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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第30話 俺の知らない天野



 木曜日の朝。


 目覚まし時計が鳴る少し前、天野ひよりは枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。


 昨夜の真樹とのやり取りは、当然ながらそのまま残っている。幼いころの写真を見せ合い、最後には真樹から「明日聞く」と言われたものの、何を聞かれるのかは結局教えてもらえなかった。


 ひよりは布団の中で画面を眺めながら、昨夜から何度目か分からない疑問を頭に浮かべる。


(何聞かれるんだろ)


 好きな食べ物くらいなら、今さら改めて聞くようなことでもない気がする。学校生活については普段から話しているし、家族のことも真樹はかなり知っている。


 子どものころのことだろうか。


 それとも、自分が昨日真樹の昔を知りたいと言ったから、同じように何か過去のことを聞くつもりなのか。


「……気になる」


 小さく呟いたところで目覚ましが鳴り、ひよりは慌てて止めた。


 布団から抜け出してカーテンを開けると、冬の朝らしい淡い光が部屋へ差し込んでくる。空は晴れているものの、窓ガラスへ手を近づけただけでも外の冷たさが伝わってきた。


 制服へ着替え、鏡の前で髪を整える。


 今日はどうしようかと少し考えたあと、ひよりは髪を下ろしたまま、片側だけを細いピンで留めた。


(……これなら気づくかな)


 そこまで考えてから、鏡の中の自分と目が合う。


「またやってる」


 昨日も似たようなことを考えた。


 真樹が髪型の違いへ気づくかどうかを、いつの間にか毎朝のように確認している。


 以前、水色の髪留めをすぐに見つけられてから、妙な対抗心のようなものが生まれたのかもしれない。そう考えれば一応説明はつく。


(今日は聞かないでおこうかな)


 自分から「何か違わない?」と聞けば、気づいてもらったことにはならない。


 何も言わず、真樹が自分で気づくか試してみる。


 そう決めたひよりは、少しだけ満足して部屋を出た。


     ◇ ◇ ◇


「今日は髪下ろしてるのね」


 朝食の準備をしていた由美が、リビングへ入ってきたひよりを見てすぐに言った。


「お母さん早い」


「毎日見てるもの」


「お姉ちゃんも気づくかな」


「気づくんじゃない?」


 由美が味噌汁を並べているところへ、ちょうど美月が入ってくる。


 美月はひよりを一度見たあと、そのまま席へ向かいかけたものの、途中で足を止めた。


「今日は下ろしたんだ」


「気づいた」


「分かるでしょ、それくらい」


「じゃあ難易度低いかな」


「何の?」


 ひよりが答えるより早く、後ろから悠一の声がした。


「北条に気づくか試すとか?」


 ひよりが振り返る。


「何で分かったの!?」


「当たりかよ!」


「今のなし!」


「朝から何やってんだお前!」


「別にいいでしょ!」


 悠一は驚いた顔のまま席へ座り、納得できないように妹の髪を見る。


「何で北条が気づくか確認する必要があるんだよ」


「必要とかじゃないよ。この前から何回か気づかれてるから、今日も分かるかなって思っただけ」


「何回か?」


「水色の髪留めとか、髪型変えたときとか」


「……あいつ、そんなに見てんの?」


「お兄ちゃん、その言い方やめて」


「いや、でも」


「ひより」


 美月が兄の言葉を遮るように声をかける。


「北条君に気づいてほしいの?」


 ひよりは少し考えた。


「……気づいたら嬉しい」


 悠一が何か言いかける。


 美月はすぐに兄へ視線を向け、それだけで黙らせた。


「どうして嬉しいの?」


「ちゃんと見てくれてるって分かるからかな」


「そっか」


「千夏とかお姉ちゃんが気づいてくれるのも嬉しいよ?」


「分かってる」


「だから別に北条君だけじゃないからね」


「私、何も言ってないよ」


「顔が言ってる」


 ひよりは少し頬を膨らませながら席へ座る。


 美月はそれ以上聞かなかった。


 妹はまだ、自分の中にあるものを一つずつ確かめている途中なのだろう。颯太へ向ける分かりやすい恋心とは違い、真樹との間に生まれている感情は日常へ溶け込みすぎている。


 だから本人にとっては、比較する対象にすらなっていない。


 そのことを外から説明する必要はないと、美月は思っていた。


「そういえば今日も会うのか?」


 悠一が聞く。


「何もなかったらね」


「もうそれが前提なんだな……」


「昨日も言ったでしょ」


「分かってるけど」


「お兄ちゃんも友達と遊べば?」


「妹の心配してるほうが大事」


「重い」


「即答!?」


 朝から騒がしい兄妹を見ながら、由美と浩介は顔を見合わせて笑った。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校へ到着すると、千夏はひよりの髪型へすぐに気づいた。


