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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第42話 君の好きな場所を、私も知りたい



 火曜日の朝、天野ひよりが目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込んでいたのは、冬らしい淡い朝日だった。


 昨夜はいつもより少し遅くまで起きていた。学校から帰って課題を済ませたあと、北条真樹と交わしたメッセージを何度か読み返していたからだ。


 ひよりは枕元のスマートフォンを手に取り、昨夜のやり取りを開いた。


『今度、北条君の好きな場所に行ってみたいな』


 自分で送った文章なのに、改めて読むと少し恥ずかしい。


 真樹からは、予定を考えておくという返事が届いていた。具体的な日程も行き先も決まっていないけれど、ひよりはその返事をもらっただけで嬉しかった。


(北条君って、普段はどんなところに行くんだろう。ノアのお散歩以外だと、あんまり知らないんだよね)


 思い返せば、真樹と過ごしてきた時間の多くにはノアがいた。公園を歩いたり、ベンチに座って話したり、犬同士の挨拶を眺めたりする時間は、ひよりにとってすっかり大切な日常になっている。


 けれど、真樹が一人で過ごす休日については、ほとんど聞いたことがなかった。


 どんな本を読むのか。どんな音楽が好きなのか。何かを買いに行くときは、どんな店を選ぶのか。


 考え始めると、知らないことが次々に浮かんできた。


 先週の水曜日、一ノ瀬玲奈から真樹の幼いころの話を聞いたときも、似たような気持ちになった。長く一緒に育った玲奈が知っている真樹と、自分が最近知った真樹には、それぞれ違う顔があるのだろう。


(全部知りたいなんて、そんなことは思わないけど……もう少し、いろんな話ができたら嬉しいな)


 ひよりはスマートフォンを置き、ベッドから起き上がった。


 制服に着替えながら、昨日の学校での出来事も思い返す。金曜日に佐伯颯太へ告白してから、初めて顔を合わせた月曜日だった。


 あのときは緊張した。


 颯太が自分を避けているのではないか、気まずそうにされたらどうしようかと、何度も考えた。


 けれど、実際に交わした会話は短くても穏やかだった。以前とまったく同じように振る舞えたわけではないし、今すぐ昔の距離へ戻りたいとも思わない。それでも、学校という場所で顔を合わせられたことは、ひよりにとって小さな安心につながっていた。


 鏡の前でリボンを結び直すと、ひよりは自分の顔を確かめた。


 泣いたあとの腫れはもう目立たない。表情にも、昨日ほどの硬さはなかった。


(今日も、ちゃんと学校に行こう)


 鞄を持って階段を下りると、台所から焼き魚と味噌汁の匂いが漂ってきた。


「おはよう、お母さん」


「おはよう、ひより。今日は少し早いのね」


 由美が振り返り、娘の顔を見て微笑んだ。


「うん。昨日、朝の準備でちょっと慌てちゃったから」


「それならよかった。朝は冷えるから、温かいうちに食べなさいね」


 食卓には父の浩介と兄の悠一が先に座っていた。美月は大学へ持っていく資料を鞄にしまいながら、台所と食卓を行き来している。


 ひよりが椅子を引くと、悠一が新聞から顔を上げた。


「ひより、昨日は学校どうだった?」


 その質問に、ひよりは箸を取ろうとした手を一瞬止めた。


 悠一が何を気にしているのか、まったく分からないわけではない。金曜日に颯太へ気持ちを伝えるつもりだったことは、姉から兄へ伝わってしまっている。


 ただ、結果については、まだ話していなかった。


「普通だったよ。授業もあったし、千夏ともいっぱい話したし」


「……そうか」


 悠一はそれ以上尋ねなかった。


 以前の兄なら、誰と何を話したのかまで気にしていたかもしれない。けれど、今はひよりが自分で話すまで待とうとしてくれているのが分かった。


「そういえば、お兄ちゃん。昨日のお菓子、ちゃんと残してあるよ」


「本当か?」


「うん。お姉ちゃんと買ったクッキー。帰ってきたときに渡そうと思ってたんだけど、お兄ちゃん、遅かったから」


 悠一の表情が目に見えて明るくなった。


「ひよりが俺のために残してくれたのか」


「家族の分を取っておいただけだよ。そんなに感動しなくてもいいのに」


 ひよりが笑うと、美月が隣から口を挟んだ。


「お兄ちゃんは、ひよりが選んだってだけで何でも喜ぶんだから。前にひよりが買ってきたお煎餅の袋、食べ終わってもしばらく取っておいたでしょ」


「美月、それは言わなくていい」


「えっ、本当なの?」


 ひよりが驚くと、悠一は気まずそうに味噌汁へ視線を落とした。浩介が新聞を畳みながら笑い、由美も呆れたように首を振っている。


「悠一、ひよりが困るようなことはしないのよ」


「分かってるって。最近は気をつけてるだろ」


「最近は、ね」


 美月の言葉に、食卓へ笑いが広がった。


 ひよりも笑いながら、ご飯を口に運んだ。


 家族がいつもどおりに話していることが、ありがたかった。心配されるのは嬉しいけれど、失恋した自分だけを特別扱いされるより、こうして他愛ない会話に混ざっている方が気持ちは落ち着く。


