第45話 約束が増える金曜日
金曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの向こうはまだ薄暗く、窓ガラスには冬の冷気が残っている。布団から出るのをためらいながらも、ひよりは枕元の時計を確認し、いつもより早く起きられたことに少し安心した。
今日は現代文の発表がある。
藤崎千夏と橘海斗の三人で準備してきた共同課題は、昨日の昼休みに最後の練習を終えた。発表時間は指定された七分以内に収まり、内容も三人で納得できるところまで整理できている。
それでも、本番となると緊張するものだった。
(ちゃんと話せるかな。練習では大丈夫だったけど、みんなの前だと違うもんね)
ひよりはベッドから起き上がり、机の上に置いていた発表原稿を手に取った。
最初の説明は自分の担当だ。
主人公が友人へ本心を伝えられなかった理由を、物語の流れに沿って紹介する。そこから海斗の考察につなぎ、最後に千夏が三人の意見をまとめる構成になっていた。
何度も読み直した文章なのに、今朝は少しだけ違って見えた。
登場人物の気持ちを考えることは、思っていた以上に難しい。
自分が正しいと思った行動でも、相手には違う意味で伝わることがある。相手を傷つけたくないと思って黙っていても、その沈黙がかえって相手を傷つけることもある。
ひよりは原稿の最後に書かれた一文を見つめた。
『相手を大切に思うなら、自分の気持ちだけでなく、相手が何を感じているのかを知ろうとすることも必要なのではないか』
千夏がまとめてくれた文章だった。
ひよりは、その言葉が好きだった。
(……佐伯君のことも、私はちゃんと分かってたつもりだったのかな)
先週の金曜日、ひよりは長く抱えていた気持ちを佐伯颯太へ伝えた。
返事は、友達としてしか見られないというものだった。
あの瞬間の胸の痛みは、今でも忘れられない。
けれど、颯太が自分を傷つけようとして断ったわけではないことも、分かっている。むしろ、曖昧な期待を持たせないように、きちんと言葉を選んでくれたのだと思う。
ひよりは原稿を閉じた。
今日で、告白からちょうど一週間になる。
まだ一週間しか経っていないのか、と少し驚いた。
泣いた日もあれば、笑った日もあった。
千夏に支えてもらい、家族と過ごし、北条真樹やノアと散歩をした。学校では海斗と課題に取り組み、一ノ瀬玲奈とは来週の火曜日にお茶をする約束もできた。
その一つ一つが、ひよりの毎日を支えてくれていた。
そして今日は、放課後に真樹と会う予定がある。
昨日の夜、真樹から書店への外出についてもう少し話そうと誘われたのだ。場所はいつもの公園の入口で、授業が終わったあとに待ち合わせることになっている。
(発表が終わったら、北条君に会えるんだ)
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
ひよりは原稿を鞄へしまい、制服に着替え始めた。
今日の発表をきちんと終わらせたい。
そして、放課後には楽しい気持ちで真樹に会いたかった。
◇ ◇ ◇
青葉高校へ到着すると、教室にはすでに何人かの生徒が集まっていた。
現代文の発表があるためか、普段より早く登校している生徒もいる。教室の後方では、別の班の生徒たちが小声で原稿を確認していた。
ひよりが自分の席へ向かうと、千夏が顔を上げた。
「おはよう、ひより。ちゃんと眠れた?」
「おはよう。うん、眠れたよ。でも、朝からちょっと緊張してる」
「私も。昨日は大丈夫だと思ってたんだけど、いざ今日になると落ち着かないね」
千夏は笑いながら、机の上に置いた発表資料を指先で揃えた。
ひよりは隣の椅子へ腰を下ろし、鞄から原稿を取り出した。
「最後に一回だけ確認してもいい?」
「もちろん。橘君が来たら、三人で順番も確認しよう」
二人が話しているところへ、海斗が教室へ入ってきた。
「おはよう。二人とも早いな」
「橘君、おはよう!」
ひよりが顔を上げると、海斗は軽く手を振った。
「今日が本番だもんな。俺も何となく早く来ちゃった」
「橘君も緊張してる?」
「してる。昨日、家で原稿読んでたら、途中で一回噛んだし」
海斗が苦笑すると、ひよりは少し驚いた。
「えっ、橘君でも?」
「俺を何だと思ってるんだよ。普通に緊張するって」
その返事に、千夏が笑った。
「よかった。私たちだけじゃなかったんだね」
三人は顔を見合わせ、自然に笑い合った。
ひよりは少し肩の力が抜けるのを感じた。
海斗は普段から落ち着いていて、話し合いでも自分の意見を分かりやすく伝えてくれる。だから、人前で話すことにも慣れているのだと思っていた。