「今日下ろしてるじゃん」


「やっぱり分かりやすい?」


「そりゃ分かるでしょ」


「じゃあ駄目かあ」


「何が?」


「北条君が気づくか試そうと思ったけど、簡単すぎるかなって」


 千夏は鞄を机へ置く手を止めた。


「ひより」


「何?」


「最近それ好きだね」


「何が?」


「北条君が変化に気づくか試すやつ」


「だって結構気づくんだもん」


「気づいてほしい?」


「うん」


 昨日と同じように、ひよりはほとんど迷わなかった。


「気づいたら嬉しい」


「へえ」


「何その顔」


「別に」


「北条君みたいな『別に』やめて」


「分類できる?」


「千夏はまだ無理」


「北条君はできるのに?」


「最近は何となく」


 ひよりは椅子へ座りながら笑う。


「嫌な『別に』とか、本当に何でもない『別に』とか、照れてるやつとか」


「照れてるやつまで分かるんだ」


「たぶんね」


「北条君もひよりの顔分かるんでしょ?」


「前より分かるみたい」


「……お互い観察しすぎじゃない?」


「そうかな」


「そうだと思うけど」


 千夏はそう答えながらも、それ以上は言わなかった。


 ひよりは自分が真樹をよく見るようになったことも、真樹からよく見られていることも、今のところ「仲良くなったから」で納得している。その説明がいつまで本人の中で自然に成立するのかは分からないが、少なくとも今はまだ壊す必要がない。


「そういえば」


 ひよりが少し身を乗り出す。


「昨日、北条君の中学生のころの写真見た」


「何で?」


「昔の写真交換したの」


「写真交換?」


「子どものころの」


「ちょっと待って」


 千夏は椅子をひよりの机へ近づけた。


「そこ詳しく」


「ノアが子犬だったころの写真見たいって言ったら、北条君も一緒に写ってるかもしれないって話になって。私も小さいころの写真送ったら、北条君も送ってくれた」


「へえ」


「最初ノアだけだったけど」


「北条君らしい」


「でもお願いしたら送ってくれたよ」


「どんな写真?」


「ソファで寝てる北条君のお腹に、小さいノアが乗ってるの」


 千夏の口元が緩む。


「見たい」


「駄目」


「何で!?」


「北条君に勝手に見せたら怒られる」


「昨日のひよりなら見せそうなのに」


「見せないよ。北条君の写真だもん」


 ひよりは当然のように答えた。


 千夏はその反応を見て、少しだけ笑う。


「ちゃんとしてるね」


「何が?」


「北条君とのこと」


「普通でしょ」


「うん。普通」


 千夏は頷いた。


 真樹がひよりへ送った写真を、自分が親友だからという理由だけで見せてもらえるとは思っていない。ひよりの中ではすでに、真樹との間で交わしたものを守るという境界が自然にできているらしい。


「それでね、今日また何か聞くって」


「北条君が?」


「うん。私のこと」


「何を?」


「それを教えてくれないの」


「楽しみ?」


「楽しみ」


 ひよりが笑う。


 その顔を見ながら、千夏は頬杖をついた。


「最近、北条君の話するとき楽しそうだね」


「仲良くなったからね」


「佐伯君の話するときとは違うけど」


 ひよりの動きが少し止まる。


「違う?」


「うん」


「どう違うの?」


「自分で考えな」


「美月お姉ちゃんと同じこと言う!」


「お姉さんさすが」


「二人ともずるい」


 ひよりは不満そうだったが、予鈴が鳴ったため話はそこで終わった。


     ◇ ◇ ◇


 桜陵学園。


 一時間目が始まる前、真樹は机へ頬杖をつきながら、昨日の蓮との会話を思い出していた。


 会いたい。


 話したい。


 知りたい。


 知ってほしい。


 ほかの男と一緒にいると気になる。


 誰かと付き合うことを想像すると嫌になる。


 昨日、自分の中にあるものを一つずつ並べてみれば、蓮が説明した「好きな相手に抱く感情」とほとんど重なっていた。


(……だからって、すぐそうだって決めるのも違うだろ)


