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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第29話 知らなくていいことまで


 水曜日の朝。


 天野ひよりは、目覚まし時計が鳴るより少しだけ早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中には冬の朝特有の冷たい空気が残っている。


 布団から出ることをためらいながら枕元のスマートフォンへ手を伸ばすと、画面には六時二十七分と表示されていた。


「あと三分……」


 そう呟きながら何気なく通知欄を見ると、昨夜、最後に届いた真樹からのメッセージが目に入る。


『また明日』


 ひよりは数秒だけその文字を見つめ、何となく口元を緩めた。


(今日も会うんだよね)


 特別な約束をしたわけではない。放課後になればいつもの公園へ行き、そこには真樹とノアがいる。最近では、それを毎朝確認する必要さえなくなっていた。


 雨が降ったり、学校の用事があったり、何か別の予定が入ったりしない限りは会う。以前なら考えられなかったほど、それが自分の日常へ自然に入り込んでいる。


 そして今日は、昨日の続きを聞くつもりだった。


(何聞こうかな)


 真樹の子どものころや学校での話、好きな食べ物や苦手なもの、家でノアとどう過ごしているのか。考え始めると聞きたいことはいくつも浮かび、その途中でひよりは、自分がまだ布団の中にいることを思い出した。


「……起きよ」


 鳴る直前の目覚ましを止め、ようやく身体を起こす。


 制服へ着替えて洗面所で髪を整え、今日は水色の髪留めを使わず、黒い細身のゴムで一つにまとめた。鏡に映った自分を確認していると、ふと昨日までとは違う髪型に真樹が気づくだろうかという考えが浮かぶ。


(北条君、これでも分かるかな)


 直後、ひよりは鏡の前で眉を寄せた。


「何で確認してるんだろ」


 別に真樹へ試験をしているわけでもなければ、毎日褒めてもらう必要もない。それなのに最近は、髪を整えると一度くらい真樹が気づくかどうかを考えてしまう。


(この前から髪の話ばっかりしてたからだよね)


 自分の中でそう結論づけ、ひよりは部屋を出た。


     ◇ ◇ ◇


「おはよう」


 リビングへ入ると、美月が先に朝食を取っていた。


「おはよ」


「今日は水色じゃないんだ」


「お姉ちゃんまで毎日確認しないでよ」


「見えるから」


「昨日もそれ言ってた」


 ひよりが席へ座ると、由美が味噌汁を置いてくれる。


「今日は寒いみたいよ。手袋忘れないでね」


「鞄に入れた」


「偉い」


「北条君と同じこと言ってる」


 反射的に答えた瞬間、新聞を読んでいた浩介が顔を上げ、コーヒーを飲んでいた悠一も動きを止めた。美月だけが、何かに気づいたように小さく笑う。


「北条君にも言われたの?」


「日曜日にね。手袋ちゃんと持ってきたの偉いって」


「高校生に?」


「私が褒めてって言ったから」


「自分から?」


「そうだけど」


 悠一がゆっくりカップを置いた。


「……ひより」


「何?」


「北条に毎日褒めてもらってんの?」


「毎日じゃないよ」


「昨日は?」


「昨日は……」


 ひよりは少し考えた。


 真樹から昨日言われたことを思い返してみると、優しいと言ったのは自分のほうだったし、自分が来なくなるのは真樹も嫌だと聞けた。学校でのことも、以前よりいろいろ教えてもらった。


「昨日は別に褒められてないかな」


「何でちょっと残念そうなんだよ」


「残念そうじゃない!」


「今の間は何?」


「考えただけ!」


 悠一がさらに何か言おうとしたところで、美月が先に口を開いた。


「今日も会うの?」


「うん」


「もう確認しなくても会う感じなんだね」


「たぶん」


「たぶん?」


「北条君が予定あるかもしれないし、私も学校で何かあったら行けないから。でも何もなかったら行くよ」


 ひよりはそう答えながら、ごく普通にご飯を口へ運んだつもりだった。しかし向かいの悠一は、何とも言えない顔でこちらを見ている。


「何?」


「いや……」


「言いたいなら言えば?」


「お前ら、それもう待ち合わせの約束すらいらなくなってない?」


 ひよりの箸が止まる。


「……そう?」


「そうだろ。何もなかったら同じ場所に行けば相手がいると思ってるんだろ?」


「まあ……」


「それ、かなり――」


「お兄ちゃん」


 美月が静かに遮った。


「余計なこと言わない」


「でも」


「ひよりが自分で考えればいいの」


 兄と姉を交互に見たひよりは、話についていけず眉を寄せる。


「何なの?」


「何でもないよ」


「絶対何かあるじゃん」


「今は知らなくていいこと」


「気になるんだけど」


「じゃあ自分で考えて」


 美月はそれだけ言うと朝食へ戻った。


 ひよりは少し不満だったものの、登校時間も迫っていたため、それ以上追及するのは諦める。ただ、玄関で靴を履いているときになって、悠一の言葉がもう一度頭へ浮かんだ。


(待ち合わせの約束すらいらない……)