けれど、本人も緊張しているらしい。
それを隠さず話してくれたことが、ひよりには嬉しかった。
「じゃあ、三人とも緊張してるってことで、失敗しても助け合おうね」
ひよりが言うと、海斗は頷いた。
「そうだな。誰かが詰まったら、次の人が少し助ければいいし」
「うん。私も、二人の担当部分は大体覚えてるから」
千夏も笑った。
三人は机を寄せ、原稿の順番を確認し始めた。
ひよりが最初の説明を読み、海斗が考察へつなぐ。千夏が最後に全体をまとめる。
何度も練習した流れだった。
それでも、今朝は三人で一つの発表を作っていることが、いつも以上にはっきり感じられた。
ひよりは原稿を見ながら、二人へ視線を向けた。
「……今日、頑張ろうね」
海斗は穏やかに笑った。
「ああ。ここまで準備したんだから、大丈夫だろ」
千夏も頷いた。
「うん。ちゃんと伝わる発表にしよう」
三人は最後にもう一度資料を揃え、それぞれの席へ戻った。
海斗は自分の席へ向かいながら、ひよりの表情を思い出していた。
緊張していると言いながらも、最後には二人を励まそうとしていた。
そんなひよりの姿が、何となく心に残った。
(……天野って、自分も不安なのに、周りのこと考えるんだな)
海斗は椅子へ座り、教科書を机へ置いた。
今日の発表が終わったら、ひよりと話す機会は少し減るかもしれない。
共同課題があったからこそ、ここ数日は毎日のように三人で集まっていた。
それが終わることを考えると、海斗は少しだけ物足りなさを感じた。
けれど、その理由を深く考える前に、朝のホームルームを知らせる予鈴が鳴った。
◇ ◇ ◇
私立桜陵学園では、北条真樹が朝の教室でスマートフォンを確認していた。
ひよりから届いたメッセージには、今日の現代文の発表について書かれていた。
『今日は発表があるから、ちょっと緊張してるんだ』
『でも、頑張ってくるね!』
真樹はその文章を読み、少し考えてから返信した。
『準備してきたんだろ』
『落ち着いてやれば大丈夫だと思う』
ひよりからは、すぐに返事が届いた。
『ありがとう! 北条君にそう言ってもらえると安心する』
真樹は画面を見つめた。
自分が特別なことを言ったわけではない。
それでも、ひよりが少しでも安心してくれるなら嬉しかった。
スマートフォンを閉じようとしたところで、神崎蓮が隣へやってきた。
「おはよう、真樹。朝から機嫌よさそうだな」
「……そう見えるか?」
「見える。少なくとも、昨日よりは」
蓮は笑いながら隣の席へ腰を下ろした。
真樹は小さく息を吐いた。
「今日、天野と会う約束をしてる」
「へえ。書店へ行く日が決まったのか?」
「いや、まだだ。放課後に少し会って、予定を相談する」
蓮は納得したように頷いた。
「なるほど。じゃあ、今日はそのために早く帰るんだな」
「……別に、そういうわけじゃない」
「そういうわけじゃないなら、何で朝から時間気にしてるんだ?」
真樹は思わず教室の時計を見た。
蓮が笑い出す。
「ほら」
「……お前、最近そういうことばっかり言うな」
「だって、分かりやすいんだもん」
蓮は楽しそうに笑った。
真樹は反論するのを諦め、教科書を開いた。
けれど、蓮の言葉を完全に否定できないことも分かっていた。
今日はひよりに会える。
それだけで、朝から少し落ち着かない。
真樹は自分の気持ちを隠すように、教科書へ視線を落とした。
そのとき、教室の入口から声が聞こえた。
「真樹、おはよう」
一ノ瀬玲奈だった。
真樹が顔を上げると、玲奈は穏やかに微笑んでいた。
「一ノ瀬。おはよう」
「明日のことなんだけど、時間は決まりそう?」
玲奈は昨日、土曜日の午後にノアの散歩へ一緒に行く約束をしていた。
真樹は少し考え、答えた。
「午後一時くらいでどうだ?」
「うん、大丈夫。いつもの公園でいい?」
「ああ。入口で待ち合わせればいいだろ」
玲奈の表情が明るくなった。
「分かった。楽しみにしてるね」
真樹は頷いた。
「ノアも喜ぶと思う」
玲奈はその言葉に笑顔を浮かべた。
けれど、すぐに少しだけ考え込んだ。
真樹はノアが喜ぶと言ってくれた。
もちろん、それは嬉しい。
けれど、自分が会いに行くことを、真樹自身も楽しみにしてくれているのだろうか。
そんなことを考えてしまった。
(……また、余計なこと考えてる)
玲奈は気持ちを切り替え、もう一度笑った。
「じゃあ、明日ね」
「ああ」
真樹が答えると、玲奈は教室を離れた。
蓮はその後ろ姿を見送り、少しだけ考え込んだ。
玲奈は真樹と話しているとき、明らかに嬉しそうだった。
