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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 ずっと好きだった人へ


 金曜日の朝、天野ひよりは目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中には夜の冷たさが残っている。布団から出した指先がひんやりとして、ひよりはもう一度肩まで掛け布団を引き上げた。


 枕元の時計は、いつも起きる時間より二十分ほど早い時刻を示していた。


(……今日なんだ)


 昨日までは、明日になったら頑張ろうと思っていた。


 けれど、その明日が来てしまった。


 佐伯颯太へ、自分の気持ちを伝える日。


 去年の文化祭から大切にしてきた片想いに、初めて自分の言葉で向き合う日だった。


 ひよりは布団の中で両手を胸元へ寄せ、ゆっくり息を吸った。何度も練習した言葉を頭の中で思い浮かべるだけで、心臓がいつもより速く動き始める。


(佐伯君のことが好きです。去年から、ずっと……)


 途中まで考えたところで、ひよりは顔を枕へ埋めた。


「……無理かもしれない」


 思わず声に出してしまい、慌てて口を閉じる。


 誰かに聞かれたわけではない。それでも、自分で口にした弱気な言葉が少し悔しかった。


 昨日の夜、千夏に約束した。


 ちゃんと伝えてくる、と。


 真樹にも、今日会いに行くと伝えた。


 あの二人は、ひよりが何をしようとしているのか知っている。


 千夏は背中を押してくれた。真樹は応援できないと言いながら、それでもひよりの話を聞いてくれると約束してくれた。


(……逃げたくない)


 ひよりは布団をめくり、ゆっくり身体を起こした。


 窓の向こうには、冬らしい澄んだ空が広がっている。


 寒い一日になりそうだった。


 それでも、今日という日を迎えるために、ひよりはずっと準備をしてきた。


 机の引き出しを開け、水色のノートを取り出す。


 何度も書き直した言葉が、最後のページに残っていた。


『佐伯君のことが好きです』


 その文字を指先でなぞり、ひよりは静かにノートを閉じた。


 学校へ持っていくつもりはない。


 自分の気持ちは、紙を見なくても分かっている。


 あとは、それを本人へ伝えるだけだった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、いつもと変わらない光景が広がっていた。


 由美が味噌汁をよそい、浩介が新聞を畳む。悠一は出勤前の時間を気にしながらも、ひよりが席へ着くと真っ先に顔を向けた。


「ひより、おはよう。ちゃんと寝られたか?」


「おはよう、お兄ちゃん。うん、まあまあ」


「まあまあって何だ。眠れなかったのか?」


「ちょっと早く起きちゃっただけだよ」


 ひよりが笑うと、悠一はそれ以上追及しなかった。


 昨日、美月から改めて注意されたばかりだった。


 妹の恋愛へ必要以上に口を挟まないこと。


 本人が話すまで、勝手に問い詰めないこと。


 そして、相手の男子へ余計な接触をしないこと。


 悠一としては言いたいことが山ほどあったが、今朝のひよりの表情を見ていると、軽々しく口を出してはいけない気がした。


「……寒いから、マフラー忘れるなよ」


 結局、口から出たのはそんな言葉だった。


 ひよりは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「うん。ありがとう」


 美月はその様子を見て、安心したようにお茶を飲んだ。


 昨日の夜、ひよりに謝ったとき、妹はきちんと自分の気持ちを伝えてくれた。


 秘密を話されたことが悲しかったこと。


 自分で決めたかったこと。


 それでも、謝ってくれたから今回は許すと言ってくれたこと。


 美月は、その言葉を軽く扱いたくなかった。


「ひより、今日の夕飯、何がいい?」


 由美が尋ねると、ひよりは少し考えた。


「……温かいものがいいな」


「じゃあ、シチューにしようか」


「やった。お母さんのシチュー好き」


 ひよりが笑うと、由美も柔らかく微笑んだ。


「帰ってきたら、ちゃんと食べなさいね」


「うん」


 何気ない会話だった。


 けれど、ひよりにはその言葉が少しだけ心強かった。


 今日、どんな結果になっても家へ帰れば温かい夕飯がある。


 そう思うだけで、胸の奥の緊張がほんの少し和らいだ。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校の昇降口は、いつもより賑やかに感じられた。


 金曜日ということもあり、週末の予定を話す生徒たちの声があちこちから聞こえてくる。部活動の大会や買い物の約束、友達と遊びに行く話など、誰もがそれぞれの放課後を楽しみにしているようだった。


 ひよりは靴を履き替えながら、胸元へそっと手を当てた。


(……今日の放課後)


