第43話 近くにいるだけでは、届かない気持ち
水曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨夜の天気予報では午後から冷え込むと言っていたので、制服に着替えたあと、いつもより厚手のカーディガンを選んだ。
机の上には、昨日の夜に整理した現代文のノートが置かれている。藤崎千夏と橘海斗の三人で進めている共同課題は、考察の方向性がまとまり、あとは発表用の資料を整える段階に入っていた。
ひよりはノートを鞄へしまいながら、昨日の昼休みを思い出した。
海斗が話してくれた、物語の主人公が気持ちを伝えられなかった理由。相手を傷つけたくないという思いやりだけでなく、自分自身が傷つくことへの怖さもあったのではないかという意見は、ひよりの中に残っていた。
(私も、佐伯君に告白する前は怖かったな……)
金曜日の放課後、颯太の前に立ったときの緊張は、今でもはっきり覚えている。声が震えそうになって、何度も言葉を飲み込みそうになった。
それでも、伝えたかった。
結果は望んでいたものではなかったけれど、あのときの自分を間違っていたとは思わない。
ひよりは小さく息を吐き、鞄のファスナーを閉じた。
以前ほど胸が苦しくならなかったことに、少しだけ驚いた。
もちろん、颯太のことを完全に吹っ切れたわけではない。学校で姿を見かければ意識してしまうし、以前のように何も考えず話せるようになるには、まだ時間が必要だろう。
ただ、昨日も一昨日も、颯太のことばかり考えていたわけではなかった。
千夏と笑い、海斗と課題について話し、美月とお菓子を食べた。北条真樹とは、今度一緒に書店へ行く約束もできた。
自分の毎日は、思っていたよりたくさんの出来事でできている。
ひよりはそのことを少し嬉しく感じながら、部屋を出た。
階段を下りると、食卓では兄の悠一が朝食を終えようとしていた。美月はまだ大学へ行く準備の途中らしく、リビングのソファに置いた鞄から何かを探している。
「おはよう、お兄ちゃん。お姉ちゃんも」
「おはよう、ひより。今日は寒いから気をつけろよ」
「うん。ちゃんと厚着したよ」
ひよりがカーディガンの袖を見せると、悠一は満足そうに頷いた。
美月はようやく探していた学生証を見つけたらしく、ほっとした顔で振り返った。
「ひより、今日の帰りはどうするの?」
「たぶん、まっすぐ帰るよ。課題の準備があるし」
「そっか。私は夕方まで大学だから、先に帰っててね」
「分かった。お姉ちゃんも忘れ物しないでね」
美月は手元の学生証を見て、少し気まずそうに笑った。
「……今の私には説得力ないけど、気をつけます」
ひよりが笑うと、台所にいた由美もつられて微笑んだ。
何気ない朝の会話だった。
けれど、ひよりにとっては、そんな普通の時間がありがたかった。
家族は自分を気に掛けてくれている。それでも、無理に事情を聞き出そうとはせず、いつもどおりに接してくれる。
ひよりは温かい味噌汁を飲みながら、今日も学校で自分にできることを頑張ろうと思った。
◇ ◇ ◇
青葉高校の二年生の教室では、朝から現代文の課題について話す生徒が何人もいた。
発表が近づいているため、どの班も準備を進めているらしい。黒板の端には、担当教員が昨日書き残した発表順がまだ残っていた。
ひよりが教室へ入ると、千夏が窓際の席から手を振った。
「ひより、おはよう。昨日の資料、読めた?」
「おはよう、千夏。うん、橘君がくれた資料も確認したよ。参考になるところが結構あった」
ひよりは鞄からノートを取り出し、千夏へ見せた。
昨日の話し合いを踏まえ、発表で使えそうな文章に印をつけてある。主人公の気持ちだけでなく、相手の人物がどう受け止めたかについても、短く書き添えていた。
