第31話 応援して、とは言えなくて
金曜日の朝、天野ひよりは目覚ましを止めるより先に、枕元のスマートフォンへ視線を向けた。
昨夜最後に交わしたメッセージは、いつものような『おやすみ。また明日』だった。その少し前には、もっと気になる二文字が残っている。
『俺も』
自分が『今日は会えて嬉しかったです』と送ったことへの返事だった。
ひよりは昨夜のうちに何度も見返した画面を、朝になってからもまた開いてしまった。最初に出会ったころの真樹なら、絶対に送らなかった言葉だと思う。
(北条君、ほんとに変わったなあ)
もちろん、ひより自身も変わった。
最初は感じの悪い人だと思っていたし、ノアがいなければ二度と会うこともなかったかもしれない。それが今では、放課後に公園へ行けば真樹がいることを自然に期待し、いなければ少し寂しいと感じる。
昨日は互いを「特別」とまで言った。
正確には、ひよりは「友達の中では特別」と言い、真樹は「普通の友達とは違う」と言っただけだ。それでも、その言葉を思い出すと胸の奥が少しくすぐったくなる。
「……友達の中で、特別」
声に出してみても嫌な感じはしなかった。
むしろ、かなりしっくりくる。
千夏が親友として特別なのと同じように、真樹にもほかの男子とは明らかに違う場所ができている。何でも話せるし、会えば楽しいし、自分の細かな変化へ気づいてもらえると嬉しい。
ただ、その「特別」が何なのかを深く考えようとすると、昨日玲奈の話をしたときに感じた小さなざわつきまで一緒に浮かんでくる。
(玲奈さんのことは……別にいいんだけど)
嫌いではない。むしろ、もっと話してみたい。
それなのに、玲奈が真樹の昔を知っていることを羨ましいと思った。
ひよりは布団の中で少しだけ眉を寄せたものの、答えが出る前に目覚ましが鳴り始めたため、考えるのをやめて身体を起こした。
今日は金曜日だ。
学校が終われば真樹と会うだろうし、明日は午後二時ごろに公園へ行く約束もしている。
そして、もう一つ。
昨日、颯太から頼まれた文化祭の写真を探さなければならない。
昨夜家のパソコンを確認したところ、以前の文化祭で撮った写真はいくつも残っていた。宮田が欲しがっているものがどれなのかまでは分からないため、週明けに颯太へ候補を見せようと思っている。
颯太のことを考えると、胸の高鳴り方が変わった。
真樹について考えていたときとは違う、昔から知っている緊張が戻ってくる。
(やっぱり、好きなんだよね)
そこだけは迷わなかった。
颯太と話せれば嬉しい。向こうから教室まで来てくれたことも嬉しかったし、髪型を褒めてもらった日のこともまだ鮮明に覚えている。
以前より普通に話せるようにもなった。
だったら、いつまでも「いつか告白したい」と思っているだけでは何も変わらない。
鏡の前へ移動したひよりは、髪を整えながら自分の顔を見つめた。
(いつ言うんだろ、私)
その問いには、まだ答えられなかった。
◇ ◇ ◇
「ひより、今日なんか静かじゃない?」
朝食の席で最初に気づいたのは美月だった。
ひよりは箸を止め、自分の向かい側へ座る姉を見る。悠一も反応してこちらを向いたが、美月は兄より先に妹の表情を確認していた。
「そう?」
「考え事してる顔」
「お姉ちゃん、本当に私の顔見すぎじゃない?」
「姉だから」
「それを俺が言うと嫌がるのに」
悠一が不満そうに口を挟むと、美月は味噌汁の椀を持ちながら冷静に返した。
「お兄ちゃんは見るだけで終わらないでしょ。そこから質問攻めにするから」
「心配してるだけだ」
「それが重いの」
「美月まで……」
兄が肩を落としたため、ひよりは少し笑った。先ほどまで頭の中を占めていた考えも、いつもの家族の空気に触れると少しだけ軽くなる。
由美が台所から戻ってきて席へ着くと、ひよりの顔を一度見た。
「何か悩んでるなら、朝から全部話さなくてもいいけどね」
「うん。大丈夫」
「学校のこと?」
浩介が新聞から顔を上げる。
「学校っていうか……」
ひよりは少し迷った。
家族全員に恋愛相談をするつもりはない。特に悠一がいる前で颯太への告白について話せば、朝食どころではなくなる未来が簡単に想像できる。
「ちょっと考え事してただけ」
「北条か?」
案の定、悠一が聞いてきた。
「何で北条君になるの?」
「最近ひよりが考え事してると、大体あいつが関係してる気がする」
「そんなことないよ」
「じゃあ違うのか?」
「今日は違う」
答えてから、ひよりは少しだけ引っかかった。
今日は違う。
つまり、ほかの日には真樹のことで考え込んでいることがあると、自分で認めたようなものだった。
美月も同じことに気づいたらしく、口元をわずかに緩めている。
「お姉ちゃん、その顔やめて」
「何も言ってないよ」
「言ってなくても分かる」
「北条君の『別に』だけじゃなくて、私の顔も分かるんだ」
「お姉ちゃんは昔からでしょ」
ひよりが頬を膨らませると、美月は楽しそうに笑った。
悠一だけはまだ納得していないらしく、「じゃあ今日は何なんだ」と聞きたそうな顔をしている。しかし由美から視線を向けられると、口を開く前に諦めた。
家を出る直前、ひよりが玄関で靴を履いていると、美月が後ろからやってきた。
「ひより」
「何?」
「今朝の考え事、佐伯君?」
声量を落とした姉に、ひよりは驚いて振り返った。
「……何で分かったの?」
「北条君じゃないって言ったときの顔」
「そんなに分かりやすい?」
「私にはね」