けれど、真樹はそのことに気づいている様子がない。
蓮は何か言いかけたが、結局口を閉じた。
本人たちの気持ちを勝手に決めつけるのはよくない。
それに、真樹がひよりを好きだということも知っている。
蓮は少しだけ複雑な気持ちになりながら、自分の席へ戻った。
◇ ◇ ◇
現代文の授業が始まると、教室にはいつもより緊張した空気が流れていた。
教壇の横には発表用の資料を置く机が用意され、黒板には各班の順番が書かれている。
ひよりたちの班は三番目だった。
最初の班が発表を始めると、ひよりは原稿を膝の上に置き、静かに耳を傾けた。
同じ短編小説を扱っていても、班によって注目する部分が違う。
主人公の家庭環境を中心に考えた班もあれば、友人との関係の変化を重視した班もあった。
ひよりはその違いを興味深く感じながらも、自分たちの順番が近づくにつれて、少しずつ緊張が強くなっていくのを感じた。
(……大丈夫。練習したとおりに話せばいいんだよね)
二番目の班が発表を終えた。
担当教員が黒板へ簡単な評価を書き込み、次の班を呼ぶ。
「では、次は藤崎さんたちの班ですね。準備をお願いします」
千夏が立ち上がった。
ひよりも原稿を持ち、海斗と一緒に教壇へ向かう。
教室の前へ立つと、普段は気にならないクラスメイトたちの視線が、一斉にこちらへ向けられた。
ひよりは思わず原稿を握り直した。
そのとき、隣に立った海斗が小さな声で言った。
「天野、ゆっくりで大丈夫だから」
ひよりは顔を上げた。
海斗はいつもの穏やかな表情で頷いていた。
その一言で、少しだけ呼吸が落ち着いた。
「……うん。ありがとう」
ひよりは小さく頷き、前を向いた。
千夏が最初に班のテーマを紹介し、ひよりへ視線を送る。
ひよりは原稿を一度見てから、教室へ向かって話し始めた。
「私たちの班では、主人公が最後まで自分の気持ちを伝えられなかった理由について考えました」
最初の一文は、少しだけ声が硬かった。
けれど、二文目からは落ち着いて話せた。
物語の流れを説明し、主人公が友人へ本心を伝えられなかった場面を紹介する。
ひよりは何度か教室全体へ視線を向けながら、練習した内容を一つずつ伝えていった。
途中、原稿の一行を読み飛ばしそうになった。
けれど、慌てずに言い直すことができた。
そして、最後に海斗へ視線を向ける。
「ここからは、主人公が気持ちを伝えられなかった理由について、私たちが考えたことを説明します」
海斗が一歩前へ出た。
「主人公は、相手を傷つけたくないと思っていたのだと考えられます。ただ、それだけではなく、自分自身が傷つくことを恐れていた可能性もあります」
海斗の声は、教室の後ろまで届くほどはっきりしていた。
ひよりは隣で聞きながら、少しだけ安心した。
海斗は緊張していると言っていた。
それでも、準備してきた内容を丁寧に伝えている。
その姿を見て、自分も最後まで頑張ろうと思えた。
海斗は主人公の行動と、相手の人物の反応を比較しながら説明を続けた。
「主人公は、相手が笑ってくれたことで安心しています。しかし、その笑顔が本当に嬉しさから生まれたものなのか、確認していません。相手を大切に思っていても、その気持ちだけで相手の考えを理解できるわけではないのだと思います」
海斗は一度言葉を区切り、千夏へ視線を向けた。
千夏が最後のまとめを始める。
「私たちは、この物語で大切なのは、誰か一人が悪いと決めることではないと考えました」
千夏は落ち着いた声で続けた。
「主人公には主人公の不安があり、相手には相手の寂しさがあります。お互いを大切に思っていても、言葉にしなければ伝わらないことがあります」
ひよりはその言葉を聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
三人で何度も話し合ってきたことが、ようやく一つの形になった。
千夏が最後の文章を読み終えると、教室には短い静けさが訪れた。
そのあと、担当教員が頷いた。
「ありがとうございました。では、質問のある人はいますか」
教室の後方で、一人の女子生徒が手を上げた。
「主人公が最後に本当のことを言っていたら、二人の関係は変わったと思いますか?」
ひよりは少し考えた。
準備してきた内容には、直接の答えがない質問だった。
けれど、昨日までの話し合いを思い出すと、自分なりに答えられる気がした。
ひよりは千夏と海斗へ視線を向けた。
二人が頷いたので、ひよりは一歩前へ出た。
「変わった可能性はあると思います。でも、必ずいい結果になったかどうかは分からないと思います」
教室が静かになった。