「すごい。ちゃんと整理してあるじゃん」
「千夏が全体の構成を考えてくれてるから、私は引用するところを決めておこうと思って」
「助かるよ。これなら、今日の昼休みにかなり進められそう」
千夏は嬉しそうに頷いた。
そのとき、後ろから海斗の声がした。
「おはよう。もう課題の話してる?」
振り返ると、海斗が鞄を肩に掛けて立っていた。
「おはよう、橘君。昨日の資料、ありがとう。すごく参考になったよ」
ひよりが笑顔で答えると、海斗は少し照れたように笑った。
「役に立ったならよかった。俺も昨日、もう一回読み直してみたんだ」
「何か新しく気づいたことあった?」
「うん。主人公が最後に黙ってた理由、昨日は自分が傷つくのを怖がってたんじゃないかって言っただろ。でも、読み直したら、それだけでもない気がしてさ」
海斗は鞄から教科書を取り出した。
ひよりと千夏が顔を寄せると、海斗は終盤の一節を指した。
「ここで主人公、相手が笑ってるのを見て安心してるんだよな。でも、その笑顔が本当に嬉しくて出たものなのか、確認してない」
ひよりは文章を読み直した。
昨日は気づかなかった箇所だった。
「……確かに。相手が笑ってくれたから、大丈夫だと思っちゃったのかもしれないね」
「そう。だから、主人公は相手のことを大切に思ってたけど、ちゃんと向き合えてたかっていうと、違うのかなって」
海斗は少し考えながら続けた。
「相手のために黙ってるつもりでも、本当は相手が何を考えてるか分からないわけだし」
ひよりは静かに頷いた。
誰かを大切に思うことと、その人の気持ちを理解することは、同じではない。
そう考えると、少し胸が痛んだ。
自分も、颯太の気持ちを本当に理解していたわけではなかったのだろう。長く好きだったからこそ、相手もいつか自分を特別に見てくれるかもしれないと期待していた。
けれど、颯太にとって自分は友達だった。
それは誰かが悪いという話ではない。
ただ、同じ時間を過ごしていても、抱いている気持ちは違うことがある。
「……橘君って、すごく丁寧に読むんだね」
ひよりが言うと、海斗は驚いたように顔を上げた。
「えっ、そうか?」
「うん。私、昨日はそこまで考えられなかったから。橘君の意見を聞くと、違う見方ができて面白いなって思う」
ひよりは素直に笑った。
海斗はその笑顔を見て、一瞬だけ返事が遅れた。
「……そっか。それなら、調べてよかった」
千夏は二人のやり取りを見ながら、ノートへ新しい意見を書き込んだ。
海斗がひよりの言葉を嬉しそうに受け取っていることは、見ていれば分かる。けれど、ひよりは純粋に課題の話を楽しんでいるだけで、その違いには気づいていないようだった。
千夏は小さく笑い、二人へ声を掛けた。
「じゃあ、その意見も昼休みにまとめよう。今の話、発表に使えそうだし」
「うん。忘れないうちにメモしておこうかな」
ひよりはペンを取り、海斗が指摘した箇所へ印をつけた。
その様子を見ながら、海斗は何となく嬉しくなった。
自分が見つけたことを、ひよりが大切に扱ってくれている。
それは課題を一緒に進める仲間として自然なことなのに、海斗には少し特別に感じられた。
◇ ◇ ◇
同じころ、私立桜陵学園では、一ノ瀬玲奈が教室の自分の席でスマートフォンを見つめていた。
画面には、昨夜ひよりと交わしたメッセージが残っている。
今度一緒にお茶をする約束。
まだ具体的な日程は決まっていないけれど、ひよりは嬉しそうに返事をしてくれた。
玲奈も、それが嬉しかった。
けれど、今朝から何度も開いてしまうのは、ひよりとの画面だけではなかった。
真樹とのメッセージ画面。
そこには、以前から続いている何気ないやり取りが並んでいた。
ノアの写真を送ってもらったこと。昔の知り合いについて話したこと。学校の行事で必要な連絡をしたこと。
