第32話 好きだと認めた土曜日
土曜日の朝、北条真樹はいつもより少し遅い時間に目を覚ました。
平日のように学校へ行く必要はない。それでも完全に寝坊したというほどではなく、枕元の時計を確認すれば、午前八時を少し回ったところだった。カーテンの隙間から差し込む冬の日差しは淡く、暖房の効いた部屋には昨夜から続く静かな温もりが残っている。
真樹は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
通知は数件あったが、最初に確認したのはひよりとのメッセージだった。
昨夜最後に交わしたのは、『おやすみ。また明日』という、最近ではすっかり馴染んだ言葉である。
その少し上には、もっと厄介なやり取りが残っていた。
『じゃあ嫉妬?』
ひよりが軽い調子で送ってきた一文を見た瞬間、昨夜考えていたことまでまとめて蘇ってくる。
颯太の話を聞けば面白くない。ひよりが颯太へ告白しようとしていることを応援できないし、もし付き合うことになれば嫌だと思う。海斗や蓮がひよりと親しくなることも気になるうえ、玲奈とひよりが自分を介さず仲良くなることにさえ、わずかな落ち着かなさを覚えた。
そして何より、ひよりに自分を見てほしいと思っている。
真樹はスマートフォンを持ったまま、枕へ後頭部を沈めた。
(……朝になったら、少しくらい馬鹿らしくなってるかと思ったんだけどな)
寝て起きれば、昨夜の思考は一時的な感情だったと思えるかもしれない。そんな都合のいい期待がなかったわけではない。
しかし、画面に残るひよりの名前を見ただけで、午後二時に会えることを嬉しいと思ってしまった時点で、期待は簡単に消えた。
「……面倒くさ」
小さく漏らした声に反応したのか、ベッドの横で伏せていたノアが顔を上げた。黒い耳がわずかに動き、その視線が真樹へ向けられる。
「お前のことじゃない」
ノアは当然答えず、しばらく真樹を見つめたあとで立ち上がった。大きな身体を伸ばしてからベッドへ近づき、鼻先を掛け布団へ押しつけてくる。
「朝飯か?」
尻尾が一度だけ揺れた。
「分かったから押すな」
身体を起こしながらノアの頭を撫でると、真樹はもう一度スマートフォンを見た。
まだひよりから朝の連絡はない。
約束は午後二時なのだから当然である。それなのに、通知が来ていないことをわざわざ確認した自分に気づいて、真樹は眉を寄せた。
(好きになると、こんなにいちいち気になるもんなのか?)
蓮が言っていたことを思い出す。
会いたいと思う。話したくなる。相手のことを知りたくなるし、自分のことも知ってほしくなる。ほかの誰かといると気になり、その相手と付き合うところを想像すれば嫌になる。
どれも当てはまる。
ここまで揃っているのに、まだ違うと言い張るのはさすがに無理があった。
真樹はベッドから降りると、足元に寄ってきたノアの背中を撫でながら、昨夜最後まで言い切れなかった言葉を頭の中で形にした。
(俺、天野のこと好きなんだな)
認めた瞬間、何かが劇的に変わったわけではなかった。
部屋の景色は同じで、ノアはいつものように朝食を期待している。窓の外から聞こえる車の音も、廊下の向こうにある家の静けさも昨日までと何も変わらない。
それなのに、自分の中だけは妙に落ち着かなかった。
今まで理由の分からなかった感情へ、ようやく一つの名前がついた。
ひよりが颯太の話をすると面白くないのは、嫉妬しているから。
会えない日に寂しく感じたのは、会いたかったから。
服や髪型の変化へ気づくのも、ひよりを見ているから。
自分の知らないところで海斗や蓮と親しくされるのが嫌なのも、ひよりが特別だから。
そして、昨日「応援して」と聞かれたとき、どうしても「頑張れ」と言えなかったのは――。
(好きなやつに、別の男への告白を応援してくれって言われて、できるわけないだろ)
そう考えると、昨日の自分の返答はあまりにも当然だった。
むしろ、よくあれだけ平静に会話を続けられたものだと思う。
「……今日、普通にできるかな」
ノアへ向かって呟く。
昨日までは、自分の感情をはっきり認めていなかった。
今日は違う。
午後二時に会う相手は、自分が好きな女の子なのだ。
そう意識した途端、昨日まで何でもなかったはずの待ち合わせさえ妙に大きなものに思えてくる。
ノアはそんな真樹の事情など気にする様子もなく、早く行けと言わんばかりに部屋の扉へ向かった。
「お前は気楽でいいな」
真樹は苦笑しながら、その後を追った。
◇ ◇ ◇
一方、天野家では朝食を終えたひよりが、自室のクローゼットを開けたまま悩んでいた。
「……これ、この前着たし」
手にしていたニットを戻し、隣に掛かっている別の服へ視線を移す。
今日は午後二時に真樹と会う。
別に特別な場所へ出かける予定ではない。公園でノアと散歩をして、そのあとは気分次第でパン屋へ寄るかもしれない程度である。
だから普段着でいい。
そう分かっているのに、ひよりは先ほどから何度も服を入れ替えていた。
