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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第41話 月曜日、いつもどおりが難しい


 月曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。


 カーテンの向こうはまだ薄暗く、冬の冷たい空気が窓際に残っている。布団の中は暖かかったが、いつものようにもう少し眠っていたいという気持ちにはなれず、ひよりは仰向けになったまま天井を見つめていた。


 今日から、また学校が始まる。


 金曜日の放課後、佐伯颯太に告白してから初めての登校日だった。


(……会うかもしれないんだよね)


 同じ高校に通っているのだから、顔を合わせる可能性は十分にある。去年は同じクラスだったが、二年生になってからは別のクラスになり、最近では毎日話すような関係ではなくなっていた。


 それでも、廊下ですれ違えば挨拶することはあったし、共通の友人を交えて話す機会もあった。


 金曜日までは、そんな何気ない時間が嬉しかった。


 けれど、今日からはどうなるのだろう。


 颯太は、ひよりの気持ちを知っている。


 ひよりも、颯太が自分を恋愛対象として見ていなかったことを知っている。


 たった一度の会話で、二人の間にあったものが大きく変わってしまった気がした。


(……普通に挨拶できるかな)


 ひよりは掛け布団の端を指先で握った。


 金曜日、颯太はこれからも友達でいられたら嬉しいと言ってくれた。けれど、ひよりがつらいなら無理をしなくてもいいとも話していた。


 その優しさは、今もありがたいと思っている。


 ただ、何事もなかったように笑える自信は、まだなかった。


 昨日、真樹にもその不安を話した。


 すると真樹は、無理に普通にしようとしなくていいと言ってくれた。


 すぐに以前と同じ関係へ戻れなくても、おかしくない。


 あの言葉を思い出すと、少しだけ肩の力が抜けた。


(……そうだよね。今日一日で、全部どうにかしなくてもいいんだ)


 ひよりはゆっくり身体を起こし、ベッドから降りた。


 窓の外では、通学路を走る自転車の音が聞こえ始めている。いつもと変わらない月曜日の朝なのに、自分の心だけが少し違う場所にあるようだった。


 それでも、学校へ行かないわけにはいかない。


 ひよりは制服を手に取り、いつもより少し時間をかけて身支度を始めた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、母の由美が用意した味噌汁から白い湯気が立ち上っていた。


