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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第36話 幼馴染だけが知っている君


 水曜日の朝、天野ひよりは制服のリボンを結びながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめていた。


 いつもと同じ制服に、いつもと同じ髪型。少しだけ寝癖が残っていた毛先を指で整え、最後に前髪の位置を確認する。特別なおしゃれをしているわけではないのに、今日はいつもより身だしなみが気になっていた。


(玲奈さん、今日来るんだよね)


 北条真樹の幼馴染、一ノ瀬玲奈。


 以前から話には聞いていたし、直接顔を合わせたこともある。柔らかい雰囲気で、話し方も丁寧で、ひよりに対して嫌な態度を取ったことは一度もなかった。


 だから、今日の散歩は楽しみだった。


 真樹の昔の話を聞けるかもしれないし、玲奈とも仲良くなれるかもしれない。何より、いつものノアの散歩に新しい人が加わるというだけで、少しわくわくする。


 ただ、それだけではなかった。


(……何でちょっと緊張するんだろ)


 玲奈は真樹の幼いころを知っている。


 ひよりが知らない真樹の表情も、性格も、昔の出来事も、きっとたくさん覚えている。


 そのことが、どうしても気になった。


 もちろん、昔からの友達なのだから当然だ。ひよりにだって千夏との思い出があるし、二人にしか分からない話もたくさんある。


 それなのに、玲奈と真樹が楽しそうに昔話をするところを想像すると、胸の奥がほんの少し落ち着かなくなる。


(別に、嫌なわけじゃないんだけど……)


 ひよりは鏡の前で小さく首を傾げた。


 真樹と出会ってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それでも、毎日のように顔を合わせ、メッセージを交わし、少しずつお互いのことを知ってきた。


 自分が知らない真樹の姿がある。


 そんな当たり前のことを、どうして今さら意識してしまうのだろう。


「ひよりー! 朝ご飯できてるよー!」


 階下から由美の声が聞こえた。


「はーい!」


 ひよりは返事をすると、鏡から離れて鞄を手に取った。


 金曜日には颯太への告白が待っている。


 その前に、今日は玲奈と会う。


 予定が一つ増えただけなのに、今週はいつもよりずっと長く感じられた。


     ◇ ◇ ◇


「今日は北条君の幼馴染が来るんだっけ?」


 朝食の席で美月に尋ねられ、ひよりは味噌汁を飲みながら頷いた。


「うん。玲奈さんっていう人」


「前に話してた子?」


「そう。北条君と昔から仲がいいんだって」


 美月はひよりの顔を見て、少しだけ笑った。


「楽しみ?」


「楽しみだよ。玲奈さんとももっと話したいし」


「そっか」


 美月はそれ以上何も言わず、トーストへジャムを塗り始めた。


 しかし、隣で聞いていた悠一は違った。


「……男の幼馴染?」


「女の子だよ」


「北条の?」


「そうだけど」


「昔から仲がいい?」


「うん」


 悠一は少し考え込んだ。


「それって、ひよりは大丈夫なのか?」


 ひよりは箸を止める。


「何が?」


「いや、その……北条に仲のいい女の子がいるんだろ?」


「いるけど」


「気にならないのか?」


 ひよりは目を丸くした。


「何で?」


「何でって……」


 悠一が言葉に詰まる。


 美月は横から兄の顔を見て、楽しそうに笑った。


「お兄ちゃん、何を聞きたいの?」


「いや、別に変な意味じゃないぞ。ただ、ひよりが北条と毎日会ってるから、そういうの気になるのかと思って」


「北条君は友達だよ?」


 ひよりが当然のように答える。


 悠一は一瞬安心した顔をした。


 しかし、美月は妹の表情を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。


「じゃあ、玲奈さんが北条君とすごく仲良くしてても、何とも思わない?」


「……え?」


 ひよりの返事が遅れた。


 その小さな間を、美月は見逃さなかった。


「何とも思わない、よね?」


「……別に、嫌じゃないよ」


「嫌じゃないんだ」


「うん」


「でも、気になる?」


 ひよりは少しだけ視線を逸らした。


「……ちょっとだけ」


 悠一の顔が変わる。


「ひより?」


「違うよ! 変な意味じゃなくて!」


 ひよりは慌てて手を振った。


「玲奈さんって北条君の昔のこといっぱい知ってるでしょ? だから羨ましいなって思うだけ!」


 美月は笑いを堪えながら頷いた。


「なるほどね」


「本当だよ?」


「うん、分かってる」


 その返事が妙に優しくて、ひよりはかえって落ち着かなくなった。


 由美は三人のやり取りを聞きながら、静かにお茶を飲んでいる。


「ひより」


「何、お母さん?」


「仲良くなりたいなら、素直に話してみたらいいんじゃない?」


「うん。そのつもり」


「昔からの友達だからって、今の北条君を全部知っているわけでもないでしょうし」


 ひよりは顔を上げた。


 昨日、真樹が言っていたことと似ている。


『昔から知ってることと、今何でも知ってることは別だろ』


 その言葉を思い出すと、少しだけ胸が温かくなった。


「……そうだよね」


 ひよりは小さく頷いた。


 美月はそんな妹を見て、何も言わずに微笑んだ。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校の教室では、千夏がひよりの顔を見るなり声を掛けてきた。