美月は玄関の壁へ軽く背を預ける。
「告白のこと考えてる?」
ひよりはすぐには答えず、マフラーの端を指先で整えた。玄関の向こうから冬の冷気が入り込み、温かな家の中との境目で頬を冷やしていく。
「……いつか言いたいって、ずっと思ってたでしょ」
「うん」
「でも最近、前より話せるようになったから」
「そろそろって思った?」
「ちょっとだけ」
言葉にすると、急に現実味が増した。
美月は妹を急かさなかった。
「怖い?」
「怖いよ」
ひよりは苦笑する。
「振られるかもしれないし、言ったあと気まずくなるかもしれないし。今は前より普通に話せるようになったから、余計に壊したくないっていうのもある」
「それでも伝えたい?」
ひよりは少し考えてから頷いた。
「……うん。ずっと好きだったから」
「じゃあ、ひよりが言いたいと思ったときでいいんじゃない?」
「お姉ちゃんは止めないんだ」
「何で止めるの?」
「お兄ちゃんなら絶対いろいろ言うから」
「あれと一緒にしないで」
美月は即答したあと、少しだけ表情を和らげた。
「結果がどうなるかは分からないけど、ひよりが自分で決めて伝えるなら、私は応援するよ」
「……ありがと」
「ただし、泣いて帰ってきたらアイスくらいは買う」
「振られる前提やめて!」
「じゃあ、お祝いのケーキも候補に入れとく」
「極端だよ」
二人で小さく笑う。
ひよりは玄関の扉を開けたところで、一度だけ姉を振り返った。
「お兄ちゃんにはまだ言わないでね」
「言わない。ひよりのことだから」
「うん」
その答えに安心して、ひよりは家を出た。
◇ ◇ ◇
青葉高校の教室へ入ると、千夏はひよりが席へ着く前からこちらを見ていた。
「おはよ」
「おはよう」
「で?」
「何が?」
「昨日の北条君の質問」
鞄を机へ置きながら、ひよりは思わず笑った。
「朝一番にそれ?」
「昨日教えてって言ったじゃん」
「内容によるって言ったよ」
「じゃあ話せる範囲で」
千夏が自分の椅子を少し寄せてくる。
ひよりは昨日の散歩を思い返した。真樹から「いつから人の顔色を見るようになったのか」と聞かれたこと、自分が昔はもっと静かな子だったと話したこと、そして真樹から「俺の前では無理に笑わなくていい」と言われたこと。
「……北条君にね、無理に笑わなくていいって言われた」
千夏の表情から、いつものからかうような色が少し消えた。
「北条君が?」
「うん。怒ってても、機嫌悪くても、喋りたくないなら喋らなくていいって」
「そっか」
「嬉しかった」
ひよりは机の上へ手を置きながら、昨日の真樹の顔を思い出す。
「私、千夏の前とか家ではそんなに気にしないでしょ。でも北条君の前でも最近かなり普通でいられるんだなって、昨日話してて思った」
「うん」
「北条君も、私の前は楽だって」
「へえ」
「それで、お互い特別ってことになった」
千夏の眉がぴくりと動いた。
「ちょっと待って。そこ、もう少し詳しく」
「私は『友達の中では特別』って言ったの。北条君は『普通の友達とは違うんじゃない』って」
「……なるほど」
「何?」
「いや、二人とも絶妙だなと思って」
「何が?」
「何でもない」
千夏はそれ以上踏み込まなかった。
ひよりには颯太への明確な恋心がある。その状態で真樹との関係を外側から勝手に恋愛へ分類するのは違うと思っている。
ただ、少なくとも自分が知っている「ただの男友達」とひよりの真樹への接し方が違うことだけは、ますます明確になっていた。
「千夏」
「ん?」
「私、佐伯君にそろそろ告白しようかな」
今度は千夏が完全に動きを止めた。
教室では登校してきた生徒たちの声が重なり、窓際では誰かが昨日のテレビ番組について笑っている。その騒がしさの中でも、千夏の意識は目の前の親友へ集中した。
「決めたの?」
「まだ日にちまでは決めてない。でも、前より普通に話せるようになったし、このままずっと『いつか』って言ってるのも違うかなって」
「そっか」
「怖いけどね」
ひよりは笑ってみせたが、指先は制服のスカートを少しつまんでいた。
千夏はその仕草を見逃さなかった。
「ひより」
「うん?」
「怖いなら怖いって言っていいからね。私の前では」
ひよりは一瞬目を丸くし、そのあと小さく笑った。
「北条君と同じこと言う」
「えっ、やだ」
「何で嫌なの!」
「そこは親友として先に言いたかった」
「中学からずっと千夏には言ってるよ」
「ならよし」
千夏は少し胸を張ってから、表情を柔らかくした。
「告白するって決めたら教えて。直前でもいいし、終わったあとでもいい。ひよりが話したいタイミングで」
「うん」
「応援はする。でも無理に急がなくていいから」
「ありがとう」
ひよりはそう答えたあと、ふと昨夜の真樹とのやり取りを思い出した。
もし告白する日を決めたら、真樹にも話すのだろうか。
これまでは颯太について何でも話してきた。真樹自身も、聞きたくないときがあっても、ひよりが話さなくなるほうが嫌だと言っている。
(じゃあ、告白するって決めたら……北条君にも言う?)
そう考えた途端、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。
◇ ◇ ◇
同じ朝、桜陵学園では真樹が普段より少し早く自分の席へ着いていた。
机の上には教科書を出しているものの、ページはほとんど進んでいない。昨夜から頭の中に残っているものが、授業前になっても消えてくれなかった。
(俺、あいつのこと好きなのか?)
