第33話 知ってしまったら、戻れない
日曜日の午後一時三十七分。
天野ひよりは自宅の玄関で靴を履き終えると、立ち上がりながらスマートフォンを確認した。
真樹との待ち合わせは午後二時である。
昨日は二人とも約束より早く公園へ着いており、結局真樹のほうが七分早かった。競争ではないと何度も言われたものの、今日は自分が先に着いて驚かせたいという気持ちが少しだけある。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。暗くなる前には帰ってきなさいね」
リビングから由美の声が返ってくる。
「分かってる」
「ひより!」
続いて聞こえてきた悠一の声に、ひよりは嫌な予感を覚えながら振り返った。
案の定、兄は廊下の向こうからこちらへ歩いてくる。昨日、美月から颯太への告白を考えていることを聞いたらしい悠一は、それ以降何度も何か言いたそうな顔をしていた。
「何?」
「今日も北条と会うんだよな?」
「うん」
「昨日も会ったよな?」
「うん」
「その前も会ってたよな?」
「うん」
「……毎日じゃないか」
「最近ずっとそうだよ?」
ひよりが当然のように答えると、悠一は言葉を失った。
その反応を見ていた美月がリビングの入口から顔を出す。
「お兄ちゃん、今さら気づいたの?」
「気づいてた! 気づいてたけど、休日まで二日連続は別だろ!」
「何が違うの?」
「学校帰りに公園で会うのと、休日に時間を決めて会うのは意味が違う!」
悠一の力説に、ひよりはマフラーを巻きながら首を傾げた。
「昨日も今日もノアの散歩だよ?」
「ノアが万能すぎるんだよ!」
「何それ」
「ノアがいれば何でも許されると思うな!」
「別に許してもらわなくても行くけど」
「ひより!」
「もう約束してるし」
ひよりは笑いながら玄関の扉へ手を掛ける。
以前なら、兄にここまで言われれば少しくらい面倒に感じていたかもしれない。今も面倒ではあるのだが、真樹に会うこと自体をやめようとは少しも思わなかった。
「お兄ちゃん、尾行したら本気で怒るからね」
「しない! 約束しただろ!」
「なら大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
なおも何か言おうとする悠一を、美月が後ろから肩をつかんで止める。
「いってらっしゃい、ひより」
「うん。いってきます」
「美月、待て! 俺はまだ――」
扉を閉めたことで、兄の声は途中で聞こえなくなった。
ひよりは思わず笑いながら歩き出す。
(お兄ちゃん、本当に変わらないなあ)
うるさいし、過保護だし、恋愛が絡むと特に面倒になる。
それでも本気で嫌いになれないのは、悠一が自分を大切にしていることを知っているからだった。
住宅街を抜けながら、ひよりはスマートフォンの時刻をもう一度確認する。
一時四十二分。
ここからなら、かなり早く着ける。
(今日は勝てるかも)
昨日「勝手にしろ」と言われたことを思い出し、口元が自然と緩んだ。
その直後、別のことまで思い出す。
『会えて嬉しかった』
昨夜、真樹のほうから送ってきた言葉。
これまではひよりが何度も聞き、ようやく言わせていた。昨日は違った。何も聞いていないのに、真樹から「楽しかった」「会えて嬉しかった」と送ってきた。
(ほんと、急に素直になったよね)
嬉しい。
それは間違いない。
ただ、どうして急に変わったのかは分からなかった。
昨日の真樹は、近づくと妙に意識したように離れたり、逆にこちらをじっと見ていたり、何かの答えが出たと言いながら教えてくれなかったりした。
そして、嫉妬について何度も聞いてきた。
(何の答えが出たんだろ)
聞けば「今は言わない」と返された。
いつか教えるとは言ってくれた。
それなら無理に聞き出す必要はないと思っている。
けれど、気にならないわけではなかった。
ひよりは歩きながらスマートフォンを開いた。
『今向かってる』
送ろうとして、指を止める。
(送ったら先に来ちゃうかも)
今日は自分が先に着きたい。
そう考えてメッセージを消し、スマートフォンをコートのポケットへ戻した。
◇ ◇ ◇