 確かにそうなのかもしれない。真樹がいると思って公園へ行き、真樹も自分が来ると思っている。


 それがいつから当たり前になったのか、ひよりにははっきりした境目が分からなかった。


     ◇ ◇ ◇


「ひより、おはよー」


「おはよう」


 教室へ入ると、千夏がいつものように声をかけてきた。ひよりは鞄を机へ置きながら、さっそく親友へ身体を向ける。


「千夏」


「何?」


「待ち合わせって、毎回約束するもの?」


「何の話?」


「例えば毎日同じところで会う人がいたとして」


「北条君?」


「何で即答なの」


「ほかに誰がいるの」


「……北条君だけど」


 千夏は頬杖をつき、続きを促すようにひよりを見る。


「で?」


「最近ね、何もなかったら公園行けば会う感じになってるの」


「知ってる」


「何で知ってるの?」


「毎日聞かされてるから」


「毎日じゃないよ」


「ほぼ毎日」


 反論しようとしたひよりだったが、思い返せば確かに最近はかなりの頻度で真樹の話をしている。否定しきれず、少しだけ口を尖らせた。


「お兄ちゃんに、待ち合わせの約束すらいらなくなってるって言われて」


「間違ってないね」


「そんなに変?」


「変っていうか、かなり仲良くなったなって感じ」


「友達なら普通じゃない?」


「普通の範囲ではあるよ。ただ、私は友達だからって毎日同じ男子がいる公園には行かない」


「千夏はノアいないじゃん」


「はい出た、ノア」


「本当に会いたいんだもん」


「北条君には?」


「会いたいよ」


 ひよりは迷わず答えた。


 その即答に千夏が黙り、ひよりは不思議そうに首を傾げる。


「何?」


「いや、前よりそこ即答するようになったなと思って」


「だって友達なんだから会いたいでしょ?」


「うん。そうだね」


 千夏は否定しなかった。ひよりが自分でどう考えるのかを見ると決めている以上、外側から答えを押しつける必要はない。


「そういえば昨日、北条君のこといっぱい聞いた」


「学校の話?」


「うん。神崎君とよくお昼食べるとか、玲奈さんも一緒のときあるとか、漫画読むとか、ゲームもたまにするって」


「北条君、漫画読むんだ」


「意外だよね」


「ひよりと同じこと言いそうになった」


「あと彼女いたことないって」


「そこまで聞いたの?」


 千夏が思わず身体を起こす。


「聞いたというか、話の流れで」


「どんな流れでそこ行くの」


「北条君に好きな人できたら教えてって言って、今はいないって言うから」


「……なるほど」


「告白されたことはあるみたい」


「まあ、あるだろうね」


「千夏もそう思う?」


「顔だけならモテるでしょ」


「顔だけって」


「性格込みだと好み分かれそう」


「でも優しいよ」


 ひよりは反射的に言った。


 千夏がわずかに目を細める。


「最初は感じ悪かったけど、最近はちゃんと優しいところ分かってきたし」


「ひより」


「何?」


「北条君の擁護、速くなったね」


「だって本当にそうだもん」


「はいはい」


「その『はいはい』やめて」


 ひよりが頬を膨らませるのを見て、千夏は笑った。


 ただ、ひよりが真樹について話すときの言葉が少しずつ変わってきていることには気づいている。以前は「感じ悪いけど悪い人じゃない」だったものが、「ノアを大事にしている」になり、今では迷わず「優しい」と言うようになった。


 本人は、その変化をまだ意識していないのだろう。


「そういえば佐伯君は?」


 千夏が尋ねると、ひよりの表情が一瞬で変わった。


「今日まだ見てない」


「話したい?」


「話したいよ」


「じゃあ会えるといいね」


「うん」


 声が弾み、頬にも少し赤みが差す。その反応を見た千夏は、小さく笑った。


 やはり今のひよりにとって、颯太は明確に恋をしている相手だ。その事実を無視して、真樹との関係を外側から急いで名前づける必要はなかった。


     ◇ ◇ ◇


 二時間目と三時間目の間の休み時間。


 ひよりは教室を出て、千夏と一緒に廊下を歩いていた。


「次、移動教室だっけ?」


「うん。化学室」


「教科書持った?」


「持ったよ」


「珍しい」


「私そこまで忘れ物しないよ」


「昨日消しゴム忘れた」


「あれは机の中に入ってたから忘れてない」


「使えなかったら同じでしょ」


 そんな会話をしながら階段へ向かっていると、前方から見覚えのある男子生徒が歩いてきた。


 颯太だった。友人二人と一緒にいる姿を見つけた途端、ひよりの足がわずかに遅くなる。


(どうしよう)


 以前なら、それだけで声をかけることを諦めていた。友達と話しているところへ割り込めば迷惑かもしれないし、自分だけが意識していると思われたら恥ずかしい。そう考えて、何もできないまますれ違っていたはずだ。


 けれど最近は少し違う。颯太と話す機会が増え、一緒に駅方向へ歩いたこともあれば、写真も送った。髪型に気づいてもらえたことだってある。


(挨拶くらいなら)


 ひよりは小さく息を吸った。


「佐伯君」


 声をかけると、颯太がこちらを見る。


「あ、天野」


「おはよう」


「おはよう。今から移動?」


「うん、化学」


「俺ら体育」


 颯太が持っているジャージ袋を少し持ち上げる。


「外?」


「たぶんグラウンド。寒そう」


「頑張って」


「天野も」


 交わしたのは短いやり取りだけだった。それでも、ひよりは自分から声をかけられたうえ、颯太は自然に名前を呼び、笑って返してくれた。


「じゃあまた」


「うん」


 すれ違って数歩進んだところで、ひよりは緩みそうになる表情をどうにか抑えようとした。しかし、すぐ隣にいる千夏の目をごまかせるはずもない。


「顔」


「何?」


「にやけてる」


「にやけてない」


「にやけてるよ」


「だって自分から話しかけられた」


「知ってる。隣にいたから」


「前だったら無理だったのに」


「成長したじゃん」


「うん」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


(今日、北条君に言お)


 その考えがあまりにも自然に浮かんだことには、自分でも気づかなかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ。


