第38話 ずっと好きだった人へ
金曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中には夜の冷たさが残っている。布団から出した指先がひんやりとして、ひよりはもう一度肩まで掛け布団を引き上げた。
枕元の時計は、いつも起きる時間より二十分ほど早い時刻を示していた。
(……今日なんだ)
昨日までは、明日になったら頑張ろうと思っていた。
けれど、その明日が来てしまった。
佐伯颯太へ、自分の気持ちを伝える日。
去年の文化祭から大切にしてきた片想いに、初めて自分の言葉で向き合う日だった。
ひよりは布団の中で両手を胸元へ寄せ、ゆっくり息を吸った。何度も練習した言葉を頭の中で思い浮かべるだけで、心臓がいつもより速く動き始める。
(佐伯君のことが好きです。去年から、ずっと……)
途中まで考えたところで、ひよりは顔を枕へ埋めた。
「……無理かもしれない」
思わず声に出してしまい、慌てて口を閉じる。
誰かに聞かれたわけではない。それでも、自分で口にした弱気な言葉が少し悔しかった。
昨日の夜、千夏に約束した。
ちゃんと伝えてくる、と。
真樹にも、今日会いに行くと伝えた。
あの二人は、ひよりが何をしようとしているのか知っている。
千夏は背中を押してくれた。真樹は応援できないと言いながら、それでもひよりの話を聞いてくれると約束してくれた。
(……逃げたくない)
ひよりは布団をめくり、ゆっくり身体を起こした。
窓の向こうには、冬らしい澄んだ空が広がっている。
寒い一日になりそうだった。
それでも、今日という日を迎えるために、ひよりはずっと準備をしてきた。
机の引き出しを開け、水色のノートを取り出す。
何度も書き直した言葉が、最後のページに残っていた。
『佐伯君のことが好きです』
その文字を指先でなぞり、ひよりは静かにノートを閉じた。
学校へ持っていくつもりはない。
自分の気持ちは、紙を見なくても分かっている。
あとは、それを本人へ伝えるだけだった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、いつもと変わらない光景が広がっていた。
由美が味噌汁をよそい、浩介が新聞を畳む。悠一は出勤前の時間を気にしながらも、ひよりが席へ着くと真っ先に顔を向けた。
「ひより、おはよう。ちゃんと寝られたか?」
「おはよう、お兄ちゃん。うん、まあまあ」
「まあまあって何だ。眠れなかったのか?」
「ちょっと早く起きちゃっただけだよ」
ひよりが笑うと、悠一はそれ以上追及しなかった。
昨日、美月から改めて注意されたばかりだった。
妹の恋愛へ必要以上に口を挟まないこと。
本人が話すまで、勝手に問い詰めないこと。
そして、相手の男子へ余計な接触をしないこと。
悠一としては言いたいことが山ほどあったが、今朝のひよりの表情を見ていると、軽々しく口を出してはいけない気がした。
「……寒いから、マフラー忘れるなよ」
結局、口から出たのはそんな言葉だった。
ひよりは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「うん。ありがとう」
美月はその様子を見て、安心したようにお茶を飲んだ。
昨日の夜、ひよりに謝ったとき、妹はきちんと自分の気持ちを伝えてくれた。
秘密を話されたことが悲しかったこと。
自分で決めたかったこと。
それでも、謝ってくれたから今回は許すと言ってくれたこと。
美月は、その言葉を軽く扱いたくなかった。
「ひより、今日の夕飯、何がいい?」
由美が尋ねると、ひよりは少し考えた。
「……温かいものがいいな」
「じゃあ、シチューにしようか」
「やった。お母さんのシチュー好き」
ひよりが笑うと、由美も柔らかく微笑んだ。
「帰ってきたら、ちゃんと食べなさいね」
「うん」
何気ない会話だった。
けれど、ひよりにはその言葉が少しだけ心強かった。
今日、どんな結果になっても家へ帰れば温かい夕飯がある。
そう思うだけで、胸の奥の緊張がほんの少し和らいだ。
◇ ◇ ◇
青葉高校の昇降口は、いつもより賑やかに感じられた。
金曜日ということもあり、週末の予定を話す生徒たちの声があちこちから聞こえてくる。部活動の大会や買い物の約束、友達と遊びに行く話など、誰もがそれぞれの放課後を楽しみにしているようだった。
ひよりは靴を履き替えながら、胸元へそっと手を当てた。
(……今日の放課後)
考えるだけで、また心臓が速くなる。
「ひより、おはよう」
後ろから聞こえた声に振り返ると、千夏が立っていた。
「おはよう、千夏」
ひよりは笑ったつもりだった。
けれど、千夏はその顔を見た瞬間、少しだけ眉を下げた。
「……緊張してるね」
「分かる?」
「すごく」
千夏が苦笑すると、ひよりもつられて笑った。