 父の浩介は出勤前の新聞を読み、兄の悠一はスマートフォンで仕事の連絡を確認している。美月は大学の予定を確かめながら、ひよりが席へ着くのを待っていた。


「おはよう、ひより。今日は早いのね」


 由美が声を掛けると、ひよりは椅子を引きながら微笑んだ。


「うん。ちょっと早く目が覚めちゃった。昨日もそんなに遅く寝てないんだけどね」


「休み明けだからかしら。寒いと身体も疲れやすいし、朝ご飯はちゃんと食べていきなさいね」


 由美はそう言って、ひよりの前へ焼き魚の皿を置いた。


 ひよりは礼を言って箸を取ったものの、最初の一口を食べるまでに少し時間がかかった。


 向かい側に座る美月は、その様子を静かに見ていた。


 土曜日、ひよりは颯太に振られたことを打ち明けてくれた。


 昨日は真樹とノアに会って、少し元気になったらしい。帰宅後には笑顔も見せていたが、学校が始まればまた別の不安が生まれるだろう。


 美月は味噌汁の椀を置き、妹へ声を掛けた。


「ひより、今日の放課後って何か予定ある?」


「まだ決めてないよ。どうしたの?」


「帰りに駅前のお店へ寄ろうと思ってたんだけど、時間が合えば一緒にどうかなって。新しい紅茶が入ったみたいだから、ちょっと見てみたくて」


 ひよりは顔を上げた。


 姉が気を遣ってくれていることは、何となく分かった。


 けれど、学校が終わったあとに予定があると思うと、少し気持ちが軽くなる。


「いいね。私も見たいな。でも、今日の放課後に疲れてたら、また今度でもいい?」


「もちろん。無理に今日じゃなくていいから、学校が終わってから決めよう」


 美月が自然に答えると、ひよりは安心したように頷いた。


 そのやり取りを聞いていた悠一が、スマートフォンから顔を上げた。


「駅前に行くなら、俺が迎えに――」


「お兄ちゃん、今日はお仕事でしょ?」


 ひよりが先回りして尋ねると、悠一は口を閉じた。


 確かに今日は仕事がある。妹たちの買い物へ同行するために予定を変えるわけにもいかなかった。


「……そうだけど、帰りが遅くなるなら連絡しろよ。暗くなるの早いんだから」


「うん、分かってる。お姉ちゃんと一緒なら大丈夫だよ」


 ひよりは笑いながら答えた。


 以前なら、悠一の心配を少し面倒に感じることもあった。


 けれど、今朝はそのいつもどおりの言葉がありがたかった。


 誰も、金曜日のことを無理に聞いてこない。


 家族は普段と同じように接してくれる。


 そのことに、ひよりは救われていた。


     ◇ ◇ ◇


 県立青葉高校へ向かう道には、制服姿の生徒たちが行き交っていた。


 冬の朝らしく吐く息は白く、道路脇の植え込みには霜が残っている。ひよりはマフラーへ顎を埋めながら、少し早足で校門をくぐった。


 昇降口へ向かう途中、背後から聞き慣れた声がした。


「ひより、おはよう!」


 振り返ると、藤崎千夏が鞄を肩に掛けて歩いてきた。


 ひよりは自然に笑顔を浮かべた。


「おはよう、千夏。今日は早いね」


「ひよりこそ。教室で待ってようと思ってたのに、ここで会えるなんてちょうどよかった」


 千夏は隣へ並び、ひよりの顔をさりげなく見た。


 目元の赤みは金曜日ほどではない。


 それでも、いつもより少し表情が硬いことには気づいていた。


「週末はどうだった? 昨日は北条君たちと会ったんだよね」


「うん。土曜日も日曜日も、ノアと一緒にお散歩したよ。昨日は途中でココアも飲んだんだ」


 ひよりが話し始めると、声が少し明るくなった。


 千夏はその変化に安心しながら、靴箱の前で立ち止まった。


「そっか。楽しかったならよかった。でも、今日の学校はちょっと緊張するよね」


 ひよりは上履きを取り出す手を止めた。


 千夏は無理に笑わせようとはせず、静かに続けた。


「佐伯君と顔を合わせるかもしれないし、何となく周りの目も気になっちゃうと思う。でも、告白したことを知ってるのは限られた人だけなんだから、必要以上に気にしなくていいよ」


「……うん。そうなんだけど、佐伯君が私のことをどう思ってるのかなって考えちゃって」


 ひよりは小さく息を吐いた。


「迷惑だったかなとか、これから話しづらくなっちゃうかなとか。ちゃんと断ってくれたのに、私がいつまでも気にしてたら、佐伯君も困るよね」


 千夏は少し考えてから、ひよりへ向き直った。


「ひより、佐伯君に気を遣うのは悪いことじゃないと思う。でも、振られたひよりが、相手を困らせないためにすぐ元気にならなきゃいけないわけじゃないよ」


 ひよりは目を丸くした。


 千夏は上履きへ履き替えながら、柔らかく笑った。


「今はちょっと気まずくてもいいじゃん。時間が経ったら、また普通に話せるかもしれないし。そのときになってから考えればいいよ」


 真樹にも似たようなことを言われた。


 けれど、千夏の言葉には、長い付き合いだからこその温かさがあった。


「……ありがとう、千夏。何か、ちょっと安心した」


「それならよかった。あと、今日の小テストのこと忘れてないよね?」


 突然話題を変えられ、ひよりは目を瞬かせた。


「えっ、今日って小テストあったっけ?」


「あるよ。先週先生が言ってたでしょ。ほら、英単語の範囲がいつもより広いやつ」


 千夏が呆れたように笑うと、ひよりは慌てて鞄の中を探り始めた。


 週末は失恋のことばかり考えていて、すっかり忘れていた。


「ど、どうしよう! 全然見直してない!」


「朝のホームルームまでまだ時間あるから、一緒に確認しよ。全部は無理でも、間違えやすいところくらいなら何とかなるって」


 千夏はそう言って、ひよりの背中を軽く押した。


 ひよりは思わず笑いながら、親友と一緒に教室へ向かった。


 失恋したからといって、学校の予定が待ってくれるわけではない。


 その当たり前のことが、今朝は少しだけおかしかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、私立桜陵学園では北条真樹が教室の窓際に立っていた。


 校庭には朝の練習を終えた運動部の生徒たちが戻ってきており、廊下では週末の出来事を話す声が重なっている。真樹はスマートフォンを鞄へしまいながら、窓の外へ目を向けた。


 ひよりからは、朝に短いメッセージが届いていた。


『おはよう、北条君。今日から学校だね』


 真樹は『おはよう。無理するなよ』と返した。


 それに対して、ひよりは『うん、ありがとう。北条君も頑張ってね』と返信してきた。


 いつもと変わらないやり取りだった。


 けれど、今日のひよりがどんな気持ちで学校へ向かったのかを考えると、真樹は落ち着かなかった。


(……佐伯と会うかもしれないんだよな)


 同じ高校に通っている以上、避け続けることは難しい。


 ひよりは昨日、学校で顔を合わせることへの不安を口にしていた。


 真樹はそのとき、無理に普通にしなくていいと伝えた。


 それでも、実際にひよりがどう感じるかまでは分からない。


 自分は別の学校にいる。


 ひよりが困っても、その場へ駆けつけることはできない。


 真樹は小さく息を吐いた。


 その様子を、少し離れた席から神崎蓮が見ていた。


「真樹、朝からずいぶん考え込んでるな。週末、何かあった?」


 蓮が隣へ来ると、真樹は窓から視線を戻した。


「……別に。大したことじゃない」


「その答え方をするときは、大抵大したことあるんだけど」


 蓮は笑いながら、空いている机へ軽く手を置いた。


 真樹はしばらく黙っていたが、やがて声を落とした。


「……天野、金曜日に告白した」


 蓮の表情が変わった。


 ひよりが颯太へ告白する予定だったことは聞いていた。


 けれど、その結果までは知らなかった。


「そうか。それで、どうだったんだ?」


 真樹は教室の入口へ一度視線を向け、周囲に聞かれない程度の声で答えた。


「……振られた。佐伯は友達としてしか見てなかったらしい」


 蓮はすぐには返事をしなかった。


 真樹がひよりを好きなことを知っているからこそ、その結果が単純に喜ばしいものではないと分かっていた。


「……天野さんは、大丈夫だったのか?」


「金曜日は泣いてた。土曜と日曜に会ったときは、少し笑えるようになってたけど」


 真樹はそこまで話してから、言葉を探すように口を閉じた。


 蓮は急かさず待った。


「……俺、最低だなって思った」


 真樹の声は低かった。


「天野が泣いてるのを見て、つらかった。佐伯に振られたって聞いて、あんな顔させたくなかったとも思った。でも、その一方で……付き合わなくてよかったって、少し安心したんだよ」