 桜陵学園では、真樹が教室の窓際でスマートフォンを見ていた。


 ひよりから連絡はない。朝から連絡を取り合う約束などしていないのだから当然なのに、通知がないことを一度確認してしまった自分に気づき、真樹は画面を閉じた。


「真樹」


 前の席へ座った蓮が振り返る。


「何」


「今日機嫌悪い?」


「普通」


「じゃあ考え事?」


「何で」


「最近そういう顔増えたから」


「どんな顔だよ」


「何か自分で自分にイラついてる顔」


 真樹は眉を寄せた。


「お前、本当にうるさいな」


「当たり?」


「違う」


「じゃあ天野さん?」


「何で何でも天野につなげるんだよ」


「最近真樹が変になる原因、大体天野さんだから」


「変になってない」


 蓮は机へ頬杖をつく。


「昨日、学校の話した?」


「した」


「俺のことも?」


「少し」


「何て?」


「うるさい」


「悪口じゃん」


「事実」


「天野さん何て?」


「神崎よく友達続けてるねって」


「ほら、天野さんも俺の味方」


「どこが」


「真樹の性格が悪いって認識が一致した」


「嬉しそうに言うことか?」


 蓮が笑うのを見て、真樹は小さく息を吐いた。少し迷ってから、今度はこちらから声をかける。


「そういえば」


「何?」


「お前、好きなやつできたことある?」


 蓮の笑顔が止まった。


「……急だね」


「答えたくないならいい」


「いや、別にいいけど」


 蓮は少しだけ真樹を観察する。


「あるよ」


「どうやって分かる」


「何が?」


「好きだって」


 蓮の眉が上がった。


「真樹」


「何」


「それ俺に聞く?」


「だから嫌ならいいって」


「嫌じゃない。面白いだけ」


「もういい」


「待って待って。ちゃんと答えるから」


 笑いを堪えながらも、蓮は少し考えてから身体を起こした。


「人によるんじゃない?」


「それじゃ分かんない」


「会いたいとか、話したいとか、ほかのやつといると気になるとか。その人のこと知りたいとか、自分のこと知ってほしいとか」


 真樹の表情がわずかに固まる。


 蓮はそれを見逃さず、さらに続けた。


「何かあったら一番に話したくなるとか、逆にその人が自分の知らないところで楽しそうにしてるとちょっと嫌とか」


「……」


「何か心当たりでもある?」


「一般論?」


「俺の場合も入ってる」


 真樹は視線を逸らした。


 どれも心当たりがあった。会いたいし、話したい。颯太や海斗といると気になり、蓮と連絡先を交換すると聞いただけでも嫌だった。


 ひよりが自分の学校生活を知りたいと言ったことは嬉しかったし、自分も気づけば彼女のことをかなり知っている。


「ほかは」


 真樹が低く尋ねると、蓮の表情から笑いが少し消えた。


「その人が誰かと付き合うって想像したとき、嫌だったらかなり分かりやすいんじゃない?」


 昨日のひよりの声が、すぐに頭の中へ蘇った。


『付き合えたら、嬉しいと思う』


 颯太と付き合うひよりを想像した瞬間、自分ははっきり嫌だと思った。その感覚まで思い出し、真樹は机へ視線を落とす。


「……そう」


「真樹」


「何」


「誰の話?」


「一般論」


「俺は今、一般論を聞かれたの?」


「そう」


「へえ」


 蓮はそれ以上追及しなかった。


 真樹の性格を知っているからこそ、ここで答えを突きつければ、意地でも否定することが分かっている。それよりも、自分で考えさせたほうがいい。


「まあ、好きだからってすぐ付き合いたいとは限らないけどね」


「……そうなの」


「相手に好きな人いたり、友達関係壊したくなかったり、状況はいろいろあるし」


 真樹が顔を上げる。


「相手に好きなやつがいたら?」


「俺に聞かれても」


「一般論」


「便利だな、その言葉」


 蓮は苦笑しつつ、少し考えてから答えた。


「諦める人もいるし、諦めない人もいる。相手の恋を応援する人もいるし、邪魔しない範囲で待つ人もいるんじゃない?」


「……」


「ただ、好きな本人が一番面倒だと思うよ」


「何で」


「相手が幸せならいいって思う気持ちと、自分を見てほしいって気持ち、両方出たりするから」


 真樹は返事をしなかった。


 蓮はそんな友人を見ながら、心の中で一つだけ確信を深める。真樹の感情は、本人が認めていないだけで、もうかなり答えに近いところまで来ている。


 けれど、それを口にはしなかった。真樹自身が認めるまでは、からかうにしても越えてはいけない線がある。


「参考になった?」


「別に」


「じゃあ何で聞いたの」


「何となく」


「そういうことにしとく」


 蓮が前へ向き直ったあと、真樹は窓の外へ視線を移した。


 冬の薄い青空の下、ひよりは今、別の学校にいる。そして颯太も同じ学校にいる。


 その事実を意識しただけで胸の奥が落ち着かなくなり、真樹は小さく眉を寄せた。恋愛は面倒だとずっと思っていたが、もし今の自分が蓮の言うものへ近づいているのなら、確かにその通りだった。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み。


 ひよりは千夏と昼食を食べながら、朝の颯太との会話をもう一度思い返していた。


「そんな嬉しい?」


「嬉しいよ」


「挨拶しただけじゃん」


「自分からできたことが嬉しいの」


「なるほどね」


「前だったら友達といたら絶対無理だったもん」


 ひよりは卵焼きを口へ運びながら、少しずつ颯太と普通に話せるようになっている気がすると口にした。


「告白するため?」


「……うん」


 答える声が少し小さくなる。


 千夏は箸を止めた。


「そろそろ考えてる?」


「まだいつとかは決めてないよ」


「でもしたいんでしょ?」


「したい」


 ひよりは頷き、少しだけ視線を落とした。


「バレンタインのとき、結局クッキー渡せなかったじゃん」


「うん」


「ずっとあれ引っかかってるんだ。好きって言うどころか、渡すことすらできなかったから」


 白いリボンをかけた箱を持ち、何度も声をかけようとして、それでも結局できなかった。持ち帰ることになったクッキーと、落ち込んだまま歩いた帰り道。その日にノアと出会ったことまで、今では一つながりの記憶になっている。