 真樹は自分へそう言い聞かせる。


 ひよりとは知り合ってからまだ長くない。それまで異性の友人と呼べる相手がほとんどいなかったから、距離感が分からないだけかもしれない。


 初めてできた種類の友人だから気になる。


 毎日のように会うから、来なければ物足りない。


 自分へ遠慮しなくなってきた相手だから、もっと知りたい。


 それだけでも、一応説明はできる。


 ただ、その説明を並べるたび、自分が必死に逃げ道を作っているような気もした。


「真樹」


「何」


 顔を上げると、蓮がこちらを見ている。


「今日も自分と喧嘩してる?」


「してない」


「昨日よりひどそうだけど」


「お前のせいだろ」


「俺?」


「余計なこと言うから」


 蓮は数秒考え、昨日の会話を思い出したらしい。


「ああ、好きな人の話?」


「声でかい」


「普通だよ」


「周りに聞こえるだろ」


「聞かれたら困るの?」


「一般論なんだから変な誤解されるだろ」


「まだ一般論で通すんだ」


「何が」


「何でもない」


 蓮は笑いながら自分の席へ座る。


 真樹は面倒そうに視線を逸らしたものの、少ししてから再び蓮へ声をかけた。


「神崎」


「何?」


「好きになったら、相手の昔のことも知りたくなる?」


「また一般論?」


「そう」


「なる人は多いんじゃない?」


「何で」


「今のその人がどうやってできたのか知りたいからじゃない?」


 真樹は黙る。


 昨夜見た、幼いひよりの写真が浮かんだ。


 白いワンピースを着て、大きなぬいぐるみを抱き、少し恥ずかしそうに笑っていた。今と似ている部分を見つけたとき、確かに嬉しかった。


「例えば子どものころ何が好きだったとか、どんな性格だったとか、どういうことで泣いたとか。好きな相手なら、今まで知らなかった時間も知りたくなることはあると思うよ」


「……そう」


「何か聞くの?」


「別に」


「聞くんだ」


「決めつけんな」


 蓮は笑った。


「真樹」


「何」


「一個だけ言っとくけど」


「何だよ」


「答え探すのはいいけど、正解に合わせようとしないほうがいいよ」


 真樹の眉が寄る。


「どういう意味」


「『これをしたから好き』『これを思ったから恋』って採点するものじゃないってこと。結局、その人をどう思ってるかでしょ」


「……」


「まあ、一般論だけど」


 最後だけわざと付け足され、真樹は露骨に嫌そうな顔をした。


「お前、最近性格悪くなったな」


「真樹に言われたくない」


「うるさい」


 そこで教師が教室へ入ってきたため、会話は終わる。


 真樹は教科書を開きながら、蓮の言葉を頭の隅へ追いやろうとした。


 しかし、完全には消えなかった。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み。


 ひよりが千夏と昼食を食べていると、教室の入口から名前を呼ばれた。


「天野」


 聞き覚えのある声に振り返る。


 そこにいたのは颯太だった。


「佐伯君?」


「ちょっといい?」


「う、うん」


 ひよりは慌てて立ち上がる。


 千夏は何も言わず、軽く手を振って送り出した。


 教室の外へ出ると、颯太は廊下の端へ少し移動する。周囲には昼休みを過ごす生徒たちが何人もおり、二人きりというわけではない。


「ごめん、昼飯中」


「大丈夫。どうしたの?」


「宮田がさ、この前の文化祭の写真、ほかにもないかって」


「あ、写真?」


「そう。天野が持ってるかもって言ってたから」


「あると思う。家のパソコンにも入ってるかも」


「もし面倒じゃなかったら、今度送ってくれない?」


「うん、いいよ」


「助かる」


 颯太が笑う。


 それだけで、ひよりの胸が少し高鳴った。


 けれど以前のように頭が真っ白になるほどではない。緊張しながらも、ちゃんと次の言葉を考えられる。


「佐伯君」


「ん?」


「昨日、体育寒くなかった?」


 颯太が一瞬驚いたあと、笑った。


「めちゃくちゃ寒かった。風強くて」


「やっぱり。昨日見たとき外って言ってたから」


「天野、覚えてたんだ」


「うん」


 その一言が嬉しい。


 ひよりは少し勇気を出して、さらに会話を続けた。


「何したの?」


「サッカー。手痛くなるくらい寒かった」


「サッカーなのに手?」


「待ってる時間あるじゃん」


「あ、そっか」


「天野は化学どうだった?」


「実験だったよ。千夏が危うく分量間違えそうになってた」


「藤崎さんらしい」


「ひどいよね」


 二人で少し笑う。


 ほんの数分だった。


 それでも、颯太から自分を訪ねてきてくれたことも、用事が終わったあとに会話が続いたことも、ひよりには嬉しかった。


「じゃあ写真、時間あるときでいいから」


「分かった」


「ありがと。また」


「うん。またね」


 颯太が自分の教室へ戻っていく。


 ひよりはその背中を見送ってから、ゆっくり息を吐いた。


(話せた)


 しかも今日は、自分から声をかけただけではない。


 颯太のほうから来てくれた。


 もちろん目的は写真だ。それでも嬉しいものは嬉しい。


 教室へ戻ると、千夏がにやにやしながら待っていた。


「顔」


「まだ何も言ってない!」


「言わなくても分かる」


「佐伯君から来た」


「見てた」


「写真のことだったんだけど、そのあと普通に話せた」


「よかったじゃん」


「うん!」


 ひよりは席へ戻り、嬉しそうに弁当箱を開く。


 そして数秒後、ふとスマートフォンへ目を向けた。


「……北条君に言お」


「やっぱり?」


「だって聞くって言ってるし」


「今送るの?」


「ううん。放課後会ってから」


「何で?」


 ひよりは少し考える。


「顔見て話したいから」


 千夏は一瞬だけ黙った。


「そっか」


「何?」


「何でもない」


 ひよりは不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 ひよりは教室を出る前にスマートフォンを確認した。


 真樹から連絡は来ていない。


 けれど、だからといって不安にはならなかった。


 何もなければ公園にいる。


 昨日、二人でそう確認したからだ。


「ひより」


 千夏が鞄を肩へ掛ける。


「北条君の質問、聞いたら明日教えて」


「内容による」


「そこは教えてよ」


「北条君に関係することだったら勝手に話せないでしょ」


「またちゃんとしてる」


「何が?」


「何でもない」


「今日それ多くない?」


 千夏は笑いながらひよりの肩へ腕を回す。


「だって親友が最近ちょっと面白いから」


「私?」


「うん」


「何も変わってないよ」


「本人はそう思うよね」


「気になる!」


「じゃあ自分で考えて」


「またそれ!」


 校門まで騒ぎながら歩き、二人はそこで別れた。


 ひよりはいつもの道を公園へ向かう。


 途中、真樹へ「今から行く」と送ろうか迷ったものの、今日はやめてみた。


(何も言わなくてもいるんだよね)


 昨日確認したことを、少しだけ試したくなった。


 公園の入口が見えてくる。


 そして、黒い大きな身体が最初に目へ入った。


 ノアだ。


 その隣には、制服姿の真樹がいる。


 ひよりは自然と笑った。


(いた)