(何でこんな悩んでるんだろ)
以前パン屋へ行ったとき、真樹は服装を褒めてくれた。
髪型を変えたときにも気づいてくれた。
今日も何か言われるかもしれないと思うと、適当に選ぶ気になれない。
「……別に褒めてもらうためじゃないけど」
誰もいない部屋で言い訳してから、ひよりは淡いベージュのニットと濃紺のスカートをベッドへ置いた。上からコートを羽織れば寒さも問題ないだろう。
髪をどうするか考えているところで、部屋の扉が軽く叩かれた。
「ひより、入っていい?」
「いいよ」
扉を開けて入ってきたのは美月だった。
姉はベッドの上に並べられた服を見て、それから開いたままのクローゼットへ視線を移す。
「お出かけ?」
「北条君とノアの散歩」
「服、かなり悩んでるみたいだけど」
「悩んでないよ」
「その状態で?」
「ちょっと選んでただけ」
美月は何も言わず、ベッドの上にある二着を見比べた。
「こっちのベージュ、似合うと思うよ」
「ほんと?」
「うん。柔らかい感じで」
「じゃあこれにしようかな」
ひよりが素直にニットを手に取ったため、美月は口元を少し緩めた。
「北条君、今日も服褒めてくれるといいね」
「別にそれ狙ってないから!」
「まだ何も言ってないけど」
「今言ったじゃん!」
「言う前から顔に出てた」
「もう……」
ひよりは頬を膨らませながらニットを抱える。
美月は妹の様子を眺めながら、昨日聞いた話を思い出していた。
颯太へそろそろ告白しようとしている。
その気持ちは本物なのだろう。
文化祭の写真に写る妹の表情を見れば、美月にもそれは分かった。
ただ、真樹について話すときのひよりも、以前とは明らかに違っている。
服装へ気づいてもらえることを期待し、会えることを当然のように楽しみにし、傷ついたときには真樹のところへ行こうとしている。本人はそれを「特別な友達」と整理しているが、その言葉だけで今後も収まるのか、美月には少し疑問だった。
それでも、答えを教えるつもりはない。
「ひより」
「何?」
「楽しんできなね」
「うん」
「寒いから、ちゃんと手袋もして」
「お姉ちゃんまで北条君と同じこと言う」
美月は一瞬だけ目を細めた。
「北条君も言うの?」
「昨日、手袋持ってるのに何で使わないのって」
「へえ」
「その『へえ』何?」
「別に」
「最近みんな『別に』多すぎ」
ひよりが不満そうに言うと、美月は笑いながら部屋を出ていった。
廊下へ出て扉を閉めたところで、ちょうど悠一と鉢合わせる。
「ひより、今日も出かけるのか?」
「うん」
「北条と?」
「ノアも一緒」
「何で美月まで北条みたいな言い方するんだよ」
「事実だから」
悠一は納得できない顔をしている。
「今日土曜だぞ」
「知ってる」
「休日に二人で会うんだぞ」
「ノアもいるって」
「だから何でそこ強調するんだよ!」
声が少し大きくなり、階下から由美の「悠一、朝からうるさい」という声が飛んできた。
美月は肩をすくめる。
「お兄ちゃん、本人には余計なこと言わないでね」
「余計なことって何だ」
「『それデートだろ』とか」
「デートだろ」
「ほら」
「でも!」
「ひよりは佐伯君に告白しようとしてるんだから、変に混乱させないで」
美月は声を落として言った。
悠一の表情が固まる。
「……は?」
「大きな声出さない」
「待て。今、告白って言ったか?」
「まだ日にちは決めてない」
「聞いてない!」
「ひよりがお兄ちゃんにはまだ言いたくないから」
「何で美月は知ってるんだ!」
「そういうところじゃない?」
悠一は口を開きかけたが、妹から直接聞いたわけではない以上、問い詰めることもできない。しばらく廊下で固まったあと、両手で頭を抱えた。
「北条だけでも頭痛いのに、佐伯まで……」
「北条君は友達でしょ。ひよりの認識では」
「その言い方やめろ。怖い」
「私は何も決めつけてないよ」
美月は兄の肩を軽く叩き、その横を通り過ぎた。
「とにかく、ひよりの恋愛なんだから本人に任せて」
「……分かってる」
「尾行も禁止」
「しないって約束しただろ」
「ならよし」
悠一はその場に残り、閉じられた妹の部屋の扉を見つめた。
妹が少しずつ自分の知らない世界を広げている。
寂しくないと言えば嘘になるが、それを邪魔してはいけないことくらいは分かっていた。
◇ ◇ ◇
午後一時三十分。
真樹は玄関で靴を履きながら、自分でも理解できない違和感を覚えていた。
服装は普段と大して変わらない。黒のニットに落ち着いた色のパンツ、その上からコートを羽織っているだけだ。
それなのに、出かける直前になって鏡を確認した回数は、普段より明らかに多かった。
(何やってんだ、俺)
好きだと認めただけで、どうしてここまで意識しなければならないのか。
ノアはすでに散歩へ行けると分かっているらしく、玄関の近くで尻尾を揺らしている。
「お前、天野に会えるから嬉しいのか?」
問いかけると、ノアの尻尾がさらに大きく動いた。