「だから次はちゃんとしたい」


「そっか」


 千夏は静かに答えた。


「応援するよ」


「ありがとう」


「振られたら慰めるし」


「縁起悪い!」


「受け入れてもらえたら祝う」


「そっち先に言ってよ」


 二人で笑い合いながらも、千夏の胸には少しだけ複雑なものが残った。


 ひよりの恋を応援したい気持ちは本心だ。一方で真樹の反応を見ていると、あの少年がひよりへ向けているものも、もう単純な友情だけでは説明しづらくなっているように思える。


 もちろん、本人がどう思っているかまでは千夏にも分からない。だからこそ何も言わず、ひより自身が選ぶことを見守るつもりだった。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 ひよりは帰り支度を終え、千夏と校門まで歩いていた。


「今日は北条君に佐伯君へ自分から話しかけたって報告?」


「する」


「やっぱりするんだ」


「だって昨日、話していいって言ったもん」


「北条君、絶対嫌な顔するよ」


「すると思う」


「分かってて言うの?」


「でも聞くって言ったし」


「ひよりも結構容赦なくなってきたね」


「嫌なら本当に言わないよ。でも北条君が、話さなくなるほうが嫌って言うから」


 千夏は歩きながら、ひよりの横顔を見る。


「ひより」


「何?」


「北条君に何でも話したい?」


「何でもっていうか……」


 ひよりは少し考えた。真樹が聞いてくれるから、反応が面白いから、自分の話したことを覚えていてくれるからと、いくつか理由は思いつく。


「嬉しかったことは話したいかも」


「何で?」


「何でだろ。……ちゃんと聞いてくれるからかな」


「嫌そうな顔するのに?」


「うん。でも結局聞いてくれる」


「そっか」


 千夏はそれ以上聞かなかった。


 校門で別れたひよりは、公園へ向かう途中でスマートフォンを取り出す。


『今から行くね』


 送信すると、一分も経たずに返信が来た。


『分かった』


 ひよりはその短い返事を見て笑い、スマートフォンを鞄へ戻した。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ着くと、今日は真樹とノアが先に来ていた。


 ノアはひよりを見つけるなり尻尾を振り、真樹もすぐにこちらへ顔を向ける。


「お待たせ」


「待ってない」


「今日は何分?」


「三分」


「じゃあ待ってたじゃん」


「三分で待った扱いにすんな」


「私だったら待ってるって言うよ」


「知らない」


 ひよりは笑いながらノアへしゃがみ込んだ。


「ノア、こんにちは」


 黒い頭を撫でると、ノアは嬉しそうに身体を寄せてくる。


「今日もクッキーあるよ」


「毎日はやるなよ」


「分かってる。今日はなし」


「なら言うな」


「あるって報告しただけ」


「いらない報告」


 ひよりは立ち上がると、真樹のほうへ向き直った。


「北条君」


「何」


「今日、佐伯君に自分から話しかけられた」


 真樹の表情が止まる。予想通りの反応に、ひよりは少しだけ目を細めた。


「……そう」


「やっぱり嫌そう」


「別に」


「でも聞くって言ったよね」


「聞いてるだろ」


 二人は並んで歩き出す。


 ひよりは少しだけ真樹の横顔を確認してから、友達と一緒にいた颯太へ自分から声をかけられたことを話した。


「へえ」


「前だったら無理だったの」


「何話したの」


「挨拶して、次の授業何かって話しただけ」


「それだけ?」


「それだけ。でも嬉しかった」


「……そっか」


 真樹は前を向いたまま答えた。


 昨日、蓮に聞いた言葉が頭へ浮かぶ。ほかのやつといると気になる、その人が誰かと付き合うと想像すると嫌だ――ひよりが颯太の話をすると胸の奥がざらつく感覚は、今日も変わらない。


 ただ、昨日までとは違う。今はもう、その感情の正体へ近づく言葉を知ってしまっている。


(これがそうなら……)


 横目で見たひよりは嬉しそうだった。颯太と話せたことが、本当に嬉しいのだろう。


 その表情を曇らせたいわけではない。それでも、その笑顔の理由が自分ではないことは面白くなくて、そんな自分に真樹は内心で嫌気が差した。


(最悪だな)


「北条君?」


「何」


「今日いつもより静か」


「考え事」


「何の?」


「言わない」


「昨日はいっぱい教えてくれたのに」


「全部話すとは言ってない」


「それはそうだけど」


 ひよりは無理に聞こうとはしなかった。真樹が答えたくないことまで踏み込むつもりはない。


 数歩進んだところで、今度は真樹のほうから口を開いた。


「天野」


「何?」


「お前、佐伯に告白するの」


 ひよりの足が少しだけ遅くなる。


「昨日も聞いたよね?」


「いつかじゃなくて」


「いつするか?」


「ああ」


「まだ決めてないよ」


「……そう」


「何で?」


「何となく」


「気になる?」


 真樹はすぐには答えなかった。


「……気にはなる」


 その返事に、ひよりが少し驚いた顔をする。


「北条君が素直」


「毎回驚くな」


「だって」


「お前がずっと話してるんだから、気になるくらい普通だろ」


「そっか」


 ひよりは納得したように頷いた。


「たぶん、もう少しちゃんと話せるようになったら」


「ちゃんと?」


「今はまだ、話せただけですごく嬉しくなっちゃうから。もう少し自然に話せるようになって、それからかな」


「……」


「でも、いつまでも逃げたくない」


 ひよりは少し先を見ながら、バレンタインのときのように何もできないまま終わるのは嫌だと続けた。


 その横顔を見ながら、真樹は彼女が本気なのだと改めて思う。ひよりはいつか颯太へ告白するつもりでいて、それは漠然とした遠い未来の話ではなく、少しずつ現実へ近づいている。