 美月はそんな妹の様子を、さりげなく見守っていた。


 土曜日の夜、ひよりが颯太に振られたと打ち明けてくれたときの表情を、美月は忘れていない。泣きながらも自分の言葉で話そうとしていた妹の姿を思い出すと、今朝の笑顔がいっそう大切に思えた。


 けれど、悠一にはまだ話さないと約束している。


 美月はその約束を守るつもりだった。


「ひより、今日は帰り遅くなる?」


「ううん。課題もあるから、まっすぐ帰ると思う」


「そっか。じゃあ、帰ってから温かいものでも飲もうか」


「うん。お姉ちゃんが早く帰ってたら、一緒に飲みたいな」


 ひよりが答えると、美月は嬉しそうに頷いた。


 そのやり取りを聞いていた悠一が何か言いかけたが、由美から視線を向けられると、黙って朝食へ戻った。


 ひよりは気づかないふりをして、味噌汁をもう一口飲んだ。


     ◇ ◇ ◇


 県立青葉高校へ到着したころには、朝の冷たい空気も少し和らいでいた。


 校門から昇降口へ向かう生徒たちの間では、昨日返却された小テストの話や、週末の予定が飛び交っている。ひよりは靴を履き替え、二階の教室へ向かった。


 教室へ入ると、藤崎千夏が窓際の席で教科書を広げていた。


「千夏、おはよう!」


「おはよう、ひより。今日は早いね」


「うん。朝ご飯もゆっくり食べられたよ」


 ひよりが鞄を置くと、千夏は顔を上げ、いつもの調子で笑った。


「それならよかった。ところで、昨日の現代文の課題、どこまで考えた?」


「あっ、それ! 昨日、帰ってから少し調べたんだ」


 ひよりは鞄からノートを取り出した。


 現代文では、授業で扱った短編小説について、登場人物の行動を読み解く課題が出されていた。班で意見をまとめ、根拠となる文章を挙げながら発表することになっている。


 ひよりと千夏、そして橘海斗は同じ班だった。


「私は、主人公が最後に黙っていた理由って、相手を嫌いになったからじゃないと思うんだよね」


 ひよりがノートを開くと、千夏は興味深そうに身を乗り出した。


「じゃあ、どうして?」


「本当のことを言ったら、相手を困らせると思ったんじゃないかなって。でも、それが正しかったかどうかは別だと思う」


 ひよりは書き込んだ文章を指先で示した。


 物語の中では、主人公が大切な友人に自分の気持ちを伝えられず、誤解を生んでしまう。最後まで本心を明かさないまま、二人は別々の道を選ぶ。


 ひよりはその結末を読んだとき、胸が少し苦しくなった。


 自分も、長い間、颯太へ気持ちを伝えられずにいたからだ。


 けれど、颯太への告白と、この物語の出来事を同じものだと考えているわけではない。相手を思う気持ちと、相手に伝える言葉が、必ずしも一致するとは限らないことが気になっていた。


「なるほどね。私は、主人公が怖かったんだと思った。相手に嫌われるのも怖いし、今の関係が変わるのも怖かったんじゃないかな」


 千夏の意見を聞き、ひよりは何度も頷いた。


「それもあると思う。どっちか一つだけじゃなくて、両方あったのかもしれないね」


「じゃあ、発表ではそこをまとめるといいかも。橘君がどう考えたかも聞いてみよう」


 二人が話しているところへ、ちょうど海斗が教室へ入ってきた。


「おはよう。何の話?」


「おはよう、橘君。現代文の課題だよ」


 ひよりが答えると、海斗は自分の鞄を席へ置いてから、二人のところへやってきた。


「俺も昨日、ちょっと調べたんだ。昼休み、時間ある?」


「うん。私もノートに書いてきたから、見せ合おう」


 ひよりが笑うと、海斗も自然に笑い返した。


 千夏はその様子を眺めながら、ひよりが昨日より落ち着いていることに気づいた。


 金曜日のことを忘れたわけではないだろう。それでも、課題について自分の考えを話すひよりは、いつものように真剣で、相手の意見を聞くことも楽しんでいる。


 千夏は少し安心した。


「じゃあ、お昼は三人でやろう。私、参考になりそうなところに付箋貼ってきたから」


「助かる。俺も資料を印刷してきた」


 海斗が言うと、ひよりは感心したように目を丸くした。


「橘君、準備いいね。私、そこまではできなかったな」


「いや、調べ始めたら気になってさ。全部使うかどうかは分からないけど」


 海斗は照れくさそうに笑った。


 ひよりはその表情を見て、少しだけ意外に思った。


 海斗は普段、誰とでも気軽に話す明るい男子という印象が強い。けれど、課題へ向き合う姿は思っていた以上に丁寧だった。


(橘君って、こういうところはすごく真面目なんだな)