幼いころから親しい二人にとって、特別な理由がなくても連絡を取ることは珍しくなかった。
けれど、最近は少し違う。
真樹が誰かと連絡を取っている姿を見ると、その相手がひよりではないかと考えてしまう。
自分の知らない約束があるのではないか。
自分の知らない話をしているのではないか。
そんなことを考える自分が嫌だった。
(……真樹は、何も変わってないのに)
真樹が玲奈を避けているわけではない。
声を掛ければ普通に話してくれるし、ノアに会いたいと言えば、予定が合うときに来ればいいと答えてくれる。
それでも、玲奈は以前のように安心できなくなっていた。
玲奈は画面を閉じようとして、指を止めた。
今日は水曜日だ。
先週の水曜日には、真樹とひよりと一緒にノアの散歩をした。
あの日は楽しかった。
けれど、ひよりと真樹が自然に話す様子を見て、自分が知らない時間が二人の間にあることも感じた。
玲奈はしばらく迷ったあと、真樹へメッセージを打ち始めた。
『真樹、今日の放課後って時間ある?』
そこまで入力して、指が止まる。
何の用事もないのに誘うのは、少し不自然だろうか。
いや、幼馴染なのだから、今さら気にする必要はない。
そう思っても、なかなか送信できなかった。
玲奈は一度文章を消し、別の言葉を打った。
『今日、ノアの散歩に一緒に行ってもいい?』
こちらの方が自然に思えた。
けれど、送信する直前になって、また迷った。
(……私、ノアに会いたいのかな。それとも、真樹に会いたいのかな)
答えは分かっていた。
ノアに会いたい気持ちも本当だ。
けれど、それ以上に、真樹と一緒に過ごす時間が欲しかった。
玲奈は小さく息を吸い、送信ボタンを押した。
すぐには返事が来なかった。
授業が始まる前なのだから、真樹も準備をしているのだろう。
それは分かっている。
けれど、玲奈は無意識に何度も画面を確認してしまった。
「玲奈、どうしたの? さっきからスマホばっかり見てるけど」
隣の席の友人、三浦沙耶が声を掛けた。
玲奈は慌てて顔を上げた。
「えっ? あ、ううん。ちょっと連絡待ってただけ」
「誰から?」
「……幼馴染」
沙耶は玲奈の表情を見て、少しだけ笑った。
「北条君?」
玲奈は思わず目を瞬かせた。
「どうして分かったの?」
「だって、玲奈が幼馴染って言ったら、まず北条君が浮かぶし」
沙耶は何気ない調子で答えた。
けれど、玲奈はその言葉に少しだけ胸が温かくなった。
自分と真樹が幼馴染だということは、周囲も知っている。
長く続いてきた関係がある。
それだけは、誰にも変えられない。
玲奈はそんなことを考えてしまった自分に気づき、慌てて視線を落とした。
(……何を安心してるんだろう、私)
幼馴染であることと、恋人になれることは違う。
その当たり前のことを、玲奈は最近になって強く意識するようになっていた。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひよりたちは教室の後方で現代文の課題を進めていた。
千夏が発表用の構成を確認し、海斗が資料の要点を整理する。ひよりは二人の意見を聞きながら、引用する文章と考察が自然につながるようにノートを修正していた。
「ここ、最初に主人公の気持ちを説明してから、相手の人物の気持ちに移った方が分かりやすいかな?」
千夏が尋ねると、海斗は資料を見比べた。
「そうだな。その方が、二人の考え方の違いが伝わりやすいと思う」
「じゃあ、私は最後に、どちらか一方だけが悪いわけじゃないってところをまとめようかな」
ひよりが提案すると、千夏は頷いた。
「いいと思う。発表の最後に入れると、全体がまとまりそう」
海斗も賛成した。
そのあと、三人は発表の練習をすることになった。