 胸の奥が重くなった。


 もし颯太が受け入れたら、ひよりは颯太と付き合う。そうなれば自分と会う時間は減り、毎日の公園だって今まで通りではなくなるかもしれない。


「……付き合ったら」


 真樹が口を開く。


「え?」


「佐伯と付き合ったら、お前ここ来なくなる?」


 ひよりは完全に足を止め、真樹も少し遅れて立ち止まった。


「何で?」


「彼氏できたら、そっちといるだろ」


「毎日?」


「知らない」


「北条君とノアに会っちゃ駄目なの?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ来るよ」


 ひよりは迷わず答えた。


 真樹の目がわずかに大きくなる。


「付き合えたとしても、北条君は友達でしょ?」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。同時に、「友達」という部分だけがまた小さな棘のように引っかかり、真樹は自分の感情の面倒さに嫌気が差す。


「……彼氏が嫌がったら?」


「え?」


「ほかの男と毎日会うの嫌だって言われたら」


 ひよりは今度は少し考えた。


「それは……ちゃんと話すと思う」


「何て」


「北条君は友達で、ノアも大事だからって」


「それでも嫌って言われたら?」


「北条君、今日どうしたの?」


 ひよりは不思議そうに真樹を見る。


 確かに質問が多い。しかも、まだ颯太と付き合ってもいなければ、告白すらしていない。


「……何となく気になっただけ」


「うーん」


 ひよりは少し考えてから、相手が不安になるようなことはしないようにすると思う、と前置きした。


「でも私、友達やめてって言われるのは嫌かな。北条君と話すなとか、千夏と遊ぶなとか、家族より自分を優先しろとか言われたら、それは違うと思う」


「……そっか」


「北条君と友達やめるつもりないよ」


 ひよりは真樹を見て、少し笑った。


「そんな心配してたの?」


「してない」


「今めちゃくちゃ聞いたじゃん」


「仮定の話」


「でも安心した?」


「……別に」


「その『別に』は安心したやつ?」


「分類すんな」


 ひよりが楽しそうに笑い、真樹も呆れたように息を吐く。


 口では否定したものの、確かに少し安心していた。そのことを認めるのは、今はまだ癪だった。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく歩いたところで、ノアが遊歩道の端へ鼻先を向けた。