午後一時四十六分。
公園の入口へ到着したひよりは、目の前の光景を見て足を止めた。
大きな黒犬がいる。
その隣には、当然のように真樹がいた。
「……嘘でしょ」
思わず漏れた声に、先にノアが反応した。
尻尾を揺らし始めたノアに気づき、真樹もこちらを向く。
ひよりは急いでスマートフォンを取り出した。
「何分に来たの!?」
挨拶より先に聞かれ、真樹が眉を寄せる。
「第一声それ?」
「今、四十六分だよ!」
「見れば分かる」
「北条君、いつ来た?」
「さっき」
「さっきって何分?」
「……四十二分」
「早すぎ!」
「お前も十四分前だろ」
「今日は私が先に来るつもりだったの!」
「知らないよ」
真樹は呆れたように言ったが、口元にはわずかな笑みがある。
ひよりは悔しそうにノアの前へしゃがみ込んだ。
「ノア、北条君早すぎない?」
ノアは答える代わりに、ひよりの手へ頭を押しつける。
「ノアは私の味方だね」
「……ノア、お前は誰の味方だよ」
「私」
「勝手に決めるな」
ひよりは笑いながらノアの首元を撫でた。
真樹はその様子を眺めている。
昨日、自分の気持ちを完全に認めた。
一晩経っても、その答えは変わっていない。
むしろ、今日ひよりの姿を見た瞬間に嬉しいと思ったことで、さらに確信が深まった。
(会いたくて早く来たとか、絶対言えないな)
家にいても落ち着かなかった。
どうせ会うなら早く行こうと思った。
結果、約束より十八分も早く着いた。
それをひよりへ正直に説明すれば、昨日以上に怪しまれるだろう。
「北条君」
「何」
「今日も見てる」
「……何を」
「私」
真樹の視線がわずかに揺れる。
ひよりは立ち上がり、自分の服を確認した。
今日は白いニットの上から淡い色のコートを羽織り、下は動きやすいパンツにしている。髪も昨日ほど考えず、普段より少し低い位置でまとめただけだ。
「何か変?」
「別に」
「その『別に』、ほんとに普通?」
「普通」
「昨日から北条君、私のことよく見るよね」
「お前も俺の顔ばっか見てるだろ」
「私は北条君の『別に』研究してるから」
「何だよその研究」
「結構進んでるよ」
「やめろ」
「今日のは……」
ひよりが真樹の顔をじっと見る。
真樹は数秒耐えたあと、視線を逸らした。
「近い」
「まだ近づいてないよ?」
「見るな」
「照れてる?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……髪」
「髪?」
「いつもより下で結んでる」
ひよりは自分の髪へ触れた。
「分かったの?」
「見れば」
「やっぱり見てるじゃん」
「……」
真樹が黙る。
ひよりは嬉しそうに笑った。
「北条君、ほんとよく気づくよね」
「毎日みたいに見てれば分かるって昨日言っただろ」
「そうだけど、嬉しい」
あっさり言われ、真樹の胸がまた大きく揺れた。
「そういうの」
「何?」
「……何でもない」
「また!」
ひよりが不満そうに声を上げる。
真樹は逃げるように歩き始めた。
「散歩行くぞ」
「絶対何か隠してる」
「誰にでも言いたくないことくらいあるだろ」
「それはそうだけど」
「なら待て」
「何を?」
「俺が言うまで」
ひよりは少し驚き、それから歩きながら真樹の隣へ並んだ。
「いつか言ってくれる?」
「ああ」
「じゃあ待つ」
その返答はあまりにも素直だった。
真樹が横を見ると、ひよりは前を向いて歩いている。
「聞かないの?」
「北条君が言いたくなったら言えばいいよ」
「気になるんじゃないの」
「気になるよ。すごく」
「なら聞けば」
「聞いても今は言わないんでしょ?」
「……まあ」
「だったら待つ」
ひよりは少し笑った。
「北条君、私が無理に笑わなくていいって言ってくれたじゃん。私も北条君が言いたくないことまで無理に言わせたくない」
真樹はしばらく何も言えなかった。
こういうところだ。
ひよりを好きになった理由を一つに絞ることはできない。
明るく笑う顔も好きだし、自分へ遠慮なく文句を言うところも、一緒にいると楽なところも好きだ。
けれど、相手が嫌がる一線を越えない優しさにも、何度も救われている。
「天野」
「うん?」