「……分かりやすくていいな」
真樹はリードを手に取った。
約束は二時。
家から公園までの時間を考えれば、まだ少し早い。
しかし家にいても落ち着かないため、そのまま外へ出ることにした。
冬の午後は晴れていたものの、空気は冷たい。昨日の曇り空とは違って日差しがあるぶん多少は暖かく感じるが、風が吹けば頬へ冷気が刺さる。
ノアと歩きながら、真樹は何度かスマートフォンを確認した。
一時四十分。
一時四十五分。
まだ連絡はない。
(別に遅れてないだろ)
自分へ言い聞かせながら公園へ到着したのは、一時四十八分だった。
入口を通り抜け、いつもの遊歩道へ向かおうとしたところでノアが足を止める。
「何だよ」
ノアが入口のほうを振り返った。
真樹もつられて視線を向ける。
まだ誰もいない。
「……十二分前だぞ」
ノアへ言ってから、自分も同じ方向を見ていたことに気づく。
「お前のせいだからな」
当然、ノアから返事はなかった。
◇ ◇ ◇
一時五十三分。
公園へ向かうひよりは、歩きながらスマートフォンで時間を確認した。
「ちょっと早いかな」
以前パン屋へ行った日も、二人とも約束より早く着いていた。
今日も真樹ならすでにいるかもしれない。
そう考えたところで、ひよりは少し笑う。
(いたらまた『早い』って言おう)
交差点を渡り、公園の入口が見えてくる。
そして予想どおり、黒い大きな犬が見えた。
その隣には真樹がいる。
「やっぱりいる」
自然と歩く速度が上がった。
ひよりが近づくより先にノアが気づき、尻尾を大きく振る。真樹もノアの反応でこちらへ顔を向けた。
その瞬間、真樹の身体がわずかに固まった。
淡いベージュのニットに濃紺のスカート、その上から明るい色のコートを羽織ったひよりが歩いてくる。髪はいつもより少し高い位置でまとめられており、休日らしい柔らかな雰囲気があった。
(……可愛い)
頭に浮かんだ言葉があまりにも直接的で、真樹は一瞬反応できなかった。
これまでもひよりを可愛いと思ったことがなかったわけではない。幼いころの写真を見たときには、本人へ「可愛いんじゃない」とまで送っている。
しかし、自分がひよりを好きだと認めてから見ると、その感覚まで妙に鮮明だった。
「こんにちは!」
ひよりが目の前まで来る。
「……ああ」
「十二分前」
「何が」
「北条君が来た時間」
「何で分かるんだよ」
「今何分?」
真樹がスマートフォンを見る。
「五十五分」
「絶対十分以上前からいたでしょ」
「証拠ないだろ」
「顔」
「俺の顔万能すぎない?」
ひよりは楽しそうに笑い、それからノアへしゃがみ込んだ。
「ノア、こんにちは。今日も会えたね」
ノアがひよりの手へ頭を押しつける。
真樹はその様子を見ながら、なるべく普段どおりの声を出そうとした。
「お前も早いだろ」
「私は五分前だから普通です」
「誤差だろ」
「十二分と五分は違うよ」
「十二分って決めつけるな」
「じゃあ何分に着いたの?」
「……四十八分」
「ほら!」
「うるさい」
ひよりは勝ち誇ったように笑った。
その笑顔を見た真樹の胸が、また落ち着かなくなる。
(昨日まで普通に見てたのに)
好きだと認めただけで、どうしてこうなるのか。
「北条君?」
「何」
「今日、なんか変じゃない?」
「会って一分で言うな」
「だってさっきから私のこと見てる」
真樹の視線が止まった。
「見てない」
「見てたよ」
「気のせい」
「これ何の『別に』?」
「別にって言ってないだろ」
「じゃあ何?」
ひよりが顔を覗き込もうとする。
昨日と同じように距離が縮まり、真樹は反射的に視線を逸らした。
「近い」
「また?」
「また」
「昨日から急に何なの?」
「知らない」
「絶対何かある」
ひよりは不思議そうに真樹を見る。
真樹は誤魔化すようにノアのリードを持ち直した。
「散歩行くぞ」
「あ、逃げた」
「逃げてない」
「じゃあこっち見て」
「何で」
「顔見たいから」
その言葉に、真樹は足を止めた。
ひよりには何の深い意味もない。
分かっている。
それでも、好きだと認めた直後の自分に向かって簡単にそんなことを言わないでほしい。
「……お前、そういうこと普通に言うよな」
「何が?」
「何でもない」
「今日の北条君、ほんと変」
ひよりが首を傾げる。
真樹は小さく息を吐いたあと、ようやく彼女へ視線を戻した。
そのとき、ひよりの服装がもう一度目に入る。
言うか迷った。
しかし、以前なら言えたことを、好きだと自覚したからという理由で言えなくなるのもおかしい。
「その服」
「え?」
「似合ってる」
ひよりの表情が一瞬で明るくなった。
「ほんと?」
「ああ」
「今日、お姉ちゃんに選んでもらったの」
「そう」
「北条君気づくかなって、ちょっと思ってた」
真樹は思わず彼女を見る。
「俺が?」
「うん。最近ちゃんと見てくれるから」
ひよりは照れたように笑った。
「褒めてもらえると嬉しいし」
真樹は何も返せなくなった。
(……それ、期待して服選んだってことか?)
