第50話 知らなかった君を、少しずつ知っていく
水曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中には冬の朝らしい冷たさが残っている。ひよりは布団から片手を伸ばして目覚ましを止めると、枕元に置いていたスマートフォンへ目を向けた。
画面には、昨夜、一ノ瀬玲奈から届いた最後のメッセージが残っていた。
『ひよりちゃん、写真ありがとう! またゆっくり話そうね』
昨日の放課後、玲奈と二人で訪れた喫茶店は、思っていた以上に居心地のよい場所だった。温かなミルクティーと苺のケーキも美味しかったし、何より、学校の違う女の子とあれほど自然に話せたことが嬉しかった。
ひよりは画面を見つめながら、昨日撮った写真をもう一度開いた。
小さなテーブルを挟んで並んだ二人が、少し照れくさそうに笑っている。撮影するときに玲奈が身を寄せてくれたことや、写真を確認して二人で笑ったことまで、鮮やかに思い出せた。
(玲奈ちゃん、本当に可愛かったな。話していて楽しかったし、また一緒に出かけられたらいいな)
ひよりは写真を閉じ、ベッドから起き上がった。
洗面所で顔を洗い、制服に着替えていると、昨日の会話が自然と思い返された。
玲奈は真樹のことをよく知っていた。
子供のころからの幼なじみなのだから当然なのだろうけれど、真樹が昔から本を読むのが好きだったことや、ノアが子犬だったころの様子を話す玲奈は、とても楽しそうだった。
その表情を思い出すと、ひよりも微笑ましい気持ちになる。
ただ、一つだけ気になることがあった。
玲奈が真樹について尋ねてきたとき、ほんの少しだけ、いつもと雰囲気が違ったように感じたのだ。
『ひよりちゃんにとって、真樹ってどんな人?』
あの質問に、ひよりは大切な友達だと答えた。
それは嘘ではない。
けれど、玲奈がその答えを聞いたとき、少しだけ安心したように見えたのは気のせいだったのだろうか。
(……私の考えすぎかな。玲奈ちゃんは北条君の幼なじみだし、仲よくしている相手がどんな人なのか気になるよね)
ひよりはそう考え、制服のリボンを整えた。
玲奈の気持ちを勝手に決めつけるつもりはない。
昨日の時間が楽しかったことも、また会いたいと思ったことも、確かなのだから。
階段を下りると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、ひより。昨日は楽しかった?」
由美は鍋の火を弱めながら振り返った。
「うん! すごく可愛いお店だったよ。玲奈ちゃんともいっぱい話せたし」
「それはよかったわ。帰ってきたときも嬉しそうだったものね」
ひよりは少し照れながら椅子へ座った。
昨夜は帰宅してから、母や姉の美月に喫茶店の写真を見せた。美月には玲奈と並んで撮った写真も見せたところ、「二人とも楽しそうでいいね」と笑ってもらえた。
ただ、真樹について玲奈から尋ねられたことまでは話していない。
秘密にするつもりがあったわけではなく、ひより自身、その質問に特別な意味があったとは考えていなかったからだ。
「今度はそのお友達を家に呼んでもいいのよ」
由美が言うと、ひよりは目を輝かせた。
「本当? 玲奈ちゃんにも聞いてみようかな」
「もちろん、都合が合えばね。ただ、相手のお家の予定もあるでしょうから、無理に誘わないようにね」
「うん、分かってる」
ひよりは笑顔で頷き、朝食に手を伸ばした。
食卓には焼き鮭と卵焼き、それから温かな味噌汁が並んでいる。外の冷たい空気を思い浮かべると、湯気の立つ味噌汁がいっそう美味しそうに見えた。
朝食を終え、出発の準備をしていると、スマートフォンが短く震えた。
画面に表示された名前を見て、ひよりは思わず微笑んだ。
『おはよう。昨日は一ノ瀬と会ったんだろ? 楽しめたか?』
真樹からだった。
ひよりは玄関の端に立ち、指先で返信を打った。
『北条君、おはよう! うん、すごく楽しかったよ!』
『玲奈ちゃんが可愛いお店を選んでくれて、ケーキも美味しかったの』
『そうか。よかったな』
短い返事だったけれど、ひよりには真樹が穏やかに笑っている姿が浮かんだ。
『北条君は昨日、何してたの?』
『学校から帰って、ノアと散歩してた。あいつ、落ち葉を追いかけて大変だった』
ひよりは思わず声を立てて笑ってしまった。
大きな黒犬が、風に舞う落ち葉を一生懸命追いかけている。
想像するだけで可愛らしい。
『ふふ、ノアらしいね! 今度会ったらいっぱい撫でてあげたいな』
