第46話 幼なじみの距離では、もう足りない
土曜日の朝、一ノ瀬玲奈は目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、窓の向こうには冬らしい淡い青空が広がっている。昨夜は寝る前に何度も今日の予定を確認していたため、起きた瞬間から午後の待ち合わせが頭に浮かんだ。
午後一時、いつもの公園の入口で真樹と待ち合わせをする。
ノアの散歩へ一緒に行くという、以前なら特別な意味を考えずに楽しみにできた約束だった。幼いころから知っている真樹と、子犬のころから可愛がってきたノアに会うだけなのだから、何も難しいことはないはずだった。
それなのに、玲奈はベッドから起き上がる前に、椅子の背へ掛けておいたカーディガンへ目を向けてしまった。
(昨日はこれでいいと思ったけど、やっぱり少し明るすぎるかな。でも、いつもの服だと何も変わらないし……)
薄いクリーム色のカーディガンは、先月母親と買い物へ行ったときに選んだものだった。柔らかい生地で着心地がよく、玲奈自身も気に入っていたが、真樹の前ではまだ一度も着ていない。
別に、新しい服を見せるために散歩へ行くわけではない。
それでも、真樹が気づいてくれたら嬉しいと思ってしまう。
玲奈は布団を抜け出すと、クローゼットから濃い色のスカートと歩きやすい靴を取り出した。公園を歩くのだから、見た目ばかり気にして動きにくい服装になるのは避けたい。
鏡の前で服を合わせていると、廊下から母親の声が聞こえた。
「玲奈、起きてるの? 今日はずいぶん早いのね」
「うん、起きてる。もう少ししたら下りるね」
返事をしながら、玲奈は慌てて服をベッドの上へ置いた。
母親に見られて困るようなことはしていないのに、なぜか少し恥ずかしかった。
階下へ下りると、食卓には焼きたてのトーストと温かいスープが並んでいた。母親は玲奈の顔を見ると、いつもより早く身支度をしていることに気づいたらしく、少し意外そうに眉を上げた。
「今日は午後から出かけるんでしょう? まだ時間があるのに、ずいぶん楽しみなのね」
「そんなに分かりやすい?」
「そうね。昨日から何度も時計を見ていたもの」
玲奈は椅子へ座りながら、頬が熱くなるのを感じた。
「真樹とノアの散歩に行くだけだよ。久しぶりにゆっくり歩けるから、楽しみなのは本当だけど」
「そう。ノアも大きくなったでしょうね。小さいころは玲奈の膝に乗ろうとしていたのに、今では抱き上げるのも難しいでしょう」
母親は懐かしそうに笑い、玲奈の前へスープを置いた。
玲奈も思わず笑みを浮かべた。
「もう無理だと思う。今でも甘えてくるけど、あの大きさで体を預けられると大変なんだから」
「ふふ。真樹君も元気にしている?」
「うん。学校でも普通に会ってるし、元気だよ」
そう答えたあと、玲奈はトーストへ手を伸ばした。
真樹は元気だ。
最近は以前より表情が柔らかくなった気がするし、神崎蓮と話しているときには、時々思い出し笑いのような表情を見せることもある。
その変化を嬉しく思う一方で、自分が知らないところで真樹の毎日が変わっていることに、寂しさを覚えるようにもなっていた。
母親は玲奈の様子を見ながら、それ以上は尋ねなかった。
昔から仲のよい幼なじみについて、娘が何を考えているのか。すべてを聞き出さなくても、何となく察するものはあった。
けれど、今は玲奈自身が考える時間を大切にしたほうがよいと思ったのだろう。母親は話題を変え、昼食は早めに用意できることと、帰りが遅くなるなら連絡するように伝えた。
玲奈は頷きながら、温かいスープを口へ運んだ。
午後まで、まだ数時間ある。
それなのに、待ち合わせのことを考えるだけで、胸の奥が落ち着かなくなっていた。
朝食を終えた玲奈は自室へ戻り、昨日選んだカーディガンをもう一度鏡の前で合わせた。
髪はいつもと同じように下ろすつもりだったが、少し迷った末に、片側だけを小さな飾りのついたピンで留めることにした。派手ではないけれど、顔まわりが明るく見える。
鏡に映った自分を見つめながら、玲奈は小さく息を吐いた。
(真樹に可愛いって思ってもらいたいなんて、今さら何を考えてるんだろう)
