第49話 聞きたいことほど、優しく聞けない
火曜日の朝、天野ひよりは制服の襟元を整えながら、机の上に置いたスマートフォンを確認した。
画面には昨夜、一ノ瀬玲奈と交わしたメッセージが残っている。今日の放課後、二人でお茶をする約束についてのやり取りだった。
店は玲奈が選んでくれている。駅から歩いて行ける喫茶店で、写真を見る限り、落ち着いた雰囲気の店らしい。
待ち合わせの詳しい時間は、授業が終わってから連絡を取り合って決めることになっていた。
(玲奈ちゃんと二人で会うの、初めてなんだよね。何を話そうかな)
ひよりはスマートフォンを鞄へしまい、鏡の前で髪を軽く整えた。
玲奈とは、黒犬のノアを通じて知り合った。
最初は真樹の幼なじみという印象が強かったが、実際に話してみると明るくて気遣いのできる女の子だった。ノアの子犬時代の話をしてくれたときも、ひよりが知らないことを楽しそうに教えてくれた。
今日も、そんな話ができたら嬉しい。
ひよりはそう考えながら部屋を出た。
階段を下りると、台所から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。母の由美が朝食を用意しており、食卓では父の浩介が新聞を読んでいる。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、ひより。今日は少し早いわね」
「うん。今日は放課後に友達とお茶するから、朝のうちに忘れ物がないか確認しておこうと思って」
由美はパンを皿へ載せながら、穏やかに微笑んだ。
「この前言っていた、別の学校のお友達?」
「そう。玲奈ちゃんっていう子。北条君の幼なじみなんだよ」
ひよりが答えると、由美は少しだけ目を細めた。
「そうなの。ノアちゃんを通じて、お友達が増えたのね」
「うん。最初は大きな犬にびっくりしたけど、今はノアのおかげでいろんな人と知り合えた気がする」
ひよりは笑いながら席に着いた。
そのとき、リビングから兄の悠一が顔を出した。
「ひより、今日は帰り遅いのか?」
「そんなに遅くならないと思うよ。友達とお茶するだけだから」
「ならいいけど。帰るときは連絡しろよ」
「分かってるってば」
ひよりが苦笑すると、由美も小さく笑った。
悠一は相変わらず心配性だったが、以前ほど細かく予定を尋ねてくることはなくなった。
ひよりは朝食を食べながら、今日の授業予定を確認した。
午後の最後は英語だったはずだ。授業が終われば、帰り支度をして玲奈へ連絡する。
そう考えると、普段の火曜日が少しだけ特別に感じられた。
家を出るころには、朝の空気がいっそう冷たくなっていた。
ひよりはマフラーを巻き直し、通学路を歩き始めた。
青葉高校へ向かう道には、同じ制服を着た生徒たちの姿が増えている。友達同士で話しながら歩く人もいれば、眠そうに欠伸をしている人もいた。
ひよりはその中を歩きながら、ふと昨日のことを思い出した。
橘海斗から、おすすめの本を教えてほしいと頼まれた。
どんな本を紹介しようかと考えているうちに、昨夜は自分の本棚をしばらく眺めてしまった。
読んだあとに少し考えたくなるような話。
海斗はそう言っていた。
(難しすぎないけど、登場人物の気持ちを考えられるお話がいいかな)
ひよりは候補をいくつか思い浮かべながら、校門をくぐった。
教室へ入ると、千夏がすでに登校していた。
「ひより、おはよう!」
「千夏、おはよう!」
ひよりが席へ向かうと、千夏は嬉しそうに笑った。
「今日は玲奈ちゃんとお茶する日だね」
「うん。ちょっと楽しみなんだ」
「いいねえ。別の学校の友達と放課後に会うって、なんか新鮮じゃない?」
「そうかも。普段は学校で会えないから、こういう約束って少し特別な感じがするね」
ひよりは鞄を机の横へ掛け、椅子に座った。
千夏はその様子を見ながら、少しだけ考えた。
玲奈は真樹の幼なじみだ。
ひよりは二人の関係を自然に受け止めているが、玲奈が真樹をどう思っているのかは、千夏にも分からない。