『喜ぶと思う。たぶん、しばらく離れないぞ』
ひよりは笑顔で画面を見つめた。
そして、少し迷ってから文字を打ち込んだ。
『北条君、土曜日の本屋さんも楽しみにしてるね』
送信すると、すぐには返事が来なかった。
ひよりは靴を履きながら、何となく画面を気にしてしまう。
しばらくして、通知が届いた。
『俺も楽しみにしてる。気をつけて学校行けよ』
ひよりはその文字を読んで、自然に頬を緩めた。
『うん! 北条君もね!』
スマートフォンを鞄へしまい、ひよりは玄関の扉を開けた。
外には冷たい風が吹いていたが、朝の空は澄んでいた。
ひよりはマフラーを巻き直し、いつもの通学路を歩き始めた。
県立青葉高校の教室では、藤崎千夏が窓際の席で友達と話していた。
ひよりが教室へ入ると、千夏はすぐに気づいて手を振った。
「ひより、おはよう! 昨日どうだった?」
「千夏、おはよう。すごく楽しかったよ!」
ひよりが嬉しそうに答えると、千夏は笑顔を浮かべた。
「よかった! ねえ、写真撮った? お店の雰囲気も気になるんだけど」
「撮ったよ。ちょっと待ってね」
ひよりは鞄からスマートフォンを取り出し、昨日撮った写真を見せた。
苺のケーキ、温かなミルクティー、木目調のテーブル。そして、最後に玲奈と二人で撮った写真を開く。
千夏は画面を覗き込み、嬉しそうに声を上げた。
「わあ、可愛い! 玲奈ちゃんってこの子なんだ。ひよりと並ぶと、何だか雰囲気が違って面白いね」
「そうかな?」
「うん。玲奈ちゃんはちょっと大人っぽい感じで、ひよりは柔らかい雰囲気。二人とも楽しそうに笑ってる」
千夏はそう言いながら、写真をじっくり眺めた。
玲奈は整った顔立ちの女の子だった。
写真の中では自然に微笑んでいるけれど、制服の着こなしや髪の整え方からも、きちんとした印象が伝わってくる。
ひよりとはまた違う魅力を持った女の子だと、千夏は感じた。
「ねえ、玲奈ちゃんとは何話したの?」
「学校のこととか、好きなもののこととか。あとはノアの話もしたよ」
「やっぱりノアなんだ」
千夏が笑うと、ひよりも楽しそうに頷いた。
「だって、玲奈ちゃんはノアが小さかったころから知ってるんだよ。私が知らない話をいっぱい聞けて、すごく面白かったの」
ひよりは昨日の会話を思い返しながら、少しだけ声を弾ませた。
千夏はその様子を見て安心した。
失恋してからのひよりは、少しずつ以前の明るさを取り戻している。
もちろん、傷ついた気持ちが完全に消えたわけではないだろう。
けれど、学校以外の場所にも楽しみができ、新しい友達との時間を喜べるようになったことは、千夏にとっても嬉しかった。
「そういえば、北条君の話もした?」
千夏が尋ねると、ひよりは自然に頷いた。
「うん。玲奈ちゃん、北条君のことをいろいろ教えてくれたよ」
「へえ。どんなこと?」
「昔から本が好きだったこととか、ノアのこととか。それから、私が北条君と一緒にいると楽しいかって聞かれたかな」
千夏は少しだけ目を瞬かせた。
「……そうなんだ」
「うん。だから、楽しいよって答えたの。北条君は大切な友達だし、知り合えてよかったって思ってるから」
ひよりは何気なく言った。
千夏はその横顔を見ながら、少しだけ考えた。
玲奈は真樹の幼なじみだ。
その玲奈が、ひよりに真樹との関係を尋ねた。
単なる好奇心かもしれないし、幼なじみとして気になっただけかもしれない。
けれど、真樹の気持ちをある程度察している千夏には、別の可能性も浮かんでいた。
(……玲奈ちゃんも、北条君のことが好きなのかな)
ただ、本人に会ったこともないのに決めつけるのはよくない。
千夏は一度考え、ひよりへ穏やかに尋ねた。
「ひよりは、玲奈ちゃんと話してて困ったこととか、なかった?」
「困ったこと?」
「うん。初めて二人で会ったわけだし、ちょっと気を遣ったりしなかったかなって」
ひよりは少し考えてから、首を横に振った。
「最初は緊張したけど、すぐに楽しくなったよ。玲奈ちゃん、話しやすいし、私の話もちゃんと聞いてくれるから」
「そっか。それならよかった」
千夏は笑顔で答えた。
ひよりが楽しかったと感じているなら、今はそれを大切にしてほしい。
誰かの気持ちを推測して、不必要に不安を与えることはしたくなかった。
そのとき、教室の後ろの扉が開き、橘海斗が入ってきた。
海斗は二人の姿を見つけると、軽く手を上げた。
「天野さん、藤崎さん。おはよう」
「橘君、おはよう!」
「おはよう。今日は早いね」