もちろん、それだけではないだろう。
美月に相談しただけかもしれない。
それでも、自分に気づいてもらえるか考えながら服を選んだという事実は、今の真樹には十分すぎるほど嬉しかった。
「北条君?」
「……似合ってるって言っただろ」
「二回言った」
「一回忘れろ」
「何で?」
「調子乗るから」
「もう乗ってる」
「最悪」
そう言いながら歩き始めた真樹の口元が少し緩んでいることを、ひよりはしっかり見ていた。
◇ ◇ ◇
散歩を始めてしばらくすると、昨日より穏やかな日差しのおかげか、公園には家族連れや犬の散歩をする人の姿が多く見られた。芝生広場では幼い子どもたちがボールを追いかけ、遊歩道の脇に並ぶベンチでは年配の夫婦が温かそうな飲み物を手にしている。
ノアは時折立ち止まって匂いを確かめながらも、基本的には真樹とひよりの歩調に合わせていた。
「そうだ」
ひよりが思い出したように声を上げる。
「昨日の嫉妬」
真樹の歩調がわずかに乱れた。
「朝から覚えてたの?」
「忘れるわけないじゃん。北条君、すごい間があったし」
「違うって言っただろ」
「怪しかった」
「お前が勝手に言ってるだけ」
「じゃあ何だったの?」
「……」
真樹は答えず、前を向いた。
ひよりはその横顔を見ながら、少し笑う。
「また考えてる顔」
「最近お前、俺の顔見すぎじゃない?」
「北条君も私のこと見てるでしょ」
「……まあ」
「否定しなくなったね」
「お前が面倒だから」
「それ、本当は違うやつ?」
「知らない」
「ほら」
ひよりは楽しそうだった。
真樹は横目で彼女を見る。
自分が好きだと認めたことを、今ここで言うつもりはない。
ひよりは颯太を好きで、告白しようとしている。
その気持ちを知ったうえで、今の段階で自分の感情をぶつければ、ひよりを困らせるだけだろう。
だから黙っている。
ただし、自分の中でまで否定するつもりはもうなかった。
「天野」
「うん?」
「嫉妬ってさ」
ひよりが少し驚いたように目を瞬く。
「うん」
「どういうときにするもんだと思う?」
「急に難しい質問するね」
「昨日お前が言ったんだろ」
「冗談だったんだけど」
「知ってる」
ひよりは少し考えながら歩いた。
「好きな人がほかの女の子と仲良くしてたら、とか?」
真樹の胸に直接刺さる答えだった。
「やっぱ恋愛限定?」
「限定ではないと思うよ。友達でもあるんじゃない? 千夏がほかの子とすごく仲良くしてて、私だけ知らない話してたらちょっと寂しいかもしれないし」
「じゃあ友達でも嫉妬するんだな」
「するんじゃない?」
真樹は少しだけ考える。
逃げ道を探しているような自分に気づき、内心で苦笑した。
もう答えを認めたあとだというのに、「友達でも嫉妬する」という言葉を聞くと安心しかける。
しかし、ひよりが颯太と付き合うことを想像したときの感情まで、友情だけで説明できるとは思えない。
「北条君は?」
「何が」
「誰かに嫉妬したことある?」
「……あるんじゃない」
「誰?」
「言わない」
「えー」
「何でも知ろうとするな」
「北条君のこと知りたいって言ったでしょ」
ひよりは当然のように答えた。
真樹は少しだけ黙り、それから視線を前へ戻す。
「そのうちな」
「ほんと?」
「多分」
「約束ね」
「してない」
「でも、そのうち教えてくれるんでしょ?」
「ああ」
今度は否定しなかった。
いつか。
ひよりが颯太への気持ちに答えを出したあと、自分も言える日が来るのかもしれない。
その未来がどうなるのかは、まだ分からない。
◇ ◇ ◇
「パン屋、行く?」
散歩を一周したころ、ひよりが尋ねた。
「行きたいの?」
「うん」
「じゃあ行けば」
「北条君も一緒に」
「分かってる」
二人はノアを連れたまま、公園から以前訪れたパン屋へ向かった。
休日の店内は平日より混んでおり、入口近くまで焼きたてのパンの香りが漂っている。ノアを店の外で待たせるわけにはいかないため、以前と同じように交代で買い物をすることになった。
「私先に行っていい?」
「ああ」
「北条君、何欲しい?」
「自分で選ぶ」
「この前クリームパン美味しいって言ってたじゃん」
「言ったっけ」
「言った」
「お前、そういうのよく覚えてるな」
「北条君のこと知りたいから」
「……それ便利な言葉にしてない?」
「本当だもん」
ひよりは笑いながら店内へ入っていった。
真樹はノアと外に残り、ガラス越しに店内を見る。
ひよりはトレーとトングを手にし、並んだパンを楽しそうに眺めていた。途中で一つ手に取ろうとして迷い、戻したあと、また同じパンを取る。
そんな何でもない姿を、真樹はしばらく見ていた。
(好きになる前と、何が違うんだろうな)
正確には、昨日まで好きではなかったわけではない。
自覚していなかっただけだ。
感情そのものは、もっと前から少しずつ積み重なっていたのだろう。
いつからだったのかは分からない。
会えなかった日に寂しいと思ったころか。
颯太の名前を聞くたび面白くなくなったころか。
ひよりが自分の前では楽だと言ってくれたときか。
あるいは、もっと前からだったのかもしれない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
(ノアがこいつのところに行かなかったら、会ってなかったんだよな)
そう思って隣を見ると、ノアは店の中にいるひよりをじっと見ていた。
「お前、最初から天野のこと気に入ってたよな」
ノアの耳が動く。
「見る目あったってことか?」
自分で言ってから、真樹は少し笑った。
「調子乗るなよ」
何に対して注意しているのか自分でも分からない。
やがて会計を終えたひよりが紙袋を持って店から出てきた。
「お待たせ」
「ああ」
「北条君、次どうぞ」
「何買ったの」
「内緒」
「何で」
「あとで見せる」
「別に興味ないけど」
「嘘。今聞いたじゃん」
ひよりは得意そうに笑い、ノアのそばへ移動した。
真樹が店内へ入ったあと、ひよりはガラス越しにその背中を見る。
真樹は商品棚の前へ立ち、ほとんど迷うことなくパンを選んでいる。
(北条君、今日やっぱりちょっと変)
会った直後から視線を逸らされることが増えた。
近づけば距離を取るくせに、少し離れているとこちらを見ている。
服を二度も褒めてくれた。
嫉妬についても、いつも以上に真剣に聞いてきた。
(何かあったのかな)
昨日の夜から今日までの間に、何か考えが変わったのかもしれない。
それでも、ひよりにはその正体までは分からなかった。
ただ、嫌われたわけではないことだけは分かる。
むしろ逆に、昨日までより意識されているような気さえする。
(……意識って何を?)