 落ち葉の下に何か気になる匂いがあるらしく、その場で立ち止まって熱心に嗅ぎ始める。ひよりと真樹も足を止め、ノアが満足するまで待つことにした。


「ノア、何かある?」


「多分ほかの犬の匂い」


「分かるの?」


「たぶん」


「北条君も犬みたい」


「何でそうなる」


「ノアの考えてること結構分かるじゃん」


「長く一緒にいるから」


 真樹はリードを緩めたまま答える。


 その横顔を見ながら、ひよりはノアが何歳のころから一緒なのかを尋ねた。


「中学入る少し前くらい」


「じゃあ長いね」


「ああ」


「最初から北条君の家に来たの?」


「そう」


「子犬だった?」


「今よりは小さかった」


「見たい!」


 急に弾んだ声に、真樹が眉を寄せる。


「何を」


「子犬のノア!」


「写真ならあると思うけど」


 ひよりの目が一気に輝いた。


「本当!?」


「声でかい」


「見せて!」


「今持ってない」


「スマホにないの?」


「昔のは家」


「じゃあ今度見せて」


「覚えてたら」


「絶対覚えてて」


「お前が覚えてろ」


「北条君に毎日言う」


「やめろ」


 ひよりは楽しそうに笑う。


「子犬のノアと中学生の北条君?」


「何で俺まで見る前提なんだよ」


「一緒に写ってるのないの?」


「あるかもしれないけど」


「それも見たい」


「ノアだけでいいだろ」


「北条君の昔も知りたいって昨日言ったじゃん」


「写真までとは聞いてない」


「今日追加しました」


「却下」


「嫌です」


「俺の写真だぞ」


「じゃあ玲奈さんに聞く」


「何でそうなる」


「玲奈さんなら持ってるかもしれない」


「絶対やめろ」


 あまりにも反応が早く、ひよりは吹き出した。


「そんなに嫌?」


「昔の写真勝手に見られるの誰でも嫌だろ」


「私は別にいいよ」


「お前は知らない」


「じゃあ交換しよう」


「何を」


「子どものころの写真」


「しない」


「私も見せるから」


「いらない」


「本当に?」


「……」


 真樹の返事が一瞬遅れた。


 ひよりはそれを見逃さない。


「見たい?」


「別に」


「今遅かった」


「うるさい」


「北条君、小さいころの私見たい?」


「……少しくらいなら」


「素直!」


「お前がしつこいから」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


「じゃあ今度探してくる」


「本当に持ってくるのかよ」


「北条君もね」


「約束してない」


「じゃあ私だけ見せる」


「……それは不公平だろ」


「じゃあ北条君も」


 自分から逃げ道を塞いだことに気づいた真樹が言葉に詰まると、ひよりは勝ったような顔をした。


「決まり」


「決まってない」


「楽しみ」


「人の話聞け」


 ようやくノアが匂いを嗅ぐのをやめて歩き始め、二人もそのあとへ続いた。


     ◇ ◇ ◇


 公園の中央付近へ戻ったところで、前方から大型犬を連れた年配の女性が歩いてきた。


 薄茶色の犬はノアより少し小さいものの、それでも十分に大きい。二頭が互いに気づいたところで、女性のほうから声をかけてきた。


「あら、ノア君」


 真樹が軽く会釈する。


「こんにちは」


「こんにちは」


 ひよりも続いて頭を下げた。


 女性はノアを知っているらしく、連れている犬も尻尾を振っている。


「久しぶりね。最近この時間に来ること多いの?」


「まあ」


「そちらは?」


 女性の視線がひよりへ向いた。


 ひよりが答えようとしたより先に、真樹が口を開く。


「友達です」


 その言葉を聞いた瞬間、ひよりの胸がわずかに妙な動きをした。


 友達。


 自分でも何度も使っているし、何も間違ってはいない。それなのに真樹の口から他人へそう紹介されると、いつも自分で言うときとは少しだけ違って聞こえた。


「あら、そうなの」


 女性は柔らかく笑う。


「ノア君、人を選ぶのに珍しいわね。すっかり懐いてる」


「最初から懐いてました」


 真樹が答える。


「そうなの?」


「はい。迷子になったとき、この人が見つけてくれて」


「まあ、それは恩人ね」


「恩人」


 ひよりは嬉しそうにその言葉を繰り返した。


「北条君、聞いた?」


「聞いてる」


「私、ノアの恩人だって」


「調子乗るな」


「事実でしょ?」


 女性が二人のやり取りを見て笑う。


「仲がいいのね」


「はい」


 ひよりは自然に答えた。


 真樹は一拍遅れてから、少しだけ視線を逸らす。


「……まあ」


 女性はそれ以上何も言わず、ノアを少し撫でてから歩いていった。


 その背中を見送りながら、ひよりは真樹へ尋ねる。


「知り合い?」


「散歩で何回か会う。犬の名前はルーク」


「北条君、ちゃんと名前覚えてる」


「犬だから」


「人は?」


「顔は覚えてる」


「名前は?」


「……聞いたことあると思う」


「覚えてないんだ」


「毎回話すわけじゃないから」


 ひよりはくすくす笑う。


「でも私の友達の名前は覚えてるよね」


「何」


「千夏、佐伯君、橘君」


「何回も聞いてるから」


「神崎君も」


「そいつは俺の友達」


「玲奈さんも」


「幼馴染」


「私の家族も」


「……」


「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん」


「名前まで全部覚えてるわけじゃない」


「お兄ちゃん二十四歳なのは覚えてる」


「シスコンだから印象強い」


「失礼」


 ひよりは笑いながらも、少し嬉しかった。


 自分が話したことを、真樹は思った以上に覚えている。それは以前から分かっていたことなのに、こうして一つずつ確かめると改めて実感する。


「北条君」


「何」


「私のこと結構知ってるね」


「お前が喋るから」


「でも覚えてくれてる」


「……まあ」


「嬉しい」


 真樹がひよりを見ると、彼女はただ素直に笑っていた。


「だから私も北条君のこと覚えるね」


「何で宣言すんの」


「公平に」


「そういう問題?」


「そういう問題」


 真樹は小さく息を吐いたが、嫌ではなかった。


 ひよりが自分を知りたがり、自分の話を覚えようとする。それを嬉しいと感じている自分がいる。


(……蓮の言ってたやつ、また増えたな)