ひよりが最初の説明を読み上げ、海斗が考察を続ける。千夏が最後にまとめを話す予定だったが、途中でひよりが言葉を詰まらせた。
「あれ……ごめん。ここ、ちょっと説明が長すぎるかも」
ひよりはノートを見つめた。
自分では分かっているつもりでも、声に出してみると文章が複雑になっている。
海斗はひよりのノートを覗き込み、少し考えた。
「ここ、二つに分けたらどうかな。最初に主人公の行動を説明して、そのあと理由を話す感じで」
「……あ、本当だ。その方が分かりやすいね」
ひよりはペンを取り、文章を直した。
海斗はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「天野、考えることが多いから、全部入れたくなるんだろうな」
「うっ……そうかもしれない。せっかく気づいたことだから、つい説明したくなっちゃうんだよね」
「悪いことじゃないと思うけど。発表だと時間が決まってるから、少し整理した方が伝わりやすいってだけで」
海斗の言葉に、ひよりは安心したように笑った。
「ありがとう。橘君、説明するの上手だね」
「そうか? 俺も結構迷ってるけどな」
「でも、相手が分かりやすいように考えてくれるから、助かるよ」
ひよりは素直に答えた。
海斗は少し照れたように視線を逸らした。
その様子を見ていた千夏は、内心で小さく笑った。
海斗はひよりに褒められると、いつも少しだけ反応が変わる。
本人は隠しているつもりなのかもしれないが、普段の明るい態度と比べると分かりやすかった。
けれど、ひよりは気づいていない。
今は課題を完成させることに集中しているらしい。
「じゃあ、もう一回やってみようか」
千夏が声を掛けると、二人は頷いた。
今度は途中で止まることなく、最後まで発表を終えることができた。
ひよりはほっと息を吐き、ノートを閉じた。
「よかった。これなら何とかなりそうだね」
「うん。あとは明日、細かいところを確認すれば大丈夫そう」
千夏が答えると、海斗も満足そうに頷いた。
「三人でやると、やっぱり進むな。一人だったら、こんなにいろんな意見は出なかったと思う」
ひよりはその言葉に笑顔になった。
「私もそう思う。千夏と橘君が同じ班でよかった」
海斗はその笑顔を見つめた。
胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなる。
ひよりは誰に対しても優しい。
自分だけが特別扱いされているわけではない。
それでも、今の言葉が嬉しかった。
(……何だろうな、これ)
海斗は自分の気持ちをうまく説明できなかった。
ただ、ひよりと話している時間が楽しい。
もっといろんなことを知りたいと思う。
課題が終わってしまったら、こうして三人で話す機会も減るのだろうか。
そんなことを考えた自分に、少しだけ驚いた。
◇ ◇ ◇
桜陵学園の昼休み、玲奈のスマートフォンに真樹から返信が届いた。
『今日は用事があるから難しい』
『また別の日なら大丈夫だと思う』
玲奈は画面を見つめた。
断られた。
けれど、別の日ならいいと言ってくれている。
それだけのことだった。
真樹には真樹の予定がある。学校が終わったあと、毎日自由に過ごせるわけではないことも分かっている。
それでも、玲奈はすぐに返信できなかった。
(……用事って、何だろう)
最初に浮かんだのは、ひよりの顔だった。
もしかして、今日も会う約束があるのだろうか。
先週の土曜日も日曜日も、一緒に過ごしていたと聞いた。
今週も、どこかで会う予定があるのかもしれない。
玲奈は返信欄へ指を置いた。
『ひよりちゃんと会うの?』
そこまで打って、手を止めた。
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出てきた。
