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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第40話 まだ知らない、恋の行方



 日曜日の朝、天野ひよりは窓の向こうに広がる青空を見つめながら、昨日交わした約束を思い出していた。


 冬らしい冷たさは残っているものの、空には大きな雲もなく、穏やかな日差しが住宅街を照らしている。庭先の植木が風に揺れる様子を眺めていると、今日は散歩に出かけるのにちょうどよさそうだと思えた。


(……晴れた)


 昨日、北条真樹と別れるときに話したことが頭に浮かぶ。


 明日も晴れたら、またノアと散歩したい。


 真樹は天気がよかったらと答えてくれた。


 そして、夜のメッセージでも同じことを言っていた。


 ひよりは枕元のスマートフォンへ手を伸ばし、画面を確認した。


 まだ真樹から連絡は来ていない。


 時計は午前八時半を少し過ぎたところだった。


(……まだ早いよね)


 そう思いながらも、ひよりは昨日のやり取りを開いた。


『明日も会えたら嬉しいな』


『天気よかったらな』


 自分で送った言葉を見返すと、少しだけ頬が熱くなる。


 以前なら、男子にこんなことを言うなんて考えられなかった。


 まして、つい二日前に失恋したばかりだ。


 それなのに、真樹とノアに会いたいという気持ちは、昨日よりもはっきりしている。


(……何だろう)


 ひよりはスマートフォンを胸元へ寄せた。


 佐伯颯太への気持ちが消えたわけではない。


 今でも、告白したときのことを思い出すと胸が痛む。


 颯太の笑顔も、優しい声も、大切な思い出のままだ。


 けれど、それとは別に、真樹と過ごす時間が楽しみになっている。


 ひよりはその違いを、まだうまく説明できなかった。


 颯太のことを考えると、胸がきゅっと締めつけられる。


 真樹のことを考えると、何となく安心する。


 どちらも大切な気持ちなのに、同じものではない気がした。


(……今は、難しく考えなくてもいいかな)


 ひよりは小さく息を吐き、ベッドから降りた。


 昨日、真樹が言ってくれたことを思い出す。


 好きだった時間まで、なかったことにする必要はない。


 あの言葉に、ひよりは救われた。


 無理に忘れようとしなくていい。


 すぐに元気にならなくてもいい。


 それなら、今日も自分の気持ちに正直でいようと思った。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、悠一が珍しく静かだった。


 普段なら、ひよりが休日に出かけると聞くだけで、どこへ行くのか、誰と会うのか、何時に帰るのかと質問を重ねてくる。


 しかし、今日はトーストを食べながら、時折ひよりへ視線を向けるだけだった。


 ひよりはその様子を不思議に思い、首を傾げた。


「お兄ちゃん、今日は静かだね」


 悠一は少しだけ肩を揺らした。


「……そうか?」


「うん。何か考え事?」


 悠一は答えに迷った。


 昨日から、妹の様子が気になっている。


 金曜日に告白する予定だったことは知っている。


 けれど、結果は聞いていない。


 昨日のひよりは少し疲れているように見えたが、午後には笑顔で帰ってきた。


 その変化が何を意味するのか、悠一には分からなかった。


(……聞きたい)


 兄としては、妹が傷ついていないか確かめたい。


 もし泣いているのなら、何かしてやりたい。


 けれど、以前ひよりと約束した。


 勝手に踏み込まない。


 相手の男子へ接触しない。


 ひよりが自分から話すまで待つ。


 悠一はその約束を思い出し、ゆっくり息を吐いた。


「……いや。今日は天気がいいなと思ってただけだ」


 ひよりは窓の外を見た。


「本当だね。散歩日和だよ」


「……今日も出かけるのか?」


「うん。北条君とノアに会えたらいいなって」


 悠一の眉がわずかに動いた。


 しかし、今度も余計なことは言わなかった。


「……寒いから、気をつけろよ」


 ひよりは少しだけ笑った。


「お兄ちゃん、それ昨日も言ってたよ」


「大事なことだからな」


 悠一が真面目な顔で答えると、ひよりは思わず笑ってしまった。


 その笑顔を見て、悠一は少しだけ安心した。


 少なくとも、今の妹は笑えている。


 それなら、もう少し待ってみよう。


 美月は二人のやり取りを見ながら、静かにお茶を飲んでいた。


 昨日、ひよりから告白の結果を聞いた。


 振られたと話したとき、妹は確かに悲しそうだった。


 けれど、ちゃんと伝えられたと笑ってもいた。


 その姿を思い出すと、美月は胸の奥が少しだけ温かくなる。


(……ひより、頑張ったんだよね)


