第47話 友達のままでいたいのに、知らない顔が気になる
日曜日の朝、天野ひよりは台所から聞こえてくる食器の音で目を覚ました。
枕元の時計は八時を少し過ぎたところを指している。昨夜は読みかけの小説を最後まで読もうとして、普段より少し遅く眠ったはずなのに、目覚めは思っていたほど悪くなかった。
窓の外には薄い雲が広がり、隣家の屋根が朝の光を受けて白っぽく見えていた。ひよりは布団の中で一度だけ大きく伸びをすると、枕元のスマートフォンを手に取った。
画面には、昨夜届いていた千夏からのメッセージが残っている。
『明日、暇だったら駅前で少し買い物しない? 文房具も見たいし、ひよりとおしゃべりしたい!』
ひよりはその文章を読み返し、自然と口元を緩めた。
金曜日に現代文の共同課題が終わったばかりだったから、千夏も少し気が抜けたのかもしれない。発表の準備中は三人で資料を確認したり、昼休みに話し合ったりすることが多かったため、いつものように二人だけで過ごす時間は少なくなっていた。
(千夏とゆっくり買い物するのも久しぶりかも。私もちょうど新しいノートが欲しかったんだよね)
ひよりは起き上がり、今日の午後なら出かけられると返信した。
しばらくすると千夏から元気な返事が届き、午後一時半に駅前の文具店で待ち合わせることになった。
そのやり取りを終えたところで、ひよりはメッセージの一覧に並んでいる別の名前へ目を向けた。
北条真樹。
来週の土曜日、一緒に書店へ行く約束をしている相手だった。
日程は決まったものの、待ち合わせの時刻や場所については、まだ詳しく相談していない。真樹が普段から通っている小さな書店へ案内してくれることになっていて、ひよりはその日を楽しみにしていた。
(北条君、どんな本を選ぶんだろう。おすすめを聞いてみたいけど、私ばっかり質問するのも変かな)
そんなことを考えていると、階下から母の由美が呼ぶ声が聞こえた。
「ひより、起きてる? 朝ご飯できてるわよ」
「はーい! 今行く!」
ひよりは返事をしてベッドから下り、カーディガンを羽織って部屋を出た。
階段を下りる途中、焼いたパンの香りが漂ってくる。食卓では父の浩介が新聞を読み、母の由美が温かいスープを器によそっていた。
兄の悠一はすでに起きているらしく、リビングのソファでスマートフォンを見ている。美月はまだ姿を見せていなかった。
「おはよう」
「おはよう、ひより。今日はゆっくりね」
由美が笑顔で迎えてくれたので、ひよりも笑いながら席に着いた。
「今日は千夏と買い物に行くことになったの。午後から駅前に行ってくるね」
「千夏ちゃんと? いいわね。寒いから、暖かくして行きなさい」
「うん。文房具を見て、少しお茶するくらいだと思う」
その会話を聞いていた悠一が、ソファから顔を上げた。
「ひより、駅前に行くなら、帰りが暗くなる前に連絡しろよ。最近は日が落ちるのが早いから」
「分かってるよ、お兄ちゃん。そんなに遅くならないと思うし」
「ならいいけど。買い物の荷物が多くなったら迎えに行くからな」
悠一の言葉に、ひよりは苦笑した。
「文房具を買うだけで、そんなに荷物は増えないよ」
「それもそうか」
悠一は少し考えたあと、何事もなかったようにスマートフォンへ視線を戻した。
ひよりは母と顔を見合わせ、二人で小さく笑った。
兄が心配性なのは今に始まったことではない。けれど、最近は以前ほど細かく尋ねてこなくなった気がする。
その変化が少し嬉しかった。
朝食を食べながら、ひよりは今日の予定を頭の中で整理した。
午前中に残っている学校の課題を終わらせ、昼食を済ませてから駅前へ向かう。千夏と買い物をして、帰宅したら来週の予定を確認する。
火曜日には玲奈とのお茶があり、土曜日には真樹との書店への外出がある。
少し前までは、放課後や休日の予定を考えるとき、佐伯颯太に会えるかどうかを無意識に気にしていた。
今は、その時間の使い方が少しずつ変わってきている。
それでも、颯太を好きだった気持ちが消えたわけではない。
昨日、美月と話したことを思い出しながら、ひよりはスープを一口飲んだ。
(楽しい予定が増えたからって、あの気持ちを忘れなきゃいけないわけじゃないんだよね)
温かいスープが喉を通り、胸の奥までじんわりと温まっていく。
ひよりは窓の外へ目を向けた。
