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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第44話 隣にいる理由が、欲しかった



木曜日の朝、天野ひよりは玄関で靴を履きながら、鞄の中身をもう一度確かめていた。


現代文の教科書、昨日書き直した発表用のノート、橘海斗から渡された参考資料。すべて揃っていることを確認すると、ひよりはようやく安心して鞄のファスナーを閉じた。


今日の昼休みには、藤崎千夏と海斗の三人で発表の最終確認をする予定だった。


昨日までの話し合いで内容はほとんどまとまっている。あとは時間内に説明できるか、三人の担当部分が自然につながるかを確認するだけだ。


(昨日は途中で説明が長くなっちゃったから、今日は気をつけないと)


ひよりはノートに書き込んだ注意点を思い出しながら、玄関の鏡でマフラーを整えた。


「ひより、忘れ物はない?」


台所から由美の声が聞こえた。


「うん、大丈夫! ちゃんと確認したよ」


「お弁当は?」


「あっ」


ひよりは思わず足を止めた。


背後から、母の笑い声が聞こえる。


「ほら、やっぱり。今日は冷蔵庫の横に置いてあるから、持っていきなさい」


「ありがとう、お母さん!」


ひよりが慌てて台所へ戻ると、由美は布に包んだ弁当箱を差し出してくれた。


「今日は卵焼きを少し多めに入れておいたわ。昨日、美味しかったって言ってくれたから」


「やった! お母さんの卵焼き、大好き」


ひよりが嬉しそうに受け取ると、由美は優しく微笑んだ。


ここ数日、娘の表情が少しずつ明るくなっている。


何があったのか詳しく聞いてはいないけれど、学校へ向かう足取りが軽くなったことは、母親として嬉しかった。


「行ってきます!」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


玄関の扉を開けると、冬の冷たい空気が頬に触れた。


ひよりはマフラーへ顎を埋め、駅へ向かって歩き始めた。


昨日の夜、北条真樹とは今度一緒に書店へ行く話をした。


まだ日程は決まっていない。


けれど、真樹が普段立ち寄る場所を教えてくれることが嬉しくて、ひよりは今朝も少しだけそのことを考えていた。


(北条君、どんな本が好きなんだろう。今度聞いてみようかな)