 蓮は真樹を見つめた。


 真樹は苦笑し、視線を落とした。


「好きな相手が傷ついてるのに、そんなこと考えてる自分が嫌になった」


 蓮はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。


「真樹が天野さんを傷つけたわけじゃないだろ。それに、好きな子が別の男子と付き合わなかったことを喜ぶ気持ちがあるのは、別に不思議じゃないと思う」


 真樹は顔を上げた。


 蓮は真面目な表情のまま続けた。


「大事なのは、その気持ちを理由に何をするかじゃないか。天野さんが弱ってる今なら自分に振り向かせられる、なんて考えて動くなら問題だけど、お前はそういうことをしてないんだろ?」


「……するつもりもない」


「だったら、自分の気持ちまで全部否定しなくていいと思う。嫉妬するのも、安心するのも、好きだからこそ出てくる感情なんじゃないか」


 真樹は黙って蓮の言葉を聞いていた。


 誰かにそう言われたからといって、胸の奥の複雑な感情が消えるわけではない。


 けれど、少しだけ息がしやすくなった気がした。


「……お前、たまに妙に大人だよな」


「たまにって何だよ。俺はいつでも頼れる親友のつもりなんだけど」


 蓮が大げさに肩をすくめると、真樹は小さく笑った。


 その表情を見て、蓮も安心したように口元を緩めた。


 真樹がここまで誰かを好きになる姿は、長い付き合いの中でも初めて見る。


 普段は冷静で、他人の評価にあまり左右されない友人が、一人の女の子のことでこんなにも悩んでいる。


(……本当に大事なんだな、天野さんのこと)


 蓮はそう感じながら、あえてそれ以上はからかわなかった。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校では、一時間目の授業が終わり、教室に休み時間のざわめきが戻っていた。


 ひよりは英単語の小テストを終え、机へ突っ伏したくなる気持ちをこらえていた。


 朝、千夏と確認した単語がいくつか出題されたおかげで、まったく書けなかったわけではない。けれど、最後の問題だけはどうしても思い出せず、空欄のまま提出してしまった。


「……千夏、最後の単語って何だった?」


 ひよりが小声で尋ねると、千夏は苦笑した。


「今聞く? もう提出しちゃったんだから、返ってきてからのお楽しみにしようよ」


「だって、気になるんだもん。絶対に見たことある単語だったのに、途中までしか思い出せなくて……」


 ひよりが悔しそうに話していると、近くの席から橘海斗が声を掛けてきた。


「天野、さっきの小テスト、そんなに難しかった?」


 海斗は自分のノートを片づけながら、二人の方へ身体を向けた。


 ひよりは少し恥ずかしそうに笑った。


「難しかったというより、私がちゃんと勉強してなかっただけなんだけどね。最後の問題、どうしても思い出せなかったの」


「俺も一つ怪しいところあったよ。あれ、似た意味の単語が多くて紛らわしいんだよな」


 海斗がそう言うと、ひよりは少し安心したように頷いた。


「そうなの! 似てるのが多いと、どれだったか分からなくなっちゃうんだよね」


 会話が続くうちに、ひよりの表情は少しずつ柔らかくなった。


 海斗はその様子を見ながら、先週の金曜日を思い出していた。


 あの日、ひよりは朝からどこか落ち着かない様子だった。


 何か大切な予定があるらしいことは分かったが、詳しい事情までは聞いていない。


 そして今日、ひよりはいつもより少し静かに見える。


 けれど、千夏と話しているときは笑っているし、今も普通に会話してくれている。


(……何かあったのかな)


 海斗は気になったが、すぐに尋ねるのはためらわれた。


 ひよりが自分から話していない以上、無理に聞くことではないのかもしれない。


「そういえば天野、今日の放課後って何かある?」


 海斗が尋ねると、ひよりは少し驚いたように顔を上げた。


「え? 今日はまだ決めてないけど、どうしたの?」


「いや、来週の提出物のことで、ちょっと確認したいことがあってさ。千夏も一緒に、帰る前に少しだけ時間取れないかなと思って」


 ひよりは千夏へ視線を向けた。


 千夏は頷き、鞄の中から手帳を取り出した。


「私は大丈夫だよ。提出物って、現代文の課題のこと?」


「そう。それぞれ担当する部分を確認しておきたくて。長くはかからないと思う」


 ひよりは少し考えてから、笑顔で頷いた。


「うん。それなら大丈夫。お姉ちゃんと買い物するかもしれないけど、放課後に少し話すくらいなら問題ないよ」


 海斗はほっとしたように笑った。


「助かる。じゃあ、授業が終わったら声掛けるな」


 ひよりが頷くと、海斗は自分の席へ戻っていった。


 その後ろ姿を見ながら、千夏は少しだけ目を細めた。


 最近、海斗はひよりへ話しかける機会が増えている。


 以前から同じクラスの友人として交流はあったが、ここ数日はひよりの様子を気にしているように見えた。


(……橘君も、ひよりのこと気になってるのかな)