ひよりは少しだけ言葉を選びながら続けた。
「気持ちを伝えたからといって、相手が同じ気持ちになるとは限らないです。でも、伝えなかったことで、相手は最後まで主人公の本心を知ることができませんでした」
ひよりは一度息を吸った。
「だから、結果が変わったかどうかよりも、二人がちゃんと話せる機会があったかどうかが大切だったんじゃないかなと思います」
言い終えると、少しだけ緊張が戻ってきた。
けれど、担当教員は穏やかに頷いた。
「いい考えですね。物語の結末を一つに決めつけず、人物同士の関係に注目できています」
ひよりはほっと息を吐いた。
千夏と海斗も、隣で小さく笑っていた。
発表を終えて席へ戻ると、ひよりはようやく肩の力を抜いた。
緊張した。
けれど、楽しかった。
自分たちが考えてきたことを、ちゃんと伝えられた気がした。
◇ ◇ ◇
授業が終わると、ひよりは千夏と海斗のところへ向かった。
「二人とも、お疲れさま!」
千夏は嬉しそうに笑った。
「お疲れ! ひより、最後の質問、すごくよかったよ」
「本当? 急に聞かれたから、ちょっと焦っちゃった」
「でも、ちゃんと答えられてたじゃん」
海斗も頷いた。
「俺も、あの答えはよかったと思う。結果が変わったかどうかより、話せる機会があったかどうかっていうところ」
ひよりは少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、二人と話してなかったら、ああいう考え方はできなかったと思う」
海斗はその言葉を聞き、穏やかに笑った。
「俺も同じだよ。天野と藤崎の意見を聞いて、考えが変わったところもあったし」
千夏は二人を見比べながら頷いた。
「じゃあ、三人で頑張ったってことでいいね」
「うん!」
ひよりが笑うと、海斗も笑った。
そのあと、三人は担当教員から簡単な講評を受けた。
発表内容はよく整理されており、引用した文章と考察のつながりも分かりやすかったという。ただし、最後のまとめはもう少し簡潔にしてもよかったらしい。
千夏はその指摘をノートへ書き留めた。
「次に発表があったら、そこ気をつけよう」
ひよりは頷いた。
「うん。でも、無事に終わってよかったね」
海斗も安心したように笑った。
「これでしばらくは、昼休みに原稿読まなくて済むな」
「そうだね。最近、ずっと課題の話ばっかりだったもんね」
ひよりが答えると、海斗は一瞬だけ黙った。
課題が終わった。
それは嬉しいことのはずだった。
けれど、同時に少しだけ寂しく感じた。
明日からは、三人で集まる理由がなくなる。
ひよりと話す機会も、以前のように授業や休み時間の偶然に戻るのだろうか。
海斗はそんなことを考え、自分でも少し驚いた。
(……別に、課題が終わったからって話せなくなるわけじゃないだろ)
そう思うのに、何となく気になってしまう。
ひよりはそんな海斗の様子に気づかず、千夏と発表の感想を話していた。
海斗は二人の会話を聞きながら、少しだけ考えた。
課題が終わっても、普通に話しかければいい。
それだけのことだ。
けれど、今までのように自然な理由がなくなると、少しだけ勇気が必要になる気がした。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひよりは千夏と一緒に弁当を食べていた。
現代文の発表が終わったことで、二人ともいつもより気持ちが軽かった。
「ひより、今日の卵焼き美味しそう」
「お母さんが多めに入れてくれたんだ。昨日、美味しかったって言ったから」
「いいなあ。ひよりのお母さん、優しいね」
「うん。千夏も一個食べる?」
「いいの?」
「もちろん!」
ひよりは弁当箱から卵焼きを一つ取り、千夏へ差し出した。
千夏は嬉しそうに受け取り、一口食べた。
「……美味しい! 甘さがちょうどいいね」
「でしょ? 私も大好きなんだ」
二人は笑い合った。
そのあと、千夏はふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、ひより。今日の放課後、北条君と会うんだっけ?」
「うん。書店へ行く予定のこと、もう少し話そうって」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
千夏はその表情を見て、少しだけ微笑んだ。
「楽しみだね」
「うん。北条君が普段行くところって、あんまり知らないから」
ひよりは箸を置き、少し考えた。
「今まではノアのお散歩で会うことが多かったでしょう? だから、北条君が一人のときにどんなことしてるのか、ちょっと気になるんだ」