そう思ったところで、ひよりは小さく笑った。


会ったときに聞けばいいことを、今からあれこれ考えている。


それだけ楽しみにしているのだろう。


ひよりは歩く速度を少し上げ、駅へ向かった。


◇ ◇ ◇


青葉高校の教室では、千夏が朝から何やら忙しそうにノートを広げていた。


「千夏、おはよう!」


「おはよう、ひより。ちょうどよかった。昨日の発表原稿、少しだけ直したんだけど、見てもらえる?」


「もちろん!」


ひよりは鞄を置き、千夏の隣へ椅子を寄せた。


ノートには、昨日までの話し合いで出た意見が整理されている。


主人公が相手へ気持ちを伝えられなかった理由。


相手を傷つけたくないという思いやりと、自分自身が傷つくことへの恐れ。


そして、言葉にしなかったことで生まれた誤解。


三人で考えた内容が、分かりやすくまとめられていた。


「すごい、千夏。昨日よりずっと読みやすくなってる」


「本当? よかった。ひよりと橘君の意見を両方入れたかったから、ちょっと悩んじゃって」


「でも、どっちの考えもちゃんと伝わると思うよ」


ひよりは頷きながら、文章を読み進めた。


途中で少しだけ気になるところを見つけ、指先で示す。


「ここ、主人公が相手を思いやってたって書いてあるけど、相手がどう受け取ったかも一緒に説明した方がいいかな?」


「確かに。じゃあ、その次の文章とつなげようか」


二人が相談していると、教室の入口から海斗が入ってきた。


「おはよう。二人とも、もう始めてるのか?」


「おはよう、橘君。千夏が原稿を直してきてくれたんだよ」


ひよりが説明すると、海斗は感心したように目を丸くした。


「藤崎、仕事早いな。俺も昨日、発表の時間を測ってみたんだけど、少し長くなりそうだった」


「えっ、もう測ってくれたの?」


ひよりが驚くと、海斗は少し照れくさそうに笑った。


「自分の担当だけだけどな。話してると、思ったより時間かかるんだよ」


「それなら、今日の昼休みに調整しよう。私も読む速度を気をつけないと」


千夏が言うと、三人は頷き合った。


そのあと、海斗は自分の席へ向かおうとしたが、ふと思い出したように振り返った。


「そうだ、天野。昨日の最後のところ、もう一回考えてみたんだけどさ」


「うん?」


「主人公が最後に相手へ何も言わなかったのって、優しさだけじゃなくて、相手の返事を聞く覚悟がなかったからかもしれないなって」


ひよりは少しだけ目を瞬かせた。


海斗の言葉は、昨日までの話し合いともつながっていた。


「……そうかもしれないね」


ひよりはゆっくり頷いた。


「相手のことを大切に思ってても、ちゃんと向き合うのは怖いもんね」


海斗はその返事を聞き、少しだけ表情を緩めた。


「うん。だから、主人公を責めるだけの発表にはしたくないなって思ったんだ」


「私もそう思う。怖くて言えなかった気持ちも、ちゃんと考えたいよね」


ひよりは自然に微笑んだ。


海斗はその笑顔を見て、胸の奥が少し温かくなった。


ひよりは、自分の意見をすぐに否定しない。


考え方が違っても、まず聞いてくれる。


そして、自分が気づかなかったところを見つけると、素直に喜んでくれる。


そんなところが、海斗には心地よかった。


「じゃあ、その意見も昼休みに話そう」


ひよりが言うと、海斗は頷いた。


「分かった。忘れないようにメモしとく」


海斗が自分の席へ向かうと、千夏はひよりの横顔を見た。


ひよりはノートへ新しい意見を書き加えている。


その表情は真剣で、楽しそうだった。


千夏は少しだけ安心した。


金曜日の告白から、まだ一週間も経っていない。


ひよりが颯太への気持ちを完全に整理できたとは思わない。


けれど、こうして目の前の課題へ向き合い、友達と話している時間を楽しめている。


それは、確かな変化だった。


◇ ◇ ◇


同じころ、私立桜陵学園では、一ノ瀬玲奈が教室の入口から廊下を覗いていた。


まだ朝のホームルームまで時間がある。


真樹の教室は同じ階にあり、少し歩けば着く距離だった。


以前なら、用事があれば何も考えずに声を掛けに行っていた。


けれど、今日は違う。


玲奈は鞄の持ち手を握り直し、何度か深呼吸をした。


(……別に、変なことじゃないよね)


昨日、真樹をノアの散歩へ誘った。


けれど、学校の用事があるという理由で断られた。


別の日なら大丈夫だと言ってくれたのだから、今日もう一度予定を聞いても不自然ではないはずだ。


それでも、玲奈は少し緊張していた。


自分から真樹との時間を作ろうとしている。


そのことを、以前より強く意識しているからだろう。


玲奈は廊下へ出て、真樹の教室へ向かった。


入口から中を覗くと、真樹は窓際の席で教科書を開いていた。


神崎蓮の姿は見えない。


玲奈は少しだけ安心し、声を掛けた。


「真樹、おはよう」


真樹が顔を上げた。


「一ノ瀬。おはよう」


「今、ちょっと時間ある?」


「ああ。どうした?」


玲奈は教室の入口に立ったまま、少しだけ迷った。


真樹はいつもどおりだった。


昨日、散歩の誘いを断ったことを気にしている様子もない。


それが少し寂しくもあり、安心でもあった。


「昨日は急に誘ってごめんね。学校の用事があったんだよね?」


「ああ。先生に頼まれた資料の確認があってな。思ったより時間がかかった」


玲奈は頷いた。


ひよりと会っていたわけではなかった。


そのことに、胸の奥が少し軽くなる。


けれど、すぐにそんな自分が嫌になった。


(……何で、安心してるんだろう)


