第35話 約束の日まで、いつもどおりに
火曜日の朝、天野ひよりは目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、カーテンの隙間から見える空には、夜の名残のような青みが残っている。布団の中は温かいのに、枕元へ伸ばした指先はすぐに冷たくなり、ひよりはスマートフォンを手に取ると、もう片方の手を布団へ引っ込めた。
昨夜のメッセージを確認する。
『じゃあ金曜な』
佐伯颯太から届いた短い返事だった。
その下には、ひよりが送った『ありがとう』という言葉が残っている。
(……本当に決まっちゃった)
昨日までは、いつか告白したいと思っているだけだった。
けれど今は違う。颯太に金曜日の放課後、少し時間をもらう約束をした。まだ何を話すのかは伝えていないものの、少なくとも二人で話す機会はできている。
胸の奥が落ち着かない。
嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からなかった。
ひよりは画面を切り替え、もう一つのメッセージを開く。
『待ってる』
北条真樹からの返事だった。
金曜日、颯太への告白が終わったら連絡する。
そう伝えたひよりに、真樹は迷わず待つと答えてくれた。
(北条君、本当に待っててくれるんだよね)
応援はできないと言われている。
頑張れとも言えないらしい。
それでも、結果がどうなっても話を聞いてくれる。
ひよりはその言葉を思い出し、少しだけ頬を緩めた。
不思議な関係だと思う。
好きな人へ告白することを、別の男の子へ報告している。しかも、その男の子が応援してくれないと分かっているのに、真っ先に知らせたいと思った。
(普通、千夏に一番に言うよね)
千夏は中学からの親友で、颯太への片想いもずっと知っている。
もちろん、千夏にも報告するつもりだった。
ただ、昨夜は真樹へ先に伝えたかった。
なぜなのか考えていると、胸の奥へ昨日の会話が蘇ってくる。
『俺も、お前と会えてよかった』
友達になれてよかった、と言ったひよりに対して、真樹はそう答えた。
そして、友達という言葉を使わなかった理由については、まだ教えてくれなかった。
(……全部つながってるって言ってた)
颯太の話を聞くと嫌そうになること。
告白を応援できないこと。
ひよりに会いたいと言うようになったこと。
それらが一つの答えにつながっている。
昨日は考えないようにしていた可能性が、朝の静かな部屋では妙にはっきり浮かび上がってくる。
(もしかして、北条君って……)
そこまで考えたところで、ひよりは慌てて布団を跳ね上げた。
「……いやいやいや」
声に出して首を振る。
まだ何も聞いていない。
真樹自身も、今は言わないと決めている。
だったら、勝手に答えを決めつけるのは違う。
(今は佐伯君のことを考えなきゃ)
ひよりはそう自分へ言い聞かせ、制服へ着替えるために立ち上がった。
けれど、鏡の前で髪を整えている間も、真樹の『待ってる』という言葉だけは、なかなか頭から離れてくれなかった。
◇ ◇ ◇
「ひより、今日は随分早いね」
朝食の席で由美に言われ、ひよりは椅子へ腰掛けながら頷いた。
「ちょっと早く起きちゃった」
「寒かった?」
「ううん。何となく」
由美はそれ以上追及せず、温かい味噌汁をひよりの前へ置いた。
隣では悠一がパンを食べながら、妹の顔をじっと見ている。
「……何?」
「いや、何かあったのかと思って」
「毎朝それ聞かないでよ」
「昨日、佐伯と話したんだろ?」
「話したけど」
「どうだった?」
「普通だよ」
「普通って何だ」
「写真見せて、ちょっと話しただけ」
「二人きりで?」
「学校の廊下で」
「距離は?」
「お兄ちゃん!」
ひよりが声を上げると、美月が悠一の額を指先で軽く押した。
「そこまで聞かない」
「心配だろ」
「心配と詮索は違うの」
「俺は妹の幸せを願ってるだけだ」
「だったら本人の好きにさせてあげなよ」
悠一は不満そうに口を閉じた。
ひよりはそんな兄を見ながら、少しだけ笑う。
過保護で、心配性で、時々本当に面倒くさい。
それでも、自分のことを大切に思ってくれているのは分かっている。
「お兄ちゃん」
「何だ?」
「もし私が振られて帰ってきても、佐伯君に文句言ったりしないでね」
