第37話 明日、伝えたい言葉
木曜日の朝、天野ひよりは机の上に広げたノートを前に、もう十分近づけたはずの鉛筆をなかなか紙へ下ろせずにいた。
窓の外では、冬の薄い雲の隙間から朝日が差し込み始めている。暖房をつけたばかりの部屋にはまだ冷たい空気が残っていて、制服の袖口から入り込む寒さに、ひよりは何度か指先を擦り合わせた。
ノートに書かれているのは、明日の放課後、佐伯颯太へ伝えたい言葉だった。
『佐伯君のことが好きです』
最初に書いたその一文だけは、何度読み返しても変える必要がないと思えた。
去年の文化祭で助けてもらったこと。何気なく声を掛けてもらえたことが嬉しかったこと。それから少しずつ、教室の中で颯太の姿を探すようになったこと。
書きたいことはたくさんある。
けれど、実際に本人を前にしたら、どこまで話せるのだろう。
(……全部言おうとしたら、絶対に途中で分からなくなっちゃうよね)
ひよりは鉛筆を置き、ノートの端を指先で押さえた。
月曜日の夜、颯太へ金曜日の放課後に時間があるか尋ねた。颯太は快く了承してくれて、少し話したいことがあると伝えたひよりに、いつもと変わらない調子で返事をくれた。
約束はできている。
あとは、自分の気持ちを伝えるだけだった。
それなのに、胸の奥は昨日よりずっと落ち着かなかった。
(……佐伯君、驚くよね)
去年は同じクラスだったものの、今年は教室が違う。最近はひよりのほうから話しかける機会が増え、颯太もそれを嬉しいと言ってくれた。
けれど、それが恋愛感情を意味するわけではないことくらい、ひよりにも分かっている。
優しくしてくれたから好きになってもらえるとは限らない。
自分にとって大切な思い出でも、相手にとっては友達を手伝った何気ない出来事だったのかもしれない。
そう考えると怖かった。
それでも、伝えたいと思った。
机の端には、小さな白いリボンが置かれている。
以前、颯太へ渡せなかったチョコレートクッキーを包んだときと同じ種類のものだった。実際に使ったリボンではなく、手芸箱に残っていたものだが、それを見るたびに、あの日の帰り道を思い出す。
好きな人へ贈り物を渡すことさえできず、何度もため息をついていた。
そして、黒い犬が現れた。
(……ノアに会ってから、いろんなことが変わったな)
ひよりは少しだけ笑った。
ノアがいなければ、北条真樹とも知り合わなかった。
学校も違い、生活している場所も違う二人が、今では毎日のように顔を合わせている。最初は少し怖そうだと思っていた真樹が、実は優しくて、不器用で、時々驚くほど素直な男の子だと知ることもなかっただろう。
昨日は玲奈も散歩に加わり、真樹の小さいころの話を聞くことができた。
知らなかった真樹を知れたのは嬉しかった。
けれど、玲奈と真樹が楽しそうに昔話をしている姿を見たとき、胸が少しだけ落ち着かなくなったことも覚えている。
(……何であんな気持ちになったんだろ)
嫌だったわけではない。
玲奈とは仲良くなれたし、連絡先も交換できた。
それなのに、真樹が自分の知らない思い出を玲奈と共有していることが、少し羨ましかった。
ひよりはノートへ視線を戻した。
明日は颯太へ告白する。
今はそのことを考えよう。
真樹に対して抱いている、まだ名前の分からない感情まで、急いで整理する必要はない。
真樹自身も、答えを急がなくていいと言ってくれた。
「……よし」
ひよりはノートを閉じ、机の引き出しへしまった。
明日持っていくつもりはなかった。
これは誰かに読んでもらうための文章ではなく、自分の気持ちを確かめるためのものだからだ。
制服のリボンを整え、鞄を手に取る。
階下から朝食の準備をする音が聞こえてきた。
いつもと同じ朝。
けれど、明日になれば、ずっと胸にしまってきた片想いが一つの答えを迎える。
そう思うだけで、階段を下りる足取りは少しだけ慎重になった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、悠一が珍しく静かだった。
普段なら、ひよりが席へ着いた途端に学校のことや帰宅時間を尋ねてくる。それなのに今日は、味噌汁の椀を手にしたまま何かを考え込んでいた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
ひよりが尋ねると、悠一は少し驚いたように顔を上げた。
「いや、別に。ひよりこそ、ちゃんと寝られたか?」
「うん。ちょっと早く起きちゃったけど」
「そうか。……寒くなかったか?」
「暖房つけたから大丈夫」
そこで会話が途切れた。
ひよりは不思議に思いながらも、朝食へ箸を伸ばす。
向かいに座る美月は、兄の様子をちらりと見てから、何事もなかったようにお茶を飲んだ。
美月には気になっていることがあった。
ひよりが颯太への告白を考えていることを、以前、悠一へ漏らしてしまった件だ。
約束を破るつもりはなかった。兄が妹の恋愛へ口を挟もうとしたため、止めるつもりで言葉が出てしまった。
けれど、結果として秘密を話したことに変わりはない。
(……ちゃんと謝らなきゃ)
美月はそう思いながら、妹の顔を見た。
ひよりはいつもどおり笑っている。
ただ、時折何かを考えるように視線を落とすことがあった。
「ひより、今日帰ってきたら少し話せる?」
美月が尋ねると、ひよりは顔を上げた。
「うん、いいよ。何かあった?」
「ちょっとね。大したことじゃないんだけど」
