第34話 好きな人と、待っている人
月曜日の朝、天野ひよりはいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む冬の朝日はまだ弱く、部屋の中には夜の冷たさが残っている。布団から出ることを身体が拒んでいるのに、頭だけは目覚ましが鳴る前から妙にはっきりしていた。
今日、佐伯颯太に文化祭の写真を見せる。
それだけなら、ここまで緊張する必要はない。
写真は颯太本人に頼まれたものではあるが、もともとは宮田が探しているからという理由だった。何枚か候補を見せ、必要なものを確認してもらえば終わる。
ただ、ひよりにとっては、颯太と自然に話せる機会がまた一つ増えるという意味を持っていた。
(普通に話せばいいだけ)
そう自分へ言い聞かせながら、枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
昨夜最後に交わしたメッセージが画面へ残っていた。
『おやすみ。また明日』
送り主は北条真樹。
その少し上には、
『楽しみ』
という短い言葉も残っている。
今日、ひよりと会うことが楽しみだと、真樹が自分から認めた言葉だった。
「……ほんと素直になったなあ」
小さく呟く。
嬉しいと思う。
昨日も楽しかったし、今日も学校が終わったら公園へ行きたい。
ただ、その前に颯太と話す。
好きな人と話したあと、大切な友達が待っている場所へ行く。
言葉にすれば何もおかしくないはずなのに、二人を同時に思い浮かべると胸の奥に説明しづらい感覚が残った。
(北条君が変なこと言うから)
昨日、真樹は「答えが出た」と言った。
その答えはひよりにも、颯太にも関係している。
それ以上は今は言わないと言われたため、ひよりも無理には聞かなかった。
それなのに、一晩経っても気になっている。
「……考えても分かんない」
ひよりはスマートフォンを置き、ようやく布団から身体を起こした。
今日は月曜日。
まずは学校へ行く。
颯太に写真を見せる。
そして放課後、真樹に会う。
今はそれだけ考えればいい。
◇ ◇ ◇
「ひより、今日帰り遅い?」
朝食を食べている途中、由美に聞かれた。
「少しだけ遅くなるかも」
「北条君?」
今度は悠一ではなく美月が尋ねる。
「北条君のところにも行くけど、その前に学校でちょっと用事」
ひよりは味噌汁の椀を持ちながら答えた。
「佐伯か?」
すぐに反応したのは、やはり悠一だった。
「何で分かるの?」
「昨日、美月から聞いた」
「お姉ちゃん!」
「告白するって話はしてないよ。佐伯君を好きなのは、お兄ちゃんももう知ってるでしょ」
「写真の話は俺も前に聞いてる」
悠一は真剣な顔でひよりを見る。
「今日、告白するのか?」
「しないよ!」
「本当か?」
「何でお兄ちゃんに確認されなきゃいけないの」
「心の準備が必要なんだ!」
「するの私なんだけど」
「俺にも必要だ!」
「いらないよ」
ひよりが呆れると、美月が小さく笑った。
浩介は新聞を畳みながら、悠一へ視線を向ける。
「悠一、ひよりの恋愛なんだから、本人に任せなさい」
「父さんは平気なのかよ」
「平気ではない」
「ほら!」
「でも口を出しすぎても仕方ないだろう」
浩介はそう言いながらも、娘へ向ける目には少し複雑なものがある。
由美が苦笑した。
「男親も兄も似たようなものね」
「俺は父さんより心配してる」
「競わなくていいから」
ひよりはパンを一口食べ、少しだけ肩の力を抜いた。
朝から颯太のことばかり考えていた緊張が、家族の騒がしさのおかげで和らいでいく。
「今日は写真見せるだけ」
ひよりは改めて説明した。
「前の文化祭の写真。宮田君が探してるんだって」
「二人きり?」
悠一が聞く。
「知らない。学校だし」
「放課後?」
「たぶん」
「どこで?」
「お兄ちゃん」
美月の低い声が飛ぶ。
「……はい」
「質問攻め禁止」
「でも」
「禁止」
悠一は渋々黙った。
ひよりはその様子に笑いながら、ふと考える。
もし本当に颯太へ告白する日を決めたら、家族へ事前に話すのだろうか。
美月には言うかもしれない。
千夏にも言う。
真樹にも言うと約束した。