そこまで考えたところで、ひよりは自分の思考に戸惑った。
恋愛的な意味が浮かびそうになり、すぐに打ち消す。
(違う違う。北条君は私のこと特別な友達って言ってたし)
それに、自分には颯太がいる。
近いうちに告白したいと思っている相手だ。
真樹との関係へ別の名前を探す必要などないはずだった。
それなのに、店の中で真樹が会計をしている姿を眺めながら、ひよりはなぜか昨日より少しだけ胸が落ち着かなかった。
◇ ◇ ◇
公園へ戻った二人は、空いているベンチを見つけて腰を下ろした。
ノアは真樹の足元へ伏せ、時折鼻を動かしながら紙袋から漂う匂いを気にしている。
「ノアのじゃないよ」
ひよりが言うと、ノアは顔を上げた。
「そんな顔しても駄目」
「お前、ノアに甘いのにそこは厳しいな」
「人間用のパンだからね」
ひよりは紙袋からクリームパンを取り出した。
真樹がそれを見る。
「またそれ?」
「好きなの」
「知ってる」
「北条君は?」
真樹も袋からパンを出す。
同じクリームパンだった。
ひよりの目が丸くなったあと、すぐに笑顔へ変わる。
「同じ!」
「だから何」
「北条君も好きになったんだ」
「普通にうまかったから」
「私が教えた」
「そうだな」
真樹が素直に認めたため、ひよりは少し驚いた。
「今日ほんと素直だね」
「そう?」
「うん。何かあった?」
真樹は包装を開けながら、どう答えるか考えた。
何かあったといえば、あった。
自分の気持ちを認めた。
しかし、それを本人へ言えるはずがない。
「考え事してただけ」
「昨日の続き?」
「まあ」
「答え出た?」
真樹の手が止まる。
ひよりは以前、答えが出たら教えてと言った。
まさか翌日に出るとは思っていなかっただろう。
「出た」
真樹が答えると、ひよりはクリームパンを持ったまま身体を少しこちらへ向けた。
「ほんと?」
「ああ」
「教えて」
「嫌だ」
「何で!」
「何でも知りたがるな」
「昨日、答え出たら教えてって言ったじゃん」
「俺は教えるって言ってない」
「そのうちって言った!」
「嫉妬の話だろ、それ」
「同じじゃないの?」
真樹は思わず黙った。
かなり近い。
というより、ほぼ同じ答えへつながっている。
「北条君?」
「……今は言わない」
「今は?」
「ああ」
「じゃあ、いつかは言う?」
ひよりの瞳がまっすぐ向けられる。
真樹はしばらくその顔を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「いつかな」
「約束?」
「約束まではしない」
「でも言ってくれるんだ」
「多分」
「楽しみにしてる」
ひよりは嬉しそうに笑い、クリームパンを一口食べた。
真樹はその横顔を見ながら、胸の中で苦笑する。
(お前が聞いたら、どんな顔するんだろうな)
今のひよりなら、きっと驚く。
困るかもしれない。
だからまだ言わない。
それでも、いつか伝えたいと思った。
自分がこんなふうに誰かへ気持ちを伝えたいと思う日が来ること自体、少し前まで想像したこともなかった。
「北条君」
「何」
「私も、告白する日ちゃんと決めるね」
今度は真樹の胸が痛んだ。
さっきまで少し温かかった気持ちへ、現実が戻ってくる。
「……そう」
「また嫌そう」
「嫌だから」
「今日ははっきり言うね」
「応援できないって昨日言っただろ」
「うん」
ひよりは怒らず、パンを両手で持ちながら少しだけ笑った。
「でも、聞いてくれるんだよね」
「ああ」
「それならいい」
その信頼が嬉しくて、同時に苦しかった。
好きだと認めた日に、好きな相手から別の男への告白について聞かされている。
(タイミング最悪だろ)
けれど、ひよりが何も知らずに楽しそうに隣へ座っていることを責める気にはなれなかった。
知らないのだから当然だ。
真樹自身がまだ伝えていない。
「天野」
「うん?」
「一個だけ聞いていい?」
「いいよ」
「佐伯に告白して、もし付き合うことになったら」
言葉を選びながら続ける。
「俺とのこと、どうするつもり?」
ひよりはすぐには答えなかった。
「前にも似たこと聞いたよね」
「ああ」
「そのときも言ったけど、友達やめるつもりないよ」
「毎日会うのも?」
「佐伯君が嫌がったら、ちゃんと話すと思う」
「それで、やめてって言われたら?」
ひよりは眉を寄せた。
「難しいね」
「……そうだな」
「でも、北条君と急に会わなくなるのは嫌」
真樹は顔を上げた。
ひよりは少し困ったように笑っている。
「だって、今は毎日みたいに会ってるでしょ。それが急になくなったら、普通に寂しいと思う」
「彼氏が嫌がっても?」
「だから話すの。北条君は大事な友達だって」
大事な友達。
以前なら十分嬉しかったはずの言葉が、今は少しだけ足りない。
それでも、「会わなくなるのは嫌」と言われたことは素直に嬉しかった。