「おはよう。今日だね」


「おはよう。うん、今日」


「玲奈さん?」


「そう」


 ひよりは鞄を机へ置きながら、少しだけ笑った。


「楽しみなんだけど、ちょっと緊張する」


「何で?」


「昨日も言ったけど、北条君の昔のこといっぱい知ってるから」


「なるほど」


 千夏はひよりの隣へ立ち、少し考えるように首を傾げた。


「でもさ、ひよりだって北条君の今のこと、結構知ってるんじゃない?」


「そうかな?」


「毎日会ってるんでしょ?」


「うん」


「学校終わったら公園にいるとか、ノアのこととか、最近何考えてるかとか」


「最後のは分かんないよ」


 ひよりは苦笑した。


「北条君、最近秘密増えたし」


「秘密?」


「うん。答えが出たとか、全部つながってるとか言うんだけど、何のことか教えてくれないの」


 千夏の動きが一瞬止まった。


「……へえ」


「何、その顔」


「いや、北条君も大変だなって」


「何で?」


「ひよりに毎日質問されてるんだろうなって」


「だって気になるんだもん」


 ひよりは少しだけ頬を膨らませた。


 千夏は笑ったが、その胸の内では別のことを考えていた。


(北条君、もうほとんど隠せてないじゃん)


 ひよりが颯太へ告白する日まで、あと二日。


 真樹はそのことを知っている。


 しかも、ひよりが告白を終えたあとに待つと約束している。


 千夏には、その約束がどれほど苦しいものなのか想像できた。


 それでも真樹は、ひよりとの関係を壊さないようにしているのだろう。


「千夏?」


「ん?」


「どうしたの?」


「ううん。今日は玲奈さんと仲良くなれるといいね」


「うん!」


 ひよりは明るく笑った。


 千夏はその笑顔を見ながら、少しだけ複雑な気持ちになった。


 ひよりは颯太が好きだ。


 それは今も変わらない。


 けれど、真樹の存在も確実に大きくなっている。


 その二つが、ひよりの中でまだ別々のものとして扱われていることを、千夏は感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 一方、桜陵学園では、玲奈がいつもより少し早く教室へ到着していた。


 窓際の席へ鞄を置き、スマートフォンを取り出す。


 真樹からは昨夜、短い確認のメッセージが届いていた。


『明日、いつもの公園で』


『分かった。楽しみにしてるね』


 そう返したあと、玲奈はしばらく画面を見つめていた。


 ノアに会える。


 真樹と話せる。


 そして、ひよりとも会う。


 楽しみなのは本当だった。


 ただ、胸の奥には小さな不安もある。


(……天野さんって、どんな子なんだろう)


 以前に顔を合わせたとき、ひよりは明るくて素直な女の子だと思った。


 ノアへ向ける笑顔も自然で、真樹に対しても遠慮なく話しかけていた。


 その様子が少し羨ましかった。


 玲奈は真樹と長い付き合いがある。


 幼いころから互いの家を行き来し、学校が変わっても関係は続いてきた。


 真樹が人前であまり笑わないことも、初対面の相手へ簡単に心を開かないことも知っている。


 だからこそ、ひよりの存在が気になっていた。


 最近の真樹は、放課後になると当然のようにノアの散歩へ向かう。


 その場所には、ひよりがいる。


 真樹自身がそれを楽しみにしていることも、玲奈には何となく伝わっていた。


(私が知らない間に、二人だけの時間が増えてるんだよね)


 それが悪いことだとは思わない。


 真樹に新しい友達ができるのは嬉しい。


 けれど、少し寂しい。


 その感情を、玲奈はまだ上手に整理できずにいた。


「おはよう、玲奈」


 声を掛けられ、顔を上げる。


 同じクラスの女子生徒が笑いながら近づいてきた。


「今日、何か予定あるの?」


「どうして?」


「朝からちょっと嬉しそうだから」


 玲奈は少し驚き、それから微笑んだ。


「放課後、友達と会うの」


「へえ、楽しそう」


「うん。久しぶりにノアにも会えるし」


「ノア?」


「犬の名前。大きな黒い犬なんだけど、すごく可愛いの」


 玲奈は自然に笑った。


 その笑顔は本物だった。


 ただ、心のどこかでは、今日の散歩が自分にとってどんな時間になるのかを気にしていた。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み、真樹は蓮と一緒に校舎の廊下を歩いていた。


