第39話 泣いた次の日も、君に会いたい
土曜日の朝、天野ひよりはカーテンの隙間から差し込む光に気づき、ゆっくりと目を覚ました。
昨夜は眠りにつくまでに時間がかかった。目を閉じるたびに、佐伯颯太へ気持ちを伝えたときの光景が浮かび、何度も寝返りを打ってしまったからだ。
枕元の時計は午前八時を少し過ぎた時刻を示している。休日ならもう少し眠っていてもいいはずなのに、身体はすっかり目覚めてしまっていた。
(……昨日、本当に告白したんだ)
ひよりは布団の中で両手を胸元へ寄せ、静かに息を吐いた。
去年の文化祭からずっと好きだった人へ、自分の気持ちを伝えた。
そして、振られた。
その事実は、何度思い返しても変わらない。
颯太は優しかった。ひよりの話を最後まで聞き、驚きながらも真剣に考えて、友達としてしか見ていなかったと答えてくれた。
曖昧な期待を持たせることも、困ったように笑ってごまかすこともなかった。
だから、後悔はしていない。
それでも、胸の奥にはまだ痛みが残っていた。
(……好きだったなぁ)
去年の文化祭で困っていた自分へ声を掛けてくれたこと。教室で目が合ったときに笑ってくれたこと。何でもない会話ができただけで、一日中嬉しかったこと。
思い返せば、どれも小さな出来事だった。
けれど、その一つ一つが、ひよりにとっては大切な思い出だった。
昨日の告白で、それらが消えてしまったわけではない。
ただ、これから先に思い描いていた未来だけが、静かに形を失ったように感じられた。
もし付き合えたら、一緒に帰れる日があるかもしれない。
休日に出かけたり、何でもないことでメッセージを送り合ったりできるかもしれない。
そんな想像を、ひよりは何度もしてきた。
今はもう、その未来を期待することはできない。
ひよりは掛け布団を少し引き上げ、頬を埋めた。
(……まだ、悲しい)
昨日は真樹とノアの前でたくさん泣いた。
そのおかげで少し落ち着いたと思っていたのに、朝になっても寂しさは残っている。
失恋したからといって、気持ちが一晩で整理できるわけではないのだろう。
ひよりはしばらく天井を見つめていたが、やがて枕元のスマートフォンが震えた。
千夏からだった。
『おはよう、ひより。ちゃんと寝られた?』
ひよりは少しだけ笑い、返事を打った。
『おはよう。ちょっと寝不足だけど、大丈夫だよ』
すぐに返信が届く。
『そっか。今日は無理しないでね。話したくなったらいつでも連絡して』
千夏は昨日から何度も気遣ってくれている。
けれど、告白の詳しい内容を無理に聞こうとはしなかった。
ひよりが自分から話したくなるまで、待ってくれているのだ。
『ありがとう。今日は午後から北条君とノアに会ってくるね』
送信してから、ひよりは少しだけ画面を見つめた。
真樹とは昨日、今日も会う約束をしている。
公園で泣いてしまったとき、真樹は何も急かさず、ただ隣にいてくれた。
無理に元気づけようとも、颯太のことを悪く言おうともしなかった。
その優しさが、今も胸の奥に残っている。
千夏から返信が届いた。
『うん。気をつけてね。でも、疲れたら早めに帰るんだよ』
『分かった。ありがとう』
ひよりはスマートフォンを置き、ゆっくり身体を起こした。
昨日の悲しさは消えていない。
それでも、今日も誰かに会いたいと思える。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
リビングへ下りると、焼きたてのトーストと温かいコーヒーの香りが漂っていた。
由美はキッチンで朝食の準備をしており、浩介は新聞を畳んでテーブルの端へ置いたところだった。美月はソファで大学の課題を確認していて、悠一は休日らしく少し遅い朝食を取っていた。
「おはよう」
ひよりが声を掛けると、家族がそれぞれ顔を上げた。
「おはよう、ひより。今日は少しゆっくりだったわね」
由美が笑う。
「うん。昨日、寝るの遅くなっちゃって」
ひよりは席へ着き、用意されていた温かいスープへ手を伸ばした。
悠一は妹の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
目元が少し赤い。
いつもの笑顔も、どこか控えめに見える。
昨日、何かあったのだろうか。
そう考えた瞬間、悠一の頭には、以前美月から聞いてしまった話が浮かんだ。
ひよりが佐伯颯太へ告白するつもりだということ。
金曜日の放課後に、そのための約束をしていること。
昨日がその日だった。
(……まさか)