けれど、送信することはできなかった。
真樹が誰と会うのか、すべて知る必要はない。
それに、もしひよりと会う予定だったとして、自分は何と言うつもりなのだろう。
玲奈はしばらく画面を見つめたあと、文章を消した。
『そっか、分かった。じゃあ、また予定が合う日にお願いね』
送信すると、すぐに真樹から返事が届いた。
『ああ』
短い返事だった。
いつもの真樹らしい。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ視線を向けた。
胸の奥に残った小さな痛みが、なかなか消えなかった。
「玲奈、午後の授業のプリント、もう出した?」
沙耶に声を掛けられ、玲奈は慌てて顔を上げた。
「あっ、まだ。今出すね」
鞄を開き、プリントを探す。
けれど、いつもならすぐに見つかるはずの紙が、なかなか出てこなかった。
玲奈は少し焦りながら、教科書の間を確認した。
「……あれ、どこに入れたんだろう」
「大丈夫? 昨日の授業で配られたやつだよ」
「うん、分かってる。たぶん、こっちに……」
ようやく見つけたプリントは、別の教科書に挟まっていた。
玲奈はほっと息を吐いた。
沙耶はその様子を見て、少しだけ首を傾げた。
「玲奈、今日ちょっとぼんやりしてない?」
「……そうかな」
「うん。何かあった?」
玲奈は一瞬だけ迷った。
真樹に散歩を断られた。
それだけのことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
「ちょっと考え事してただけ。大丈夫だよ」
玲奈は笑顔で答えた。
沙耶はそれ以上追及せず、頷いた。
けれど、玲奈は自分の返事が少し不自然だったことに気づいていた。
(……こんなことで、授業の準備まで遅れるなんて)
玲奈はプリントを机へ置き、深く息を吸った。
真樹のことが好きだ。
その気持ちは、もう否定できない。
けれど、好きだからといって、相手の予定を全部知りたくなる自分を、そのままにしていいとも思えなかった。
玲奈はペンを握り直し、午後の授業へ気持ちを切り替えようとした。
◇ ◇ ◇
放課後、真樹は教室で蓮と話していた。
今日は学校の用事があり、少し遅くまで残ることになっている。担当の先生から頼まれた資料の確認が終われば帰れる予定だったが、思ったより時間がかかりそうだった。
「真樹、まだ終わらないのか?」
蓮が尋ねると、真樹は机の上の資料を揃えた。
「あと少し。先生に確認してもらえば終わる」
「そっか。じゃあ、俺は先に帰るな」
「ああ。気をつけて帰れよ」
蓮は頷き、鞄を持ち上げた。
そのとき、真樹のスマートフォンが短く震えた。
画面には玲奈とのやり取りが残っている。
今日、ノアの散歩へ一緒に行きたいという誘い。
真樹は学校の用事があるため断ったが、別の日なら構わないと伝えていた。
蓮はその画面をちらりと見て、何気なく尋ねた。
「一ノ瀬さん?」
「ああ。今日、ノアの散歩に来たいって言われたんだけど、用事があるから断った」
「そうなんだ。幼馴染って、やっぱり気軽に誘えるもんなの?」
真樹は少し考えた。
「昔から家族ぐるみで付き合いがあるからな。ノアのことも小さいころから知ってるし」
蓮は頷いた。
「なるほどね」
それ以上は何も言わなかった。
ただ、蓮は以前から、玲奈が真樹へ向ける視線に少し気になるものを感じていた。
幼馴染だから親しい。
それだけでは説明できないような表情を、時々見かけることがある。
けれど、本人から何か聞いたわけではない。
蓮は勝手に決めつけるのを避け、話題を変えた。
「そういえば、天野さんとのお出かけ、場所は決まったのか?」
「……候補はある」
「へえ。どこ?」
「まだ本人に聞いてないから、決まってからな」