 ひよりはノートを閉じ、昼休みの話し合いを楽しみにしながら席へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、私立桜陵学園では、北条真樹が教室の窓際でスマートフォンを確認していた。


 ひよりから届いた朝の挨拶に返信したあと、真樹は画面を閉じようとして、昨夜のやり取りをもう一度見た。


『北条君の好きな場所に行ってみたいな』


 その一文を目にするたび、どうにも落ち着かなくなる。


 ひよりから誘われたことが嬉しい。


 けれど、彼女がどんな気持ちで誘ってくれたのかは、分かっているつもりだった。


 今のひよりにとって、自分は親しい友人だ。ノアを通じて出会い、困ったときに話を聞く相手になった。それ以上の意味を勝手に期待してはいけない。


 そう思う一方で、嬉しさまで消せるわけではなかった。


(……どこなら、天野が楽しめるんだろうな)


 真樹には普段立ち寄る場所がいくつかある。


 静かな書店や、気に入った飲み物を出す店。人が多い場所を避けて、一人で過ごしたいときに選ぶ場所もあった。


 けれど、ひよりを連れていくとなると、途端に考え込んでしまう。


 退屈させないだろうか。無理に気を遣わせないだろうか。


 そんなことばかり気にしている自分に、真樹は内心で苦笑した。


「北条、朝から難しい顔してるな」


 声を掛けてきたのは、神崎蓮だった。


 蓮は真樹の机の横に立ち、手にしていたペットボトルを軽く振った。


「何か面倒なことでもあった?」


「別に」


「その返事するとき、大抵何かあるだろ」


 蓮は笑いながら隣の席へ腰を下ろした。


 真樹はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……天野に、今度どこか行こうって誘われた」


 蓮の手が止まった。


「……へえ」


 真樹が顔を上げると、蓮は口元を押さえながら笑いをこらえていた。


「何だよ」


「いや、嬉しそうだなと思って」


「……嬉しいに決まってるだろ」


 真樹があまりにも自然に答えたため、蓮は今度こそ驚いた顔になった。


「お前、そこは否定しないんだ」


「お前には話してるからな。今さら隠しても仕方ないだろ」


 蓮は感心したように頷いた。


 真樹がひよりを好きだということは、以前から聞いている。けれど、彼女が別の男子に告白するつもりだと知ったときも、真樹は自分の気持ちを押しつけようとしなかった。


 その後、ひよりが失恋したことも、真樹から聞いていた。


 蓮は、親友が今どんな気持ちでいるのかを考えた。


「で、どこへ行くか悩んでるわけ?」


「ああ。俺の好きな場所を知りたいって言われたんだけど、いざ考えると決められなくてな」


 蓮は少し考えたあと、真樹の机へ肘をついた。


「それなら、普段行ってる場所でいいんじゃないか?」


「……それは考えてる」


「だったら、そんなに難しくしなくてもいいと思うけどな。天野さんは、お前がどんなところを好きなのか知りたいんだろ?」


 真樹は黙って蓮を見た。


「お前が普段行かないような店を無理に探したら、かえって違うんじゃないかってこと。相手に楽しんでもらいたい気持ちは分かるけど、今回はお前のことを知りたいって誘ってくれたんだからさ」


 蓮の言葉は、真樹が見落としていたことを指摘していた。


 ひよりが楽しめる場所を選ぶことばかり考えていたが、彼女が求めていたのは、特別な予定そのものではなかったのかもしれない。


「……そうだな」


 真樹は少し肩の力を抜いた。


 蓮はその変化に気づき、穏やかに笑った。


「まあ、あんまり気負うなよ。天野さんも、そんなつもりで誘ったわけじゃないと思うし」


「分かってる。だからこそ、変な期待はさせたくない」


 真樹の声は落ち着いていた。


 蓮は頷いた。


「それなら、普通に楽しめばいいんじゃないか。お前までずっと遠慮してたら、天野さんも気を遣うだろ」


 その言葉に、真樹は少し考え込んだ。


 ひよりが笑ってくれることは嬉しい。


 自分と過ごす時間を楽しみにしてくれるなら、なおさらだ。


 けれど、その気持ちを受け取ることと、恋愛の返事を求めることは違う。


(……俺が勝手に線を引きすぎても、天野は困るかもしれないな)