悠一の手が止まった。
美月もひよりを見る。
「……何で急にそんなこと言うんだ?」
「もしもの話」
「ひより、まさか」
「まだ何もしてないから!」
悠一が立ち上がりかけたため、ひよりは慌てて言葉を重ねた。
「でも、もし告白して振られたとしても、佐伯君が悪いわけじゃないでしょ。好きになってもらえなかったからって、お兄ちゃんが怒るのは違うと思う」
悠一はしばらく妹を見つめた。
普段なら大げさに騒ぐところだったが、ひよりの表情が真剣だったため、すぐには言葉を返せなかった。
「……分かってる」
「本当?」
「本当だ。ひよりが傷ついたら腹は立つかもしれないけど、相手に気持ちを押しつけるわけにはいかないだろ」
意外なほど落ち着いた答えに、ひよりは目を丸くした。
「お兄ちゃん、ちゃんと分かってるんだ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「過保護なお兄ちゃん」
「否定できないな……」
美月が笑い、浩介も新聞の向こうで小さく息を漏らした。
由美はひよりへ視線を向ける。
「ひより」
「うん?」
「好きな人に気持ちを伝えるのは、勇気がいることだからね。結果がどうなっても、自分で決めたことなら大切にしなさい」
「……うん」
「それと、帰ってきたらちゃんとご飯食べること。嬉しくても悲しくても、それは変わらないから」
「お母さんらしい」
ひよりは笑った。
家族へ金曜日のことを詳しく伝えるつもりは、まだなかった。
けれど、どんな結果になっても帰る場所がある。
そのことが、少しだけ心強かった。
◇ ◇ ◇
青葉高校へ到着すると、ひよりは教室の入口で千夏と鉢合わせた。
「おはよう」
「おはよ。……あれ?」
「何?」
「ひより、何か顔が違う」
「昨日も言われた気がする」
「昨日より覚悟決めた顔してる」
千夏がそう言った瞬間、ひよりは思わず周囲を確認した。
登校してきた生徒たちが廊下を行き交い、教室の中では朝の小テストについて話す声が聞こえている。誰もこちらへ特別な注意を向けていないと分かってから、ひよりは千夏の袖を軽く引いた。
「千夏、ちょっと」
「うん?」
「昨日、佐伯君に連絡した」
千夏の表情が変わった。
「……金曜日のこと?」
「うん」
「返事は?」
「大丈夫だって」
「じゃあ」
ひよりは頷いた。
「金曜日の放課後、少し時間もらった」
千夏は数秒間、ひよりを見つめた。
それから、ゆっくり笑った。
「そっか。決めたんだね」
「……うん」
「怖い?」
「めちゃくちゃ」
「だよね」
千夏はひよりの手元へ視線を落とす。
鞄の持ち手を握る指先に、少し力が入っていた。
「ひより」
「何?」
「よく頑張ったね」
その一言で、ひよりの胸が少し熱くなった。
「まだ告白してないよ」
「でも、約束するだけでも勇気いったでしょ」
「……うん」
「なら十分頑張ってるよ」
千夏は明るく笑い、ひよりの肩を軽く叩いた。
「金曜日、私も空けとくから。終わったら連絡して」
「ありがとう」
「結果がどっちでもね」
「うん」
ひよりは頷いたあと、少しだけ迷った。
「千夏」
「ん?」
「怒らないで聞いてほしいんだけど」
「何?」
「昨日、北条君に先に言っちゃった」
千夏は一瞬だけ目を丸くした。
しかし、すぐに笑った。
「何だ、そんなこと?」
「……怒らない?」
「何で怒るの?」
「だって千夏、ずっと相談乗ってくれてたし」
「それと最初に誰へ報告するかは別でしょ」
千夏はあっさり答えた。
「ひよりが北条君に先に話したかったなら、それでいいじゃん」
「……そっか」
「ただ」
千夏は少しだけ声を落とした。
「北条君、何て?」
「待ってるって」
「うん」
「金曜日、告白が終わったら公園で待っててくれるって」
千夏は黙った。
ひよりは続ける。
「応援はできないけど、結果は聞くって。振られて泣いてても、うまくいって嬉しそうでも、来ればいいって」
「……そっか」
「北条君、変わってるよね」
「そうだね」
千夏は静かに頷いた。
けれど、その表情には少しだけ複雑なものが混じっていた。
(北条君、それ相当きついよね)
好きな女の子が別の男子へ告白する。
その結果を待つ。
うまくいった場合には、自分の好きな女の子が別の男子と付き合うことになる。