 会いたいし、話したい。知りたいし、知ってほしい。ほかの男といると気になり、誰かと付き合うことを想像すれば嫌になるうえ、ひよりが来なくなるのも嫌だった。


 ここまで揃っていて、まだ違うと言えるのだろうか。


 真樹は自分の中へ浮かびかけた言葉を、また飲み込んだ。


     ◇ ◇ ◇


 夕方。


 二人は公園の出口近くまで戻ってきた。空は薄い橙色へ変わり始め、気温もさらに下がっている。


「今日も結構歩いたね」


 ひよりが手袋をはめながら言う。


「ノアの散歩だからな」


「最近、私の散歩にもなってる」


「運動不足解消」


「高校生に言う?」


「お前、運動得意じゃないだろ」


「普通です」


「普通便利だな」


「北条君がいつも使うから」


 そんなやり取りをしながら笑い、ひよりは手袋をはめ終えるとノアの頭を撫でた。


「また明日ね」


 その言葉を聞いた真樹が、何気なく尋ねる。


「明日も来る?」


「行くよ。何もなかったら」


「……そう」


「北条君は?」


「いると思う」


「じゃあまた明日」


 ひよりは当然のように答えた。


 そのとき、今朝悠一から言われた言葉がふと頭をよぎる。


「北条君」


「何」


「私たち、最近ちゃんと約束してないのに会ってるね」


「今さら?」


「北条君も思ってた?」


「何もなければ来ると思ってる」


「私も」


 二人の間に、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。


 ひよりは何となくおかしくなって笑う。


「不思議」


「何が」


「最初は連絡先交換するのも結構時間かかったのに」


「お前が警戒してたからだろ」


「北条君もでしょ」


「まあ」


「今は何も言わなくても明日会うと思ってる」


「嫌ならやめる?」


 真樹が何気なく尋ねると、ひよりはすぐに首を横へ振った。


「嫌じゃないよ」


「……そう」


「北条君は?」


「嫌なら毎日来てない」


 ひよりは少し目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「今日、北条君素直だね」


「もう帰れ」


「照れた」


「違う」


「じゃあ最後に一個」


「何」


「今日、私に会えて嬉しかった?」


「まだそれ続いてんの?」


「続いてます」


「しつこい」


「言ったら終わるよ」


「じゃあ一生終わらなくていい」


「また一生って言った」


「言葉の綾」


 ひよりは楽しそうに笑う。


「じゃあ明日も聞く」


「やめろ」


「また明日ね」


「ああ」


 ひよりが数歩離れる。


 真樹はその背中を見ながら、昨日までよりはっきりしてしまった自分の中の答えを意識した。


 会えれば嬉しいし、毎日会えることを期待している。明日も来てほしいと思っているのに、それをひよりへそのまま口に出すことだけが、まだできない。


「天野」


 真樹が呼ぶと、ひよりが振り返った。


「何?」


 呼び止めたものの、言葉がすぐには続かなかった。少し迷ってから、真樹は別の話を口にする。


「……写真」


「写真?」


「昔のやつ」


 ひよりの顔が明るくなる。


「持ってきてくれるの?」


「探すだけ探す」


「本当!?」


「ノアのだからな」


「北条君も写ってるやつ!」


「それは約束してない」


「お願い!」


「見つかったら考える」


「やった!」


「まだ見せるって言ってない」


「でも考えてくれるんでしょ?」


「……まあ」


「私も探すね」


「別に無理しなくていい」


「私が見せたいの」


 その言葉に、真樹は少しだけ笑った。


「じゃあ好きにしろ」


「うん。また明日!」


「ああ。また明日」


 ひよりは今度こそ帰っていった。


 真樹はしばらくその背中を見送り、隣からノアがこちらを見上げていることに気づく。


「何」


 返事の代わりのように、ノアの尻尾が一度揺れた。


「……帰るぞ」


 真樹は歩き出す。


 帰宅したら昔の写真を探そうと思った。


 もちろん、ノアのためだ。


 少なくとも今は、そういうことにしておく。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


「お姉ちゃん」


「何?」


 リビングで本を読んでいた美月が顔を上げると、ひよりがスマートフォンを持ったままソファの隣へ座った。


「小さいころの写真ってどこにある?」


「急にどうしたの?」


「北条君と見せ合うことになった」


 美月の手が止まる。


「……何を?」


「子どものころの写真」


「どうしてそうなったの?」


「ノアが子犬だったころの写真見たいって言ったら、北条君も写ってるかもしれないって。それで私も見せるからって」


「なるほど」


 美月は本を閉じた。


「アルバムならお母さんが管理してると思うけど」


「スマホに入れられるかな」


「写真撮ればいいんじゃない?」


「そっか」


 ひよりが立ち上がろうとしたところで、美月が呼び止める。


「ひより」


「何?」


「どんな写真見せるの?」


「まだ決めてないよ」


「北条君に見せるんだよね?」


「そうだよ」


「可愛いやつ選ぶ?」


 ひよりの動きが止まった。


「……普通のでいい」


「本当に?」


「普通のでいいって」


「じゃあ寝癖すごいやつとか」


「それは嫌!」


「何で?」


「恥ずかしいから!」


「友達なのに?」


「友達でも恥ずかしいものは恥ずかしいでしょ!」


 美月は小さく笑った。


「じゃあ可愛いやつ選べば?」


「可愛いって思われたいわけじゃないから」


「私は何も言ってないよ」


「今言ったじゃん!」


 ひよりは頬を膨らませ、母を探しにリビングを出ていった。


 美月はその背中を見送りながら、静かに笑う。妹の中で起きている変化に気づいてはいるが、それが何なのかを本人より先に言葉にしてしまうつもりはなかった。


     ◇ ◇ ◇


 一方、北条家。


 真樹は自室の床へ古いアルバムを数冊並べていた。


「何で俺こんなことしてんだ……」


 誰も答えない。ベッドの横で伏せているノアだけが、声に反応して顔を上げる。


 相沢へ聞けば写真の保管場所はすぐに分かった。ノアが家へ来たころのアルバムを開いてページをめくると、今よりずっと小さな黒い犬が何枚も写っている。


 庭を走る姿やボールを咥えている姿、玄関で眠っている姿を眺め、真樹はそのうちの一枚で手を止めた。


「これでいいだろ」


 スマートフォンで撮影し、それで終わるつもりだった。


 しかし次のページをめくったところで、真樹の手が止まる。


 そこにはソファで眠る中学生の自分と、その腹の上で丸くなっている、まだ小さかったノアが写っていた。


「……最悪」


 この日のことは覚えている。玲奈が遊びに来ていた日だが、誰が撮ったのかまでは記憶にない。


 写真の中の自分は完全に無防備で、ノアの背中へ片手を乗せたまま眠っている。


(絶対見せたくない)


 真樹はページを閉じかけたものの、昼間のひよりの声が頭に蘇った。


『北条君も写ってるやつ!』


『お願い!』


 あのときのひよりは、妙に嬉しそうだった。


 真樹はもう一度写真を見ると、すぐに閉じ、数秒してからまた開いた。そんな様子を見ていたノアが顔を上げる。


「見るな」


 当然、ノアはそのままこちらを見ている。


「これ見せたら絶対笑うだろ。いや、笑うだけならいいけど……」


 もしかすると、可愛いと言われるかもしれない。


 中学生の自分に対して。


 そこまで考えたところで、真樹は眉を寄せた。


「何考えてんだ、俺」


 一度スマートフォンを置いたものの、数秒後にはまた手に取っていた。


 結局、その写真も撮影する。送るかどうかは明日決めればいいと、自分へ言い訳しながら。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 ひよりからだった。


『写真見つけた!』


 続けて一枚送られてくる。


 真樹は反射的に開いた。


 写っているのは、おそらく五歳か六歳くらいの幼いひよりだった。今よりずっと短い髪で白いワンピースを着て、両手で大きなぬいぐるみを抱えながら、カメラへ少し恥ずかしそうに笑っている。


 真樹の指が止まった。


(……面影ある)


 目元も、笑い方も、少しだけ首を傾げる癖も、今のひよりにつながっている。そんなことを考えながら写真を見ていると、追加のメッセージが届いた。


『どう?』


 真樹はしばらく考え、


『小さい』


 と返した。


 すぐに返信が来る。


『感想それ!?』


『子どもの写真なんだから当たり前でしょ!』


『何て言えばいいんだよ』


『可愛いとか』


 真樹は画面を見つめた。


「自分で言うのかよ……」


 そう呟きながらも、もう一度写真へ目を向ける。


 可愛いとは思う。


 普通にそう思うのに、それを文字にして送るとなると妙に恥ずかしい。


『北条君?』


『逃げた?』


『褒めるチャンスだよ』


 連続で届くメッセージに、真樹は額を押さえた。


『可愛いんじゃない』


 送信すると、数秒後には勢いよく返信が返ってくる。


『やった!!』


『スクショした』


『消せ』


『嫌』


 いつもの流れに、真樹は小さく笑った。


『北条君のは?』


 やはり来た。


 真樹はノアだけが写っている写真を選び、送信する。


『かわいい!!!!!』


『ノアちっちゃい!!』


『北条君は!?』


『ノアの写真って言っただろ』


『北条君も見せて!』


『嫌』


『私見せたのに』


『勝手に送った』


『不公平』


 真樹はスマートフォンの写真フォルダを開き、先ほど撮ったソファで眠る自分とノアの写真を表示する。


 送信ボタンの上で、指が止まった。


(送る必要ないだろ)