「今日、玲奈も来るんだっけ?」


「ああ」


「天野さんも?」


「来る」


 蓮は少しだけ笑った。


「何か、面白そうだね」


「何が」


「幼馴染と最近仲良くなった女の子が一緒に散歩するんでしょ?」


「別に普通だろ」


「真樹にとっては普通じゃないんじゃない?」


 真樹は眉を寄せた。


「どういう意味だよ」


「いや、玲奈って昔から真樹のことよく知ってるじゃん」


「そうだな」


「天野さんは今の真樹をよく知ってる」


「……まあ」


「二人が話したら、真樹の知られたくないことまで共有されそう」


 真樹は露骨に嫌そうな顔をした。


「それは困る」


「でしょ?」


「一ノ瀬、余計なこと言いそうだし」


「天野さんも聞きそう」


「絶対聞く」


 蓮は声を出して笑った。


「大変だね」


「笑い事じゃない」


「でも楽しみなんでしょ?」


 真樹は少し黙った。


 玲奈とひよりが仲良くなること自体は悪くない。


 むしろ、ひよりが楽しみにしているのは嬉しい。


 ただ、玲奈が自分の昔話をどこまで話すのかは少し不安だった。


「……まあ、楽しみではある」


 真樹が答えると、蓮は目を丸くした。


「最近、本当に素直だね」


「お前まで言うな」


「天野さんにも言われてる?」


「毎日」


「だろうね」


 蓮は笑いながら真樹の肩を軽く叩いた。


「でもさ、真樹」


「何」


「玲奈のことも、ちゃんと見てあげなよ」


 真樹は少しだけ表情を変えた。


「どういう意味だ」


「幼馴染だからって、何でも分かってると思わないほうがいいってこと」


 蓮はそれ以上説明しなかった。


 真樹は少し考えたが、玲奈が何を感じているのかまでは分からなかった。


 ただ、今日の散歩が玲奈にとっても楽しみな時間になればいいとは思った。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 ひよりは終礼が終わると、いつもより少し早く教室を出た。


「ひより、今日は急いでるね」


 千夏が笑う。


「だって玲奈さん来るし」


「うんうん」


「何?」


「楽しんできてね」


「もちろん!」


 ひよりは笑いながら手を振った。


 校門を出てから、真樹へメッセージを送る。


『今から行くよ』


 返事はすぐだった。


『いる』


 ひよりは思わず笑った。


『玲奈さんも?』


『もう来てる』


『早い!』


『お前も急ぐなよ』


『走らないよ』


『ならいい』


 ひよりはスマートフォンをしまい、歩く速度を少し上げた。


 公園が近づくにつれ、胸の奥が落ち着かなくなる。


 緊張している。


 けれど、嫌な緊張ではない。


 新しい友達と会う前のような、少し期待の混じった感覚だった。


 公園の入口が見えてくる。


 いつもの場所に、真樹とノアがいた。


 そして、その隣には玲奈の姿もある。


 二人は何かを話していた。


 真樹が少しだけ笑う。


 玲奈も笑っている。


 その光景を見た瞬間、ひよりの足がほんの少し遅くなった。


(……あ)


 何だろう。


 胸の奥が、少しだけざわついた。


 真樹が笑っている。


 それは嬉しいことのはずだった。


 最近は自分の前でも笑うようになったし、玲奈と昔から仲がいいことも知っている。


 それなのに、二人が自然に笑い合っている姿を見て、なぜか自分だけ少し離れたところにいるような気がした。


(……変なの)