昨夜、ノアへ向かって口にした問い。
そのあと部屋へ戻り、一つずつ自分の感情を並べてみれば、違うと言い張るほうが難しくなっていた。
それでも、「好きだ」と断定するところまでは踏み切れない。
認めた瞬間、今までと同じではいられなくなる気がした。
ひよりには颯太がいる。
正確には付き合っているわけではないが、ひよりが颯太を好きなことを真樹は知っている。いつか告白したいとも聞いている。
そこへ自分の感情を持ち込めば、今の関係がどうなるのか分からない。
「朝から重い顔してるね」
横から聞こえた声に、真樹は顔を上げた。
蓮が鞄を肩へ掛けたまま立っている。
「お前は朝からうるさいな」
「まだ一言しか喋ってないけど」
「存在がうるさい」
「理不尽だなあ」
蓮は笑いながら近くの席へ腰を下ろした。
「で、答え出た?」
「何の」
「昨日まで一般論で考えてたやつ」
「知らない」
「その返事、前より怪しいね」
真樹は蓮を睨んだものの、否定の言葉がすぐには出てこなかった。
その反応だけで、蓮には十分だったらしい。
「何かあった?」
「……別に」
「その『別に』、天野さんなら分類できるんでしょ?」
「何でお前がそれ知ってるんだよ」
「前に真樹が言ってたじゃん。天野は俺の『別に』が分かるとか何とか」
「言ったっけ」
「言った」
真樹は面倒そうに額へ手を当てた。
ひよりの話を自分がどれだけ蓮へしているのか、最近になって少し怖くなっている。
「昨日さ」
蓮が机へ肘をつく。
「天野さんに会ったんでしょ?」
「会った」
「楽しかった?」
「……まあ」
「会えて嬉しかった?」
真樹の視線が止まった。
蓮はすぐに笑う。
「その顔、何かあったね」
「何もない」
「言った?」
「何を」
「会えて嬉しいって」
「……」
「言ったんだ」
「メッセージで二文字だけだ」
答えてから、真樹は自分で余計なことを言ったと気づいた。
蓮の目が楽しそうに細くなる。
「二文字?」
「うるさい」
「『俺も』?」
「何で分かるんだよ」
「真樹が素直に『会えて嬉しかった』って打てるとは思えないから」
「殴るぞ」
「でも進歩じゃん」
「何の進歩だよ」
真樹は視線を窓の外へ逃がした。
冬の朝の校庭では運動部員が数人、朝練の片づけをしている。そんな景色を眺めても、昨夜スマートフォンへ表示されたひよりの『今日は会えて嬉しかったです』という文面は簡単には消えてくれない。
「神崎」
「ん?」
「もし」
口にしてから、真樹は少し迷った。
「好きかもしれない相手に、ほかに好きなやつがいたらどうする?」
蓮はからかう表情を消した。
真樹が初めて「好きかもしれない相手」という言い方をしたからだ。
「それも一般論?」
「そういうことにしとけ」
「分かった」
蓮は真樹の逃げ道をあえて塞がなかった。
「俺なら、相手との関係によるかな。まだ何も始まってないなら、自分がどうしたいか考える」
「奪うとか?」
「その言い方は好きじゃないな。相手は物じゃないし」
「……そうだな」
「好きなら伝える選択もあるし、相手の恋を見守る選択もある。でも、どっちを選んでも自分が何とも思わないふりだけは長く続かないんじゃない?」
真樹は黙って聞いていた。
「相手が誰を好きになるかは決められない。でも、自分がどう思ってるかまで嘘にする必要はないと思うよ」
「……面倒だな」
「恋愛?」
「全部」
「じゃあやめる?」
蓮に聞かれ、真樹は答えられなかった。
もし「やめる」ということが、ひよりに会わないことや、連絡を取らないこと、颯太の話を聞かないことを意味するなら、それは嫌だった。
その沈黙を見て、蓮はそれ以上何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
昼休みになると、玲奈が真樹と蓮のいるところへやってきた。
「真樹、ちょっといい?」
「何」
「ノアに会いに行く話なんだけど」
真樹は箸を止めた。
以前から玲奈はノアに会いたいと言っており、散歩にも一度参加したいと話している。断る理由はないし、ノアも昔から玲奈を知っている。
「来週なら、いつがいい?」
「来週?」
「私、火曜と木曜は委員会があるから、それ以外なら放課後空いてる」
「別にいつでも」
「真樹がいる日がいいんだけど」
「俺は大体いる」
答えたあと、真樹の頭には自然とひよりの予定まで浮かんだ。
ひよりも何もなければ放課後に来る。
玲奈はひよりとも話したいと言っていた。
「天野さんも普段来るんでしょ?」
まるで思考を読んだように玲奈が聞く。
「まあ」
「だったら、天野さんが嫌じゃなければ一緒の日でもいい?」
「本人に聞く」
「ありがとう」
玲奈は素直に微笑んだ。
その横で蓮が何気なく真樹を見る。
以前なら玲奈がノアに会いたいと言えば、自分の予定だけ確認すればよかったはずだ。それが今は、ひよりがどう思うかまで先に考えている。
真樹自身もそれに気づいているのか、少しだけ眉間へ皺を寄せていた。
「そういえば」
玲奈が続ける。
「明日はノアの散歩?」
「そうだけど」
「天野さんも?」
「来る」
「二人で?」
「ノアもいる」
「真樹、それ毎回言うね」
玲奈が少し笑う。
「だっているだろ」
「分かってる」
玲奈の笑顔は崩れなかったが、胸の内には小さな痛みが残った。
土曜日の午後、真樹はひよりと会う。
それ自体はもう珍しいことではないらしい。むしろ、真樹の中では休日にひよりが来ることまで日常へ入り始めている。