悠一は思わず口を開きかけた。
しかし、隣に座る美月が静かに視線を向けてきたため、言葉を飲み込んだ。
妹が自分から話すまで、問い詰めない。
相手の男子へ勝手に接触しない。
そう約束している。
悠一は深く息を吐き、少しだけ声を落とした。
「ひより、今日は何か予定あるのか?」
「うん。午後からノアに会ってくるよ」
「……北条君も一緒か?」
「もちろん。ノアは北条君の家の子だもん」
ひよりが笑うと、悠一は少しだけ複雑な顔をした。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「……寒いから、ちゃんと暖かくして行けよ」
「分かってるよ。お兄ちゃん、最近そればっかり」
「心配なんだから仕方ないだろ」
悠一は少しだけ不満そうに答えた。
ひよりはその顔を見て、小さく笑った。
以前なら、ここから真樹についていくつもの質問が続いていただろう。
どこへ行くのか、何時に帰るのか、二人きりなのか。
それを考えると、今日の悠一はずいぶん我慢してくれている。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
ひよりが素直に言うと、悠一は少し驚いたように目を丸くした。
それから、照れたように顔を逸らした。
「……別に、普通だろ」
美月はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
ひよりはまだ、昨日の結果を家族全員へ話すつもりはないのだろう。
それなら、今は待てばいい。
昨夜、秘密を漏らしてしまったことを改めて謝ったばかりなのだから、同じ失敗は繰り返したくなかった。
由美は温かいスープをひよりの前へ置き、柔らかく微笑んだ。
「今日は晴れているけど、風が冷たいみたいだからね。帰ってきたら温かいものを飲みましょう」
「うん。ありがとう、お母さん」
ひよりはスープを一口飲んだ。
身体の内側へ温かさが広がっていく。
昨日の悲しさが消えるわけではない。
それでも、こうして家族と同じ食卓を囲んでいると、少しずつ普段の自分へ戻れるような気がした。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたひよりは、自分の部屋へ戻ってクローゼットを開いた。
今日は学校がないため、制服ではなく私服で出かけられる。
淡いクリーム色のニットと、落ち着いた色合いのスカートを取り出し、ベッドの上へ並べた。厚手のタイツとコートを合わせれば、午後の散歩でも寒くはなさそうだった。
鏡の前で服を合わせながら、ひよりは少しだけ首を傾げた。
(……何で、こんなに悩んでるんだろ)
いつもの散歩だ。
真樹とノアに会うだけ。
特別なお出かけではない。
それなのに、今日は服を選ぶ時間がいつもより長くなっていた。
昨日、真樹の前でたくさん泣いてしまったからかもしれない。
今日は少しでも元気な姿を見せたい。
そう思っているのだろう。
ひよりはクリーム色のニットを手に取り、鏡の前で合わせた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
真樹からだった。
『おはよう。ちゃんと寝られた?』
ひよりは少しだけ笑った。
『おはよう、北条君。ちょっと寝不足だけど大丈夫だよ』
返事はすぐに届いた。
『無理して来なくてもいいからな』
ひよりは画面を見つめた。
昨日も、真樹は同じようなことを言っていた。
約束したからといって、無理に来る必要はない。
疲れていたら休めばいい。
その言葉が優しさから来ていることは、ひよりにも分かっている。
けれど、今日は自分の意思で会いに行きたかった。
『無理してないよ。北条君とノアに会いたいから行くの』
送信したあと、ひよりは少しだけ頬が熱くなった。
何となく、素直すぎる言葉だった気がする。
しかし、取り消そうとは思わなかった。
会いたいのは本当だからだ。
少しして、真樹から返事が届いた。
『分かった。午後一時、いつもの公園で』
『うん。楽しみにしてるね』
ひよりはスマートフォンを置き、鏡へ向き直った。
クリーム色のニットを胸元へ当てながら、小さく微笑む。
(……今日は、少しでも笑えたらいいな)
昨日のことを忘れる必要はない。
無理に元気になる必要もない。
ただ、今日という一日を大切に過ごそう。
ひよりはそう思いながら、ゆっくり着替え始めた。
◇ ◇ ◇
同じころ、北条家では真樹がノアの散歩道具を確認していた。