ただ、ひよりが新しい友達と仲良くなろうとしていることは、素直に嬉しかった。
「楽しんできてね。明日、どんなお店だったか教えて」
「うん! 写真とか撮れたら見せるね」
二人は笑い合い、朝の準備を始めた。
午前中の授業が終わり、昼休みになると、ひよりは千夏と一緒に弁当を広げた。
教室には昼食を取る生徒たちの声が広がり、窓際では数人の男子が週末の予定について話している。
ひよりは母が作ってくれた弁当の蓋を開け、嬉しそうに目を細めた。
「今日は唐揚げだ!」
「ひより、今日も嬉しそうだね」
千夏が笑うと、ひよりも笑った。
「だって、お母さんの唐揚げ美味しいんだもん」
そんな何気ない会話をしていると、教室の後ろから海斗が近づいてきた。
「天野さん、藤崎さん。今、少しいい?」
ひよりは顔を上げた。
「橘君、どうしたの?」
海斗は手に持っていた一冊の文庫本を見せた。
「昨日話してた本のことなんだけど、家にあったのを少し読み返してみたんだ。これ、前に読んだときはあんまり分からなかったんだけど、今なら面白いかもしれないと思って」
ひよりは表紙を見て、少し驚いた。
「あ、その本! 私も読んだことあるよ」
「本当?」
「うん。最後のほう、ちょっと切なくなるよね。でも、読み終わったあとに考えさせられるところがあって、私は好きだったな」
海斗は嬉しそうに笑った。
「そうそう。俺もそこが気になってたんだ」
千夏は二人の会話を聞きながら、少しだけ微笑んだ。
現代文の共同課題が終わってからも、海斗はひよりと本の話を続けている。
それは自然なことだ。
けれど、海斗がわざわざ本を持ってきたことに、千夏は少しだけ特別なものを感じていた。
「橘君、ひよりと本の話ができて楽しそうだね」
千夏が何気なく言うと、海斗は少しだけ照れたように笑った。
「まあ、うん。天野さん、いろいろ読んでるから話してて面白いし」
ひよりはその言葉に嬉しそうに頷いた。
「私も橘君と話すの楽しいよ。自分と違う感想を聞けると、新しい発見があるし」
海斗は一瞬言葉を止めた。
ひよりは何気なく言ったのだろう。
けれど、その言葉が思っていた以上に嬉しかった。
「……ありがとう」
海斗は小さく笑い、文庫本を持ち直した。
「じゃあ、また今度、感想聞かせて」
「うん!」
ひよりが笑顔で答えると、海斗は自分の席へ戻っていった。
千夏はその背中を見送りながら、少しだけ息を吐いた。
海斗の気持ちが、以前より分かりやすくなっている気がする。
けれど、ひよりはまだ気づいていない。
そして、ひより自身も、今は誰かの恋愛感情を考える余裕が十分にあるわけではない。
千夏は余計なことを言わず、弁当へ視線を戻した。
午後の授業が終わるころには、窓の外の光が少しずつ柔らかくなっていた。
ひよりは英語の教科書を鞄へしまい、千夏へ顔を向けた。
「じゃあ、今日は先に帰るね」
「うん。玲奈ちゃんとのお茶、楽しんできて!」
「ありがとう。千夏も気をつけて帰ってね」
ひよりは笑顔で手を振り、教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒や、友達と帰る準備をしている生徒たちが行き交っている。
ひよりは昇降口へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。
玲奈へ、授業が終わったことを伝える。
『玲奈ちゃん、授業終わったよ! 今から駅へ向かうね』
送信してしばらくすると、返事が届いた。
『ひよりちゃん、お疲れさま! 私も今終わったところだよ』
『じゃあ、駅の改札を出たところで待ち合わせにしようか』
『うん! 分かった。気をつけて来てね』
ひよりは返信し、スマートフォンを鞄へしまった。
駅へ向かう道を歩きながら、少しだけ緊張している自分に気づいた。
玲奈とは何度か会っている。
メッセージでも話している。
けれど、二人だけでゆっくり話すのは初めてだった。