(北条君にも最初に言うって言ったんだよね)
そのことを思い出した瞬間、少しだけ胸がざわついた。
告白する相手は颯太なのに、その報告を真樹へする場面まで強く意識している自分が不思議だった。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、千夏はひよりの顔を見るなり笑った。
「緊張してる」
「してない」
「してる」
「写真見せるだけだよ」
「分かってる。でも佐伯君に会うんでしょ?」
ひよりは鞄を机へ置きながら、少しだけ声を落とす。
「会うっていうか、学校にいるから」
「そういうところだけ急に冷静ぶるよね」
「だって本当だもん」
「顔赤いよ」
「寒いから!」
「教室暖かいけど」
「千夏うるさい」
ひよりが頬を押さえると、千夏は楽しそうに笑った。
「写真は?」
「スマホにも入れたし、念のためクラウドにもまとめた」
「準備万端じゃん」
「頼まれたからね」
「うんうん」
「その顔やめて」
「何も言ってないよ」
「お姉ちゃんと同じこと言う」
ひよりは椅子へ座り、机の中へ教科書を入れていく。
その途中で、千夏が少し声を落とした。
「告白のことは?」
「昨日も考えた」
「決めた?」
「……まだ」
「そっか」
「でもね」
ひよりは手を止めた。
「今週中には、いつ言うか決めたい」
千夏の表情が少し真剣になる。
「今週中に告白するってこと?」
「そこまでは決めてない。でも、いつかって言い続けるのはやめる」
「うん」
「日にちを決める」
口にしたことで、自分の中でも覚悟が少し固まった。
千夏はそれを茶化さなかった。
「決めたら教えて」
「うん」
「北条君にも?」
「言うよ」
答えると、千夏はひよりをじっと見た。
「何?」
「いや」
「その『いや』何?」
「北条君、応援してくれないんだよね」
「うん」
「それでも最初に話すんだ」
「だって、終わったあと聞いてくれるって言ったし」
「そっか」
「何?」
「何でもない」
「最近みんなそればっかり」
ひよりが不満そうにすると、千夏は笑った。
ただ、親友の中には一つの疑問が残る。
ひよりが颯太を好きなのは疑いようがない。
颯太の話をするときの表情も、緊張も、期待も、ずっと見てきた。
その一方で、真樹の存在も日ごとに大きくなっている。
会うことが日常になり、何かあれば真っ先に話したいと思い、傷ついたときにはそばにいてほしいと考えている。
しかも真樹のほうは、もう「友達だから」で説明するには苦しいところまで来ているように千夏には見えた。
(でも、これはひよりが自分で気づくことだよね)
千夏はそう思い、口を閉じた。
◇ ◇ ◇
午前中の授業は、ひよりにとっていつもより少し長く感じられた。
休み時間になるたび、廊下へ颯太の姿がないか無意識に目を向けてしまう。
けれど、今日は放課後に話す予定がある。
そう思えば、以前のように「今話しかけなければ」と焦る必要はなかった。
昼休み。
ひよりが千夏と机を合わせて弁当を食べていると、教室の入口付近から男子生徒の声がした。
「天野いる?」
聞き覚えのある声に、ひよりの箸が止まる。
千夏が入口を見てから、にやりと笑った。
「来たよ」
「分かってる」
ひよりは急いで弁当箱を置き、立ち上がった。
入口には颯太が立っている。
前回のように、周囲の生徒が少しだけ視線を向けた。
「佐伯君、どうしたの?」
ひよりが近づくと、颯太は片手を軽く上げた。
「昨日メッセージした写真のことなんだけどさ」
「うん」
「宮田に聞いたら、今日中に見られるなら見たいって」
「今日?」
「無理なら明日でもいいんだけど」
「大丈夫だよ。スマホに入れてあるから」
「マジ? 助かる」
颯太が笑う。
その笑顔を見るだけで、ひよりの胸はやはり高鳴った。
「今見る?」
「いいの?」
「うん」
「じゃあちょっとだけ」
二人は教室の入口から少し離れ、廊下の窓際へ移動した。
ひよりはスマートフォンを開き、まとめておいた写真のフォルダを表示する。
「これと、これと……たぶんこの辺かな」
「懐かしいな」
颯太がひよりの手元を覗き込む。
自然と距離が近くなり、ひよりの心臓が一気に速くなった。
(近い……!)