「なるほどね」
千夏は頷いた。
ひよりの言葉には、恋愛的な意味を意識している様子はなかった。
けれど、誰かの好きなものを知りたいと思うことは、その人へ関心を持っている証拠でもある。
千夏はそれを分かっていた。
ただ、今のひよりに無理に恋愛を意識させるつもりはなかった。
「北条君、ひよりにいろいろ教えてくれるといいね」
「うん。私も、自分の好きな本の話とかしてみたいな」
ひよりは楽しそうに笑った。
そのとき、少し離れた席で弁当を食べていた海斗が、二人の会話を耳にした。
北条君。
聞き慣れない名前だった。
ひよりの知り合いなのだろうか。
海斗は何となく気になったが、会話へ割り込むことはしなかった。
ひよりには、学校の外にも友達がいる。
それは当たり前のことだ。
けれど、自分が知らない名前をひよりが楽しそうに話していることに、少しだけ不思議な感覚を覚えた。
(……誰なんだろうな)
海斗は弁当へ視線を戻した。
その疑問は、まだ小さなものだった。
◇ ◇ ◇
桜陵学園の昼休み、玲奈は友人の三浦沙耶と一緒に食堂へ向かっていた。
明日の土曜日には、真樹とノアの散歩へ行く約束がある。
午後一時、いつもの公園の入口で待ち合わせる予定だ。
玲奈はそのことを思い出すたび、少しだけ嬉しくなった。
けれど、同時に気になることもあった。
真樹は最近、ひよりとよく会っている。
先週の土曜日も日曜日も、一緒に過ごしていたと聞いた。
明日は自分が真樹と会える。
それだけで嬉しいはずなのに、ひよりと過ごした時間と比べてしまう自分がいた。
「玲奈、何食べる?」
沙耶に声を掛けられ、玲奈は顔を上げた。
「あ、うん。今日は温かいものがいいかな」
「じゃあ、私はうどんにしようかな。玲奈は?」
「私もそれにしようかな」
二人は食券を買い、空いている席へ向かった。
食事を始めてしばらくすると、沙耶が何気なく尋ねた。
「そういえば、明日は北条君と会うんだよね?」
玲奈は少しだけ頬を赤くした。
「うん。ノアの散歩だけどね」
「いいじゃん。楽しみなんでしょ?」
「……うん」
玲奈は素直に頷いた。
沙耶はその表情を見て、少しだけ微笑んだ。
「玲奈って、北条君のことになると分かりやすいよね」
玲奈は思わず箸を止めた。
「えっ?」
「いや、悪い意味じゃないよ。昔から仲いいんだなって思って」
沙耶は自然な調子で答えた。
けれど、玲奈は少しだけ動揺した。
自分の気持ちは、そんなに分かりやすいのだろうか。
真樹にも気づかれているのだろうか。
そんな考えが浮かび、胸が落ち着かなくなった。
「……そんなに分かりやすい?」
玲奈が小さく尋ねると、沙耶は少し考えた。
「うーん。少なくとも、北条君と話してるときは嬉しそうだよ」
玲奈は視線を落とした。
嬉しい。
それは間違いない。
真樹と話せるだけで、気持ちが明るくなる。
けれど、最近はその嬉しさの裏に、不安も混ざるようになっていた。
「……そっか」
玲奈は小さく答えた。
沙耶はそれ以上からかわず、話題を変えた。
玲奈はその気遣いに感謝しながらも、しばらく自分の気持ちについて考えていた。
◇ ◇ ◇
放課後、ひよりは千夏と一緒に昇降口へ向かっていた。
現代文の発表が終わったことで、いつもより足取りが軽い。
ひよりは鞄の中の原稿を確認し、少しだけ笑った。
「何か、終わってみるとあっという間だったね」
「分かる。あんなに準備したのに、発表は七分くらいだもんね」
千夏は笑いながら頷いた。
二人が昇降口へ着くと、海斗が靴を履き替えているところだった。
「あ、天野、藤崎」
「橘君、お疲れさま!」
ひよりが声を掛けると、海斗は笑った。
「お疲れ。今日の発表、無事に終わってよかったな」
「うん。橘君もありがとう。資料を調べてくれたり、練習に付き合ってくれたり」
ひよりが言うと、海斗は少し照れたように笑った。
「俺も二人に助けられたし。こちらこそありがとう」
千夏も頷いた。
「また同じ班になったらよろしくね」
「もちろん」
海斗は笑った。
そのあと、ひよりが靴を履き替えるのを待ちながら、少しだけ迷った。
課題は終わった。
もう、三人で集まる理由はない。
けれど、ここでそのまま別れるのは、何となく惜しい気がした。
「……天野」
海斗が声を掛けると、ひよりは顔を上げた。
「何?」
「今度、また授業で分からないところがあったら、一緒に考えないか?」
言ってから、海斗は少しだけ後悔した。
あまりにも曖昧な誘いだった。
けれど、ひよりは自然に笑った。
「うん、もちろん! 橘君と話すと、いろんな考え方が分かって面白いから」