それでも待つと言った。
千夏は真樹の気持ちを本人から直接聞いたわけではない。
ただ、ひよりから聞く言葉を重ねれば、もう単なる友人としての親切だけでは説明できないように思えた。
「千夏?」
「ううん」
「何?」
「北条君、ひよりのこと大事なんだろうなって」
ひよりは少し照れたように笑った。
「……私も北条君のこと大事だよ」
「うん」
「友達として特別だし」
「うん」
千夏はそれ以上言わなかった。
今ここで何かを指摘すれば、ひよりが金曜日へ向けて固めた覚悟まで揺らしてしまうかもしれない。
ひよりが自分の気持ちを整理するのは、今の恋にきちんと向き合ったあとでも遅くない。
そう思い、千夏はいつもの明るい声へ戻した。
「とりあえず、今日は普通に授業受けようね」
「……それが一番難しいかも」
「小テストあるよ」
「忘れてた!」
「ほら、恋愛より先に勉強!」
「千夏、現実に戻さないで!」
二人の笑い声が、朝の教室へ溶けていった。
◇ ◇ ◇
同じころ、桜陵学園では真樹が教室の窓際に立っていた。
校庭では体育の授業へ向かう生徒たちが列を作り、遠くの木々が冬の風に揺れている。窓ガラス越しに見える景色はいつもと変わらないのに、真樹の頭の中だけが落ち着かなかった。
(……金曜日か)
昨夜、ひよりから告白の日が決まったと連絡があった。
分かっていたことだ。
いつかそうなると聞いていた。
それでも、実際に日付が決まると、想像していた以上に胸が重くなった。
「真樹」
後ろから蓮が声を掛ける。
「何」
「今日も朝から難しい顔してる」
「元からだろ」
「いや、最近さらに難しくなってる」
蓮は隣へ立ち、窓の外へ目を向けた。
「何かあった?」
「……決まった」
「何が?」
「天野の告白」
蓮の表情が変わった。
「いつ?」
「金曜日」
「今週?」
「ああ」
蓮はしばらく黙った。
いつものように軽口を叩こうとしたものの、真樹の横顔を見てやめた。
「そっか」
「……それだけ?」
「何て言ってほしいの?」
「別に」
「じゃあ、それだけ」
真樹は小さく息を吐いた。
蓮は少し考えてから尋ねる。
「天野さんには何て返した?」
「待ってるって」
「……結果を?」
「ああ」
「うまくいっても?」
「そう言った」
蓮は真樹を見る。
「真樹、それできる?」
「分からない」
「分からないのに約束したんだ」
「会わないほうが嫌だったから」
答えはすぐに出た。
蓮はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「本当に好きなんだね」
真樹は否定しなかった。
以前なら「知らない」「違う」と言っていたところだ。
けれど今は、もうその言葉で逃げる必要を感じなかった。
「……そうだな」
小さく答える。
蓮は驚いたように真樹を見た。
「認めた」
「お前にはもう隠しても意味ないだろ」
「いや、まあそうだけど」
蓮は少し笑った。
「でも、本人には言わないんだ?」
「今はな」
「どうして?」
「天野は佐伯に告白するって決めた。そこへ俺が好きだって言ったら、あいつが困るだろ」
「そうだね」
「だから、今は言わない」
真樹は窓の外へ視線を戻した。
「ただ、ずっと黙ってるかは分からない」
蓮はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「それでいいと思うよ」
「何が」
「今すぐ全部決めなくてもいいってこと」
真樹は何も言わなかった。
蓮は続ける。
「天野さんが誰を好きになるかは天野さんが決めることだけど、真樹が誰を好きかは真樹のことだから」
「……ああ」
「それに、好きだからって全部我慢しなきゃいけないわけじゃないしね」
真樹は少しだけ眉を寄せた。
「我慢してるつもりはない」
「じゃあ、今楽しい?」
「……楽しい」
「苦しい?」
「苦しい」
「両方なんだ」
「ああ」
蓮は小さく笑った。
「恋愛って面倒だね」
「今さらかよ」
「真樹見てると実感する」
「お前の番になったら笑ってやる」
「そのときはよろしく」
蓮が肩をすくめる。
真樹も少しだけ笑った。
気持ちを認めたからといって、何かが急に楽になるわけではない。
むしろ、ひよりの一つ一つの言葉が以前より深く胸へ残るようになった。