けれど逃げなかった。
以前なら緊張してスマートフォンを落としそうになっていたかもしれない。
「これ、宮田が探してたやつじゃない?」
颯太が一枚を指さす。
文化祭の準備中、数人で教室の飾りつけをしている写真だった。
「あ、たぶんそう。黒板の飾りが全部写ってるから」
「送ってもらっていい?」
「もちろん」
「ありがとう。ほんと助かった」
「ううん」
ひよりはその場で写真を送る。
颯太は受信を確認したあと、ほかの写真にも目を向けた。
「これ、天野じゃん」
「え?」
指された写真には、段ボールを抱えながら笑っている去年のひよりが写っていた。
「うわ、これ恥ずかしい」
「何で? 普通じゃん」
「髪ぼさぼさだし」
「準備中だったからみんなこんな感じだろ」
「佐伯君は普通だよ」
「俺もひどい写真あるぞ」
颯太は笑いながら別の一枚を指さす。
そこには、脚立の下で何かを受け取ろうとしている颯太が写っていた。顔は半分しか写っておらず、確かに本人が見ればあまり嬉しくない写真かもしれない。
「これ消す?」
「いや、別にいいよ。こういうのも後で見たら面白いし」
「じゃあ残しとく」
「うん」
会話が続いている。
無理に話題を探しているわけではない。
文化祭の写真を見ながら、去年のことを自然に話している。
ひよりは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
(私、ちゃんと話せてる)
ずっと望んでいたことだった。
好きな人を前にしても、緊張するだけで終わらず、普通に笑って話す。
少し前までの自分なら難しかった。
「そういえばさ」
颯太が画面を見ながら言う。
「このとき天野、最後まで残ってたよな」
ひよりの指が止まった。
その言葉が何を指しているのか、すぐに分かった。
「……覚えてたの?」
「そりゃ覚えてるよ。俺も残ったし」
「うん」
ひよりが颯太を好きになったきっかけ。
文化祭準備で一人作業を続けていた自分へ、颯太が「一人でやる量じゃないだろ」と言って手伝ってくれた日。
ひよりにとっては大切な記憶だった。
颯太にとっても完全に忘れた出来事ではなかった。
それだけで嬉しかった。
「天野、あのころ今より静かだったよな」
「え?」
「去年。同じクラスになったばっかのころ」
ひよりは驚いた。
「そうだった?」
「今よりは。慣れてから結構喋るようになったけど」
「……見てたんだ」
「同じクラスなんだから見るだろ」
颯太は深い意味もなく答える。
それでもひよりには、その言葉が嬉しかった。
「今年はクラス違うから、前より話さなくなったけど」
「うん」
「最近また話すようになったな」
颯太が笑う。
「天野からも声かけてくれるし」
ひよりの胸が強く鳴った。
「……嫌じゃない?」
「何で嫌なんだよ」
「いや、なんとなく」
「普通に嬉しいけど」
その言葉を聞いた瞬間、ひよりは息を止めそうになった。
嬉しい。
颯太が、自分から話しかけられることを嬉しいと言った。
「天野?」
「え、あ……うん」
「どうした?」
「何でもない」
頬が熱い。
今の自分がどんな顔をしているのか、千夏に見られたら一瞬でばれるだろう。
「じゃあ写真、宮田に送っとく」
「うん」
「ありがとな」
「どういたしまして」
「また何かあったら頼むかも」
「いつでも」
「じゃ、また」
「うん。またね」
颯太が自分の教室へ戻っていく。
ひよりはその後ろ姿が廊下の角を曲がるまで見送った。
胸の鼓動はまだ速い。
「……嬉しいって」
小さく呟く。
自分から話しかけられるのが嬉しい。
その言葉が何度も頭の中で繰り返された。
(告白したい)
今までより強く、そう思った。
怖い。
けれど、このまま何も言わずにいるほうが、もっと嫌だった。
◇ ◇ ◇
教室へ戻った瞬間、千夏が何も言わずにひよりの顔を見た。
「何」
「嬉しかった?」
「……うん」
「すごい顔してる」
「どんな顔?」
「好きな人と話して嬉しかった顔」
ひよりは反論できなかった。
席へ座り、まだ少し熱い頬を手で押さえる。
「普通に話せた」
「うん」
「去年の文化祭のこと、佐伯君も覚えてた」
「それは嬉しいね」
「あと、最近私から話しかけるようになったって言われた」
「見てたんだ」
「うん。それでね」
ひよりは一度言葉を止めた。
「私から声かけるの、普通に嬉しいって」
千夏の表情が柔らかくなる。
「よかったじゃん」
「うん」
「告白したくなった?」
ひよりはしばらく黙った。
そして、ゆっくり頷く。
「……なった」
「そっか」
「千夏」
「うん?」
「今週の金曜日にしようかな」
千夏の目が少し大きくなった。
「決める?」
「まだ佐伯君の予定聞いてないから、本当にその日にできるか分からないけど」
「うん」
「でも、金曜日に少し時間もらえるか聞いてみようかなって」
言葉にするたび、心臓が速くなる。
「来週まで延ばしたら、また怖くなって先延ばししそうだから」
「ひよりが決めたなら、私は応援するよ」
「……うん」
「今日聞く?」
「それは無理!」
「即答だね」
「今は無理。心の準備させて」
ひよりは机へ突っ伏しかけ、すぐに顔を上げた。
「明日か明後日には聞く」