千夏が声を掛けると、海斗は少し苦笑した。
「昨日、宿題を早めに終わらせたから。朝に慌てなくて済んだんだ」
「分かる。夜のうちに終わらせておくと、朝が楽だよね」
ひよりが頷くと、海斗は少しだけ笑った。
そして、ひよりの机の上に置かれた水色のノートへ視線を向けた。
「あ、それ。前に見せてくれたノートだよね」
「うん。昨日も少し書いたんだ」
ひよりは嬉しそうにノートを手に取った。
海斗はその様子を見ながら、以前より自然に話しかけられるようになったことを感じていた。
共同課題の準備をしていたころは、話題がなくなると少し気まずくなることもあった。
けれど、今は本の話や授業の話をきっかけに、気軽に声を掛けられる。
その変化が嬉しかった。
「そういえば、昨日話してた本、もう少し読み進めたんだ」
海斗が言うと、ひよりは興味深そうに顔を上げた。
「本当? どうだった?」
「前に読んだときは、主人公の行動がちょっと理解できなかったんだけど、今は少し分かる気がした。自分の気持ちをうまく言えないところとか」
海斗は少し考えながら言葉を続けた。
「ただ、相手に何も言わないまま分かってほしいと思うのは、やっぱり難しいよなって」
ひよりは静かに頷いた。
「……そうだね。言葉にしないと伝わらないことって、きっとあるよね」
その言葉を口にしたとき、ひよりの胸に、少しだけ以前の記憶がよぎった。
颯太へ気持ちを伝えた日のこと。
勇気を出して告白し、優しく断られたこと。
思い出せば、今でも少しだけ胸が痛む。
けれど、伝えなければよかったとは思っていなかった。
自分の気持ちを言葉にしたからこそ、あの日を境に少しずつ前へ進めている。
ひよりはノートの表紙へ指を添えながら、穏やかに微笑んだ。
「でも、言葉にするのって難しいよね。相手がどう思うか分からないし、怖くなることもあると思う」
海斗はその表情を見つめた。
ひよりの声には、普段より少しだけ慎重な響きがあった。
何か経験したことがあるのかもしれない。
けれど、海斗には分からない。
だから、無理に尋ねようとは思わなかった。
「うん。だからこそ、ちゃんと話せる相手って大切なんだろうね」
海斗が答えると、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「私もそう思う」
千夏は二人の会話を聞きながら、ひよりの表情へ目を向けた。
以前なら、こうした話題で少し落ち込んでしまうこともあったかもしれない。
けれど、今のひよりは自分の経験を無理に隠すことなく、同時に誰かへ押しつけることもなく、自然に話せている。
そのことが、千夏には少し頼もしく感じられた。
予鈴が鳴り、生徒たちが席へ戻り始める。
海斗は自分の席へ向かう前に、ひよりへ声を掛けた。
「天野さん、今日の昼休み、少し時間ある?」
「うん。どうしたの?」
「昨日の本のことで、もう少し聞きたいところがあるんだ。もしよかったら、休み時間に少し話せないかなって」
ひよりは笑顔で頷いた。
「もちろん。千夏も一緒でいい?」
海斗は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「うん。藤崎さんの感想も聞いてみたいし」
「じゃあ、三人で話そう!」
ひよりが嬉しそうに言うと、千夏も笑顔で頷いた。
「いいね。私もその本、気になってたんだ」
海斗は二人へ軽く手を振り、自分の席へ戻っていった。
ひよりは教科書を机へ出しながら、今日の昼休みが少し楽しみになっていた。
一方、私立桜陵学園では、北条真樹が朝の教室で神崎蓮と話していた。
窓の外には冬の青空が広がり、校庭では体育の授業に向かう生徒たちの姿が見える。
真樹は机の上に教科書を置き、スマートフォンを鞄へしまった。
蓮はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「朝から機嫌よさそうだな」
「そうか?」
「そう見えるけど。何かいいことでもあった?」
真樹は少しだけ考えた。
今朝、ひよりからメッセージが届いた。
玲奈との喫茶店が楽しかったこと。
ノアに会いたいと言ってくれたこと。
そして、土曜日の書店への外出を楽しみにしていること。
どれも特別な言葉ではない。
けれど、真樹にとっては嬉しいものだった。
「……天野から連絡があっただけだ」
真樹が答えると、蓮は納得したように頷いた。
「ああ、なるほど」
「何がなるほどなんだよ」