 千夏はそう考えたものの、すぐに結論を出すつもりはなかった。


 今のひよりは失恋したばかりだ。


 周囲の男子の気持ちを勝手に推測して、余計な負担を増やす必要はない。


 千夏は何も言わず、次の授業の教科書を取り出した。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み、ひよりと千夏は教室で昼食を取っていた。


 窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、暖房の効いた教室には弁当の匂いと生徒たちの話し声が広がっている。ひよりは由美が作ってくれた卵焼きを口へ運びながら、千夏が話す週末の出来事に耳を傾けていた。


 千夏は日曜日、家族と買い物へ出かけたらしい。


 新しい文房具を買うつもりだったのに、気づけば雑貨店で長い時間を過ごしてしまったと笑っていた。


「それでね、可愛いマグカップがあったんだけど、家に似たようなのが三つもあるからって、お母さんに止められちゃったの」


「ふふっ、千夏って可愛いもの見つけると、すぐ欲しくなっちゃうもんね」


「そうなんだよね。でも、あれは本当に可愛かったんだって。白いカップに小さな花が描いてあって、持ち手の形もちょっと変わってたの」


 千夏が身振りを交えて説明するので、ひよりは思わず笑ってしまった。


 そのとき、教室の入口付近から誰かを呼ぶ声が聞こえた。


「佐伯、ちょっとこっち来て!」


 ひよりの箸が止まった。


 声がしたのは廊下だった。


 自分のクラスではない誰かが、颯太を呼んでいるらしい。


 ひよりは無意識に入口へ視線を向けた。


 開いた扉の向こうを、見覚えのある男子生徒が通り過ぎていく。


 颯太だった。


 友人らしい男子と話しながら歩いていた颯太は、ひよりの教室の前で一瞬だけ足を緩めた。


 その視線が、教室の中へ向く。


 ひよりと目が合った。


 ほんの短い時間だった。


 けれど、ひよりには周囲の音が少し遠くなったように感じられた。


(……佐伯君)


 胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 金曜日の中庭。


 緊張しながら気持ちを伝えたこと。


 颯太が真剣な表情で返事をしてくれたこと。


 そのすべてが、一度に蘇ってきた。


 颯太も、ひよりに気づいたらしかった。


 驚いたように目を見開き、何か言おうとしたように唇を動かした。


 しかし、隣の友人が声を掛けたため、颯太はそちらへ顔を向けた。


 そのまま二人は廊下の先へ歩いていった。


 ひよりは視線を落とし、手元の弁当を見つめた。


 箸を持つ指先に、少しだけ力が入っている。


「……ひより」


 千夏が静かに声を掛けた。


 ひよりは顔を上げようとしたが、うまく笑えなかった。


「……ごめん。ちょっとびっくりしちゃった」


 千夏は首を振った。


「謝らなくていいよ。今のは、びっくりするよね」


 ひよりは小さく頷いた。


 廊下で顔を合わせることは、朝から覚悟していた。


 けれど、実際に目が合うと、思っていた以上に胸が痛んだ。


 颯太は何も悪くない。


 ただ通りかかっただけだ。


 それなのに、ひよりは今までのように手を振ることも、笑顔で挨拶することもできなかった。


(……私、まだ全然普通にできないんだ)


 そのことが、少し情けなく感じられた。


 千夏はひよりの表情を見て、弁当箱を閉じる手を止めた。


「ひより、無理に笑わなくていいって言ったでしょ。今はびっくりしたんだから、少し落ち着いてから食べよう」


 ひよりは親友の顔を見た。


 千夏はいつもどおりの穏やかな表情をしている。


 その顔を見ているうちに、ひよりの呼吸も少しずつ落ち着いてきた。


「……うん。ありがとう」


 ひよりは水筒のお茶を一口飲み、ゆっくり息を吐いた。


 胸の痛みはまだ残っている。


 けれど、千夏が隣にいてくれることで、少しだけ安心できた。


     ◇ ◇ ◇


 廊下を歩いていた颯太も、先ほどの出来事を思い返していた。


 友人に呼ばれて別の教室へ向かう途中、偶然ひよりの姿が目に入った。


 ひよりは千夏と昼食を取っていた。


 いつもなら、目が合えば軽く手を振るくらいはできただろう。


 けれど、今日は違った。


 ひよりの表情が一瞬で変わったことに、颯太は気づいてしまった。


 驚きと緊張。


 そして、少しだけ悲しそうな目。


 金曜日に見た表情と重なり、胸の奥が落ち着かなくなった。


(……やっぱり、気まずいよな)