 もちろん、送る必要などない。それでも、ひよりがどんな反応をするのか少し気になっている自分もいた。


『お願い』


 さらに届いたメッセージを見て、真樹は数秒迷った末に写真を選び、そのまま送信する。


 直後に後悔した。


『やばい』


 既読がつく。


『え』


 さらに既読。


『ちょっと待って』


「何だよ」


 真樹は一人で呟いた。


 一分ほど返事が来ないだけなのに妙に落ち着かず、結局こちらから送ってしまう。


『天野?』


 今度はすぐに返信が来た。


『かわいい』


 真樹は固まった。


『北条君かわいい』


『ノアもかわいい』


『二人ともかわいい』


「……最悪」


 予想通りだった。


『消せ』


『嫌』


『今すぐ消せ』


『絶対嫌』


『何で寝てるの?』


『知らない』


『ノアお腹の上にいる』


『見れば分かる』


『北条君ノアに手置いてる』


『見れば分かるって』


『めちゃくちゃ仲良し』


 写真を送ったのは自分なのに、真樹は顔が熱くなるのを感じた。


『玲奈さんもこの写真知ってる?』


 そのメッセージを見て、真樹の指が止まる。


『たぶん』


『いいなあ』


 たった三文字を、真樹は少しだけ長く見つめた。


『何が』


『北条君の昔いっぱい知ってるの』


 昨日も、ひよりは似たようなことを言っていた。自分の知らない時間を知りたいと、そう口にしていた。


 真樹は少し考えてから返信する。


『お前も今日一個知っただろ』


 少しして、


『うん』


『嬉しい』


 と返ってきた。


 真樹はその二文字を何度も見た。


 自分の過去を知ったことで、ひよりが嬉しいと言っている。それだけのことなのに、胸の奥が妙に温かくなる。


『じゃあ明日また何か教えて』


『調子乗るな』


『私も何か教えるから』


『聞きたいことない』


『本当に?』


 真樹の指が止まった。


 聞きたいことなら、まだいくらでもある。


 ひよりが何を好きで、何が嫌いなのか。子どものころはどんな子だったのか。将来何をしたいのか。何をされたら嬉しくて、何をされたら傷つくのか。


 自分の知らないひよりを知りたい。


 それを認めることが、昨日までより少しだけ怖くなくなっていた。


『ある』


 短く返すと、すぐに既読がつく。


『何!?』


 勢いのある返信に、真樹は少し笑った。


『明日聞く』


『今教えて』


『嫌』


『気になる!』


『明日』


『絶対だよ?』


『覚えてたら』


『忘れたら怒る』


『勝手に怒れ』


『じゃあ明日ね』


『うん』


『おやすみ、北条君』


 真樹は少しだけ迷ってから、


『おやすみ』


 と返し、さらに続けて、


『また明日』


 と送った。


 ひよりからはすぐに、


『また明日!』


 と返ってくる。


 真樹はそこでようやく画面を閉じた。


 机の上には開いたままのアルバムがあり、そこには幼いノアと中学生の自分がいる。そしてスマートフォンの中には、今日初めて知った幼いひよりの姿が残っていた。


 昨日、蓮に聞いた言葉がまた頭へ浮かぶ。


 会いたいと思う。話したいと思う。ほかの誰かといると気になり、相手のことを知りたいし、自分のことも知ってほしい。誰かと付き合うことを想像すれば嫌になる。


 ひよりに当てはめれば、ほとんど全部が当てはまっていた。


 真樹はベッドへ身体を預け、天井を見上げる。


 もう、何も分からないとは言えない。


 ただ、認めた瞬間に何かが変わってしまう気がした。


 ひよりは颯太が好きで、自分は今、ひよりの友達だ。毎日のように会えて、くだらない話ができ、ひよりも自分の前では少しずつ遠慮しなくなってきている。


 その関係を壊したいわけではなかった。


「……面倒すぎるだろ」


 真樹は小さく呟いた。


 恋愛は面倒だと、ずっとそう思っていた。どうやらそれだけは最初から正しかったらしい。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ。


 天野家の自室では、ひよりが真樹から送られてきた写真をもう一度開いていた。


 小さなノアを腹の上へ乗せ、無防備に眠っている中学生の真樹。普段ならまず見せないだろう姿を眺めていると、自然と笑みがこぼれる。


「全然今と違う」


 玲奈は、こういう真樹を昔から知っている。


 そのことを考えた瞬間、胸の奥にほんの少しだけ、名前の分からない感情が生まれた。


(いいなあ)


 羨ましいと思う。


 けれど、今のひよりにはそれ以上の意味までは分からないし、無理に考える理由もなかった。ただ、自分ももっと真樹のことを知りたいと思う。


 今日より明日、明日よりその次と、少しずつ知っていけたらいい。そして同じくらい、自分のことも真樹に知ってほしかった。


 ひよりは写真の中で眠る真樹とノアをもう一度眺め、柔らかく笑う。


「明日、何聞かれるんだろ」


 その答えを知るのが楽しみだった。


 胸の中にあるその感情へ、今はまだ名前をつける必要などなかった。

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