リードの金具を確かめ、携帯用の水筒と器を用意する。ノアはその様子を見ながら、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「……まだ早い」
真樹が言うと、ノアは首を傾げた。
「午後だからな。今から行っても天野はいないぞ」
ノアは理解したのかしていないのか、真樹の足元へ鼻先を寄せてきた。
真樹は小さく笑い、その頭を撫でた。
ひよりから届いたメッセージを思い出す。
『北条君とノアに会いたいから行くの』
その言葉が、胸の奥へ残っていた。
(……会いたい、か)
ひよりは自分に会いたいと言ってくれた。
嬉しい。
それは、間違いない。
けれど、昨日のことを思い出すと、素直に喜んでばかりもいられなかった。
ひよりは颯太に振られた。
長い間、大切にしてきた恋が報われず、公園で泣いていた。
真樹はその姿を見守りながら、胸の奥に複雑な感情を抱えていた。
ひよりが傷ついたことは、つらかった。
それなのに、颯太と付き合わなかったことへ、ほんの少しだけ安堵してしまった。
その事実が、今も心に引っかかっている。
(……俺、何やってんだろうな)
真樹はゆっくり息を吐いた。
ひよりが泣いているとき、颯太への嫉妬を表に出すつもりはなかった。
今も、その気持ちは変わらない。
けれど、心の奥ではどうしても考えてしまう。
ひよりが颯太を好きだった時間。
その間、自分はまだひよりと出会ってすらいなかった。
去年の文化祭で颯太が声を掛けたことが、ひよりの恋の始まりだった。
その事実を変えることはできない。
どれほど一緒に散歩しても、どれほどひよりが笑ってくれても、自分には入り込めない思い出がある。
(……羨ましいよな)
真樹はノアの頭を撫でながら、静かに目を伏せた。
颯太は、ひよりの心を長い間占めていた。
本人がそれを知らなかったとしても、ひよりにとっては特別な存在だった。
真樹は、そのことが羨ましかった。
自分も、ひよりにとって特別な存在になりたい。
ただの相談相手ではなく、ただの友達でもなく、ひよりが恋をする相手になりたい。
その願いは、もう消せなかった。
けれど、昨日振られたばかりのひよりへ、自分の気持ちを押しつけるつもりはない。
今は、ひよりが落ち着くまでそばにいたい。
そう思っている。
それでも、心の奥では別の感情が動いていた。
(……佐伯のこと、いつまで好きなんだろうな)
振られたからといって、すぐに気持ちが消えるわけではない。
それくらい、真樹にも分かっている。
ひよりが颯太の話をするとき、まだ声が少し柔らかくなることもあるだろう。
思い出を大切そうに語ることもあるだろう。
そのたびに、自分は嫉妬するのかもしれない。
真樹は小さく苦笑した。
(……面倒くさいな、俺)
ひよりの気持ちを尊重したい。
けれど、いつか自分を見てほしい。
その二つの願いは、今の真樹の中で簡単には折り合わなかった。
「……ノア」
足元の黒犬が顔を上げる。
「今日も天野が来るぞ」
ノアは嬉しそうに尻尾を振った。
真樹はその様子を見て、少しだけ笑った。
「お前は誰の味方だよ」
ノアは答える代わりに、真樹の手へ鼻先を寄せてきた。
真樹はその頭を撫でながら、静かに息を吐いた。
今日、ひよりが少しでも笑えたらいい。
その願いだけは、嫉妬している今も変わらなかった。
◇ ◇ ◇
午後一時を少し過ぎたころ、ひよりは公園へ到着した。
冬の空は晴れていたが、風は冷たかった。マフラーを巻き、手袋をはめて歩いてきたものの、頬には少しだけ冷たさが残っている。
公園の入口が見えてくると、ノアが先に気づいた。
大きな黒い身体がこちらへ向き、尻尾が勢いよく揺れる。
「ノア!」
ひよりが笑いながら近づくと、ノアは嬉しそうに鼻先を寄せてきた。
ひよりはしゃがみ、その頭を撫でた。
「昨日はありがとうね。いっぱい泣いちゃってごめんね」
ノアは何も気にしていないように、ひよりの手へ鼻先を押しつけた。
その温かさに、ひよりは少しだけ笑った。
「……本当に優しいね」
真樹は隣で、その姿を見つめていた。
昨日より、ひよりの表情は少し明るい。
けれど、目元にはまだ疲れが残っているように見えた。
「……ちゃんと寝た?」
真樹が尋ねると、ひよりは顔を上げた。
「うん。ちょっと寝不足だけど」
「無理してない?」
「してないよ」
ひよりは笑った。
「北条君、心配しすぎ」
「……昨日あれだけ泣いてたら、普通心配するだろ」
真樹は少しだけ眉を寄せた。
ひよりはその顔を見て、少しだけ笑った。