(私が知らないうちに、本当に近くなったんだ)
そう思っても、ひよりへ嫌な感情を向けたいとは思わなかった。
初めて話したときのひよりは、真樹の家柄を利用しようとするような人には見えなかった。それどころか、真樹自身がひよりといるときだけ見せる反応のほうが、玲奈には気になっている。
「玲奈?」
蓮に呼ばれ、玲奈は我に返った。
「何?」
「いや、止まってたから」
「ちょっと考え事」
玲奈はそう答え、真樹へ視線を戻した。
「来週のこと、天野さんに聞いておいてくれる?」
「ああ」
「私から連絡できれば早いんだけど、連絡先知らないから」
その言葉に、真樹は一瞬だけ妙な安心を覚えた。
なぜ安心したのか分からず、すぐに自分で嫌になる。
(何考えてんだ、俺)
玲奈とひよりが連絡先を交換したところで困ることなど何もない。
それなのに、自分を介さず二人が親しくなることを想像すると、ほんの少し落ち着かない。
最近の自分は、ひよりが絡むだけで感情が増えすぎていた。
◇ ◇ ◇
青葉高校では、午後の授業が終わる少し前から窓の外が曇り始めていた。
雨が降るほどではなさそうだが、朝より空気が冷えている。
終礼が終わると、ひよりは鞄へ教科書をしまいながら千夏を見る。
「今日、行ってくる」
「北条君のとこ?」
「うん」
「明日も会うんだよね?」
「二時くらいに」
「ほんとよく会うね」
「千夏までお兄ちゃんみたいなこと言わないでよ」
「私は止めてないじゃん」
「それはそうだけど」
千夏は笑いながらマフラーを巻いた。
「佐伯君への告白のこと、北条君にも話す?」
ひよりの手が止まる。
「……まだ告白する日決めてないよ」
「決めたら」
「たぶん話すと思う」
「そっか」
「北条君、聞きたくないときもあるみたいだけど、私が話さなくなるほうが嫌って言ってたから」
「うん」
「だから、決めたら言う」
答えは出た。
それでも、胸の奥に残る引っかかりは消えなかった。
「千夏」
「何?」
「北条君に応援してって言ったら、してくれるかな」
千夏はすぐには答えなかった。
「それ、言いたい?」
「……分かんない」
「じゃあ、言いたくなったら言えば?」
「答えになってないよ」
「北条君がどうするかは私には決められないもん」
千夏は鞄を持ち上げる。
「でも、ひよりが佐伯君を好きなの知ってて、今まで話聞いてくれてるんでしょ?」
「うん」
「だったら北条君なりに考えるんじゃない?」
「そうだよね」
ひよりは頷いた。
なぜか「応援して」と真樹へ言う場面を想像すると、少しだけ言いづらい。
颯太へ告白すること自体より、真樹にそれを伝える場面のほうが妙に想像しづらかった。
◇ ◇ ◇
公園へ向かう途中、ひよりは真樹へメッセージを送った。
『今から行くよ』
返事はすぐに来た。
『いる』
たった二文字を見て、ひよりは笑う。
『今日は待ってた?』
『ノアの散歩中』
『入口で?』
少し間が空く。
『うるさい』
「絶対待ってるじゃん」
誰もいない歩道で小さく笑い、ひよりはスマートフォンをコートのポケットへしまった。
公園へ着くと、真樹とノアは入口から少し入った場所にいた。
昨日ほど露骨に入口を見ていたわけではない。それでも、ひよりが近づくより先にノアが気づき、続いて真樹も顔を上げた。
「こんにちは」
「遅い」
「ほら、待ってた」
「時間決めてないだろ」
「じゃあ遅くないじゃん」
「……確かに」
「認めるの早いね」
ひよりが笑いながらノアへ手を伸ばすと、大きな黒い頭がすぐに掌へ寄ってくる。首元を撫でてやれば、ノアは気持ちよさそうに目を細めた。
「ノアは今日も素直だね」
「誰かと違ってな」
「北条君?」
「お前」
「私、結構素直だよ」
「どこが」
「会えて嬉しいってちゃんと言える」
真樹の動きがわずかに止まった。
ひよりは昨夜の二文字を思い出して、楽しそうに顔を覗き込む。
「北条君も言えるようになったけど」
「忘れろ」
「スクショあるから無理」
「消せ」
「宝物にする」
「大げさなんだよ」
真樹は顔を逸らして歩き始めたが、ひよりはその耳が少し赤くなっていることに気づいた。
(これ、照れてる『別に』と同じ顔)
以前なら見逃していた変化が、今では分かる。
それがまた少し嬉しかった。
二人と一匹は並んで遊歩道を進んだ。曇り空のせいで夕方の光は弱く、木々の間を抜ける風も昨日より冷たい。ひよりがコートのポケットへ手を入れると、真樹が横目で見た。
「手袋は?」
「鞄の中」
「何で使わないの」
「まだ大丈夫かなって」
「寒そうだけど」
「北条君、最近お兄ちゃんみたい」
「それ前も言っただろ。やめろ」
「お兄ちゃんより言い方優しいけどね」
「比較対象が悪すぎる」
「ひどい」
ひよりは笑いながらも、素直に鞄から手袋を取り出した。
真樹はそれを確認してから前へ向き直る。
その何気ないやり取りのあと、ひよりはふと思い出した。
「昨日、まだ質問あるって言ってたよね」
「言ったっけ」
「メッセージ残ってるよ」
「便利だな、それ」
「証拠があるからね。今日は何聞くの?」
「まだ考えてない」
「嘘」
「何で」
「北条君、聞きたいことある顔してる」
真樹は横目でひよりを見る。
「俺の顔まで分かるようになったの?」
「少しずつ」
「面倒だな」
「お互い様でしょ」
ひよりが得意そうに笑った。
真樹はしばらく黙って歩いた。
本当は、朝から一つ聞きたいことがあった。