「いや、分かりやすいなと思って」
蓮は笑いを堪えるように口元を緩めた。
真樹は少しだけ眉を寄せたが、強く否定することはしなかった。
蓮には、ひよりへの気持ちをすでに話している。
今さら隠しても仕方がない。
「土曜日、本屋に行くことになってるんだろ?」
「ああ。駅の改札前で待ち合わせる予定だ」
「へえ。いいじゃん。天野さん、本が好きなんだっけ?」
「そうらしい。恋愛小説とか、日常を描いた話が好きだって言ってた」
真樹はそう答えながら、ひよりと公園で話したときのことを思い出した。
好きな本について話しているとき、ひよりは本当に楽しそうだった。
表紙で選ぶこともあると言っていたし、おすすめの本を教えてほしいとも言われた。
その言葉が、真樹には嬉しかった。
自分が好きな場所へ、ひよりを案内できる。
それだけでも十分に楽しみだった。
「北条、何かおすすめする本は決めてるの?」
蓮が尋ねると、真樹は少し考えた。
「何冊か候補はある。でも、天野が何を読みたいか聞いてからにしようと思ってる」
「なるほど。自分の好きな本を押しつけるわけじゃないんだな」
「そりゃそうだろ。俺が好きな本と、天野が楽しめる本が同じとは限らないし」
真樹は自然に答えた。
蓮はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
真樹はひよりのことになると、普段以上に相手の気持ちを考える。
それは悪いことではない。
むしろ、真樹らしい優しさだと思う。
ただ、その慎重さが、自分の気持ちを伝えることまで遠ざけてしまうのではないかと、蓮は少しだけ気になっていた。
「……北条さ」
「何だ?」
「天野さんと一緒に出かけるの、楽しみなんだろ?」
真樹は一瞬黙った。
蓮は急かさず、返事を待った。
やがて、真樹は窓の外へ目を向けながら答えた。
「……楽しみだよ。普通に」
「普通に、ねえ」
「何だよ、その言い方」
真樹が苦笑すると、蓮も笑った。
「いや、別に。楽しみならそれでいいと思うよ」
蓮はそう言って、少しだけ声を落とした。
「ただ、天野さんが最近いろいろあったことは分かってるけど、北条まで自分の気持ちを全部押し込めなくてもいいんじゃない?」
真樹は蓮へ視線を向けた。
ひよりが颯太に告白し、断られたこと。
そのあと、ひよりが泣いていたこと。
蓮はその事情を知っている。
だからこそ、真樹が急いで気持ちを伝えるつもりはないことも理解していた。
「……押し込めてるつもりはない」
真樹は静かに答えた。
「今は、天野が楽しく過ごせるならそれでいいと思ってる。俺と出かけることを楽しみにしてくれてるなら、それだけでも嬉しいし」
蓮は真樹の表情を見つめた。
真樹は真剣だった。
ひよりのことを大切に思っているからこそ、焦らずにいたいのだろう。
蓮は小さく頷いた。
「そっか。なら、俺からは何も言わないよ」
「……ありがとな」
真樹が答えると、蓮は軽く肩をすくめた。
「ただし、土曜日に何があったかくらいは聞かせろよ」
「お前、結局それが聞きたいだけだろ」
二人は笑い合った。
そのとき、教室の扉が開き、一ノ瀬玲奈が入ってきた。
玲奈は教室の中を見渡し、真樹の姿を見つけると、少しだけ表情を緩めた。
「真樹、おはよう」
「一ノ瀬。おはよう」
真樹は自然に答えた。
玲奈は蓮にも挨拶し、二人の近くへ歩み寄った。
「蓮君もおはよう。何の話してたの?」
「おはよう。一応、週末の予定の話かな」
蓮が答えると、玲奈は少しだけ目を瞬かせた。
「週末?」
真樹は特に隠すこともなく答えた。
「土曜日、天野と本屋に行くんだ」
玲奈は一瞬、言葉を止めた。
その予定は昨日、ひよりからも聞いている。
けれど、真樹の口から直接聞くと、少しだけ違って感じられた。
真樹は穏やかな表情をしている。
普段どおりに見えるけれど、その声にはわずかな楽しさが含まれていた。
玲奈はそのことに気づき、胸の奥が小さく痛んだ。
「……そっか。ひよりちゃんも楽しみにしてたよ」
玲奈は笑顔で答えた。
真樹は少し驚いたように顔を上げた。
「昨日、天野と話したのか?」
「うん。喫茶店でいろいろ話したんだ。真樹のことも少しね」
玲奈はそう言って微笑んだ。
真樹は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……何話したんだよ」
「ふふ、内緒」
玲奈は軽く笑った。
そのやり取りを見ながら、蓮は何も言わなかった。
玲奈の笑顔は自然だった。