二人は並んで廊下を歩き始める。
教室へ向かう途中、千夏は周囲の生徒たちを確認してから、少しだけ声を落とした。
「今日、放課後になったら私、先に帰るね」
「え?」
「ひよりが佐伯君と話しやすいように。変に近くにいたら気になるでしょ?」
ひよりは少し考えてから頷いた。
「……ありがとう」
「でも、終わったら連絡してよ。結果を聞きたいからじゃなくて、ちゃんと帰れそうか心配だから」
その言葉に、ひよりは胸が温かくなるのを感じた。
千夏は結果を急かさない。
ただ、自分が無事に一日を終えられるかを気にしてくれている。
「うん。絶対連絡する」
ひよりが答えると、千夏は満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日は授業に集中しよう。英語の小テストもあるし」
「……あっ」
ひよりの顔が固まる。
千夏は思わず笑った。
「忘れてた?」
「……完全に」
「大丈夫。昨日ちゃんと勉強してたでしょ?」
「してたけど、今は頭から抜けてるかも」
千夏は笑いながら、ひよりの背中を軽く押した。
「ほら、教室着いたら一緒に確認しよ」
ひよりも笑った。
緊張していることは変わらない。
けれど、こうして普段どおりに話してくれる親友がいることが、ありがたかった。
◇ ◇ ◇
昼休みになるころには、ひよりの緊張はさらに強くなっていた。
授業中は何とか集中できていたものの、時計を見るたびに放課後が近づいていることを意識してしまう。
弁当箱を開きながら、ひよりは小さく息を吐いた。
「……あと数時間だね」
千夏は隣で弁当を広げながら頷いた。
「そうだね」
「何か、朝より緊張してきた」
「それだけ大事なんだよ」
千夏は落ち着いた声で答えた。
ひよりは箸を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
「……もし、佐伯君に困った顔されたらどうしよう」
「驚くことはあるかもしれないけど、佐伯君って人の気持ちを馬鹿にするような人じゃないでしょ?」
「……うん」
ひよりはゆっくり頷いた。
颯太は優しい。
だからこそ、好きになった。
去年の文化祭でも、困っていたひよりへ自然に声を掛けてくれた。
あのときの笑顔を、今でも覚えている。
「……私、佐伯君のそういうところが好きだったんだ」
ひよりが小さく呟くと、千夏は優しく笑った。
「うん。知ってる」
ひよりは少しだけ笑った。
それから、弁当へ箸を伸ばす。
緊張していても、お腹は空く。
千夏と一緒に食べる昼食は、いつもどおり美味しかった。
そのことが少しだけ不思議で、ひよりは思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
同じころ、桜陵学園では真樹が教室の窓際でスマートフォンを見つめていた。
朝、ひよりから届いたメッセージは短かった。
『おはよう。今日、頑張ってくるね』
真樹はその言葉を何度も読み返していた。
頑張ってくる。
ひよりが何を頑張るのか、分かっている。
佐伯颯太へ、自分の気持ちを伝えるのだ。
真樹はスマートフォンを閉じ、机の上へ置いた。
胸の奥には、昨日から続く重さが残っている。
(……今日か)
分かっていたことだった。
月曜日に、ひよりから金曜日の告白を決めたと聞いた。
それから何度も話をした。
ひよりが緊張していることも、怖がっていることも知っている。
それでも、今日という日が来ることを、心のどこかで避けたいと思っていた。
(……佐伯は、どう答えるんだろうな)
ひよりが颯太へ気持ちを伝える。
颯太が受け入れたら、二人は恋人になる。
その可能性を考えただけで、胸が締めつけられた。
真樹は椅子の背もたれへ身体を預け、天井を見上げた。
(……嫌だ)
昨日から何度も浮かぶ感情だった。
ひよりが颯太と付き合うのは嫌だ。
ひよりの隣に、自分ではない誰かが立つことを想像したくない。
放課後の予定を決める相手が颯太になり、休日の思い出が増えていく。
ひよりがそれを嬉しそうに話してきたら、自分はどうすればいいのだろう。
(……笑えるわけないだろ)
真樹は小さく息を吐いた。
ひよりが幸せなら、それでいい。
そう思えるほど、自分は大人ではなかった。
けれど、ひよりが傷つく姿も見たくない。
颯太に振られて、泣いている姿を想像するだけで胸が痛む。
ひよりの気持ちが報われてほしくない。
でも、ひよりが悲しむことも望んでいない。
その矛盾が、真樹を苦しめていた。
「……真樹」
声を掛けられ、真樹は顔を上げた。
蓮が隣に立っていた。
「今日だね」
真樹は頷いた。
「ああ」
蓮は真樹の顔を見て、少しだけ表情を曇らせた。
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