「分かった。じゃあ夕飯のあとでもいい?」
「もちろん」
美月が頷くと、悠一が何か言いたそうに口を開きかけた。
しかし、美月が静かに視線を向けると、兄は結局何も言わずに味噌汁を飲んだ。
由美はそのやり取りを見ていたものの、今は口を挟まなかった。
家族だからといって、すべてを先回りして聞き出す必要はない。
ひよりが自分で話したいと思ったときに、きちんと耳を傾けられればいい。
そう考えながら、由美は空になった皿を片づけ始めた。
◇ ◇ ◇
青葉高校へ到着したひよりは、昇降口で千夏と合流した。
朝の校舎には登校してきた生徒たちの声が響き、靴箱の前では部活動の予定を確認する男子たちが集まっていた。ひよりは上履きへ履き替えながら、いつもより少し冷たい床の感触に肩をすくめた。
「おはよう、ひより。いよいよ明日だね」
千夏は周囲へ聞こえないように声を落とした。
ひよりは頷いたものの、その顔には緊張が浮かんでいる。
「……昨日の夜から、ずっと考えてる」
「何を話すか?」
「うん。ちゃんと好きって言えるかなって」
千夏は少し考えてから、ひよりへ向き直った。
「去年の文化祭のこと、話そうとしてるんだよね?」
「そう。あのとき助けてもらったことが、私にとってすごく大きかったから」
「なら、それを伝えればいいと思うよ」
千夏は柔らかく笑った。
「全部きれいに説明しようとしなくても、ひよりが佐伯君を好きになった理由を、ひよりの言葉で話せばいいんじゃないかな」
「……途中で泣いちゃったら?」
「泣いたっていいでしょ。笑われたりはしないと思うよ」
「でも、困らせちゃうかも」
「気持ちを伝えられたら、誰だって多少は驚くと思う。だからって、ひよりが何も言っちゃいけない理由にはならないよ」
千夏の言葉に、ひよりはゆっくり頷いた。
親友はいつも、答えを決めつけずに話を聞いてくれる。
颯太を好きになったころから、何度も相談に乗ってもらった。時には背中を押し、時には無理をしなくていいと言ってくれた。
「千夏、ありがとう」
「どういたしまして。終わったら連絡してね」
「うん。ちゃんと連絡する」
ひよりが微笑むと、千夏も安心したように笑った。
二人が教室へ入ると、すでに何人もの生徒が登校していた。
窓際では男子たちが週末の予定を話し、教卓の近くでは女子たちが提出物を確認している。
ひよりが自分の席へ向かおうとしたところで、橘海斗が声を掛けてきた。
「天野、おはよう。今日の英語、課題提出だよな?」
「あ、橘君。おはよう。うん、昨日先生が言ってたよ」
「よかった。ちゃんと持ってきたんだよ。昨日、危うく忘れるところだったから」
海斗は鞄からプリントを取り出し、少し得意そうに笑った。
「帰りに天野が課題の話してたの思い出してさ。助かった、ありがとな」
「役に立てたならよかった」
ひよりが笑うと、海斗も笑い返した。
しかし、彼はそのまま席へ戻らず、少しだけひよりの顔を見つめた。
「……何か緊張してる?」
「え?」
「いや、いつもよりちょっと落ち着かない感じするから。何かあったの?」
ひよりは驚いた。
自分では普段どおりにしているつもりだった。
「そんなに分かる?」
「いや、何となく。俺の勘違いかもしれないけど」
「……ちょっと、大事な予定があって」
ひよりは曖昧に笑った。
海斗はそれ以上踏み込まなかった。
「そっか。うまくいくといいな」
何気ない言葉だった。
けれど、ひよりには少し嬉しかった。
「ありがとう、橘君」
ひよりが笑うと、海斗も笑い返した。
そのあと自分の席へ戻りながら、海斗は少しだけ首を傾げた。
(大事な予定、か。何だろうな)
最近のひよりは、時々考え事をしているように見える。
以前から明るくて話しやすい女の子だったが、最近はふとした瞬間に見せる表情が気になるようになっていた。
その理由を、海斗自身もまだよく分かっていない。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひよりは千夏と一緒に弁当を食べていた。
教室の窓から差し込む光は柔らかく、暖房の効いた室内には弁当の匂いと生徒たちの話し声が広がっている。ひよりは卵焼きを箸で持ち上げたまま、ふと窓の外へ目を向けた。
「……ひより?」
千夏に呼ばれ、ひよりは慌てて顔を戻した。
「ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「明日のこと?」
「うん。何回考えても、緊張するのは変わらないね」
千夏は弁当箱を置き、少しだけ声を落とした。
「ねえ、ひより。佐伯君に告白したあと、北条君のところへ行くんだよね?」
「うん。待っててくれるって約束したから」
「……そっか」
千夏はひよりの顔を見つめた。
「それって、ひよりにとって大事な約束なんだね」
「うん」
ひよりは迷わず頷いた。
「北条君、応援はできないって言ってたけど、それでも話を聞いてくれるって言ってくれたから」
千夏は少しだけ目を細めた。
ひよりが真樹を頼りにしていることは分かっている。
ただ、告白の結果によっては、真樹自身も深く傷つくかもしれない。
それでも待つと約束した真樹の気持ちを、千夏は簡単に想像できなかった。
「北条君って、優しいね」
ひよりは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「でしょ? 最初はちょっと怖い人だと思ってたんだけど、今は全然そんなことないんだよ」