 姉としては抱きしめて慰めたい気持ちもある。


 けれど、今のひよりには、自分の足で少しずつ前へ進む時間が必要なのだろう。


 美月は静かに微笑み、妹へ声を掛けた。


「ひより、今日は何時くらいに帰る予定?」


「まだ決めてないけど、夕方までには帰るよ」


「そっか。帰ってきたら、一緒にお茶でも飲もうか」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


「うん!」


 その返事を聞いて、美月は少しだけ笑った。


     ◇ ◇ ◇


 午前十時を過ぎたころ、真樹は自室でスマートフォンを見つめていた。


 昨日、ひよりから届いたメッセージが画面に残っている。


『明日も会えたら嬉しいな』


 その言葉を、昨夜から何度も思い返していた。


 会いたいと言われた。


 明日も会えたら嬉しいと言われた。


 それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。


(……俺、単純だな)


 真樹は小さく苦笑した。


 ひよりはまだ、颯太への気持ちを整理している途中だ。


 昨日も、好きだった時間を大切にしたいと話していた。


 その言葉を聞いたとき、真樹は胸の奥が少しだけ痛んだ。


 颯太への嫉妬。


 ひよりを傷つけたくないという気持ち。


 そして、いつか自分を見てほしいという願い。


 それらが、今も心の中で複雑に絡み合っている。


(……今日は、どうするかな)


 天気はいい。


 ノアも朝から元気だ。


 ひよりと会う約束をする理由は十分にある。


 けれど、真樹は少しだけ迷っていた。


 昨日、ひよりは失恋のことを話してくれた。


 まだ胸が痛むとも言っていた。


 そんなひよりへ、毎日のように会おうとすることが負担にならないだろうか。


 真樹はスマートフォンを持ったまま、しばらく考えた。


 そのとき、足元で寝ていたノアが顔を上げた。


 黒い瞳が真樹を見つめる。


「……何だよ」


 真樹が言うと、ノアは尻尾を一度揺らした。


 真樹は小さく笑った。


「お前は天野に会いたいんだろ」


 ノアは立ち上がり、真樹の膝へ鼻先を寄せた。


 その様子に、真樹は少しだけ肩の力を抜いた。


「……分かったよ」


 真樹はスマートフォンを操作した。


『今日、天気いいな』


 送信すると、少しして返事が届いた。


『うん! すごくいい天気だね』


 真樹はその返事を見つめた。


 ひよりの嬉しそうな声が、文字からでも伝わってくる気がした。


『午後、散歩する?』


 送信してから、真樹は少しだけ息を止めた。


 すぐに返事が届く。


『する!』


『ノアにも北条君にも会いたい!』


 真樹は思わず口元を緩めた。


(……そういうこと、簡単に言うなよ)


 嬉しい。


 嬉しすぎて、少し困る。


 真樹はスマートフォンを見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


『じゃあ、昨日と同じ時間で』


『うん! 楽しみにしてるね』


 真樹は画面を閉じた。


 足元のノアが、期待するように見上げている。


「……午後だぞ」


 真樹が言うと、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。


 その様子を見ながら、真樹は静かに笑った。


     ◇ ◇ ◇


 一方、県立青葉高校の近くにある住宅街では、佐伯颯太が自室の机に向かっていた。


 日曜日の午前中。


 机の上には開いた参考書とノートが置かれている。


 けれど、さっきから同じ問題を何度も読み返していた。


 集中できない。


 理由は分かっていた。


(……天野)