真樹は正直に答えた。
蓮は少し驚いたあと、静かに頷いた。
「そっか」
真樹は視線を落とした。
「……あいつ、朝から頑張ってくるって送ってきた」
「天野さん?」
「ああ」
蓮は少しだけ考えてから、静かに言った。
「真樹に報告したかったんだろうね」
真樹は何も言わなかった。
「それだけ、真樹のこと頼りにしてるんだと思うよ」
「……そうだな」
嬉しい。
ひよりが自分を頼ってくれることは、本当に嬉しい。
けれど、その頼られ方が、今は少しだけ苦しかった。
(……俺は、相談相手で終わりたくないんだよ)
真樹は机の上のスマートフォンへ視線を落とした。
ひよりは自分に会いに来ると言っていた。
どんな結果でも。
その約束を守りたい。
けれど、もし颯太と付き合うことになったと報告されたら。
その瞬間、自分の表情を隠せる自信はなかった。
「……蓮」
「何?」
「俺、今日ちゃんと待てるかな」
蓮は少しだけ目を見開いた。
真樹がそんな弱音を吐くことは珍しかった。
「……待ちたいんでしょ?」
「ああ」
「なら、待てると思うよ」
蓮は落ち着いた声で続けた。
「でも、無理に笑う必要はないんじゃない?」
真樹は顔を上げた。
「……どういう意味だよ」
「天野さんの前で、全部平気なふりしなくてもいいってこと」
蓮は少しだけ笑った。
「もちろん、告白の結果を責めたりするのは違うけどさ。真樹だって感情があるんだから、何でも受け止められるふりをしなくてもいいと思う」
真樹は黙った。
蓮の言葉を、ゆっくり考える。
ひよりが笑っていたら、自分も笑わなければいけない。
ひよりが泣いていたら、慰めなければいけない。
そう思っていた。
けれど、自分が苦しいことまで消す必要はないのかもしれない。
「……ありがとな」
真樹が小さく言うと、蓮は笑った。
「どういたしまして」
そのあと、少しだけからかうように続ける。
「まあ、今日の真樹はいつもより顔怖いから、放課後までに少し緩めたほうがいいかもね」
「……うるさい」
真樹は苦笑した。
蓮も笑う。
その何気ないやり取りが、少しだけ真樹の気持ちを軽くした。
◇ ◇ ◇
午後の授業が終わるころ、青葉高校の教室には帰り支度をする生徒たちの声が広がっていた。
椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、部活動へ向かう生徒たちの足音。
いつもと変わらない放課後の始まりだった。
けれど、ひよりにはそのすべてが少し遠く感じられた。
(……終わっちゃった)
授業が終わった。
あとは、颯太と話すだけ。
ひよりは机の上の教科書を鞄へしまいながら、ゆっくり息を吐いた。
「ひより」
千夏が隣へ来た。
ひよりが顔を上げると、千夏は柔らかく笑った。
「……頑張ってね」
ひよりは頷いた。
「うん」
千夏は少しだけひよりの手を握った。
「大丈夫。ちゃんと伝えられるよ」
その温かさに、ひよりの胸が少しだけ落ち着いた。
「……ありがとう」
千夏は手を離し、鞄を肩へ掛けた。
「終わったら連絡してね」
「うん。絶対する」
千夏は最後にもう一度笑い、教室を出ていった。
ひよりはその背中を見送り、深く息を吸った。
颯太とは、放課後に話す約束をしている。
スマートフォンを確認すると、少し前にメッセージが届いていた。
『天野、今日の話ってどこで聞けばいい?』
ひよりは少し考え、返事を打った。
『中庭のベンチでもいいかな?』
すぐに返事が来た。
『了解。今から行くよ』
ひよりはスマートフォンを握りしめた。
(……行こう)
鞄を持ち、教室を出る。
廊下にはまだ多くの生徒がいた。
友達と笑いながら歩く人、部活動へ急ぐ人、先生に呼び止められている人。
その中を、ひよりはゆっくり進んだ。
中庭へ続く扉を開けると、冷たい空気が頬へ触れた。
冬の夕方は日が傾くのが早い。
校舎の影が長く伸び、花壇の周囲には静かな空気が漂っていた。
ベンチの近くには、まだ誰もいなかった。
ひよりはその前で立ち止まり、鞄の持ち手を握り直した。
(……ちゃんと話そう)
何度も練習した言葉を、もう一度心の中で確かめる。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「天野」
ひよりは振り返った。
颯太が、少し急いだ様子で歩いてきた。
「ごめん、待たせた?」
いつもと変わらない笑顔だった。
その顔を見た瞬間、ひよりの胸が強く鳴った。
「ううん。私も今来たところ」
ひよりは笑った。
颯太は安心したように頷き、ベンチの近くで足を止めた。
「それで、話って何?」
ひよりは一瞬、言葉を失った。
ここまで来た。
颯太が目の前にいる。
ずっと好きだった人。
何度も話しかけようとして、勇気が出なかった人。
去年の文化祭で助けてくれた人。
その人が今、自分の話を聞こうとしてくれている。