今日は、千夏とたくさん話せそうだった。
午前中、ひよりは自室の机へ向かい、数学の問題集を開いた。
金曜日に共同課題の発表が終わったおかげで、週末の宿題はそれほど多くない。ひよりは計算問題を順番に解きながら、途中で分からなくなった箇所に印をつけた。
少しして、スマートフォンが短く震えた。
画面に表示されていたのは、橘海斗からのメッセージだった。
『天野さん、おはよう。休みの日にごめん』
『現代文の発表で使った参考資料、先生から返してもらった分を整理してたんだけど、天野さんが気にしてた部分の続きが載ってたから、よかったら送ろうか?』
ひよりは思わず目を瞬かせた。
現代文の共同課題で扱った作品には、登場人物が本心を口にしない場面があった。ひよりはその理由を考えるのが難しく、海斗や千夏と何度も意見を交わしていた。
発表自体は終わっている。
それなのに、海斗はまだ資料を整理していたらしい。
(橘君、本当にまじめだなあ。あのときも、いろいろ調べてくれてたもんね)
ひよりは返信を打った。
『おはよう! 全然大丈夫だよ』
『そうなんだ! もしよかったら見せてほしいな。私もあの場面、まだ少し気になってたんだ』
ほどなくして、海斗から資料の写真が届いた。
文章の一部に付箋が貼られていて、海斗が気になった箇所には小さな印がついている。
『ここなんだけど、主人公が黙ってたのって、相手を嫌ってたからじゃなくて、言葉にしたあと関係が変わるのが怖かったからって読み方もできそうだなと思って』
ひよりはその文章を読み、しばらく考え込んだ。
作品の中で主人公は、大切な相手に伝えたいことがあるのに、最後までうまく言葉にできなかった。
発表では、相手を傷つけたくなかったからだと説明したけれど、海斗の考えも自然に思えた。
ひよりはノートの端へ、その解釈を書き留めた。
『なるほど……! 確かにそうかもしれないね』
『私、相手のことばかり考えてたけど、主人公自身も怖かったのかもしれない』
送信したあと、ひよりはしばらく画面を見つめた。
自分の気持ちを伝えたら、今までの関係が変わるかもしれない。
その怖さは、ひよりにも覚えがあった。
颯太へ告白する前、何度も考えたことだった。
好きだと伝えたい。
けれど、もし断られたら、今までのように話せなくなるかもしれない。
それでも、気持ちを伝えたかった。
結果として、今は少し距離を置いている。
後悔していないと言い切れるほど気持ちは整理できていないが、あのとき何も言わずにいたら、別の後悔が残っていたかもしれない。
ひよりはノートへ目を落とした。
(……言わないことにも、言うことにも、勇気がいるんだね)
そのとき、海斗から新しいメッセージが届いた。
『俺も発表のときはそこまで考えられなかったんだ』
『天野さんが人物の気持ちを丁寧に考えてたから、あとで読み直してみたくなった』
ひよりは少し驚いた。
自分の意見が、海斗の読み方にも影響していたらしい。
『そんなふうに言ってもらえると嬉しいな。橘君の資料があったから、私もいろいろ考えられたんだよ』
『三人で発表できてよかったね』
ひよりが送ると、海斗からも同じ気持ちだという返事が届いた。
そこで一度やり取りが途切れたため、ひよりはスマートフォンを置き、問題集へ戻った。
けれど、先ほどまでとは少し違う気持ちで鉛筆を動かしていた。
学校で話すだけだった同級生と、休日にも自然に会話ができるようになった。
それは、ひよりにとって素直に嬉しい変化だった。
そのころ、海斗は自宅の机でスマートフォンを見つめていた。
机の上には、現代文の資料と返却された発表用の原稿が広げられている。整理を始めたのは本当だったし、ひよりが気にしていた箇所を見つけたのも偶然だった。
ただ、その写真を送るまでには、思っていた以上に時間がかかった。
休みの日に連絡したら迷惑ではないだろうか。
発表は終わっているのに、わざわざ資料を送る必要があるのだろうか。
そんなことを考えながら文章を何度も書き直し、結局、普段どおりの言葉で送ることにした。
ひよりから返信が届いたとき、海斗は自分でも驚くほど安心した。
(……別に、変なことを送ったわけじゃないんだけどな)
海斗は椅子の背へ体を預けた。
金曜日の発表が終わったあと、ひよりは嬉しそうに笑っていた。