「ありがと」
ひよりが目を丸くした。
「今日どうしたの?」
「何が」
「素直すぎる」
「礼くらい言う」
「前から言えた?」
「……帰る?」
「ごめんなさい」
ひよりは笑いながら謝った。
真樹も小さく息を吐き、口元を緩める。
日曜日の散歩は、そんな穏やかな空気から始まった。
◇ ◇ ◇
公園の奥へ進むにつれ、人の姿は少しずつ減っていった。
冬の木々は葉を落としたものが多く、枝の間から淡い青空がよく見える。日差しはあるものの風は冷たく、遊歩道の端には昨日より多くの落ち葉が集まっていた。
ノアがその落ち葉へ鼻先を近づけるたび、乾いた音が小さく響く。
「水曜日、玲奈さん来るんだよね」
ひよりが口を開いた。
「ああ」
「何時くらい?」
「学校終わってからだから、いつもと同じくらいじゃない」
「楽しみ」
「俺は不安」
「昔話?」
「それ以外ないだろ」
「そんなに知られたくないことあるの?」
「別にないけど、一ノ瀬は昔から知ってるから何言うか分からない」
「じゃあいっぱい聞こう」
「お前、人の話聞いてる?」
ひよりは楽しそうに笑う。
「北条君、小さいころどんな子だった?」
「普通」
「絶対それで終わらせると思った」
「他に何言えばいいんだよ」
「泣き虫だったとか」
「違う」
「寂しがり屋?」
「違う」
「甘えん坊?」
「違う」
「じゃあ玲奈さんに聞く」
「全部違うからな」
「まだ聞いてないのに?」
「先に言っとく」
真樹は面倒そうに答える。
その横顔を見ながら、ひよりは少しだけ想像した。
幼い真樹と玲奈。
二人は同じような家柄の中で育ち、昔から互いを知っている。
自分が知らない真樹を、玲奈はたくさん知っている。
以前にも感じた小さなざわつきが、また胸の奥に生まれた。
(羨ましいだけ)
ひよりはそう整理する。
自分も真樹のことを知りたいから、先に知っている玲奈が羨ましい。
それだけだ。
「天野」
「ん?」
「今度はお前が変な顔してる」
「してないよ」
「してる」
「北条君に言われたくない」
「一ノ瀬の話してからだろ」
ひよりの視線が揺れた。
「……北条君も私の顔分かりすぎじゃない?」
「お互い様だろ」
「そうだけど」
真樹は少し迷ったあと、尋ねる。
「一ノ瀬が来るの嫌?」
「違うよ。楽しみ」
「なら何」
「……羨ましいだけ」
「何が?」
ひよりは手袋をした手をコートのポケットへ入れた。
「玲奈さん、北条君の昔いっぱい知ってるでしょ」
「まあ」
「私は最近の北条君しか知らないから」
「それ、この前も言ってたな」
「うん」
「そんなに昔知りたい?」
「知りたい」
即答だった。
「何で」
「北条君だから」
真樹の足が一瞬止まりかける。
「……答えになってない」
「私の中ではなってるよ」
「どういう意味」
「大事な友達のことなら知りたいでしょ?」
最後に付いた「友達」という言葉へ、真樹の胸が少しだけ痛んだ。
昨日までより、その痛みの理由ははっきりしている。
「そっか」
「北条君は私の昔、知りたくない?」
「知りたい」
今度は真樹が即答した。
ひよりが驚いてこちらを見る。
「……ほんとに今日素直だね」
「聞いたのお前だろ」
「そうだけど」
「昔どんなだったかも知りたいし、中学のころとか、今まで何があったとかも知りたい」
「そんなに?」
「ああ」
「何で?」
同じ問いを返される。
真樹は答えに詰まった。
本当の答えは分かっている。
好きだから。
ひよりのことなら、今まで知らなかった時間まで知りたい。
けれど、それはまだ言えない。
「……特別だから」
代わりに出したのは、昨日まで二人の間で使っていた言葉だった。
ひよりの目が少し大きくなる。
「友達の中で?」
「今はそれでいい」
「今は?」
真樹は自分の失言に気づいた。
「言い方の問題」
「怪しい」
「気にするな」
「北条君、最近怪しいこと多いよ」
「お前が細かいんだよ」
「でも特別なんだ」
「……そうだよ」
否定はしなかった。
ひよりは少しだけ頬を緩める。
「私も北条君は特別」
真樹は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