それでも、好きだと認めたこと自体を後悔してはいなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
玲奈は真樹と蓮のいる席へやってきた。
「真樹、明日のことなんだけど」
「ノア?」
「うん。天野さんも大丈夫だった?」
「ああ。水曜でいいって」
「よかった」
玲奈は安心したように笑った。
明日は、以前から話していたノアの散歩へ参加する予定だった。
真樹とは幼いころからの付き合いで、ノアとも面識がある。けれど最近は、真樹が放課後にひよりと過ごす時間が増え、玲奈がその日常へ加わる機会はなかった。
「場所はいつもの公園?」
「ああ」
「時間は?」
「放課後。天野が来るころには俺もいる」
玲奈は少しだけ目を伏せた。
真樹がひよりの放課後の予定を、ごく自然に把握している。
以前なら気にしなかったような小さなことが、今は胸に残る。
「天野さん、楽しみにしてた?」
「してた」
「そっか」
玲奈は微笑んだ。
「私も楽しみ」
それは嘘ではなかった。
ひよりとはまだそれほど長く話したことがない。
真樹がここまで自然に接する相手が、どんな女の子なのかもっと知りたいと思っている。
そして、ひより自身にも悪い印象はなかった。
ただ、もう一つの感情があることも否定できない。
(私が知らない真樹を、あの子は知ってるのかな)
昔の真樹を知っているのは自分だ。
けれど、今の真樹が何を考え、何を楽しみにしているのかについては、ひよりのほうが詳しいこともあるのかもしれない。
そう思うと、少し寂しかった。
「玲奈?」
蓮に呼ばれ、玲奈は顔を上げる。
「何?」
「明日、楽しんできなよ」
「もちろん」
玲奈は笑った。
その笑顔の奥にある気持ちを、蓮は無理に尋ねなかった。
◇ ◇ ◇
青葉高校では、午後の授業が終わるころには空が少し曇り始めていた。
ひよりは終礼が終わると、机の中へ教科書をしまいながら千夏を見る。
「今日も行く?」
「うん」
「北条君のところ?」
「そう」
千夏は笑った。
「もう確認するまでもないね」
「何もなければ行くって決めてるから」
「すっかり日常だ」
「ノアにも会いたいし」
「北条君にも?」
「もちろん」
ひよりは迷わず答えた。
千夏はその反応を見て、少しだけ口元を緩める。
「即答だね」
「だって会いたいもん」
「そっか」
「……何?」
「何でもない」
「また!」
ひよりが不満そうにすると、千夏は楽しそうに笑った。
「じゃあ、明日のことも楽しみ?」
「玲奈さんが来るから?」
「うん」
「楽しみだよ」
ひよりは頷いた。
ただ、そのあと少しだけ声を落とす。
「……ちょっと緊張もするけど」
「何で?」
「玲奈さん、北条君の昔からの友達でしょ」
「うん」
「私の知らない北条君をいっぱい知ってるんだなって思うと、何か不思議」
千夏はひよりを見る。
「羨ましい?」
「……少し」
「そっか」
「でも玲奈さんのこと嫌なわけじゃないよ」
「分かってる」
「むしろ仲良くなりたい」
「うん」
千夏は少し考えてから尋ねた。
「ひよりは、北条君のこともっと知りたいんだね」
「知りたいよ」
ひよりは当然のように答える。
「昔のことも、学校のことも、家のことも。北条君って自分からあんまり話さないから」
「そうだね」
「でも最近は聞いたら教えてくれるし」
「嬉しい?」
「うん」
千夏は静かに頷いた。
ひよりの中で真樹が占める場所は、確実に大きくなっている。
ただ、その感情へ名前をつけるには、まだ本人の中で整理できていないものが多い。
「じゃあ明日、玲奈さんともいっぱい話せるといいね」
「うん!」
ひよりは明るく笑った。
◇ ◇ ◇
公園へ向かう途中、ひよりは真樹へメッセージを送った。
『今から行くよ』
返事はすぐだった。
『いる』
ひよりは思わず笑った。
『今日も早い?』
『普通』
『何分前?』
『聞くな』
『絶対早い』
『うるさい』
短いやり取りだけで、ひよりの頬が緩む。
以前なら、こんなふうに何気ないメッセージを交わす相手になるとは思っていなかった。
公園の入口へ到着すると、真樹とノアはいつもの場所にいた。
ノアが先に気づき、大きな尻尾を振る。
「こんにちは!」
「遅い」
「今日は時間決めてないよ」
「知ってる」
「じゃあ遅くない」