 それだけのことなのに、妙に嬉しい。


 ノアがひよりへ気づき、尻尾を大きく振り始める。それにつられるように真樹も顔を上げ、ひよりを見つけた。


 その瞬間、ひよりはなぜか少しだけ歩幅を速めた。


「こんにちは」


「遅い」


「えっ」


 ひよりはスマートフォンを確認する。


「いつもと同じくらいじゃん」


「今日は連絡なかったから」


「……待ってた?」


「別に」


「待ってたんだ」


「違う」


「何分?」


「五分くらい」


「それは待ってる」


「ノアの散歩してただけ」


「入口で?」


「たまたま」


「ふうん」


 ひよりは楽しそうに笑う。


「ごめんね」


「何が」


「連絡しなかったこと」


「別に謝ることじゃない」


「でも北条君、来るか気にしたんでしょ?」


「……少しだけ」


 ひよりが目を丸くした。


「今日ほんとに素直だね」


「昨日からそればっかりだな」


「だって北条君が認めるから」


「もう言わない」


「駄目」


「何で」


「今のほうが好きだから」


 ひよりは何気なく言った。


 真樹の動きが止まる。


「……何が?」


「素直な北条君」


「……そういう言い方やめろ」


「何で?」


「何でも」


 真樹は顔を逸らし、ノアのリードを持ち直す。


 ひよりは首を傾げたものの、すぐにノアへしゃがみ込んだ。


「ノア、こんにちは。今日も元気?」


 ノアの頭を撫でるひよりを見ながら、真樹は自分の心臓が少し速くなったことへ苛立った。


(『好き』だけ拾うなよ、俺)


 何を好きだと言われたのかは明確だった。


 それなのに、一瞬だけ別の意味に聞こえた。


 昨日までなら、そんな受け取り方すらしなかったはずだ。


(神崎に余計なこと聞いたせいだ)


 そういうことにしておく。


「北条君」


「何」


「今日も髪違うよ」


 ひよりは立ち上がりながら、自分から言ってしまった。


 真樹は一度だけ髪を見る。


「知ってる」


「え?」


「今日は下ろしてるだろ。横だけ留めてる」


 ひよりが固まる。


「気づいてたの?」


「来たときから」


「何で言わなかったの!」


「言う必要ある?」


「ある!」


「何で」


「私、今日何も言わないで北条君が気づくか試そうと思ってたの!」


「今自分から言ったじゃん」


「だって言わないから!」


「気づいてるか聞けばよかっただろ」


「それじゃ意味ないの!」


 真樹は呆れた顔をした。


「面倒くさ」


「でも気づいてたんだ」


「見れば分かる」


「千夏もお姉ちゃんも同じこと言ってた」


「じゃあ普通だろ」


「でも北条君も気づいたから嬉しい」


 ひよりが笑う。


 真樹は一瞬だけ視線を逸らした。


「……似合ってるんじゃない」


 ひよりの目が大きくなる。


「えっ」


「何」


「今日、私まだ褒めてって言ってないよ?」


「じゃあ今のなし」


「駄目!」


「毎回それだな」


「だって自分から言った!」


 ひよりは嬉しそうに自分の髪へ触れる。


「今日すごいね」


「何が」


「連絡なくて気にしたって認めたし、髪も自分から褒めた」


「もう帰る?」


「来たばっかり!」


 ひよりの笑い声が公園の遊歩道へ響く。


 真樹は面倒そうな顔をしていたものの、口元はわずかに緩んでいた。


     ◇ ◇ ◇


 歩き始めてしばらくすると、ひよりが思い出したように真樹を見る。


「そうだ。今日ね」


「何」


「佐伯君が教室まで来た」


 真樹の口元から笑みが消えた。


「……何で」


「文化祭の写真、ほかにもないかって」


「写真?」


「宮田君が欲しいんだって。私が持ってるかもしれないからって聞きに来たの」


「それだけ?」


「最初はね」


「最初は?」


 真樹がすぐに聞き返す。


 ひよりは少し笑った。


「やっぱり気になる?」


「話すなら最後まで話せ」


「はいはい」


 ひよりは昼休みの出来事を説明した。


 写真の話が終わったあと、昨日の体育について話したこと。自分から質問できたこと。颯太も化学の授業について聞いてくれたこと。


「普通に話せたんだ」


「……よかったな」


「うん」


 ひよりの声が弾む。


 真樹は前を向いたまま歩いていた。


 昨日までと同じように胸の奥がざらつく。


 ただ、今日はそれを「何だか分からない」とは思えなかった。


 颯太の話を嬉しそうにするひよりを見て、面白くない。


 ひよりが颯太へ告白し、もし付き合うことになれば嫌だ。


 そして今、颯太のほうからひよりの教室へ来たと聞いただけでも気になっている。


(……これ、普通に嫉妬じゃないのか)


 初めて、その言葉を自分の中で明確に置いた。


 置いた瞬間、否定したくなる。


(いや、でも)


 友達が誰かに取られるように感じれば、嫉妬くらいすることはあるのかもしれない。恋愛だけの感情ではない。


 そう考えたところで、また自分が逃げ道を探していることに気づく。


「北条君?」


「何」


「今日の『よかったな』、全然よかったと思ってないでしょ」


「……思ってる」


「本当に?」


「お前が嬉しかったなら、よかったんじゃない」


 ひよりは少し驚いた。


 真樹は嫌そうに見える。


 それでも、自分が嬉しいならよかったと言ってくれる。


「北条君」


「何」


「ありがとう」


「何で」


「分かんないけど」


「意味分かんない」


「私も」


 ひよりは笑った。


 真樹はその笑顔を横目で見る。


 自分が面白くないからといって、ひよりに颯太の話をやめさせたいわけではない。颯太と話せたことでひよりが嬉しいなら、その喜びまで否定したくもなかった。


 蓮が言っていた言葉を思い出す。


 相手が幸せならいいと思う気持ちと、自分を見てほしい気持ちが両方出る。


(……本当に面倒だな)