真樹がひよりと会っていたとしても、悪いことではない。


それなのに、別の用事だったと分かっただけで嬉しくなってしまう。


玲奈はその気持ちを隠すように微笑んだ。


「そっか。お疲れさま。じゃあ、今度の土曜日とかはどうかな?」


真樹は少し考えた。


「土曜日か……」


その短い間が、玲奈には妙に長く感じられた。


真樹は机の上のスマートフォンを確認し、予定を思い出しているようだった。


玲奈は無意識に、その画面へ視線を向けそうになった。


けれど、すぐに目を逸らした。


誰との予定を確認しているのか、知りたい。


そんな気持ちが浮かんだことに、自分でも驚いた。


「土曜日は午後なら空いてると思う」


真樹が答えると、玲奈は顔を上げた。


「本当?」


「ああ。ただ、まだ家の予定を確認してないから、確定じゃないけどな」


「うん、それで大丈夫。もし予定がなかったら、久しぶりにノアとゆっくり散歩したいな」


玲奈は嬉しそうに笑った。


真樹も小さく頷いた。


「分かった。確認してから連絡する」


「ありがとう、真樹」


玲奈はそう答え、教室を離れようとした。


けれど、数歩進んだところで足を止めた。


土曜日の午後。


真樹とノアの散歩。


約束できるかもしれない。


それだけで、今朝の気持ちはずいぶん軽くなっていた。


玲奈は自分の教室へ戻りながら、スマートフォンを取り出した。


ひよりとのメッセージ画面には、昨日送った来週のお茶の誘いが残っている。


ひよりは予定を確認してから返事をすると言ってくれていた。


玲奈は画面を見つめ、少しだけ迷った。


真樹との散歩の予定が決まりそうなことを、ひよりへ話すべきだろうか。


けれど、まだ確定していない。


それに、わざわざ知らせる必要もない。


玲奈はスマートフォンを閉じた。


(……私、何を考えてるんだろう)