 ひよりは小さく息を吐いた。


 そのとき、ノアがこちらへ気づいた。


 大きな尻尾が勢いよく揺れる。


「ワフッ!」


 ノアの声に、真樹と玲奈も振り返った。


「あ、天野さん!」


 玲奈が笑顔で手を振る。


 ひよりは慌てて笑顔を作り、二人のもとへ歩いていった。


「こんにちは!」


「こんにちは。今日はよろしくね」


「こちらこそ!」


 玲奈は柔らかく微笑んだ。


 真樹はひよりの顔を見て、少しだけ首を傾げる。


「……何かあった?」


「え?」


「いつもより静かだったから」


 ひよりは驚いた。


「そんなことないよ」


「そう?」


「うん!」


 ひよりは笑った。


 けれど、真樹は少しだけその表情を見つめた。


 いつものひよりなら、公園の入口から声を掛けてくることが多い。


 今日は近くまで来るまで気づかなかった。


 何か考えていたのかもしれない。


 ただ、玲奈もいるため、その場では深く聞かなかった。


「ノア、久しぶり!」


 ひよりがしゃがむと、ノアは嬉しそうに顔を寄せてきた。


 その様子を見て、玲奈が笑う。


「本当に天野さんのこと大好きなんだね」


「私もノア大好きです!」


「ふふ、相思相愛だ」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


 真樹は二人を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇ ◇ ◇


 三人と一匹は、いつもの遊歩道を歩き始めた。


 ノアのリードは真樹が持ち、ひよりと玲奈はその左右を歩く。道幅が狭くなるところでは自然に縦へ並び、広い場所へ出るとまた会話しやすい距離へ戻った。


「玲奈さんって、ノアが小さいころから知ってるんですよね?」


 ひよりが尋ねる。


「うん。真樹がノアを迎えたころから知ってるよ」


「いいなあ」


「天野さんは、ノアと初めて会ったときどうだった?」


「びっくりしました」


 ひよりは笑った。


「最初、黒い犬が急に近づいてきたから」


「怖くなかった?」


「最初はちょっと。でも、すごく優しい子だったから」


 ノアがひよりを見上げる。


「ね、ノア」


 ひよりが笑いかけると、ノアは嬉しそうに尻尾を振った。


 玲奈はその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「真樹、ノアがこんなに懐く相手って珍しいよね」


「……そうだな」


「私も小さいころから知ってるけど、最初はもう少し時間かかったもん」


「そうなんですか?」


 ひよりが驚く。


「うん。ノア、優しいけど、最初から誰にでも甘えるわけじゃないから」


「へえ……」


 ひよりはノアを見つめた。


 初めて会ったあの日。


 黒い犬が自分の前へ現れたこと。


 その出会いが、今の毎日につながっている。


(……ノアがいなかったら、北条君とも会ってなかったんだよね)


 そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。


「ノア、ありがとう」


 ひよりが小さく呟く。


 真樹が聞き返した。


「何が?」


「何でもない」


 ひよりは笑った。


 真樹は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。


     ◇ ◇ ◇


「そういえば、天野さん」


 玲奈が楽しそうに声を掛ける。


「真樹の小さいころの話、聞きたいって言ってたんだよね?」


 ひよりの顔がぱっと明るくなった。


「聞きたいです!」


「おい」


 真樹がすぐに反応する。


 玲奈は笑った。


「何?」


「余計なこと言うなよ」


「まだ何も言ってないよ」


「言う気だろ」


「少しくらいいいじゃない」


 ひよりは二人のやり取りを見ながら、楽しそうに笑った。


「北条君、昔からこんな感じだったんですか?」


「ううん。小さいころはもう少し素直だったよ」


「えっ!」


「一ノ瀬」


「本当のことでしょ?」


 玲奈はくすくす笑う。


「真樹、小さいころはね、好きなものがあると結構分かりやすかったの」


「そうなんですか?」


「うん。気に入った本とか、お菓子とか、隠そうとしても顔に出てた」


 ひよりは真樹を見る。


「今と同じじゃん」


「どこが」


「好きなもの隠そうとしても顔に出るところ」


 真樹は少しだけ顔を逸らした。


「……うるさい」


 玲奈が笑う。


「本当に変わってないね」


 ひよりも笑った。


 ただ、二人が同じように真樹をからかっていることに気づき、少しだけ不思議な気持ちになった。


 玲奈は昔の真樹を知っている。


 自分は今の真樹を知っている。


 けれど、二人が見ている真樹には共通する部分もある。


 そのことが、少し嬉しかった。


「ほかにもあります?」


 ひよりが尋ねる。


「あるよ。真樹、昔はね――」


「一ノ瀬」


 真樹が低い声で呼ぶ。


 玲奈は笑いながら首を振った。


「大丈夫。恥ずかしい話じゃないから」


「信用できない」


「じゃあ、ノアを迎えたころの話にする?」


 真樹は少し考えた。


「……それなら」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


 玲奈は懐かしそうに目を細める。


「ノアがまだ小さかったころ、真樹ってすごく心配性だったんだよ」


「心配性?」


「うん。ご飯ちゃんと食べたかなとか、寒くないかなとか、寝てる間に何かあったらどうしようとか」


 ひよりは真樹を見る。


「今もじゃん」


「……そうか?」


「そうだよ。ノアのことすごく大切にしてるもん」


 玲奈も頷いた。


「そうだね。そこはずっと変わらない」


 真樹は少しだけ照れたように視線を逸らした。


「普通だろ。家族なんだから」


 その言葉に、ひよりの胸が温かくなる。


 ノアを家族だと言う真樹。


 その優しさは、初めて会ったころから変わっていない。


「北条君、やっぱり優しいね」


 ひよりが言う。


 真樹は少しだけ眉を寄せた。


「またそれか」


「だって本当だもん」


 玲奈は二人のやり取りを見て、静かに笑った。


 ただ、その笑顔の奥には、少しだけ複雑な感情があった。


(……天野さん、真樹のことよく見てるんだ)