「……そっか」
それから、ゆっくり立ち上がった。
「でも、今日は会いたかったの」
真樹の胸が強く鳴った。
ひよりは続ける。
「昨日、北条君とノアに会えて、すごく安心したから。今日も一緒にいたら、少し元気になれるかなって」
真樹はひよりを見つめた。
その言葉が嬉しい。
けれど、胸の奥には小さな痛みも残る。
(……俺は、そういう相手なんだよな)
ひよりが安心できる場所。
傷ついたときに戻ってこられる場所。
それは、真樹にとって大切なことだった。
けれど、いつかはそれ以上の存在になりたい。
その願いを、今はまだ胸の奥へしまっておく。
「……じゃあ、今日はのんびり歩くか」
真樹が言うと、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん!」
◇ ◇ ◇
二人はノアを連れて、いつもの遊歩道を歩き始めた。
冬の公園は静かだった。木々の枝にはほとんど葉が残っておらず、足元には乾いた落ち葉が広がっている。
ノアが歩くたびに小さな音が響き、ひよりはその様子を見ながら少しだけ笑った。
「ノア、今日も楽しそう」
「お前が来たからな」
真樹が何気なく答えると、ひよりは顔を上げた。
「……北条君は?」
真樹の足が、わずかに遅くなった。
「何が」
「私が来て、嬉しい?」
ひよりは少しだけいたずらっぽく笑った。
真樹はその顔を見て、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
(……嬉しいに決まってるだろ)
昨日、ひよりが泣いていた姿を思い出す。
今日は少しだけ笑っている。
それだけで、真樹は嬉しかった。
けれど、素直に答えるのは少しだけ照れくさかった。
「……嬉しいよ」
結局、真樹は静かに答えた。
ひよりは目を丸くした。
「……え?」
「何だよ。聞いたのお前だろ」
「う、うん。そうだけど」
ひよりは少しだけ頬を赤くした。
真樹はその様子を見て、わずかに口元を緩めた。
「……変なこと聞くな」
「変じゃないもん」
ひよりは少しだけ拗ねたように答えた。
その表情が、昨日よりずっと自然だった。
真樹は胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……よかった)
少しだけ、いつものひよりへ戻っている。
それが何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
遊歩道を半分ほど進んだところで、ひよりは足を止めた。
少し先にあるベンチを見つめ、ゆっくり息を吐く。
「……北条君」
「何」
「昨日のこと、少し話してもいい?」
真樹は頷いた。
「もちろん」
二人はベンチへ腰掛けた。
ノアは足元で落ち着き、真樹が用意した水を飲んでいる。
ひよりは膝の上で手を重ね、少しだけ視線を落とした。
「……昨日ね、佐伯君に振られたとき、思ってたよりずっと悲しかった」
真樹は何も言わなかった。
ひよりは続ける。
「覚悟してたつもりだったの。佐伯君が私のこと好きじゃないかもしれないって、ちゃんと分かってたから」
ひよりは小さく笑った。
「でも、実際に言われると……やっぱり、痛いね」
真樹の胸が締めつけられた。
ひよりは俯いたまま続ける。
「友達としてしか見てなかったって言われたとき、何か、今までのこと全部思い出しちゃって」
声が少しだけ震えた。
「文化祭のことも、教室で話したことも、バレンタインのことも」
真樹は静かに頷いた。
「……うん」
ひよりはゆっくり息を吸った。
「でも、佐伯君は悪くないんだよね」
真樹は少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
「ちゃんと答えてくれたし、優しかった」
その言葉に、真樹の胸がまた痛んだ。
颯太は優しかった。
ひよりは今も、颯太のことを大切に思っている。
それが分かるから、真樹は何も言えなかった。
(……まだ、好きなんだろうな)
振られたからといって、すぐに気持ちが消えるわけではない。
分かっている。
けれど、ひよりの口から颯太の名前が出るたび、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
真樹はその感情を表へ出さないように、ゆっくり息を吐いた。
「……天野」
「何?」
「無理に忘れようとしなくていいと思う」
ひよりは顔を上げた。
真樹は続ける。