ひよりへ話したい気持ちと、話したくない気持ちが同時にあった。


自分が真樹と昔から親しいことを、ひよりに知っていてほしい。


けれど、そんなことをわざわざ伝えるのは、まるで自慢しているようで嫌だった。


玲奈は小さく息を吐き、教室へ戻った。


◇ ◇ ◇


昼休み、青葉高校の教室では、ひよりたちが発表の練習を始めていた。


千夏がスマートフォンのタイマーを準備し、海斗が資料を並べる。ひよりはノートを開き、最初の説明をもう一度確認した。


「じゃあ、始めるよ。時間は七分以内ね」


千夏が声を掛けると、二人は頷いた。


ひよりが最初の説明を読み上げる。


主人公が相手へ気持ちを伝えられなかった理由について、物語の流れを整理しながら話していく。


途中で少し言葉が詰まりそうになったが、昨日直した文章のおかげで、最後まで落ち着いて説明できた。


続いて海斗が考察を話し、千夏が全体をまとめる。


タイマーが止まったとき、表示されていたのは六分四十二秒だった。


「……やった! 時間内に収まった!」


ひよりが嬉しそうに声を上げると、千夏も笑った。


「よかった! 昨日よりずっと自然だったよ」


海斗も安心したように息を吐いた。


「これなら大丈夫そうだな。あとは明日の発表で緊張しなければ」


「それが一番難しいかも……」


ひよりが苦笑すると、千夏は肩をすくめた。


「大丈夫だよ。ひより、ちゃんと練習してるんだから」


「うん。頑張る」


ひよりは頷いた。


そのとき、海斗が少し考えたあと、ひよりへ声を掛けた。


「天野、最初の説明、昨日よりすごく分かりやすくなってた」


「本当?」


「うん。話す速度もちょうどよかったし、聞いてて内容が頭に入ってきた」


ひよりは嬉しそうに笑った。


「ありがとう。橘君が昨日、文章を分けた方がいいって言ってくれたおかげだよ」


海斗は少し照れたように笑った。


「いや、直したのは天野だろ」


「でも、気づかせてくれたのは橘君だもん」


ひよりはそう言って、ノートを閉じた。


海斗はその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。


自分がしたことを、ひよりはちゃんと覚えてくれている。


そのことが嬉しかった。


千夏は二人のやり取りを見ながら、少しだけ考え込んだ。


海斗はひよりに対して、以前よりも自然に気を配るようになっている。


課題の準備だけでなく、ひよりが話しやすいように言葉を選び、彼女の意見を大切にしている。


それは友人としての優しさかもしれない。


けれど、海斗がひよりを見るときの表情には、少しずつ違うものが混ざり始めているように感じられた。


千夏はそのことを口には出さなかった。


ひよりはまだ、颯太への気持ちを整理している途中だ。


海斗自身も、自分の感情をはっきり理解しているわけではないだろう。


今は、自然な関係を見守る方がいい。


千夏はそう思いながら、発表用の資料をまとめた。


◇ ◇ ◇


同じ昼休み、桜陵学園では玲奈が友人の三浦沙耶と一緒に昼食を取っていた。


沙耶は玲奈の様子を見ながら、少しだけ首を傾げた。


「玲奈、今日は機嫌いいね」


「えっ、そうかな?」


「うん。昨日はちょっと考え込んでたけど、今日は何か嬉しいことあった?」


玲奈は箸を止めた。


真樹と土曜日に会えるかもしれない。


そのことを話そうとして、少しだけ迷った。


「……幼馴染と、週末に会うかもしれないんだ」


沙耶はすぐに笑顔になった。


「北条君?」


「うん。ノアの散歩に一緒に行けたらいいなって」


「いいじゃん。玲奈、昔からノアのこと好きだもんね」


玲奈は頷いた。


ノアがまだ小さかったころ、真樹の家で一緒に遊んだことを思い出す。


最初は小さな身体で走り回っていたノアも、今では立派な大型犬になった。


真樹と一緒にノアを見守ってきた時間は、玲奈にとって大切な思い出だった。


「……うん。久しぶりにゆっくり会いたいなって」


玲奈が答えると、沙耶は少しだけ意味ありげに笑った。


「ノアに?」


玲奈は一瞬だけ固まった。


「……もちろん、ノアにも」


沙耶はその反応を見て、楽しそうに笑った。


「なるほどね」


「もう、沙耶。変なこと言わないでよ」


玲奈は頬を赤くしながら、弁当箱へ視線を落とした。


沙耶はそれ以上からかわなかった。


ただ、玲奈が真樹のことを話すとき、いつも少しだけ表情が変わることには気づいていた。


幼馴染という言葉だけでは説明できない感情が、そこにあるように思えた。


玲奈はそんな友人の視線に気づきながらも、何も言わなかった。


自分の気持ちを誰かへ話すには、まだ少し勇気が足りなかった。


◇ ◇ ◇


午後の授業が終わると、ひよりは千夏と一緒に教室を出た。


明日の現代文の発表に向けた準備は、ほとんど終わっている。あとは家で原稿を一度読み直し、明日の授業へ備えるだけだった。


「ひより、今日もまっすぐ帰る?」


千夏が尋ねると、ひよりは頷いた。


「うん。今日は早めに帰って、明日の準備をしようかな」


「そっか。じゃあ、駅まで一緒に行こう」


二人は並んで廊下を歩いた。


途中、別のクラスの生徒たちが何人か通り過ぎていく。


ひよりはその中に颯太の姿がないことを確認してから、自分が無意識に探していたことに気づいた。


(……まだ、気にしちゃうんだな)