 以前なら恋愛をしている人間を見て、なぜわざわざそんな面倒なことをするのかと思っていた。


 今は少しだけ、その理由が分かり始めている。


     ◇ ◇ ◇


 公園の奥まで進み、人通りの少ない遊歩道へ入ったころ、ひよりはようやく昨夜から気になっていたことを口にした。


「北条君」


「何」


「昨日の質問」


 真樹の肩がわずかに動く。


「覚えてたの」


「忘れるわけないでしょ。何聞くの?」


「……」


「今日聞くって言ったよね?」


「言った」


「じゃあ聞いて」


 ひよりは真樹の横を歩きながら、少し期待するように顔を覗き込む。


 真樹はすぐには口を開かなかった。


 昨夜、聞きたいと思ったことはいくつもあった。


 ひよりが何を好きなのか。


 何を嫌うのか。


 子どものころはどんな性格だったのか。


 何をされたら嬉しくて、何をされたら傷つくのか。


 その中で、今一番知りたいことを考える。


「お前さ」


「うん」


「いつから、そんな感じなの」


「そんな感じ?」


「人の顔色見るの」


 ひよりの表情が少し変わった。


 予想していなかった質問だったらしい。


「……そこ?」


「嫌なら答えなくていい」


「嫌じゃないけど」


 ひよりは前へ視線を戻した。


 ノアが少し先を歩き、二人の歩調に合わせるようにゆっくり進んでいる。


「いつからだろ」


 ひよりは少し考える。


「たぶん小学生くらいからかな」


「何かあった?」


「すごく大きなことはないよ」


「じゃあ何で」


「私、昔は今より静かだったの」


 真樹は黙って続きを待った。


「人前で話すの苦手だったし、知らない子に自分から声かけるのも無理だった。休み時間も、仲いい子がいれば喋るけど、一人なら本読んでるような子だったかな」


「今と違うな」


「でしょ?」


「今ずっと喋ってる」


「北条君の前ではね」


 真樹が一瞬黙る。


 ひよりは気づかず話を続けた。


「小学校の高学年くらいのときに、クラスで明るい子たちと一緒になることが増えてね。最初は聞いてるだけだったんだけど、笑ったり、話合わせたりしてたら、そっちのほうが楽だったの」