 金曜日の放課後。


 ひよりに告白された。


 去年の文化祭から好きだったと伝えられた。


 そして、自分は断った。


 友達としてしか見ていなかったからだ。


 その返事に嘘はなかった。


 ひよりは明るくて、話しやすくて、優しい女の子だと思っていた。


 去年同じクラスだったころも、困っている人がいれば自然に手を貸していたし、誰かが失敗しても責めるようなことはしなかった。


 けれど、それは友達としての好意だった。


 恋愛感情ではなかった。


 だから、告白されたときも、曖昧な返事をするべきではないと思った。


 きちんと断ることが、ひよりへの誠実さだと考えた。


 その判断を、今も間違っていたとは思っていない。


 それでも、あの日からひよりのことが頭を離れなかった。


(……あんな顔、初めて見たな)


 告白するとき、ひよりは緊張していた。


 声が少し震えていて、両手をぎゅっと握っていた。


 それでも、最後まで自分の言葉で気持ちを伝えてくれた。


 断ったあと、ひよりは泣きそうな顔で笑った。


 ありがとう、と言ってくれた。


 その笑顔が、何度も頭に浮かぶ。


 颯太はペンを置き、椅子の背もたれへ身体を預けた。


(……俺、全然気づいてなかったんだな)


 去年の文化祭。


 ひよりが困っていたから、声を掛けた。


 それだけだった。


 自分にとっては、特別な出来事ではなかった。


 けれど、ひよりにとっては違った。


 あの日から、ずっと好きだったと言われた。


 その事実を思い返すたび、胸の奥に不思議な感覚が生まれる。


 嬉しいという気持ちも、確かにあった。


 誰かにそんなふうに想ってもらえたことが、嬉しかった。


 けれど、それ以上に、自分が何も知らなかったことへの驚きが大きかった。


(……天野って、あんなに可愛かったっけ)


 ふと浮かんだ考えに、颯太は自分で驚いた。


 今まで、ひよりのことを可愛いと思ったことがなかったわけではない。


 けれど、それはクラスの女子を見て何となく感じる程度のものだった。


 特別に意識したことはない。


 それなのに、金曜日のひよりを思い出すと、今までとは違う感覚が生まれる。


 真剣な表情。


 赤くなった頬。


 勇気を振り絞って言葉を伝えてくれた姿。


 颯太はゆっくり息を吐いた。


(……何考えてんだ、俺)


 自分は断った。


 ひよりの気持ちに応えられないと、はっきり伝えた。


 それなのに、今になって意識するなんて、勝手すぎる気がした。


 颯太は机の上に置いたスマートフォンへ視線を向けた。


 ひよりとのメッセージは、金曜日の約束をしたところで止まっている。


 何か送った方がいいのだろうか。


 そう考えたが、すぐに首を振った。


 今、自分から連絡するのは違う気がする。


 ひよりは、勇気を出して告白してくれた。


 その気持ちを断ったのは自分だ。


 だからこそ、今は不用意に近づくべきではない。


 颯太はスマートフォンを伏せ、再び参考書へ視線を戻した。


 けれど、文字はなかなか頭へ入ってこなかった。


 金曜日のひよりの笑顔が、何度も浮かんでしまう。


     ◇ ◇ ◇


 午後一時。


 ひよりが公園へ到着すると、真樹とノアはすでに入口近くで待っていた。


 ノアはひよりの姿を見つけると、嬉しそうに尻尾を振った。


「ノア!」


 ひよりが笑顔で近づくと、ノアは大きな身体を寄せてきた。


 ひよりはしゃがみ、その頭を両手で撫でた。


「今日も会えたね。嬉しい?」


 ノアは鼻先をひよりの手へ押しつけた。


 その様子に、ひよりは声を上げて笑った。


「ふふっ、私も嬉しいよ」


 真樹は少し離れたところで、その姿を見つめていた。


 昨日より、ひよりの表情が明るい。


 目元の疲れも、少しだけ薄くなっているように見えた。


「……今日は元気そうだな」


 真樹が言うと、ひよりは顔を上げた。


「うん。昨日よりはね」


 ひよりは立ち上がり、少しだけ笑った。


「でも、まだ時々思い出しちゃう」


 真樹は静かに頷いた。


「……そっか」


 ひよりはその返事に安心したように微笑んだ。


 真樹はいつも、無理に励まそうとはしない。


 悲しいと言えば、悲しいままで受け止めてくれる。


 それが、今のひよりにはありがたかった。


「でもね、今日は楽しみだったの」


 ひよりは少しだけ明るい声で続けた。


「朝から、早く午後にならないかなって思ってた」


 真樹の胸が強く鳴った。


(……そんなこと言われたら)