少しだけ胸が痛んだ。


けれど、以前ほど苦しくはなかった。


颯太と話すことが怖いわけではない。


ただ、今はまだ、どんな顔で接すればいいのか分からないだけだ。


ひよりは小さく息を吐き、千夏の話へ意識を戻した。


「そういえば、ひより。北条君とのお出かけ、場所は決まった?」


千夏が尋ねると、ひよりは嬉しそうに顔を上げた。


「うん! 本屋さんに行くことになったよ」


「本屋さん?」


「北条君がたまに行くところなんだって。静かで落ち着いたお店らしいよ」


千夏は微笑んだ。


「へえ、北条君らしいね」


「でしょ? 私もそう思った」


ひよりは楽しそうに笑った。


千夏はその表情を見ながら、少しだけ考えた。


ひよりは真樹と過ごす時間を、本当に楽しみにしている。


けれど、それが恋愛感情なのかどうかは、まだ分からない。


ひより自身も、今はそんなことを考えていないのかもしれない。


「日程は?」


「まだ決まってないんだ。お互いの予定が合う日にしようって話してる」


「そっか。楽しみだね」


「うん!」


ひよりは素直に頷いた。


その笑顔を見て、千夏も嬉しくなった。


ひよりが誰かと過ごす時間を楽しみにできるようになったことが、何より大切だった。


◇ ◇ ◇


桜陵学園の放課後、真樹は教室で鞄をまとめていた。


今日は特に学校の用事もなく、早めに帰る予定だった。


そこへ蓮が近づいてきた。


「真樹、今日もまっすぐ帰るのか?」


「ああ。ノアの散歩もあるしな」


「そっか。そういえば、天野さんとのお出かけ、場所は決まったんだっけ?」


「本屋に行くことになった」


真樹が答えると、蓮は少し驚いたように笑った。


「へえ。お前がよく行くところ?」


「ああ。静かで落ち着いてるし、天野も本が好きらしいから」


蓮は頷いた。


「いいじゃん。お前らしい場所だな」


「……そうか?」


「そうだろ。無理に特別なところを選ぶより、自然でいいと思う」


真樹は少しだけ表情を緩めた。


蓮の言葉は、昨日から考えていたこととも重なっていた。


ひよりが楽しみにしてくれているなら、それで十分だ。


真樹はそう思いながら、鞄を肩へ掛けた。


そのとき、教室の入口から玲奈が顔を覗かせた。


「真樹、ちょっといい?」


真樹が振り返る。


「一ノ瀬。どうした?」


「今朝の土曜日のことなんだけど、予定どうかなって」


真樹は少し考えた。


家の予定は昼休みに確認していた。


特に外せない用事はない。


「午後なら大丈夫だと思う。いつもの公園でいいか?」


玲奈の表情がぱっと明るくなった。


「本当? うん、もちろん!」


真樹は頷いた。


「じゃあ、時間はまた連絡する」


「ありがとう、真樹。楽しみにしてるね」


玲奈は嬉しそうに笑った。


蓮はその様子を少し離れたところから見ていた。


玲奈の表情は、普段よりもずっと明るい。


真樹と予定が合ったことが、心から嬉しいのだろう。


蓮はその様子を見ながら、少しだけ考え込んだ。


真樹はひよりを好きだ。


けれど、玲奈も真樹を特別に思っているのではないか。


そんな可能性が、以前よりも強く感じられた。


ただ、蓮は何も言わなかった。


本人たちがまだ言葉にしていない気持ちを、勝手に決めつけるべきではない。


蓮は鞄を持ち上げ、真樹へ声を掛けた。


「じゃあ、俺は先に帰るな」


「ああ。また明日」


蓮が教室を出ると、玲奈も真樹へ軽く手を振った。


「私も戻るね。土曜日、よろしく」


「分かった」


真樹は頷いた。


玲奈はその返事を聞き、満足そうに教室を離れた。


◇ ◇ ◇


夕方、玲奈は自宅へ戻ると、すぐにスマートフォンを取り出した。


真樹との土曜日の予定が決まった。


まだ時間は調整中だが、午後に一緒にノアの散歩へ行くことになった。


玲奈はベッドへ腰を下ろし、メッセージ画面を開いた。


真樹とのやり取りを見つめる。


以前なら、こんなふうに何度も確認することはなかった。


けれど、今は違う。


土曜日が楽しみで仕方がなかった。


(……久しぶりに、真樹とゆっくり話せる)