「……そうだな」
真樹があっさり認めたため、ひよりは笑った。
「最近すぐ認めるね」
「言い返すの面倒だから」
「本当?」
「半分」
「残り半分は?」
「お前が正しいから」
ひよりは一瞬驚き、それから嬉しそうに笑った。
「北条君、今日も素直」
「毎回言うな」
「だって嬉しいんだもん」
真樹は少しだけ顔を逸らした。
その反応を見て、ひよりはさらに笑う。
ノアは二人の間へ鼻先を差し込み、早く歩こうと言いたげにリードを軽く引いた。
「はいはい、ノアも行こうね」
ひよりが黒い頭を撫でる。
真樹はその様子を見ながら、静かに歩き始めた。
冬の公園には冷たい風が吹いていたが、昨日より空気は少し穏やかだった。遊歩道の脇では落ち葉が乾いた音を立て、遠くの広場から子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
「北条君」
「何」
「昨日、ちゃんと寝た?」
「寝たけど」
「夜更かししてない?」
「お前こそ」
「私は……ちょっとだけ」
「何してた」
「考え事」
「佐伯?」
「うん」
真樹の表情が少しだけ変わる。
ひよりはそれに気づいた。
「……嫌?」
「嫌」
「即答」
「もう隠しても意味ないだろ」
「それはそうだけど」
ひよりは少し笑った。
「でも、今日も話聞いてくれる?」
「聞く」
「嫌なのに?」
「嫌なのと、聞きたいのは別」
「北条君って本当に面倒」
「自覚ある」
二人は並んで歩く。
ひよりは少しだけ視線を落とした。
「昨日、佐伯君に金曜日のこと聞いたあと、すごく緊張した」
「だろうな」
「まだ告白してないのに、もう心臓がすごくて」
「……そう」
「でもね、北条君に待ってるって言ってもらったら、少し落ち着いた」
真樹がひよりを見る。
「何で」
「分かんない」
「またそれ」
「北条君もよく言うでしょ」
「……まあ」
ひよりは笑った。
「でも、安心したのは本当」
真樹はしばらく黙った。
嬉しい。
ひよりが自分を頼ってくれることが嬉しい。
けれど、その理由が別の男子への告白だという事実は、やはり胸を痛ませる。
「……ならよかった」
ようやくそう答えた。
ひよりは少し驚く。
「今の、嫌そうじゃない」
「お前が安心したことまで嫌なわけじゃない」
「そっか」
「何回言わせるんだよ」
「だって北条君、難しいんだもん」
「お前もな」
真樹は小さく笑った。
その笑顔を見て、ひよりも笑う。
ただ、二人の胸にはそれぞれ違う感情が残っていた。
◇ ◇ ◇
遊歩道を半分ほど進んだところで、ひよりは明日のことを思い出した。
「そういえば、玲奈さん明日来るんだよね」
「ああ」
「何時くらい?」
「俺たちと同じくらい」
「そっか」
「緊張してる?」
「ちょっと」
ひよりは素直に答えた。
「何で」
「北条君の昔のこといっぱい知ってるから」
「またそれか」
「だって羨ましいんだもん」
真樹はひよりを見る。
「お前も最近いろいろ知っただろ」
「うん。でもまだ知らないこといっぱいあるよ」
「全部知る必要ある?」
「全部じゃなくても、もっと知りたい」
ひよりは少しだけ頬を緩めた。
「北条君のこと、知るの楽しいから」
真樹の胸が強く鳴った。
何気なく言われた言葉だった。
けれど、今の真樹にはそれが簡単に聞き流せない。
「……そう」
「また照れてる?」
「違う」
「嘘」
「お前、最近本当に遠慮ないな」
「北条君の前では普通でいいって言ったでしょ」
「……言った」
「だから普通にしてる」
ひよりは笑った。
真樹は少しだけ視線を逸らす。
自分が言ったことだ。
ひよりが無理に笑わず、自然に話せる相手になりたいと思った。
そして今、実際にそうなっている。
嬉しくないわけがなかった。
「明日さ」
ひよりが続ける。
「玲奈さんに北条君の小さいころの話聞いてもいい?」
「変な話じゃなければ」
「変な話って?」
「余計なこと」
「それが聞きたいんだけど」
「却下」
「けち」
ひよりが笑いながら抗議する。
真樹も少しだけ笑った。
そのとき、ひよりがふと真面目な顔になる。
「北条君」
「何」
「玲奈さんって、北条君のことすごく大切なんだろうね」
真樹は少し考えた。
「昔からの友達だからな」
「うん」
「俺も大切だと思ってる」
ひよりの胸が、ほんの少しだけざわついた。