海斗はその返事に、ほっとした。
「そっか。じゃあ、また何かあったら声掛ける」
「うん。私からも聞くかもしれないけど、そのときはよろしくね」
ひよりは笑顔で答えた。
海斗は頷き、二人へ別れを告げた。
校門へ向かう途中、海斗は自分の言葉を思い返していた。
また一緒に考えないか。
それは課題の話だった。
けれど、本当は、課題がなくても話せる関係になりたいと思っていたのかもしれない。
(……何で、こんなこと気にしてるんだろうな)
海斗は少しだけ首を傾げた。
ひよりと話すのは楽しい。
それだけのことだと思っていた。
けれど、最近は彼女の笑顔を見ると、以前より嬉しくなる。
自分の知らない誰かの話をしていると、少しだけ気になる。
その感情に、まだはっきりとした名前はつけられなかった。
◇ ◇ ◇
ひよりは千夏と駅まで一緒に歩いたあと、真樹との待ち合わせ場所へ向かった。
冬の夕方は日が傾くのが早く、公園へ続く道には長い影が伸びていた。
ひよりはマフラーを整えながら、スマートフォンを確認した。
真樹からは、学校を出たという連絡が届いている。
ひよりも、今から向かうと返信していた。
公園の入口が見えてくると、そこにはすでに真樹の姿があった。
黒いコートを着て、入口の脇で待っている。
今日はノアを連れていなかった。
ひよりは少しだけ驚きながら、足を速めた。
「北条君!」
声を掛けると、真樹が顔を上げた。
「天野。お疲れ」
「お疲れさま! 待たせちゃった?」
「いや、俺も今来たところだ」
真樹はそう答えた。
ひよりはほっと息を吐いた。
「よかった。今日はノア、いないんだね」
「ああ。今日は少し話すだけだから、家で待っててもらってる」
「そっか。ノアにも会いたかったけど、また今度だね」
ひよりは笑った。
真樹も小さく頷いた。
二人は公園の中へ入り、いつものベンチへ向かった。
夕方の公園には、散歩をする人や帰宅途中の学生が何人かいた。木々の葉は少なくなり、枝の間から冬の空がよく見える。
ひよりはベンチへ腰を下ろし、真樹を見上げた。
「今日はありがとう。わざわざ時間作ってくれて」
「俺が誘ったんだから、気にするな」
真樹は隣へ座った。
ひよりは少し笑い、鞄を膝の上へ置いた。
「そういえば、今日の発表、無事に終わったよ!」
真樹が顔を向けた。
「そうか。どうだった?」
「すごく緊張したけど、ちゃんと話せたと思う。先生にも褒めてもらえたんだ」
ひよりは嬉しそうに話した。
千夏と海斗の三人で準備したこと。
発表中に質問を受けて、少し焦ったこと。
それでも、自分なりに考えて答えられたこと。
真樹は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
「……よかったな」
ひよりが話し終えると、真樹は穏やかに言った。
「準備してきたことが、ちゃんと伝わったんだろ」
「うん。二人のおかげでもあるけどね」
ひよりは笑った。
「千夏が全体をまとめてくれて、橘君が資料を調べてくれたの。私は登場人物の気持ちを考える担当だったんだけど、二人の意見を聞いて、すごく勉強になったよ」
真樹は頷いた。
橘君。
初めて聞く名前だった。
ひよりの学校の同級生なのだろう。
真樹は少しだけ気になったが、表情には出さなかった。
「いい班だったんだな」
「うん! また一緒に何かできたらいいなって思った」
ひよりは素直に答えた。
真樹はその笑顔を見ながら、少しだけ複雑な気持ちになった。
ひよりには、自分の知らない学校生活がある。
千夏のことは何度か聞いているが、海斗という男子については知らなかった。
当然のことだ。
ひよりは青葉高校に通い、自分は桜陵学園に通っている。
毎日同じ教室で過ごしているわけではない。
それでも、ひよりが楽しそうに別の男子の話をしていると、少しだけ胸が落ち着かなくなる。
(……何を気にしてるんだ、俺は)
真樹は小さく息を吐いた。
ひよりが学校で楽しく過ごせているなら、それは嬉しいことだ。
自分の知らない友達がいることも、当たり前だ。
真樹は気持ちを切り替え、話題を変えた。
「そういえば、本屋のことなんだけど」
ひよりの表情が明るくなった。
「うん!」
「場所は駅から少し歩いたところにある。大きな店じゃないけど、落ち着いて本を見られるんだ」
「いいね。私、そういうお店好きだよ」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
「北条君は、そこでどんな本を買うの?」
真樹は少し考えた。
「小説も読むし、歴史関係の本も見る。あとは、気になったものを適当に」