 考えるだけで、また心臓が速くなる。


「ひより、おはよう」


 後ろから聞こえた声に振り返ると、千夏が立っていた。


「おはよう、千夏」


 ひよりは笑ったつもりだった。


 けれど、千夏はその顔を見た瞬間、少しだけ眉を下げた。


「……緊張してるね」


「分かる?」


「すごく」


 千夏が苦笑すると、ひよりもつられて笑った。


 二人は並んで廊下を歩き始める。


 教室へ向かう途中、千夏は周囲の生徒たちを確認してから、少しだけ声を落とした。


「今日、放課後になったら私、先に帰るね」


「え?」


「ひよりが佐伯君と話しやすいように。変に近くにいたら気になるでしょ?」


 ひよりは少し考えてから頷いた。


「……ありがとう」


「でも、終わったら連絡してよ。結果を聞きたいからじゃなくて、ちゃんと帰れそうか心配だから」


 その言葉に、ひよりは胸が温かくなるのを感じた。


 千夏は結果を急かさない。


 ただ、自分が無事に一日を終えられるかを気にしてくれている。


「うん。絶対連絡する」


 ひよりが答えると、千夏は満足そうに頷いた。


「じゃあ、今日は授業に集中しよう。英語の小テストもあるし」


「……あっ」


 ひよりの顔が固まる。


 千夏は思わず笑った。


「忘れてた?」


「……完全に」


「大丈夫。昨日ちゃんと勉強してたでしょ?」


「してたけど、今は頭から抜けてるかも」


 千夏は笑いながら、ひよりの背中を軽く押した。


「ほら、教室着いたら一緒に確認しよ」


 ひよりも笑った。


 緊張していることは変わらない。


 けれど、こうして普段どおりに話してくれる親友がいることが、ありがたかった。


     ◇ ◇ ◇


 昼休みになるころには、ひよりの緊張はさらに強くなっていた。


 授業中は何とか集中できていたものの、時計を見るたびに放課後が近づいていることを意識してしまう。


 弁当箱を開きながら、ひよりは小さく息を吐いた。


「……あと数時間だね」


 千夏は隣で弁当を広げながら頷いた。


「そうだね」


「何か、朝より緊張してきた」


「それだけ大事なんだよ」


 千夏は落ち着いた声で答えた。


 ひよりは箸を持ったまま、少しだけ視線を落とした。


「……もし、佐伯君に困った顔されたらどうしよう」


「驚くことはあるかもしれないけど、佐伯君って人の気持ちを馬鹿にするような人じゃないでしょ?」


「……うん」


 ひよりはゆっくり頷いた。


 颯太は優しい。


 だからこそ、好きになった。


 去年の文化祭でも、困っていたひよりへ自然に声を掛けてくれた。


 あのときの笑顔を、今でも覚えている。


「……私、佐伯君のそういうところが好きだったんだ」


 ひよりが小さく呟くと、千夏は優しく笑った。


「うん。知ってる」


 ひよりは少しだけ笑った。


 それから、弁当へ箸を伸ばす。


 緊張していても、お腹は空く。


 千夏と一緒に食べる昼食は、いつもどおり美味しかった。


 そのことが少しだけ不思議で、ひよりは思わず笑ってしまった。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、桜陵学園では真樹が教室の窓際でスマートフォンを見つめていた。


 朝、ひよりから届いたメッセージは短かった。


『おはよう。今日、頑張ってくるね』


 真樹はその言葉を何度も読み返していた。


 頑張ってくる。


 ひよりが何を頑張るのか、分かっている。


 佐伯颯太へ、自分の気持ちを伝えるのだ。


 真樹はスマートフォンを閉じ、机の上へ置いた。


 胸の奥には、昨日から続く重さが残っている。


(……今日か)


 分かっていたことだった。


 月曜日に、ひよりから金曜日の告白を決めたと聞いた。


 それから何度も話をした。


 ひよりが緊張していることも、怖がっていることも知っている。


 それでも、今日という日が来ることを、心のどこかで避けたいと思っていた。


(……佐伯は、どう答えるんだろうな)


 ひよりが颯太へ気持ちを伝える。


 颯太が受け入れたら、二人は恋人になる。


 その可能性を考えただけで、胸が締めつけられた。


 真樹は椅子の背もたれへ身体を預け、天井を見上げた。


(……嫌だ)


 昨日から何度も浮かぶ感情だった。


 ひよりが颯太と付き合うのは嫌だ。


 ひよりの隣に、自分ではない誰かが立つことを想像したくない。


 放課後の予定を決める相手が颯太になり、休日の思い出が増えていく。


 ひよりがそれを嬉しそうに話してきたら、自分はどうすればいいのだろう。


(……笑えるわけないだろ)


 真樹は小さく息を吐いた。


 ひよりが幸せなら、それでいい。


 そう思えるほど、自分は大人ではなかった。


 けれど、ひよりが傷つく姿も見たくない。


 颯太に振られて、泣いている姿を想像するだけで胸が痛む。


 ひよりの気持ちが報われてほしくない。


 でも、ひよりが悲しむことも望んでいない。


 その矛盾が、真樹を苦しめていた。


「……真樹」


 声を掛けられ、真樹は顔を上げた。


 蓮が隣に立っていた。


「今日だね」


 真樹は頷いた。


「ああ」


 蓮は真樹の顔を見て、少しだけ表情を曇らせた。


「……大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 真樹は正直に答えた。


 蓮は少し驚いたあと、静かに頷いた。


「そっか」


 真樹は視線を落とした。


「……あいつ、朝から頑張ってくるって送ってきた」


「天野さん?」


「ああ」


 蓮は少しだけ考えてから、静かに言った。


「真樹に報告したかったんだろうね」


 真樹は何も言わなかった。


「それだけ、真樹のこと頼りにしてるんだと思うよ」


「……そうだな」


 嬉しい。


 ひよりが自分を頼ってくれることは、本当に嬉しい。


 けれど、その頼られ方が、今は少しだけ苦しかった。


(……俺は、相談相手で終わりたくないんだよ)