予想していた答えだった。
玲奈は幼馴染で、真樹が長く付き合ってきた友人だ。
大切に思っているのは当然だろう。
それなのに。
(……何でちょっと気になるんだろ)
ひよりは自分でも分からない感情を抱えながら、曖昧に笑った。
「そっか」
真樹はその表情に気づいた。
「何」
「ううん」
「何でもない?」
「……うん」
真樹は少しだけ眉を寄せる。
以前ならそれ以上聞かなかったかもしれない。
けれど今は、ひよりの小さな変化が気になった。
「天野」
「何?」
「嫌なことあった?」
「ないよ」
「本当?」
「うん」
ひよりは頷いた。
ただ、そのあと少しだけ迷う。
「……ちょっとだけ羨ましいって思った」
「一ノ瀬が?」
「うん」
「何で」
「北条君と長い時間一緒にいたから」
真樹は黙った。
ひよりは続ける。
「私、北条君と出会ってまだそんなに経ってないでしょ。でも玲奈さんは昔から知ってるし、北条君の家のことも学校のこともいっぱい知ってる」
「……そうだな」
「だから、ちょっとだけ羨ましい」
ひよりは笑った。
「変かな」
真樹は少し考えた。
「別に」
「どの『別に』?」
「本当に変じゃないって意味」
「そっか」
「それに」
真樹は言葉を止める。
ひよりが顔を上げた。
「何?」
「昔から知ってることと、今何でも知ってることは別だろ」
ひよりは少し目を丸くした。
「……そうなの?」
「そうだろ」
「北条君の今のこと、私のほうが知ってることもある?」
「あるんじゃない」
「例えば?」
「毎日どこで何してるかとか」
「それはノアの散歩でしょ」
「それ以外も」
真樹は少しだけ視線を逸らした。
「……誰に会いたいと思ってるか、とか」
ひよりの胸が跳ねた。
「……誰?」
「聞くな」
「今の絶対私じゃん」
「自分で言うな」
「だって!」
ひよりが笑いながら抗議する。
真樹は少しだけ顔を赤くした。
その様子を見て、ひよりの胸には温かいものが広がった。
(……嬉しい)
真樹が自分に会いたいと思ってくれている。
それだけで嬉しい。
けれど、なぜこんなに嬉しいのかを考えようとすると、また胸の奥が落ち着かなくなった。
◇ ◇ ◇
公園の小さな広場へ着くと、ノアが足を止めた。
ひよりがしゃがむと、大きな黒い頭がすぐに近づいてくる。
「ノア、明日は玲奈さんも来るんだって」
ノアは尻尾を振った。
「覚えてる?」
「覚えてるだろ」
真樹が答える。
「昔から知ってるし」
「そっか」
ひよりはノアの首元を撫でながら、少しだけ笑った。
「ノアも玲奈さん好き?」
ノアは嬉しそうに尻尾を振る。
「好きなんだ」
「お前、犬に何聞いてんだよ」
「いいじゃん」
ひよりは笑いながらノアを抱きしめるように首元へ顔を寄せた。
真樹はその様子を見つめる。
大きな黒い身体へ頬を寄せ、幸せそうに笑うひより。
その姿を見るたび、胸の奥が温かくなる。
(……ノア、そこ代われ)
思わず浮かんだ考えに、真樹は自分で顔をしかめた。
何を考えているのか。
ひよりはノアを撫でているだけだ。
それなのに、その場所を羨ましいと思ってしまった。
「北条君?」
ひよりが顔を上げる。
「何」
「変な顔」
「してない」
「してるよ」
ひよりは立ち上がり、真樹の顔を覗き込んだ。
距離が近くなる。
真樹は反射的に少し身体を引いた。
「……近い」
「また?」
「また」
「前はそんなこと言わなかったのに」
「最近近いんだよ」
「北条君が意識しすぎなんじゃない?」
ひよりは冗談のつもりで言った。
けれど、真樹の動きが一瞬止まる。
「……そうかもな」
その返事に、ひよりも止まった。
「え?」
「何」
「今、認めた?」
「何を」
「意識してるって」
真樹はひよりを見る。
以前なら誤魔化しただろう。
けれど、もう全部を否定するつもりはなかった。
「……してるかもな」
ひよりの頬が、ゆっくり熱くなる。
「……何で?」
「それはまだ言わない」
「また秘密!」
「お前が待つって言ったんだろ」
「言ったけど!」
ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
真樹はその表情を見て、小さく笑う。
ひよりは不満そうにしていたものの、胸の奥では別の感情が大きくなっていた。
(……意識してる?)