「歴史の本も読むんだ?」
「ああ。昔の出来事とか、人物の考え方を知るのは面白いからな」
ひよりは感心したように目を丸くした。
「へえ……北条君らしいかも」
「そうか?」
「うん。何となくだけど、静かに本を読んでる姿が想像できる」
ひよりは笑った。
真樹も少しだけ口元を緩めた。
「天野は?」
「私は小説が多いかな。恋愛ものも読むし、日常系の話も好き。あと、表紙が可愛いとつい手に取っちゃう」
「なるほどな」
「でも、北条君が好きな本も見てみたいな。自分じゃ選ばない本って、面白そうだし」
ひよりの言葉に、真樹は少しだけ胸が温かくなった。
自分の好きなものを知りたい。
そう言ってくれることが嬉しかった。
「じゃあ、何冊か紹介する」
「本当? 楽しみ!」
ひよりは笑顔になった。
そのあと、二人は予定について話し合った。
ひよりは来週の火曜日に玲奈とお茶をする約束がある。
真樹も明日の土曜日には玲奈とノアの散歩へ行く予定だった。
それぞれの予定を確認しながら、無理のない日を探す。
「来週の土曜日はどうだ?」
真樹が尋ねると、ひよりは少し考えた。
「来週の土曜日なら、今のところ大丈夫だと思う。でも、家の予定を確認してからでもいい?」
「もちろん。急ぐ必要はないからな」
ひよりは安心したように笑った。
「ありがとう。帰ったら確認して、連絡するね」
「ああ」
真樹は頷いた。
具体的な日程が決まりそうになったことが、嬉しかった。
けれど、ひよりに無理をさせたくはない。
予定が合わなければ、別の日にすればいい。
そう思いながらも、来週の土曜日が空いていてほしいと願っている自分がいた。
◇ ◇ ◇
公園を出るころには、空が少し暗くなり始めていた。
ひよりはマフラーを整え、真樹と並んで駅へ向かった。
今日はノアがいないため、いつもより歩く速度が少し速い。
ひよりはその違いを感じながら、隣の真樹を見上げた。
「北条君、今日はありがとう」
「何度も言わなくていい」
「でも、嬉しかったから」
ひよりは笑った。
真樹は少しだけ視線を逸らした。
「……そうか」
その反応が少しおかしくて、ひよりは小さく笑った。
真樹は普段、落ち着いている。
けれど、時々こうして照れたような反応をすることがある。
ひよりはそんな一面を見つけるのが、少し楽しかった。
「北条君って、意外と照れ屋さんだよね」
真樹が足を止めた。
「……何だ、急に」
「だって、褒めるとちょっと困った顔するから」
ひよりは楽しそうに笑った。
真樹は小さく息を吐いた。
「天野が急にそういうこと言うからだろ」
「えっ、私のせい?」
「そうだな」
真樹が真面目な顔で答えると、ひよりは少し驚いたあと、声を上げて笑った。
「もう、北条君ってば!」
真樹もわずかに笑った。
ひよりが笑っている。
それだけで、今日会ってよかったと思えた。
駅が近づくと、ひよりは少しだけ歩く速度を落とした。
まだ話していたい。
そんな気持ちが、自然に浮かんできた。
けれど、家族も待っているし、真樹にも帰宅後の予定があるだろう。
ひよりはその気持ちを胸にしまい、改札の前で立ち止まった。
「じゃあ、また連絡するね」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「北条君もね」
ひよりは笑顔で手を振った。
真樹も軽く手を上げる。
改札を通ったあと、ひよりは一度だけ振り返った。
真樹はまだそこにいた。
目が合うと、真樹が小さく頷いた。
ひよりはもう一度手を振り、ホームへ向かった。
その姿が見えなくなるまで、真樹はしばらく立っていた。
◇ ◇ ◇
同じころ、玲奈は自宅で明日の準備をしていた。
土曜日の午後一時、真樹とノアの散歩へ行く。
それだけの予定なのに、何を着ていこうか迷っていた。
クローゼットを開き、何枚かの服を取り出す。
普段の散歩なら、動きやすい服装で十分だ。
けれど、明日は少しだけ可愛く見られたいと思ってしまう。
(……真樹、気づいてくれるかな)
玲奈は鏡の前でカーディガンを合わせた。
落ち着いた色のもの。
それとも、少し明るい色のもの。
何度か着替えてみたあと、玲奈は自分の行動がおかしくなり、小さく笑った。
真樹は服装の変化にあまり気づかない。
昔からそうだった。
それでも、少しだけ期待してしまう。
玲奈は明るい色のカーディガンを選び、椅子の背へ掛けた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
ひよりからのメッセージだった。
『玲奈ちゃん、来週の火曜日、学校が終わってからで大丈夫だよ!』