けれど、土曜日の予定を聞いた瞬間、ほんの少しだけ表情が変わったようにも見えた。
蓮はそのことを覚えておきながら、余計なことは口にしなかった。
玲奈は真樹へ顔を向けた。
「そういえば、真樹。前に話した喫茶店のことなんだけど」
「ああ。再来週以降ならって話だったな」
「うん。もし予定が分かったら、教えてくれる?」
玲奈はできるだけ自然に尋ねた。
真樹は少し考えたあと、頷いた。
「分かった。今週中には確認しておく」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
玲奈は笑顔で答えた。
真樹も穏やかに頷いた。
それだけのやり取りだった。
けれど、玲奈にとっては大切な約束だった。
まだ具体的な日程は決まっていない。
それでも、真樹が覚えていてくれたことが嬉しかった。
玲奈は小さく息を吐き、二人へ手を振った。
「じゃあ、私、教室に戻るね。またあとで」
「ああ。またな」
「またね、一ノ瀬さん」
玲奈は笑顔で頷き、廊下へ出た。
歩きながら、胸の奥に残った感情を整理しようとした。
昨日、ひよりは真樹を大切な友達だと言った。
その言葉に安心した自分がいた。
けれど、今朝の真樹は、ひよりとの外出を楽しみにしているように見えた。
幼なじみとして長く一緒にいるからこそ、玲奈には分かることがある。
真樹は、誰かとの予定をあれほど自然に嬉しそうに話すことが、以前はあまりなかった。
(……ひよりちゃんといるときの真樹って、やっぱり少し違うのかな)
玲奈は足を止めずに歩き続けた。
それが恋愛感情なのかどうかは分からない。
真樹本人から聞いたわけでもない。
だから、今は決めつけないようにしようと思った。
それでも、胸の奥に残る小さな不安は、簡単には消えてくれなかった。
昼休み、青葉高校の教室では、ひよりと千夏、海斗が窓際の机を囲んでいた。
三人は弁当を食べ終えたあと、海斗が持ってきた文庫本について話していた。
窓から差し込む光は柔らかく、教室の中には暖房の温かさが広がっている。廊下からは部活動の連絡をする生徒の声が聞こえ、教室の後ろでは数人の男子がカードゲームの話をしていた。
「この場面なんだけどさ」
海斗は文庫本を開き、あるページを指差した。
「主人公が相手に何も言わずに帰るところ。俺、前はちょっと冷たいなって思ってたんだけど、今読むと違う気がするんだ」
ひよりは本を覗き込み、少し考えた。
「うん。私も最初はそう思った。でも、この前の場面で、主人公は相手を傷つけたくないって考えてるんだよね」
「そうなんだよ。だから、逃げたっていうより、どう言えばいいか分からなかったのかなって」
海斗は頷いた。
千夏は二人の話を聞きながら、少しだけ首を傾げた。
「でもさ、相手のために黙ってるつもりでも、何も言われないほうが傷つくこともあるんじゃない?」
ひよりはその言葉に目を向けた。
千夏は続けた。
「もちろん、言いたくないことを無理に話す必要はないと思うよ。でも、相手が何も知らないままだと、どうして急に距離を置かれたのか分からなくなることもあるよね」
海斗は少し考えたあと、頷いた。
「確かに。主人公の気持ちだけで考えてたけど、相手の立場だとそうなるか」
ひよりは二人の意見を聞きながら、ノートを開いた。
昨日まで書いていた感想の横へ、新しい考えを付け加える。
「……何だか、現代文の課題が終わっても、また三人で考えてるね」
ひよりが笑うと、千夏も笑った。
「本当だね。でも、こういうの結構楽しいかも」
海斗は二人の笑顔を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
共同課題が終わったとき、もう三人で話す機会は減ってしまうかもしれないと思っていた。
けれど、こうして自然に集まっている。
そのことが嬉しかった。
「……俺も楽しいよ」
海斗は少し照れたように笑った。
ひよりはその言葉に嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、また面白い本があったら話そうね」
「うん。ぜひ」
海斗はそう答えながら、ひよりの横顔へ目を向けた。
ひよりはノートへ文字を書き込みながら、時折千夏の意見に頷いている。
その姿を見ていると、もっと話してみたいと思う。
どんな本が好きなのか。
休日は何をして過ごしているのか。
学校以外では、どんな表情を見せるのか。
そんなことが、少しずつ気になり始めていた。