同じ「特別」という言葉を使っている。
けれど、二人の中でその意味はもう同じではなかった。
◇ ◇ ◇
散歩の途中、ノアが芝生広場の近くで足を止めた。
昨日とは違い、今日は子どもたちが少なく、少し離れた場所で親子がバドミントンをしている程度だった。
「ちょっと座る?」
ひよりがベンチを指す。
「いいけど」
二人は並んで腰を下ろした。
ノアはその前へ伏せる。
しばらくは何も話さず、風に揺れる木々や広場を眺めていた。
沈黙は気まずくない。
それも、二人の関係が変わったことの一つだった。
最初のころなら、ひよりは何か話さなければと思っていたはずだ。今は黙ったまま真樹の隣にいても、無理に笑ったり話題を探したりする必要を感じない。
「北条君」
「ん?」
「静かでも平気だね」
「何が」
「私たち」
真樹が横を見る。
ひよりは前を向いたままだった。
「前だったら、私たぶん何か喋らなきゃって思ってた」
「今は?」
「別にいいかなって」
「俺も」
「ほんと?」
「ああ。喋りたくなったら喋ればいいだろ」
「うん」
ひよりは穏やかに笑った。
「楽」
「昨日も言ってたな」
「北条君といると楽なんだよね」
真樹はその言葉を聞きながら、自分も同じだと思った。
ひよりの前では、自分の家柄に合わせて振る舞う必要がない。
北条財閥の後継者として見られることもない。
ひよりにとって自分は、ノアの飼い主として出会った少し感じの悪い同年代の男子で、その関係から始まった。
今では大切な友達。
真樹にとっては、それ以上。
「天野」
「何?」
「お前、俺の家のことどれくらい知ってる?」
突然の質問に、ひよりは少し考えた。
「お金持ち」
「雑だな」
「だってちゃんと聞いてないもん。車もすごかったし、相沢さんいるし、家も大きそうだし、桜陵だし」
「それくらい?」
「うん」
「気にならないの?」
「気になるよ」
「じゃあ何で聞かない」
ひよりは首を傾げた。
「北条君が話したくなったら話すかなって」
「またそれ?」
「だって家のことって、本人が言いたくないなら無理に聞くものじゃないでしょ」
真樹は少し黙った。
ひよりは、自分がどの程度の家の人間なのかをまだ正確には知らない。
もし知れば、態度が変わるのだろうか。
以前ならその可能性を強く警戒していた。
今は――。
(天野なら変わらない気がする)
そう思える自分がいた。
それは真樹にとって、かなり大きな変化だった。
「そのうち話す」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ待ってる」
「驚くかもよ」
「そんなに?」
「多分」
「実は王子様とか?」
「日本に何期待してんだよ」
「じゃあ大富豪」
「……」
真樹が黙ったため、ひよりは笑う。
「冗談だよ」
「そう」
「でも、北条君がどんな家でも北条君でしょ?」
何気なく言われた一言に、真樹の表情が止まった。
ひよりは気づかず続ける。
「もちろんびっくりはするかもしれないけど、急に別人になるわけじゃないし。私が知ってる北条君は、ノア大好きで、口悪いけど優しくて、意外と面倒見よくて、素直じゃないけど最近ちょっと素直になってきた北条君だから」
「……褒めてる?」
「かなり」
「口悪い入ってるけど」
「事実」
ひよりは楽しそうに笑った。
真樹はしばらく彼女の横顔を見つめた。
(やっぱり、好きだな)
昨日までなら、ここでまた理由を探していたかもしれない。
今は違う。
こういう言葉を簡単に言えるひよりだから好きなのだと思える。
「天野」
「うん?」
「お前、たまにすごいこと言うよな」
「何が?」
「分からないならいい」
「またそれ」
ひよりは不満そうだったが、真樹はそれ以上説明しなかった。
今説明すれば、言わなくていいところまで言ってしまいそうだった。
◇ ◇ ◇
しばらくして二人が再び歩き始めたころ、ひよりのスマートフォンが短く震えた。
「ごめん」
コートのポケットから取り出して画面を見る。
表示された名前に、ひよりの表情が少し明るくなった。
真樹はそれを見逃さなかった。
「誰」
聞いてから、自分でも早すぎたと思う。
「佐伯君」