ひよりはゆっくり息を吸った。
「……佐伯君」
「うん」
「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけど、聞いてくれる?」
颯太は少し驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐに頷いた。
「もちろん」
ひよりはその言葉に、少しだけ安心した。
鞄の持ち手を握り直し、ゆっくり口を開く。
「……去年の文化祭のこと、覚えてる?」
颯太は少し考えてから頷いた。
「うん。この前も話したよな。天野が困ってたときのこと」
「そう」
ひよりは小さく笑った。
「あのとき、私、本当に困ってたの。どうしたらいいか分からなくて、すごく焦ってて」
颯太は静かに聞いていた。
「でも、佐伯君が声を掛けてくれて、手伝ってくれたでしょ?」
「ああ。そんな大したことしてないけど」
「……私にとっては、大したことだったんだよ」
ひよりは顔を上げた。
颯太の目を見る。
「すごく嬉しかった」
声が少し震えた。
それでも、ひよりは続けた。
「それから、佐伯君のことが気になるようになったの。教室で話してるところを見たり、笑ってるところを見たりすると、何か嬉しくなって」
颯太の表情が少しずつ変わっていく。
ひよりはそれに気づいた。
きっと、何を言おうとしているのか分かり始めている。
それでも、途中で止めたくなかった。
「今年、クラスが別になって、前より話す機会が減っちゃったけど……それでも、ずっと気になってた」
ひよりは一度息を吸った。
指先が震えている。
心臓が速く動いている。
けれど、もう逃げたくなかった。
「……佐伯君」
颯太は真剣な表情でひよりを見つめていた。
ひよりはゆっくり顔を上げた。
「私、佐伯君のことが好きです」
言えた。
ずっと胸にしまっていた言葉を、ようやく口にできた。
ひよりはそのまま続けた。
「去年から、ずっと好きでした」
冷たい風が、中庭を静かに通り抜けた。
颯太はすぐには答えなかった。
驚いたように目を見開き、ひよりの顔を見つめている。
ひよりはその沈黙を、じっと受け止めた。
怖かった。
けれど、言葉にできたことが嬉しくもあった。
颯太は少しだけ視線を落とし、ゆっくり息を吐いた。
「……天野」
「うん」
「ありがとう」
その声は、いつもより静かだった。
ひよりは頷いた。
颯太は少しだけ困ったように笑った。
「正直、びっくりした」
「……うん」
「そんなふうに思ってくれてたって、全然気づかなかった」
ひよりは小さく笑った。
「私、あんまり分かりやすくなかったと思う」
「いや……最近、よく話しかけてくれるなとは思ってたけど」
颯太は少しだけ言葉を探した。
ひよりはその様子を見て、胸の奥が少しずつ冷たくなるのを感じた。
けれど、目を逸らさなかった。
颯太はゆっくり顔を上げた。
「……ごめん」
ひよりの胸が、きゅっと締めつけられた。
颯太は続ける。
「俺、天野のこと、友達としてしか見てなかった」
その言葉は、静かだった。
けれど、ひよりにははっきり届いた。
「一緒に話すの楽しいし、最近よく話しかけてくれるのも嬉しかった。でも、それが恋愛の気持ちかって言われたら……今は違うと思う」
颯太はひよりを見つめた。
「だから、ごめん。付き合うって返事はできない」
ひよりはしばらく黙った。
胸の奥が痛い。
予想していなかったわけではない。
颯太が自分を好きだと言ってくれたことは、一度もなかった。
優しくしてくれたのも、友達としてだったのかもしれない。
それでも、どこかで期待していた。
もしかしたら。
ほんの少しでも。
そんな希望が、今、静かに消えていく。
(……そっか)
ひよりはゆっくり息を吸った。
泣きそうだった。
けれど、今はまだ、ちゃんと颯太の言葉を受け止めたかった。
「……うん」
ひよりは小さく頷いた。
「ちゃんと答えてくれて、ありがとう」
颯太は少しだけ眉を下げた。
「……天野」
「大丈夫」
ひよりは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
頬が少しだけ引きつり、目の奥が熱くなる。
颯太はその表情を見て、何か言いかけた。
しかし、ひよりは小さく首を振った。
「……ごめん。ちょっとだけ、泣きそう」
颯太は何も言わなかった。
ひよりは俯き、ゆっくり息を整えた。
「でも、ちゃんと伝えられてよかった」
声が震えた。
それでも、ひよりは続けた。
「ずっと言えなかったから。今日、ちゃんと言えて……よかった」
颯太は静かに頷いた。
「……ありがとう、天野」
ひよりは顔を上げた。
颯太は真剣な表情だった。
「俺、天野がそんなに大事に思ってくれてたって知らなかった。だから、ちゃんと考えて答えたかった」
ひよりは小さく頷いた。