 真樹は机の上のスマートフォンへ視線を落とした。


 ひよりは自分に会いに来ると言っていた。


 どんな結果でも。


 その約束を守りたい。


 けれど、もし颯太と付き合うことになったと報告されたら。


 その瞬間、自分の表情を隠せる自信はなかった。


「……蓮」


「何?」


「俺、今日ちゃんと待てるかな」


 蓮は少しだけ目を見開いた。


 真樹がそんな弱音を吐くことは珍しかった。


「……待ちたいんでしょ?」


「ああ」


「なら、待てると思うよ」


 蓮は落ち着いた声で続けた。


「でも、無理に笑う必要はないんじゃない?」


 真樹は顔を上げた。


「……どういう意味だよ」


「天野さんの前で、全部平気なふりしなくてもいいってこと」


 蓮は少しだけ笑った。


「もちろん、告白の結果を責めたりするのは違うけどさ。真樹だって感情があるんだから、何でも受け止められるふりをしなくてもいいと思う」


 真樹は黙った。


 蓮の言葉を、ゆっくり考える。


 ひよりが笑っていたら、自分も笑わなければいけない。


 ひよりが泣いていたら、慰めなければいけない。


 そう思っていた。


 けれど、自分が苦しいことまで消す必要はないのかもしれない。


「……ありがとな」


 真樹が小さく言うと、蓮は笑った。


「どういたしまして」


 そのあと、少しだけからかうように続ける。


「まあ、今日の真樹はいつもより顔怖いから、放課後までに少し緩めたほうがいいかもね」


「……うるさい」


 真樹は苦笑した。


 蓮も笑う。


 その何気ないやり取りが、少しだけ真樹の気持ちを軽くした。


     ◇ ◇ ◇


 午後の授業が終わるころ、青葉高校の教室には帰り支度をする生徒たちの声が広がっていた。


 椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、部活動へ向かう生徒たちの足音。


 いつもと変わらない放課後の始まりだった。


 けれど、ひよりにはそのすべてが少し遠く感じられた。


(……終わっちゃった)


 授業が終わった。


 あとは、颯太と話すだけ。


 ひよりは机の上の教科書を鞄へしまいながら、ゆっくり息を吐いた。


「ひより」


 千夏が隣へ来た。


 ひよりが顔を上げると、千夏は柔らかく笑った。


「……頑張ってね」


 ひよりは頷いた。


「うん」


 千夏は少しだけひよりの手を握った。


「大丈夫。ちゃんと伝えられるよ」


 その温かさに、ひよりの胸が少しだけ落ち着いた。


「……ありがとう」


 千夏は手を離し、鞄を肩へ掛けた。


「終わったら連絡してね」


「うん。絶対する」


 千夏は最後にもう一度笑い、教室を出ていった。


 ひよりはその背中を見送り、深く息を吸った。


 颯太とは、放課後に話す約束をしている。


 スマートフォンを確認すると、少し前にメッセージが届いていた。


『天野、今日の話ってどこで聞けばいい?』


 ひよりは少し考え、返事を打った。


『中庭のベンチでもいいかな?』


 すぐに返事が来た。


『了解。今から行くよ』


 ひよりはスマートフォンを握りしめた。


(……行こう)


 鞄を持ち、教室を出る。


 廊下にはまだ多くの生徒がいた。


 友達と笑いながら歩く人、部活動へ急ぐ人、先生に呼び止められている人。


 その中を、ひよりはゆっくり進んだ。


 中庭へ続く扉を開けると、冷たい空気が頬へ触れた。


 冬の夕方は日が傾くのが早い。


 校舎の影が長く伸び、花壇の周囲には静かな空気が漂っていた。


 ベンチの近くには、まだ誰もいなかった。


 ひよりはその前で立ち止まり、鞄の持ち手を握り直した。


(……ちゃんと話そう)