胸の奥が重くなる。
昨日までなら理由の分からない不快感として処理していた。
今日は違う。
(はい、嫉妬)
自覚すると、逆に少し冷静になれるのが腹立たしい。
「何だって?」
「明日の写真のこと」
ひよりはメッセージを読みながら答える。
『宮田が探してた写真、明日見せてもらってもいい?』
それだけの内容だった。
ひよりは、
『もちろん。何枚か見つけたよ』
と返信する。
少しして、
『助かる。ありがとう』
と返ってきた。
「明日見せるって」
「そう」
「また嫌そう」
「嫌だから」
真樹はもう否定しなかった。
ひよりが目を丸くする。
「そこも素直になったね」
「毎回誤魔化すの面倒になった」
「何で嫌なの?」
真樹は黙る。
ここだけはまだ言えない。
「それは言わない」
「答え出たことと関係ある?」
鋭い。
真樹はひよりを見る。
「……ある」
ひよりの足が止まりかけた。
「あるんだ」
「ああ」
「じゃあ、北条君が昨日考えてたことって、佐伯君に関係あるの?」
「ある」
「私にも?」
真樹は数秒黙った。
ここで嘘をつくこともできる。
けれど、ひよりが「答えが出るまで待つ」と言ってくれたのに、わざわざ嘘を重ねるのは違うと思った。
「ある」
ひよりは完全に足を止めた。
真樹とノアも止まる。
「私に関係あるんだ」
「あるけど、今は聞くな」
「……うん」
ひよりは約束どおり、それ以上聞かなかった。
ただ、胸の奥には今までより大きな疑問が残った。
真樹が昨日から考えていたこと。
その答え。
颯太に関係があり、自分にも関係がある。
そして真樹は、颯太への告白を応援できないと言った。
(何だろう)
一瞬だけ、ある可能性が頭をよぎった。
けれど、ひよりはすぐに打ち消す。
(違うよね)
真樹は自分を特別な友達だと言っている。
それに、これまで恋愛らしい態度を向けられた覚えもない。
いや、昨日からは少し変だ。
近づけば意識したように離れ、こちらを見る回数が増え、会えて嬉しいと自分から言うようになった。
(……何考えてるの、北条君)
分からない。
けれど、聞かないと決めた。
だからひよりはスマートフォンをしまい、歩き始める。
「明日、佐伯君と話すんだな」
真樹が静かに言った。
「うん」
「告白は?」
「明日はしないよ」
その返答に、真樹の肩からほんの少し力が抜ける。
ひよりは気づいた。
「安心した?」
「……ちょっと」
「何で?」
「それも今は言わない」
「ずるい」
「待つって言っただろ」
「言ったけど、こんな気になると思わなかった」
「悪い」
「謝らなくていいよ」
ひよりは苦笑した。
「でも私も、そろそろ決めなきゃ」
「告白する日?」
「うん」
真樹の表情から笑みが消える。
ひよりは前を向いたまま続けた。
「ずっと『もっと普通に話せるようになったら』って思ってたけど、どこまでいけば普通なのか分からないし」
「……そうだな」
「もしかしたら、待ってる理由にしてるだけなのかなって」
「怖いから?」
「うん」
ひよりは正直に頷いた。
「怖いよ。振られるのも、今みたいに話せなくなるのも」
真樹は何も言わずに聞く。
「でも、バレンタインのときみたいに、渡せなかったことをずっと後悔するのも嫌なの」
あの日。
ひよりが渡せなかったクッキー。
そして、その帰り道でノアと出会った。
真樹にとっても、すべての始まりにつながる出来事だった。
「だから、近いうちに言う」
ひよりの声には迷いがあり、それでも以前より強い意志があった。
真樹は胸の奥が痛むのを感じた。
止めたい。
言うなと言いたい。
颯太ではなく自分を見てほしい。
そんな感情は確かにある。
けれど、それを今ぶつけるのは違う。
「……そっか」
それしか言えなかった。
ひよりが横を見る。
「やっぱり応援はしてくれない?」
「できない」
「即答だ」
「悪い」
「いいよ」
ひよりは小さく笑った。
「北条君は終わったあと聞いてくれるから」
「ああ」
「それで十分」
十分。
真樹にとっては、十分ではなかった。
けれど今は、それ以上を求める資格もない。
◇ ◇ ◇
公園を一周し終えたころには、空の色が少しずつ夕方へ近づいていた。