 颯太は友人の話へ相槌を打ちながら、廊下の先へ視線を向けた。


 ひよりが自分を好きだったことは、もう知っている。


 そして、自分がその気持ちを断ったことも変わらない。


 今までどおりに接してほしいと願うのは、勝手なのかもしれない。


 颯太はそう思いながら、少しだけ唇を結んだ。


 金曜日、ひよりは少し時間が欲しいと言っていた。


 それなら、自分から無理に距離を縮めるべきではない。


 けれど、先ほど目が合ったとき、何も言えなかったことが気になっていた。


(……天野、ちゃんと昼飯食べられたかな)


 そこまで考えて、颯太は自分の思考に驚いた。


 今まで、ひよりが昼食を食べられたかどうかまで気にしたことはない。


 もちろん、友人が落ち込んでいれば心配することはあった。


 けれど、今日はひよりの小さな表情の変化が、妙に気になってしまう。


 颯太はその理由を、まだうまく説明できなかった。


 自分を好きだと言ってくれた女の子だからなのか。


 傷つけてしまったという申し訳なさなのか。


 それとも、今まで気づかなかった何かがあるのか。


 答えは出ないままだった。


 ただ一つ分かるのは、ひよりが自分を好きだったと知る前には、こんなふうに考え込むことはなかったということだった。


     ◇ ◇ ◇


 午後の授業が始まるころには、ひよりも少しずつ落ち着きを取り戻していた。


 教科書を開き、先生の説明をノートへ書き写しているうちに、昼休みの出来事を考える時間も減っていった。窓の外では冬の雲がゆっくり流れ、教室にはチョークの音が響いている。


 授業の途中、先生が黒板へ書いた内容を見落としかけ、ひよりは慌ててノートへ視線を戻した。


(……ちゃんと集中しなきゃ)


 颯太のことを考えてばかりでは、授業についていけなくなってしまう。


 今の自分には、学校生活も大切だ。


 友達と話す時間も、勉強する時間も、家族と過ごす時間もある。


 失恋したからといって、それらすべてが変わってしまうわけではない。


 ひよりはペンを持ち直し、先生の説明へ耳を傾けた。


 その姿を、斜め後ろの席から海斗が見ていた。


 昼休みのあと、ひよりは少し静かになっていた。


 何かあったのかもしれない。


 けれど、授業中のひよりは真剣にノートを取っている。


 海斗はその横顔を見ながら、少しだけ考えた。


(……元気ないときもあるよな)


 いつも明るく笑っているからといって、悩みがないわけではない。


 自分だって、周りに話したくないことはある。


 だから、今は無理に聞かない方がいいのだろう。


 海斗はそう考え、黒板へ視線を戻した。


 ただ、放課後の課題の相談では、ひよりが少しでも気楽に話せるようにしたいと思った。


     ◇ ◇ ◇


 放課後、ひよりと千夏は海斗に声を掛けられ、教室の後方にある空いた机へ集まった。


 現代文の課題は、指定された作品について班ごとに意見をまとめるものだった。三人はそれぞれ担当する部分を確認し、提出までの予定を相談することになっていた。


 海斗はノートを開き、事前に書き出してきた項目を二人へ見せた。


「とりあえず、俺は作品の背景を調べておこうと思う。天野は登場人物の心情をまとめるのが得意そうだし、そこをお願いしてもいい?」


 ひよりはノートを覗き込み、少しだけ考えた。


「うん。登場人物の気持ちを考えるのは好きだから、そこならできそう。でも、文章にまとめるのはあんまり得意じゃないかも」


「そこは千夏が確認してくれると思うし、俺も手伝うよ。最初から完璧にしなくても、三人で直していけばいいだろ」


 海斗が自然に答えると、ひよりは安心したように笑った。


「ありがとう、橘君。それなら頑張れそう」


 千夏も頷き、自分の担当部分を確認した。


「私は全体の構成をまとめるね。ひよりの考えたことを読んで、必要なら順番を調整する感じでいいかな」


「うん。よろしくね」


 三人はそのあとも、作品の内容について意見を交わした。


 ひよりは登場人物が相手の気持ちを誤解してしまう場面について、自分なりの考えを話した。


 言葉にしなければ伝わらないこともある。


 けれど、言葉にしたからといって、必ず望んだ答えが返ってくるわけではない。


 そんなことを考えながら話しているうちに、ひよりは金曜日の自分を少しだけ思い出した。


 ただ、今回は胸が痛むだけではなかった。


 自分も、ちゃんと伝えたのだ。


 望んだ答えは返ってこなかったけれど、伝えなければ分からなかったことがある。


 その経験を、少しずつ受け止められるようになってきた気がした。


 海斗はひよりの説明を聞きながら、感心したように頷いた。


「天野って、そういうところよく考えてるよな。俺、そこまで深く読んでなかった」


 ひよりは少し照れたように笑った。


「そんなことないよ。私も、たまたま気になっただけだから」


「いや、でも面白いと思う。俺とは違う見方だったし、課題に入れたらよさそう」


 海斗の言葉に、ひよりは嬉しそうに頷いた。


 千夏はそのやり取りを見ながら、静かに微笑んだ。


 ひよりはまだ失恋の痛みを抱えている。


 けれど、こうして学校で友人たちと話し、自分の意見を伝え、笑うことができている。


 それは、少しずつ日常へ戻っている証拠なのだろう。


 相談が終わるころには、窓の外の日差しが少し傾き始めていた。


 ひよりはノートを閉じ、二人へ頭を下げた。


「今日はありがとう。私、そろそろ帰るね」


「うん。気をつけてね」


 千夏が笑顔で答えると、海斗も軽く手を振った。


「また明日。課題で分からないところあったら、遠慮なく聞いてくれよ」


「ありがとう、橘君。また明日ね」


 ひよりは笑顔で応え、鞄を持って教室を出た。


 その後ろ姿を見送りながら、海斗は少しだけ息を吐いた。


 朝よりも、ひよりの表情は明るくなっている。


 そのことが、何となく嬉しかった。


(……よかった)