その返事があまりにも自然で、千夏は小さく笑った。
「ひより、本当に北条君のこと大事なんだね」
「うん。大事だよ」
ひよりは箸を置き、少しだけ考えるように視線を落とした。
「……最近ね、北条君と会えない日があったら寂しいだろうなって思うの」
千夏は黙って続きを待った。
「毎日会うのが当たり前になってるから、たぶん急に会えなくなったら変な感じすると思う。ノアにも会いたいし、北条君とも話したいし」
ひよりは少し照れたように笑った。
「だから、金曜日が終わっても、今までどおり会えたらいいなって」
千夏はその言葉を聞き、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
ひよりに悪気はない。
颯太への恋心も、真樹との友情も、どちらも大切にしたいと思っているだけなのだろう。
けれど、真樹にとっては簡単な話ではない。
もし颯太がひよりの告白を受け入れたら、真樹は好きな女の子が別の男子と付き合う姿を見守ることになる。
それでも、今までどおり笑っていられるのだろうか。
(……北条君、きついだろうな)
千夏はそう思ったが、口には出さなかった。
ひよりには、まず自分の恋へきちんと向き合ってほしかった。
そのあとに生まれる気持ちも、本人が自分で確かめられればいい。
「ひより」
「何?」
「明日は、佐伯君にちゃんと気持ちを伝えることだけ考えよう」
千夏は柔らかく笑った。
「そのあとのことは、そのあとで考えればいいよ」
ひよりは少し驚いたあと、ゆっくり頷いた。
「……うん。そうだね」
千夏は安心したように笑い、再び弁当へ箸を伸ばした。
◇ ◇ ◇
同じころ、桜陵学園では真樹が昼食を終え、教室の窓際でスマートフォンを確認していた。
ひよりから届いたメッセージは、朝の挨拶だけだった。いつもと変わらない短いやり取りなのに、今日は画面を閉じるまでに時間がかかった。
『おはよう! 今日も放課後行くね』
その言葉が嬉しいことは、もう認めている。
ひよりが自分に会いに来る。ノアに会うためでも、散歩が楽しいからでも、その時間を楽しみにしてくれている。それだけで、学校が終わるまでの時間が少し短く感じられるようになった。
けれど、明日は違う。
ひよりは放課後、佐伯颯太へ気持ちを伝える。
真樹はスマートフォンを伏せ、窓の外へ目を向けた。校庭では生徒たちが笑いながら歩いている。いつもなら気にも留めない光景が、今日はひどく遠く感じられた。
(……佐伯は、何て答えるんだろうな)
ひよりは長い間、颯太を好きだった。
去年の文化祭で助けてもらったこと。何気ない言葉が嬉しかったこと。バレンタインには手作りのクッキーを渡そうとして、結局渡せなかったこと。
真樹は、ひよりから少しずつその話を聞いてきた。
初めのころは、ただの相談相手でいられた。好きな相手がいるのだと聞いても、少し面白くない程度で済んでいたはずだった。
今は違う。
颯太の名前が出るだけで、胸の奥が鈍く痛む。
ひよりが颯太の話をするとき、声が少し柔らかくなることを知っている。思い出を話すときには、普段より慎重に言葉を選ぶこともある。そういう小さな変化に気づくたび、自分がその表情を引き出した相手ではないことを思い知らされる。
(……俺の前でも、あんな顔するくせに)
そこまで考えて、真樹は眉を寄せた。
ひよりは自分の前でもよく笑う。
以前より遠慮がなくなり、からかってきたり、会いたかったと素直に言ったりするようになった。昨日は、玲奈と昔話をしている姿を見て少し寂しかったとも打ち明けてくれた。
その一つ一つが、真樹には嬉しかった。
だから、期待してしまう。
ひよりの中で、自分はただの友達とは少し違う存在になっているのではないかと。
けれど、その期待は、明日の告白という事実の前ではひどく頼りなかった。
(……天野が好きなのは、佐伯だ)
何度確かめても、胸の痛みは消えない。
むしろ、ひよりが真剣であればあるほど苦しくなる。
颯太がひよりの気持ちを受け入れたら。
その瞬間から、ひよりが嬉しいことを最初に話す相手は颯太になるかもしれない。放課後の予定を決めるときにも、休日に出かけるときにも、真樹の知らない約束が増えていくのだろう。
公園へ来る回数が減るかもしれない。
ノアに会うより、颯太と過ごす時間を選ぶ日が来るかもしれない。
ひよりがそれを幸せそうに報告してきたら、自分は笑って聞けるのだろうか。
真樹は机の下で、ゆっくり拳を握った。
(……嫌だ)
考えるより先に、答えが出た。
ひよりが颯太と付き合うのは嫌だ。
自分の知らないところで二人の思い出が増えていくのも、颯太だけが知るひよりの表情が生まれるのも、想像するだけで苦しかった。
ひよりが幸せならそれでいい。
そう言えたら、どれほど楽だろう。
けれど、今の真樹には言えなかった。
(……俺が、隣にいたい)
ひよりが学校で何かあったとき、真っ先に話したいと思う相手でいたい。
何でもないことで笑い合い、ノアの歩く速度に合わせて帰り道を遠回りする。そんな時間を、これからも当たり前のように重ねていきたい。
そして、いつか。
ひよりが誰かを好きだと言うとき、その相手が自分だったらいい。
そこまで考えた瞬間、真樹は深く息を吐いた。
欲張りだと思った。
ひよりが自分を頼ってくれることに満足できず、その気持ちまで欲しくなっている。