「楽?」


「静かにしてると『怒ってる?』とか『つまらない?』って聞かれることあったから。別に怒ってなくても」


 ひよりは少し苦笑する。


「だったら笑ってたほうが、みんな安心するんだなって思って。それからかな。外ではなるべく明るくしてるほうが楽になった」


「……疲れない?」


「疲れるときはあるよ」


 ひよりは素直に答えた。


「でもずっと無理してるわけじゃないからね。千夏といるときは普通だし、家では見ての通りだし」


「俺の前は?」


 質問は、考えるより先に口から出ていた。


 ひよりが真樹を見る。


「北条君の前?」


「……嫌ならいい」


「何で今日すぐ逃げるの」


「逃げてない」


「逃げてるよ」


 ひよりは少し笑ったあと、考えるように視線を前へ戻す。


「最近は、かなり普通かも」


「かなり?」


「最初は気にしてたよ。北条君感じ悪かったし」


「またそれ言うのか」


「本当だもん。でも今は、嫌なこと言われたら普通に怒れるし、聞きたいことも聞けるし、褒めてって言えるし」


「最後いらないだろ」


「大事」


 ひよりは笑う。


「たぶん、北条君が私の機嫌悪くなっても逃げないって分かったからかな」


 真樹がひよりを見る。


「何それ」


「私が怒っても、北条君も言い返すでしょ?」


「普通だろ」


「普通じゃないよ。人によっては、ちょっと空気悪くなっただけで距離できることもあるし」


 ひよりの声は明るいままだった。


 けれど、その奥にあるものを真樹は以前より感じ取れるようになっている。


「北条君とは喧嘩しても、次の日普通に会えそう」


「……会うだろ」


「うん」


「その程度で来なくなる意味分かんないし」


「そういうところ」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


「だから話しやすいんだと思う」


 真樹はしばらく返事をしなかった。


 知りたかった。


 けれど、実際に聞いてみると、思った以上に胸へ残る。


 ひよりが明るく振る舞う理由も、その裏で人の顔色を気にしていることも、今まで自分が見てきた彼女の言動と少しずつつながっていく。


「じゃあ」


 真樹は慎重に言葉を選ぶ。


「俺の前では、無理に笑わなくていいんじゃない」


 ひよりの足が止まった。


 真樹も数歩先で気づき、振り返る。


「天野?」


「……今の、もう一回言って」


「嫌」


「何で!」


「聞こえただろ」


「聞こえたけど」


「ならいい」


 ひよりはその場に立ったまま真樹を見る。


 真樹は少し居心地悪そうに視線を逸らした。


「怒っててもいいし、機嫌悪くてもいいし、喋りたくないなら喋らなくていいだろ。別に毎回明るくする必要ない」


「北条君」


「何」


「それ、すごく嬉しい」


「……そう」


「うん」


 ひよりは笑った。


 けれど、その笑顔は普段学校で見せているような明るさとは少し違う。もっと静かで、肩の力が抜けていて、真樹にはそちらのほうが自然に見えた。


「今、無理に笑ってる?」


「笑ってないよ」


「ならいい」


「北条君って、やっぱり優しいね」


「違う」


「そこはまだ否定するんだ」


「優しいとかじゃなくて、普通だろ」


「私にとっては嬉しかったから、それでいいの」


 真樹は何も返せなかった。


 ひよりは再び歩き始め、少し遅れて真樹とノアも続く。


「じゃあ次、私の番」


「何が」


「北条君に質問」


「昨日から交代制になったの?」


「私だけ答えたら不公平でしょ」


「何聞くの」


 ひよりは少し考える。


「北条君は、誰の前なら一番素でいられる?」


 真樹は答えに詰まった。


「ノア以外でね」


「先に潰すなよ」


「絶対ノアって言うと思ったから」


「……」


「神崎君?」


「まあ、あいつは長いからな」


「玲奈さんは?」


「玲奈も昔から知ってるから、今さら取り繕うことはない」


「そっか」


 ひよりの声が、ほんの少しだけ低くなった。


 真樹はそれに気づく。


「何」


「何でもないよ」


「今のは何でもない顔じゃない」


「……北条君、本当に分かるようになったね」


「お前が分かりやすいだけ」


「それでも」


 ひよりは少し迷ったあと、正直に口にした。


「玲奈さん、やっぱりちょっと羨ましいなって」


 真樹の眉が動く。


「何で」


「北条君の昔知ってるから」


「昨日も言ってたな」


「うん」


「昔知ってるだけだろ」


「それが羨ましいの」


「何で」


「……知らない」


 今度はひよりが答えに詰まる番だった。


 玲奈が嫌いなわけではない。


 むしろ話しやすく、優しい人だと思っている。


 ただ、玲奈は真樹の中学生時代も、もっと幼いころも知っている。ノアが小さかったころの真樹も、今とは違う表情も、ひよりの知らない時間をたくさん持っている。


 それを考えると、胸の奥に小さなざわつきが生まれる。


「私ももっと知りたいからかな」


 ひよりは結局、そう答えた。


「北条君のこと」


 真樹の心臓が一度、大きく鳴った。


「……何で」


「友達だから」


 すぐに返ってきた答えに、真樹の胸へ例の小さな棘が刺さる。


 しかし今日は、それだけでは終わらなかった。


「友達だから知りたいし、北条君だから知りたい」


 真樹がひよりを見る。


「何それ」


「分かんない」


「お前も分かんないのかよ」


「北条君ばっかりずるいから、今日は私も分かんないでいいの」


 ひよりは笑った。


 真樹はその言葉を頭の中で繰り返す。


 友達だから。


 北条君だから。


 その違いが何なのか、ひより自身も分かっていないのだろう。


 けれど真樹には、その言葉が妙に嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 少し歩いたところで、真樹はようやくひよりの質問へ戻った。


「さっきの」


「何?」


「誰の前なら素でいられるかってやつ」


「うん」


「神崎とか玲奈は、確かに気使わない」


「やっぱり幼馴染って強いね」


「神崎は幼馴染じゃないけど」


「長い友達」


「まあ」


 真樹はそこで一度言葉を切った。


 ひよりは続きを待っている。


「でも最近は」


「うん」


「……お前も楽」


 ひよりが目を瞬く。


「私?」


「いちいち確認すんな」


「だって今言った?」


「言った」


「私の前、楽なの?」


「前よりは」


「嬉しい」


 ひよりは本当に嬉しそうに笑った。


「じゃあ一緒だね」


「何が」


「私も北条君の前、楽」


「……そう」


「千夏とか家族とは違うけど。でも外の人の中ではかなり」


「外の人って何だよ」


「家族以外」


「藤崎は?」


「千夏は特別」


「じゃあ俺は?」


 また、考えるより先に聞いていた。


 ひよりが黙る。


 真樹はすぐに後悔した。


「いや、今のは――」


「北条君も特別だよ」


 言葉が止まる。


 ひよりは何でもないことのように続けた。


「だってほかの男子にこんなに何でも話さないし、毎日会わないし、写真交換もしないし」


「……」


「だから友達の中では特別なんじゃない?」


 最後に付け加えられた「友達の中では」という言葉に、真樹は安心したような、残念なような、また面倒な感情を抱いた。


 それでも「特別」と言われたこと自体は、どうしようもなく嬉しい。


「北条君は?」


「何が」


「私、特別?」


「何で俺まで言う流れなんだよ」


「私だけ言ったら不公平」


「またそれか」


「公平大事」


「知らない」


「北条君」


「うるさい」


「北条君」


「……」


「北条君?」


 真樹は深く息を吐いた。


「普通の友達とは違うんじゃない」


 ひよりの目が大きくなる。


「それって特別?」


「好きに解釈しろ」


「じゃあ特別にする」


「勝手にしろ」


「やった」


 ひよりが嬉しそうに笑う。


 真樹は顔を逸らした。


 今の自分がどんな顔をしているのか、ひよりに見られたくなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方が近づくにつれ、公園の人影は少しずつ減っていった。