 昔の話を聞いているだけではない。


 ひよりは玲奈が話す内容を、今の真樹の姿と自然につなげている。


 それは、普段から真樹を見ていなければできないことだった。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく歩いたあと、三人は公園のベンチが並ぶ広場へ到着した。


 ノアが水を飲むために足を止め、真樹は持参した水入れを取り出す。


 ひよりと玲奈は近くのベンチへ腰掛けた。


「天野さん」


 玲奈が静かに声を掛ける。


「はい?」


「真樹と毎日会ってるんだよね?」


「はい。学校終わってから、ほとんど毎日」


「そっか」


 玲奈は少しだけ笑った。


「楽しい?」


 ひよりは迷わず頷いた。


「楽しいです!」


 その返事があまりにも自然で、玲奈は少し驚いた。


「……そうなんだ」


「はい。北条君、最初はちょっと怖い人かと思ったんですけど」


 玲奈が小さく笑う。


「分かるかも」


「でも、話してみたら全然違って」


 ひよりは真樹のほうを見る。


 ノアへ水を飲ませながら、何か小さく声を掛けている。


 その横顔を見て、ひよりは自然に笑った。


「優しいし、ちゃんと話聞いてくれるし、最近はよく笑うようになったし」


 玲奈はひよりの横顔を見つめた。


「……最近、よく笑う?」


「はい」


「真樹が?」


「そうです」


 ひよりは少しだけ首を傾げた。


「前はあんまり笑わなかったんですけど、最近は普通に笑ってくれるんですよ」


 玲奈の胸が小さく痛んだ。


 真樹が笑うようになった。


 それは嬉しいことのはずだった。


 けれど、自分が知らない変化を、ひよりが当たり前のように話している。


 そのことが、少し寂しかった。


「……そっか」


 玲奈は静かに笑った。


「よかったね」


「はい!」


 ひよりは明るく頷いた。


 その笑顔に、悪意は少しもない。


 だからこそ、玲奈は自分の胸に生まれた感情を持て余した。


(……私、何を期待してたんだろう)


 ひよりと仲良くなりたい。


 それは本当だ。


 けれど、真樹のことを自分のほうがよく知っていると、どこかで思いたかったのかもしれない。


 そんな自分が少し嫌になった。


「玲奈さん?」


 ひよりが顔を覗き込む。


「大丈夫ですか?」


 玲奈は驚いた。


「え?」


「ちょっと元気ないように見えたから」


 その言葉に、玲奈は一瞬返事を失った。


 ひよりは心配そうにこちらを見ている。


 真樹のことを知っているかどうかを競おうとしているわけではない。


 ただ、自分の表情を見て心配してくれている。


「……大丈夫」


 玲奈はゆっくり笑った。


「ありがとう、天野さん」


「いえ」


 ひよりは少し安心したように笑った。


 玲奈はその笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。


(……いい子なんだよね)