 期待してしまう。


 ひよりが自分に会うことを楽しみにしてくれている。


 その事実だけで、胸の奥が温かくなる。


 けれど、真樹は表情を大きく変えずに頷いた。


「……じゃあ、歩くか」


「うん!」


 二人はノアを連れて、ゆっくり遊歩道へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 日曜日の公園は、昨日より少しだけ賑やかだった。


 広場では小さな子どもたちが走り回り、ベンチでは家族連れが温かい飲み物を飲んでいる。


 犬を連れた人も何組かいて、ノアは時折そちらへ視線を向けていた。


 ひよりはその様子を見ながら、少しだけ笑った。


「ノアって、本当にお散歩好きだよね」


「外に出るの好きだからな」


「北条君も?」


 真樹は少しだけ考えた。


「……前は、そこまで好きじゃなかった」


 ひよりは驚いたように顔を上げた。


「そうなの?」


「ああ。ノアの散歩はしてたけど、今みたいに長く歩くことは少なかった」


 ひよりは少しだけ首を傾げた。


「じゃあ、最近は何で?」


 真樹はひよりを見た。


 答えは簡単だった。


 ひよりと会えるから。


 ひよりと一緒に歩く時間が好きだから。


 それだけだった。


 けれど、今のひよりへそのまま伝えることはできない。


「……ノアが楽しそうだから」


 真樹はそう答えた。


 ひよりは納得したように頷いた。


「そっか。ノア、よかったね」


 ノアは名前を呼ばれて振り返り、嬉しそうに尻尾を振った。


 真樹はその様子を見て、少しだけ笑った。


(……半分は本当だけどな)


 ノアが楽しそうなのは嬉しい。


 けれど、それ以上に、ひよりと一緒に歩けることが嬉しかった。


 真樹はその気持ちを胸の奥へしまい、ゆっくり歩き続けた。


     ◇ ◇ ◇


 遊歩道の途中で、ひよりは小さな売店を見つけた。


 冬の公園では温かい飲み物がよく売れるらしく、店先にはココアや紅茶の案内が並んでいる。


「北条君、ちょっと休憩しない?」


 ひよりが尋ねると、真樹は頷いた。


「いいよ」


 二人は売店へ向かい、温かい飲み物を注文した。


 ひよりはココアを選び、真樹はブラックコーヒーを頼んだ。


 受け取った紙カップを両手で包むと、ひよりは嬉しそうに息を吐いた。


「あったかい……」


 真樹はその様子を見て、少しだけ笑った。


「寒かった?」


「ちょっとだけ。でも、これで大丈夫」


 ひよりはココアを一口飲み、満足そうに微笑んだ。


 真樹はその顔を見つめた。


 昨日まで泣いていた女の子が、今日は温かいココアを飲んで笑っている。


 その何気ない光景が、真樹にはたまらなく愛おしかった。


(……こういう時間が好きなんだよな)


 特別なことをしているわけではない。


 ただ、公園を歩いて、飲み物を買って、隣に座っている。


 それだけなのに、真樹は幸せだった。


 ひよりは紙カップを持ちながら、ふと真樹へ顔を向けた。


「北条君って、コーヒー好きだよね」


「まあな」


「苦くない?」


「慣れた」


 ひよりは少しだけ不思議そうに首を傾げた。


「私、まだブラックは飲めないなぁ」


 真樹は小さく笑った。


「無理して飲む必要ないだろ」


「そうなんだけど、大人っぽいなって思って」


 その言葉に、真樹は少しだけ眉を上げた。


「……大人っぽい?」


「うん。北条君って、落ち着いてるし」


 ひよりは少しだけ笑った。


「私が慌ててても、いつも冷静だよね」


 真樹はその言葉を聞いて、内心で苦笑した。


(……全然、冷静じゃないけどな)