 真樹は小さく頷いた。


「助かった。ありがとう」


「どういたしまして。珍しく素直だな」


「……余計なこと言うな」


 蓮が笑うと、真樹もわずかに口元を緩めた。


 その表情を見て、蓮は少し安心した。


 親友の恋がどうなるのかは分からない。それでも、真樹が自分の気持ちを大切にしながら、ひよりの気持ちも尊重しようとしていることは伝わってきた。


 蓮は立ち上がり、教室の時計を見た。


「そろそろ先生来るな。場所決まったら、また聞かせろよ」


「……気が向いたらな」


 真樹が答えると、蓮は笑いながら自分の席へ戻っていった。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校の昼休み、ひよりたちは教室の後方にある空いた机を囲んでいた。


 千夏が教科書を開き、海斗が印刷してきた資料を広げる。ひよりはノートを取り出し、朝のうちに話した意見をもう一度整理していた。


「じゃあ、まず主人公が最後に黙っていた理由から考えようか」


 千夏が話を切り出すと、海斗は資料へ目を落とした。


「俺は、相手のことを考えた結果でもあるけど、自分が傷つくのを避けた部分もあったと思うんだよな」


 ひよりは顔を上げた。


「自分が傷つくのを?」


「うん。気持ちを伝えたら、相手が困るかもしれない。でも、それだけじゃなくて、返事を聞くのが怖かったんじゃないかって。相手を思って黙ってるのと、自分が怖いから黙ってるのって、同じように見えて違うと思うんだ」


