奈は手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
冬の夜空には、薄い雲がゆっくり流れている。
真樹がひよりをどう思っているのか。
ひよりがこれから真樹をどう思うようになるのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
玲奈はそのことを考えながら、少しだけ目を閉じた。
今は、目の前にある約束を大切にしたい。
真樹と喫茶店へ行く日も、ひよりとまた会う日も。
その時間を楽しみにしている気持ちは、嘘ではなかった。
夜、ひよりは自室の机で本を開いていた。
今日、海斗へ紹介した『雨上がりの手紙』を、もう一度読み返していたのだ。
ページをめくるたび、以前読んだときには気づかなかった細かな描写が目に入る。
登場人物が手紙を書く前に少しだけ迷う場面。
返事を待つ間、何度も窓の外を見てしまう場面。
相手の言葉を信じたいのに、素直に受け取れない場面。
ひよりはその一つ一つを読みながら、静かに考えた。
(……人の気持ちって、本当に難しいな)
物語の登場人物は、相手のことを大切に思っている。
けれど、その気持ちがうまく伝わらないこともある。
自分のために黙っているのか、相手のために黙っているのか。
その違いさえ、本人には分からないことがあるのかもしれない。
ひよりは本を閉じ、机の上へ置いた。
そのとき、スマートフォンが短く震えた。
真樹からだった。
『さっきはありがとう。天野がどんな本を紹介してくれるのか、楽しみにしてる』
ひよりはその文章を読み、自然に微笑んだ。
真樹は、自分の話をいつも丁寧に聞いてくれる。
けれど、自分は真樹のことをどれくらい知っているのだろう。
好きな本。
好きな場所。
ノアと過ごす時間。
それ以外にも、まだ知らないことはたくさんある。
ひよりは少し考え、返信を打ち込んだ。
『私も楽しみにしてるね』
『北条君の好きなもの、もっと知れたら嬉しいな』
送信してから、ひよりは少しだけ頬を赤くした。
何だか、少し照れくさい言い方だったかもしれない。
けれど、嘘ではなかった。
真樹のことをもっと知りたい。
その気持ちは、自然に生まれたものだった。
しばらくして、返事が届いた。
『俺も、天野の好きなものをもっと知りたい』
ひよりはその文字を見つめ、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
真樹も同じように思ってくれている。
それが嬉しかった。
ひよりはスマートフォンを胸元へ寄せ、静かに微笑んだ。
誰かと仲よくなるということは、相手のことを少しずつ知っていくことなのかもしれない。
好きなものを聞いて、知らなかった一面を見つけて、自分のことも少しずつ話していく。
そうした時間が積み重なって、いつの間にか大切な関係になっていく。
ひよりはそのことを考えながら、机の上の本へ目を向けた。
土曜日には、真樹と書店へ行く。
同じ棚を眺め、同じ本を手に取り、違う感想を話すこともあるだろう。
その時間が、今から楽しみだった。
ひよりは本を閉じて本棚へ戻すと、ベッドへ腰を下ろした。
窓の外では、冷たい風が静かに吹いている。
明日は金曜日。
そして、その次の日には、真樹との約束が待っている。
ひよりは枕元へスマートフォンを置き、ゆっくり目を閉じた。
まだ知らないことは、たくさんある。
けれど、知らないからこそ、これから知っていく楽しみがある。
そんな小さな期待を胸に抱きながら、木曜日の夜は静かに更けていった。