準備中には何度も難しい顔をしていたのに、発表を終えた瞬間、肩の力が抜けたように笑ったのだ。
その表情が、なぜか印象に残っている。
そして、もう一つ。
放課後、ひよりが誰かと話しているときに聞こえた「北条君」という名前も、妙に気になっていた。
親しい友達なのだろうか。
それとも、別の関係なのだろうか。
海斗はそこまで考え、机の上の資料へ視線を戻した。
ひよりには、学校以外にも友達がいる。
それは当然のことだ。
自分だって、学校の外に知り合いがいるし、休日に友人と出かけることもある。
それなのに、ひよりが楽しそうに口にした名前を覚えていることが、少し不思議だった。
海斗はスマートフォンを伏せ、資料をまとめ始めた。
月曜日になれば、また学校で会える。
共同課題は終わったけれど、同じクラスなのだから話す機会はあるはずだ。
今度は課題の話だけでなく、ひよりがどんな本を読むのか聞いてみよう。
そう考えたところで、海斗は自分が次の会話を楽しみにしていることに気づいた。
その理由をはっきり言葉にするには、まだ少し早かった。
昼食を済ませたひよりは、厚手のコートを羽織り、マフラーを巻いて家を出た。
玄関では悠一が靴を履いているところだった。
「お、ひよりも出かけるのか」
「うん。千夏と駅前で待ち合わせ」
「そうか。俺も少し買い物に行くところなんだ。途中まで一緒に行くか?」
ひよりは頷き、兄と並んで家を出た。
住宅街には冬の乾いた風が吹いていたが、空は朝より明るくなっている。道端の植え込みには小さな花が咲き、日当たりのよい場所では猫が丸くなっていた。
悠一はひよりの歩幅に合わせながら、最近の学校生活について尋ねてきた。
「この前、何か発表があるって言ってたよな。あれ、終わったのか?」
「うん、金曜日に終わったよ。千夏と橘君っていう同じクラスの男子と三人で発表したの」
「へえ。どうだった?」
「緊張したけど、うまくいったと思う。橘君が資料をいっぱい調べてくれて、千夏もまとめるのが上手だったから、すごく助かったんだ」
ひよりが楽しそうに話すと、悠一は少しだけ表情を緩めた。
「それはよかったな。ひよりも頑張ったんだろ?」
「うん。私も登場人物の気持ちを考える担当だったから、いろいろ調べたよ」
「じゃあ、三人で頑張った結果だな」
悠一はそう言い、ひよりの頭を軽く撫でようとした。
ひよりは慌てて一歩離れた。
「もう、お兄ちゃん! 外で頭撫でないでよ!」
「悪い悪い。つい昔の癖で」
悠一は笑いながら手を引っ込めた。
ひよりは少し頬を膨らませたものの、すぐに笑ってしまった。
兄は相変わらず心配性で、時々子ども扱いしてくる。
けれど、最近は自分の話を最後まで聞いてくれることが増えた。
駅へ向かう途中の交差点で、悠一は別の道へ曲がることになった。
「じゃあ、楽しんでこいよ。帰りは気をつけてな」
「うん。お兄ちゃんも買い物楽しんできてね」
ひよりが手を振ると、悠一も軽く手を上げて歩き出した。
その背中を見送ってから、ひよりは駅前へ向かった。
文具店の前には、すでに千夏が立っていた。
千夏はひよりの姿を見つけると、大きく手を振った。
「ひよりー! こっちこっち!」
「千夏、ごめん! 待った?」
「全然! 私も今来たところだよ。それより、今日はいっぱい見たいものがあるんだから、覚悟してね」
千夏は嬉しそうに笑い、ひよりの腕へ軽く触れた。
ひよりも笑いながら頷いた。
「私も新しいノートが欲しいんだ。あと、可愛い付箋があったら見たいな」
「いいね! じゃあ、まずは文房具から行こう!」
二人は並んで店内へ入った。
入口近くには季節限定の文具が並び、色とりどりのペンやノートが整然と陳列されている。休日の午後ということもあって店内は賑わっていたが、通路は十分に広く、ゆっくり商品を選ぶことができた。
千夏は新しいペンの試し書きコーナーで足を止め、ひよりに一本差し出した。
「これ、すごく書きやすいんだって。ひよりも試してみて」
「本当? ……あ、滑らかだね。色も可愛い」
「でしょ? 私、これの青にしようかな。ノートまとめるときに使いやすそう」
ひよりは試し書き用の紙へ小さく文字を書き、インクの色を確かめた。
隣では千夏が別の色を試している。
そんな何気ない時間が、ひよりには心地よかった。