 海斗は自分でも理由を深く考えないまま、ノートを鞄へしまった。


     ◇ ◇ ◇


 昇降口へ向かう途中、ひよりはスマートフォンを取り出した。


 美月からメッセージが届いている。


『ひより、今日どうする? 疲れてたら買い物はまた今度にしよう』


 ひよりは少し考えてから、返事を打った。


『今日は大丈夫だよ。お姉ちゃんとお茶したいな』


 すぐに返信が届いた。


『分かった。じゃあ駅前で待ち合わせようね』


 ひよりは小さく笑った。


 今日は朝から緊張していた。


 昼休みには颯太と目が合い、胸が痛くなった。


 けれど、千夏と話し、海斗と課題を相談しているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。


 そして、これから美月と買い物へ行く。


 学校が終わったあとにも、楽しみにできる時間がある。


 そのことが嬉しかった。


 ひよりは上履きを脱ぎ、靴箱からローファーを取り出した。


 そのとき、背後から聞き慣れた声がした。


「……天野」


 ひよりの手が止まった。


 振り返ると、少し離れたところに颯太が立っていた。


 周囲には帰宅する生徒たちが行き交っている。


 颯太は鞄を肩に掛けたまま、ひよりを見つめていた。


 ひよりは一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。


(……佐伯君)


 金曜日以来、初めて直接声を掛けられた。


 胸の奥が強く鳴る。


 けれど、ここで逃げるのは違う気がした。


 ひよりはゆっくり立ち上がり、少しだけ笑った。


「……佐伯君。お疲れさま」


 颯太はその笑顔を見て、わずかに表情を緩めた。


「お疲れ。今日、昼休みに見かけたんだけど、ちゃんと挨拶できなかったから」


 ひよりは少しだけ目を伏せた。


 昼休みのことを、颯太も覚えていたらしい。


「……うん。私も、ちょっとびっくりしちゃって」


 颯太は小さく頷いた。


 少しの沈黙が流れる。


 以前なら、こんなふうに言葉を探すことはなかった。


 何でもない話をして、笑って、それぞれの教室へ戻るだけだった。


 けれど、今はお互いに相手の反応を気にしてしまう。


 颯太は一度視線を落とし、静かに口を開いた。


「……金曜日のことなんだけど」


 ひよりの胸がきゅっと締めつけられた。


 颯太はその変化に気づいたのか、すぐに言葉を続けた。


「ごめん。今、無理に話したいわけじゃないんだ。ただ、俺の方から変に避けたりするつもりはないって、それだけ伝えたくて」


 ひよりはゆっくり顔を上げた。


 颯太は真剣な表情をしていた。


「でも、天野がまだ話しづらいなら、無理しなくていいから。金曜日にも言ったけど、そこは天野の気持ちを優先してほしい」


 ひよりはしばらく黙っていた。


 颯太の言葉は、やはり優しかった。


 だからこそ、胸が痛む。


 こんなふうに相手を気遣えるところが、ずっと好きだったのだ。


 けれど、今はその優しさを恋愛の期待へ結びつけてはいけない。


 ひよりは自分へそう言い聞かせ、ゆっくり息を吸った。


「……ありがとう、佐伯君」


 声は少し震えていたが、最後まで言葉を続けることができた。


「私も、いつかまた普通に話せたらいいなって思ってる。でも、まだちょっと緊張しちゃうから……少しだけ時間をもらってもいい?」


 颯太はすぐに頷いた。


「もちろん。急がなくていいよ」


 ひよりはその返事に、少しだけ安心した。


 金曜日、颯太は自分の気持ちをきちんと受け止めてくれた。


 そして今日も、無理に以前と同じ関係へ戻そうとはしないでくれている。


 その優しさを、今は素直にありがたいと思いたかった。


「……うん。ありがとう」


 ひよりは小さく微笑んだ。


 颯太も少しだけ笑った。


 けれど、その笑顔は以前より控えめだった。


 二人は短く挨拶を交わし、それぞれ別の方向へ歩き始めた。


 ひよりは校門へ向かいながら、ゆっくり息を吐いた。


 胸の痛みは、まだ消えていない。


 それでも、逃げずに話すことができた。


 そのことに、少しだけ安心していた。


     ◇ ◇ ◇


 颯太はひよりの後ろ姿を見送りながら、しばらくその場に立っていた。


 今までなら、あんなに緊張することはなかった。


 ひよりへ声を掛けるだけなのに、何度も言葉を選んでしまった。


 金曜日に告白されたことが、まだ頭から離れない。


 ひよりが自分を好きだったと知ってから、何気ない表情や仕草まで気になるようになっていた。


 けれど、今日のひよりは、まだ自分と話すことがつらそうだった。


 そのことを、颯太はちゃんと受け止めなければならないと思った。


(……俺が断ったんだよな)