昔は、そんなことを考えなくても一緒にいられた。
真樹の家へ遊びに行けば、庭でノアと遊んだり、宿題を一緒に片づけたりした。学校が違う時期もあったけれど、顔を合わせれば自然に話ができたし、少し会わない日が続いても不安になることはなかった。
今は違う。
真樹には、自分の知らない友達がいる。
そして、天野ひよりという女の子がいる。
玲奈は鏡から目を逸らし、机の上のスマートフォンを手に取った。
ひよりとのお茶の約束は、来週の火曜日の放課後だ。
店を探しておくと伝えていたため、昨夜のうちに駅周辺の喫茶店をいくつか調べていた。静かに話せる店がよいと思いながらも、どこを選べばひよりが喜んでくれるのか、まだ決められずにいる。
ひよりは優しい女の子だった。
初めて話したときも、玲奈の言葉を丁寧に聞いてくれた。ノアの話をすると嬉しそうに笑い、真樹の昔のことを尋ねたときには、興味深そうに耳を傾けていた。
その笑顔を思い出すと、玲奈は胸の奥が少し痛んだ。
(ひよりちゃんは、何も悪くないのに)
玲奈はスマートフォンを伏せ、机の引き出しから小さなメモ帳を取り出した。
火曜日の店については、散歩から帰ってからもう一度考えよう。
今日は真樹と会える日なのだから、まずはその時間を楽しみたかった。
そう決めた玲奈は、選んだ服を丁寧に畳み直し、待ち合わせの時間まで学校の課題を進めることにした。
けれど、教科書を開いても、最初の数行を読むだけで視線が時計へ向かってしまう。
玲奈はそんな自分に苦笑しながら、今度こそ集中しようと鉛筆を握り直した。
◇ ◇ ◇
同じころ、北条家では真樹が朝食を終え、自室で読みかけの本を開いていた。
机の横には、昨夜ひよりとやり取りしたメッセージが残っているスマートフォンが置かれている。
来週の土曜日、二人で書店へ行くことになった。
時間はまだ決まっていないが、ひよりは楽しみにしていると言ってくれた。真樹も同じ気持ちを返したあと、しばらく画面を閉じられなかった。
そのことを思い出すと、今でも少しだけ頬が緩む。
真樹は本のページをめくりながら、昨日ひよりが話してくれた現代文の発表について考えていた。
ひよりは、千夏と橘海斗という男子生徒の三人で準備した課題がうまくいったと、嬉しそうに話していた。
自分の知らない学校で、自分の知らない友達と過ごすひより。
それは当然のことなのに、橘という名前が妙に記憶へ残っている。
(……同じ班だっただけだろ。天野が楽しそうに学校の話をしてくれるなら、それでいい)
真樹は本へ視線を戻した。
ひよりが失恋したばかりだということを、忘れたわけではない。
彼女が少しずつ笑顔を取り戻しているのなら、それを喜びたい。自分の気持ちを理由に、ひよりの交友関係へ口を出すつもりもなかった。
ただ、ひよりが誰かの話を楽しそうにすると、自分の知らない彼女の時間があるのだと実感する。
その感覚に、まだうまく慣れなかった。
足元ではノアが大きな体を丸めて眠っていたが、真樹が椅子を引く音に反応して顔を上げた。
「起こしたか?」
真樹が声を掛けると、ノアはゆっくり尻尾を振った。
午後には玲奈と散歩へ行く予定がある。
玲奈は昔からノアを可愛がってくれていたし、ノアも彼女に懐いている。久しぶりに一緒に歩けば、きっと喜ぶだろう。
真樹は時計を確認し、もう少し読書を続けることにした。
昼前にはノアの準備を済ませ、余裕を持って家を出ればよい。
玲奈との約束も、ひよりとの約束も、それぞれ大切にしたかった。
けれど、その二つが玲奈の中では同じ重さではないことに、真樹はまだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
午後零時四十分を少し過ぎたころ、玲奈は公園へ向かう道を歩いていた。
冬の日差しは思っていたよりも暖かかったが、風が吹くと頬に冷たさが残る。玲奈は首元のマフラーを整え、手袋をした指で鞄の持ち手を握り直した。
待ち合わせまでは、まだ十分以上ある。
早く着きすぎたかもしれないと思いながらも、家で落ち着かずに時計を見続けるよりはよかった。
公園の入口が見えてくると、玲奈は足を緩めた。
真樹はまだ来ていない。