学校では毎日のように顔を合わせているのに、休日に二人で買い物をするだけで、いつもとは少し違う話ができる。
千夏は新しいペンを二本選び、ひよりは薄い水色のノートと、小さな花の模様が入った付箋を購入した。
そのあと、二人は駅前の通りを歩き、温かい飲み物が飲める店へ入った。
窓際の席へ案内されると、ひよりはコートを脱いで椅子へ掛けた。
千夏はメニューを開きながら、嬉しそうに息を吐いた。
「はあ、やっぱり休日っていいね。課題のこと考えなくていいだけで幸せ」
「ふふ。金曜日まではずっと発表のこと考えてたもんね」
「そうそう。橘君も頑張ってくれたし、ひよりもすごくよかったよ。先生が頷いてくれたとき、私、心の中で拍手してたもん」
千夏の言葉に、ひよりは少し照れた。
「私も緊張してたよ。でも、二人が一緒だったから安心できた」
「それは私も同じ。あ、そういえば橘君、昨日も資料のこと気にしてたみたいだったね」
ひよりは顔を上げた。
「うん。今日もメッセージが来たよ。発表で使った資料の続きを見つけたって」
千夏はメニューを閉じかけた手を止めた。
「……今日?」
「うん。朝、宿題してたときに送ってくれたの。あの主人公が黙ってた理由について、別の読み方もできるんじゃないかって」
ひよりは楽しそうに説明した。
千夏はその話を聞きながら、少しだけ目を細めた。
海斗がまじめなのは知っている。
共同課題の準備中も、資料を丁寧に調べ、ひよりの意見をきちんと聞いていた。
けれど、発表が終わったあと、わざわざ休日にひよりへ連絡するほど気にしていたのだろうか。
千夏はそんなことを考えたが、ひよりの表情を見て、すぐに言葉にはしなかった。
ひよりは純粋に資料の内容を楽しんでいる。
今ここで余計なことを言えば、せっかくの自然な関係を意識させてしまうかもしれない。
「橘君、ほんとにまじめだね。でも、ひよりもあの作品のこと気にしてたもんね」
「うん。発表が終わっても、ちょっと考えちゃうんだよね」
「ひよりらしいなあ」
千夏は笑いながら、注文する飲み物を決めた。
二人はホットミルクティーとココアを注文し、飲み物が届くまで学校の話を続けた。
しばらくして、千夏がふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、来週の土曜日って北条君と本屋さんに行くんだよね?」
「うん。金曜日に相談して、家に帰ってから予定を確認したんだ」
ひよりは頷いた。
「北条君がよく行く小さい本屋さんがあるんだって。そこへ連れていってもらうことになったの」
「へえ、いいじゃん。ひより、本屋さん好きだもんね」
「うん。北条君の好きな場所を知れるのも楽しみなんだ」
ひよりはそう言って笑った。
千夏はその表情を見つめた。
以前のひよりなら、休日に男子と二人で出かけると聞いただけで、もっと緊張していたかもしれない。
けれど、真樹との約束について話すひよりは、不思議なくらい自然だった。
それは、真樹を信頼しているからなのだろう。
千夏は温かいミルクティーを一口飲み、少し考えてから尋ねた。
「ひよりってさ、北条君と一緒にいるとき、緊張したりしないの?」
「えっ?」
ひよりは目を瞬かせた。
「緊張……?」
「うん。ほら、学校も違うし、最初はそんなに知り合いじゃなかったでしょ? なのに、最近はすごく仲よさそうだから」
千夏はあくまで自然な調子で続けた。
ひよりは少し考えた。
初めて真樹と話したころは、確かに緊張していた。
大きな黒犬が突然目の前に現れ、その飼い主として真樹と知り合った。
最初は何を話せばいいのか分からなかったし、違う学校の男子と親しくなること自体が珍しかった。
けれど、何度も顔を合わせるうちに、少しずつ話しやすくなった。
「最初は緊張してたよ。でも、北条君ってちゃんと話を聞いてくれるし、私が変なこと言っても笑わないから、安心できるんだ」
ひよりはカップを両手で包みながら続けた。
「それに、無理に話さなくても気まずくならないっていうか……。一緒に歩いてるとき、少し黙ってても平気なんだよね」
千夏は静かに頷いた。
ひよりの言葉は、ただの友達を褒める言葉にも聞こえる。
けれど、相手の隣で沈黙を気にせず過ごせるというのは、簡単なことではない。
千夏はそのことを知っていた。
「そっか。じゃあ、ひよりにとって北条君は、安心できる友達なんだね」