 その判断を後悔しているわけではない。


 今でも、ひよりと付き合うという答えを出せるわけではなかった。


 ただ、ひよりが自分をどんな気持ちで見ていたのかを知ってしまったことで、今までとは違う感情が生まれている。


 颯太はその変化に戸惑っていた。


 自分の気持ちが何なのか、まだ分からない。


 だからこそ、軽率な言葉を掛けるべきではない。


 颯太は鞄を持ち直し、校門へ向かって歩き始めた。


 ひよりが少し時間を欲しいと言ったのなら、その時間を尊重しよう。


 今の自分にできるのは、それくらいだと思った。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、ひよりは美月と駅前の店で温かい紅茶を飲んでいた。


 窓際の席からは、帰宅する人々の姿が見える。店内には穏やかな音楽が流れ、テーブルの上には二人が選んだ小さな焼き菓子が並んでいた。


 ひよりはカップを両手で包み、ゆっくり息を吐いた。


「……お姉ちゃん、今日ね、佐伯君と話したの」


 美月は驚いたように顔を上げた。


 けれど、すぐに静かに頷いた。


「そっか。大丈夫だった?」


 ひよりは少しだけ考えた。


 大丈夫だった、と簡単に言い切れるほど気持ちは整理できていない。


 けれど、話せてよかったとも思っている。


「……ちょっと緊張したし、まだ悲しかった。でも、佐伯君は無理に普通にしなくていいって言ってくれたの」


 美月は妹の言葉を聞きながら、静かに紅茶を置いた。


「優しい人なんだね」


「うん。だから、好きになったんだと思う」


 ひよりは小さく笑った。


 その笑顔には、まだ寂しさが残っていた。


 美月は少しだけ胸が痛くなったが、無理に慰めようとはしなかった。


「ひよりが好きになった人なんだから、きっと素敵なところがたくさんあるんだろうね。でも、今はひより自身の気持ちも大切にしていいんだよ」


 ひよりは顔を上げた。


 美月は柔らかく微笑んだ。


「相手が優しいからって、すぐに元気なふりをしなくてもいいし、友達に戻らなきゃって焦らなくてもいい。ひよりが自然に笑えるようになるまで、ゆっくりでいいと思う」


 ひよりはその言葉を聞いて、少しだけ目元を潤ませた。


 真樹も、千夏も、美月も、みんな似たようなことを言ってくれる。


 無理をしなくていい。


 焦らなくていい。


 自分の気持ちを大切にしていい。


 ひよりは温かい紅茶を一口飲み、ゆっくり頷いた。


「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」


 美月は微笑み、テーブルの上の焼き菓子を一つ差し出した。


「じゃあ、今日は美味しいもの食べて、少しのんびりしよう。ひよりが好きそうなお菓子も買って帰ろうか」


 ひよりは思わず笑った。


「ふふっ、お姉ちゃん、私のこと甘やかしすぎじゃない?」


「妹を甘やかすのは、お姉ちゃんの特権だからね」


 美月が楽しそうに答えると、ひよりはさらに笑った。


 その笑顔を見て、美月も少しだけ安心した。


 失恋の悲しさは、まだ残っている。


 けれど、ひよりはちゃんと笑えている。


 そのことが、今は何より嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 夜、ひよりは自室でスマートフォンを手に取った。


 真樹からメッセージが届いていた。


『今日、学校どうだった?』


 ひよりは少しだけ考えてから、返事を打った。


『ちょっと緊張したけど、大丈夫だったよ』


『佐伯君とも少し話したの』


 送信してから、ひよりは画面を見つめた。


 真樹に颯太の話をすることが、少しだけ申し訳ない気もした。


 けれど、真樹は昨日も話を聞いてくれた。


 今日も、きっと無理に何かを言おうとはしないだろう。


 少しして返事が届いた。


『そっか』


『ちゃんと話せたならよかったな』


 ひよりはその言葉に、ほっと息を吐いた。


『うん。でも、まだ普通に話すのは難しいかも』


 真樹からの返事は、少しだけ間を置いて届いた。


『それでいいだろ』


『無理する必要ないって言っただろ』


 ひよりは思わず笑った。


 昨日と同じ言葉だった。


 けれど、今日の自分には、その言葉が昨日よりも深く届いた。


『うん。北条君の言ったとおりだった』


『ありがとう』


 少しして、真樹から返事が届いた。


『どういたしまして』


 ひよりはスマートフォンを胸元へ寄せた。


 真樹はいつも、必要なときに言葉をくれる。


 無理に励ますのではなく、ひよりが自分の気持ちを整理できるように待ってくれる。


 その優しさが、今はとてもありがたかった。


(……北条君にも、ちゃんとお礼したいな)