二人は入口へ向かって歩きながら、明日の予定や学校の話をしていた。
「明日は普通に学校か」
「当たり前でしょ」
「休日終わるの早い」
「北条君もそういうこと思うんだ」
「何だと思ってるの」
「休み明けでも無表情で学校行きそう」
「顔に出ないだけ」
「じゃあ内心は?」
「帰りたい」
ひよりが声を上げて笑った。
「普通の高校生じゃん」
「普通だよ」
「桜陵ってもっとみんな真面目なのかと思ってた」
「人による。蓮なんか普通に授業中眠そうにしてるし」
「神崎君、そうなんだ」
「教師に当てられると答えるから余計腹立つ」
「頭いいんだね」
「そこそこ」
「北条君は?」
「普通」
「絶対普通じゃない」
「何で」
「前に数学教えてくれるって言ったでしょ。自信ない人は言わないよ」
「お前よりはできる」
「言ったな」
「事実」
「今度ほんとに教えてもらうからね」
「いいけど」
「じゃあテスト前お願いしようかな」
何気ない未来の約束が一つ増える。
真樹は、それだけで嬉しかった。
ひよりの中に自分と過ごす次の予定が自然に作られていく。
明日ではなく、もっと先にも。
「北条君?」
「何」
「また嬉しそう」
「してない」
「数学教えるの楽しみ?」
「別に」
「これは照れてるほう」
「分類すんな」
「当たってる?」
「知らない」
ひよりは笑う。
公園の入口が近づいたところで、ノアが突然ひよりの横へ寄り、身体を軽く押しつけた。
「わっ」
ひよりの身体が少し傾く。
真樹は反射的に手を伸ばしかけたが、ひよりは自分で体勢を戻した。
「ノア、急にどうしたの?」
ひよりが笑いながらノアを撫でる。
「危ないだろ」
真樹はノアへ言ったあと、ひよりを見る。
「大丈夫?」
「うん。ちょっとびっくりしただけ」
「ならいいけど」
伸ばしかけた手をコートのポケットへ戻す。
その動きを、ひよりはなんとなく見ていた。
助けようとしてくれたのだと分かる。
「北条君」
「何」
「ありがと」
「何もしてない」
「しようとしてくれた」
「転んだら面倒だから」
「はいはい」
「何だよ」
「優しい『別に』と同じやつ」
「言ってない」
「もう言葉なくても分かるようになってきた」
「怖いな、お前」
「北条君も私の顔分かるでしょ」
「まあ」
「じゃあお互い様」
ひよりは満足そうに笑った。
真樹も否定しなかった。
◇ ◇ ◇
入口へ着くと、二人はいつものように立ち止まった。
「明日は公園来る?」
ひよりが尋ねる。
「来るけど」
「私、佐伯君に写真見せるから少し遅くなるかも」
真樹の表情がわずかに変わる。
「……分かった」
「連絡するね」
「ああ」
「待っててくれる?」
「連絡あるなら待つって前から言ってるだろ」
「うん」
ひよりは少し笑った。
「北条君が待っててくれるって分かってると安心する」
真樹は一瞬言葉を失う。
「何で」
「遅くなっても、行けばいるって思えるから」
「……そう」
「だから明日も行く」
「無理に来なくてもいいけど」
「行きたいの」
また、簡単にそんなことを言う。
真樹は好きだと認めてから、ひよりの何気ない言葉一つ一つに以前より強く反応してしまう自分を感じていた。
「北条君?」
「分かった。待ってる」
「うん」
「ちゃんと連絡しろよ」
「します」
ひよりは一歩後ろへ下がった。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「今日は聞かなくても言ってくれる?」
「何を」
「分かってるくせに」
ひよりが期待するように見つめる。
真樹は少しだけ笑った。
「会えて嬉しかった」
昨日より自然に言えた。
ひよりの顔がすぐに明るくなる。
「私も」
「知ってる」
「またそれ」
「顔見れば分かる」
「じゃあ、北条君の顔も分かるよ」
「何が」
「今、私が嬉しそうだから北条君も嬉しい」
真樹は否定しようとして、やめた。
「……そうかもな」
ひよりが目を丸くする。
「認めた」
「たまには」
「今日ほんと素直」
「帰れ」
「照れた」
「早く帰れ」
「はいはい」
ひよりは楽しそうに手を振り、歩き出した。
数歩進んだところで振り返る。