真樹が答えると、蓮は笑った。
「相変わらず慎重だな。でも、いいんじゃないか。楽しんでこいよ」
真樹は小さく頷いた。
ひよりとの外出は、まだ日程も決まっていない。
けれど、昨夜から何度も考えていた書店のことを、今日あたり聞いてみようと思っていた。
真樹は資料を鞄へしまい、職員室へ向かった。
◇ ◇ ◇
青葉高校の放課後、ひよりは千夏と一緒に昇降口へ向かっていた。
現代文の課題は順調に進み、明日には発表の最終確認ができそうだった。ひよりは少し安心しながら、鞄の中のノートを確かめた。
「ひより、今日は早めに帰る?」
「うん。昨日も課題やってたから、今日は少しゆっくりしたいな」
「それがいいと思う。発表の準備も、かなり進んだしね」
千夏は笑いながら頷いた。
校舎の外へ出ると、冷たい風が吹いていた。
ひよりはマフラーを少し引き上げ、空を見上げた。
朝より雲が厚くなっている。
「……雨、降るかな」
「どうだろう。天気予報では曇りだったけど」
千夏が答えたとき、後ろから海斗が歩いてきた。
「天野、藤崎。ちょっといい?」
二人が振り返ると、海斗は少し息を整えながら近づいてきた。
「どうしたの、橘君?」
「課題のことなんだけど、明日の昼休み、少し早めに集まれないかな。発表の時間を測っておきたくて」
千夏はすぐに頷いた。
「いいよ。私も一回通して確認したいと思ってた」
「私も大丈夫。お昼ご飯を食べてからでも間に合うかな?」
ひよりが尋ねると、海斗は少し考えた。
「うん。最初の十分くらいで食べ終われば、残りの時間でできると思う」
「じゃあ、明日はお弁当を早めに食べようかな」
ひよりは笑った。
海斗も安心したように頷いた。
「ありがとう。二人とも助かる」
「こちらこそ。橘君がいろいろ考えてくれるから、準備しやすいよ」
ひよりが答えると、海斗は少し照れたように笑った。
千夏はその様子を見ながら、海斗が以前よりひよりへ話しかける機会を増やしていることに気づいた。
もちろん、課題の連絡という理由はある。
けれど、海斗はひよりの意見をよく聞き、彼女が話しやすいように気を配っている。
それが単なる班の仲間への親切なのか、それ以上の気持ちなのかは、まだ分からない。
千夏は何も言わず、二人の会話を見守った。
海斗はひよりと千夏へ別れを告げ、先に歩き出した。
その背中を見送りながら、ひよりは小さく笑った。
「橘君、頼りになるね」
「うん。ひよりも、橘君と話すの楽しそうだよ」
千夏が言うと、ひよりは素直に頷いた。
「だって、いろんな意見を聞けるんだもん。私が気づかなかったところも教えてくれるし」
千夏はその返事に、少しだけ微笑んだ。
ひよりにとって、海斗は今、同じ課題へ取り組む信頼できる友人なのだろう。
その関係がこれからどう変わるのかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも海斗の存在が、ひよりの学校生活を少し明るくしていることは確かだった。
◇ ◇ ◇
夕方、玲奈は自宅の自室で机に向かっていた。
学校から帰ってすぐに課題を始めたものの、なかなか集中できなかった。
教科書を開いても、同じ文章を何度も読み返してしまう。
真樹から届いた短い返信が、頭から離れなかった。
『今日は用事があるから難しい』
ただ、それだけのことだ。
真樹には予定がある。
別の日なら大丈夫だとも言ってくれている。
それなのに、玲奈は落ち着かなかった。
(……私、こんなに気にするような性格だったかな)
以前なら、真樹に予定があると言われても、素直に別の日を探していた。
けれど、今は違う。
ひよりと過ごしているのではないかと考えてしまう。
真樹がひよりと仲良くしていることを、素直に喜べない瞬間がある。
玲奈はペンを置き、スマートフォンを手に取った。