 海斗は少し考えながら言葉を続けた。


「ただ、主人公がずるいって言いたいわけじゃないんだ。誰だって怖いことはあるし、言えなかった気持ちも分かるから」


 ひよりは黙って海斗の話を聞いていた。


 その言葉は、思いがけず胸の奥に触れた。


 金曜日、颯太に告白する直前の自分も怖かった。もし断られたら、今までの関係が変わってしまうかもしれないと、何度も考えた。


 それでも伝えたのは、もう自分の気持ちから逃げたくなかったからだ。


 けれど、伝えなかった主人公を責める気持ちにはなれなかった。


「……私も、橘君の考えに近いかもしれない」


 ひよりがゆっくり口を開くと、海斗と千夏が顔を上げた。


「主人公は、相手のことを大切に思ってたんだと思う。でも、自分の気持ちを伝えないことで、相手がどう感じるかまでは考えられなかったのかもしれないね」


 ひよりは教科書の一節を指した。


「ここで相手の子が『何も言ってくれないのが一番寂しい』って思ってるでしょう? 主人公は優しくしたつもりでも、相手には違うふうに伝わってたんだよね」


 千夏は頷いた。


「なるほど。じゃあ、相手を思いやる気持ちがあっても、それだけで気持ちが伝わるとは限らないってことかな」


「うん。だからって、何でも言えばいいわけでもないと思うけど……難しいね」


 ひよりは少し困ったように笑った。


 海斗はその表情を見つめていた。


 ひよりは普段、明るくて話しやすい。誰かが困っていれば自然に声を掛けるし、班で意見が分かれたときも、相手の考えを否定せずに聞いてくれる。


 けれど、今日の話を聞いて、海斗はそれだけではない一面を知った気がした。


 人の気持ちを簡単に決めつけず、答えの出ないことも真剣に考える。


 そんなひよりの姿が、海斗には新鮮だった。


「天野って、ちゃんと細かいところまで読んでるんだな」


 海斗が言うと、ひよりは驚いたように瞬きをした。


「えっ、そうかな?」


「うん。俺、最初は主人公の方ばっかり考えてたから、相手の子がどう思ってたかまではあんまり見てなかった」


 ひよりは少し照れたように笑った。


「でも、橘君の意見を聞かなかったら、私も自分が傷つくのを怖がってたってところには気づかなかったよ」


 海斗はその返事に、嬉しそうな表情を浮かべた。


 千夏は二人の話を聞きながら、ノートへ要点を書き込んでいた。


 互いの意見を受け止めながら考えを深めていく様子は、課題の話し合いとしても理想的だった。


「じゃあ、発表では二人の意見を組み合わせようか。主人公が黙っていた理由を一つに決めるんじゃなくて、相手への思いやりと、自分の不安が重なっていた可能性があるって」


 千夏がまとめると、ひよりと海斗は頷いた。


 そのあと三人は、根拠となる文章を探しながら発表の順番を決めた。ひよりが文章の引用を担当し、海斗が考察を説明する。千夏は全体の構成を整える役割を引き受けた。


 昼休みが終わる少し前、海斗は資料を重ねながらひよりへ声を掛けた。


「天野、さっきの意見、すごく参考になった。ありがとう」


「こちらこそ。橘君が資料を用意してくれたから、話しやすかったよ」


 ひよりが笑うと、海斗は一瞬だけ言葉に詰まった。


 何か特別なことを言われたわけではない。


 ただ、自分がしたことをひよりがちゃんと見てくれていたことが嬉しかった。


「……じゃあ、残りは明日までにまとめておくよ」


「うん。私も引用するところ、もう一回確認しておくね」


 海斗は頷き、資料を鞄へしまった。


 千夏はそんな海斗の様子を見ながら、何も言わずに微笑んだ。


 海斗がひよりを気に掛けていることは、以前から何となく感じていた。けれど、今日のように一緒に課題へ取り組む姿を見ていると、その気持ちが少しずつ形になり始めているようにも思える。


 もちろん、海斗自身がそれを恋だと自覚しているかどうかは分からない。


 千夏は無理に確かめようとはしなかった。


 ひよりにとっても、海斗にとっても、今はこうして自然に仲良くなっていく時間が必要なのだろう。


     ◇ ◇ ◇


 午後の授業が始まる少し前、ひよりのスマートフォンに一件のメッセージが届いた。


 差出人は玲奈だった。


『ひよりちゃん、こんにちは。急にごめんね。今度、予定が合う日に一緒にお茶しない?』


 ひよりは画面を見つめ、思わず笑顔になった。


 先週、一緒に散歩したときに連絡先を交換してから、玲奈とは何度か短いやり取りをしていた。けれど、二人だけで会う約束をするのは初めてだ。


 ひよりは少し考え、返信を打った。


『玲奈ちゃん、こんにちは! 誘ってくれてありがとう。私も一緒にお茶したいです』


 送信してから、すぐに続けて送る。


『予定が分かったら、また相談しようね』


 玲奈からの返事はほどなく届いた。


『ありがとう。嬉しい! また都合のいい日を連絡するね』


 ひよりは画面を閉じ、隣にいた千夏へ声を掛けた。


「千夏、玲奈ちゃんからお茶に誘ってもらったんだ」


「へえ、よかったじゃん。ひより、嬉しそう」


「うん。玲奈ちゃん、すごく話しやすかったし、もっと仲良くなれたらいいなって思ってたから」


 千夏は頷いた。


「北条君の幼馴染の子だったよね」


「そう。ノアが小さいころから知ってるんだって。北条君の昔の話もいろいろ聞かせてくれたんだよ」


 ひよりは先週の散歩を思い出した。


 玲奈が話す幼いころの真樹は、今の落ち着いた印象とは少し違っていた。ノアの世話をする姿や、昔から変わらない優しいところを聞いて、知らなかった真樹を少し知れた気がした。


 その一方で、玲奈と真樹が共有している時間の長さに、少しだけ寂しさを覚えたことも思い出す。


 けれど、今は玲奈と仲良くなれることが素直に嬉しかった。


「玲奈ちゃん自身のことも、もっと聞いてみたいな。学校のこととか、好きなものとか」


「いいと思うよ。ひよりなら、すぐ仲良くなれそう」


 千夏は笑った。


 ただ、心の中では少しだけ気になることもあった。


 玲奈が真樹をどう思っているのか、千夏には分からない。ひよりが話してくれた様子からすると、二人は幼いころから親しいらしい。


 それだけで恋愛感情があると決めつけることはできないけれど、もしそうなら、これから少し複雑な関係になる可能性もある。


(……でも、今からそんなこと考えても仕方ないよね)


 千夏はひよりの笑顔を見て、余計な心配を口にするのをやめた。


 友達が増えることは、いいことだ。


 ひよりが誰かと仲良くなりたいと思っているなら、まずはその気持ちを大切にしてほしかった。


     ◇ ◇ ◇


 桜陵学園では、午後の授業が終わったあと、玲奈が廊下の窓際でスマートフォンを見つめていた。


 ひよりからの返信を読み返し、玲奈は小さく微笑んだ。


 誘ってみてよかった。


 そう思う一方で、自分がどうしてひよりを誘いたかったのか、まだはっきりと整理できていない部分もあった。


 ひよりは明るくて、素直で、話していて楽しい女の子だった。


 先週の散歩では、ノアのことを本当に大切に思っているのも伝わってきた。玲奈が昔の話をすると、ひよりは目を輝かせて聞いてくれた。


 だから、もっと仲良くなりたい。


 その気持ちは嘘ではない。


 けれど、真樹のことを知りたいという思いが、まったくないわけでもなかった。


(……私、ずるいのかな)