「うん。すごく大切な友達だと思う」
ひよりは迷わず答えた。
千夏は小さく微笑んだ。
その答えが、今のひよりにとって本当の気持ちなのだろう。
だからこそ、急がせたくなかった。
「いいと思うよ。そういう友達って、なかなかできないもん」
「うん。私もそう思う」
ひよりは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、千夏は少しだけ複雑な気持ちになった。
真樹がひよりを特別に思っているのではないかと、千夏は以前から感じている。
けれど、それは本人から直接聞いたわけではない。
そして、ひよりはまだ失恋したばかりだ。
今は誰かの気持ちを確かめることより、ひより自身が穏やかに過ごせることを大切にしたかった。
千夏は話題を変え、先ほど買ったペンの話を始めた。
ひよりも楽しそうに応じ、二人の会話は再び学校のことや休日の予定へ戻っていった。
店を出たころには、午後四時を少し過ぎていた。
駅前の通りには買い物帰りの人が増え、店先の照明が少しずつ目立ち始めている。冬の空はまだ明るかったが、風は昼間より冷たくなっていた。
ひよりはマフラーを巻き直し、千夏と並んで歩いた。
「今日はありがとう、千夏。すごく楽しかった」
「こちらこそ! また行こうね。今度はもう少し早い時間からでもいいかも」
「うん。今度は雑貨屋さんもゆっくり見たいな」
二人は駅前の交差点で立ち止まった。
千夏はひよりの顔を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「ひより、最近ちょっと元気になってきたね」
ひよりは驚いたように目を瞬かせた。
「……そうかな?」
「うん。もちろん、まだいろいろ考えることはあると思うけど、前より自然に笑ってる気がする」
千夏はそう言って微笑んだ。
ひよりは少しだけ俯いた。
先週の金曜日、颯太へ告白したあと、千夏の前で泣いてしまった。
そのとき、千夏は何も急がせず、ただ隣にいてくれた。
真樹と会って少しずつ気持ちが落ち着いてきたことも、千夏は知っている。
「……千夏のおかげだよ」
ひよりは小さく笑った。
「私、あの日は本当にどうしたらいいか分からなかったけど、千夏が一緒にいてくれて嬉しかった」
千夏は少し照れたように笑った。
「もう、そういうこと急に言わないでよ。私まで泣きそうになるじゃん」
「ふふ。だって、本当のことだもん」
ひよりが笑うと、千夏もつられて笑った。
そのあと、千夏はひよりの肩へ軽く触れた。
「これからも、何かあったらちゃんと話してね。楽しいことでも、嫌なことでも」
「うん。千夏もね」
二人は笑顔で約束し、それぞれの帰り道へ向かった。
ひよりは歩きながら、今日買ったノートが入った紙袋を持ち直した。
千夏と過ごした時間は楽しかった。
海斗から届いた資料も面白かった。
来週には玲奈とお茶をする予定があり、真樹との書店への外出も待っている。
失恋したあと、自分の毎日がどうなってしまうのか不安だった。
けれど、周囲には変わらず話してくれる人たちがいる。
ひよりはそのことを、少しずつ実感していた。
一方、同じ日曜日の夕方、一ノ瀬玲奈は自室で火曜日の予定を確認していた。
昨日、ひよりへ送った喫茶店の情報をもう一度開き、駅からの道順を調べている。
待ち合わせ場所は学校帰りに分かりやすい駅前にしようと思っていたが、青葉高校と桜陵学園では下校する時間が必ずしも同じではない。玲奈はひよりに無理をさせないよう、火曜日の放課後に改めて連絡を取り合うことにしていた。
机の上には、小さな手帳が開かれている。
火曜日の欄には、ひよりとのお茶の予定が丁寧な文字で書かれていた。
玲奈はその文字を見つめ、昨日の散歩を思い出した。
真樹と久しぶりにゆっくり話せたこと。
ノアと遊んだこと。
昔の思い出を話したこと。
そして、真樹が来週の土曜日にひよりと書店へ行くと教えてくれたこと。
玲奈はペンを置き、椅子の背へ体を預けた。
(……やっぱり、気になるな)
昨日は真樹と一緒に過ごせて嬉しかった。
けれど、帰宅してから何度も思い返してしまうのは、ひよりとの書店の約束だった。
自分が昔から知っている場所へ、真樹がひよりを案内する。
それが悪いことだとは思わない。