 何度も練習した言葉を、もう一度心の中で確かめる。


 そのとき、背後から足音が聞こえた。


「天野」


 ひよりは振り返った。


 颯太が、少し急いだ様子で歩いてきた。


「ごめん、待たせた?」


 いつもと変わらない笑顔だった。


 その顔を見た瞬間、ひよりの胸が強く鳴った。


「ううん。私も今来たところ」


 ひよりは笑った。


 颯太は安心したように頷き、ベンチの近くで足を止めた。


「それで、話って何?」


 ひよりは一瞬、言葉を失った。


 ここまで来た。


 颯太が目の前にいる。


 ずっと好きだった人。


 何度も話しかけようとして、勇気が出なかった人。


 去年の文化祭で助けてくれた人。


 その人が今、自分の話を聞こうとしてくれている。


 ひよりはゆっくり息を吸った。


「……佐伯君」


「うん」


「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけど、聞いてくれる?」


 颯太は少し驚いたように目を丸くした。


 けれど、すぐに頷いた。


「もちろん」


 ひよりはその言葉に、少しだけ安心した。


 鞄の持ち手を握り直し、ゆっくり口を開く。


「……去年の文化祭のこと、覚えてる?」


 颯太は少し考えてから頷いた。


「うん。この前も話したよな。天野が困ってたときのこと」


「そう」


 ひよりは小さく笑った。


「あのとき、私、本当に困ってたの。どうしたらいいか分からなくて、すごく焦ってて」


 颯太は静かに聞いていた。


「でも、佐伯君が声を掛けてくれて、手伝ってくれたでしょ?」


「ああ。そんな大したことしてないけど」


「……私にとっては、大したことだったんだよ」


 ひよりは顔を上げた。


 颯太の目を見る。


「すごく嬉しかった」


 声が少し震えた。


 それでも、ひよりは続けた。


「それから、佐伯君のことが気になるようになったの。教室で話してるところを見たり、笑ってるところを見たりすると、何か嬉しくなって」


 颯太の表情が少しずつ変わっていく。


 ひよりはそれに気づいた。


 きっと、何を言おうとしているのか分かり始めている。


 それでも、途中で止めたくなかった。


「今年、クラスが別になって、前より話す機会が減っちゃったけど……それでも、ずっと気になってた」


 ひよりは一度息を吸った。


 指先が震えている。


 心臓が速く動いている。


 けれど、もう逃げたくなかった。


「……佐伯君」


 颯太は真剣な表情でひよりを見つめていた。


 ひよりはゆっくり顔を上げた。


「私、佐伯君のことが好きです」


 言えた。


 ずっと胸にしまっていた言葉を、ようやく口にできた。


 ひよりはそのまま続けた。


「去年から、ずっと好きでした」


 冷たい風が、中庭を静かに通り抜けた。


 颯太はすぐには答えなかった。


 驚いたように目を見開き、ひよりの顔を見つめている。


 ひよりはその沈黙を、じっと受け止めた。


 怖かった。


 けれど、言葉にできたことが嬉しくもあった。


 颯太は少しだけ視線を落とし、ゆっくり息を吐いた。


「……天野」


「うん」


「ありがとう」


 その声は、いつもより静かだった。


 ひよりは頷いた。


 颯太は少しだけ困ったように笑った。


「正直、びっくりした」


「……うん」


「そんなふうに思ってくれてたって、全然気づかなかった」


 ひよりは小さく笑った。


「私、あんまり分かりやすくなかったと思う」


「いや……最近、よく話しかけてくれるなとは思ってたけど」


 颯太は少しだけ言葉を探した。


 ひよりはその様子を見て、胸の奥が少しずつ冷たくなるのを感じた。


 けれど、目を逸らさなかった。


 颯太はゆっくり顔を上げた。


「……ごめん」


 ひよりの胸が、きゅっと締めつけられた。


 颯太は続ける。


「俺、天野のこと、友達としてしか見てなかった」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、ひよりにははっきり届いた。


「一緒に話すの楽しいし、最近よく話しかけてくれるのも嬉しかった。でも、それが恋愛の気持ちかって言われたら……今は違うと思う」


 颯太はひよりを見つめた。


「だから、ごめん。付き合うって返事はできない」


 ひよりはしばらく黙った。


 胸の奥が痛い。


 予想していなかったわけではない。


 颯太が自分を好きだと言ってくれたことは、一度もなかった。


 優しくしてくれたのも、友達としてだったのかもしれない。


 それでも、どこかで期待していた。


 もしかしたら。


 ほんの少しでも。


 そんな希望が、今、静かに消えていく。


(……そっか)