(……何だか、ちょっと緊張するな。でも、楽しみ)
ひよりは小さく笑い、歩く速度を少しだけ上げた。
一方、桜陵学園では玲奈が帰り支度をしていた。
机の上には教科書とノートが重ねられ、窓の外には夕方の淡い光が広がっている。
玲奈はスマートフォンを確認し、ひよりから届いたメッセージを読み返した。
今日、ひよりと二人でお茶をする。
そのことを考えると、嬉しさと少しの緊張が入り混じった気持ちになった。
ひよりとはもっと仲良くなりたい。
それは本当だった。
けれど、真樹のことを考えると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
玲奈は鞄の持ち手を握り直し、深く息を吐いた。
(……今日は、ひよりちゃんと楽しく話そう)
そう自分へ言い聞かせた。
そのとき、教室の入口から沙耶が顔を出した。
「玲奈、もう帰る?」
「うん。今日は友達と約束があるから」
「あ、今日だったね。楽しんできて!」
沙耶は笑顔で言った。
玲奈も笑顔で頷いた。
「ありがとう。沙耶も気をつけて帰ってね」
「うん。また明日!」
玲奈は手を振り、教室を出た。
廊下を歩きながら、ふと真樹の姿を探してしまう。
今日はまだ、放課後に会っていない。
けれど、真樹には真樹の予定がある。
玲奈はそのことを分かっていた。
それでも、少しだけ会いたいと思ってしまう自分がいた。
昇降口へ向かう途中、玲奈は偶然、階段の近くで真樹と蓮が話している姿を見つけた。
真樹は蓮の話を聞きながら、穏やかに笑っている。
玲奈は一瞬足を止めたが、すぐに声を掛けた。
「真樹」
真樹が顔を上げた。
「一ノ瀬。今帰りか?」
「うん。今日は友達と約束があるから」
「そうか。気をつけてな」
真樹は自然に答えた。
玲奈は少しだけ笑った。
「ありがとう。真樹もね」
蓮は二人のやり取りを見ながら、軽く手を上げた。
「じゃあ、一ノ瀬さん。また明日」
「うん。また明日、蓮君」
玲奈は笑顔で挨拶し、その場を離れた。
歩きながら、胸の奥に小さな寂しさが残った。
真樹は、自分が誰と会うのか尋ねなかった。
それは当然のことだ。
友達との約束について、いちいち詳しく聞く必要はない。
けれど、玲奈は少しだけ期待していた。
誰と会うのか、どこへ行くのか。
そんなことを尋ねてもらえたら、嬉しかったのかもしれない。
(……私、何を期待してるんだろう)
玲奈は小さく息を吐き、校門へ向かって歩き続けた。
駅の改札を出たところで、ひよりは周囲を見渡していた。
夕方の駅前には学校帰りの生徒や買い物帰りの人が行き交い、改札からは電車の到着を知らせる音が聞こえてくる。
ひよりは少し早く着いたため、邪魔にならない場所へ移動し、玲奈を待つことにした。
しばらくして、人の流れの向こうから玲奈の姿が見えた。
「ひよりちゃん!」
玲奈が笑顔で手を振った。
ひよりも嬉しそうに手を振り返した。
「玲奈ちゃん! お疲れさま!」
「ごめんね、待った?」
「ううん。私も今来たところだよ」
ひよりは笑顔で答えた。
玲奈はその表情を見て、少しだけ安心した。
今日、ひよりと二人で会うことに緊張していたのは、自分だけではないかもしれない。
「じゃあ、お店へ行こうか。ここから歩いて五分くらいなの」
「うん! 楽しみ!」
二人は並んで駅前の通りを歩き始めた。
道沿いには小さな店が並び、夕方の柔らかな光がショーウィンドウへ反射している。
玲奈は歩きながら、ひよりへ学校のことを尋ねた。
「ひよりちゃん、今日は授業どうだった?」
「今日は英語がちょっと難しかったかな。でも、先生の説明が分かりやすかったから、何とかついていけたよ」
「分かる。私も英語、長文になると時間がかかっちゃうんだよね」
「そうなの? 玲奈ちゃん、勉強得意そうなのに」
ひよりが驚くと、玲奈は少し照れたように笑った。
「そんなことないよ。得意な科目と苦手な科目があるし、テスト前は結構大変なんだから」
二人は笑い合いながら歩いた。