「分かった」
「怖い……」
「うん」
「今からもう怖い」
「うん」
千夏は笑わずに聞いてくれる。
ひよりは少しだけ安心した。
「でも、やる」
「うん」
「今度は逃げたくない」
バレンタインの日。
渡せなかったクッキーを抱えて帰った自分。
あの日の後悔を、今度こそ終わらせたい。
千夏は親友の顔を見ながら、静かに頷いた。
「じゃあ、決めたらちゃんと教えてね」
「うん」
ひよりは答えた。
その直後、もう一人の顔が浮かぶ。
真樹。
今日も公園で待っている。
(北条君にも、言わなきゃ)
そう思った瞬間、先ほどまでとは別の緊張が胸に生まれた。
◇ ◇ ◇
桜陵学園では、昼休みの終わりが近づいていた。
真樹は自分のスマートフォンを一度確認し、そのまま机へ伏せる。
ひよりからの連絡はない。
今日は颯太へ文化祭の写真を見せると聞いている。
いつ見せるのかまでは知らなかった。
「気になる?」
向かいから蓮が聞く。
「何が」
「天野さん」
「……何で分かる」
「今、五分で三回スマホ見たから」
「数えるな」
「目の前にいると嫌でも分かるよ」
蓮は笑いながら飲み物を口へ運んだ。
「昨日は素直だったのに、学校来ると戻るんだね」
「何が」
「『好き』って認めた人」
「お前に言った覚えないけど」
「ほぼ言ったよ」
「多分って言った」
「まだそこ粘る?」
真樹は面倒そうに視線を逸らす。
昨日、蓮とのメッセージで自分の感情をかなり認めた。
そのあと一晩考えても答えは変わらなかった。
ひよりが好きだ。
おそらくではなく、もうそれでいいと思っている。
ただ、本人へ言うつもりはまだない。
「今日、天野さん佐伯と話すんだっけ?」
「ああ」
「それで放課後は真樹?」
「公園に来るって」
「すごい一日だね」
「何が」
「好きな人と話したあと、自分を好きな男のところ行くんでしょ」
「本人は知らないけどな」
「それ、真樹きつくない?」
真樹は少し考えた。
「きつい」
「素直」
「認めても状況変わらないからな」
「そうだね」
蓮はからかうのをやめる。
「告白する日はまだ決まってない?」
「昨日までは」
「決まったら天野さん、真樹に言うんだよね」
「ああ」
「聞ける?」
真樹はしばらく黙った。
「聞く」
「応援は?」
「無理」
「そこは一貫してるね」
「嘘で頑張れって言っても意味ないだろ」
「まあね」
蓮は少し笑ったあと、真樹の表情を見た。
「でも、もし本当に佐伯とうまくいったらどうする?」
「……知らない」
「会い続ける?」
真樹の眉がわずかに動く。
「天野は友達やめるつもりないって言ってた」
「天野さんはね」
「何が言いたい」
「真樹が耐えられるかって話」
真樹は答えられなかった。
ひよりが颯太と付き合ったあとも、今と同じように毎日公園へ来る。
自分の隣で、颯太との出来事を嬉しそうに話す。
それを友人として聞き続ける。
想像するだけで胸の奥が重くなった。
「……そのとき考える」
「うん。それしかないか」
蓮はそれ以上追及しなかった。
ちょうど予鈴が鳴る。
真樹はスマートフォンをポケットへ戻しながら、窓の外へ目を向けた。
(今日、何話したんだろ)
気になる。
聞きたくない。
それでも、ひよりが来たらきっと聞く。
自分でも面倒だと思う。
ただ、その面倒さまで含めて自分の気持ちなのだと、今はもう分かっていた。
◇ ◇ ◇
放課後。
終礼が終わると、ひよりはいつもよりゆっくり鞄へ荷物をしまった。
「今日、佐伯君とはもう話さないんだよね?」
千夏が尋ねる。
「うん。写真も送ったし」
「じゃあ北条君のとこ?」
「行く」
「告白の日のこと、言う?」
ひよりの手が止まる。
「……言う」
「今日?」
「金曜日にしようかなって決めたから」
「そっか」
「まだ佐伯君には予定聞いてないけどね」
「それでも北条君には?」
「言うって約束したし」
ひよりは鞄を肩へ掛ける。
千夏は少しだけ迷ったあと、親友へ声を掛けた。
「ひより」
「何?」
「北条君の反応がどうでも、ひよりが決めたことはひよりのものだからね」
「うん」
「応援してくれなくても、怒らないであげて」
「怒らないよ」
ひよりは少し笑った。
「北条君、応援できないって最初から言ってるもん」
「そうだね」
「でも聞いてくれるから」
その言葉を残し、ひよりは教室を出た。
千夏は後ろ姿を見送る。
(北条君、今日きついだろうな)
ひよりが好きだと本人から聞いたわけではない。
それでも、ここまで来ればほとんど分かる。
ただ、それをひよりへ教えるつもりはなかった。
真樹がいつ、どう伝えるのか。
ひよりがいつ、自分の気持ちへ気づくのか。
それは二人の問題だった。
◇ ◇ ◇
校門を出て少し歩いたところで、ひよりは真樹へメッセージを送った。
『今から行く』
返事はすぐだった。
『いる』
ひよりは思わず笑った。
『やっぱり待ってた』
『連絡するって言っただろ』
『うん』
『今日は何分前?』
少し間が空く。
『聞くな』
『早く行こ』
スマートフォンをしまい、ひよりは歩く速度を少し上げた。
走るなと言われているので走らない。
それでも、早く着きたいと思った。
公園の入口が見えてくる。
黒い犬。