 玲奈はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。


 真樹とは幼いころから一緒に過ごしてきた。


 家族ぐるみの付き合いがあり、ノアが子犬だったころも知っている。昔の真樹がどんなことで笑い、何を嫌がり、どんなふうに人を気遣うのか、玲奈は自分なりに理解しているつもりだった。


 けれど、最近の真樹には、自分の知らない表情が増えた。


 ひよりと話しているときの、少し柔らかい声。


 ノアがひよりへ甘える様子を見つめる、穏やかな眼差し。


 それらを思い出すたび、玲奈の胸には小さな痛みが生まれる。


 玲奈はその痛みを、ひよりへの悪意に変えたくなかった。


 真樹が誰と仲良くなるかを、自分が決められるわけではない。それに、ひよりは何も悪いことをしていない。


 だからこそ、ひよりと向き合ってみたいと思った。


 真樹を通じて知り合った女の子としてではなく、一人の友達として。


 玲奈は窓の外へ視線を向けた。


 校庭では、部活動へ向かう生徒たちが歩いている。


 その中に真樹の姿はなかった。


 玲奈は少し考えたあと、真樹の教室へ向かった。


 入口から中を覗くと、真樹は蓮と話していた。


「真樹、ちょっといい?」


 声を掛けると、真樹が顔を上げた。


「一ノ瀬。どうした?」


「ひよりちゃんを今度お茶に誘ったんだ。予定はまだ決まってないんだけど」


 真樹は少し驚いたように目を瞬かせた。


「そうなのか」


「うん。せっかく連絡先交換したし、もっと話してみたいなって思って」


 玲奈は真樹の反応を見つめた。


 真樹はすぐに頷き、穏やかな声で答えた。


「いいんじゃないか。天野も喜ぶと思う」


 その返事に、玲奈は少しだけ胸が温かくなった。


 真樹はひよりのことをよく見ている。


 そして、ひよりが喜ぶことを自然に考えている。


 それが嬉しくもあり、寂しくもあった。


「……真樹は最近、ひよりちゃんとよく会ってるの?」


 玲奈が尋ねると、真樹は少し考えてから答えた。


「先週の土日も会った。ノアの散歩でな」


「そうなんだ。二日とも?」


「ああ。天野が会いたいって言ってくれたから」


 玲奈は笑顔を保ったまま頷いた。


 けれど、胸の奥が少しだけ締めつけられた。


 土曜日も、日曜日も。


 自分が知らないところで、二人は一緒に時間を過ごしていた。


 それは当然のことなのに、改めて聞くと寂しかった。


「ノア、ひよりちゃんのこと大好きだもんね」


「そうだな。あいつ、天野を見るとすぐ寄っていくから」


 真樹は少し笑った。


 玲奈はその表情を見て、心の中で小さく息を吐いた。


(……真樹が笑ってるのは嬉しい。でも、私もその笑顔の理由になりたいって思っちゃうんだよね)


 自分の気持ちを、今すぐ真樹へ伝えるつもりはなかった。


 けれど、いつまでも幼馴染という立場に安心していていいのかは、分からなくなっていた。


 玲奈は少しだけ姿勢を正し、いつもの明るい声で言った。


「今度、私もまたノアに会いに行っていい?」


「もちろん。予定が合えばな」


「ありがとう。じゃあ、また連絡するね」


 玲奈は微笑み、真樹と別れた。


 廊下を歩きながら、ひよりとのメッセージ画面をもう一度開く。


『私も一緒にお茶したいです』


 その言葉を見て、玲奈は少しだけ安心した。


 ひよりと仲良くなりたい気持ちは本当だ。


 だからこそ、次に会うときは、真樹の話ばかりではなく、ひより自身のことをたくさん聞いてみようと思った。


     ◇ ◇ ◇


 放課後、ひよりは千夏と並んで校門へ向かっていた。


 冬の夕方は日が傾くのが早く、校舎の影が長く伸びている。部活動へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえ、冷たい風がマフラーの端を揺らした。