「……うん」
「これから、今までどおり話せるかは……天野が嫌じゃなければ、俺は普通に話したいと思ってる」
ひよりは少しだけ目を丸くした。
颯太は続ける。
「でも、無理にそうしてほしいわけじゃないから。気まずかったら、少し距離置いてもいいし」
その言葉に、ひよりの胸がまた痛んだ。
優しい。
やっぱり、颯太は優しい。
だからこそ、好きになった。
そして、その優しさが今は少しだけ苦しかった。
「……ありがとう」
ひよりは静かに笑った。
「でも、ちょっとだけ時間もらっていい?」
颯太は頷いた。
「もちろん」
ひよりはゆっくり息を吐いた。
「……じゃあ、今日はこれで」
「ああ」
颯太は少しだけ迷ってから、静かに言った。
「天野、話してくれてありがとう」
ひよりは頷いた。
「……うん」
そのまま背を向ける。
中庭から校舎へ戻る道を、ゆっくり歩き始めた。
颯太はその背中を見送っていた。
ひよりが扉の向こうへ消えるまで、動かなかった。
◇ ◇ ◇
校舎へ戻ったひよりは、誰もいない廊下の端で足を止めた。
窓の外には、夕方の空が広がっている。
遠くから部活動の掛け声が聞こえた。
いつもと変わらない学校。
けれど、ひよりの胸の中だけが、何かを失ったように静かだった。
(……振られちゃった)
分かっていた。
颯太は友達としてしか見ていなかった。
ちゃんと答えてくれた。
優しく、誠実に。
それでも、痛かった。
ひよりは壁へ背中を預け、ゆっくり息を吐いた。
目の奥が熱くなる。
涙が一粒、頬を伝った。
「……っ」
慌てて手の甲で拭う。
けれど、次の涙がこぼれた。
ずっと好きだった。
去年から、何度も颯太の姿を探していた。
声を掛けてもらえるだけで嬉しくて、少し話せただけで一日が明るくなった。
そんな時間が、確かにあった。
その気持ちは、嘘ではなかった。
(……好きだったなぁ)
ひよりは顔を覆った。
声を出して泣きたくなった。
けれど、学校の廊下で泣いているところを誰かに見られるのは、まだ少し怖かった。
ひよりは何度か深呼吸をし、鞄からハンカチを取り出した。
涙を拭い、ゆっくり顔を上げる。
スマートフォンを開いた。
千夏から、少し前にメッセージが届いていた。
『ひより、無理しないでね』
その言葉を見た瞬間、また涙がこぼれそうになった。
ひよりは震える指で返事を打った。
『千夏』
『ちゃんと伝えられたよ』
少し迷ってから、もう一通。
『でも、振られちゃった』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『そっか』
『ひより、よく頑張ったね』
ひよりは唇を噛んだ。
その言葉が、胸の奥へ深く届いた。
『今どこ? 迎えに行こうか?』
ひよりは少しだけ考えた。
千夏に会いたい。
抱きついて泣きたい。
けれど、今は別の約束があった。
『ありがとう』
『でも、大丈夫。北条君のところに行くね』
千夏から返事が届いた。
『分かった』
『でも、帰ったら連絡して。心配だから』
ひよりは小さく笑った。
『うん。ありがとう』
スマートフォンを閉じ、ゆっくり歩き始める。
学校を出るころには、涙は少し落ち着いていた。
けれど、胸の奥の痛みは消えていなかった。
◇ ◇ ◇
同じころ、真樹は公園のベンチに座っていた。
ノアは足元で静かに伏せている。
冬の夕方は冷え込みが強く、風が吹くたびに木々の枝が小さく揺れた。
真樹はスマートフォンを手にしていた。
ひよりからの連絡は、まだない。
(……もう終わったのか)
何度も時計を確認してしまう。
授業が終わる時間。
ひよりが颯太と会う時間。
話が終わるまで、どれくらいかかるのか。
考えても分からない。
真樹はスマートフォンを閉じ、ポケットへしまった。
待つと約束した。
だから、待つ。
それだけのことなのに、胸の奥は落ち着かなかった。
(……もし、付き合うことになったら)
その可能性を考えた瞬間、真樹は視線を落とした。
ひよりが笑って来る。
嬉しそうに報告する。
自分は、何と言えばいいのだろう。
(……よかったな、なんて言えない)
昨日も考えた。
何度考えても、答えは変わらなかった。
ひよりが幸せなら、それでいい。
そう思いたい。
けれど、心の奥では別の願いが消えない。
(……俺がよかった)
ひよりが好きになる相手が、自分だったら。
明日を楽しみにしていた理由が、自分へ気持ちを伝えるためだったら。
そんなことを考えてしまう。
真樹はゆっくり息を吐いた。
「……ノア」
足元の黒犬が顔を上げる。
「俺、どうしたらいいんだろうな」
ノアは静かに真樹を見つめた。
答えは返ってこない。
それでも、真樹は少しだけ笑った。
「……分かってる。待つしかないんだよな」
ノアは尻尾を一度揺らした。
真樹はその頭を撫で、再び公園の入口へ目を向けた。
◇ ◇ ◇