その隣に真樹。
今日もいる。
それを確認した瞬間、ひよりの胸に安心が広がった。
「北条君!」
少し離れたところから呼ぶ。
真樹が顔を上げた。
ノアもひよりへ気づき、尻尾を大きく振り始める。
「走るなよ」
「走ってない!」
「早歩きだろ」
「それはいいでしょ」
ひよりは息を少し弾ませながら二人の前へ到着した。
「何分前?」
「だから聞くな」
「待った?」
「ちょっと」
「どれくらい?」
「十分くらい」
「やっぱり早い」
「家にいても暇だったから」
「ほんと?」
「……半分」
「残り半分は?」
真樹はひよりを見る。
昨日なら少し迷ったかもしれない。
「早く来るかと思ったから」
「私が?」
「ああ」
「何で?」
「会いたかったからじゃない」
「まだ何も言ってないよ!?」
「顔に出てた」
ひよりは笑いながらノアの前へしゃがむ。
「ノア、北条君今日も変」
「お前もな」
「私は普通です」
ノアの首元を撫でながら笑うひよりを、真樹は静かに見つめた。
その表情は明るい。
いつも以上に機嫌がよさそうだ。
理由を聞く前から、なんとなく分かってしまう。
(佐伯か)
胸の奥が重くなる。
それでも聞く。
「写真、見せた?」
ひよりが顔を上げた。
「うん」
「どうだった」
「見つけたやつで合ってたよ」
「それだけ?」
自分から聞いておいて、真樹は内心で嫌になる。
ひよりは少し照れたように笑った。
「ちょっと話した」
「何を」
「文化祭のときのこと」
真樹は歩き始める。
ひよりもノアを一度撫でてから隣へ並んだ。
「佐伯君、去年私が最後まで残って作業してたの覚えてた」
「……そう」
「北条君、その返事絶対嫌なやつ」
「嫌だよ」
ひよりは一瞬驚き、そのあと苦笑した。
「ほんと素直」
「今さら誤魔化してもお前にばれるから」
「それはそうかも」
「で?」
「何?」
「まだあるだろ」
ひよりは真樹を見る。
「聞きたいの?」
「……聞きたくないけど、知りたい」
「やっぱり北条君だね」
「笑うな」
「ごめん」
ひよりは少しだけ頬を緩めた。
「佐伯君にね、最近私から話しかけるようになったって言われた」
「見てたんだ」
「うん」
「それで?」
「私から声かけられるの、普通に嬉しいって」
真樹の足取りが一瞬だけ遅くなった。
ひよりは気づいたが、何も言わない。
「……よかったな」
真樹が言う。
声は平坦だった。
「うん。嬉しかった」
「そう」
「北条君」
「何」
「無理してない?」
真樹はひよりを見る。
「何が」
「今の『よかったな』」
「応援じゃない。お前が嬉しかったなら、それはよかったってだけ」
ひよりは数秒黙った。
そして、ゆっくり笑う。
「そっか」
「ああ」
「ありがとう」
「礼言われることじゃない」
「でも嬉しい」
真樹は前を向いた。
颯太との距離が縮まったことは嬉しくない。
ひよりが嬉しかったことまで否定したいわけではない。
蓮が言っていたことを思い出す。
相手に幸せでいてほしい気持ちと、自分を見てほしい気持ちは同時に存在する。
今なら、その意味がよく分かった。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いたあと、ひよりはなかなか本題を切り出せずにいた。
颯太との会話を話すことはできた。
けれど、告白の日を決めようとしていることを伝えるのは、それとは違う緊張がある。
真樹は応援できないと言った。
それでも終わったあとには話を聞くと言ってくれた。
だから言いたい。
言うと約束もした。
「北条君」
「何」
「話ある」
真樹の胸が嫌な予感に締めつけられた。
「……何」
「佐伯君のこと」
予感が当たる。
真樹は立ち止まらなかった。
ノアも一定の歩調で前へ進んでいる。
「告白する日」
ひよりが一度息を吸った。
「金曜日にしようかなって思ってる」
真樹の足が止まった。
今度は完全に。
ノアが数歩先で振り返る。
ひよりも止まり、真樹を見る。
「……金曜?」
「うん」
「今週の?」
「うん」
あと四日。
それだけしかない。
真樹は何か言おうとしたが、すぐには声が出なかった。
「まだ佐伯君の予定は聞いてないよ」
「……そう」
「明日か明後日に、金曜日の放課後少し時間あるか聞こうと思ってる」
「そう」
「北条君」
「何」
「嫌?」
真樹はひよりを見る。
以前なら「別に」と言ったかもしれない。
もう嘘をつく意味はない。
「嫌」
はっきり答えた。
ひよりの目が少し大きくなる。
「すごく?」
「かなり」
「そっか」
「悪い」
「謝らなくていいよ」
ひよりは怒っていない。
ただ、真樹の表情をじっと見ている。
「でも、言ってくれてありがとう」
「何で礼言うんだよ」
「本当のこと言ってくれたから」
真樹は視線を逸らした。
「応援はできない」
「うん」
「頑張れとも言えない」
「分かってる」
「……でも」
そこで言葉を止める。
ひよりが待つ。
「お前が決めたなら、止めない」
ひよりの胸が少しだけ痛んだ。
どうして痛んだのか、自分でも分からない。
真樹が応援してくれないことは分かっていた。
それでも「止めない」と言われた瞬間、なぜか少し寂しいと思ってしまった。
(何で?)