「ひより、今日はまっすぐ帰る?」


「うん。課題の残りもあるし、今日は家でゆっくりしようかな」


 ひよりは鞄を持ち直した。


 千夏は頷き、少しだけ笑った。


「それがいいと思う。最近、いろいろあったしね」


「……うん」


 ひよりは小さく頷いた。


 千夏が何を指しているのかは分かっている。


 金曜日の告白。


 颯太からの返事。


 そのあと、真樹と過ごした週末。


 昨日、学校で颯太と顔を合わせたこと。


 ほんの数日の間に、ひよりの気持ちは何度も揺れた。


 けれど、千夏は無理に話を聞こうとはしない。


 ひよりが話したいときに聞いてくれる。


 その距離感がありがたかった。


「千夏、いつもありがとう」


 ひよりが言うと、千夏は少し驚いた顔になった。


「急にどうしたの?」


「何となく。千夏がいてくれてよかったなって思ったから」


 千夏は一瞬だけ言葉を失い、それから照れくさそうに笑った。


「……もう、そういうこと急に言わないでよ。こっちまで照れるじゃん」


「ふふっ、ごめん」


「謝らなくていいって。私も、ひよりと友達でよかったと思ってるから」


 二人は顔を見合わせ、笑い合った。


 そのとき、背後から声が聞こえた。


「天野、藤崎!」


 振り返ると、海斗が鞄を肩に掛けて歩いてきた。


「橘君、どうしたの?」


「さっきの課題の資料、渡すの忘れてた。昼休みに見せたやつ、コピー取ってきたから」


 海斗は鞄から数枚の紙を取り出した。


 ひよりは受け取り、嬉しそうに笑った。


「ありがとう! わざわざ持ってきてくれたの?」


「まあ、明日でもよかったんだけど、今日のうちに見てもらえたらと思って」


 海斗は少し照れたように笑った。


 ひよりは紙を確認し、丁寧に鞄へしまった。


「助かるよ。今日の夜、読んでみるね」


「うん。分からないところがあったら連絡して」


 海斗はそう言ってから、少しだけ迷った。


 ひよりは昨日より元気そうだ。


 昼休みの話し合いでも、自分の意見をしっかり伝えていた。


 けれど、時折考え込むような表情を見せることがある。


 海斗はその理由を知らない。


 何か悩みがあるのかもしれないと思う一方で、まだ深く踏み込めるほど親しいわけではないとも感じていた。


「……天野」


 海斗が少し声を落とすと、ひよりは顔を上げた。


「何?」


「最近、ちょっと忙しそうだけど、無理すんなよ。課題のことも、できる範囲でいいから」


 ひよりは少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう、橘君。でも大丈夫だよ。ちゃんとやれるところまで頑張るね」


 海斗はその笑顔を見て、胸の奥が少し温かくなった。


 昼休みの話し合いで見せた真剣な表情も、今の穏やかな笑顔も、どちらもひよりらしいと思った。


「そっか。じゃあ、また明日」


「うん。また明日ね」


 ひよりが手を振ると、海斗も軽く手を上げて歩き出した。


 千夏はその背中を見送りながら、少しだけ考え込んだ。


 海斗はまだ、ひよりが颯太に告白して振られたことを知らない。


 だからこそ、ひよりへの気遣いも、彼自身が普段の様子から感じ取ったものなのだろう。


 千夏は隣のひよりへ視線を向けた。


「橘君、優しいね」


「うん。課題のこともすごく真面目だし、頼りになるよね」


 ひよりは素直に頷いた。


 その言葉に恋愛的な意味はない。


 けれど、海斗がひよりの中で、ただの同級生から少しずつ信頼できる友人へ変わり始めていることは、千夏にも伝わってきた。


「……そうだね」


 千夏は小さく笑い、ひよりと並んで歩き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、真樹はノアの散歩を終えて帰宅していた。


 玄関でリードを外すと、ノアは満足そうに尻尾を揺らし、真樹の足元へ身体を寄せた。


「今日はよく歩いたな」


 真樹が頭を撫でると、ノアは嬉しそうに鼻先を押しつけてきた。


 その様子に小さく笑いながら、真樹はリードを片づけた。


 今日はひよりと会う約束をしていなかった。


 それでも、いつもの公園を通ったとき、無意識にひよりの姿を探してしまった。


 もちろん、いなかった。


 学校がある日なのだから、当然だ。


 それでも、少しだけ寂しく感じた自分に、真樹は苦笑した。


(……本当に、天野のことばっかり考えてるな)


 自室へ戻り、スマートフォンを確認する。


 ひよりからは、昼休みに短いメッセージが届いていた。


『今日、玲奈ちゃんからお茶のお誘いが来たよ』


『また仲良くなれそうで嬉しいな』


 真樹はその文面を見て、少しだけ驚いた。


 玲奈がひよりを誘ったらしい。


 幼馴染の玲奈と、最近親しくなったひより。


 二人が仲良くなることは、真樹にとっても嬉しいことだった。


 けれど、玲奈がどんな気持ちで誘ったのかまでは分からない。


 真樹は少し考えてから、返信を打った。


『よかったな』


『一ノ瀬も話しやすいと思う』


 ひよりからすぐに返事が届いた。


『うん! 北条君の小さいころの話も、また聞けるかもね』


 真樹は思わず眉を寄せた。


『変なこと聞くなよ』


 送信すると、ひよりから笑っている絵文字が届いた。


『ふふっ、どうしようかな』


 真樹は小さく息を吐いた。


 玲奈は昔の自分をよく知っている。


 ノアが子犬だったころの話も、家族ぐるみで付き合っていたころの出来事も、いろいろ覚えているはずだ。


 ひよりがそれを聞くこと自体は嫌ではない。


 ただ、恥ずかしい話まで知られるのは少し困る。


(……一ノ瀬、余計なこと言わないといいけどな)