しかも、明日告白する相手が自分ではないと知っているのに、どこかでうまくいかなければいいと思ってしまう。
その考えが浮かんだことに、真樹は自分でも嫌気が差した。
(……最低だな)
ひよりは何も悪くない。
自分の気持ちを知らないのだから、颯太の話をするのも当然だ。勇気を出して告白しようとしていることだって、本来なら尊重すべきなのだろう。
それなのに、真樹の心は簡単には従わなかった。
ひよりが傷つく姿は見たくない。
けれど、颯太に選ばれる姿も見たくない。
どちらを想像しても苦しくなることが、ひどく情けなかった。
「真樹」
蓮の声に、真樹は顔を上げた。
いつの間にか隣へ来ていた蓮が、机の端へ軽く腰を預けている。
「……また考え事?」
「まあな」
「明日のこと?」
真樹は少し迷ってから頷いた。
蓮は真樹の顔を見て、いつものように軽くからかうことはしなかった。
「そんなにきつい?」
真樹はしばらく黙っていた。
自分の気持ちを口にするのは、まだ慣れない。
ひよりを好きだと認めてから、胸の奥にあったものが急にはっきり見えるようになった。今までは理由の分からない苛立ちとして片づけられた感情にも、もう名前がついている。
「……きつい」
真樹は低い声で答えた。
「思ってたより、ずっと」
蓮は何も言わずに待った。
「天野さんが佐伯君と付き合うかもしれないから?」
「ああ」
真樹は視線を落とした。
「それもあるけど……それだけじゃない」
「というと?」
「……あいつが佐伯のこと話すとき、俺、普通に聞けてないんだよ」
蓮は真樹の言葉を待った。
「楽しそうに話してると、腹が立つ。別に佐伯が何かしたわけじゃないのに、名前聞くだけで面白くない」
真樹は苦笑した。
「昨日まで普通に話してたのに、明日から急に佐伯の彼女になるかもしれないって考えたら……」
そこで言葉が止まった。
自分の口から出た「彼女」という言葉が、想像以上に重かった。
ひよりが颯太の彼女になる。
それは、二人の間に自分の知らない関係が生まれるということだ。
真樹は膝の上で握っていた拳をゆっくり開いた。
「……嫌なんだよ」
蓮は静かに頷いた。
「うん」
「でも、振られてほしいとも思いたくない」
「……そっか」
「泣くかもしれないだろ、あいつ」
真樹の声が少しだけ低くなる。
「頑張って伝えて、駄目だったら……絶対、傷つく」
蓮はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開く。
「真樹はさ、天野さんが好きなんだよね」
「……ああ」
「だから、佐伯君に取られたくないって思うのも自然だと思う」
真樹は顔を上げた。
「……自然?」
「うん。好きな相手が別の人を好きなんだから、嫉妬するのはおかしくないでしょ」
蓮は少しだけ笑った。
「もちろん、その気持ちを理由に邪魔したり、天野さんを困らせたりするのは違うと思うけど」
「それはしない」
真樹はすぐに答えた。
蓮は頷いた。
「分かってる。だから、今の真樹が自分の気持ちまで責める必要はないんじゃない?」
真樹は黙った。
嫉妬している。
ひよりを独り占めしたいと思っている。
その感情を認めること自体が、どこか後ろめたかった。
けれど、蓮の言葉を聞いて、少しだけ呼吸が楽になった。
「……俺、あいつに幸せになってほしいとは思ってる」
「うん」
「でも、その相手が佐伯だったら嫌だ」
真樹はゆっくり息を吐いた。
「……俺がいい」
その言葉は、自分でも驚くほど素直に出た。
蓮は少しだけ目を見開いたあと、静かに笑った。
「……やっと言ったね」
「何が」
「真樹が本当に望んでること」
真樹は顔を逸らした。
「……うるさい」
蓮はそれ以上からかわなかった。
代わりに、少しだけ真面目な声で言う。
「でも、明日は天野さんの大事な日なんだよね」
「ああ」
「真樹は待つって約束した」
「……そうだ」
「なら、まずはその約束を守ればいいと思う」
真樹は静かに頷いた。
明日の結果がどうなるのかは分からない。
ひよりがどんな顔で公園へ来るのかも、何を話すのかも分からない。
けれど、自分が嫉妬しているからといって、ひよりの大切な気持ちを否定したくはなかった。
「……待つよ」
真樹は窓の外へ目を向けた。
「どんな結果でも」
蓮はその横顔を見つめ、少しだけ表情を和らげた。
「うん」
真樹はスマートフォンを手に取った。
ひよりからのメッセージを、もう一度開く。
『今日も放課後行くね』
その言葉を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。
明日のことを考えれば、今も苦しい。
颯太の名前を聞けば、きっとまた嫉妬する。
ひよりが自分ではない誰かを好きだという事実も、簡単には受け入れられない。
それでも、今日ひよりが会いに来てくれることは嬉しかった。
(……今は、それでいい)
真樹はスマートフォンを閉じた。
自分の気持ちを消すことはできない。
ひよりの気持ちを変えることもできない。
だからせめて、明日まではいつもどおりに接しようと思った。
ひよりが安心して笑える相手でいたい。
その願いだけは、嫉妬している今も変わらなかった。
◇ ◇ ◇
放課後、ひよりはいつものように公園へ向かった。
冬の空は薄い雲に覆われ、日差しは弱かった。歩道沿いの街路樹にはほとんど葉が残っておらず、冷たい風が吹くたびに、ひよりはコートの襟元へ顎を埋めた。