学校が違っても、授業やテストの悩みは似ている。
そんな共通点が見つかるたび、ひよりは玲奈との距離が少し近づくように感じた。
やがて、二人は小さな喫茶店の前へ到着した。
木製の扉の横には、手書きのメニューが置かれている。窓際には小さな観葉植物が並び、店内からは温かな照明の光が漏れていた。
「ここだよ」
玲奈が言うと、ひよりは嬉しそうに目を輝かせた。
「わあ、可愛いお店だね!」
「よかった。ひよりちゃん、こういう雰囲気好きかなって思って」
「うん、すごく好き!」
ひよりの言葉に、玲奈は安心したように微笑んだ。
二人は扉を開け、店内へ入った。
中にはコーヒーの香りが漂い、静かな音楽が流れていた。
窓際の二人掛けの席へ案内されると、ひよりはコートを脱ぎ、椅子へ掛けた。
玲奈も向かいの席へ座り、メニューを開いた。
「ひよりちゃん、何にする?」
「うーん……。ホットココアも美味しそうだし、ミルクティーも気になるな」
「ここのミルクティー、評判いいみたいだよ」
「じゃあ、それにしようかな」
ひよりが笑顔で答えると、玲奈も頷いた。
「私も同じのにしようかな。あと、ケーキも美味しそうだよね」
「本当だ! この苺のケーキ、すごく可愛い」
二人はメニューを見ながら相談し、温かいミルクティーと小さなケーキを注文した。
注文を終えると、玲奈は少しだけ姿勢を正した。
何から話そうかと考えていたが、ひよりのほうから笑顔で口を開いた。
「玲奈ちゃん、今日は誘ってくれてありがとう」
「えっ?」
「こうして二人でゆっくり話せるの、嬉しいなって思って」
ひよりは少し照れたように笑った。
玲奈はその表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……私も嬉しいよ。ひよりちゃんともっと仲良くなりたかったから」
「本当? よかった!」
ひよりは嬉しそうに笑った。
玲奈も自然に笑顔になった。
その瞬間、真樹のことを考えていた緊張が少しだけ薄れた。
ひよりと話すのは楽しい。
それは、やはり本当だった。
飲み物が届くまでの間、二人は学校のことや休日の過ごし方について話した。
ひよりは日曜日に千夏と文房具を買いに行ったことを話し、玲奈は沙耶とよく学校帰りに寄り道することを教えた。
「ひよりちゃん、文房具好きなんだね」
「うん。可愛いノートとか付箋を見ると、つい欲しくなっちゃうんだ」
「分かる! 私も手帳とか好き。予定を書き込むの、結構楽しいよね」
「そうそう。予定が増えると、ちょっと嬉しくなるんだよね」
二人は笑い合った。
玲奈はひよりの話を聞きながら、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
ひよりは相手の話を丁寧に聞いてくれる。
自分の話をするときも、押しつけがましくならず、自然に会話を広げてくれる。
だから、話していて心地よかった。
やがて、ミルクティーとケーキが運ばれてきた。
ひよりは目を輝かせた。
「わあ、可愛い!」
白い皿の上には、小さな苺のケーキが丁寧に盛りつけられている。
玲奈も嬉しそうに笑った。
「写真撮ってもいいかな?」
「うん! 私も撮りたい」
二人はスマートフォンを取り出し、ケーキと飲み物を撮影した。
そのあと、ひよりが少しだけ照れたように尋ねた。
「玲奈ちゃん、よかったら一緒に写真撮らない?」
玲奈は驚いたように顔を上げた。
「私と?」
「うん。せっかく二人で来たから、記念に撮れたら嬉しいなって」
ひよりは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
玲奈はその表情を見て、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……うん。撮ろう!」
二人は椅子を少し寄せ、スマートフォンの画面へ顔を向けた。
ひよりが笑顔を作ると、玲奈も自然に笑った。