 真樹はそう思いながら、スマートフォンを置いた。


 けれど、すぐに昨夜の誘いを思い出し、もう一度画面を開いた。


 ひよりと出かける場所。


 まだ決めていない。


 蓮に言われたとおり、自分が普段行く場所を選べばいい。


 真樹は少し考え、ある場所を思い浮かべた。


 静かな通りにある、小さな書店。


 大型店ほど品揃えは多くないが、落ち着いた雰囲気で、ゆっくり本を選べる。


 真樹は昔から、時々そこへ足を運んでいた。


 店の近くには、温かい飲み物を出す小さな喫茶店もある。


 ひよりが本を好きかどうかは、まだ詳しく聞いたことがない。


 けれど、静かな場所で話すのは嫌いではなさそうだった。


(……まずは聞いてみるか)


 真樹はメッセージを打った。


『天野、本屋って好きか?』


 少しして返事が届いた。


『好きだよ! 小説も読むし、可愛い雑貨が置いてある本屋さんも好き』


 真樹は小さく笑った。


『じゃあ、今度行ってみたい本屋がある』


『俺がたまに行くところ』


 ひよりからの返事は早かった。


『本当? 行ってみたい!』


『北条君が好きな場所なら、楽しみだな』


 真樹はその言葉を見つめた。


 胸の奥が、ゆっくり温かくなる。


 ひよりは、自分の好きな場所を楽しみにしてくれている。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


『じゃあ、予定が合う日に行こう』


 送信すると、ひよりからすぐに返事が届いた。


『うん! 約束ね』


 真樹はしばらく画面を見つめていた。


 約束。


 その二文字が、妙に嬉しかった。


 足元では、ノアが眠そうに身体を丸めている。


 真樹はその頭を撫でながら、小さく呟いた。


「……今度は、お前なしで出かけることになりそうだな」


 ノアは片耳を動かしただけで、再び目を閉じた。


 真樹は苦笑した。


「……お前は誰の味方だよ」


 もちろん、ノアは答えない。


 けれど、真樹には何となく、ひよりの味方だと言われたような気がした。


     ◇ ◇ ◇


 夜、ひよりは自室で課題を終え、机の上を片づけていた。


 真樹と本屋へ行く約束をしたことが、まだ嬉しくて仕方がない。


 具体的な日程は決まっていない。


 けれど、真樹が普段行く場所を教えてくれる。


 それだけで、少し特別な気がした。


(……北条君、どんな本が好きなんだろう)


 ひよりは本棚へ視線を向けた。


 自分の好きな小説や、何度も読み返した本が並んでいる。


 もし真樹が同じ本を読んでいたら、話が弾むかもしれない。


 逆に、まったく違うジャンルが好きだったとしても、それはそれで楽しそうだ。


 知らなかったことを知る。


 それは、誰かと仲良くなる楽しさの一つなのだろう。


 ひよりはそんなことを考えながら、スマートフォンを手に取った。


 真樹とのメッセージ画面を開く。


『約束ね』


 自分が送った言葉を見て、少しだけ頬が熱くなった。


 以前なら、颯太との約束をこんなふうに何度も見返していた。


 そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 けれど、今は真樹との約束を楽しみにしている。


 それが、少し不思議だった。


(……私、ちゃんと前に進めてるのかな)


 颯太のことを忘れたわけではない。


 まだ好きだった時間を大切に思っている。


 けれど、それとは別に、真樹と過ごす時間が楽しみになっている。


 ひよりはその気持ちを、無理に名前で呼ぼうとはしなかった。


 今はただ、友達としてもっと仲良くなりたい。


 そう思うことが、自然だった。


 ひよりはスマートフォンを置き、窓の外へ視線を向けた。


 冬の夜空には、細い月が浮かんでいる。


 明日も学校がある。


 千夏と話して、海斗と課題を進めて、もしかしたら颯太と顔を合わせるかもしれない。


 そして、真樹とはまたメッセージを交わすだろう。


 日常は、少しずつ続いていく。


 ひよりはゆっくり目を閉じた。


(……楽しみだな、北条君とのお出かけ)


 その気持ちを胸に抱きながら、ひよりは明日の準備を整えた。

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