 いつも助けてもらってばかりの気がする。


 ノアと一緒に散歩して、話を聞いてもらって、泣いているところまで見せてしまった。


 今度は自分から、何か楽しいことを提案してみたい。


 ひよりは少し考えてから、メッセージを打った。


『ねえ、北条君』


『今度、ノアのお散歩だけじゃなくて、どこか一緒に行かない?』


 送信した瞬間、ひよりは少しだけ頬が熱くなった。


 自分から男子を誘うなんて、以前なら考えられなかった。


 けれど、真樹となら楽しく過ごせる気がする。


 そう思ったから、素直に誘ってみた。


 少しして返事が届いた。


『どこに?』


 ひよりは少しだけ考えた。


『まだ決めてないけど、北条君の好きな場所とか』


『私、北条君のこともっと知りたいし』


 送信してから、ひよりはスマートフォンを見つめた。


 その言葉に、特別な意味を込めたつもりはなかった。


 ただ、玲奈から聞いた真樹の子どものころの話を思い出し、自分もまだ知らない真樹のことを知りたいと思っただけだった。


 けれど、真樹からの返事はなかなか届かなかった。


(……あれ? 変なこと言っちゃったかな)


 ひよりが少し不安になり始めたころ、ようやく画面が震えた。


『……分かった』


『今度、考えとく』


 ひよりは嬉しそうに笑った。


『うん! 楽しみにしてるね』


 そのあと、少しだけ考えてから、もう一通送った。


『おやすみ、北条君』


 返事が届く。


『おやすみ』


 ひよりはスマートフォンを置き、ゆっくり目を閉じた。


 今日も、いろいろなことがあった。


 颯太と目が合って、胸が痛くなった。


 放課後には、少しだけ話すことができた。


 千夏や海斗と課題を相談し、美月とお茶を飲んだ。


 そして、真樹と次のお出かけの約束をした。


 失恋の悲しさは、まだ残っている。


 けれど、それだけが今日のすべてではなかった。


 ひよりは布団へ潜り込み、静かに微笑んだ。


(……明日も、ちゃんと笑えるといいな)


 そう思いながら、ゆっくり眠りについた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ夜、真樹は自室のベッドへ腰掛けたまま、スマートフォンを見つめていた。


『私、北条君のこともっと知りたいし』


 その言葉が、何度も頭の中で繰り返されている。


 ひよりは、自分のことをもっと知りたいと言ってくれた。


 散歩以外の場所へ、一緒に出かけたいとも言ってくれた。


 それが嬉しくて、返事を打つまでに時間がかかってしまった。


(……本当に、何なんだよ)


 真樹は片手で顔を覆い、小さく息を吐いた。


 ひよりはまだ、颯太への気持ちを整理している途中だ。


 今日も学校で颯太と話したらしい。


 そのことを聞いたとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 けれど、ひよりが自分から話してくれたことは嬉しかった。


 そして、そのあとに届いた誘い。


 真樹はスマートフォンを見つめながら、静かに笑った。


(……もっと知りたい、か)


 ひよりがどんな意味で言ったのかは分からない。


 きっと、今は友達としての言葉なのだろう。


 それでも、真樹には十分すぎるほど嬉しかった。


 自分の好きな場所へ、一緒に行きたいと言ってくれた。


 自分のことを知りたいと言ってくれた。


 その気持ちを、大切にしたかった。


 真樹は足元で眠っているノアへ視線を向けた。


「……ノア」


 黒犬がゆっくり顔を上げる。


「天野が、今度どこか行こうって言ってきた」


 ノアは首を傾げた。


 真樹は小さく笑った。


「……お前は留守番になるかもしれないけどな」


 ノアは真樹の声に反応して立ち上がり、ベッドのそばへ近づいてきた。


 真樹はその頭を撫でながら、少しだけ考えた。


 ひよりが楽しめる場所。


 自分のことを知ってもらえる場所。


 けれど、失恋したばかりのひよりへ負担を掛けない場所。


 真樹はそんな条件を頭の中で並べながら、静かに息を吐いた。


(……どこがいいかな)


 考え始めると、いくつも候補が浮かんでくる。


 普段はあまり行かない店。


 落ち着いて話せる場所。


 ひよりが好きそうなものがあるところ。


 けれど、どこを選んでも、きっと緊張するのだろう。


 真樹はそのことを想像し、少しだけ苦笑した。


 ひよりはまだ、自分の恋心を知らない。


 そして、自分もひよりがこれから誰を好きになるのか、分からない。


 それでも、今日届いた言葉は確かに嬉しかった。


 真樹はスマートフォンを枕元へ置き、ノアの頭をもう一度撫でた。


「……ゆっくりでいいよな」


 ノアは真樹の手へ鼻先を寄せ、静かに尻尾を揺らした。


 真樹はその様子を見ながら、窓の外へ視線を向けた。


 冬の夜空には、薄い雲の間から星が見えている。


 ひよりの失恋は、まだ終わった出来事として整理できるものではない。


 颯太の心にも、本人がまだ理解できていない変化が生まれ始めている。


 そして真樹は、ひよりから届いた何気ない誘いに、どうしようもないほど心を動かされていた。


 それぞれの気持ちは、まだ同じ場所へ向かっていない。


 けれど、少なくとも今日、ひよりは自分から真樹との新しい時間を望んでくれた。


 その小さな変化を、真樹は大切に胸へしまった。


 黒い犬が運んできた出会いは、まだ恋と呼べない距離を残したまま、少しずつ二人の日常を変え始めていた。

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