 ひよりが笑えば嬉しくなる。


 近づけば緊張する。


 颯太の名前が出れば嫉妬する。


 それでも、表情に出さないようにしているだけだ。


 真樹はコーヒーを一口飲み、静かに答えた。


「……そう見えるだけだと思う」


 ひよりは少し驚いた。


「そうなの?」


「ああ」


 真樹はひよりを見た。


「俺だって、落ち着かないことくらいある」


 ひよりは少しだけ考えた。


 昨日も、真樹は似たようなことを言っていた。


 一緒にいると落ち着くときもある。


 落ち着かないときもある。


 その理由は、内緒だと言われた。


「……北条君にも、そういうことあるんだね」


 ひよりが小さく笑うと、真樹は少しだけ視線を逸らした。


「……普通にあるだろ」


 ひよりはその横顔を見つめた。


 真樹はいつも落ち着いていて、何でも分かっているように見える。


 けれど、本当は自分と同じように悩んだり、迷ったりすることがあるのかもしれない。


(……もっと知りたいな)


 ひよりはふと、そんなことを思った。


 真樹の好きなもの。


 苦手なこと。


 子どものころの話。


 玲奈が知っている、昔の真樹。


 自分がまだ知らないことは、きっとたくさんある。


 ひよりはココアを一口飲み、静かに微笑んだ。


     ◇ ◇ ◇


 休憩を終えた二人は、再び遊歩道を歩き始めた。


 ノアは元気よく歩いていたが、途中で小さな子どもに声を掛けられ、足を止めた。


「わあ、大きいわんちゃん!」


 幼い男の子が、母親の手を引きながら近づいてきた。


 真樹はノアのリードを短く持ち直し、少しだけしゃがんだ。


「触りたい?」


 男の子は嬉しそうに頷いた。


 母親が申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません。犬が好きで……」


「大丈夫ですよ。ゆっくり触ってくれれば」


 真樹は穏やかに答えた。


 ひよりはその様子を見ながら、少しだけ笑った。


 普段の真樹は、あまり愛想がいい方ではない。


 けれど、ノアを通じて誰かと話すときは、意外なほど丁寧で優しい。


 男の子は母親に促され、そっとノアの背中へ手を伸ばした。


 ノアは落ち着いた様子で立っている。


「ふわふわ!」


 男の子が嬉しそうに笑うと、ひよりも思わず笑った。


「ノア、優しいでしょ?」


「うん!」


 男の子は何度も頷いた。


 母親は二人へ礼を言い、男の子の手を引いて去っていった。


 ひよりはその後ろ姿を見送りながら、真樹へ顔を向けた。


「北条君、子どもにも優しいんだね」


 真樹は少しだけ眉を寄せた。


「……何だよ、その言い方」


「だって、普段はちょっと意地悪だから」


 ひよりが笑うと、真樹は小さくため息をついた。


「お前が変なこと言うからだろ」


「ええっ、私のせい?」


 ひよりは少しだけ頬を膨らませた。


 真樹はその顔を見て、思わず笑った。


 ひよりもつられて笑う。


 その笑い声が冬の空気へ溶けていった。


     ◇ ◇ ◇


 公園を一周するころには、午後の日差しが少し傾き始めていた。


 二人はいつものベンチへ腰掛け、ノアを足元で休ませた。


 ひよりは手袋を外し、冷たくなった指先を軽く擦り合わせた。


 真樹はその様子に気づき、少しだけ眉を寄せた。


「……寒い?」


「ちょっとだけ」


 ひよりは笑った。


「でも、まだ大丈夫」


 真樹は少し考えたあと、自分のコートのポケットから使い捨てカイロを取り出した。


「……これ、使う?」


 ひよりは驚いたように目を丸くした。


「え、持ってたの?」


「ノアの散歩、寒いからな」


 真樹は少しだけ視線を逸らした。