『お店、決まったら教えてね』
玲奈は画面を見つめた。
来週の火曜日には、ひよりとお茶をする。
自分から誘った約束だった。
ひよりが楽しみにしてくれていることは、嬉しい。
けれど、明日の真樹との散歩を考えていたところだったため、少しだけ気持ちが揺れた。
玲奈はしばらく迷ったあと、返信した。
『ありがとう! じゃあ、火曜日の放課後にしようね』
『お店は明日までに探しておくね』
送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。
『うん! 楽しみにしてるね』
玲奈はスマートフォンを置いた。
ひよりは優しい。
自分と仲良くなろうとしてくれている。
そのことが嬉しいのに、真樹のことを考えると、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
(……私、ひよりちゃんのこと、ちゃんと友達として見られてるのかな)
玲奈は鏡の中の自分を見つめた。
ひよりを嫌いになりたいわけではない。
むしろ、もっと仲良くなりたいと思っている。
けれど、真樹の隣にいるひよりを想像すると、どうしても落ち着かなくなる。
玲奈は小さく息を吐いた。
明日は、真樹とゆっくり話せる。
その時間を大切にしたい。
玲奈は選んだカーディガンを丁寧に畳み、明日の鞄の横へ置いた。
◇ ◇ ◇
夜、ひよりは自宅のリビングで家族と夕食を取っていた。
今日の現代文の発表について話すと、由美も浩介も嬉しそうに聞いてくれた。
「よかったじゃないか、ひより。ちゃんと準備した成果が出たんだな」
浩介が言うと、ひよりは笑顔で頷いた。
「うん。千夏と橘君のおかげでもあるけどね」
「友達と協力して頑張れるのは、いいことよ」
由美も微笑んだ。
美月は隣で話を聞きながら、妹の表情が明るいことに安心していた。
金曜日の告白から、今日で一週間。
ひよりは少しずつ、自分の生活を取り戻している。
美月はそのことを嬉しく思った。
夕食が終わったあと、ひよりは家族へ来週の土曜日の予定を確認した。
「お母さん、来週の土曜日って、何か家の予定ある?」
由美は少し考えた。
「今のところ、特にないと思うけど。どうしたの?」
「友達と本屋さんに行く約束をしてて」
ひよりが答えると、悠一が顔を上げた。
「友達?」
「うん。北条君」
悠一の表情が少しだけ変わった。
「……北条君か」
美月は兄の反応を見て、思わず苦笑した。
「お兄ちゃん、また変なこと考えてるでしょ」
「いや、別に」
「顔に出てるよ」
ひよりは二人を見比べ、少しだけ首を傾げた。
「北条君とは前から仲良くしてるし、今度はノアのお散歩じゃなくて、本屋さんに行ってみようって話になったんだ」
悠一は少し考えたあと、頷いた。
「……そうか。楽しんでこいよ」
ひよりは驚いたように目を丸くした。
「えっ、お兄ちゃん、今日は何も聞かないの?」
「俺だって、いつも質問攻めにするわけじゃないぞ」
悠一が少し不満そうに答えると、美月が笑った。
「成長したね、お兄ちゃん」
「美月、お前は黙ってろ」
家族の間に笑いが広がった。
ひよりも笑いながら、由美へ視線を向けた。
「じゃあ、来週の土曜日、行ってきてもいい?」
「もちろん。帰る時間だけ分かったら連絡してね」
「うん!」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
夕食のあと、自室へ戻ると、すぐに真樹へメッセージを送った。
『北条君、来週の土曜日、大丈夫だったよ!』
少しして返事が届いた。
『そうか。じゃあ、来週の土曜日にしよう』
ひよりは笑顔になった。
『うん! 楽しみにしてるね』
真樹からの返事は短かった。
『俺も楽しみにしてる』
ひよりはその言葉を見つめた。
真樹も楽しみにしてくれている。
それが嬉しかった。
ひよりはスマートフォンを胸元へ引き寄せ、ベッドへ腰を下ろした。
来週の火曜日は玲奈とお茶。
来週の土曜日は真樹と書店。
少し先の予定が、二つ増えた。
ひよりは窓の外へ視線を向けた。
冬の夜空には、星がいくつか見えている。
先週の金曜日には、こんなふうに来週の予定を楽しみにできるとは思っていなかった。
けれど、今は違う。
ひよりは小さく笑い、スマートフォンを机へ置いた。
明日は土曜日。
学校は休みだ。
今日は現代文の発表も終わったし、少しゆっくりできそうだった。
ひよりは明日の予定を考えながら、部屋の明かりを落とした。
その胸には、今日の達成感と、これからの楽しみが静かに残っていた。