ひよりとのメッセージ画面を開く。
昨日、お茶の誘いを受けてくれたことが嬉しかった。
その気持ちは本当だ。
玲奈は少し考え、ひよりへメッセージを打ち始めた。
『ひよりちゃん、今度のお茶なんだけど、来週あたりどうかな?』
送信しようとして、指が止まった。
来週。
真樹との散歩の予定も、まだ決まっていない。
もし同じ日に重なったらどうしよう。
そんなことを考えた自分に、玲奈は驚いた。
(……何で、まだ決まってもいない予定を気にしてるんだろう)
ひよりとの約束は、ひよりと仲良くなりたいからしたものだ。
真樹との予定を優先するために、後回しにしていいものではない。
玲奈はしばらく画面を見つめたあと、文章を少し直した。
『ひよりちゃん、今度のお茶なんだけど、来週の放課後で都合のいい日ある? 私は火曜か木曜なら大丈夫そう』
今度は迷わず送信した。
数分後、ひよりから返事が届いた。
『玲奈ちゃん、ありがとう! 来週の予定を確認してから返事してもいい?』
玲奈はほっと息を吐いた。
『もちろん。急がなくて大丈夫だよ』
送信してから、スマートフォンを机へ置いた。
少しだけ気持ちが軽くなった。
ひよりと会う約束を、自分から進めることができた。
真樹のことを考えずに行動できたわけではない。
けれど、ひよりとの関係も大切にしたいと思えたことが嬉しかった。
玲奈はもう一度教科書を開いた。
今度は、さっきより文章が頭に入ってきた。
◇ ◇ ◇
夜、ひよりは自室でスマートフォンを確認していた。
玲奈から来週のお茶について連絡が届いていたので、家族の予定と学校の課題を確認してから返事をしようと思っていた。
そのとき、真樹からメッセージが届いた。
『天野、今ちょっといいか?』
ひよりはすぐに返信した。
『うん、大丈夫だよ。どうしたの?』
少しして、真樹から次のメッセージが届いた。
『この前言ってた出かける場所なんだけど』
『俺がたまに行く本屋がある』
ひよりは画面を見つめ、思わず笑顔になった。
『本屋さん? いいね!』
『北条君、本読むの好きなんだ?』
真樹からの返事は少し間を置いて届いた。
『まあな。静かなところが好きなんだ』
『大きい店じゃないけど、落ち着いて見られる』
ひよりはその文章を読みながら、真樹が本棚の間を歩いている姿を想像した。
普段の真樹は落ち着いていて、あまり騒がしい場所を好まない印象がある。
静かな書店は、確かに似合いそうだった。
『行ってみたいな』
『私も本屋さん好きだよ。小説とか、雑貨が置いてあるところも好き』
送信すると、真樹からすぐに返事が届いた。
『じゃあ、今度そこに行こう』
『予定が合う日を決めればいい』
ひよりは嬉しくなり、ベッドの上で小さく足を揺らした。
まだ日程は決まっていない。
けれど、行き先が一つ決まった。
真樹が普段どんな場所で過ごしているのか、少しだけ知ることができる。
『うん! 楽しみにしてるね』
ひよりが送ると、真樹から短い返事が届いた。
『俺も』
その二文字を見て、ひよりは少しだけ頬が熱くなった。
真樹も楽しみにしてくれている。
それが嬉しかった。
ひよりはスマートフォンを胸元へ引き寄せ、天井を見上げた。
(……北条君と、ノアのお散歩以外で出かけるんだ)
改めて考えると、少し不思議な気持ちになった。
真樹とは何度も会っている。
公園で話す時間も、メッセージを交わすことも、今では自然になっていた。
けれど、二人で書店へ行くとなると、いつもとは少し違う。
何を話すのだろう。
どんな本を選ぶのだろう。
真樹が好きな場所を、自分も好きになれるだろうか。
考え始めると、楽しみなことがいくつも浮かんできた。
ひよりは小さく笑い、もう一度画面を見た。
『俺も』
真樹の短い返事は、いつもどおりだった。