撮影した写真には、二人が並んで笑っている姿が写っていた。
玲奈はその写真を見つめ、少しだけ目を細めた。
(……ひよりちゃんと友達になれて、よかったな)
その気持ちは、嘘ではなかった。
玲奈は写真をひよりへ送ると、スマートフォンを机へ置いた。
二人はケーキを食べながら、さらに話を続けた。
ひよりが最近読んでいる本の話をすると、玲奈は興味深そうに耳を傾けた。
「ひよりちゃん、本当に本が好きなんだね」
「うん。小さいころから読むのが好きだったんだ」
「どんな本が一番好き?」
「うーん……。恋愛ものも好きだし、日常の中で少しずつ人が変わっていくお話も好きかな」
ひよりは少し考えながら答えた。
玲奈はその言葉に微笑んだ。
「ひよりちゃんらしいね」
「そうかな?」
「うん。人の気持ちを大切にしてる感じがする」
ひよりは少し照れたように笑った。
「そんなことないよ。でも、登場人物が何を考えてるのか想像するのは好きかも」
玲奈はミルクティーを一口飲んだ。
温かい甘さが喉を通り、少しだけ気持ちが落ち着いた。
そのとき、ふと真樹のことが頭をよぎった。
真樹も本が好きだ。
ひよりと真樹が書店へ行く約束をしたのは、きっとこういう共通点があるからなのだろう。
玲奈はカップを置き、少しだけ迷った。
聞いてみたい。
ひよりが真樹をどう思っているのか。
けれど、直接尋ねる勇気はなかった。
玲奈は少しだけ言葉を選んだ。
「……そういえば、ひよりちゃん」
「ん?」
「真樹と、来週の土曜日に本屋さんへ行くんだよね?」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん! 北条君がよく行く本屋さんに案内してくれるんだ」
玲奈はその笑顔を見て、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
ひよりは本当に楽しみにしている。
それが分かるからこそ、少しだけ複雑だった。
「そっか。真樹、あのお店好きだもんね」
「玲奈ちゃんも知ってるの?」
「うん。昔から何度か行ったことあるよ。静かで、落ち着いたお店なんだ」
玲奈は笑顔で答えた。
ひよりは興味深そうに身を乗り出した。
「そうなんだ! 北条君も、静かでゆっくり本を選べるところが好きだって言ってた」
「うん。真樹らしいよね」
玲奈は小さく笑った。
けれど、その笑顔の奥には、少しだけ寂しさが残っていた。
自分が昔から知っている場所へ、真樹がひよりを案内する。
そのことが、やはり気になってしまう。
玲奈はカップの取っ手へ指を添え、少しだけ視線を落とした。
(……私、どうしてこんなに気にしてるんだろう)
答えは分かっている。
真樹が好きだからだ。
けれど、その気持ちをひよりへ伝えることは、まだできなかった。
玲奈は少しだけ顔を上げた。
「ひよりちゃんって、真樹と一緒にいるとき、楽しい?」
ひよりは目を瞬かせた。
「えっ?」
玲奈は慌てて笑った。
「あ、ごめんね。変な意味じゃなくて。真樹って、あんまり自分からたくさん話すタイプじゃないでしょ?」
ひよりは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。
「うん。でも、すごく楽しいよ」
玲奈はその答えを聞き、静かに息を吸った。
ひよりは続けた。
「北条君って、私が話してるとちゃんと聞いてくれるし、無理に話題を作らなくても一緒にいられるんだ」
「……そうなんだ」
「それに、ノアと一緒に歩いてるときも、すごく落ち着くの。最初はあんなに大きな犬にびっくりしたのに、今は会えると嬉しくなるんだよね」
ひよりは笑った。
玲奈も小さく笑った。
「ノア、ひよりちゃんのこと好きだもんね」
「本当? 嬉しいな」
ひよりは素直に喜んだ。
玲奈はその様子を見つめた。
ひよりは真樹と一緒にいる時間を楽しんでいる。
けれど、それが恋愛感情なのかどうかは分からない。
玲奈は少しだけ迷い、さらに尋ねた。