真樹はまだそこにいる。
ノアもいる。
「北条君!」
「何」
「明日、遅くなっても行くからね!」
「分かった!」
「待ってて!」
「分かったって!」
ひよりは満足すると、今度こそ前を向いて歩いていった。
真樹はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に二つの感情が同時に存在していることを感じていた。
明日も会える嬉しさ。
その前に、ひよりが颯太と二人で話すことへの嫉妬。
「……面倒だな、ほんと」
呟く。
けれど、もうその感情を否定することはなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、桜陵学園の生徒たちが使っているグループチャットとは別に、真樹のスマートフォンへ蓮から個人的なメッセージが届いた。
『真樹、生きてる?』
意味の分からない文章に眉を寄せる。
『何』
『金曜から連絡ないから』
『二日だろ』
『例の一般論、答え出たかなと思って』
真樹はしばらく画面を見つめた。
蓮にはかなり前から気づかれている。
自分が名前を出さなくても、相手がひよりだと分かっているはずだ。
それでも蓮は無理に答えを言わせなかった。
真樹は短く打つ。
『出た』
既読はすぐについた。
『おお』
『で?』
『何が』
『聞いてほしい? 聞かないほうがいい?』
その聞き方に、真樹は少し笑った。
『どっちでも』
『じゃあ聞く』
『天野さんのこと好き?』
真正面から文字にされると、まだ少しだけ落ち着かない。
それでも、今度は逃げなかった。
『多分』
送信したあと、すぐに蓮から返ってくる。
『そこまで来てまだ多分なんだ』
『うるさい』
『じゃあ質問変える』
『天野さんが佐伯と付き合ったら嫌?』
『嫌』
『天野さんに会いたい?』
『会いたい』
『他の男と仲良くしてたら?』
『気になる』
『天野さんに自分を見てほしい?』
真樹の指が止まる。
少し考えてから、
『思う』
と返した。
数秒後。
『おめでとう』
『何が』
『初恋』
『殺すぞ』
『怖い怖い』
真樹は額へ手を当てた。
文字にして並べられると、逃げ道など最初から存在していなかったことがよく分かる。
『本人には言った?』
『言うわけないだろ』
『まあ、今は佐伯がいるもんね』
『告白するつもりらしい』
返事まで少し間が空いた。
『天野さんが?』
『ああ』
『それ聞いてるのきついね』
『応援してって言われた』
『うわ』
『無理って言った』
『それは無理だわ』
蓮の返事に、真樹は少しだけ救われた。
『邪魔はしないの?』
次の問いには、迷わず答える。
『しない』
『何で?』
『天野が自分で決めることだから』
しばらく既読だけが残った。
やがて蓮から、
『真樹、ちゃんと好きなんだね』
と届いた。
真樹はその文章を見つめる。
好きだからこそ、自分を選んでほしい。
けれど、好きだからといって相手の選択を奪っていいわけではない。
そんな当たり前のことを、今の自分は嫌というほど感じている。
『多分な』
最後の抵抗のように返す。
『はいはい』
『うるさい』
『でもさ』
『何』
『何もしないまま終わっても後悔しない?』
真樹の指が止まった。
その問いだけは、すぐに答えられなかった。
ひよりが颯太へ告白し、もしその恋が叶ったら。
自分はそのとき、何も言わなかったことを後悔しないのか。
分からない。
ただ、今すぐ気持ちを伝えてひよりを困らせることもしたくない。
『今は分からない』
『そっか』
『でも、自分で決めなよ』
『天野さんと同じで』
真樹は最後の一文を見て眉を寄せた。
『何で知ってるみたいに言うんだよ』
『真樹から聞いた話だけでも、そういう子っぽいから』
真樹は少し考え、否定しなかった。
『そうだな』
蓮とのやり取りを終えたところで、別の通知が届く。
ひよりだった。
『北条君』
『何』
『明日、写真見せたあと連絡するね』
『分かった』
『たぶんそんなに遅くならないと思う』
『別に急がなくていい』
『でも待ってるんでしょ?』
『まあ』
『じゃあ急ぐ』
『走るなよ』
『走らないよ』
少し間が空く。