(……俺、天野さんのこと、もっと知りたいんだな)
海斗はその気持ちに気づき、少しだけ驚いた。
ただ、今すぐ何かを伝えたいわけではない。
まずは、こうして話せる時間を大切にしたかった。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴り、三人はそれぞれの席へ戻る準備を始めた。
ひよりはノートを閉じ、海斗へ笑顔を向けた。
「橘君、今日もありがとう。すごく面白かったよ」
「こちらこそ。藤崎さんの意見も参考になった」
海斗が答えると、千夏は笑顔で手を振った。
「また三人で話そうね」
海斗は頷き、自分の席へ戻っていった。
千夏はその背中を見送りながら、少しだけ考えた。
海斗のひよりを見る目は、以前より柔らかくなっている。
けれど、ひよりはまだ気づいていない。
そして、海斗自身も、自分の気持ちをはっきり理解しているわけではなさそうだった。
千夏はひよりへ視線を戻した。
ひよりは楽しそうにノートをしまっている。
その表情を見て、千夏は何も言わずに微笑んだ。
放課後、ひよりは千夏と一緒に昇降口へ向かっていた。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、窓の外では校庭を走る運動部の姿が見える。
「ひより、今日はまっすぐ帰る?」
「うん。今日は宿題を終わらせて、少し本を読みたいなって思ってる」
「いいね。昨日は玲奈ちゃんとお茶だったし、今日はゆっくりできそうだね」
千夏が笑うと、ひよりも頷いた。
「うん。そういえば、千夏」
「ん?」
「今日の昼休み、橘君と話してて思ったんだけど、同じ本を読んでも感じ方って全然違うんだね」
千夏は少し笑った。
「そうだね。だから面白いんじゃない?」
「うん。私、今まで一人で読んで満足することが多かったけど、誰かと感想を話すのも楽しいなって思った」
ひよりはそう言いながら、鞄の持ち手を握り直した。
千夏はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
ひよりの世界が広がっている。
真樹やノアとの出会い。
玲奈との友情。
海斗との本の話。
どれも、ひよりが自分から少しずつ踏み出したことで生まれた関係だった。
「……ひより、最近楽しそうだね」
千夏が言うと、ひよりは少し驚いたように顔を上げた。
「そうかな?」
「うん。もちろん、まだいろいろ考えることはあると思うけど、前より笑うことが増えた気がする」
ひよりはその言葉を聞き、少しだけ黙った。
颯太に告白した日のことは、今でも覚えている。
あのときは、しばらく何も考えられなかった。
学校へ行くことさえ少し怖かった。
けれど、千夏がそばにいてくれた。
美月も話を聞いてくれた。
真樹とノアも、何も言わずに寄り添ってくれた。
そして、今は新しい友達もできている。
ひよりはゆっくり微笑んだ。
「……うん。私も、最近ちょっと楽しいことが増えたなって思う」
千夏は嬉しそうに頷いた。
「それならよかった」
二人は昇降口で靴を履き替え、校門へ向かって歩き始めた。
冬の夕方の空気は冷たかったが、ひよりの足取りは軽かった。
そのころ、桜陵学園では真樹が放課後の教室で帰り支度をしていた。
蓮は隣の席で鞄を閉じながら、真樹へ声を掛けた。
「北条、今日はもう帰る?」
「ああ。ノアの散歩もあるし」
「そっか。そういえば、天野さんとは最近、散歩してないの?」
真樹は少し考えた。
「学校帰りに会うことはあるけど、最近は予定が合わない日もあるからな」
「まあ、学校違うしね」
蓮は頷いた。
真樹は鞄を肩へ掛け、窓の外へ目を向けた。
校庭には夕方の光が差し込み、木々の影が長く伸びている。
ひよりと一緒に歩く時間は、真樹にとって大切なものになっていた。
けれど、毎日会わなければならないとは思っていない。
ひよりにはひよりの学校生活がある。
友達と過ごす時間も、家族と過ごす時間もある。
その中で、自分と会うことを楽しみにしてくれるなら、それだけで嬉しかった。
「……土曜日、天野が楽しんでくれるといいんだけどな」
真樹が何気なく言うと、蓮は少しだけ笑った。
「大丈夫じゃない? 天野さん、本が好きなんだろ?」
「ああ」
「だったら、好きな場所に案内してもらえるのは嬉しいと思うよ」
真樹はその言葉に、少しだけ表情を緩めた。
「……そうだといいな」
蓮は真樹の横顔を見ながら、静かに笑った。