真樹が自分を。
そう考えた瞬間、なぜか颯太へ告白する金曜日のことが頭をよぎった。
胸が少しだけ苦しくなる。
理由はまだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
ひよりはしばらく黙って歩いていた。
真樹も無理に話しかけなかった。
冬の夕方の公園は、昼間より人が少なくなっている。遊歩道の向こうでは犬を連れた男性が歩き、遠くから自転車のベルが聞こえてきた。
「北条君」
ひよりが静かに口を開く。
「何」
「金曜日のことなんだけど」
「……ああ」
「私、ちゃんと伝えるね」
真樹はひよりを見る。
「佐伯君に、好きだったって」
「……そう」
「結果がどうなっても、後悔しないように」
ひよりの声は少し震えていた。
それでも、目は前を向いている。
真樹はしばらく黙った。
応援はできない。
うまくいってほしいとも言えない。
それでも、ひよりが自分で決めたことを否定したくはなかった。
「……分かった」
短く答える。
ひよりが少し笑った。
「ありがとう」
「礼言うことじゃない」
「でも、聞いてくれたから」
真樹は視線を逸らした。
「金曜日、待ってる」
「うん」
「連絡しろよ」
「する」
「遅くなるならそれも言え」
「分かった」
ひよりは笑った。
「北条君、ほんとお兄ちゃんみたい」
「それはやめろ」
「お兄ちゃんより優しいけど」
「比較するな」
二人は小さく笑った。
その笑いが落ち着いたあと、真樹は静かに言った。
「天野」
「何?」
「……無理に笑うなよ」
ひよりは目を丸くした。
「金曜日?」
「ああ」
「振られたら?」
「それもあるけど」
真樹は少しだけ言葉を探した。
「今も」
ひよりの表情が変わった。
「……今?」
「怖いんだろ」
「うん」
「なら怖いって顔してていい」
真樹はひよりを見る。
「俺の前では」
ひよりは何も言わなかった。
胸の奥へ、温かいものが広がっていく。
昨日も、以前も、真樹は同じようなことを言ってくれた。
無理に笑わなくていい。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
機嫌が悪くてもいい。
自分の前では、自然でいていい。
「……北条君」
「何」
「私、今ちょっと怖い」
「うん」
「金曜日、ちゃんと言えるか分かんない」
「うん」
「振られたら、すごく悲しいと思う」
「……そうだな」
ひよりは少しだけ俯いた。
「でも、言いたい」
真樹は静かに頷いた。
「……分かった」
ひよりは顔を上げる。
真樹はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、隣を歩いている。
それだけで、ひよりは少しだけ安心できた。
◇ ◇ ◇
公園の入口へ戻るころには、空が夕暮れの色へ変わり始めていた。
「明日、玲奈さん来るんだよね」
ひよりが確認する。
「ああ」
「楽しみ」
「余計なこと聞くなよ」
「昔の話?」
「そう」
「無理」
「即答するな」
「だって聞きたいもん」
ひよりが笑う。
真樹は呆れたように息を吐いた。
「一ノ瀬も調子乗るから」
「じゃあ二人で北条君の昔話する」
「最悪だな」
「ノアもいるし」
「ノアは喋らないだろ」
「でも反応してくれるよ」
ひよりがノアを見ると、大きな黒い犬は尻尾を振った。
「ほら」
「……お前は誰の味方だよ」
真樹が呟く。
ひよりは声を上げて笑った。
その笑顔を見て、真樹も少しだけ笑う。
「じゃあ、また明日」
ひよりが手を振る。
「ああ」
「今日も会えて嬉しかった?」
真樹は少しだけ目を細めた。
「嬉しかった」
「私も」
ひよりは笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「北条君」
「何」
「金曜日まで、普通にしててね」
真樹はひよりを見る。
「普通?」
「うん。私、たぶん緊張して変になると思うから」
「……そう」
「だから北条君は、いつもどおりでいて」
真樹は少し考えた。
いつもどおり。
それが今の自分にとって、どれほど難しいことなのか。
ひよりはまだ知らない。
けれど、真樹は頷いた。
「……分かった」
「約束」
「ああ」
ひよりは安心したように笑い、公園を出ていった。
真樹はその後ろ姿を見送る。
ノアが隣で静かに座った。
「……いつもどおり、か」
真樹は小さく呟いた。
ひよりが好きだ。
その気持ちを認めてしまった今、以前とまったく同じように接することは難しい。
けれど、ひよりが望むなら、少なくとも金曜日までは普段どおりに接したいと思った。
余計なことを言わず、焦らせず、困らせず。
ただ、隣にいる。
それくらいならできるはずだった。
◇ ◇ ◇
その夜、ひよりは自室の机へ向かい、ノートを開いていた。