 二人はベンチへ座ることもなく、今日はゆっくりと歩き続けている。ノアは途中で何度か立ち止まりながらも機嫌よく進み、時折ひよりの手へ鼻先を寄せていた。


「そういえば北条君」


「何」


「私の昔のこと聞いたけど、ほかにも聞きたいことあった?」


「ある」


「今日は素直」


「聞いたのお前だろ」


「何?」


 真樹は少し考える。


「将来、何したいとか決めてる?」


 ひよりは意外そうな顔をした。


「将来?」


「進路とか」


「まだはっきりは決めてないかな」


「大学?」


「行きたいとは思ってる。でも何を勉強したいかまではまだ」


「そう」


「北条君は?」


 真樹の表情が少し変わった。


 ひよりはそれに気づく。


「嫌な質問だった?」


「嫌ではない」


「じゃあ聞いていい?」


「……多分、大学は行く」


「そのあとは?」


「家のことあるから」


 それだけで、ひよりには何となく意味が分かった。


 真樹は北条家の跡取りだ。


 家の規模をひよりは詳しく知らないものの、桜陵学園へ通い、家には運転手がおり、玲奈との家同士の付き合いもある。自分とは違う世界にいることだけは分かっている。


「北条君は、それやりたいの?」


 真樹がひよりを見る。


 これまで何度も聞かれてきた質問とは少し違った。


 家を継ぐのか。


 どこの大学へ行くのか。


 何を学ぶのか。


 そういうことを尋ねられることはあっても、「やりたいのか」と聞かれることは少ない。


「……分かんない」


 真樹は正直に答えた。


「やりたくない?」


「それも分かんない。ずっとそういうものだと思ってたから」


「そっか」


 ひよりはすぐに「大変だね」とも「頑張って」とも言わなかった。


 ただ、少し考えてから真樹を見る。


「じゃあ、まだ決めなくていいんじゃない?」


「簡単に言うな」


「ごめん」


「いや」


 真樹は首を振る。


「でも、そういうものだと思ってたってだけなら、北条君がどうしたいか考えるくらいはしてもいいんじゃない?」


「……」


「継ぐって決めても、違うことしたいって思っても、北条君が考えて決めたなら、そのほうがいいと思う」


「お前、何も知らないだろ」


「知らないよ」


 ひよりはあっさり認めた。


「北条君の家のこと、全然知らない。だから簡単なこと言ってるかもしれない」


「……」


「でも北条君が何考えてるかは、知りたい」


 真樹は言葉を失った。


 ひよりは無責任に「好きにすればいい」と言っているわけではない。自分が知らないことを認めたうえで、それでも真樹自身がどう思っているのかを知りたいと言っている。


「変なこと言った?」


「いや」


「ならよかった」


 ひよりは少し笑った。


「いつか話したくなったら教えて」


「……覚えてたら」


「またそれ」


「便利だから」


「じゃあ私も覚えてたら聞く」


「それ絶対覚えてるやつだろ」


「ばれた?」


 真樹は小さく笑った。


 家のことを誰かに話すのは、これまであまり好きではなかった。


 相手が北条という名前を意識し始めるからだ。


 けれど、ひよりになら少しずつ話してもいいのかもしれない。


 そんな考えが自然に浮かんだ。


     ◇ ◇ ◇


 帰る時間になり、公園の入口へ戻る。


「今日はいっぱい話したね」


 ひよりが言う。


「お前はいつもだろ」


「北条君も今日はいっぱい話した」


「そう?」


「うん。将来のことまで」


「大したこと言ってない」


「それでも」


 ひよりはノアの頭を撫でる。


「また明日ね、ノア」


 ノアが尻尾を振る。


 ひよりは立ち上がり、真樹を見る。


「北条君もまた明日」


「明日、金曜か」


「そうだね」


「……土曜は?」


 ひよりの目が丸くなる。


 真樹も、自分が何を聞いたのか一拍遅れて気づいた。


 以前にも似たことがあった。


 休日の予定を、自分から確認している。


「土曜日?」


「予定あるなら別にいいけど」


「今のところないよ」


「……そう」


「北条君は?」


「多分ない」


「じゃあ会う?」


 ひよりは自然に聞いた。


 真樹は一瞬だけ迷い、それから頷く。


「ノアの散歩するし」


「じゃあ行く」


「二時くらい?」


「うん」


 また休日の予定が決まった。


 ひよりは何となく嬉しくなり、笑う。


「北条君から聞いたね」


「何が」


「土曜日」


「予定確認しただけ」


「会いたかった?」


「違う」


「じゃあ何で?」


「……ノアが喜ぶから」


 ひよりはノアを見る。


「ノア、私に会いたい?」


 ノアは尻尾を振った。


「ほら」


「都合いいときだけノア使うな」


「北条君が使ったんでしょ」


「うるさい」


 ひよりは笑った。


「私は会いたいよ」


 真樹の表情が止まる。


「ノアにも北条君にも」


 少し遅れて付け加えられた言葉だったが、真樹には十分だった。


「……そう」


「北条君は?」


「聞くな」


「何で」


「言わない」


「じゃあ例のやつ聞こうかな」


「やめろ」


「今日、私に会えて嬉しかった?」


「……」


「北条君?」


 真樹は数秒黙った。


 いつもなら「知らない」「うるさい」「帰れ」のどれかで終わらせる。


 けれど今日は、自分の中にあるものから逃げ続けることに少し疲れていた。


「……嬉しくなかったわけじゃない」


 ひよりが固まった。


「え?」


「以上」


「待って!」


「帰れ」


「今のもう一回!」


「言わない」


「北条君!」


「うるさい」


「ほぼ言ったよね!?」


「言ってない」


「言った!」


「言ってない」


「スクショできない!」


「会話なんだから当たり前だろ」


 ひよりは本気で悔しそうな顔をした。


「録音しとけばよかった」


「怖いこと言うな」