「……ひよりちゃんにとって、真樹ってどんな人?」
ひよりはカップを持ち上げかけた手を止めた。
「北条君?」
「うん。ほら、学校も違うし、最初はノアがきっかけだったでしょ? 今はすごく仲よさそうだから、ちょっと気になって」
玲奈はできるだけ自然に言った。
けれど、胸の奥では心臓が少し早く打っていた。
ひよりはしばらく考えた。
真樹は、自分が落ち込んでいたときにそばにいてくれた。
無理に励まそうとせず、泣きたいときには泣かせてくれた。
ノアと一緒に歩いている時間も、何気ないメッセージのやり取りも、今では大切なものになっている。
ひよりはゆっくり口を開いた。
「……大切な友達、かな」
玲奈は静かに息を止めた。
ひよりは少し照れたように笑った。
「すごく大切な友達。北条君と知り合えてよかったなって、最近よく思うんだ」
玲奈はその言葉を聞き、胸の奥に複雑な感情が広がるのを感じた。
友達。
ひよりは、真樹をそう呼んだ。
その答えに、少しだけ安心した自分がいた。
けれど、同時に別の気持ちも生まれた。
ひよりにとって、真樹はすでに大切な存在なのだ。
恋愛感情ではないとしても、簡単に離れられる相手ではない。
玲奈はカップを持ち上げ、ミルクティーを一口飲んだ。
温かいはずの飲み物が、なぜか少しだけ喉を通りにくく感じた。
「……そっか。真樹、いい友達ができたんだね」
玲奈は笑顔で言った。
ひよりも嬉しそうに頷いた。
「うん。玲奈ちゃんとも仲よくなれて嬉しいし、ノアには本当に感謝しなきゃ」
玲奈はその言葉に、少しだけ目を細めた。
ひよりは何も知らない。
自分が真樹を好きだということも、今この瞬間、どんな気持ちで話を聞いているのかも。
けれど、それはひよりのせいではなかった。
玲奈は静かに息を吐き、笑顔を整えた。
「……そうだね。ノアって、本当に不思議な子だよね」
「うん。大きくて黒くて、最初はちょっと怖かったけど、今はすごく可愛い」
二人はノアの話で笑い合った。
玲奈はその時間を楽しみながらも、胸の奥に残った小さな痛みを意識していた。
友達だから聞けることがある。
けれど、聞いてしまったからこそ、簡単には忘れられないこともある。
玲奈はそのことを、初めてはっきり感じていた。
喫茶店を出たころには、外はすっかり夕方の色に染まっていた。
駅前の通りには街灯が灯り始め、店先の照明が歩道を柔らかく照らしている。
ひよりはコートの襟元を整えながら、玲奈へ笑顔を向けた。
「今日は本当にありがとう、玲奈ちゃん。すごく楽しかった!」
玲奈も笑顔で頷いた。
「私も楽しかったよ。ひよりちゃんといろいろ話せて嬉しかった」
「また一緒にお茶しようね」
「うん。ぜひ!」
二人は駅前まで並んで歩いた。
途中、ひよりは今日撮った写真を見返し、嬉しそうに笑った。
「この写真、すごくいいね。玲奈ちゃん、笑顔可愛い」
玲奈は少し照れたように笑った。
「ひよりちゃんこそ。すごく楽しそうに写ってる」
「だって、本当に楽しかったんだもん」
ひよりは何気なく言った。
玲奈はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
ひよりと友達になりたい。
その気持ちは、今日一緒に過ごしたことで、さらに強くなっていた。
けれど、真樹への想いも消えていない。
むしろ、ひよりが真樹を大切な友達だと言ったことで、自分の気持ちをどう扱えばいいのか、ますます分からなくなっていた。
駅の改札前で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、玲奈ちゃん。またね」
「うん。ひよりちゃんも気をつけて帰ってね」
ひよりは笑顔で手を振り、改札へ向かった。
玲奈はその背中を見送りながら、しばらくその場に立っていた。
ひよりは優しい。
今日も、何度も笑ってくれた。
自分の話を丁寧に聞き、楽しい時間を過ごしてくれた。
そんなひよりを、玲奈は嫌いになれなかった。
むしろ、もっと仲よくなりたいと思っている。