「そっか」
「北条君は?」
「何が」
「私に彼氏できたら、会わなくなる?」
「……ならない」
真樹は迷わず答えた。
「相手が嫌がったら?」
「お前が決めればいい」
「北条君はどうしたいの?」
逃げ道を塞ぐような質問だった。
真樹はひよりを見る。
「会いたい」
口にしてから、自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。
ひよりも少し目を見開いている。
「……そっか」
「ああ」
「私も」
ひよりは小さく笑った。
「北条君には会いたい」
胸の奥が大きく揺れた。
真樹は反射的に視線を逸らし、手元のクリームパンへ意識を向ける。
「北条君、耳赤い」
「寒いから」
「さっきまで赤くなかったよ」
「うるさい」
「照れた?」
「違う」
「これ絶対照れてるやつ」
ひよりが楽しそうに笑う。
真樹は否定しながらも、口元まで完全には隠せなかった。
好きな相手から「会いたい」と言われて、嬉しくないわけがない。
たとえ、その意味が自分の望んでいるものとは違っていても。
◇ ◇ ◇
パンを食べ終えたあと、二人は再びノアと歩き始めた。
午後の日差しは少しずつ傾き、遊歩道へ伸びる木々の影が長くなっている。休日の公園にはまだ人が多く、すれ違う親子連れの子どもがノアを見て「大きい」と声を上げた。
ノアは気にすることなく歩いていたが、途中で小さな女の子が母親と一緒に近づいてきた。
「触ってもいいですか?」
母親が申し訳なさそうに尋ねる。
真樹はノアの様子を確認してから頷いた。
「大丈夫です。急に顔の前へ手を出さなければ」
女の子は母親に手を添えられながら、恐る恐るノアの背中へ触れた。
「ふわふわ」
嬉しそうな声に、ひよりも笑う。
「優しい子だよ」
「お姉ちゃんの犬?」
「私のじゃなくて、このお兄ちゃんの」
女の子が真樹を見る。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、いっしょに飼ってるの?」
「え?」
ひよりが固まった。
真樹も一瞬答えに詰まる。
母親が慌てて「ごめんなさい、この子が勝手に」と謝ったため、ひよりは両手を振った。
「大丈夫です! 友達なんです」
「そうなんですね。すみません」
「いえいえ」
女の子はよく分かっていない様子で、もう一度ノアを撫でてから母親と一緒に去っていった。
二人はしばらく黙って歩く。
先に口を開いたのはひよりだった。
「一緒に飼ってるように見えたのかな」
「いつもお前がノア触ってるからだろ」
「確かに」
「それに休日に男女で犬連れてたら、そう見えるやつもいるんじゃない」
「家族みたいに?」
真樹は答えかけて止まった。
家族。
その言葉をひよりとノアへ重ねた瞬間、想像以上に自然な光景が頭へ浮かんでしまった。
「北条君?」
「……何でもない」
「また考えた」
「今日は多いな、お前」
「北条君が分かりやすいの」
「絶対違う」
真樹は歩く速度を少し上げる。
ひよりは笑いながらその隣へ追いついた。
本人は何も知らない。
真樹が今、どんな意味で自分を意識しているのかも。
だからこそ無防備に隣へ並び、時折肩が触れそうな距離まで近づいてくる。
以前なら気にならなかったその距離が、今日はひどく近く感じられた。
真樹は少しだけ外側へ寄った。
すると、ひよりも自然についてくる。
「何で寄るの」
「北条君が離れるから」
「道広いだろ」
「話しづらいじゃん」
「聞こえる」
「顔見えない」
「前見て歩け」
「北条君、今日ずっと私から逃げてない?」
ひよりが疑わしそうに見上げる。
「逃げてない」
「近づくと離れる」
「気のせい」
「じゃあ」
ひよりは一歩だけ距離を詰めた。
真樹は反射的に身体を硬くしたものの、今度は離れなかった。
「ほら」
「何が」
「今日は逃げない」
「お前、遊んでるだろ」
「ちょっとだけ」
ひよりが笑う。
真樹は呆れたように息を吐きながらも、そのまま隣を歩いた。
(好きだって知らないからできるんだよな、これ)
もし知ったら、ひよりは同じ距離まで近づいてくれるだろうか。
それとも気まずそうに離れるのだろうか。
今はまだ、その答えを知るのが怖かった。
◇ ◇ ◇
夕方が近づき、公園の人影が少しずつ減ってきたころ、二人はいつもの入口へ戻ってきた。
「今日は長かったね」
ひよりがスマートフォンで時間を確認する。
「休日だからだろ」
「楽しかった?」
真樹は以前なら避けていた問いを聞き、少しだけ苦笑した。
「楽しかった」
「即答!」
「毎回驚くな」
「だって北条君がどんどん素直になる」
「お前が毎回聞くから面倒になっただけ」
「じゃあ会えて嬉しかった?」
「調子乗るな」
「こっちはまだ即答じゃないんだ」
「段階があるんだよ」
「何の段階?」
「知らない」