入口の脇にはベンチがあり、近くの花壇には冬の花が植えられていた。玲奈はそこで待つことにして、ベンチの端へ腰を下ろした。
少し離れたところでは、小さな子どもが母親と手をつないで歩いている。
その姿を見て、玲奈は昔のことを思い出した。
まだ真樹も自分も幼かったころ、二人で公園へ遊びに来たことがある。
真樹は昔から落ち着いていたけれど、決して遊ぶことが嫌いな子どもではなかった。玲奈が転びそうになれば手を差し出してくれたし、遊具の順番を待っているときには、退屈しないように話しかけてくれた。
そんな何気ない優しさが、いつの間にか特別なものになっていた。
(……あのころは、真樹の隣にいることが当たり前だったな)
玲奈は膝の上へ置いた鞄を見つめた。
今でも、真樹は優しい。
困っていれば助けてくれるし、約束をすればきちんと守ってくれる。玲奈が話しかければ、面倒そうな顔をせずに聞いてくれる。
けれど、その優しさは自分だけに向けられたものではない。
ひよりに対しても、真樹はきっと同じように優しいのだろう。
そう考えたとき、玲奈は無意識に鞄の持ち手を強く握っていた。
そのことに気づき、ゆっくり指の力を抜く。
ひよりと比べたくない。
それなのに、最近は何かにつけて比べてしまう。
自分は真樹と長い時間を過ごしてきた。
ひよりは、真樹と出会ってからまだそれほど経っていないはずだ。
けれど、真樹が最近よく名前を口にするのは、ひよりのほうだった。
玲奈は小さく息を吐いた。
そのとき、公園へ続く道の向こうから、見慣れた姿が近づいてくるのが見えた。
黒いコートを着た真樹と、その隣を歩くノアだった。
玲奈はすぐに立ち上がり、手を振った。
「真樹!」
声に反応した真樹が顔を上げ、玲奈の姿を見つけて軽く手を上げた。
ノアも玲奈に気づいたらしく、歩く速度を少し速めた。
「一ノ瀬、早かったな」
真樹が近づいてくると、玲奈は笑顔で答えた。
「うん。ちょっと早く家を出ちゃったの。真樹こそ、まだ時間前だよ」
「ノアが落ち着かなかったからな。少し早めに出た」
真樹がそう言うと、ノアは玲奈の足元へ近づき、嬉しそうに尻尾を振った。
「ノア、久しぶり!」
玲奈はしゃがみ込み、ノアの首元を優しく撫でた。
ノアは大きな頭を玲奈の手へ押しつけ、もっと撫でてほしいと訴えるように鼻を鳴らした。
「ふふ、相変わらず甘えん坊なんだから。そんなに押したら、私が転んじゃうよ」
玲奈が笑うと、真樹も小さく笑った。
「お前は誰の味方だよ」
真樹の言葉に、玲奈は顔を上げた。
「ノアは私のことも大好きなんだよね?」
そう言いながらノアの頬を撫でると、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。
真樹はその様子を見て、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「まあ、そうだろうな」
玲奈は笑いながら立ち上がった。
そのとき、真樹の視線が一瞬だけ玲奈の顔へ向いた。
玲奈は胸が小さく跳ねるのを感じた。
髪を留めたピンに気づいたのだろうか。
それとも、カーディガンを見てくれたのだろうか。
けれど、真樹は特に何も言わず、ノアのリードを持ち直した。
「じゃあ、歩くか」
「……うん」
玲奈は笑顔で頷いた。
少しだけ期待していた自分が恥ずかしくなったが、それでも真樹の隣を歩けることは嬉しかった。
公園の中へ入ると、玲奈はいつもより少しだけ真樹との距離を近づけた。
肩が触れるほどではない。
けれど、以前なら自然に空けていた間隔よりも、ほんの少しだけ近い。
真樹はその変化に気づかないまま、ノアの歩調に合わせて進んでいた。
◇ ◇ ◇
公園の遊歩道には、休日らしい穏やかな空気が流れていた。
芝生の広場では家族連れが遊び、少し離れたベンチでは年配の夫婦が温かい飲み物を手に休んでいる。木々の枝は冬らしく寂しい姿になっていたが、足元には落ち葉が残り、風が吹くたび乾いた音を立てていた。
玲奈は真樹の隣を歩きながら、学校での出来事を話していた。
「昨日ね、沙耶と食堂でお昼を食べてたんだけど、沙耶が急に明日の予定を聞いてきたの」
「明日の予定?」