 実際には、ひよりが寒がるかもしれないと思って用意していたものだった。


 けれど、その理由をわざわざ言うつもりはない。


 ひよりは嬉しそうにカイロを受け取った。


「ありがとう、北条君」


 両手で包むと、じんわりと温かさが広がっていく。


 ひよりはその感触に、ほっと息を吐いた。


「……あったかい」


 真樹はその様子を見て、少しだけ笑った。


 しばらく、二人は何も話さずに座っていた。


 遠くでは子どもたちの笑い声が聞こえ、ノアは足元で落ち着いている。


 ひよりは空を見上げながら、静かに息を吐いた。


「……北条君」


「何?」


「私ね、昨日より少し元気になったと思う」


 真樹はひよりを見た。


 ひよりはゆっくり続ける。


「まだ佐伯君のこと思い出すし、悲しくなることもあるけど……でも、こうして笑える時間もあるんだなって」


 真樹は静かに頷いた。


「……うん」


 ひよりは少しだけ笑った。


「昨日までは、もうしばらく笑えないかもしれないって思ってた」


 真樹の胸が締めつけられた。


 ひよりは続ける。


「でも、北条君とノアに会ってると、自然に笑えるの」


 真樹は何も言えなかった。


 その言葉が嬉しい。


 けれど、同時に胸の奥が苦しくなる。


(……俺は、嬉しいんだよな)


 ひよりが笑ってくれること。


 自分と一緒にいると安心すると言ってくれること。


 そのすべてが嬉しい。


 けれど、ひよりの心にはまだ颯太がいる。


 それが分かるから、真樹は自分の気持ちを表へ出せなかった。


「……それなら、よかった」


 真樹は静かに答えた。


 ひよりは嬉しそうに笑った。


「うん。ありがとう」


 真樹は少しだけ視線を落とした。


(……本当は、もっと欲張りなんだけどな)


 友達として頼られるだけでは、いつか満足できなくなるかもしれない。


 ひよりの一番近くにいたい。


 ひよりが恋をする相手になりたい。


 その願いは、今も胸の奥で静かに膨らんでいる。


 けれど、今はまだ、その気持ちを伝えるときではない。


 真樹はゆっくり息を吐き、ひよりの隣で空を見上げた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方が近づき、二人は公園の出口へ向かった。


 ノアは少し名残惜しそうに歩いていたが、ひよりが頭を撫でると嬉しそうに尻尾を振った。


「今日も楽しかったね、ノア」


 ひよりが笑うと、ノアは鼻先を寄せてきた。


 真樹はその様子を見ながら、少しだけ口元を緩めた。


「……明日から学校だな」


 ひよりは小さく頷いた。


「うん」


 その返事には、少しだけ緊張が混じっていた。


 明日、学校へ行けば颯太に会うかもしれない。


 去年は同じクラスだったが、今年は別のクラスだ。


 それでも、廊下ですれ違うことはある。


 顔を合わせたとき、どんなふうに話せばいいのだろう。


 今までと同じように笑えるだろうか。


 ひよりは少しだけ視線を落とした。


 真樹はその変化に気づいた。


「……天野」


「何?」


「明日、無理に普通にしようとしなくていいからな」


 ひよりは驚いたように顔を上げた。


 真樹は続ける。


「気まずくなるのも、仕方ないだろ。すぐに今までどおりに戻れなくても、おかしくない」


 ひよりはしばらく黙った。


 それから、ゆっくり頷いた。


「……うん」


 真樹は少しだけ笑った。


「焦らなくていいと思う」


 ひよりはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 真樹はいつも、ひよりが無理をしなくていいように言葉を選んでくれる。