ひよりは本が好きだと言っていたし、真樹も本を読むのが好きなのだから、二人で書店へ行くのは自然なことだ。
それでも、玲奈は胸の奥に小さな寂しさを覚えていた。
昨日、真樹にまた誘ってもいいかと尋ねた。
真樹は、もちろんと答えてくれた。
その言葉は嬉しかったが、具体的な約束はまだ決まっていない。
ひよりとの外出は、すでに日程まで決まっている。
玲奈は手帳を見つめながら、少しだけ唇を結んだ。
(……私も、ちゃんと誘ってみようかな)
昨日、真樹と喫茶店へ行こうとしたとき、ノアが一緒だったため入れるかどうか分からなかった。
真樹は、また今度行けばいいと言ってくれた。
ならば、その続きを自分から提案してもよいはずだ。
玲奈はスマートフォンを手に取り、真樹とのメッセージ画面を開いた。
昨日のお礼に対する返事が残っている。
『また予定が合うときに話そう』
玲奈はその文章をしばらく見つめたあと、新しいメッセージを打ち始めた。
『真樹、昨日話してた喫茶店なんだけど』
そこまで入力して、指が止まった。
いつ行きたいのか。
どのくらいの時間、一緒にいたいのか。
ただ喫茶店へ行きたいだけなのか。
自分でも分かっている。
本当は、真樹と二人で過ごす時間が欲しいのだ。
玲奈は一度文章を消し、もう少し考えた。
曖昧な誘い方をしても、真樹には伝わらないかもしれない。
けれど、いきなり気持ちを打ち明ける勇気はまだなかった。
玲奈は深く息を吸い、今度は文章を最後まで打った。
『昨日はノアもいたから寄れなかったけど、今度、二人であの喫茶店に行かない?』
『真樹とゆっくり話したいなって思って』
送信する前に、何度も読み返した。
少しだけ踏み込んだ言葉だった。
幼なじみとしてなら、何も不自然ではない。
けれど、玲奈にとっては、昨日よりも勇気のいる誘いだった。
しばらく迷った末、玲奈は送信ボタンを押した。
メッセージが送られた瞬間、胸の奥が急に落ち着かなくなった。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、手帳を閉じようとしたが、すぐに気になって画面へ目を向けてしまう。
返事はまだ届いていない。
真樹にも休日の予定があるのだから、すぐに返事が来るとは限らない。
そう分かっていても、気になってしまった。
玲奈は立ち上がり、窓際へ歩いた。
外には夕方の淡い光が残っている。
近所の家から夕食の準備をする音が聞こえ、遠くでは車がゆっくり通り過ぎていった。
玲奈は窓辺に立ちながら、昨日の真樹の表情を思い出した。
自分と昔の話をしているとき、真樹は楽しそうに笑ってくれた。
それは本当だった。
けれど、ひよりの話をするときに見せた柔らかな表情も、忘れられない。
(……私、あんな顔をしてもらいたいんだ)
玲奈は胸元へ手を当てた。
真樹が自分を見て、嬉しそうに笑ってくれる。
自分からの誘いを、少しでも特別に感じてくれる。
そんなことを望むようになっていた。
以前なら、ただ一緒にいられるだけで十分だと思っていた。
けれど、今はそれだけでは足りない。
真樹の隣にいる女の子が増えるたび、自分の場所が少しずつ狭くなっていくように感じてしまう。
玲奈はその感情を、もう否定できなかった。
しばらくして、机の上のスマートフォンが震えた。
玲奈は思わず振り返り、急いで画面を確認した。
真樹からだった。
『いいよ。あの店、俺も少し気になってたし』
『ただ、来週は予定があるから、その次の週以降でもいいか?』
玲奈は画面を見つめた。
断られなかった。
真樹は、一緒に行ってもいいと言ってくれた。
それだけで胸の奥が温かくなったが、続く文章を読むと、少しだけ寂しさも生まれた。
来週は予定がある。
その中には、ひよりとの書店への外出も含まれているのだろう。
玲奈は一度目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
真樹が自分との約束を後回しにしているわけではない。
来週の土曜日の予定は、先に決まっていたのだ。
そのことは分かっている。
玲奈は気持ちを整え、返信を打った。
『もちろん! その次の週でも大丈夫だよ』
『予定が分かったら、また教えてね。楽しみにしてる』
送信すると、真樹から短い返事が届いた。
『分かった。ありがとう』