「好きだった時間まで、なかったことにする必要はないだろ」
ひよりはしばらく黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「……うん」
目元が少しだけ潤んだ。
けれど、今度は涙をこぼさなかった。
「ありがとう、北条君」
真樹は小さく頷いた。
その言葉が嬉しい。
けれど、胸の奥では別の感情が動いていた。
(……俺のことも、いつかそんなふうに思ってくれたら)
そんな願いが浮かび、真樹は視線を落とした。
今はまだ、言えない。
ひよりが大切にしてきた恋を、簡単に上書きするようなことはしたくなかった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ひよりはベンチから立ち上がった。
「……ちょっと歩こうかな」
「うん」
真樹も立ち上がり、ノアのリードを持ち直した。
二人は再び遊歩道を歩き始める。
ひよりは少しだけ前を歩き、落ち葉を踏みながら笑った。
「……何か、昨日より少し元気出たかも」
「そう?」
「うん」
ひよりは振り返った。
「北条君と話してると、落ち着くんだよね」
真樹の胸が鳴った。
ひよりは続ける。
「無理に笑わなくてもいいし、何も話さなくても気まずくないし」
真樹は少しだけ目を細めた。
「……それはよかった」
ひよりは笑った。
「北条君は? 私といると落ち着く?」
真樹は少しだけ考えた。
落ち着く。
それは、半分だけ本当だった。
ひよりと一緒にいると、安心する。
何気ない会話が楽しい。
ノアと三人で歩く時間が好きだ。
けれど、同時に胸が落ち着かなくなることも多い。
ひよりが笑うたびに嬉しくなり、少し近づくだけで心臓が速くなる。
颯太の名前が出れば嫉妬する。
それでも、一緒にいたいと思う。
「……落ち着くときもある」
真樹は正直に答えた。
ひよりは首を傾げた。
「……ときも?」
「そう」
「じゃあ、落ち着かないときもあるの?」
真樹はひよりを見た。
その顔は純粋に不思議そうだった。
(……お前のせいだよ)
そう言いたくなった。
けれど、今はまだ言えない。
真樹は少しだけ笑った。
「……あるな」
ひよりは目を丸くした。
「え、何で?」
「内緒」
「ずるい!」
ひよりが少しだけ頬を膨らませる。
真樹はその顔を見て、思わず笑った。
「お前も昨日、一ノ瀬とのメッセージ内緒って言ってただろ」
「あ、それはそうだけど!」
ひよりは少しだけ笑った。
真樹も笑う。
その何気ないやり取りが、二人の間へ少しずつ普段の空気を戻していった。
◇ ◇ ◇
公園の奥へ進むと、いつもの年配の女性が茶色い犬を連れて歩いていた。
「あら、ノアちゃん」
女性が笑顔で声を掛けると、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。
ひよりも笑顔で挨拶する。
「こんにちは」
「あら、ひよりちゃんも。今日は学校お休みなのね」
「はい。土曜日なので」
女性は柔らかく笑った。
「そうね。二人とも、今日はのんびりお散歩?」
「はい」
ひよりが頷くと、女性は真樹とひよりを交互に見た。
「仲がいいわねぇ」
ひよりは少しだけ頬を赤くした。
「え、あの、友達なんです」
女性は楽しそうに笑った。
「そうなの? でも、とってもお似合いに見えるわ」
ひよりはさらに顔を赤くした。
「そ、そんな……」
真樹は何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らした。
胸の奥が、静かに温かくなる。
(……お似合い、か)
他人からそう見えることが、嬉しかった。
けれど、ひよりは友達だと答えた。
それが今の現実だった。
真樹はその事実を受け止めながら、静かに口を開いた。
「……ノア、行くぞ」
ノアは女性の犬へ鼻先を寄せたあと、真樹の隣へ戻った。
ひよりは女性へ頭を下げた。
「またね、ルーク」
茶色い犬は尻尾を振った。
女性も笑顔で手を振る。
二人は再び歩き始めた。
少しして、ひよりが小さく呟いた。
「……お似合いって言われちゃったね」
真樹はひよりを見る。
「……嫌だった?」
ひよりは少し驚いた。
「え?」
「そう言われるの」
ひよりは少しだけ考えた。
嫌ではなかった。
ただ、少し照れくさかった。
「……嫌じゃないよ」
真樹の胸が強く鳴った。
ひよりは続ける。
「北条君と仲良く見えるのは、嬉しいし」
真樹は少しだけ視線を落とした。
(……そういう意味だよな)