けれど、今夜はその言葉が少しだけ特別に感じられた。
◇ ◇ ◇
同じころ、真樹は自室でスマートフォンを置いた。
ひよりとのやり取りを終えたあとも、しばらく画面を見つめていた。
書店へ行く約束。
場所は決まった。
あとは日程を合わせるだけだ。
真樹は小さく息を吐き、椅子の背もたれへ身体を預けた。
ひよりが楽しみにしてくれていることが嬉しい。
けれど、その嬉しさをどこまで表に出していいのかは、まだ分からなかった。
ひよりは失恋したばかりだ。
真樹はそのことを忘れていない。
だからこそ、今度の外出も、彼女が気負わず楽しめる時間にしたかった。
(……俺が勝手に特別な意味を持たせる必要はない)
真樹はそう考え、机の上に置いた本へ手を伸ばした。
けれど、ページを開いても、なかなか内容が頭に入ってこなかった。
ひよりが書店でどんな本を手に取るのか。
自分の好きな棚を見せたら、どんな反応をするのか。
そんなことばかり考えてしまう。
真樹は苦笑し、本を閉じた。
そのとき、スマートフォンが短く震えた。
画面には玲奈からのメッセージが表示されていた。
『真樹、今日は急に誘ってごめんね』
『また予定が合う日に、ノアに会いに行ってもいい?』
真樹は少し考え、返信を打った。
『気にするな』
『また都合が合うときに連絡してくれ』
送信すると、玲奈からすぐに返事が届いた。
『ありがとう。じゃあ、また連絡するね』
真樹は画面を閉じた。
玲奈とは長い付き合いだ。
ノアのことも昔から知っているし、家族ぐるみの関係も続いている。
だから、散歩へ来たいと言われること自体は何も不思議ではない。
けれど、最近の玲奈が何を考えているのか、真樹にはまだ分からなかった。
真樹は少しだけ首を傾げたあと、机の上の本を開いた。
今は、目の前のことを一つずつ進めるしかない。
ひよりとの約束も、玲奈との付き合いも、どちらも大切にしたい。
ただ、その大切さの意味が同じではないことを、真樹自身は分かっていた。
◇ ◇ ◇
玲奈はベッドの上で、真樹から届いた返信を見つめていた。
『また都合が合うときに連絡してくれ』
いつもどおりの言葉だった。
優しくも、冷たくもない。
真樹らしい返事だ。
玲奈はスマートフォンを握り直した。
今日は自分から誘った。
断られても、もう一度連絡した。
以前なら、こんなことを意識する必要はなかった。
けれど、今は違う。
自分から動かなければ、真樹との時間が少しずつ減ってしまうような気がする。
玲奈はその不安を、誰かのせいにしたくなかった。
ひよりは何も悪くない。
真樹も、玲奈を避けているわけではない。
ただ、自分が今まで当たり前だと思っていた関係が、少しずつ変わり始めている。
それが怖かった。
(……私、真樹のことが好きなんだ)
玲奈は目を閉じた。
その気持ちを、ようやくはっきり認めた。
幼馴染だから大切なのではない。
長く一緒にいたから、離れたくないだけでもない。
真樹が笑うと嬉しい。
自分の知らない誰かへ向ける笑顔を見ると、胸が苦しくなる。
その相手がひよりだと、なおさらだった。
玲奈はゆっくり目を開けた。
ひよりとのお茶の約束も、真樹との散歩の約束も、まだ具体的な日程は決まっていない。
けれど、どちらも自分から動いた結果だった。
それなら、これからも自分の気持ちをごまかさずに行動したい。
ただし、誰かを傷つけるようなことはしたくない。
玲奈はスマートフォンを机へ置き、明日の時間割を確認した。
真樹と同じ学校に通っている。
明日も、きっと顔を合わせる機会はある。
そのとき、何を話そう。
どんなふうに声を掛けよう。
そんなことを考えながら、玲奈は小さく息を吐いた。
今まで当たり前だった距離を、初めて自分の意志で縮めようとしていた。