ひよりは声を上げて笑った。
真樹もつられて少し笑う。
「明日は?」
ひよりが尋ねる。
日曜日。
以前なら、休日に二日続けて会うことへ少しは理由を探していたかもしれない。
今は違う。
「俺は来るけど」
「何時?」
「お前も来る前提?」
「駄目?」
真樹はひよりを見る。
駄目なわけがない。
むしろ、会いたい。
「……二時くらいでいいんじゃない」
「じゃあ二時」
「また早く来るなよ」
「北条君に言われたくない」
「今日はお前より七分早かっただけだろ」
「七分も、でしょ」
「細かい」
明日も会う約束が決まる。
ひよりは満足そうに頷いたあと、ふと何かを思い出した。
「そうだ。玲奈さん、水曜日だっけ?」
「一ノ瀬は水曜がいいって。お前は?」
「大丈夫」
「じゃあ水曜にしとく」
「楽しみ」
「俺の昔話聞く気だろ」
「もちろん」
「一ノ瀬に余計なこと言うなって言っとく」
「それはずるい!」
「先手必勝」
「じゃあ玲奈さんに直接連絡できるように連絡先交換しようかな」
真樹の表情が止まる。
ひよりはすぐに気づいた。
「何、その顔」
「別に」
「これ何の『別に』?」
「普通」
「絶対違う」
「何でもない」
「玲奈さんと連絡先交換するの嫌なの?」
「嫌じゃない」
「じゃあいいよね」
「……好きにすれば」
答えながらも、真樹の声は少しだけ低い。
ひよりはその横顔を眺めた。
「もしかして」
「何」
「嫉妬?」
「何で一ノ瀬に嫉妬するんだよ」
「私と玲奈さんが北条君抜きで仲良くするから」
図星に近かった。
恋愛的な嫉妬ではない。しかし、自分を介して知り合った二人が、自分の知らないところで自分の話をするのは少し落ち着かない。
「……ちょっとだけ」
真樹が認めると、ひよりは驚いたあと、すぐに笑った。
「やっぱり!」
「嬉しそうにすんな」
「だって北条君が嫉妬認めた」
「そういう意味じゃないからな」
「分かってるよ。友達のやつでしょ?」
「……まあ」
ひよりは満足そうに頷いた。
「大丈夫。北条君抜きで悪口大会とかしないから」
「そこ心配してない」
「昔の可愛い話は聞くけど」
「やめろ」
「寝てる写真以上の探す」
「一ノ瀬に絶対言っとく」
「じゃあ先に連絡先交換しないと」
「好きにしろって」
二人は笑いながら公園の入口まで歩いた。
そこでひよりが手を振る。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「二時ね」
「忘れない」
「今日は私のほうが後だったから、明日は先に着く」
「競争じゃないだろ」
「負けないから」
「勝手にやってろ」
ひよりは数歩離れたあと、振り返った。
「北条君!」
「何」
「今日、会えて嬉しかった?」
真樹は少しだけ目を細めた。
好きだと認める前なら、ここでまた誤魔化したかもしれない。
けれど、今日はもう自分の気持ちを知っている。
だからといって全部を伝えることはできないが、この程度まで嘘にする必要はないと思った。
「嬉しかったよ」
ひよりの動きが止まった。
真樹が初めて、からかわれて仕方なくではなく、自分からはっきりと言った。
「……ほんとに?」
「何で聞いた本人が驚くんだよ」
「だって、ちゃんと言ったから」
「聞いたのお前だろ」
「そうだけど」
ひよりの頬が緩み、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
「私も嬉しかった」
「知ってる」
「何で?」
「顔見れば分かる」
以前ひよりから言われた言葉を返すと、今度は彼女が少し照れた。
「北条君も私の顔分かるようになってるじゃん」
「毎日みたいに見てればな」
「……そっか」
ひよりはなぜか、その言葉に少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
毎日みたいに見ている。
ただそれだけの事実なのに、真樹の中へ自分の表情が少しずつ蓄積されているように思えた。
「また明日」
ひよりはもう一度言った。
「ああ。また明日」
今度こそ背を向け、家へ向かって歩き始める。
真樹は昨日と同じように、その姿が見えなくなるまで入口に立っていた。
隣ではノアも同じ方向を見ている。
「……好きだわ」
ひよりが完全に見えなくなってから、真樹は小さく呟いた。
昨日までなら、その言葉を口に出すことさえ避けていただろう。
今日は違った。
「俺、天野のこと好きだ」
今度はノアへ聞かせるように、はっきりと言う。
胸の奥は落ち着かないままだったが、不思議と嫌な感覚ではなかった。認めてしまえば、これまで意味の分からなかった感情が一つの線につながっていく。
ノアが真樹を見上げ、尻尾をゆっくりと揺らした。
「お前は知ってたみたいな顔すんな」
ノアの頭を軽く撫でながら、真樹は苦笑する。
「でも、まだ天野には言わない」