真樹はひよりのことになると、本当に慎重になる。
けれど、その慎重さは、相手を大切に思っているからこそのものだ。
蓮はそれ以上からかわず、一緒に教室を出た。
夕方、ひよりは自宅の机へ向かい、宿題を終わらせていた。
窓の外は少しずつ暗くなり、部屋の照明が机の上を柔らかく照らしている。
数学の問題集を閉じると、ひよりは大きく伸びをした。
「ふう……終わった!」
ひよりは椅子の背へ体を預け、少しだけ息を吐いた。
今日は学校で海斗と本の話をした。
千夏とも、最近のことを話した。
そして、朝には真樹からメッセージが届いた。
何か特別な出来事があったわけではない。
けれど、何気ない会話が積み重なって、今日も楽しい一日になった。
ひよりは本棚へ目を向けた。
そこには、これまで読んできた小説が並んでいる。
恋愛小説、日常を描いた物語、少し不思議な出来事が起こる話。
どれも、自分にとって大切な本だった。
ひよりはその中から一冊を取り出し、表紙を眺めた。
海斗におすすめするなら、こういう本もいいかもしれない。
けれど、真樹にはどんな本を紹介しよう。
ひよりは少し考え、自然に笑みを浮かべた。
(……北条君、私の好きな本を読んだら、どんな感想を言うんだろう)
真樹は落ち着いていて、あまり大げさに感情を表へ出すタイプではない。
けれど、ノアと一緒にいるときには柔らかく笑うし、時々少し照れたような表情も見せる。
ひよりはそのことを思い出し、少しだけ頬を緩めた。
最初に出会ったころは、真樹がどんな人なのか分からなかった。
大きな黒犬を連れた、少し無口な男の子。
そんな印象だった。
けれど、今は違う。
真樹は優しくて、相手の気持ちを大切にしてくれる。
ノアのことを本当に可愛がっている。
本が好きで、静かな場所を好む。
そして、自分が落ち込んでいるときには、無理に励まそうとせず、そばにいてくれる。
ひよりは本を胸元へ抱え、少しだけ目を細めた。
(……まだ知らないこと、いっぱいあるんだろうな)
真樹の好きなもの。
苦手なもの。
学校での様子。
家族のこと。
これまで、あまり詳しく聞いたことがなかった。
ひよりはそのことに気づき、少しだけ考えた。
土曜日の書店への外出では、本の話だけではなく、真樹自身のことも少し聞いてみたい。
もちろん、無理に何でも聞こうとは思わない。
ただ、今までより少しだけ、相手のことを知れたら嬉しい。
ひよりは本を机へ置き、スマートフォンを手に取った。
真樹へメッセージを送ろうか迷ったが、今はノアの散歩中かもしれない。
そう考え、少しだけ待つことにした。
そのころ、真樹はいつもの公園でノアと歩いていた。
冬の夕方の公園には、散歩をする人や、帰宅途中の学生たちの姿がまばらに見える。
木々の葉はほとんど落ち、遊歩道には乾いた落ち葉が残っていた。
ノアは鼻先を地面へ近づけ、何かの匂いを確かめるように歩いている。
「ノア、そっちは行かないぞ」
真樹が声を掛けると、ノアは顔を上げた。
そして、少しだけ不満そうな顔をしたあと、素直に真樹の隣へ戻ってきた。
真樹はその様子に笑った。
「お前、本当に分かりやすいな」
ノアは尻尾を揺らしながら、真樹を見上げた。
真樹は歩く速度を緩め、ノアの頭を軽く撫でた。
この公園で、ひよりと何度も会ってきた。
最初は、ノアがひよりへ近づいたことがきっかけだった。
ひよりは驚いていたけれど、少しずつノアに慣れ、今では嬉しそうに撫でてくれる。
真樹はその姿を思い出し、自然に微笑んだ。
(……天野、ノアに会いたいって言ってたな)
今度、予定が合う日にまた一緒に散歩できたらいい。
そう考えながら歩いていると、ノアが突然立ち止まった。
視線の先には、風に舞う一枚の落ち葉があった。
ノアはそれを追いかけようと、前足を少し浮かせた。
「おい、ノア」
真樹が声を掛けると、ノアはぴたりと動きを止めた。
けれど、目だけは落ち葉を追っている。
真樹は思わず笑った。
「……お前、昨日もそれやってただろ」
ノアは何も答えず、尻尾を揺らした。
真樹はその様子を見ながら、スマートフォンを取り出した。
ひよりへ写真を送ろうと思ったのだ。
ノアが落ち葉を見つめている姿を撮影し、短いメッセージを添える。
『今日も落ち葉が気になるらしい』
送信すると、真樹はスマートフォンをしまい、ノアと歩き始めた。
しばらくして、ポケットの中で通知が震えた。
ひよりからの返事だった。
『ふふ、可愛い! ノア、真剣な顔してるね』