金曜日に何を伝えるか。
頭の中で考えるだけではまとまらず、紙へ書いてみることにした。
『佐伯君のことが好きです』
最初に書いたのは、その一文だった。
ひよりはしばらく文字を見つめる。
簡単な言葉だ。
けれど、実際に本人の前で言えるかと思うと、胸が苦しくなる。
次に、去年の文化祭のことを書いた。
作業を手伝ってくれたこと。
自然に話しかけてくれたこと。
それから少しずつ、颯太を目で追うようになったこと。
全部伝える必要はないかもしれない。
それでも、自分の気持ちを整理するためには必要だった。
(……好きなんだよね)
ひよりはペンを置いた。
その気持ちに嘘はない。
今も颯太が好きだ。
だから告白する。
けれど、ノートを閉じようとしたところで、別の顔が浮かんだ。
真樹。
今日も公園で待っていてくれた。
怖いなら怖い顔をしていていいと言ってくれた。
自分を意識しているかもしれないと、少しだけ認めた。
(……北条君)
ひよりは机へ頬杖をつく。
真樹のことを考えると、颯太とは違う温かさが胸に広がる。
会いたい。
話したい。
もっと知りたい。
自分のことも知ってほしい。
その気持ちは、以前から変わっていない。
ただ最近、その一つ一つが以前より強くなっている気がした。
「……何なんだろ」
小さく呟く。
答えは出ない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
『明日、いつもどおりでいい?』
真樹からだった。
ひよりは思わず笑った。
『うん!』
『玲奈さんも来るんだよね』
『来る』
『楽しみ』
『余計なこと聞くなよ』
『聞く』
『……』
『北条君の小さいころの話』
『却下』
『玲奈さんに聞くもん』
『面倒だな』
ひよりは声を出して笑った。
そして、少しだけ迷ってから文字を打つ。
『北条君』
『何』
『今日もありがとう』
『何が』
『怖いって言っていいって言ってくれたこと』
少し間が空いた。
『別に』
ひよりは画面を見つめる。
いつもの短い返事。
けれど今は、その言葉の奥にある優しさを少しだけ理解できる。
『これ、優しい「別に」』
『そんな分類ない』
『あるよ』
『勝手に増やすな』
『北条君の「別に」辞典作れるかも』
『やめろ』
『千夏に見せようかな』
『絶対やめろ』
ひよりは笑いながらスマートフォンを抱えた。
金曜日は怖い。
けれど、明日も真樹に会える。
玲奈とも話せる。
ノアにも会える。
そんな何気ない予定があるだけで、明日が少し楽しみになった。
◇ ◇ ◇
一方、真樹は自室のベッドへ腰掛け、ひよりとのメッセージを見返していた。
金曜日まで、いつもどおりにしてほしい。
ひよりからそう頼まれた。
その言葉を思い出すたび、胸の奥が少しだけ痛む。
(……いつもどおりって、何だよ)
以前なら、ひよりが颯太の話をしても理由の分からない苛立ちを覚えるだけだった。
今は違う。
なぜ嫌なのか分かっている。
自分がひよりを好きだからだ。
颯太へ告白してほしくない。
できるなら自分を見てほしい。
けれど、その気持ちを今ぶつけるつもりはなかった。
真樹はスマートフォンを置き、床で横になっているノアを見る。
「……お前、明日玲奈も来るぞ」
ノアが顔を上げた。
「覚えてるだろ」
尻尾が一度揺れる。
「天野も楽しみにしてる」
もう一度、尻尾が動いた。
真樹は少しだけ笑った。
「お前は本当にあいつ好きだな」
ノアは当然のような顔でこちらを見ている。
真樹はしばらくその黒い瞳を見つめた。
「……俺もだけど」
小さく呟く。
ノアが尻尾を振った。
「嬉しそうにすんな」
真樹は苦笑する。
好きだと認めた。
けれど、まだ何も伝えていない。
伝えるつもりも、今はない。
ただ、金曜日までの時間をどう過ごすかは、自分で決められる。
ひよりが望むなら、いつもどおりに笑って、話して、ノアと散歩する。
そして金曜日、結果がどうなっても待つ。
それが今の自分にできることだった。
スマートフォンが震える。
『そろそろ寝るね』
『北条君も夜更かししないでね』
『おやすみ。また明日!』
真樹は少しだけ笑った。
『おやすみ。また明日』
送信する。
明日は玲奈が来る。
ひよりと玲奈が、自分の知らないところでどんな話をするのか。
それを想像すると少しだけ落ち着かない。
けれど、ひよりが楽しみにしているなら、それも悪くないと思った。
真樹はスマートフォンを伏せ、部屋の明かりを落とした。
冬の夜の静けさが、ゆっくりと室内へ広がっていく。
金曜日まで、まだ少し時間がある。
その時間を、いつもどおりに過ごす。
簡単なようで、今の真樹には一番難しい約束だった。
それでも、明日ひよりに会えることを楽しみにしている自分だけは、もう否定しなかった。