「うん。今日のこと。真樹とノアの散歩に行くって話したら、楽しみなんでしょって言われちゃった」
玲奈は少し照れたように笑った。
真樹は前を向いたまま頷いた。
「一ノ瀬は昔からノアのこと可愛がってるからな」
「……うん。そうだね」
玲奈は小さく答えた。
真樹の返事は、何も間違っていない。
ノアに会えることは本当に嬉しいし、散歩も楽しみにしていた。
けれど、玲奈が楽しみにしていた理由は、それだけではなかった。
(真樹と一緒にいられるから、って言ったら……どんな顔するんだろう)
玲奈は横目で真樹を見た。
真樹はノアの様子を確認しながら、穏やかな表情で歩いている。
玲奈は少し迷ったあと、話題を変えた。
「そういえば、真樹。最近、本屋さんに行ってる?」
真樹が顔を向けた。
「本屋?」
「うん。前によく行ってた小さいお店。駅から少し歩いたところにあるでしょう?」
「ああ。今でも時々行ってる」
玲奈は嬉しくなった。
自分が知っている真樹の好きな場所。
その話ができることに、少しだけ安心した。
「私、あのお店の雰囲気好きだったな。静かで、棚の間を歩いてるだけでも楽しかった」
「そうだな。大きな店ほど品揃えはないけど、落ち着く」
「今度、また一緒に行かない?」
玲奈はできるだけ自然な声で尋ねた。
けれど、言い終えたあと、胸の奥が急に落ち着かなくなった。
真樹は少し考えた。
「そうだな。予定が合えば」
その返事に、玲奈はほっとした。
「本当? じゃあ、また時間があるときに――」
そこまで言いかけたところで、真樹が続けた。
「来週は天野と行く約束があるから、そのあとになると思うけど」
玲奈の足が、ほんの一瞬だけ遅れた。
真樹は気づかずに歩いていたが、ノアが少し振り返ったため、玲奈は慌てて歩調を戻した。
「……ひよりちゃんと?」
「ああ。前に話してたんだ。俺がよく行く場所を見てみたいって」
真樹の声はいつもどおり落ち着いていた。
けれど、玲奈には、その言葉が妙にはっきり聞こえた。
自分が昔から知っている場所へ、真樹はひよりを連れていく。
それも、ひよりのほうから興味を持ってくれたのだという。
玲奈は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
(……そっか。ひよりちゃんと、あのお店に行くんだ)
自分が知っている場所。
自分にとって、真樹との思い出がある場所。
そこへひよりが行くことが、なぜこんなに気になるのだろう。
玲奈は笑顔を作った。
「いいね。ひよりちゃん、本が好きなんだ?」
「小説をよく読むらしい。昨日も少し話した」
「……昨日?」
玲奈は思わず聞き返した。
真樹が顔を向けた。
「ああ。放課後に少し会って、予定を相談した」
玲奈は唇を軽く結んだ。
昨日も会っていた。
真樹は金曜日の放課後、ひよりと過ごしていたのだ。
自分は今日の散歩を楽しみにして、服を選び、待ち合わせの時間を何度も確認していた。
その一方で、真樹は昨日もひよりに会い、来週の約束をしていた。
玲奈はその事実を受け止めようとした。
真樹が誰と会うかは、真樹の自由だ。
自分に報告する義務などない。
それでも、胸の奥に生まれた寂しさは、簡単には消えてくれなかった。
「……そっか。楽しそうだね」
玲奈はようやく答えた。
真樹は頷いた。
「天野が楽しみにしてくれてるみたいだからな」
そのとき、真樹の表情が少しだけ柔らかくなった。
玲奈は、その変化を見逃さなかった。
真樹がひよりの話をするとき、時々見せる表情だった。
幼いころから真樹を知っている玲奈には、その違いが分かってしまう。
玲奈は視線を落とし、歩道の端に残った落ち葉を見つめた。
(……私といるときも、そんな顔してくれたらいいのに)
言葉にはしなかった。
言ってしまえば、今までの関係が変わってしまう気がしたからだ。
けれど、玲奈はそのまま黙っていることもできなかった。
「真樹って、ひよりちゃんと仲いいよね」
できるだけ明るく聞こえるように言ったつもりだった。
真樹は少しだけ考えてから答えた。
「そうだな。話してて楽しいし、いい友達だと思ってる」
玲奈はその言葉を聞き、胸の奥に小さな希望が生まれるのを感じた。