昨日より前から気になっていたことではない。むしろ今朝、蓮と話したことで急に輪郭を持った疑問だった。
ただ、それを聞けば、自分が何を気にしているのかまでひよりに伝わりそうで言いづらい。
「天野」
「うん」
「佐伯にさ」
名前を出した瞬間、ひよりがこちらを見る。
「いつ告白するの」
ひよりの足取りがわずかに乱れた。
「……え?」
「前から、いつか言うって言ってただろ」
「うん」
「決めてる?」
ひよりは数歩歩いてから、ゆっくり首を振った。
「まだ日にちまでは決めてない」
「そう」
「でもね」
真樹の胸の奥が重くなる。
「そろそろ、ちゃんと考えようかなって思ってる」
聞きたかった答えのはずなのに、聞きたくなかった。
真樹はノアのリードを握る指へ少し力を入れた。
「……何で急に」
「急じゃないよ。ずっと言いたいとは思ってたから」
「最近話せるようになったから?」
「それもある」
ひよりは少し照れたように笑った。
「前は佐伯君見つけても、声かけようか迷ってるうちに終わること多かったでしょ。でも最近は普通に話せること増えたし、向こうから教室にも来てくれたし」
「写真の用事だろ」
「分かってるよ」
「なら」
「でも嬉しかったの」
ひよりの声は柔らかかった。
「用事があったからでも、佐伯君が私の教室まで来てくれたのは嬉しかったし、そのあと普通に話せたのも嬉しかった。だから、いつまでも怖がってるだけじゃ駄目かなって」
真樹は返事をしなかった。
ひよりが真剣に考えていることは分かる。
だからこそ、軽い言葉で邪魔をしたくなかった。
(嫌だな)
胸の内に浮かんだ感情だけは、以前よりはっきりしていた。
ひよりが颯太へ告白するのは嫌だ。
もし颯太が受け入れれば、もっと嫌だ。
それでも「やめろ」と言う権利が自分にないことも分かっている。
「北条君?」
「何」
「嫌そう」
「……まあ」
ひよりが驚いた。
以前なら誤魔化していたところを、真樹は完全には否定しなかった。
「やっぱり佐伯君の話、嫌?」
「嫌なときはある」
「じゃあ、言わないほうがいい?」
「それはもっと嫌」
返事は早かった。
ひよりは少し目を丸くしたあと、静かに笑う。
「北条君、本当にそこ変わらないね」
「何が」
「聞きたくないけど、知らないのも嫌」
「……自分でも面倒だと思う」
「私も最初は不思議だった」
「今は?」
「北条君らしいなって思う」
ひよりは歩きながら、手袋をした両手を背中側で組んだ。
「じゃあ、告白する日決めたら言ってもいい?」
真樹は答えるまで少し時間がかかった。
言ってほしくない。
けれど、知らないままその日を迎えるのも嫌だった。
「……言えば」
「うん」
ひよりは頷いたあと、少し迷うように真樹を見た。
「そのときさ」
「何」
「応援してって言ったら、してくれる?」
真樹の足が止まりかけた。
ノアが先へ進もうとしてリードが軽く張り、その感触でようやく歩調を戻す。
「……それは無理」
ひよりも足を緩めた。
怒った様子はない。ただ、予想していなかった答えだったらしく、真樹の横顔を見ている。
「無理なんだ」
「悪い」
「謝るの?」
「応援してほしいんだろ」
「うん。でも……」
ひよりは少し考えた。
「北条君が嫌なら、無理に言ってほしくないかな」
「何で」
「嘘で『頑張れ』って言われても、たぶん嬉しくないから」
真樹はひよりを見る。
責められると思っていたわけではない。
それでも、こんなふうにあっさり受け入れられるとは思っていなかった。
「ただ」
ひよりが続ける。
「終わったあと、話は聞いてほしい」
「……結果?」
「うん。いい結果でも、悪い結果でも」
「それは聞く」
今度は迷わなかった。
「絶対?」
「お前が話したいなら」
「そっか」
ひよりの表情が和らぐ。
「じゃあ、それでいい」
真樹の胸の奥に、安堵と痛みが同時に広がった。
応援はできない。
けれど、ひよりが傷ついたならそばにいたいと思うし、もしうまくいったとしても、聞かないふりはできない。
そんな自分が、もうただの友人として自然なのかどうかは分からなかった。
(……分からないふりしてるだけか)
昨日より、その疑いは強くなっていた。
◇ ◇ ◇
遊歩道の途中でノアが立ち止まり、ひよりのほうへ顔を向けた。
「どうしたの?」
ひよりがしゃがむと、ノアはその手へ鼻先を押しつける。
「慰めてくれてる?」
「何も起きてないだろ」
「告白する前から北条君に応援断られた」
「俺に告白するわけじゃないだろ」
「それはそうだけど」
ひよりはノアの首元を撫でながら笑った。
真樹は何気なく言った自分の言葉を、頭の中で一度だけ反芻した。
俺に告白するわけじゃない。
当たり前のことだ。
ひよりが告白したい相手は颯太で、自分ではない。
分かりきっているはずなのに、その事実を自分の言葉で確認した途端、胸の奥が妙に冷えた。
「北条君?」
「何」
「また変な顔してる」
「してない」
「してるよ」
ひよりは立ち上がり、少しだけ真樹へ近づいて顔を覗き込んだ。
距離が縮まる。
真樹は反射的に半歩だけ身体を引いた。
ひよりが止まる。
「……何で逃げるの?」
「近い」
「今までこれくらいあったじゃん」
「今日は近い」
「何それ」
ひよりは不思議そうにしながら一歩戻った。
真樹自身にも説明できなかった。
昨日までは、ひよりが顔を覗き込んできても鬱陶しいと思う程度だった。今日は、自分がひよりを好きなのかもしれないと意識してしまったせいで、同じ距離でも意味が変わって感じられる。