公園の入口が見えてくると、ノアが先に気づいた。
大きな黒い身体がこちらへ向き、尻尾が勢いよく揺れる。
「ノア!」
ひよりが笑いながら近づくと、ノアは嬉しそうに鼻先を寄せてきた。
真樹はリードを持ったまま、ひよりの顔を見た。
「……寒そうだな」
「寒いよ。今日は風が冷たいもん」
「手袋は?」
「鞄の中。学校出たときは、そこまで寒くなかったんだけど」
「使えよ。手、赤くなってる」
ひよりは自分の指先を見てから、少しだけ笑った。
「北条君、よく見てるね」
「見れば分かるだろ」
真樹はそう答えたが、ひよりが鞄から手袋を取り出すまで歩き始めなかった。
ひよりはその様子を見て、昨日玲奈から聞いた話を思い出した。
小さいころの真樹は、ノアが寒くないか、ご飯をちゃんと食べたか、何かあるたびに心配していたらしい。
「……北条君って、昔から変わらないんだね」
「何が?」
「大切なもののこと、すごく心配するところ」
真樹の指が、リードの持ち手を握り直した。
ひよりは何気なく言ったのだろう。
けれど、真樹にはその言葉が妙に胸へ残った。
(……お前のことも、大切だから気になるんだよ)
そう言いかけて、口を閉じた。
今それを伝えたところで、ひよりを困らせるだけだ。
「……別に、普通だろ」
真樹が答えると、ひよりは楽しそうに笑った。
「それ、優しい『別に』だね」
「また分類増やしてるのかよ」
「昨日、玲奈さんとも話したもん」
「余計なことばっかり覚えるな」
ひよりが笑う。
真樹も少しだけ口元を緩めた。
けれど、その笑顔の奥では、明日のことがずっと頭から離れなかった。
◇ ◇ ◇
遊歩道を進みながら、ひよりは昨日の玲奈との会話を思い出していた。
「玲奈さん、また一緒に散歩したいって言ってくれたよ」
「そうか」
「うん。昨日の夜もメッセージした」
「何話したんだ?」
「内緒」
真樹がひよりを見る。
「……俺の話?」
「ちょっとだけ。でも変なことは聞いてないよ」
ひよりは笑った。
真樹は小さく息を吐いたが、それ以上追及しなかった。
玲奈とひよりが仲良くなったこと自体は嬉しい。
ただ、自分の知らないところで二人が何を話しているのか、少し気になってしまう。
「北条君」
「何」
「玲奈さんって、やっぱり北条君のことよく知ってるね」
「昔からの付き合いだからな」
「うん」
ひよりは少しだけ視線を落とした。
「……羨ましかった」
真樹はひよりを見る。
「また?」
「うん。でも、昨日ちょっと分かったこともある」
「何」
「玲奈さんが知ってる北条君と、私が知ってる北条君、少し違うんだなって」
真樹は黙った。
「玲奈さんは昔の北条君をいっぱい知ってる。私は今の北条君を知ってる」
ひよりは顔を上げた。
「それって、どっちも大切だよね」
真樹は少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
ひよりは笑った。
「だから、これからもっと知ればいいんだって思った」
「何を」
「北条君のこと」
真樹の胸が強く鳴った。
ひよりは当然のように続ける。
「まだ知らないこといっぱいあるし、これからも一緒に散歩するんでしょ?」
「……する」
「じゃあ、少しずつ知れるよね」
真樹はひよりを見つめた。
明日、ひよりは颯太へ告白する。
その結果によっては、今のように毎日会えるかどうかも分からない。
それでも、ひよりは当たり前のようにこれからも一緒に過ごすつもりでいる。
そのことが嬉しくて、同時に少し苦しかった。
(……お前は、そう思ってるんだよな)
ひよりにとって、自分との時間は颯太への恋とは別のものなのだろう。
好きな人と付き合うことになっても、友達との散歩は続けられる。
そう考えるのは自然なことだ。
けれど、真樹には簡単ではなかった。
颯太と付き合い始めたひよりが、今までと同じように自分へ笑いかけてきたら。
その笑顔を見て、自分は今までどおり笑えるのだろうか。
真樹は胸の奥に生まれた痛みを押し込め、静かに頷いた。
「……そうだな」
ひよりは安心したように笑った。
◇ ◇ ◇
公園の奥へ進むと、ノアがいつもよりゆっくり歩き始めた。
地面に残った落ち葉の匂いを確かめるように鼻先を下げ、ときどき立ち止まる。ひよりはその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「ノア、今日はのんびりだね」
「寒いからな」
「北条君も寒い?」
「まあな」
「じゃあ、今日は短めにする?」
真樹はひよりを見る。
「お前は?」
「私は……もう少し一緒にいたい」
答えてから、ひよりは少しだけ頬を赤くした。
真樹の動きが止まる。
「……そう」
「ノアとも、北条君とも」
ひよりは慌てて付け加えた。
真樹は少しだけ目を細めた。
「分かった。じゃあ、もう少し歩くか」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
二人は再び歩き始める。
真樹はひよりの横顔を見ながら、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
(……ずるいだろ)
ひよりは何も悪くない。
ただ、もう少し一緒にいたいと言っただけだ。
けれど、その言葉が真樹にはあまりにも嬉しかった。
明日、颯太へ告白する女の子が、自分ともう少し一緒にいたいと言ってくれる。