玲奈はスマートフォンを両手で包み、椅子へ座り直した。
約束の日程はまだ決まっていない。
けれど、今度は自分から誘うことができた。
それは、昨日の散歩とは少し違う一歩だった。
玲奈は手帳を開き、次の週の予定を確認した。
まだ何も書き込めない。
真樹の都合が分からないからだ。
それでも、空いている日を確かめるだけで、少し嬉しくなった。
そのとき、スマートフォンに別の通知が届いた。
ひよりからだった。
『玲奈ちゃん、こんばんは!』
『火曜日のお茶、すごく楽しみにしてるね。お店も調べてくれてありがとう!』
玲奈はその文章を読み、思わず微笑んだ。
ひよりは本当に優しい女の子だ。
昨日のメッセージでも喜んでくれていたのに、今日もわざわざお礼を伝えてくれた。
玲奈は少しだけ考えたあと、返信を打った。
『こんばんは、ひよりちゃん! 私も楽しみだよ』
『お店、気に入ってもらえたら嬉しいな。火曜日はいっぱいお話ししようね』
送信すると、ひよりから可愛らしい絵文字とともに返事が届いた。
玲奈は画面を見つめながら、複雑な気持ちになった。
ひよりと仲良くなりたい。
それは本当だった。
火曜日には、学校のことや好きな本のこと、休日の過ごし方など、いろいろ話してみたいと思っている。
けれど、真樹の話題になったとき、自分は自然に笑えるだろうか。
ひよりが来週の書店への外出を楽しそうに話したら、どんな顔をすればいいのだろう。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、手帳の火曜日の欄へ目を向けた。
(……ひよりちゃんと友達になりたい気持ちまで、嘘にしたくない)
真樹が好きだからといって、ひよりを嫌いになりたいわけではない。
むしろ、ひよりと話している時間は楽しい。
そのことが、玲奈の気持ちを余計に難しくしていた。
もしひよりが意地悪な女の子だったなら、もっと簡単に距離を置けたのかもしれない。
けれど、実際のひよりは違う。
誰かの話を丁寧に聞き、些細なことにも嬉しそうに笑う。
そんなひよりを、玲奈は友達として好きになり始めていた。
玲奈は手帳を閉じ、机の引き出しへしまった。
火曜日には、ひよりと楽しい時間を過ごしたい。
そして、真樹への気持ちも、自分の中で大切にしていきたい。
その二つを同時に抱えることが、どれほど難しいのか。
玲奈はまだ、はっきりとは分かっていなかった。
日曜日の夜、真樹は自室で来週の予定を確認していた。
机の上には読みかけの本が置かれ、足元ではノアが静かに眠っている。
玲奈から喫茶店へ誘われたことを思い出し、真樹はスマートフォンを手に取った。
玲奈とは幼いころからの付き合いだ。
最近は以前ほど二人だけで出かけることがなかったため、久しぶりにゆっくり話すのも悪くないと思っていた。
昨日の散歩でも、玲奈は楽しそうだった。
昔の話をしているときには、真樹自身も懐かしい気持ちになった。
ただ、玲奈が何度か言葉を選ぶようにしていたことは、少し気になっていた。
何か相談したいことでもあるのだろうか。
真樹はそう考えたが、本人が話していないことを無理に聞き出すつもりはなかった。
玲奈が話したくなったときに、きちんと聞けばいい。
そう思いながら、真樹は予定表を開いた。
来週の土曜日には、ひよりと書店へ行く。
火曜日には、ひよりと玲奈がお茶をする予定だったはずだ。
自分の知っている二人が仲良くなってくれることは、素直に嬉しかった。
けれど、玲奈がひよりにどんな感情を抱き始めているのか、真樹はまだ知らない。
真樹はひよりとのメッセージ画面を開いた。
書店へ行く日程は決まっているが、時間はまだ相談していない。
ひよりの家の予定もあるだろうし、あまり早い時間に待ち合わせる必要はない。
真樹は少し考え、メッセージを打った。
『天野、来週の土曜日なんだけど、午後からでも大丈夫か?』
『本屋の近くに小さい喫茶店もあるから、時間があれば寄れると思う』
送信すると、しばらくしてひよりから返事が届いた。
『うん! 午後からで大丈夫だよ』
『喫茶店もあるんだね。楽しみ!』
真樹はその文章を読み、少しだけ笑った。
『じゃあ、待ち合わせは一時くらいでどうだ?』
ひよりからは、すぐに返事が届いた。
『一時で大丈夫! どこで待ち合わせる?』