『今度会ったら、落ち葉より私のほうを見てくれるかな?』
真樹は思わず笑った。
『たぶん大丈夫。天野が来たら、落ち葉どころじゃなくなると思う』
すぐに返事が届いた。
『それなら嬉しいな! ノアに会うのも楽しみにしてるね』
真樹は画面を見つめ、少しだけ表情を緩めた。
ひよりがノアに会いたいと思ってくれている。
そして、自分との書店への外出も楽しみにしてくれている。
そのことが、素直に嬉しかった。
真樹はスマートフォンをしまい、ノアへ顔を向けた。
「……お前、本当に天野のこと好きだよな」
ノアは真樹を見上げ、嬉しそうに尻尾を振った。
真樹は小さく笑った。
「お前は誰の味方だよ」
そう言いながらも、その声には不満などなかった。
ノアがひよりを好きでいてくれることは、真樹にとっても嬉しいことだった。
夜、玲奈は自室の机で手帳を開いていた。
今日、真樹と話したことを思い返す。
土曜日の書店への外出。
そして、自分との喫茶店の約束。
真樹は予定を確認すると言ってくれた。
それが嬉しかった。
けれど、ひよりとの外出を楽しみにしている様子も、忘れられなかった。
玲奈は手帳の端へ小さく印を付けた。
再来週以降。
まだ具体的な日程は決まっていない。
それでも、真樹と二人で出かけられるかもしれない。
その可能性を大切にしたかった。
玲奈はスマートフォンを取り出し、昨日ひよりと撮った写真を開いた。
そこには、楽しそうに笑う二人の姿がある。
玲奈はその写真を見つめながら、少しだけ目を細めた。
ひよりと過ごした時間は、本当に楽しかった。
学校も違うし、知り合ってからまだそれほど長くない。
それでも、もっと仲よくなりたいと思っている。
その気持ちは変わらなかった。
けれど、真樹への想いも変わらない。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、静かに息を吐いた。
(……ひよりちゃんは、真樹を大切な友達だって言ってた。でも、真樹はどう思ってるんだろう)
その答えを、玲奈はまだ知らない。
真樹がひよりをどう見ているのか。
自分のことをどう思っているのか。
幼なじみとして長く一緒にいても、分からないことはたくさんある。
玲奈はそのことを、少しだけ寂しく感じた。
けれど、今すぐ答えを求めるつもりはなかった。
真樹と喫茶店へ行く約束がある。
ひよりとも、また会いたいと思っている。
その二つの関係を、どちらも大切にしたかった。
玲奈は手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
冬の夜空には、薄い雲がゆっくり流れている。
誰かを好きになると、今まで当たり前だと思っていた関係が、少しずつ違って見えてくる。
玲奈はその変化を感じながらも、まだ自分の気持ちを言葉にする勇気を持てずにいた。
同じ夜、ひよりはベッドの上で本を開いていた。
ページをめくりながら、今日の出来事を思い返す。
千夏と話したこと。
海斗と本の感想を語り合ったこと。
玲奈と撮った写真を見返したこと。
そして、真樹から届いたノアの写真。
ひよりは本を閉じ、スマートフォンを手に取った。
画面には、落ち葉を見つめるノアの写真が残っている。
ひよりはその姿に微笑み、写真をもう一度眺めた。
黒い毛並み。
大きな体。
優しい目。
初めて会ったときは、あんなに驚いたのに。
今では、ノアの写真を見るだけで自然に笑顔になれる。
ひよりはスマートフォンを置き、枕へ頭を預けた。
(……ノアがいなかったら、北条君とも玲奈ちゃんとも知り合ってなかったんだよね)
そう考えると、不思議な気持ちになった。
黒い犬が目の前に現れたこと。
最初は驚いて、少し怖かったこと。
けれど、その出会いが、今の自分の日常へつながっている。
ひよりは静かに微笑んだ。
まだ知らないことは、たくさんある。
真樹のことも。
玲奈のことも。
海斗のことも。
そして、自分自身の気持ちについても。
けれど、急いで答えを出さなくてもいいのかもしれない。
少しずつ話して、少しずつ知っていく。
その時間を、大切にしていきたい。
ひよりはそう考えながら、スマートフォンの画面を消した。
土曜日には、真樹と書店へ行く。
その日が来るのを楽しみにしながら、ひよりはゆっくり目を閉じた。
冬の夜は静かに深まり、窓の外では冷たい風が木々を揺らしていた。
それぞれがまだ知らない気持ちを胸に抱えながら、水曜日の一日は終わっていった。