その事実だけで、期待してしまう。
(……俺だけを見てほしい)
そんな願いが浮かび、真樹は小さく息を吐いた。
ひよりは颯太が好きだ。
それを知っているのに、自分へ向けられる小さな好意を、どうしても特別なものとして受け取りたくなってしまう。
真樹は視線を落とした。
ノアが足元で落ち葉を踏み、乾いた音が響く。
その音に意識を向けながら、真樹は自分の気持ちを落ち着かせようとした。
◇ ◇ ◇
やがて、二人は公園のベンチへ腰掛けた。
ノアは足元で落ち着き、真樹が持ってきた水を飲んでいる。
ひよりは手袋を外し、冷たくなった指先を軽く擦った。
「……明日だね」
ひよりが静かに言った。
真樹は頷く。
「ああ」
「私、まだちょっと怖い」
「……そうだろうな」
「でも、逃げたくない」
ひよりは膝の上へ手を置いた。
その指先が、少しだけ震えている。
「去年からずっと好きだったから。ちゃんと伝えたい」
真樹は何も言わなかった。
ひよりは続ける。
「佐伯君がどう思ってるかは分からないけど、私が好きだったことだけは知ってほしい」
真樹の胸が痛んだ。
ひよりの声は真剣だった。
長い間、大切にしてきた気持ちなのだと分かる。
だからこそ、簡単に否定できない。
(……俺じゃ、駄目なんだよな)
そんな考えが浮かび、真樹は自分で苦笑しそうになった。
ひよりは何も比較していない。
颯太を好きになったのは、真樹と出会う前からだ。
それなのに、自分が選ばれなかったような気持ちになってしまう。
真樹はゆっくり息を吐き、ひよりへ視線を戻した。
「……そうか」
ひよりは少しだけ笑った。
「北条君、今日も応援できない?」
真樹はひよりを見る。
少しだけ迷ったあと、正直に頷いた。
「……できない」
「そっか」
「悪い」
「謝らなくていいよ」
ひよりは首を振った。
「北条君が嘘ついて応援してくれるより、ちゃんと本当のこと言ってくれるほうが嬉しい」
真樹は何も言わなかった。
ひよりは続ける。
「でも、明日待っててくれるんだよね」
「ああ」
「結果がどうなっても?」
「待ってる」
ひよりの表情が少しだけ和らいだ。
「……ありがとう」
真樹は視線を落とした。
ひよりの感謝が嬉しい。
けれど、同時に苦しい。
自分が待つのは、ただの優しさだけではない。
ひよりが好きだからだ。
傷ついてほしくない。
でも、別の男子と幸せになる姿を見たいわけでもない。
その矛盾を抱えたまま、真樹は静かに口を開いた。
「天野」
「何?」
「明日、無理に俺のところ来なくてもいいからな」
ひよりは目を丸くした。
「……え?」
「疲れてたら帰っていいし、誰かと話したいならそっち優先していい」
真樹はひよりを見る。
「約束したからって、無理する必要はない」
ひよりはしばらく黙った。
真樹が自分を気遣ってくれていることは分かる。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
「……北条君は?」
「何」
「私が来なかったら、どうするの?」
「連絡なければ待つ」
「……そっか」
「でも、来られないなら連絡くれればいい」
ひよりは少しだけ俯いた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「……私、行きたい」
真樹の胸が鳴った。
「北条君に会いたいから」
ひよりは少しだけ頬を赤くしながら続ける。
「結果がどうなっても、北条君に話したい。だから、待っててほしい」
真樹はひよりを見つめた。
その言葉が、胸の奥へ深く残る。
ひよりは颯太が好きだ。
それでも、自分に会いたいと言ってくれる。
その事実だけで、今は十分だと思いたかった。
(……十分なわけ、ないだろ)
心の奥で、別の自分が呟いた。
ひよりに会いたい。
話したい。
笑ってほしい。
そして、いつか自分を好きになってほしい。
その願いは、もう簡単には消せなかった。
真樹はゆっくり息を吐き、静かに頷いた。
「……分かった」
ひよりの顔を見つめる。
「待ってる」
ひよりは安心したように笑った。
その笑顔を見て、真樹は胸の痛みを隠すように、少しだけ口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ひよりはベンチから立ち上がった。
「そろそろ帰ろうかな」
「送る?」
真樹が尋ねる。
ひよりは少し驚いた。
「え?」
「暗くなるの早いし。途中までなら」
「……北条君、送ってくれるの?」
「嫌ならいいけど」
ひよりは慌てて首を振った。
「嫌じゃないよ!」
少し大きな声が出てしまい、ひよりは照れたように笑った。
「でも、ノアもいるし大変じゃない?」
「途中までなら問題ない」
「……じゃあ、お願いしようかな」
真樹は頷いた。
ノアも立ち上がり、二人の間へ入る。
公園を出ると、住宅街の道には夕方の明かりが灯り始めていた。
ひよりは真樹の隣を歩きながら、少しだけ不思議な気持ちになった。
今までも何度も一緒に歩いてきた。
けれど、公園から家の方向へ送ってもらうのは、いつもの散歩とは少し違う。
何が違うのか、うまく説明できない。
ただ、真樹が自分の歩く速度に合わせてくれることや、車が通るたびに自然に周囲を確認してくれることが、妙に気になった。
「北条君」
「何」
「今日、優しいね」
真樹は少しだけ眉を寄せた。
「今日だけ?」
「いつも優しいけど、今日は特に」
「……そう」