真樹は書店までの道順を思い浮かべた。
駅前から歩いて行ける場所だが、初めて訪れるひよりには分かりにくいかもしれない。
『駅の改札を出たところで待ち合わせよう』
『そこから一緒に歩けば、十分くらいで着く』
『分かった! じゃあ、土曜日の一時に駅の改札前だね』
ひよりの返事を確認し、真樹は頷いた。
これで、待ち合わせの時間と場所も決まった。
真樹はスマートフォンを置き、椅子の背へ体を預けた。
ひよりと二人で出かける。
散歩ではなく、彼女が自分の好きな場所を知りたいと言ってくれたことから始まった約束だった。
真樹はそのことを、改めて嬉しく思った。
けれど、期待しすぎてはいけないとも思っていた。
ひよりは失恋したばかりだ。
今はまだ、自分を大切な友達として見ている。
その関係を急に変えようとすれば、ひよりを困らせてしまうかもしれない。
(……楽しんでもらえたら、それでいい)
真樹は静かに息を吐いた。
ひよりが好きな本を見つけられたら嬉しい。
自分の好きな場所を気に入ってくれたら、もっと嬉しい。
それ以上のことを望む気持ちがないわけではないが、今はまだ胸の奥へしまっておくつもりだった。
足元でノアが寝返りを打ち、真樹の靴へ鼻先を寄せた。
真樹は少し笑い、ノアの頭を撫でた。
「来週の土曜日は、少し出かけてくるからな」
ノアは眠そうに目を開け、尻尾を一度だけ動かした。
真樹はその様子を見て、静かに笑った。
そのころ、ひよりは自室で新しく買ったノートを開いていた。
最初のページには、今日海斗から教えてもらった現代文の解釈を書き留めている。
発表は終わったけれど、気になったことを自分なりに考えるのは楽しかった。
ひよりはペンを置き、スマートフォンを確認した。
真樹との待ち合わせは、来週の土曜日、午後一時に駅の改札前。
時間も場所も決まったことで、外出が急に現実味を帯びてきた。
(北条君と本屋さんかあ。何を着ていこうかな)
そう考えたところで、ひよりは少しだけ驚いた。
普段、千夏と買い物へ行くときには、服装をそこまで気にしない。
けれど、真樹と出かける日は、少しきちんとした格好をしたいと思っている。
なぜだろう。
ひよりはしばらく考えたあと、自然に笑った。
(せっかくのお出かけだもんね。お気に入りの服を着ていきたいな)
そう結論づけ、クローゼットへ目を向けた。
そのとき、ふと先週の金曜日のことを思い出した。
颯太へ告白した日。
あの日も、ひよりは朝から服装や髪型を何度も気にしていた。
けれど、今の気持ちは少し違う。
颯太へ告白する前は、緊張と不安で胸がいっぱいだった。
真樹との外出について考えるときは、どんな本を見つけられるのか、どんな話ができるのかという楽しみのほうが大きい。
ひよりはその違いを、まだ深く考えなかった。
ただ、来週の土曜日が楽しみだと思った。
そして、火曜日には玲奈とお茶をする。
玲奈とも、もっと仲良くなれたら嬉しい。
ひよりは机の上へ置いたスマートフォンを見つめながら、穏やかに微笑んだ。
月曜日になれば、また学校が始まる。
千夏と今日の買い物の話をして、海斗とは現代文の続きを話すかもしれない。
颯太と顔を合わせることもあるだろう。
まだ少し緊張するけれど、以前より落ち着いて話せるようになりたいと思っている。
ひよりは新しいノートを閉じ、机の端へ丁寧に置いた。
窓の外では、冬の夜風が静かに吹いていた。
誰かと過ごす時間が増えるほど、その人の知らなかった一面が見えてくる。
ひよりはまだ、真樹が自分をどんな気持ちで見つめているのか知らない。
玲奈が真樹を好きだということも、海斗が自分との会話を楽しみにしていることも知らなかった。
それぞれが抱えている気持ちは、まだ言葉にならないまま、少しずつ日常の中へ積み重なっている。
ひよりは明日の授業の準備を終えると、部屋の明かりを少し落とした。
今日、千夏と笑い合えたこと。
海斗と作品について話せたこと。
玲奈から届いた優しいメッセージ。
そして、真樹と決めた来週の約束。
そのどれもが、今のひよりにとって大切なものだった。
ひよりはベッドへ腰を下ろし、明日の朝に備えて目覚まし時計を確認した。
新しい一週間が始まる。
その一週間が、自分にとってどんな時間になるのか。
まだ何も分からないけれど、ひよりは少しだけ楽しみにしていた。