(最悪だ)
意識した途端にこれでは、今後どう接すればいいのか分からない。
「北条君、今日ちょっと変」
「お前のせい」
「何で私!?」
「知らない」
「理不尽!」
ひよりが抗議すると、真樹は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ひよりもつられるように笑う。
結局、いつもの空気へ戻った。
ただし真樹だけは、その「いつも」が以前と同じものには戻らないことを感じ始めていた。
◇ ◇ ◇
公園の小さな広場まで来たところで、真樹は昼休みに玲奈から頼まれたことを思い出した。
「そういえば、一ノ瀬のこと」
「玲奈さん?」
「来週、ノアに会いに来たいって」
ひよりの表情がほんの少し変わる。
以前にも聞いていた話なので驚きはしない。ただ、いよいよ実際に会う話が進み始めたのだと思うと、胸の奥にまたあの小さなざわつきが生まれた。
「いつ?」
「まだ決めてない。火曜と木曜以外なら空いてるらしい」
「北条君は?」
「大体いる」
「そっか」
「お前が嫌じゃなければ、同じ日でもいいって」
「私?」
「一ノ瀬、お前とも話したいって言ってたから」
ひよりは少し嬉しくなった。
「じゃあ一緒がいい」
「即答だな」
「だって私も話してみたいもん」
「前はちょっと気にしてただろ」
「気にしてないよ」
「昔知ってるの羨ましいって言ってたじゃん」
「それと玲奈さんと話したいのは別」
ひよりは少し頬を膨らませる。
「玲奈さんが嫌なわけじゃないからね」
「分かってる」
「それに、本人に聞けば北条君の昔の話いっぱい聞けそう」
「やっぱ別の日にする」
「何で!」
「余計なことしか言わなそうだから」
「聞きたい」
「却下」
「私も特別なんでしょ?」
「それ関係ある?」
「特別な友達には昔話を知る権利があります」
「ない」
ひよりが笑いながら真樹へ抗議する。
その様子を見ているうちに、真樹の胸にあった警戒も少しだけ薄れた。
ひよりが玲奈と話すこと自体を嫌がる理由はない。
むしろ、自分にとって昔から大切な友人と、今大切になり始めている相手が普通に話せるなら、それは悪いことではないはずだ。
(今、大切って思ったな)
真樹は自分の思考に気づいたが、以前のように慌てて否定はしなかった。
ひよりは大切だ。
友人としてなのか、それ以上なのかを決め切れていないだけで、その部分まで否定する必要はもうない気がしていた。
「じゃあ月曜か水曜か金曜?」
ひよりが指を折りながら考える。
「お前、どれがいい?」
「私が決めていいの?」
「一ノ瀬がお前とも話したいって言ってるんだから、お前の予定もあるだろ」
「今のところどこでも大丈夫かな。千夏が来る日とも重ねる?」
「増やすな」
「楽しそうじゃん」
「ノアの散歩が集会になるだろ」
「ノア人気者」
ひよりがノアを見ると、本人は会話の意味など気にしていない様子で足元の匂いを嗅いでいた。
「千夏はまだいつ来るか決めてないし、玲奈さん先でもいいよ」
「じゃあ聞いとく」
「うん」
これで、来週には玲奈が加わる散歩が実現する可能性が高くなった。
ひよりは楽しみだと思う。
それと同時に、真樹と玲奈が自分の知らない昔話をするところを想像すると、少しだけ落ち着かない。
(何でだろ)
昨日と同じ疑問が浮かんだものの、やはり答えは出なかった。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めたころ、二人は公園の入口へ戻ってきた。
曇り空の下では夕焼けもほとんど見えず、街灯がいつもより早く明るく感じられる。吐く息も白くなり始め、ひよりは手袋をした両手を軽く擦り合わせた。
「明日二時だよね」
「ああ」
「今日みたいに待っててね」
「待ち合わせなんだから待つだろ」
ひよりが止まった。
「今、待ち合わせって言った」
「……言ったけど」
「前は待ち合わせじゃないみたいなこと言ってたのに」
「二時って時間決めてるんだから、待ち合わせだろ」
「進歩したね」
「何の」
「分かんないけど」
ひよりは嬉しそうに笑う。
「明日は何する?」
「ノアの散歩」
「それ以外」
「決めてない」
「またパン屋さん行く?」
「お前好きだな」
「美味しいから」
「別にいいけど」
「じゃあ明日決めよう」
予定を細かく決めなくても、会うこと自体は決まっている。
それが二人にとって少しずつ当たり前になっていた。
ひよりは帰ろうとしてから、ふと足を止めた。
「北条君」
「何」
「さっきのこと、ありがとう」
「何が」
「応援できないってちゃんと言ってくれたこと」
真樹は少し眉を寄せる。
「普通そこ感謝する?」
「だって、北条君が嫌なのに嘘つかなかったってことでしょ」
「……まあ」
「それで、終わったら聞くって言ってくれたから」
ひよりは少しだけ視線を落とし、手袋をした指先を重ねた。
「もし振られたら、たぶん私かなり落ち込むと思う」
真樹の胸が締めつけられる。
「まだ振られるって決まってないだろ」
「そうだけど、考えちゃうよ」
「……そのときは」
真樹は言葉を探した。
頑張れとは言えない。
うまくいけばいいとも、今の自分には言えない。
それでも、もしひよりが傷ついたなら、一人で抱え込ませたくない。
「そのときは来れば」
「公園に?」
「どこでもいいけど。話くらいは聞く」
「泣いてても?」