ひよりは笑った。
「照れてる?」
「違う」
「絶対照れてる」
真樹は小さく息を吐いた。
「お前、最近本当に遠慮ないな」
「だって北条君には普通でいいんでしょ?」
「……そうだな」
真樹は少しだけ笑った。
ひよりも笑う。
そのあと、しばらく二人は静かに歩いた。
沈黙は気まずくなかった。
ノアの足音と、遠くを走る車の音が聞こえる。
ひよりは少しだけ視線を落とした。
「……北条君」
「何」
「明日、もし私が泣いてたら」
真樹が顔を向ける。
「……うん」
「笑わないでね」
真樹は少しだけ目を細めた。
「笑わない」
「本当?」
「ああ」
ひよりは小さく頷いた。
「……ありがとう」
真樹は少し考えてから、静かに言った。
「泣いてても、普通に話せばいいだろ」
ひよりは顔を上げた。
「普通に?」
「そう。無理に元気出さなくていいし、何も話したくなければ黙っててもいい」
真樹は前を向いたまま続ける。
「俺も無理に聞かないから」
ひよりはしばらく黙った。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
真樹はいつも、ひよりが無理をしなくていい場所を作ってくれる。
それがどれほどありがたいことなのか、最近になって少しずつ分かってきた。
「……北条君」
「何」
「私、北条君と友達になれてよかった」
真樹の足が少しだけ遅くなった。
ひよりは続ける。
「ノアに会えて、北条君に会えて、本当によかった」
真樹はひよりを見る。
夕方の薄い光の中で、ひよりは少し照れたように笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、真樹の胸が強く鳴った。
(……好きだ)
もう何度も認めた気持ちだった。
けれど、ひよりがこんなふうに笑うたび、その気持ちはさらに深くなる。
友達になれてよかった。
ひよりにとっては、きっと心からの言葉なのだろう。
それが分かるから、真樹は嬉しかった。
けれど、同時に胸が痛んだ。
(……俺は、友達だけじゃ嫌なんだよ)
その本音を、今は口にできない。
真樹は少しだけ視線を逸らし、静かに答えた。
「……俺も」
ひよりが顔を上げる。
「お前と会えてよかった」
ひよりは目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん」
二人は再び歩き始めた。
◇ ◇ ◇
家まで少し距離を残した交差点で、ひよりは足を止めた。
「ここまでで大丈夫だよ」
「そう?」
「うん。ありがとう」
真樹は頷いた。
ノアがひよりの足元へ近づき、名残惜しそうに鼻先を寄せる。
「ノア、また明日ね」
ひよりはしゃがみ、大きな黒い頭を撫でた。
ノアは嬉しそうに尻尾を振る。
その様子を見て、真樹は少しだけ笑った。
「天野」
「何?」
「明日、無理すんなよ」
ひよりは顔を上げた。
真樹は少しだけ言葉を探してから続ける。
「ちゃんと伝えたいことがあるなら、それでいいと思う」
ひよりは目を丸くした。
「……応援?」
「違う」
真樹は苦笑した。
「でも、お前が後悔しないようにとは思ってる」
ひよりはしばらく黙った。
その言葉が、胸の奥へゆっくり染み込んでいく。
「……ありがとう」
ひよりは静かに笑った。
「北条君」
「何」
「明日、ちゃんと行くから」
真樹は頷いた。
「ああ」
「待っててね」
「待ってる」
ひよりは少しだけ安心したように笑い、手を振った。
「じゃあ、また明日」
「……また明日」
真樹はひよりが角を曲がるまで見送った。
そのあと、ノアと一緒にゆっくり歩き始める。
胸の奥は、相変わらず重かった。
けれど、ひよりが自分へ向けてくれた笑顔や、会いたいと言ってくれた言葉を思い出すと、少しだけ温かくもなる。
(……明日、佐伯があいつの気持ちを受け入れたら)
真樹は歩きながら、無意識にリードを握り直した。
その可能性を考えるだけで、胸が締めつけられる。
ひよりが嬉しそうに笑って公園へ来たら。
颯太と付き合うことになったと報告されたら。
自分は、何と言えばいいのだろう。
(……よかったな、なんて言えるかよ)
真樹は小さく息を吐いた。
ひよりの幸せを願っていないわけではない。
けれど、その幸せの隣に自分がいないことを、簡単に受け入れられるほど大人でもなかった。
ノアが足を止め、真樹を見上げる。
「……何だよ」
真樹は苦笑した。
ノアは静かに尻尾を揺らす。
「分かってるよ」
真樹はしゃがみ、大きな黒い頭を撫でた。
「天野の前では、ちゃんとする」
その言葉を口にしても、胸の痛みは消えなかった。
ただ、ひよりが明日どんな顔で来ても、約束を破りたくないという気持ちだけは変わらなかった。
◇ ◇ ◇
帰宅したひよりは、夕食のあと、美月に呼ばれて姉の部屋へ向かった。
美月の部屋には柔らかな照明が灯り、机の上には大学の講義資料が広げられている。ひよりがベッドの端へ腰掛けると、美月は椅子を回して向き直った。
「ひより、ちょっと謝りたいことがあるの」
いつもより真面目な声だった。
ひよりは首を傾げる。
「何?」
「……お兄ちゃんに、佐伯君へ告白しようとしてること、話しちゃった」
ひよりは目を丸くした。
「……え?」
美月はゆっくり頷いた。
「前に、言わないって約束したのに。ごめん」
ひよりはしばらく黙った。
驚きが先に来て、すぐには言葉が出なかった。
「……いつ?」