ひよりは颯太を好きで、近いうちに告白しようとしている。
その恋がどうなるのかも分からないうちに、自分の気持ちをぶつけて困らせたくはなかった。
応援することはできない。
うまくいってほしいとも思えない。
それでも、ひより自身が決めたことを邪魔するのは違うと思っている。
(俺が好きだからって、天野の気持ちまで変えられるわけじゃない)
そこだけは間違えたくなかった。
ただし、自分の気持ちまで消すつもりもない。
真樹はノアと一緒に歩き始めた。
明日もひよりに会える。
その事実を、今度は何の言い訳もせず嬉しいと思った。
◇ ◇ ◇
その夜、ひよりはベッドへ入ってから、今日のことを思い返していた。
真樹は明らかに少し変だった。
近づけば妙に意識したように離れ、服装を二度も褒め、何かの答えが出たと言いながら内容は教えてくれなかった。
そして最後には、はっきり「会えて嬉しかった」と言った。
ひよりは枕元のスマートフォンを手に取る。
メッセージを送ろうか迷っているうちに、先に通知が届いた。
『水曜、一ノ瀬大丈夫だって』
ひよりはすぐに返信する。
『私も大丈夫!』
『じゃあ水曜』
『玲奈さんに昔の北条君いっぱい聞く』
『余計なこと聞くな』
『楽しみ』
『俺は楽しみじゃない』
『ノアは楽しみかな』
『多分』
『北条君も本当は楽しみでしょ』
『別に』
ひよりは画面を見て笑った。
『これは普通の別に?』
少し間が空く。
『多分』
『まだ分類難しいなあ』
『する必要ないだろ』
『知りたいから』
送ってから、ひよりは今日何度も同じことを言った気がした。
真樹のことを知りたい。
学校で何をしているのか。
昔どんな子だったのか。
何が好きで、何が嫌いなのか。
何を考えているのか。
そして今日、何の答えを出したのか。
(私、ほんと北条君のこと気にするようになったなあ)
それは自覚している。
ただし、その理由を恋愛とは結びつけていなかった。
真樹は大切な友達だ。
普通の友達とは違う、特別な友達。
今のひよりにとっては、その言葉が最も自然だった。
スマートフォンが震える。
『天野』
『なに?』
『今日楽しかった』
ひよりは一度目を瞬いた。
自分から聞いていない。
それなのに、真樹のほうから送ってきた。
胸の奥がじんわりと温かくなり、ひよりは自然と笑顔になった。
『私も!』
『会えて嬉しかった』
さらに続いた一文を見て、ひよりはベッドの上で身体を起こした。
「……どうしたの、北条君」
嬉しい。
かなり嬉しい。
けれど、急に素直になりすぎていて少し心配になる。
『ほんとに北条君?』
『どういう意味だよ』
『誰かにスマホ取られてない?』
『切るぞ』
『北条君だった』
『何なんだよ』
『嬉しかっただけ』
送信してから、ひよりは少し迷い、もう一文加えた。
『私も今日、北条君に会えて嬉しかったよ』
既読がつく。
しかし返事はすぐには来なかった。
「また考えてるのかな」
ひよりは枕へ背中を預ける。
しばらくして届いたのは、短い一文だった。
『知ってる』
「何それ」
笑いながら、
『何で?』
と返す。
『顔見れば分かる』
今日、公園で言われた言葉と同じだった。
ひよりはスマートフォンを胸元へ置き、天井を見上げる。
真樹に自分の顔を見られている。
嬉しいときも、無理に笑っているときも、照れているときも、少しずつ分かるようになっている。
自分も同じだ。
真樹の「別に」の違いが分かるようになり、照れている顔や機嫌の悪い顔も以前より見分けられる。
(これが、特別ってことなのかな)
ひよりはそう考えた。
胸の奥には、まだ名前のつかない温かさが残っている。
けれど、そのすぐ隣には颯太への恋心も確かにあった。
月曜日には文化祭の写真を見せる。
そして、もっと普通に話せるようになったら、今度こそ逃げずに自分の気持ちを伝えたい。
その決意は変わっていない。
ひよりは再びスマートフォンを持ち上げた。
『明日も二時ね』
『分かってる』
『私が先に着くから』
『勝手にしろ』
『会えるの楽しみにしてる』
送信したあと、ほんの少しだけ恥ずかしくなった。
それでも消すことはできない。
既読がつき、少し間を置いて返事が届く。
『俺も』
昨夜と同じ二文字だった。
けれど、その二文字を送っている真樹の気持ちは、昨日までとは少しだけ違っている。
ひよりはそれを知らない。
真樹が自分への感情に、ようやく「好き」という名前をつけたことも知らない。
ただ画面に残った『俺も』を見て、ひよりは嬉しそうに笑った。
『おやすみ、北条君。また明日』
少しして、
『おやすみ。また明日』
と返ってくる。
明日になれば、また会える。
ひよりにとっては、いつの間にか当たり前になった楽しみだった。
そして真樹にとってはもう、ただ友達に会うだけの時間ではなくなっていた。