 だからこそ、余計に複雑だった。


     ◇ ◇ ◇


 ノアが水を飲み終えると、真樹が二人のところへ戻ってきた。


「何話してた?」


 ひよりが笑う。


「北条君の悪口」


「おい」


「冗談だよ」


 玲奈も笑った。


「真樹が最近よく笑うって話」


 真樹の表情が少し変わる。


「……そう?」


「うん」


 ひよりは頷いた。


「前よりずっと笑うよ」


「お前が変なこと言うからだろ」


「変なこと言ってない!」


「言ってる」


「どこが!」


 真樹が少し笑う。


 その瞬間、玲奈は二人を見つめた。


 ひよりが何かを言う。


 真樹が少し呆れた顔をする。


 けれど、その口元は緩んでいる。


 昔から知っている真樹なのに、少し違って見えた。


 誰かと話すことを、こんなに自然に楽しんでいる。


 その相手がひよりなのだと、玲奈は改めて実感した。


「……本当だね」


 玲奈が小さく呟く。


 真樹が顔を向ける。


「何が?」


「真樹、よく笑うようになった」


「……そうか?」


「うん」


 玲奈は微笑んだ。


「いいことだと思う」


 真樹は少しだけ照れたように視線を逸らした。


「別に、普通だろ」


 ひよりがすぐに笑う。


「それ、照れてる『別に』だ!」


「またそれか」


「玲奈さん、北条君って『別に』の種類いっぱいあるんですよ!」


 玲奈は目を丸くした。


「種類?」


「はい! 照れてる『別に』と、本当にどうでもいい『別に』と、優しい『別に』と」


「天野」


「あと、ちょっと拗ねてる『別に』もあります!」


 玲奈は声を出して笑った。


「そんなにあるんだ」


「あります!」


「ない」


 真樹が否定する。


 ひよりは笑いながら首を振った。


「あるよね、玲奈さん?」


 玲奈は少し考えた。


 そして、柔らかく笑う。


「……あるかもしれないね」


「ほら!」


 ひよりが嬉しそうに真樹を見る。


 真樹は諦めたように息を吐いた。


「二人で組むなよ」


 その言葉に、ひよりと玲奈は顔を見合わせて笑った。


 玲奈はその瞬間、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 ひよりと自分は、真樹を取り合うためだけにここにいるわけではない。


 同じことで笑うこともできる。


 それが分かって、少し安心した。


     ◇ ◇ ◇


 散歩を再開すると、玲奈はひよりへ学校のことを尋ねた。


「青葉高校って、どんな感じ?」


「普通の県立高校ですよ。行事は結構盛り上がります」


「文化祭とか?」


「はい。去年も楽しかったです」


 ひよりはそう答えたあと、少しだけ頬を緩めた。


 去年の文化祭。


 颯太を好きになったきっかけ。


 そのことを思い出すと、胸が温かくなる。


 真樹はその表情を見て、何となく理由を察した。


 けれど、玲奈は知らない。


「何か思い出あるの?」


 玲奈が尋ねる。


 ひよりは少し迷った。


 颯太のことを話すべきだろうか。


 玲奈とはまだそこまで親しいわけではない。


 それに、真樹が隣にいる。


 真樹は颯太の話を聞くと嫌そうになる。


 ひよりは少し考えてから答えた。


「……大切な思い出があるんです」


 玲奈は微笑んだ。


「そっか。いいね」


「はい」


 ひよりはそれ以上詳しく話さなかった。


 真樹は横で黙って歩いている。


 その沈黙に気づいたひよりは、少しだけ真樹を見た。


 真樹は視線を合わせると、小さく頷いた。


 無理に話さなくていい。


 そう言われたような気がして、ひよりは少し安心した。


     ◇ ◇ ◇


 やがて、三人は公園の出口に近い広場へ戻ってきた。


 玲奈が時計を確認する。


「そろそろ帰らなきゃ」


「もう?」


 ひよりが少し残念そうに言う。


 玲奈は笑った。


「うん。今日は家で用事があるから」


「そっか……」


「でも、楽しかったよ」


 玲奈はひよりを見る。


「天野さんといっぱい話せたし」


 ひよりの顔が明るくなった。


「私も楽しかったです!」


「よかった」


 玲奈は少しだけ迷ったあと、スマートフォンを取り出した。


「ねえ、天野さん」


「はい?」


「よかったら、連絡先交換しない?」


 ひよりは目を丸くした。


「……いいんですか?」


「もちろん」


「嬉しいです!」


 ひよりはすぐにスマートフォンを取り出した。


 二人は連絡先を交換する。


 玲奈が画面を確認し、微笑んだ。


「これで直接連絡できるね」


「はい!」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


「また一緒に散歩しましょう!」


「うん。ぜひ」


 玲奈は頷いた。


 そのやり取りを、真樹は少し離れたところから見ていた。


 以前、玲奈がひよりの連絡先を知らないと聞いたとき、なぜか少し安心したことがある。


 今は二人が直接連絡できるようになった。


 その事実に、少しだけ複雑な気持ちが生まれる。


(……何で俺が気にしてるんだよ)