 ひよりはゆっくり息を吸った。


 泣きそうだった。


 けれど、今はまだ、ちゃんと颯太の言葉を受け止めたかった。


「……うん」


 ひよりは小さく頷いた。


「ちゃんと答えてくれて、ありがとう」


 颯太は少しだけ眉を下げた。


「……天野」


「大丈夫」


 ひよりは笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 頬が少しだけ引きつり、目の奥が熱くなる。


 颯太はその表情を見て、何か言いかけた。


 しかし、ひよりは小さく首を振った。


「……ごめん。ちょっとだけ、泣きそう」


 颯太は何も言わなかった。


 ひよりは俯き、ゆっくり息を整えた。


「でも、ちゃんと伝えられてよかった」


 声が震えた。


 それでも、ひよりは続けた。


「ずっと言えなかったから。今日、ちゃんと言えて……よかった」


 颯太は静かに頷いた。


「……ありがとう、天野」


 ひよりは顔を上げた。


 颯太は真剣な表情だった。


「俺、天野がそんなに大事に思ってくれてたって知らなかった。だから、ちゃんと考えて答えたかった」


 ひよりは小さく頷いた。


「……うん」


「これから、今までどおり話せるかは……天野が嫌じゃなければ、俺は普通に話したいと思ってる」


 ひよりは少しだけ目を丸くした。


 颯太は続ける。


「でも、無理にそうしてほしいわけじゃないから。気まずかったら、少し距離置いてもいいし」


 その言葉に、ひよりの胸がまた痛んだ。


 優しい。


 やっぱり、颯太は優しい。


 だからこそ、好きになった。


 そして、その優しさが今は少しだけ苦しかった。


「……ありがとう」


 ひよりは静かに笑った。


「でも、ちょっとだけ時間もらっていい?」


 颯太は頷いた。


「もちろん」


 ひよりはゆっくり息を吐いた。


「……じゃあ、今日はこれで」


「ああ」


 颯太は少しだけ迷ってから、静かに言った。


「天野、話してくれてありがとう」


 ひよりは頷いた。


「……うん」


 そのまま背を向ける。


 中庭から校舎へ戻る道を、ゆっくり歩き始めた。


 颯太はその背中を見送っていた。


 ひよりが扉の向こうへ消えるまで、動かなかった。


     ◇ ◇ ◇


 校舎へ戻ったひよりは、誰もいない廊下の端で足を止めた。


 窓の外には、夕方の空が広がっている。


 遠くから部活動の掛け声が聞こえた。


 いつもと変わらない学校。


 けれど、ひよりの胸の中だけが、何かを失ったように静かだった。


(……振られちゃった)


 分かっていた。


 颯太は友達としてしか見ていなかった。


 ちゃんと答えてくれた。


 優しく、誠実に。


 それでも、痛かった。


 ひよりは壁へ背中を預け、ゆっくり息を吐いた。


 目の奥が熱くなる。


 涙が一粒、頬を伝った。


「……っ」


 慌てて手の甲で拭う。


 けれど、次の涙がこぼれた。


 ずっと好きだった。


 去年から、何度も颯太の姿を探していた。


 声を掛けてもらえるだけで嬉しくて、少し話せただけで一日が明るくなった。


 そんな時間が、確かにあった。


 その気持ちは、嘘ではなかった。


(……好きだったなぁ)


 ひよりは顔を覆った。


 声を出して泣きたくなった。


 けれど、学校の廊下で泣いているところを誰かに見られるのは、まだ少し怖かった。


 ひよりは何度か深呼吸をし、鞄からハンカチを取り出した。


 涙を拭い、ゆっくり顔を上げる。


 スマートフォンを開いた。


 千夏から、少し前にメッセージが届いていた。


『ひより、無理しないでね』


 その言葉を見た瞬間、また涙がこぼれそうになった。


 ひよりは震える指で返事を打った。


『千夏』


『ちゃんと伝えられたよ』


 少し迷ってから、もう一通。


『でも、振られちゃった』


 送信すると、すぐに返事が届いた。


『そっか』


『ひより、よく頑張ったね』


 ひよりは唇を噛んだ。


 その言葉が、胸の奥へ深く届いた。


『今どこ? 迎えに行こうか?』


 ひよりは少しだけ考えた。


 千夏に会いたい。


 抱きついて泣きたい。


 けれど、今は別の約束があった。


『ありがとう』


『でも、大丈夫。北条君のところに行くね』


 千夏から返事が届いた。


『分かった』


『でも、帰ったら連絡して。心配だから』


 ひよりは小さく笑った。


『うん。ありがとう』


 スマートフォンを閉じ、ゆっくり歩き始める。


 学校を出るころには、涙は少し落ち着いていた。


 けれど、胸の奥の痛みは消えていなかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、真樹は公園のベンチに座っていた。


 ノアは足元で静かに伏せている。


 冬の夕方は冷え込みが強く、風が吹くたびに木々の枝が小さく揺れた。


 真樹はスマートフォンを手にしていた。


 ひよりからの連絡は、まだない。


(……もう終わったのか)


 何度も時計を確認してしまう。


 授業が終わる時間。


 ひよりが颯太と会う時間。


 話が終わるまで、どれくらいかかるのか。


 考えても分からない。


 真樹はスマートフォンを閉じ、ポケットへしまった。


 待つと約束した。


 だから、待つ。


 それだけのことなのに、胸の奥は落ち着かなかった。


(……もし、付き合うことになったら)


 その可能性を考えた瞬間、真樹は視線を落とした。


 ひよりが笑って来る。


 嬉しそうに報告する。


 自分は、何と言えばいいのだろう。


(……よかったな、なんて言えない)


 昨日も考えた。


 何度考えても、答えは変わらなかった。


 ひよりが幸せなら、それでいい。


 そう思いたい。


 けれど、心の奥では別の願いが消えない。


(……俺がよかった)


 ひよりが好きになる相手が、自分だったら。


 明日を楽しみにしていた理由が、自分へ気持ちを伝えるためだったら。


 そんなことを考えてしまう。


 真樹はゆっくり息を吐いた。


「……ノア」


 足元の黒犬が顔を上げる。


「俺、どうしたらいいんだろうな」


 ノアは静かに真樹を見つめた。


 答えは返ってこない。


 それでも、真樹は少しだけ笑った。


「……分かってる。待つしかないんだよな」


 ノアは尻尾を一度揺らした。


 真樹はその頭を撫で、再び公園の入口へ目を向けた。


     ◇ ◇ ◇


 ひよりが公園へ到着したころには、空は少しずつ夕暮れの色へ変わり始めていた。


 入口から見える遊歩道の先に、真樹とノアの姿があった。


 いつものベンチ。


 いつもの黒い犬。


 そして、いつもと変わらず待っていてくれる真樹。


 その姿を見た瞬間、ひよりの胸が強く締めつけられた。


(……いた)