友達。
真樹は、ひよりをそう呼んだ。
けれど、その言葉だけで安心してよいのか、玲奈には分からなかった。
「……私も、ひよりちゃんともっと仲良くなりたいな」
玲奈が言うと、真樹は頷いた。
「来週、お茶するんだろ?」
「うん。火曜日の放課後にね。まだお店を決めてないんだけど」
「天野も楽しみにしてたぞ」
玲奈は顔を上げた。
「……本当?」
「ああ。昨日、少し話してた」
真樹の言葉に、玲奈は複雑な気持ちになった。
ひよりが楽しみにしてくれていることは嬉しい。
けれど、その話を真樹から聞くと、自分よりも真樹のほうがひよりの気持ちをよく知っているように感じてしまう。
玲奈はその考えを振り払うように、少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ、ちゃんといいお店を探さなきゃね」
「一ノ瀬が選ぶなら、大丈夫だろ」
真樹は何気なく言った。
玲奈は思わず足を止めそうになった。
「……どうして?」
「昔から、そういうのを探すの得意だっただろ。店の雰囲気とか、相手が好きそうなものとか」
真樹は少しだけ笑った。
「一ノ瀬は、そういうところよく見てるからな」
玲奈は真樹を見つめた。
自分のことを、ちゃんと覚えてくれている。
昔から変わらない部分を、見ていてくれている。
そのことが嬉しくて、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう、真樹」
玲奈は小さく笑った。
真樹は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
玲奈は再び歩き始めた。
真樹の隣にいられることが嬉しい。
けれど、ただの幼なじみとして見られていることが、少しずつ苦しくなってきている。
その二つの感情が、胸の中で静かに重なっていた。
◇ ◇ ◇
公園の奥にある広場へ着くと、玲奈はノアと少し遊ぶことにした。
真樹がリードを持ったまま、玲奈はノアの前へしゃがみ込む。
「ノア、おいで。ちゃんとお座りできる?」
玲奈が声を掛けると、ノアは大きな体をゆっくり下ろした。
「いい子だね。昔からお利口さんだったけど、今はもっと上手になったね」
玲奈が褒めると、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。
真樹はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「一ノ瀬の言うことはよく聞くな」
「ふふ。小さいころから一緒に遊んでたもんね」
玲奈はノアの頭を撫でながら、真樹を見上げた。
「真樹、覚えてる? ノアがまだ小さかったころ、私の靴紐を引っ張って離さなかったこと」
「ああ。お前が困ってたな」
「困ったよ。歩こうとするとついてくるし、座ると膝に乗ろうとするし」
玲奈は懐かしそうに笑った。
「でも、可愛かったなあ。真樹もあのころ、今よりずっとよく笑ってた気がする」
真樹は少し意外そうに眉を上げた。
「そうか?」
「うん。今も笑うけど、昔はもっと分かりやすかったよ」
玲奈は立ち上がり、真樹の顔を覗き込むように見た。
「真樹って、最近また少し変わったよね」
真樹は首を傾げた。
「何が?」
「何となくだけど、前より楽しそうにしてることが増えた気がする」
玲奈はそう言いながら、真樹の反応を待った。
真樹は少し考えたあと、穏やかに答えた。
「……そうかもしれないな」
玲奈は胸が小さく跳ねるのを感じた。
真樹自身も、何かが変わったと感じている。
その理由を聞きたい。
けれど、聞いてしまえば、ひよりの名前が出てくる気がした。
玲奈は一瞬迷ったあと、あえて尋ねた。
「何か、いいことあった?」
真樹はすぐには答えなかった。
ノアが足元へ近づいてきたため、リードを少し持ち直し、そのあと玲奈へ視線を向けた。
「……最近、楽しいことは増えたと思う」
その答えは曖昧だった。
けれど、玲奈には十分だった。
真樹の表情が、先ほどひよりの話をしたときと似ていたからだ。
玲奈は笑顔を保とうとした。
「そっか。それならよかった」