「でも嬉しい」


 ひよりは笑った。


「今日、私も会えて嬉しかったよ」


 真樹は返事をしなかった。


 ただ、その言葉を聞いたあとに胸の奥へ広がったものを、もう「友達だから」で完全に片づけることはできなかった。


「じゃあまた明日」


「ああ」


「土曜日も」


「……ああ」


「おやすみはあとで言うね」


「予告いらない」


「じゃあね」


 ひよりは手を振り、公園を出ていった。


 真樹はノアと一緒にその背中を見送る。


 やがて姿が見えなくなったあと、足元のノアへ視線を落とした。


「……なあ、ノア」


 ノアが顔を上げる。


「俺、あいつのこと好きなのか?」


 もちろん答えは返ってこない。


 ノアは数秒真樹を見つめたあと、尻尾を一度大きく振った。


「……お前に聞いた俺が馬鹿だった」


 そう言いながら歩き出した真樹の顔には、いつものような完全な否定はなかった。


     ◇ ◇ ◇


 その夜。


 ひよりはベッドの上でスマートフォンを眺めていた。


『宿題終わった?』


 今日も真樹から届いた。


『終わった』


『北条君は?』


『終わった』


『偉い』


『またそれか』


『今日いっぱい話してくれたのも偉い』


『子ども扱いすんな』


『褒めてるの』


 ひよりは笑いながら返信する。


『そういえば』


『何』


『今日の質問、あれで終わり?』


 少しして返事が来る。


『まだある』


 ひよりの表情が明るくなる。


『何?』


『また今度』


『今聞いて』


『嫌』


『気になる』


『明日聞くかも』


『かも?』


『気が向いたら』


『じゃあ私も質問考える』


『何で』


『公平に』


『またそれか』


 ひよりは枕へ背中を預ける。


 真樹について知らないことは、まだたくさんある。


 けれど、それが以前ほど遠く感じなくなっていた。


 一つ聞けば、一つ教えてくれる。


 自分も一つ話す。


 そうやって少しずつ、お互いの知らない部分が減っていく。


 そのことが楽しかった。


『北条君』


『何』


『今日は会えて嬉しかったです』


 少し意地悪な気持ちで送る。


 既読がつく。


 返事はなかなか来ない。


 ひよりは笑いながら待った。


 一分ほどして、


『俺も』


 たった二文字が届いた。


 ひよりの笑顔が止まる。


「……え?」


 何度見ても同じだった。


『俺も』


 それだけ。


 ひよりは急いで返信する。


『今の何!?』


『何が』


『俺もって!』


『そのまま』


『会えて嬉しかったってこと!?』


 既読。


 返事が来ない。


『北条君!?』


『寝た!?』


『逃げた!?』


 しばらくして、


『うるさい』


 と返ってきた。


 ひよりは思わずベッドの上で笑った。


『認めた!』


『知らない』


『スクショした』


『消せ』


『絶対嫌』


『明日見せるね』


『来るな』


『行く』


『来なくていい』


『日曜日は来ればいいって言ったのに』


『うるさい』


 ひよりは笑いながらやり取りを続けた。


 胸の奥が、なぜかいつもより温かい。


 真樹がようやく「会えて嬉しかった」と認めてくれたからだ。


 それだけのはずだった。


(北条君、ほんとに変わったなあ)


 最初に会ったころなら、絶対にこんなことは言わなかった。


 自分の前で少しずつ素直になっている。


 それが嬉しい。


 ひよりは今の気持ちをそう理解していた。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ。


 真樹は自室のベッドへ仰向けになり、片腕で目元を覆っていた。


「……何送ってんだ、俺」


 勢いだった。


 ひよりから「今日は会えて嬉しかった」と届き、考えるより先に「俺も」と返していた。


 嘘ではない。


 むしろ、ずっと言えなかっただけで本当のことだった。


 今日、公園でひよりの姿を見つけたときも嬉しかった。連絡がなくて少し気になっていたし、姿が見えた瞬間には安心した。


 髪型が違うことにもすぐ気づいた。


 颯太が教室へ来たと聞けば面白くなかった。


 ひよりの昔を知りたいと思った。


 自分の昔も知ってほしいと思った。


 ひよりが自分の前ではかなり自然でいられると言ったことが嬉しかった。


 特別だと言われたことも嬉しかった。


 明日も会いたい。


 土曜日も会いたい。


 そして、颯太と付き合ってほしくない。


 そこまで一つずつ並べて、真樹はもう一度腕で目元を覆う。


(これで違うって言うほうが無理あるだろ)


 初めて、逃げ道を作らずにそう思った。


 すぐに「好きだ」と口へ出せるほど整理できているわけではない。


 ひよりには颯太という好きな相手がいる。


 自分がこの感情を認めたところで、何をするのかも分からない。告白するつもりなどないし、ひよりの恋を邪魔したいとも思わない。


 それでも、自分の感情だけは少しずつ誤魔化せなくなっていた。


「……最悪」


 真樹が呟くと、床で寝ていたノアが顔を上げた。


「お前があいつ連れてきたんだからな」


 正確には、迷子になったノアをひよりが見つけたのだが、今はそんな細かいことはどうでもよかった。


 ノアは真樹を見たあと、また静かに伏せる。


 真樹はスマートフォンを持ち上げた。


 画面にはひよりから、


『おやすみ。また明日!』


 と届いている。


 少し前までなら、ただの挨拶だった。


 今は「また明日」という言葉が、妙に嬉しい。


『おやすみ。また明日』


 同じ言葉を返す。


 送信したあと、真樹は画面を閉じた。


 明日になれば、またひよりに会える。


 それを楽しみにしている自分を、今夜はもう否定しなかった。

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