 分かっていた。


 待っていると言ってくれた。


 それでも、本当に姿を見つけると、安心してしまった。


 ノアが先にひよりへ気づいた。


 大きな身体を起こし、尻尾を振り始める。


 真樹も顔を上げた。


 ひよりはゆっくり歩み寄った。


「……北条君」


 真樹は立ち上がった。


 ひよりの顔を見る。


 その瞬間、胸の奥が痛んだ。


 ひよりは笑おうとしていた。


 けれど、目元が少し赤い。


 いつもの明るい笑顔ではなかった。


(……泣いたのか)


 真樹は何も言わなかった。


 ひよりが目の前へ来るまで、静かに待った。


 ノアがひよりの足元へ近づく。


 ひよりはしゃがみ、大きな黒い頭を撫でた。


「……ノア」


 声が少し震えた。


 ノアはひよりの手へ鼻先を寄せる。


 その温かさに、ひよりの目から涙がこぼれた。


「……っ」


 ひよりは慌てて顔を伏せた。


 真樹は静かにしゃがみ、ノアのリードを少し緩めた。


 ひよりが落ち着くまで、何も聞かなかった。


 しばらくして、ひよりが小さく口を開いた。


「……北条君」


「うん」


「私、ちゃんと伝えられたよ」


 真樹は頷いた。


「……そうか」


 ひよりは顔を上げた。


 目元には涙が残っていた。


「……でも、振られちゃった」


 その言葉を聞いた瞬間、真樹の胸が強く痛んだ。


 予想していなかったわけではない。


 けれど、実際にひよりの口から聞くと、胸の奥に複雑な感情が広がった。


 ひよりが傷ついた。


 泣いている。


 それがつらかった。


 同時に、ほんの一瞬だけ、安堵してしまった自分がいた。


(……最低だ)


 真樹は唇を噛んだ。


 ひよりが泣いているのに。


 大切な気持ちを伝えて、傷ついているのに。


 自分は、颯太と付き合わなかったことに安心してしまった。


 その事実が、ひどく情けなかった。


 真樹はゆっくり息を吐き、ひよりへ視線を戻した。


「……そっか」


 それだけ答えた。


 ひよりは小さく頷いた。


「うん」


 しばらく沈黙が続いた。


 ノアがひよりの足元で静かに座っている。


 真樹は何も聞かなかった。


 ひよりが話したくなるまで、待とうと思った。


 やがて、ひよりが小さく笑った。


「……佐伯君、ちゃんと答えてくれた」


 真樹は頷いた。


「うん」


「友達としてしか見てなかったって」


 ひよりは視線を落とした。


「でも、私の気持ちをちゃんと聞いてくれたし、ありがとうって言ってくれた」


 声が震える。


 ひよりは唇を噛み、涙をこらえようとした。


「……優しかったよ」


 その言葉に、真樹の胸がまた痛んだ。


 颯太は、ひよりを傷つけようとしたわけではない。


 きちんと向き合い、正直に答えた。


 だからこそ、真樹は颯太を責めることができなかった。


 それでも、ひよりが今も颯太を大切に思っていることが、少しだけ苦しかった。


(……まだ、好きなんだろうな)


 振られたからといって、すぐに気持ちが消えるわけではない。


 真樹にも、それくらい分かっている。


 ひよりが長い間、大切にしてきた恋だ。


 今日一日で、簡単に終わるものではない。


 真樹は静かに口を開いた。


「……ちゃんと伝えられてよかったな」


 ひよりは顔を上げた。


 真樹は続ける。


「お前、ずっと言えなくて悩んでたから」


 ひよりの目から、また涙がこぼれた。


「……うん」


 真樹は少しだけ眉を下げた。


 何か言ってやりたい。


 慰めたい。


 けれど、簡単な言葉で片づけたくなかった。


 ひよりがどれほど勇気を出したのか、知っているからだ。


「……頑張ったな」


 真樹は静かに言った。


 その瞬間、ひよりの表情が崩れた。


「……っ、うん」


 涙が次々にこぼれる。


 ひよりは両手で顔を覆った。


「……頑張った、よ」


 声が震えた。


「ちゃんと、好きって……言えたの」


 真樹は黙って頷いた。


「……うん」


「でも……やっぱり、好きだったから……」


 ひよりは言葉を詰まらせた。


 真樹は何も言わなかった。


 ただ、ひよりの隣へ腰を下ろした。


 ノアがひよりの膝へ鼻先を寄せる。


 ひよりはその頭を撫でながら、静かに泣いた。


 真樹はその横顔を見つめた。


 好きな女の子が、別の男子を想って泣いている。


 それを見守ることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


(……俺なら、泣かせないのに)