そう言いながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
真樹が楽しそうなのは嬉しい。
けれど、その理由が自分ではないかもしれないことが、寂しかった。
玲奈はノアへ視線を落とし、もう一度頭を撫でた。
そのとき、真樹がふと思い出したように言った。
「一ノ瀬も、最近は楽しそうだな」
玲奈は顔を上げた。
「えっ?」
「学校でも沙耶たちとよく話してるし、今日も元気そうだから」
玲奈は少しだけ驚いた。
真樹は、自分のことも見てくれていた。
それが嬉しくて、思わず笑顔になった。
「……うん。楽しいよ」
玲奈は答えたあと、少しだけ勇気を出した。
「でも、今日が一番楽しみだったかも」
真樹が顔を向けた。
「今日?」
「うん。真樹とノアと、久しぶりにゆっくり歩けるから」
玲奈は真樹の目を見て答えた。
言葉にしてしまうと、思っていた以上に恥ずかしかった。
けれど、今度は視線を逸らさなかった。
真樹は少しだけ驚いたような顔をしたあと、穏やかに笑った。
「そうか。俺も久しぶりに一緒に歩けてよかったよ」
玲奈の胸が温かくなった。
真樹も、今日の時間をよかったと思ってくれている。
そのことが嬉しかった。
けれど、真樹の言葉はあくまで幼なじみへ向けたものだった。
玲奈はそれを理解していた。
理解しているからこそ、もっと違う言葉を聞きたいと思ってしまう自分に、少し戸惑っていた。
◇ ◇ ◇
散歩を終えるころには、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
公園の出口へ向かう途中、玲奈は真樹の隣で歩きながら、何度か言葉を探していた。
今日の時間は楽しかった。
真樹と昔の話ができたし、ノアともたくさん遊べた。
けれど、このまま別れてしまうのが惜しかった。
玲奈は少し迷ったあと、思い切って口を開いた。
「ねえ、真樹」
「ん?」
「このあと、少しだけ時間ある?」
真樹が顔を向けた。
「どうした?」
「近くに新しい喫茶店ができたんだって。火曜日にひよりちゃんと行くお店を探してたら見つけたんだけど、ちょっと気になってて」
玲奈はできるだけ自然な調子で続けた。
「よかったら、少し寄ってみない?」
真樹は時計を確認した。
まだ夕方までは時間がある。
ノアを連れて入れる店かどうか分からなかったため、真樹は少し考えた。
「ノアがいるからな。店の外に席があるなら大丈夫かもしれないけど」
「そうだよね。あ、テラス席があるって書いてあった気がする」
玲奈はスマートフォンを取り出し、店の情報を確認した。
写真には屋外の席が写っていたが、犬を連れて利用できるかどうかまでは分からなかった。
「……ごめん。ちゃんと調べてなかった」
玲奈が少し残念そうに笑うと、真樹は首を振った。
「別に謝ることじゃないだろ。今日は無理でも、また今度行けばいい」
玲奈は顔を上げた。
「……また今度?」
「ああ。ノアがいないときなら、普通に入れるだろ」
その言葉に、玲奈は思わず笑顔になった。
「じゃあ、今度一緒に行ってくれる?」
真樹は少し考えたあと、頷いた。
「予定が合えばな」
玲奈は嬉しそうに笑った。
「うん。ありがとう」
具体的な日程は決まっていない。
けれど、真樹とまた二人で出かける可能性ができた。
それだけで、玲奈の気持ちは少し明るくなった。
公園の出口へ着くと、玲奈はノアへしゃがみ込んで別れの挨拶をした。
「ノア、今日はありがとう。また遊ぼうね」
ノアは玲奈の手へ鼻先を寄せ、嬉しそうに尻尾を振った。
玲奈はその頭を優しく撫で、立ち上がった。
「真樹も、今日はありがとう。すごく楽しかった」
「俺も。気をつけて帰れよ」
玲奈は頷いた。
けれど、すぐには歩き出せなかった。
もう少しだけ、真樹と話していたい。
そんな気持ちが、足を止めていた。
真樹が不思議そうに顔を向ける。
「一ノ瀬?」
玲奈は小さく息を吸った。
「……真樹、また誘ってもいい?」
真樹は少し驚いたように目を瞬かせた。
「もちろん。都合が合えば」
玲奈はその返事を聞き、ようやく笑顔になった。
「うん。じゃあ、また連絡するね」
「ああ」