自分は颯太へ告白したい。
真樹に止めてほしいわけではない。
それなのに。
「天野?」
「……ううん」
「何」
「何でもない」
真樹が眉を寄せる。
「お前の『何でもない』も分かるようになってきたけど」
「ずるい」
「お互い様だろ」
「……ちょっとだけ」
ひよりは言葉を探した。
「北条君に止めないって言われたら、寂しかった」
真樹の呼吸が一瞬止まる。
「何で」
「分かんない」
「お前が告白するんだろ」
「うん」
「俺に止めてほしいの?」
「それも違う」
「じゃあ何」
「だから分かんないの」
ひよりは困ったように笑った。
「変だよね」
真樹は何も言えなかった。
ひよりのその感情に、自分にとって都合のいい意味をつけたくない。
まだ颯太を好きだと言っている相手へ、勝手な期待を向けるのは違うと思った。
「分かんないなら、そのままでいいんじゃない」
真樹は静かに言う。
「北条君がそれ言う?」
「俺もずっと分からなかったから」
「今は分かったんでしょ?」
「……まあ」
「何が分かったの?」
「それはまだ言わない」
「ずるい」
「待つって言っただろ」
「言ったけど」
ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
それでも、真樹が今すぐ答えないことを責めはしなかった。
二人は再び歩き始める。
ただ、先ほどまでより互いのことを意識する距離が、ほんの少しだけ近く感じられた。
◇ ◇ ◇
「金曜日、告白したあと」
遊歩道の半ばまで来たところで、真樹が口を開いた。
「うん」
「公園来る?」
ひよりは少し驚いた。
「結果に関係なく?」
「ああ」
「北条君、いる?」
「いる」
「ずっと?」
「時間分からないなら待つ」
ひよりは足を止めそうになった。
「でも、何時になるか分からないよ」
「連絡くれればいい」
「遅くなるかもしれない」
「暗くなりすぎたら場所変える」
「そこまでして?」
「話聞くって言っただろ」
真樹は当たり前のように答えた。
ひよりの胸の奥が、じわりと温かくなる。
「もし、うまくいったら?」
真樹の表情が少し固まる。
「……それでも」
「私、たぶんすごく嬉しそうだよ」
「だろうな」
「佐伯君の話いっぱいするかも」
「それは嫌」
即答され、ひよりは思わず笑った。
「じゃあ行かないほうがいいじゃん」
「それはもっと嫌」
「またそれ」
「悪いかよ」
「ううん」
ひよりは首を振った。
「北条君らしい」
そして少しだけ声を柔らかくする。
「じゃあ、行く」
「うん」
「振られても行く」
「ああ」
「泣いてるかもしれないよ」
「別にいい」
「鼻真っ赤かも」
「どうでもいい」
「すごい顔かも」
「見慣れてる」
「ひどい!」
「冗談」
真樹が少し笑う。
ひよりも笑った。
その笑いが落ち着いたあと、真樹は静かに続ける。
「どっちでも来ればいい」
ひよりが真樹を見る。
「うまくいっても、駄目でも。話したいなら来ればいい」
「……うん」
「無理に笑わなくていいし、無理に平気なふりもしなくていい」
「うん」
「それくらいならできる」
応援はできない。
頑張れとも言えない。
それでも待つことはできる。
ひよりが選んだ結果を聞くこともできる。
今の真樹にできるのは、それだけだった。
「北条君」
「何」
「私、北条君と友達になれてよかった」
真樹の胸が痛む。
友達。
今のひよりにとっては、その言葉が最大限の信頼なのだと分かっている。
だから嫌いにはなれない。
けれど、もう自分はその場所だけでは満足できなくなっている。
「……そっか」
「北条君は?」
真樹は少しだけ考えた。
「俺も、お前と会えてよかった」
ひよりが驚く。
「友達になれて、じゃないんだ」
真樹はひよりを見る。
「そこは今、言わない」
「何それ」
「そのうち分かる」
「また秘密増えた」
「一個だろ」
「いっぱいあるよ。答え出たこととか、佐伯君のこと嫌な理由とか、最近素直になった理由とか」
「全部つながってる」
ひよりの足が止まった。
「……全部?」
「ああ」
「同じ答え?」
「大体」
真樹はそれ以上言わずに歩く。
ひよりは数秒遅れて追いかけた。
(全部つながってる?)