ひよりにとっては、仲のいい友達に見えることが嬉しいのだろう。
それでも、その言葉が真樹には嬉しかった。
「……そっか」
真樹は静かに答えた。
ひよりは少しだけ笑った。
「北条君は?」
「何」
「嫌だった?」
真樹はひよりを見る。
少しだけ迷ったあと、静かに首を振った。
「……嫌じゃない」
ひよりは嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、真樹は胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
公園を一周するころには、ひよりの表情は朝よりずっと明るくなっていた。
もちろん、颯太への気持ちが消えたわけではない。
思い出すと、今も胸が痛む。
けれど、真樹とノアと一緒に過ごしていると、その痛みを少しだけ忘れられた。
ひよりはベンチの近くで足を止め、ゆっくり息を吐いた。
「……今日は来てよかった」
真樹は頷いた。
「そう」
「うん」
ひよりは笑った。
「北条君、ありがとう」
真樹は少しだけ眉を寄せた。
「……何回言うんだよ」
「何回でも言うよ」
ひよりは少しだけいたずらっぽく笑った。
「ありがとうって思ってるんだもん」
真樹はその顔を見て、少しだけ笑った。
「……分かったよ」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
そのあと、少しだけ真面目な表情になった。
「……北条君」
「何」
「私、しばらく佐伯君のこと引きずっちゃうかもしれない」
真樹は静かに頷いた。
「……うん」
「でも、ちゃんと前向きになりたい」
ひよりはゆっくり息を吸った。
「好きだったことを後悔しないで、これからも普通に笑えるようになりたい」
真樹はひよりを見つめた。
その言葉が、胸の奥へ深く残った。
ひよりは自分の気持ちから逃げようとしていない。
悲しさを抱えながらも、少しずつ前へ進もうとしている。
その姿が、真樹には眩しく見えた。
「……なれると思う」
真樹は静かに答えた。
ひよりは顔を上げた。
「本当?」
「ああ」
真樹は少しだけ笑った。
「お前、思ってるより強いから」
ひよりは目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤くした。
「……そんなことないよ」
「あるだろ」
真樹は続ける。
「怖いって言いながら、ちゃんと告白したんだから」
ひよりは黙った。
その言葉が、胸の奥へ静かに届いた。
自分では、強いと思ったことはなかった。
怖くて、何度も逃げたくなった。
それでも、伝えたかったから頑張った。
真樹はそのことを、ちゃんと見ていてくれた。
「……ありがとう」
ひよりは小さく笑った。
真樹も少しだけ口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
帰り道、ひよりは真樹と並んで歩いていた。
ノアは二人の少し前を、楽しそうに歩いている。
冬の午後の日差しが、住宅街の道を柔らかく照らしていた。
ひよりは少しだけ空を見上げた。
「……明日も晴れるかな」
真樹は空へ視線を向けた。
「どうだろうな」
「晴れたら、また散歩したいね」
真樹の胸が鳴った。
ひよりは何気なく言ったのだろう。
けれど、真樹にはその言葉が嬉しかった。
明日も会いたい。
そう思ってくれている。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
「……天気よかったらな」
真樹が答えると、ひよりは嬉しそうに笑った。
「うん!」
その笑顔を見て、真樹は少しだけ視線を逸らした。
(……本当に、好きだな)
何度も認めた気持ちだった。
けれど、ひよりと一緒に過ごすたびに、その想いは少しずつ深くなっていく。
ひよりが笑えば嬉しい。
泣いていれば胸が痛む。
別の男子の名前を出せば嫉妬する。
それでも、そばにいたい。
真樹はゆっくり息を吐いた。
(……急がなくていい)
ひよりはまだ、颯太への気持ちを整理している途中だ。
今は、友達としてそばにいる。
それでいい。
そう自分へ言い聞かせた。
けれど、心の奥では、いつかその関係が変わることを願っていた。
◇ ◇ ◇
家へ帰ったひよりは、リビングで美月と顔を合わせた。
「あ、おかえり」
「ただいま、お姉ちゃん」
ひよりは笑った。
美月はその顔を見て、少しだけ安心した。
朝よりも表情が明るい。
何かいいことがあったのだろうか。