 その優しさが、今はとてもありがたかった。


「……ありがとう、北条君」


 ひよりは小さく笑った。


 真樹も静かに頷いた。


     ◇ ◇ ◇


 その夜、颯太は再びスマートフォンを手に取っていた。


 ひよりとのメッセージ画面を開き、しばらく見つめる。


 何か送るべきだろうか。


 金曜日のことを謝るべきだろうか。


 けれど、何を送ればいいのか分からなかった。


 自分はひよりの気持ちに応えられなかった。


 その事実は変わらない。


 今さら優しい言葉を掛けても、かえって期待させてしまうかもしれない。


 颯太はゆっくり息を吐いた。


(……明日、学校で会うかもしれないんだよな)


 今までなら、廊下ですれ違えば普通に挨拶していた。


 何でもない会話を交わすこともあった。


 けれど、明日からは少し違うのかもしれない。


 ひよりが自分を好きだったことを、颯太は知ってしまった。


 その気持ちを断ったことも、忘れられない。


 颯太はスマートフォンを伏せた。


(……変に意識するのも、失礼だよな)


 そう思っている。


 けれど、金曜日のひよりの姿が何度も頭に浮かんでしまう。


 真剣な表情。


 震える声。


 そして、泣きそうになりながらも笑ってくれた顔。


 颯太は机へ肘をつき、静かに目を閉じた。


 今まで、ひよりを恋愛対象として見たことはなかった。


 それは本当だ。


 けれど、告白されたあとから、少しずつ意識してしまっている。


 その変化が何なのか、まだ分からない。


 颯太はゆっくり息を吐き、再び参考書を開いた。


 明日、ひよりに会ったらどうするか。


 その答えは、まだ出ていなかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ夜、ひよりはベッドの上でスマートフォンを見つめていた。


 真樹からメッセージが届いている。


『今日は楽しかった?』


 ひよりは少しだけ笑った。


『うん! すごく楽しかったよ』


『北条君は?』


 少しして返事が届いた。


『俺も楽しかった』


 ひよりはその言葉を見つめた。


 真樹が楽しかったと言ってくれる。


 それが、何となく嬉しかった。


『よかった』


『また一緒に散歩しようね』


 送信すると、すぐに返事が届いた。


『ああ』


 ひよりは微笑んだ。


 昨日の悲しさは、まだ完全には消えていない。


 明日、学校で颯太に会うことを考えると、少しだけ緊張する。


 けれど、今日も真樹とノアに会えてよかった。


 そう思えた。


 ひよりはスマートフォンを置き、ゆっくり目を閉じた。


(……明日も、頑張ろう)


 無理に笑わなくてもいい。


 すぐに元気にならなくてもいい。


 それでも、少しずつ前へ進んでいきたい。


 ひよりはそう思いながら、静かに眠りについた。


     ◇ ◇ ◇


 真樹は自室でスマートフォンを閉じ、ノアの頭を撫でていた。


 今日も、ひよりは笑ってくれた。


 昨日よりも自然な笑顔だった。


 それが嬉しかった。


 けれど、胸の奥にはまだ複雑な感情が残っている。


(……佐伯のこと、まだ好きなんだろうな)


 ひよりは今日も、颯太への気持ちを整理している途中だと話していた。


 その言葉を聞くたび、真樹は胸の奥が少しだけ痛んだ。


 けれど、今はそれでいい。


 ひよりが無理に気持ちを切り替える必要はない。


 そう思っている。


 それでも、いつか自分を見てほしい。


 その願いは、消えなかった。


 真樹はゆっくり息を吐いた。


「……ノア」


 黒犬が顔を上げる。


「明日から、また学校だな」


 ノアは首を傾げた。


 真樹は少しだけ笑った。


「天野も、学校だ」


 ノアは嬉しそうに尻尾を振った。


 真樹はその様子を見て、静かに目を細めた。


「……お前は本当に分かりやすいな」


 ノアは真樹の手へ鼻先を寄せてきた。


 真樹はその頭を撫でながら、窓の外へ視線を向けた。


 ひよりの恋は、一つの答えを迎えた。


 けれど、真樹の恋はまだ続いている。


 そして、颯太の心にも、今までとは違う小さな変化が生まれ始めていた。


 誰もまだ、その変化の行き先を知らない。


 冬の夜は静かに更けていく。


 黒い犬が結んだ二人の時間は、今日も少しずつ積み重なっていた。

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