「別に」
「めちゃくちゃ機嫌悪くても?」
「昨日言っただろ」
真樹はひよりをまっすぐ見る。
「俺の前で無理に笑わなくていいって」
ひよりは何も言わなかった。
胸の奥へ、じわりと温かいものが広がっていく。
颯太への告白を考えているはずなのに、その未来で傷ついた自分の隣に真樹がいる光景を想像すると、不思議なくらい安心した。
「……うん」
ひよりは今度こそ、作ったものではない静かな笑顔を浮かべた。
「覚えておく」
「忘れてもいいけど」
「絶対忘れない」
「そう」
「北条君も忘れないでね」
「覚えてたら」
「それ、もう約束したのと同じだから」
「勝手に決めるな」
「じゃあ約束」
「聞いてる?」
ひよりは楽しそうに笑った。
「また明日」
「ああ」
「今日は?」
「何が」
「会えて嬉しかった?」
真樹は一瞬だけ黙った。
昨日なら、かなり時間をかけてようやく答えた。
今日は視線を逸らしながらも、逃げなかった。
「……まあ、嬉しかった」
ひよりの顔がぱっと明るくなる。
「言った!」
「毎回聞くなよ」
「だって言ってくれるようになったから」
「調子乗るだろ、お前」
「明日も聞こうかな」
「答えない」
「今日もそう言って答えた」
「帰れ」
「はいはい」
ひよりは笑いながら手を振り、公園を出ていった。
真樹はその姿が角を曲がって見えなくなるまで、ノアと一緒に入口近くへ立っていた。
やがてノアが真樹を見上げる。
「……応援なんかできるわけないだろ」
誰に聞かせるでもなく呟き、真樹はリードを持ち直した。
ひよりが颯太へ告白する。
その未来を想像するだけで嫌になる。
それでも邪魔をしたいわけではない。
ひよりが自分で選ぼうとしていることを、止める権利もないと思う。
(でも、佐伯とうまくいってほしいとは思えない)
そこまで認めても、以前ほど自分の感情から逃げたいとは思わなかった。
むしろ、少しずつ答えが見えてきている。
問題は、その答えを認めたあとにどうするのかだった。
◇ ◇ ◇
天野家へ帰宅したひよりは、夕食後に家のパソコンを開き、保存されている文化祭の写真を改めて確認していた。
何枚か候補を選び、週明けに颯太へ見せられるようにしておく。
画面には、以前のクラスメイトたちと一緒に笑う自分や颯太の姿が映っていた。
当時から好きだった。
けれど、そのころのひよりは今以上に、颯太へ自分から話しかけることができなかった。
(今なら、前よりちゃんと話せる)
そう思えるようになったのは、颯太との会話が増えたからだけではない。
千夏に背中を押してもらったこともある。
家族に見守られている安心もある。
そして、真樹と出会ってから、自分の気持ちを以前より言葉にするようになった。
褒めてほしい。
会えて嬉しい。
寂しかった。
話を聞いてほしい。
以前なら恥ずかしくて飲み込んでいたことを、真樹には少しずつ言えるようになっている。
(北条君のおかげも、あるのかな)
ひよりはパソコンの画面を見ながら考えた。
もし真樹と出会っていなければ、今も颯太へ遠くから片想いを続けるだけだったかもしれない。
そう考えると、少し不思議だった。
好きな人へ近づく勇気をくれたのが、別の男の子なのだから。
「ひより?」
部屋の入口から声がして振り返ると、美月が立っていた。
「お姉ちゃん」
「写真探してるの?」
「うん。佐伯君に頼まれたやつ」
美月は妹の横まで来ると、画面を覗き込んだ。
「これが佐伯君?」
「そう」
「前に見た写真より分かりやすい」
「何が?」
「ひよりの顔」
ひよりは画面へ視線を戻す。
写真の中の自分は、颯太の少し離れたところに立っている。
「そんなに違う?」
「好きな人の近くにいる顔してる」
「恥ずかしいからやめて」
ひよりは慌てて次の写真へ切り替えた。
美月は笑ったあと、妹の隣の椅子へ腰を下ろす。
「告白、いつにするか決めた?」
「まだ。でも今日、千夏にはそろそろって話した」
「北条君には?」
ひよりは少しだけ驚いた。
「何で北条君?」
「最近、佐伯君のことも話してるんでしょ?」
「うん」
「なら話すのかなと思って」
「……今日話したよ」
「何て?」
ひよりは真樹との会話を思い返す。
「告白する日を決めたら教えていいって。でも、応援はできないって言われた」
美月の目がわずかに細くなった。
「応援できない?」
「うん。私が『応援してって言ったらしてくれる?』って聞いたら、『それは無理』って」
「ひよりは、それ聞いてどう思った?」
「北条君らしいなって」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
ひよりは迷わず答えた。
「だって北条君、佐伯君の話すると前からちょっと嫌そうだったし。無理して『頑張れ』って言われるよりいいよ」
「理由は聞かなかったの?」
「聞いてない」
「どうして?」
ひよりはそこで少し考えた。
確かに、なぜ真樹が応援できないのかは聞かなかった。
以前なら気になって質問していたかもしれない。
「……北条君が言いたくなったら言うかなって」
「そっか」
「でもね、終わったら話は聞くって。振られて泣いてても、機嫌悪くてもいいって」
美月は黙った。
妹は嬉しそうに話している。
颯太へ告白しようとしている妹が、その結果傷ついたときの居場所として真樹を自然に想定している。
そして真樹も、それを受け入れている。
(北条君、あなた本当にただの友達なの?)