ひよりが公園へ到着したころには、空は少しずつ夕暮れの色へ変わり始めていた。
入口から見える遊歩道の先に、真樹とノアの姿があった。
いつものベンチ。
いつもの黒い犬。
そして、いつもと変わらず待っていてくれる真樹。
その姿を見た瞬間、ひよりの胸が強く締めつけられた。
(……いた)
分かっていた。
待っていると言ってくれた。
それでも、本当に姿を見つけると、安心してしまった。
ノアが先にひよりへ気づいた。
大きな身体を起こし、尻尾を振り始める。
真樹も顔を上げた。
ひよりはゆっくり歩み寄った。
「……北条君」
真樹は立ち上がった。
ひよりの顔を見る。
その瞬間、胸の奥が痛んだ。
ひよりは笑おうとしていた。
けれど、目元が少し赤い。
いつもの明るい笑顔ではなかった。
(……泣いたのか)
真樹は何も言わなかった。
ひよりが目の前へ来るまで、静かに待った。
ノアがひよりの足元へ近づく。
ひよりはしゃがみ、大きな黒い頭を撫でた。
「……ノア」
声が少し震えた。
ノアはひよりの手へ鼻先を寄せる。
その温かさに、ひよりの目から涙がこぼれた。
「……っ」
ひよりは慌てて顔を伏せた。
真樹は静かにしゃがみ、ノアのリードを少し緩めた。
ひよりが落ち着くまで、何も聞かなかった。
しばらくして、ひよりが小さく口を開いた。
「……北条君」
「うん」
「私、ちゃんと伝えられたよ」
真樹は頷いた。
「……そうか」
ひよりは顔を上げた。
目元には涙が残っていた。
「……でも、振られちゃった」
その言葉を聞いた瞬間、真樹の胸が強く痛んだ。
予想していなかったわけではない。
けれど、実際にひよりの口から聞くと、胸の奥に複雑な感情が広がった。
ひよりが傷ついた。
泣いている。
それがつらかった。
同時に、ほんの一瞬だけ、安堵してしまった自分がいた。
(……最低だ)
真樹は唇を噛んだ。
ひよりが泣いているのに。
大切な気持ちを伝えて、傷ついているのに。
自分は、颯太と付き合わなかったことに安心してしまった。
その事実が、ひどく情けなかった。
真樹はゆっくり息を吐き、ひよりへ視線を戻した。
「……そっか」
それだけ答えた。
ひよりは小さく頷いた。
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
ノアがひよりの足元で静かに座っている。
真樹は何も聞かなかった。
ひよりが話したくなるまで、待とうと思った。
やがて、ひよりが小さく笑った。
「……佐伯君、ちゃんと答えてくれた」
真樹は頷いた。
「うん」
「友達としてしか見てなかったって」
ひよりは視線を落とした。
「でも、私の気持ちをちゃんと聞いてくれたし、ありがとうって言ってくれた」
声が震える。
ひよりは唇を噛み、涙をこらえようとした。
「……優しかったよ」
その言葉に、真樹の胸がまた痛んだ。
颯太は、ひよりを傷つけようとしたわけではない。
きちんと向き合い、正直に答えた。
だからこそ、真樹は颯太を責めることができなかった。
それでも、ひよりが今も颯太を大切に思っていることが、少しだけ苦しかった。
(……まだ、好きなんだろうな)
振られたからといって、すぐに気持ちが消えるわけではない。
真樹にも、それくらい分かっている。
ひよりが長い間、大切にしてきた恋だ。
今日一日で、簡単に終わるものではない。
真樹は静かに口を開いた。
「……ちゃんと伝えられてよかったな」
ひよりは顔を上げた。
真樹は続ける。
「お前、ずっと言えなくて悩んでたから」
ひよりの目から、また涙がこぼれた。
「……うん」
真樹は少しだけ眉を下げた。
何か言ってやりたい。
慰めたい。
けれど、簡単な言葉で片づけたくなかった。
ひよりがどれほど勇気を出したのか、知っているからだ。
「……頑張ったな」
真樹は静かに言った。
その瞬間、ひよりの表情が崩れた。
「……っ、うん」
涙が次々にこぼれる。
ひよりは両手で顔を覆った。
「……頑張った、よ」
声が震えた。
「ちゃんと、好きって……言えたの」
真樹は黙って頷いた。
「……うん」
「でも……やっぱり、好きだったから……」
ひよりは言葉を詰まらせた。
真樹は何も言わなかった。
ただ、ひよりの隣へ腰を下ろした。
ノアがひよりの膝へ鼻先を寄せる。
ひよりはその頭を撫でながら、静かに泣いた。
真樹はその横顔を見つめた。
好きな女の子が、別の男子を想って泣いている。
それを見守ることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
(……俺なら、泣かせないのに)
そんな考えが浮かび、真樹はすぐに打ち消した。
そんな簡単な話ではない。
自分がひよりを好きだからといって、ひよりが幸せになるとは限らない。
それに、今ひよりが求めているのは、誰かに好きだと言われることではない。