颯太の話が嫌。
告白を応援できない。
自分に彼氏ができても会いたい。
自分を特別だと言う。
最近、自分を見ることが増えた。
会えて嬉しいと素直に言うようになった。
それらが全部、一つの答えにつながっている。
ひよりの胸が急に落ち着かなくなった。
(……待って)
考えれば考えるほど、昨日打ち消した可能性がまた浮かんでくる。
そんなはずはない。
そう思う一方で、完全には否定できなくなっていた。
「北条君」
「何」
「やっぱりちょっとだけ教えて」
「嫌」
「一文字」
「無理」
「最初の文字」
「クイズじゃない」
「ヒント」
「ない」
「けち」
「待てって」
真樹は少し笑う。
ひよりは不満そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。
けれど、胸の奥へ生まれた疑問だけは消えてくれなかった。
◇ ◇ ◇
散歩を終え、公園の入口へ戻るころには日がかなり傾いていた。
「明日も来る?」
ひよりが尋ねる。
「来る」
「私も」
「佐伯に金曜のこと聞く?」
「明日は……まだ分かんない」
「そう」
「聞いたら連絡する」
「俺に?」
「うん」
「藤崎にも?」
「千夏にも」
「どっちが先」
ひよりが目を丸くした。
「気にするの?」
「……ちょっと」
「それ、嫉妬?」
「藤崎に?」
「うん」
「多分、違う」
「多分なんだ」
「お前が誰に最初に話すのか気になるだけ」
「それを嫉妬って言うんじゃない?」
「知らない」
「北条君、嫉妬多いね」
何気なく言われ、真樹は少し黙った。
「……そうかもな」
「認めるんだ」
「最近分かったから」
「何が?」
ひよりがすぐに食いつく。
真樹は少し笑った。
「言わない」
「もう!」
「明日も会うんだろ」
「会うけど」
「ならそのうち分かる」
「北条君が言うまで?」
「多分」
「長そう」
「どうだろうな」
真樹自身にも分からない。
ひよりが颯太へ告白する前に伝えるのか。
結果を見てからにするのか。
そもそも今の関係を壊す危険を冒してまで伝えられるのか。
答えは出ていない。
「じゃあ、また明日」
ひよりが手を上げる。
「ああ」
「今日も会えて嬉しかった?」
もう恒例になりつつある問いに、真樹は以前のように逃げなかった。
「嬉しかった」
「私も」
ひよりが笑う。
その笑顔を見て、真樹も少しだけ笑った。
「金曜日」
「うん?」
「終わったら連絡しろ」
「うん」
「結果はどっちでもいいから」
「分かった」
「待ってる」
その言葉に、ひよりは一瞬だけ胸を締めつけられた。
「……うん」
好きな人へ告白する日。
その日の終わりに、自分を待っている人がいる。
それが今のひよりには、とても心強かった。
◇ ◇ ◇
夜。
ひよりは自室の机へ座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
表示しているのは颯太とのメッセージ画面だった。
文章を入力する。
『佐伯君、金曜日の放課後って少し時間ある?』
そこまで打ち、消す。
「……無理」
まだ送れない。
もう一度打つ。
『金曜日、ちょっと話したいことがあるんだけど』
これも消した。
告白そのものより、呼び出すための一文を送るだけで手が震える。
(明日でもいい)
逃げではない。
今日は日を決めただけでも前進した。
そう思おうとしたところで、スマートフォンへ通知が入った。
真樹からだった。
『帰った?』
『帰ったよ』
『ならいい』
『北条君も?』
『帰ってる』
『ノアは?』
『寝てる』
『早い』
『散歩したからな』
いつものやり取り。
ひよりは少しだけ肩の力を抜いた。
『北条君』
『何』
『金曜日、ほんとに待っててくれる?』
返事はすぐに来た。
『待つ』
『何時になるか分からないよ』
『連絡しろ』
『寒いよ』
『車でも家でも待てる』
『そこまで?』
少しだけ間が空いた。
『そこまで』
ひよりは画面を見つめた。
胸の奥が温かくなる。
同時に、昼間から何度も浮かんでいる疑問がまた顔を出す。
『北条君』
『何』
指が止まる。
『何でそんなに』
そこまで打って、ひよりは消した。
聞かないと約束した。
真樹が言いたくなったら言う。
だから待つ。
『ありがとう』
代わりに送った。
『別に』
すぐに返ってくる。
ひよりは笑った。
『これは照れてる「別に」』
『違う』
『分かるよ』
『面倒だな』
『北条君も私の顔分かるからお互い様』
『文字だけどな』
『確かに』
少し笑ったあと、ひよりは再び颯太とのメッセージ画面を開いた。
真樹が待っている。
その事実が、ほんの少しだけ勇気をくれた。
ひよりはもう一度文章を打つ。
『佐伯君、金曜日の放課後って少し時間ある?』
今度は消さなかった。
ただ、送信ボタンを押す指が止まっている。
心臓が速い。