玲奈は小さく微笑んだ。


そのとき、ひよりからメッセージが届いた。


『玲奈ちゃん、来週のお茶なんだけど、火曜日なら大丈夫そうだよ!』


玲奈は画面を見つめた。


来週の火曜日。


ひよりと二人でお茶をする約束。


自分から誘ったことだった。


けれど、真樹との土曜日の予定が決まった直後だったため、玲奈は少しだけ複雑な気持ちになった。


ひよりと仲良くなりたい。


その気持ちは本当だ。


けれど、真樹のことを考えると、どうしても胸の奥が落ち着かなくなる。


玲奈はしばらく迷ったあと、返信を打った。


『ありがとう! じゃあ、来週の火曜日にしよう』


『お店は私が探しておくね』


送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。


『うん! 楽しみにしてるね』


玲奈はその言葉を見つめた。


ひよりは、何も知らない。


自分が真樹を好きなことも。


真樹とひよりが仲良くしていることに、時々嫉妬してしまうことも。


そして、ひよりと仲良くなりたい気持ちと、真樹を取られたくない気持ちの間で揺れていることも。


玲奈はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。


(……私、ちゃんとひよりちゃんと友達になれるのかな)


答えはまだ分からなかった。


けれど、ひよりのことを嫌いにはなれない。


むしろ、優しくて素直な彼女だからこそ、余計に複雑だった。


玲奈は小さく息を吐き、スマートフォンを机へ置いた。


土曜日は真樹と散歩。


来週の火曜日はひよりとお茶。


どちらも、自分から動いて作った約束だった。


玲奈はその事実を大切にしたいと思った。


◇ ◇ ◇


夜、ひよりは自室で現代文の発表原稿を読み直していた。


明日の授業では、三人でまとめた内容を発表する予定だ。


ひよりは声に出して原稿を読み、途中で少しだけ言葉を直した。


昨日よりも、ずっと自然に説明できるようになっている。


それが嬉しかった。


(……千夏と橘君のおかげだな)


三人で意見を出し合い、考え方の違いを話し合った時間は、ひよりにとって楽しいものだった。


特に海斗の意見は、自分が気づかなかった視点を教えてくれた。


相手を大切に思うことと、相手の気持ちを理解することは同じではない。


その言葉は、今のひよりにも少し重なっていた。


颯太のことを長く好きだった。


けれど、颯太が自分をどう思っているのか、本当には分かっていなかった。


それでも、告白したことを後悔してはいない。


ひよりは原稿を閉じ、机の上へ置いた。


そのとき、スマートフォンが短く震えた。


真樹からのメッセージだった。


『天野、明日も学校か?』


ひよりは少し笑った。


『もちろんだよ。北条君もでしょ?』


すぐに返事が届いた。


『そうだな』


『明日の放課後、少し時間あるか?』


ひよりは画面を見つめた。


明日の放課後。


現代文の発表は授業中に終わる予定だし、特に用事はない。


『うん、大丈夫だよ。どうしたの?』


真樹からの返事は少し間を置いて届いた。


『本屋のこと、もう少し話しておこうと思って』


『帰りに少し会えないか?』


ひよりは思わず笑顔になった。


真樹と会える。


それだけで、明日の楽しみが一つ増えた。


『うん! 会いたいな』


送信してから、ひよりは少しだけ頬が熱くなった。


会いたい。


自然に打った言葉だった。


けれど、改めて見ると少し恥ずかしい。


真樹からは、すぐに返事が届いた。


『じゃあ、明日』


『いつもの公園の入口で待ってる』


ひよりは頷きながら返信した。


『分かった! 楽しみにしてるね』


メッセージを終えると、ひよりはスマートフォンを机へ置いた。


明日は現代文の発表がある。


千夏と海斗と一緒に準備してきた成果を、ちゃんと出したい。


そして、放課後には真樹と会う約束もできた。


ひよりは窓の外へ視線を向けた。


冬の夜空には、薄い雲が広がっている。


明日も寒くなりそうだった。


けれど、ひよりの胸の中には、小さな楽しみがいくつも増えていた。


ひよりは原稿をもう一度手に取り、最後の確認を始めた。


明日の発表で、練習したことをちゃんと伝えられるように。


そして、放課後には、真樹へ笑顔で会えるように。


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