大切にしてきた恋が終わった悲しみを、受け止める時間なのだ。
真樹はゆっくり息を吐いた。
(……今は、これでいい)
ひよりが泣いている間、そばにいる。
それだけでいい。
そう自分へ言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ひよりの涙が少し落ち着いた。
冷たい風が吹き、ひよりは小さく肩を震わせた。
真樹はその様子を見て、静かに言った。
「……寒いだろ」
「……うん」
「少し歩くか?」
ひよりは顔を上げた。
真樹は無理に笑わず、いつもと同じ声で続ける。
「ここに座ってると冷えるし。ノアも歩きたそうだから」
ノアはちょうど立ち上がり、二人を見上げていた。
ひよりはその姿を見て、少しだけ笑った。
「……うん。歩きたい」
真樹は頷き、立ち上がった。
ひよりもゆっくり立ち上がる。
二人はノアを連れて、いつもの遊歩道を歩き始めた。
夕方の公園は静かだった。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、落ち葉を踏む音が足元に響く。
ひよりは少しだけ俯きながら歩いていた。
真樹は何も聞かなかった。
ただ、いつもより少しゆっくり歩いた。
やがて、ひよりが小さく口を開いた。
「……北条君」
「何」
「私、今日、ちゃんと終われたのかな」
真樹は少しだけ考えた。
「……分からない」
ひよりは顔を上げた。
真樹は続ける。
「気持ちって、そんな簡単に終わるもんじゃないだろ」
ひよりは黙った。
「好きだった時間が長いなら、なおさら」
真樹は前を向いたまま言った。
「今日振られたからって、明日から何も感じなくなるわけじゃないと思う」
ひよりはゆっくり頷いた。
「……うん」
「だから、無理に終わらせなくてもいいんじゃないか」
ひよりは少しだけ目を丸くした。
真樹は静かに続ける。
「ちゃんと伝えた。それで今は十分だろ」
ひよりの胸が、じんわり温かくなった。
真樹はいつも、ひよりが無理をしなくていいと言ってくれる。
泣いてもいい。
黙っていてもいい。
すぐに元気にならなくてもいい。
その言葉が、今は何よりありがたかった。
「……ありがとう」
ひよりは小さく笑った。
真樹は少しだけ口元を緩めた。
「どういたしまして」
ひよりはその横顔を見つめた。
いつもと変わらない真樹。
けれど、今日は少しだけ違って見えた。
自分が泣いていても、困った顔をしない。
無理に励まそうとせず、ただ隣を歩いてくれる。
その優しさが、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
(……北条君がいてくれて、よかった)
ひよりはそう思いながら、ゆっくり歩いた。
◇ ◇ ◇
公園を出るころには、空はすっかり夕暮れの色へ変わっていた。
ひよりは少しだけ目元を赤くしたまま、真樹へ向き直った。
「……今日は、ありがとう」
真樹は頷いた。
「うん」
「待っててくれて、嬉しかった」
真樹はひよりを見る。
ひよりは少しだけ照れたように笑った。
「北条君に会えたら、何か安心しちゃって……いっぱい泣いちゃった」
真樹の胸が強く鳴った。
嬉しい。
ひよりが自分の前で泣けることが、嬉しかった。
けれど、そんな自分の感情が少しだけ後ろめたかった。
ひよりは傷ついている。
それなのに、自分は頼られたことに喜んでいる。
(……本当に、勝手だな)
真樹は小さく息を吐いた。
「……泣きたいときは、泣けばいいだろ」
ひよりは少しだけ笑った。
「うん」
真樹は続ける。
「無理に笑わなくていいから」
ひよりは静かに頷いた。
「……ありがとう」
少しだけ沈黙が続いた。
ノアがひよりの足元へ近づき、尻尾を振る。
ひよりはしゃがみ、その頭を撫でた。
「ノアもありがとう」
ノアは嬉しそうに鼻先を寄せた。
ひよりはその温かさに、少しだけ笑った。
そして、真樹へ顔を向けた。
「……北条君」
「何」
「明日も、会える?」
真樹は少しだけ目を見開いた。
ひよりは続ける。
「まだちょっと、元気出ないかもしれないけど……ノアと北条君に会いたい」
真樹の胸が強く鳴った。
明日も会いたい。
ひよりが、自分にそう言ってくれた。
その言葉が嬉しくて、胸の奥が温かくなる。
けれど、同時に苦しかった。
ひよりが求めているのは、傷ついた心を落ち着かせる場所なのだろう。
恋愛感情ではない。
それでも、真樹はその願いを断りたくなかった。
「……いいよ」
真樹は静かに答えた。
「明日も来ればいい」
ひよりは安心したように笑った。
「……うん」
真樹はその笑顔を見つめた。
今日、ひよりの片想いは一つの答えを迎えた。
けれど、自分の恋はまだ始まったばかりだった。
真樹はそのことを、誰にも言わなかった。