美月の中にはそんな疑問が浮かんだが、口にはしなかった。
ひよりがまだ自分で見つけていない答えを、外から与えるつもりはない。
「お姉ちゃん?」
「何でもない」
「今日みんなそれ言う」
「みんな?」
「千夏も北条君も」
「じゃあ私も仲間入り」
「嬉しくない」
ひよりが笑い、美月も小さく笑った。
◇ ◇ ◇
その夜。
真樹のスマートフォンへ、玲奈からメッセージが届いた。
『来週の件、天野さんどうだった?』
真樹はベッドへ腰掛けたまま返信する。
『一緒でいいって』
『よかった。ありがとう』
『月水金ならどれがいい』
少しして、
『水曜なら確実に空いてるよ』
と返ってきた。
真樹は一度画面を見つめた。
水曜日。
ひよりにはまだ確認していない。
『天野にも聞く』
『うん。無理なら別の日で大丈夫』
そこで玲奈とのやり取りはいったん終わった。
ほぼ同時に、別の通知が表示される。
ひよりだった。
『北条君』
『何』
『写真探し終わった』
真樹はすぐに何の写真か理解した。
『文化祭?』
『そう』
『佐伯に見せるやつ』
『覚えてたんだ』
『今日聞いたから』
『月曜日に見せようかなって思ってる』
真樹の指が止まる。
月曜日に颯太と話す。
それ自体は何も特別なことではない。
それでも今の真樹には、ひよりと颯太の接点が一つ増えるたびに気になってしまう。
『そう』
短く返す。
すぐにひよりから、
『嫌そう』
と返ってきた。
「……文字でも分かるのかよ」
真樹は思わず呟いた。
『普通』
『ほんと?』
『多分』
『多分なんだ』
真樹は少し考えたあと、昼間の蓮との会話を思い出した。
自分がどう思っているかまで嘘にする必要はない。
『ちょっと嫌』
送信する。
既読がつくまで数秒。
『今日すごく素直』
『お前が聞くから』
『何で嫌なの?』
予想していた質問だった。
それでも、答えは簡単には打てない。
真樹は入力欄へ何度か文字を入れては消した。
『佐伯ばっかりだから』
そこまで打って消す。
『お前が嬉しそうだから』
意味が逆だと思い、また消した。
本当に嫌なのは、ひよりが嬉しそうなことではない。
颯太がその理由になることだ。
以前から薄々分かっていた。
今はもっとはっきりしている。
『分かんない』
結局そう送った。
すぐに、
『またそれ』
と返ってくる。
『でも、前より考えてる?』
真樹は画面を見つめた。
ひよりは時々、妙なところで鋭い。
『まあ』
『答え出たら教えてね』
『何で』
『北条君のこと知りたいから』
昨日も聞いた言葉だった。
それなのに、また胸の奥が温かくなる。
『覚えてたら』
『絶対教えるやつ』
『何でそうなる』
『最近の北条君、最終的に教えてくれるから』
真樹は思わず小さく笑った。
そこへひよりからもう一通届く。
『あとね』
『何』
『告白する日、ちゃんと決めたら北条君にも最初に言う』
笑みが消えた。
真樹はしばらく画面を見たまま動かなかった。
最初に。
その言葉は嬉しい。
ひよりが自分をそれだけ信頼しているということだから。
しかし、その報告内容は聞きたくない。
相反する感情が同時に押し寄せ、真樹は深く息を吐いた。
『藤崎より先?』
なぜかそんなことを聞いてしまう。
『千夏には今日もう相談してるから、日が決まったら同じくらいかな』
『そう』
『何で?』
『別に』
『これは?』
『何が』
『どの「別に」?』
真樹は眉を寄せた。
『知らない』
『ちょっと拗ねてるやつ?』
『違う』
『じゃあ嫉妬?』
真樹の指が完全に止まった。
ひよりは、おそらく深い意味で送っていない。
千夏へ先に話していたことへの友人としての嫉妬、という程度の軽い冗談だろう。
それでも、その二文字は今の真樹にとって笑って流せるものではなかった。
(嫉妬)
今日、颯太の話を聞いたとき、自分でも同じ言葉を考えた。
ひよりが颯太と話せば面白くない。
海斗や蓮の話でも気になる。
玲奈とひよりが自分を介さず親しくなることにさえ、少し妙な感情を覚えた。
そのすべてが同じ種類なのかは分からない。
けれど少なくとも、颯太に対する感情だけは、もう友人としての独占欲だけでは説明しづらかった。
『北条君?』
追加のメッセージが届く。
『寝た?』
真樹はゆっくり文字を打った。
『嫉妬かもな』
送信する直前で、指が止まる。
数秒迷ったあと、すべて消した。
『違う』
代わりにそれだけを送る。
『怪しい』
『うるさい』
『明日聞こう』
『聞くな』
『二時ね』
『分かってる』
『遅刻しないでね』
『お前もな』
『おやすみはまだ?』
『まだ寝ない』
『じゃああとで』
ひよりとのやり取りはいったん途切れた。
真樹はスマートフォンを伏せ、ベッドの背へ身体を預ける。
(嫉妬かもな、じゃないだろ)
もう「かも」で逃げる段階ではなくなり始めている。
颯太へ向ける感情は、おそらく嫉妬だ。
そして、なぜ嫉妬するのか。
そこまで考えれば、答えはすぐ近くにある。
真樹は目を閉じた。
ひよりの笑顔が浮かぶ。
公園へ来たときの顔、ノアを撫でる顔、褒めれば嬉しそうにする顔、颯太について話すときの顔。昨日「特別」と言われたときの声も、今日「応援して」と聞かれたときに胸が重くなった感覚も残っている。
(俺は、天野に佐伯を好きでいてほしくない)
初めて、そこまで明確に認めた。
ひよりが幸せなら何でもいいと、きれいに割り切れるほど自分はできた人間ではない。
できるなら自分を見てほしい。
颯太について話すときとは違う意味で、自分を見て笑ってほしい。
そこまで考えた瞬間、真樹は片手で顔を覆った。
「……これ、もう答え出てるだろ」
声にした途端、胸の鼓動が強くなる。
まだ本人へ何かを伝えるつもりはない。
明日会って、いきなり態度を変えるつもりもない。
ひよりにはひよりの恋がある。
それを知ったうえで、自分の気持ちを理由に邪魔することだけはしたくなかった。
ただ、自分自身にまで嘘をつき続けるのは、そろそろ難しかった。
床で横になっていたノアが顔を上げる。
真樹はその黒い瞳としばらく見つめ合ったあと、力なく息を吐いた。
「……お前、本当に面倒なやつ連れてきたな」
ノアは意味を理解しているのかいないのか、尻尾を床へ一度だけ打ちつけた。
「嬉しそうにすんな」
そう言いながらも、真樹の声には本気の苛立ちはなかった。
やがて伏せていたスマートフォンが震える。
『そろそろ寝る』
『北条君も夜更かししないでね』
『おやすみ。また明日』
真樹はその文字を見つめる。
明日も会える。
しかも学校帰りではなく、最初から二人で会う時間を決めている。
以前なら「ノアの散歩だから」と言い訳していた。
もちろんノアの散歩なのは本当だ。
それでも、それだけではないことを今の真樹はもう知っている。
『おやすみ』
そこまで打ってから、少し考える。
『また明日』
続けて送信した。
画面を閉じたあとも、真樹の胸には落ち着かない熱が残っていた。
恋だと認める言葉を、まだ自分の中で最後まで言い切ってはいない。
けれど、その答えから目を逸らすための理由は、もうほとんど残っていなかった。