(送るだけ)
深く息を吸う。
(今度は逃げない)
指先へ力を込めた。
送信。
画面へ自分のメッセージが表示される。
「……送っちゃった」
ひよりはスマートフォンを机へ置き、両手で顔を覆った。
まだ告白したわけではない。
予定を聞いただけ。
それなのに身体中が熱い。
数十秒後、通知音が鳴った。
怖くてすぐには見られない。
それでも、ひよりはゆっくりスマートフォンを手に取った。
『金曜? 大丈夫だよ』
続けて、
『何かある?』
と届く。
ひよりの心臓がさらに速くなった。
『ちょっと話したいことがあって』
震える指で送る。
『分かった。放課後でいい?』
『うん』
『じゃあ金曜な』
『ありがとう』
決まった。
本当に決まってしまった。
「……金曜日」
ひよりは声に出す。
颯太へ告白する。
ずっと好きだった気持ちを伝える。
怖い。
逃げたい。
それでも、同時に少しだけ嬉しかった。
ようやく前へ進める。
ひよりは数分そのまま机へ座っていた。
そして、もう一つの約束を思い出す。
真樹へ最初に言う。
千夏にも伝えるつもりだが、今この瞬間、真っ先に知らせたいと思った相手は真樹だった。
メッセージ画面を開く。
『北条君』
送る。
すぐに既読がついた。
『何』
ひよりは一度だけ息を吸った。
『金曜日、決まった』
送信した。
◇ ◇ ◇
真樹は自室のベッドへ座ったまま、その一文を見つめていた。
『金曜日、決まった』
意味は聞かなくても分かる。
ひよりが颯太へ告白する。
あと四日。
胸の奥が重く沈む。
それでも、返事をしないという選択肢はなかった。
『佐伯に聞いた?』
『うん』
『放課後に少し時間もらった』
『そう』
そこまで打って、真樹は指を止める。
ひよりはきっと今、不安だ。
応援はできない。
頑張れとも言えない。
でも。
『怖い?』
送る。
少しして返事が来た。
『めちゃくちゃ怖い』
真樹は目を閉じた。
自分が望むのは、ひよりが颯太と付き合わない未来だ。
それでも、怖がっているひよりへ「やめれば」とは言いたくなかった。
『そっか』
『うん』
『逃げたくなってる』
真樹は少し考える。
『逃げても俺は責めない』
送る。
すぐに、
『そこは背中押してくれないんだ』
と返ってきた。
『応援できないって言っただろ』
『そうだった』
『でも』
真樹は入力を止める。
何と送るべきか迷った。
『お前が後悔しないほう選べば』
送信する。
既読。
しばらく返事がない。
やがて、
『うん』
『私、言う』
と届いた。
胸が痛む。
『そっか』
『北条君』
『何』
『金曜日、終わったら連絡する』
『分かった』
『待ってて』
真樹は一度だけ深く息を吐いた。
『待ってる』
送信する。
それ以上は何も言えなかった。
頑張れ。
うまくいくといいな。
そんな言葉は、やはり送れない。
代わりに、どんな結果でも待つ。
それだけは嘘ではなかった。
『ありがとう』
『おやすみ』
『まだ寝ないでしょ』
『今日はもう話すことない』
『北条君』
『何』
『会えて嬉しかった?』
こんな日でも、それを聞くのか。
真樹は少し笑った。
『嬉しかった』
『私も』
『じゃあおやすみ』
『うん』
『また明日』
真樹は最後の言葉を見つめる。
また明日。
火曜日。
水曜日には玲奈が来る予定もある。
木曜日が過ぎれば、金曜日。
ひよりが颯太へ気持ちを伝える日。
それまで自分は、どんな顔でひよりの隣にいればいいのだろう。
答えは分からない。
けれど、会わないという選択だけは浮かばなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝ではなく、まだ同じ夜。
ひよりはベッドへ入りながら、今日一日を思い返していた。
颯太と話せた。
去年のことを覚えていてくれた。
自分から声を掛けるのが嬉しいと言ってくれた。
そして、金曜日の約束ができた。
(佐伯君に、言うんだ)
胸が苦しくなるほど緊張する。
それでも、嬉しい。
好きだから。
ずっと好きだったから。
ひよりは布団の中で身体を丸める。
そのとき、別の言葉が浮かんだ。
『待ってる』
真樹の言葉。
金曜日、颯太へ告白したあと、真樹が待っている。
結果がどちらでも。
笑っていても、泣いていても。
ひよりは目を閉じた。
(なんでこんなに安心するんだろ)
答えは出なかった。
ただ、颯太への告白が怖くても前へ進めると思えた理由の中に、真樹の存在が確かにある。
好きな人へ気持ちを伝える。
その先で、自分を待っている人がいる。
まだひよりは、その二人が自分の心の中でどれほど大きな場所を占め始めているのかを知らなかった。
そして真樹もまた、ひよりが颯太へ告白する日まで残された時間の中で、自分の気持ちをどこまで隠し続けられるのかを知らなかった。
金曜日まで、あと四日だった。