玲奈は手を振り、公園を離れた。
真樹とノアの姿が見えなくなるまで、何度か振り返りたい気持ちになったが、玲奈は前を向いて歩き続けた。
今日、真樹は自分の服装には気づかなかった。
髪のピンにも、特別な反応はなかった。
けれど、自分のことを昔からよく見ていると言ってくれた。
また一緒に出かけてもいいとも言ってくれた。
玲奈はその言葉を思い出しながら、少しだけ笑った。
(……まだ、何も変わってないかもしれない。でも、私も少しずつ変わらなきゃ)
幼なじみだから、いつでも会える。
そんなふうに思っていたころとは違う。
真樹の隣にいたいのなら、自分からも動かなければならない。
玲奈はそう考えながら、帰り道を歩いた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ひよりは自宅のリビングで美月と一緒に過ごしていた。
学校の課題が一段落したため、今日は久しぶりにゆっくりできる休日だった。
ひよりはソファへ座り、読みかけの小説を開いていたが、しばらくすると隣の美月が声を掛けてきた。
「ひより、来週の土曜日は本屋さんに行くんだよね?」
「うん。北条君がよく行くお店に連れていってくれるんだ」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
美月はその表情を見て、少しだけ微笑んだ。
「楽しみにしてるんだね」
「うん。北条君の好きな本とか、見てみたいなって」
ひよりは小説を閉じ、膝の上へ置いた。
「私、自分が好きな本ばっかり選んじゃうから、誰かのおすすめって新鮮なんだよね」
「なるほどね。北条君って、どんな本が好きなの?」
「歴史の本とか、小説も読むんだって。あと、気になったものをいろいろ見るって言ってた」
美月は頷いた。
「へえ。落ち着いた趣味だね」
「うん。北条君らしいよね」
ひよりは笑った。
美月はその笑顔を見ながら、少しだけ考えた。
ひよりは失恋したばかりだ。
まだ、颯太への気持ちが完全に消えたわけではないだろう。
けれど、今は少し先の予定を楽しみにできている。
それは、きっといいことだった。
「ひより、無理して元気になろうとしなくてもいいからね」
美月が穏やかに言うと、ひよりは少し驚いたように顔を上げた。
「……うん」
美月は続けた。
「楽しいことがある日は楽しめばいいし、急に寂しくなる日があってもいいんだよ。気持ちって、そんなに簡単に切り替えられるものじゃないから」
ひよりはしばらく黙っていた。
先週の金曜日のことを思い出すと、今でも胸が少し痛む。
颯太のことを好きだった時間は長かった。
だから、たった一週間で何も感じなくなるはずがない。
けれど、最近は笑える時間も増えてきた。
それが嬉しい反面、時々、自分だけが先へ進もうとしているような不思議な気持ちになることもあった。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「私、最近は楽しいことも増えたんだけど、たまに佐伯君のこと思い出すんだ」
ひよりは膝の上の本へ視線を落とした。
「もう泣くほどじゃない日もあるのに、急に寂しくなることがあって。そういうとき、まだ引きずってるのかなって思っちゃう」
美月はすぐには答えなかった。
ひよりの言葉を受け止めるように、少しだけ間を置いた。
「それは、引きずってるっていうより、大切だった気持ちがまだ残ってるんじゃないかな」
ひよりは顔を上げた。
「大切だった気持ち?」
「うん。好きだった時間が長かったんだから、すぐに何も感じなくなるほうが不思議だよ。でも、だからって新しい楽しいことを見つけちゃいけないわけじゃないでしょう?」
美月は優しく笑った。
「ひよりが笑える時間が増えたなら、私は嬉しいよ」
ひよりはしばらく美月を見つめたあと、小さく頷いた。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
美月は笑いながら、ひよりの頭を軽く撫でた。
「どういたしまして。まあ、来週の本屋さんは楽しんできなさい」
「うん!」
ひよりは笑顔で答えた。
そのあと、二人はしばらく本の話を続けた。