 そんな考えが浮かび、真樹はすぐに打ち消した。


 そんな簡単な話ではない。


 自分がひよりを好きだからといって、ひよりが幸せになるとは限らない。


 それに、今ひよりが求めているのは、誰かに好きだと言われることではない。


 大切にしてきた恋が終わった悲しみを、受け止める時間なのだ。


 真樹はゆっくり息を吐いた。


(……今は、これでいい)


 ひよりが泣いている間、そばにいる。


 それだけでいい。


 そう自分へ言い聞かせた。


     ◇ ◇ ◇


 しばらくして、ひよりの涙が少し落ち着いた。


 冷たい風が吹き、ひよりは小さく肩を震わせた。


 真樹はその様子を見て、静かに言った。


「……寒いだろ」


「……うん」


「少し歩くか?」


 ひよりは顔を上げた。


 真樹は無理に笑わず、いつもと同じ声で続ける。


「ここに座ってると冷えるし。ノアも歩きたそうだから」


 ノアはちょうど立ち上がり、二人を見上げていた。


 ひよりはその姿を見て、少しだけ笑った。


「……うん。歩きたい」


 真樹は頷き、立ち上がった。


 ひよりもゆっくり立ち上がる。


 二人はノアを連れて、いつもの遊歩道を歩き始めた。


 夕方の公園は静かだった。


 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、落ち葉を踏む音が足元に響く。


 ひよりは少しだけ俯きながら歩いていた。


 真樹は何も聞かなかった。


 ただ、いつもより少しゆっくり歩いた。


 やがて、ひよりが小さく口を開いた。


「……北条君」


「何」


「私、今日、ちゃんと終われたのかな」


 真樹は少しだけ考えた。


「……分からない」


 ひよりは顔を上げた。


 真樹は続ける。


「気持ちって、そんな簡単に終わるもんじゃないだろ」


 ひよりは黙った。


「好きだった時間が長いなら、なおさら」


 真樹は前を向いたまま言った。


「今日振られたからって、明日から何も感じなくなるわけじゃないと思う」


 ひよりはゆっくり頷いた。


「……うん」


「だから、無理に終わらせなくてもいいんじゃないか」


 ひよりは少しだけ目を丸くした。


 真樹は静かに続ける。


「ちゃんと伝えた。それで今は十分だろ」


 ひよりの胸が、じんわり温かくなった。


 真樹はいつも、ひよりが無理をしなくていいと言ってくれる。


 泣いてもいい。


 黙っていてもいい。


 すぐに元気にならなくてもいい。


 その言葉が、今は何よりありがたかった。


「……ありがとう」


 ひよりは小さく笑った。


 真樹は少しだけ口元を緩めた。


「どういたしまして」


 ひよりはその横顔を見つめた。


 いつもと変わらない真樹。


 けれど、今日は少しだけ違って見えた。


 自分が泣いていても、困った顔をしない。


 無理に励まそうとせず、ただ隣を歩いてくれる。


 その優しさが、胸の奥へ静かに染み込んでいく。


(……北条君がいてくれて、よかった)


 ひよりはそう思いながら、ゆっくり歩いた。


     ◇ ◇ ◇


 公園を出るころには、空はすっかり夕暮れの色へ変わっていた。


 ひよりは少しだけ目元を赤くしたまま、真樹へ向き直った。


「……今日は、ありがとう」


 真樹は頷いた。


「うん」


「待っててくれて、嬉しかった」


 真樹はひよりを見る。


 ひよりは少しだけ照れたように笑った。


「北条君に会えたら、何か安心しちゃって……いっぱい泣いちゃった」


 真樹の胸が強く鳴った。


 嬉しい。


 ひよりが自分の前で泣けることが、嬉しかった。


 けれど、そんな自分の感情が少しだけ後ろめたかった。


 ひよりは傷ついている。


 それなのに、自分は頼られたことに喜んでいる。


(……本当に、勝手だな)