 真樹は自分で小さく息を吐いた。


 ひよりと玲奈が仲良くなるのはいいことだ。


 それなのに、二人が自分の知らないところで何を話すのか、少し気になってしまう。


 玲奈が真樹を見る。


「真樹」


「何」


「今日はありがとう」


「別に」


「ノアにも会えたし、楽しかった」


「ならよかった」


 玲奈は少しだけ笑った。


「また誘ってね」


「ああ」


 真樹は頷いた。


 玲奈はひよりへ手を振る。


「天野さん、またね」


「はい! また!」


 玲奈が公園を出ていく。


 ひよりはその後ろ姿を見送りながら、嬉しそうにスマートフォンを確認した。


「玲奈さんと連絡先交換しちゃった」


「よかったな」


「うん!」


 真樹はひよりを見る。


「仲良くなれた?」


「なれたと思う!」


「そっか」


 ひよりは笑った。


 けれど、そのあと少しだけ表情を変えた。


「……北条君」


「何」


「玲奈さんって、やっぱり北条君のことよく知ってるね」


「昔からの付き合いだからな」


「うん」


 ひよりは少しだけ視線を落とした。


「……羨ましかった」


 真樹はひよりを見る。


「また?」


「うん」


 ひよりは小さく笑った。


「でも、今日ちょっと分かったこともある」


「何」


「玲奈さんが知ってる北条君と、私が知ってる北条君、少し違うんだなって」


 真樹は黙った。


「玲奈さんは昔の北条君をいっぱい知ってる」


「……ああ」


「私は今の北条君を知ってる」


 ひよりは顔を上げた。


「それって、どっちも大切だよね」


 真樹は少しだけ目を細めた。


「……そうだな」


 ひよりは笑った。


「だから、これからもっと知ればいいんだって思った」


「何を」


「北条君のこと」


 真樹の胸が強く鳴った。


 ひよりは当然のように続ける。


「まだ知らないこといっぱいあるし、これからも一緒に散歩するんでしょ?」


「……する」


「じゃあ、少しずつ知れるよね」


 真樹はひよりを見つめた。


 金曜日。


 ひよりは颯太へ告白する。


 その結果によっては、今のように毎日会えるかどうかも分からない。


 それでも、ひよりは当たり前のようにこれからも一緒に過ごすつもりでいる。


 そのことが嬉しくて、同時に少し苦しかった。


「……そうだな」


 真樹は静かに答えた。


 ひよりは安心したように笑った。


     ◇ ◇ ◇


 公園の出口へ向かう途中、ひよりは少しだけ歩く速度を落とした。


「北条君」


「何」


「今日、玲奈さんと話してて思ったんだけど」


「うん」


「私、北条君のこともっと知りたいって思ってるんだなって」


 真樹はひよりを見る。


「さっきも言ってたろ」


「うん。でも、何でこんなに知りたいんだろって」


 真樹の足が少しだけ遅くなった。


 ひよりは続ける。


「友達だからかな」


 真樹は答えなかった。


 ひよりが顔を上げる。


「北条君?」


「……友達だからってだけじゃないこともあるんじゃない」


 ひよりの胸が跳ねた。


「……どういう意味?」


 真樹は少しだけ視線を逸らした。


「知らない」


「また!」


「お前が自分で考えろ」


「ずるい!」


 ひよりは少しだけ頬を膨らませた。


 真樹はその表情を見て、小さく笑った。


「……急がなくていいだろ」


 ひよりは目を丸くした。


「何を?」


「答え」


 真樹は静かに言った。


「分かんないなら、今は分かんないままでいい」


 ひよりはしばらく黙った。


 金曜日には颯太へ告白する。


 その気持ちは変わらない。


 けれど、真樹に対して抱いている感情の中にも、まだ自分が理解できていないものがある。


 それを今すぐ決めつける必要はない。


 そう言われた気がした。


「……うん」


 ひよりは小さく頷いた。


「そうする」


 真樹も頷いた。


 二人は再び歩き始める。


 ノアが少し先を歩きながら、ときどき振り返る。


 その姿を見て、ひよりは小さく笑った。


「ノア、今日もありがとう」


 真樹が横を見る。


「何が?」


「いろいろ」


「またそれか」


「いいでしょ」


 ひよりは笑った。


 真樹も少しだけ笑う。


 その笑顔を見て、ひよりの胸が温かくなった。


     ◇ ◇ ◇


 その夜、玲奈は自室のベッドへ腰掛け、スマートフォンを見つめていた。


 今日交換したひよりの連絡先。


 画面には、先ほど届いたメッセージが表示されている。


『今日はありがとうございました! すごく楽しかったです!』


 玲奈は少しだけ笑った。


『こちらこそありがとう。また一緒に散歩しようね』


 そう返す。


 すぐに、


『ぜひ!』


 と届いた。


 玲奈は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。


 ひよりはいい子だった。


 明るくて、素直で、真樹のことをよく見ている。


 そして、真樹もひよりのことをよく見ていた。


 ひよりが少し静かになっただけで気づき、話しているときには自然に笑い、歩く速度まで合わせていた。


(……真樹、あんな顔するんだ)