ひよりは真樹にどんな本を紹介してもらえるのか想像しながら、少しだけ胸を弾ませていた。
◇ ◇ ◇
夜になり、玲奈は自室の机へ向かっていた。
今日の散歩から帰ってから、何度も真樹との会話を思い返していた。
真樹は、自分のことをよく見ていると言ってくれた。
また一緒に出かけてもいいと言ってくれた。
その言葉を思い出すと、自然に笑顔になる。
けれど、同時にひよりのことも思い出してしまう。
来週の土曜日、真樹はひよりと書店へ行く。
自分が昔から知っている場所へ、二人で出かけるのだ。
玲奈はスマートフォンを手に取り、ひよりとのメッセージを開いた。
火曜日のお茶の約束。
まだ店は決めていない。
玲奈はしばらく画面を見つめたあと、昼間調べていた喫茶店の情報をもう一度確認した。
真樹と行こうとした店は、雰囲気がよさそうだった。
けれど、ひよりと行くなら、もう少し駅に近い店のほうが便利かもしれない。
玲奈は候補をいくつか見比べ、落ち着いた雰囲気の小さな喫茶店を選んだ。
窓際の席があり、温かい飲み物と焼き菓子が人気らしい。
ひよりはきっと喜んでくれるだろう。
玲奈は少し迷ったあと、メッセージを送った。
『ひよりちゃん、火曜日のお店、ここはどうかな?』
『駅から近いし、落ち着いて話せそうだよ』
しばらくすると、ひよりから返事が届いた。
『わあ、可愛いお店! 私、こういう雰囲気好きだよ』
『玲奈ちゃん、探してくれてありがとう!』
玲奈はその文章を読み、少しだけ笑った。
ひよりは素直に喜んでくれている。
そのことが嬉しかった。
『よかった! じゃあ、火曜日はここにしようね』
送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。
『うん! 楽しみにしてるね』
玲奈はスマートフォンを机へ置いた。
ひよりと仲良くなりたい。
それは本当の気持ちだった。
けれど、真樹のことになると、どうしても胸の奥が落ち着かなくなる。
玲奈は椅子の背へ体を預け、天井を見上げた。
(……私、ひよりちゃんに嫉妬してるんだ)
ようやく、その感情をはっきり認めた。
ひよりが悪いわけではない。
真樹が悪いわけでもない。
ただ、自分が真樹を好きだから、彼の隣にいる女の子が気になってしまう。
玲奈はゆっくり息を吐いた。
今日、真樹にまた誘ってもいいかと尋ねた。
真樹は、もちろんと答えてくれた。
それだけで、少しだけ勇気が出た。
玲奈はスマートフォンをもう一度手に取り、真樹とのメッセージ画面を開いた。
今日のお礼を送ろう。
そう思って文章を打ち始めたが、途中で指が止まった。
『今日はありがとう。すごく楽しかった』
それだけなら、いつもと変わらない。
玲奈は少し考え、もう一文を加えた。
『また、真樹と二人でゆっくり話せる時間があったら嬉しいな』
文章を見つめる。
少しだけ、いつもより踏み込んだ言葉だった。
けれど、嘘ではない。
玲奈は小さく息を吸い、送信ボタンを押した。
送ってしまったあと、急に恥ずかしくなった。
スマートフォンを机へ伏せたものの、すぐに気になって手に取ってしまう。
しばらくして、真樹から返事が届いた。
『こちらこそ、今日はありがとう』
『また予定が合うときに話そう』
玲奈は画面を見つめた。
特別な言葉ではなかった。
けれど、拒まれたわけでもない。
真樹は、また話そうと言ってくれた。
玲奈はスマートフォンを胸元へ引き寄せ、少しだけ笑った。
幼なじみとしての距離は、今も変わっていない。
けれど、自分の気持ちは少しずつ変わっている。
ただ待っているだけではなく、自分から誘い、自分の言葉で伝えていきたい。
玲奈はそう思いながら、窓の外へ目を向けた。
冬の夜空には、静かな月明かりが広がっていた。
来週の火曜日には、ひよりと会う。
そのとき、自分はどんな気持ちで彼女と向き合うのだろう。
まだ答えは出ていない。
けれど、玲奈はひよりとの約束を大切にしたかった。
そして、真樹への気持ちも、簡単には諦めたくなかった。
玲奈は机の上のスマートフォンをそっと置き、明日の準備を始めた。
今日よりも少しだけ、自分の気持ちに素直になれた気がしていた。