それなのに、真樹のことを考えると、胸の奥が苦しくなる。
(……私、どうしたらいいんだろう)
玲奈は小さく息を吐き、スマートフォンを取り出した。
画面には、真樹とのメッセージが残っている。
喫茶店へ行く約束。
まだ日程は決まっていない。
玲奈はその画面を見つめ、少しだけ唇を結んだ。
ひよりは真樹を大切な友達だと言った。
ならば、自分にもまだ可能性はあるのかもしれない。
けれど、そんなふうに考えてしまう自分が、少しだけ嫌だった。
ひよりとの友情を大切にしたい。
真樹への気持ちも諦めたくない。
その二つを同時に抱えながら、玲奈はゆっくり歩き始めた。
同じころ、ひよりは電車の中で今日の写真を見返していた。
玲奈と並んで笑っている写真。
可愛らしいケーキ。
温かなミルクティー。
どれも楽しい思い出だった。
ひよりはスマートフォンを操作し、玲奈へメッセージを送った。
『玲奈ちゃん、今日はありがとう!』
『また一緒にお茶しようね。すごく楽しかったよ!』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『こちらこそありがとう! 私も楽しかったよ』
『また予定合わせようね』
ひよりは嬉しそうに微笑んだ。
新しい友達ができた。
それだけで、日常が少し広がったように感じる。
ひよりは窓の外へ目を向けた。
夕方の街並みが、ゆっくりと流れていく。
玲奈と話しているとき、真樹のことも話題になった。
玲奈は、真樹の昔のことをよく知っている。
自分が知らない真樹の姿を、たくさん知っているのだろう。
ひよりはそのことを、少しだけ羨ましく思った。
(……私も、北条君のこと、もっと知りたいな)
来週の土曜日には、一緒に書店へ行く。
そのとき、どんな本が好きなのか、どんな場所で過ごすのが好きなのか、もっと聞いてみたい。
ひよりはそう考えながら、スマートフォンを鞄へしまった。
その気持ちが、ただの友情なのか。
それとも、少しずつ別の形へ変わり始めているのか。
ひより自身には、まだ分からなかった。
ただ、真樹と過ごす時間を楽しみにしていることだけは、確かだった。
そして、玲奈と友達になれたことも、同じくらい嬉しかった。
ひよりは小さく微笑み、次の駅を知らせる車内放送へ耳を傾けた。
誰かを大切に思う気持ちは、必ずしも同じ形ではない。
けれど、その違いに気づくには、もう少し時間が必要だった。
火曜日の夜、玲奈は自室の机へ向かい、今日撮った写真を見つめていた。
ひよりと並んで笑っている写真。
そこに写っている自分は、本当に楽しそうだった。
玲奈はその写真を見ながら、少しだけ目を細めた。
ひよりと過ごした時間は楽しかった。
それは、間違いない。
けれど、真樹のことを尋ねたときのひよりの表情が、何度も頭に浮かんでしまう。
大切な友達。
ひよりは、そう言った。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、椅子の背へ体を預けた。
(……私も、真樹にとって大切な人でいたい)
幼なじみとしてではなく。
ただの友達としてでもなく。
もっと特別な存在になりたい。
その気持ちは、以前よりはっきりしていた。
玲奈は机の上の手帳を開いた。
まだ日程の決まっていない真樹との喫茶店の約束が、そこに残っている。
玲奈はその文字を指先でなぞり、静かに息を吐いた。
ひよりと友達でいたい。
真樹の隣にもいたい。
その二つの願いが、いつかぶつかることになるのかもしれない。
けれど、今はまだ、どちらも手放したくなかった。
玲奈は手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
冬の夜空には、薄い雲の向こうから月が見えている。
今日、ひよりと笑い合えたこと。
真樹への気持ちが、以前よりはっきりしたこと。
その両方を胸に抱えながら、玲奈は静かに明日を迎えようとしていた。