ただ、ひよりが明日も会いたいと言ってくれたことを、胸の奥へ静かにしまった。
◇ ◇ ◇
その夜、ひよりは自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
千夏へ帰宅したことを伝えると、すぐに返事が届いた。
『おかえり』
『ちゃんと帰れてよかった』
ひよりは小さく笑った。
『ありがとう』
『いっぱい泣いちゃったけど、少し落ち着いたよ』
千夏から返事が届いた。
『そっか』
『今日はゆっくり休んでね』
ひよりは頷きながら、返事を打った。
『うん。ありがとう』
スマートフォンを置き、机の引き出しから水色のノートを取り出す。
最後のページには、何度も練習した言葉が残っていた。
『佐伯君のことが好きです』
ひよりはその文字を見つめた。
今日、ちゃんと伝えられた。
颯太は、友達としてしか見ていなかったと答えた。
悲しかった。
今も、胸の奥が痛む。
それでも、後悔はしていなかった。
(……好きになって、よかった)
ひよりはゆっくりノートを閉じた。
颯太を好きだった時間は、確かに大切だった。
その気持ちがあったから、勇気を出そうと思えた。
そして、渡せなかったクッキーを抱えて帰ったあの日、ノアと出会った。
真樹とも出会った。
ひよりは少しだけ笑った。
(……不思議だな)
黒い犬が運んできたのは、不幸ではなかった。
今はまだ、何を運んできてくれたのか、全部は分からない。
けれど、ノアと出会ったことで、自分の毎日が少しずつ変わったことだけは確かだった。
スマートフォンが震える。
真樹からだった。
『帰れた?』
ひよりは微笑んだ。
『うん。ちゃんと帰ったよ』
『今日はありがとう』
少しして返事が届いた。
『ならよかった』
ひよりは少し迷ってから、もう一通送った。
『明日もよろしくね』
返事はすぐに届いた。
『ああ』
『ノアも待ってる』
ひよりは思わず笑った。
『北条君は?』
送信してから、少しだけ頬が熱くなった。
何となく聞いてみたくなっただけだった。
けれど、返事が来るまでの数秒が、妙に長く感じられた。
やがて、画面に新しいメッセージが表示された。
『俺も待ってる』
ひよりはその言葉を見つめた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
『……ありがとう』
『おやすみ、北条君』
真樹から返事が届いた。
『おやすみ』
ひよりはスマートフォンを置き、ベッドへ横になった。
今日、長い片想いが一つの答えを迎えた。
悲しさは、まだ消えていない。
けれど、明日も会いたいと思える人がいる。
それが今は、少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
同じ夜、真樹はノアの寝顔を見ながら、スマートフォンを閉じた。
『俺も待ってる』
自分で送った言葉が、まだ胸に残っている。
ひよりは今日、颯太に振られた。
泣いていた。
長い間、大切にしてきた恋が報われなかった。
そのことを思うと、胸が痛んだ。
けれど、真樹は自分の心の奥に、別の感情があることも分かっていた。
(……安心したんだよな)
ひよりが颯太と付き合わなかったことに。
その事実を、もう否定できなかった。
真樹はゆっくり息を吐いた。
自分の感情が、ひどく勝手なものに思える。
ひよりが傷ついたことを悲しみながら、同時に自分の恋がまだ終わっていないことへ安堵している。
その矛盾を、簡単に受け入れることはできなかった。
(……でも)
真樹はノアへ視線を落とした。
ひよりは明日も会いたいと言ってくれた。
それが恋愛感情ではないことくらい、分かっている。
今のひよりは、まだ颯太への気持ちを整理している途中だ。
だから、急ぐつもりはなかった。
傷ついたばかりのひよりへ、自分の気持ちを押しつけたくない。
けれど、もう友達だけで満足できるとも思えなかった。
(……いつか、ちゃんと伝えたい)
真樹は静かに目を閉じた。
ひよりが自分の気持ちと向き合えるようになるまで。
そして、自分もひよりへ胸を張って好きだと言えるようになるまで。
今は、隣にいる。
ノアが小さく寝返りを打った。
真樹はその頭をそっと撫でる。
「……明日も天野が来るぞ」
ノアは目を閉じたまま、尻尾を一度揺らした。
真樹は小さく笑った。
明日、ひよりがどんな顔で来るのかは分からない。
まだ泣いているかもしれない。
無理に笑おうとするかもしれない。
それでも、いつもと同じように迎えようと思った。
黒い犬と出会ったことで始まった、二人の時間。
その時間は、まだ終わらない。
真樹は窓の外へ目を向けた。
冬の夜空には、いくつもの星が静かに輝いていた。
ひよりの片想いが終わった金曜日。
その夜、真樹の胸には、まだ誰にも伝えていない恋心が、以前よりもずっと強く残っていた。