『北条君』
『何』
『今日も楽しかった』
真樹は画面を見ながら、自然と笑った。
『俺も』
もう、この二文字を送ることに以前ほど抵抗はない。
『明日も会えるね』
『そうだな』
『楽しみ?』
真樹は少し考えた。
以前なら「別に」と返していただろう。
けれど今日は、自分の感情へ嘘をつかないと決めたばかりだった。
『楽しみ』
送信する。
既読がついたあと、しばらく返事がない。
『天野?』
『いる』
『どうした』
『北条君が素直すぎてびっくりしてた』
『じゃあ取り消す』
『だめ!』
『スクショした』
『お前そればっかだな』
『だって嬉しいから』
その一文を見て、真樹はまた笑った。
自分が素直になれば、ひよりが嬉しそうにする。
それなら少しくらい、以前より素直でもいいのかもしれない。
『おやすみ』
『まだ早くない?』
『もう話すことない』
『ひどい』
『明日話せばいいだろ』
送ってから、真樹は自分で少し驚いた。
明日話せばいい。
明日も会えることを、当然のように考えている。
『それもそうだね』
『じゃあ明日いっぱい話す』
『ほどほどにしろ』
『無理』
『知ってる』
『おやすみ、北条君。また明日』
『おやすみ。また明日』
やり取りが終わる。
真樹はスマートフォンを置き、床で横になっているノアへ視線を向けた。
「明日、天野は佐伯と話すって」
ノアの耳が動く。
「嫌だけどな」
以前なら、そのあとに「何で嫌なのか分からない」と続けていた。
今は違う。
「好きだから嫌なんだよ」
口にすると、やはり少しだけ恥ずかしい。
けれど、否定する気にはならなかった。
「でも邪魔はしない」
ノアは静かに真樹を見ている。
「……そのあと、あいつがどうするかだな」
ひよりの恋がどうなるのか。
そして、その結果を見た自分がどうするのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ、もう以前には戻れないことだけは分かっていた。
ひよりをただの友達だと思っていたころには戻れない。
会いたい理由も、嫉妬する理由も、笑ってほしい理由も知ってしまった。
知ってしまった以上、その感情をなかったことにはできない。
◇ ◇ ◇
同じころ、ひよりも自室のベッドでスマートフォンを眺めていた。
『楽しみ』
真樹から届いたその一文を、また見返している。
以前なら絶対に送ってこなかった。
ひよりは枕へ頬を押しつけながら、小さく笑った。
(北条君、ほんと変わった)
嬉しい。
それなのに、胸の奥には少しだけ別の感覚もある。
今日、真樹は「答えが出た」と言った。
それは颯太にも、自分にも関係がある。
告白を応援できない理由とも、おそらくつながっている。
そこまで考えると、どうしても一つの可能性が浮かびそうになる。
「……まさかね」
ひよりは小さく呟き、スマートフォンを伏せた。
自分には颯太という好きな人がいる。
その気持ちは今も変わっていない。
明日は文化祭の写真を見せる。
そして、そろそろ本当に告白する日を決める。
そこへ真樹のことまで考え始めたら、自分の気持ちが分からなくなりそうだった。
(北条君は特別な友達)
今は、それでいい。
そう思って目を閉じようとしたところで、真樹の言葉が蘇った。
『会いたい』
昨日、自分に彼氏ができても会いたいとはっきり言った声。
『会えて嬉しかった』
今日も自然に言ってくれた言葉。
『特別だから』
自分の昔を知りたい理由として返された言葉。
ひよりは布団の中でゆっくり目を開いた。
「……気になる」
真樹が出した答えを、知りたい。
けれど、知ってしまったら何かが変わるような気もする。
その予感が正しいのかどうかさえ、今のひよりには分からなかった。
ただ、明日になれば颯太と話し、そのあとには真樹が待っている。
以前なら、その二つを同じ一日の中でこれほど強く意識することはなかった。
ひよりは再びスマートフォンを手に取り、最後に交わした『また明日』を見つめた。
颯太へ近づきたい気持ちは本物だ。
真樹に会いたい気持ちも、同じように本物だった。
まだその二つの違いを、ひより自身だけが知らなかった。