「土曜日。お兄ちゃんが北条君のことを気にしてて、変に口を出さないでって言おうとしたら、つい」
美月は視線を落とした。
「言い訳だよね。約束したのに、本当にごめん」
ひよりは膝の上で手を握った。
兄が自分の告白を知っている。
それ自体も驚きだったが、それ以上に、美月が秘密を話してしまったことが少し悲しかった。
「……お姉ちゃん、言わないって言ったのに」
「うん」
「私、自分で話すかどうか決めたかった」
「そうだよね」
美月は否定しなかった。
ひよりの言葉を、ただ静かに受け止めた。
「本当にごめん。お兄ちゃんには、ひよりを問い詰めたり、勝手に何かしたりしないように言ってある」
「……そっか」
ひよりは少しだけ俯いた。
怒っていないわけではない。
けれど、美月がきちんと謝ってくれたことも分かっていた。
しばらくして、ひよりは顔を上げた。
「お兄ちゃん、何か言ってた?」
「驚いてた。でも、ひよりが決めることだって分かってると思う」
「……本当かな」
「少なくとも、勝手に佐伯君へ何か言うようなことはしないって約束させた」
ひよりは小さく息を吐いた。
「なら、いいけど」
美月は少しだけ安心したように笑った。
けれど、ひよりは続ける。
「でも、次はちゃんと守ってね」
その声は静かだった。
美月は真剣に頷いた。
「うん。約束する」
ひよりは少しだけ笑った。
「……じゃあ、今回は許す」
「ありがとう」
美月は妹の手を軽く握った。
ひよりもその手を握り返す。
家族だからこそ、秘密にしておきたいこともある。
大切だからこそ、勝手に話してほしくないこともある。
美月はそのことを、改めて胸に刻んだ。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ったひよりは、机の引き出しから水色のノートを取り出した。
朝に書いた言葉を、もう一度読み返す。
颯太へ伝えたいこと。
去年の文化祭で感じた気持ち。
少しずつ好きになっていった時間。
そして、明日。
ひよりはノートを閉じ、机の上へ置いた。
スマートフォンが震える。
千夏からだった。
『明日、無理しすぎないでね』
『終わったら連絡待ってるよ』
ひよりは微笑んだ。
『ありがとう』
『ちゃんと伝えてくる』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『うん。ひよりらしくね』
ひよりは少しだけ目を閉じた。
千夏はいつも、自分のことを信じてくれる。
だから、ちゃんと向き合いたい。
そのあと、真樹とのメッセージを開いた。
『北条君』
『何』
『明日、やっぱり緊張する』
返事は少ししてから届いた。
『だろうな』
『どうしよう』
『深呼吸でもしろ』
ひよりは思わず笑った。
『北条君、現実的』
『他に何て言えばいいんだよ』
『大丈夫って言ってほしいかも』
送信してから、ひよりは少しだけ後悔した。
真樹は応援できないと言っていた。
大丈夫という言葉を求めるのは、困らせてしまうかもしれない。
けれど、返事はすぐに届いた。
『何が大丈夫かは分からないけど』
少し間を置いて、もう一通。
『お前がちゃんと話そうとしてるのは分かってる』
ひよりは画面を見つめた。
『だから、言いたいこと言ってこい』
胸の奥が温かくなる。
応援とは少し違う。
それでも、真樹らしい言葉だった。
『ありがとう』
『明日、会いに行くね』
少し間が空いた。
『待ってる』
ひよりはその言葉を見つめた。
明日、颯太へ気持ちを伝える。
そして、そのあと真樹に会う。
結果がどうなっても。
ひよりはスマートフォンを胸元へ置き、ゆっくり息を吐いた。
(……ちゃんと伝えよう)
長い間、胸にしまってきた気持ち。
明日こそ、自分の言葉で伝える。
そう決めたひよりは、ノートを引き出しへ戻し、部屋の明かりを消した。
◇ ◇ ◇
同じ夜、真樹はノアの寝顔を見ながら、ベッドへ腰掛けていた。
ひよりとのメッセージを読み返す。
『明日、会いに行くね』
その一文が、胸の奥へ深く残っていた。
ひよりは颯太へ告白する。
そのあと、自分に会いに来る。
それがどんな結果を意味するのか、まだ分からない。
真樹はスマートフォンを置き、静かに息を吐いた。
(……明日か)
怖い。
ひよりが颯太と付き合うことになったら、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
振られて泣いていたら、どんな言葉を掛ければいいのだろう。
考えても答えは出なかった。
ただ、一つだけ決めている。
逃げない。
ひよりが来るなら、ちゃんと迎える。
自分の気持ちを隠したままでも、今はそれでいい。
真樹はノアの頭をそっと撫でた。
「……明日、天野が来るぞ」
ノアが薄く目を開け、尻尾を一度揺らした。
「どんな顔してても、ちゃんと迎えてやろうな」
真樹は小さく笑った。
ノアは安心したように再び目を閉じる。
その姿を見ながら、真樹はゆっくり立ち上がった。
明日。
ひよりの長い片想いが、一つの答えを迎える。
そして、自分たちの関係にも、何かが起こるかもしれない。
真樹はまだ、その先を知らない。
けれど、ひよりと出会ったあの日から続いてきた時間を、簡単に手放したくはなかった。
窓の外では、冬の夜が静かに深まっていた。
金曜日まで、あと一晩。
その夜、二人はそれぞれ違う想いを胸に抱きながら、同じ明日を待っていた。