「散歩、楽しかった?」
「うん。すごく」
ひよりは頷いた。
「ノアも元気だったし、北条君ともいっぱい話せた」
美月は少しだけ笑った。
「そっか」
ひよりはコートを脱ぎながら、少しだけ考えた。
それから、姉へ顔を向けた。
「……お姉ちゃん」
「何?」
「昨日ね、佐伯君に告白したの」
美月は静かに頷いた。
「……うん」
ひよりは少しだけ視線を落とした。
「振られちゃった」
美月の表情が、わずかに曇った。
けれど、すぐに何かを言うことはしなかった。
ひよりは続ける。
「でも、ちゃんと伝えられたよ」
その声には、少しだけ誇らしさがあった。
美月はゆっくり微笑んだ。
「……そっか」
そして、静かに言った。
「頑張ったね、ひより」
ひよりの目元が少しだけ潤んだ。
けれど、今度は笑った。
「……うん」
美月は妹の頭をそっと撫でた。
ひよりは少しだけ照れたように笑い、その手を受け入れた。
しばらくして、美月が尋ねた。
「……お兄ちゃんには、どうする?」
ひよりは少しだけ考えた。
「……今は、まだ言わないでほしい」
美月は頷いた。
「分かった」
ひよりは安心したように笑った。
「ありがとう」
美月はその笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
妹は、ちゃんと自分の気持ちを伝えられた。
それが何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
その夜、ひよりはベッドの上でスマートフォンを見つめていた。
千夏へ今日のことを少し話すと、すぐに返事が届いた。
『そっか。今日は少し元気出たんだね』
『うん』
『北条君とノアのおかげかな』
ひよりは少しだけ笑った。
『そうかも』
千夏から返事が届いた。
『よかったね』
ひよりはその言葉を見つめた。
千夏は、真樹のことをどう思っているのだろう。
以前から、真樹がひよりを大切にしていることに気づいているようだった。
けれど、ひより自身はまだ、そこまで考えられなかった。
昨日、颯太への恋が終わったばかりだ。
今は、真樹との時間を大切にしたい。
それだけだった。
スマートフォンが震える。
真樹からだった。
『今日はちゃんと帰れた?』
ひよりは微笑んだ。
『うん。帰れたよ』
『今日もありがとう』
少しして返事が届いた。
『どういたしまして』
ひよりは少しだけ考えてから、もう一通送った。
『明日も会えたら嬉しいな』
送信すると、少しだけ頬が熱くなった。
けれど、後悔はしなかった。
真樹とノアに会いたい。
それは、今のひよりの素直な気持ちだった。
少しして返事が届いた。
『天気よかったらな』
ひよりは嬉しそうに笑った。
『うん!』
『おやすみ、北条君』
返事が届く。
『おやすみ』
ひよりはスマートフォンを置き、ゆっくり目を閉じた。
昨日の悲しさは、まだ消えていない。
けれど、今日という一日を過ごして、少しだけ前を向けた気がした。
明日も、また笑えるかもしれない。
そう思えることが、今は嬉しかった。
◇ ◇ ◇
同じ夜、真樹はノアの寝顔を見ながら、スマートフォンを閉じた。
『明日も会えたら嬉しいな』
その言葉が、胸の奥へ深く残っている。
ひよりは今日、昨日より少しだけ笑っていた。
それが嬉しかった。
けれど、真樹の心の奥には、まだ複雑な感情が残っていた。
(……佐伯のこと、まだ好きなんだろうな)
今日も、ひよりは颯太の話をした。
好きだった時間を大切にしたいと言っていた。
その言葉を聞くたび、真樹は胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、今はそれでいい。
ひよりが無理に気持ちを切り替える必要はない。
そう思っている。
それでも、いつか自分を見てほしい。
その願いは、消えなかった。
真樹はゆっくり息を吐いた。
「……ノア」
黒犬が顔を上げる。
「明日も天野が来るかもしれないぞ」
ノアは嬉しそうに尻尾を振った。
真樹は少しだけ笑った。
「……お前は本当に分かりやすいな」
ノアは真樹の手へ鼻先を寄せてきた。
真樹はその頭を撫でながら、静かに目を閉じた。
ひよりの片想いは、一つの答えを迎えた。
けれど、真樹の恋はまだ続いている。
今は、隣にいられるだけでいい。
そう思いながらも、いつかその隣が特別な場所になることを、心の奥で願っていた。
冬の夜は静かに更けていく。
黒い犬が結んだ二人の時間は、今日も少しずつ積み重なっていた。