 真樹は小さく息を吐いた。


「……泣きたいときは、泣けばいいだろ」


 ひよりは少しだけ笑った。


「うん」


 真樹は続ける。


「無理に笑わなくていいから」


 ひよりは静かに頷いた。


「……ありがとう」


 少しだけ沈黙が続いた。


 ノアがひよりの足元へ近づき、尻尾を振る。


 ひよりはしゃがみ、その頭を撫でた。


「ノアもありがとう」


 ノアは嬉しそうに鼻先を寄せた。


 ひよりはその温かさに、少しだけ笑った。


 そして、真樹へ顔を向けた。


「……北条君」


「何」


「明日も、会える?」


 真樹は少しだけ目を見開いた。


 ひよりは続ける。


「まだちょっと、元気出ないかもしれないけど……ノアと北条君に会いたい」


 真樹の胸が強く鳴った。


 明日も会いたい。


 ひよりが、自分にそう言ってくれた。


 その言葉が嬉しくて、胸の奥が温かくなる。


 けれど、同時に苦しかった。


 ひよりが求めているのは、傷ついた心を落ち着かせる場所なのだろう。


 恋愛感情ではない。


 それでも、真樹はその願いを断りたくなかった。


「……いいよ」


 真樹は静かに答えた。


「明日も来ればいい」


 ひよりは安心したように笑った。


「……うん」


 真樹はその笑顔を見つめた。


 今日、ひよりの片想いは一つの答えを迎えた。


 けれど、自分の恋はまだ始まったばかりだった。


 真樹はそのことを、誰にも言わなかった。


 ただ、ひよりが明日も会いたいと言ってくれたことを、胸の奥へ静かにしまった。


     ◇ ◇ ◇


 その夜、ひよりは自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。


 千夏へ帰宅したことを伝えると、すぐに返事が届いた。


『おかえり』


『ちゃんと帰れてよかった』


 ひよりは小さく笑った。


『ありがとう』


『いっぱい泣いちゃったけど、少し落ち着いたよ』


 千夏から返事が届いた。


『そっか』


『今日はゆっくり休んでね』


 ひよりは頷きながら、返事を打った。


『うん。ありがとう』


 スマートフォンを置き、机の引き出しから水色のノートを取り出す。


 最後のページには、何度も練習した言葉が残っていた。


『佐伯君のことが好きです』


 ひよりはその文字を見つめた。


 今日、ちゃんと伝えられた。


 颯太は、友達としてしか見ていなかったと答えた。


 悲しかった。


 今も、胸の奥が痛む。


 それでも、後悔はしていなかった。


(……好きになって、よかった)


 ひよりはゆっくりノートを閉じた。


 颯太を好きだった時間は、確かに大切だった。


 その気持ちがあったから、勇気を出そうと思えた。


 そして、渡せなかったクッキーを抱えて帰ったあの日、ノアと出会った。


 真樹とも出会った。


 ひよりは少しだけ笑った。


(……不思議だな)


 黒い犬が運んできたのは、不幸ではなかった。


 今はまだ、何を運んできてくれたのか、全部は分からない。


 けれど、ノアと出会ったことで、自分の毎日が少しずつ変わったことだけは確かだった。


 スマートフォンが震える。


 真樹からだった。


『帰れた?』


 ひよりは微笑んだ。


『うん。ちゃんと帰ったよ』


『今日はありがとう』


 少しして返事が届いた。


『ならよかった』


 ひよりは少し迷ってから、もう一通送った。


『明日もよろしくね』


 返事はすぐに届いた。


『ああ』


『ノアも待ってる』


 ひよりは思わず笑った。


『北条君は?』


 送信してから、少しだけ頬が熱くなった。


 何となく聞いてみたくなっただけだった。


 けれど、返事が来るまでの数秒が、妙に長く感じられた。


 やがて、画面に新しいメッセージが表示された。


『俺も待ってる』


 ひよりはその言葉を見つめた。


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


『……ありがとう』


『おやすみ、北条君』


 真樹から返事が届いた。


『おやすみ』


 ひよりはスマートフォンを置き、ベッドへ横になった。


 今日、長い片想いが一つの答えを迎えた。


 悲しさは、まだ消えていない。


 けれど、明日も会いたいと思える人がいる。


 それが今は、少しだけ嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ夜、真樹はノアの寝顔を見ながら、スマートフォンを閉じた。


『俺も待ってる』


 自分で送った言葉が、まだ胸に残っている。


 ひよりは今日、颯太に振られた。


 泣いていた。


 長い間、大切にしてきた恋が報われなかった。


 そのことを思うと、胸が痛んだ。


 けれど、真樹は自分の心の奥に、別の感情があることも分かっていた。


(……安心したんだよな)


 ひよりが颯太と付き合わなかったことに。


 その事実を、もう否定できなかった。


 真樹はゆっくり息を吐いた。


 自分の感情が、ひどく勝手なものに思える。


 ひよりが傷ついたことを悲しみながら、同時に自分の恋がまだ終わっていないことへ安堵している。


 その矛盾を、簡単に受け入れることはできなかった。


(……でも)


 真樹はノアへ視線を落とした。


 ひよりは明日も会いたいと言ってくれた。


 それが恋愛感情ではないことくらい、分かっている。


 今のひよりは、まだ颯太への気持ちを整理している途中だ。


 だから、急ぐつもりはなかった。


 傷ついたばかりのひよりへ、自分の気持ちを押しつけたくない。


 けれど、もう友達だけで満足できるとも思えなかった。


(……いつか、ちゃんと伝えたい)


 真樹は静かに目を閉じた。


 ひよりが自分の気持ちと向き合えるようになるまで。


 そして、自分もひよりへ胸を張って好きだと言えるようになるまで。


 今は、隣にいる。


 ノアが小さく寝返りを打った。


 真樹はその頭をそっと撫でる。


「……明日も天野が来るぞ」


 ノアは目を閉じたまま、尻尾を一度揺らした。


 真樹は小さく笑った。


 明日、ひよりがどんな顔で来るのかは分からない。


 まだ泣いているかもしれない。


 無理に笑おうとするかもしれない。


 それでも、いつもと同じように迎えようと思った。


 黒い犬と出会ったことで始まった、二人の時間。


 その時間は、まだ終わらない。


 真樹は窓の外へ目を向けた。


 冬の夜空には、いくつもの星が静かに輝いていた。


 ひよりの片想いが終わった金曜日。


 その夜、真樹の胸には、まだ誰にも伝えていない恋心が、以前よりもずっと強く残っていた。

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