 昔から知っているはずなのに、知らない表情だった。


 それが少し寂しい。


 けれど、ひよりを嫌いにはなれなかった。


 玲奈はスマートフォンを胸元へ置き、天井を見上げた。


(私、どうしたいんだろう)


 真樹のことが好きだ。


 それはずっと前から変わらない。


 けれど、今までその気持ちをはっきり伝えたことはない。


 幼馴染という関係が心地よくて、壊したくなかった。


 いつか自然に、自分の気持ちに気づいてくれるかもしれない。


 そんな期待もあった。


 しかし今日、ひよりと真樹を見ていて思った。


 待っているだけでは、何も変わらないのかもしれない。


 玲奈はゆっくり目を閉じた。


 今すぐ何かをするつもりはない。


 けれど、自分の気持ちから目を逸らし続けることも、そろそろ難しくなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、ひよりは自室でスマートフォンを見つめていた。


 玲奈からの返事を読み返し、少しだけ笑う。


 今日の散歩は楽しかった。


 真樹の昔の話も聞けたし、玲奈とも仲良くなれた。


 けれど、一番印象に残っているのは、真樹が自分を見て笑ったことだった。


(……何でだろ)


 ひよりはベッドへ寝転がり、天井を見つめる。


 玲奈と真樹が笑い合っているところを見たとき、少しだけ胸がざわついた。


 けれど、真樹が自分へ向けて笑ったときには、嬉しかった。


 その違いが、まだ分からない。


 スマートフォンが震える。


 真樹からだった。


『今日は楽しかった?』


 ひよりはすぐに返す。


『楽しかった!』


『玲奈さんとも仲良くなれたし』


『北条君の昔話も聞けたし』


『余計な話ばっかりだったけどな』


『可愛かったよ』


『何が』


『小さいころの北条君』


 少し間が空く。


『忘れろ』


 ひよりは声を出して笑った。


『無理』


『玲奈さんにまた聞こうかな』


『やめろ』


『冗談だよ』


 ひよりは笑いながら画面を見つめた。


 そして、少しだけ迷ってから文字を打つ。


『北条君』


『何』


『今日、ちょっとだけ寂しかった』


 送信したあと、自分でも驚いた。


 なぜそんなことを書いたのだろう。


 真樹からの返事は少し遅れた。


『何が』


 ひよりはしばらく考えた。


『玲奈さんと北条君が昔の話してるとき』


『私の知らない北条君がいっぱいいるんだなって』


 送信する。


 既読がつく。


 少しして返事が来た。


『そりゃ昔からの付き合いだからな』


『うん』


『でも』


 真樹のメッセージが続く。


『今のお前が知ってる俺もいるだろ』


 ひよりの胸が温かくなった。


『うん』


『いる』


『それでいいんじゃない』


 ひよりは画面を見つめた。


 そして、ゆっくり笑った。


『そうだね』


『これからもっと知りたい』


 送信する。


 少しだけ間が空いた。


『……そう』


 ひよりは笑った。


『照れてる「そう」』


『分類増やすな』


『増えちゃった』


『面倒だな』


 ひよりはスマートフォンを抱え、声を出して笑った。


 その笑いが落ち着いたあと、ふと金曜日のことを思い出す。


 あと二日。


 颯太へ告白する。


 その気持ちは変わらない。


 けれど、今日一日で、真樹のことをもっと知りたいという気持ちも強くなっていた。


(……私、欲張りなのかな)


 好きな人へ気持ちを伝えたい。


 大切な友達とも、これからも一緒にいたい。


 どちらも本当の気持ちだった。


 ひよりは少しだけ目を閉じた。


 答えを急がなくていい。


 真樹がそう言ってくれた。


 だから今は、金曜日に向き合う。


 そのあとで、また考えればいい。


 スマートフォンがもう一度震える。


『明日も来る?』


 真樹からだった。


 ひよりは迷わず返した。


『行くよ』


『いつもどおり』


 すぐに返事が来た。


『分かった』


『待ってる』


 ひよりはその言葉を見つめた。


 昨日も、今日も、真樹は待っていると言ってくれる。


 金曜日も。


 結果がどうなっても。


 ひよりは少しだけ胸を押さえた。


(……北条君)


 その名前を心の中で呼ぶと、なぜか胸が温かくなる。


 けれど、その温かさへ名前をつけることは、まだできなかった。


 ひよりはスマートフォンを置き、ゆっくり目を閉じた。


 明日は木曜日。


 そして、その次の日には、ずっと胸にしまってきた気持ちを伝える。


 金曜日まで、あと二日。


 その時間の中で、ひよりはまだ、自分の心が少しずつ変わり始めていることに気づいていなかった。

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