第28話 君の知らない時間を知りたい
火曜日の朝。
天野ひよりは洗面台の鏡の前で髪を整えながら、昨日と同じ水色の髪留めを手のひらに乗せていた。
昨日は左右の髪を少し取って後ろで留めた。颯太にも真樹にも気づいてもらい、どちらからも似合うと言われたことを思い出すと、今でも少し嬉しくなる。
けれど今日は、そこで同じ髪型にすることをやめた。
(毎日変えてたら、さすがに北条君に試してるみたいだよね)
実際、少し試していた自覚はある。
真樹がどこまで気づくのか。
最初はただそれが面白かった。
けれど昨日、颯太にも髪型の変化を気づいてもらったことで、ひよりの中では別の嬉しさも生まれていた。
(佐伯君、ちゃんと見てくれてたんだ)
思い出すと頬が緩む。
ひよりは水色の髪留めを使い、今日はいつものように低い位置で髪をまとめた。
これなら大きな変化はない。
「今日は普通でいいや」
小さく呟き、鏡の中の自分へ頷く。
そのまま制服の襟元を整えて階下へ降りると、朝食を取っていた美月がひよりの髪へ一度だけ目を向けた。
「今日は戻したんだ」
「お姉ちゃん、毎日そこ見るのやめて」
「見えるから仕方ないでしょ」
「北条君みたい」
何気なく返したあと、ひよりは自分で「あ」と口を閉じた。
美月の眉が少し上がる。
「へえ」
「何?」
「私と北条君、同じところ見るんだ?」
「そういう意味じゃないよ。北条君も最近気づくから」
「昨日も?」
「うん」
ひよりは自分の席へ座り、由美が用意した味噌汁へ手を伸ばした。
「昨日は佐伯君も気づいてくれたの」
声が自然と弾む。
「髪型?」
「うん。廊下でちょっと一緒に歩いたときに、いつもと違うって。それで似合うって言ってくれた」
「よかったじゃない」
由美が笑う。
「うん」
ひよりも嬉しそうに頷いた。
そこへ、新聞代わりにスマートフォンを見ていた悠一が顔を上げる。
「北条も褒めたんだろ?」
「褒めたよ」
「佐伯に褒められたのと、どっちが嬉しかった?」
「は?」
ひよりは思わず兄を見る。
「何その質問」
「気になっただけ」
「比べるものじゃないでしょ」
「でも佐伯は好きなやつで、北条は友達なんだろ?」
「そうだけど」
「なら佐伯じゃないのか?」
「お兄ちゃん」
美月が静かに割り込む。
「朝から妹に変な比較させないの」
「変か?」
「変」
悠一は納得していない様子だったが、由美からも「ご飯食べなさい」と言われ、ようやく黙った。
ひよりは味噌汁を一口飲みながら、先ほどの質問を頭の隅へ追いやる。
颯太に褒められたのは、もちろん嬉しかった。
好きな人が自分の変化に気づいてくれた。
それだけで昨日は一日中気分がよかった。
真樹に気づいてもらったことも嬉しかった。
けれど、そちらは少し種類が違う気がする。
(北条君は……気づくと思ってたからかな)
期待していた。
だから何も言われなかったとき、少し残念だった。
そして「会ったときから気づいていた」と言われた瞬間、思った以上に嬉しかった。
(でも、それは最近ずっと髪の話してたからだよね)
ひよりはそう納得し、朝食へ意識を戻した。
「今日も公園?」
浩介が尋ねる。
「うん。学校終わったら」
「寒いから暗くなる前には帰っておいで」
「分かってる」
「遅くなるなら連絡ね」
「はーい」
ひよりが返事をすると、悠一が小さく息を吐いた。
「もう家族全員、北条と会うの前提で話してるじゃん……」
「最近いつも行ってるんだから当たり前でしょ」
「その当たり前が気になるんだよ」
「また始まった」
ひよりが呆れると、美月はコーヒーを飲みながら兄を見た。
「尾行しないなら好きなだけ気にしてれば?」
「しないって言ってるだろ」
「偶然を装うのも駄目」
「分かってる」
「北条家を検索しすぎるのも」
「……」
「お兄ちゃん?」
「分かってる」
返事までの間が長い。
ひよりは眉を寄せたものの、出発時間が近づいていることに気づき、鞄を持って立ち上がった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
家族の声を背中に受け、玄関を出る。
冷たい朝の空気へ触れた瞬間、ひよりは白い息を吐いた。
今日も学校へ行く。
千夏と話す。
颯太に会えるかもしれない。
海斗とも同じ教室で過ごす。
そして放課後には真樹とノアに会う。
最近、その全部が一日の予定として自然に並ぶようになっていた。
◇ ◇ ◇
「おはよ、ひより」
「おはよう」
教室へ入ると、千夏が自分の席から手を振った。
ひよりが近づくなり、千夏の視線が髪へ向かう。
「今日は普通」
「そう。毎日変えるの疲れるし」
「北条君観察テスト終了?」
「だからテストじゃないって」
「昨日も気づいたんでしょ?」
「会ったときから気づいてたって」
「強いなあ」
「何が?」
「何でもない」
千夏は笑いながら、ひよりの鞄についている黒犬のキーホルダーを指先で軽く揺らした。
「昨日さ、散歩一緒に行っていいか北条君に聞いてくれた?」
「聞いたよ」
「何て?」
「『俺に許可取ることじゃない』って」
「北条君らしい」
「あと千夏は私よりうるさそうって」
「は?」
千夏の笑顔が止まる。
「何それ」
「でもね、千夏は悪い子じゃないって分かってるみたいだったよ」
「フォローになってる?」
「私が信用してるからって」
千夏の表情が少し変わった。
「……北条君がそう言ったの?」
「うん。私があれだけ信用してるなら悪いやつじゃないだろって」
「へえ」
千夏は少しだけ目を細める。
真樹は口が悪い。
態度も決して愛想がいいとは言えない。
けれど、ひよりが大事にしているものを、ひよりが大事にしているという理由で雑に扱わない。
(そういうところは、ちゃんとしてるんだよね)
親友としては少し安心する部分だった。
「じゃあ今度本当に行こうかな」
「行こうよ。ノアもいるし」
「北条君いじめに」
「目的変わってる!」
「冗談」
「千夏の場合、本当にやりそうだから怖い」
「ひよりと北条君が面白い反応したら考える」
「しないよ」
「どうかなあ」
千夏がにやりと笑う。
ひよりは嫌な予感を覚えながら席へ鞄を置いた。
「そういえば、一ノ瀬さんも散歩来たいって言ってるみたい」
「北条君の幼馴染の?」
「うん」
「へえ」
千夏の声から、からかう色が少しだけ薄れる。
「いつ来るの?」
「まだ決まってないよ。昨日、学校で北条君に言ってたみたい」
「そっか」
「玲奈さんとも話してみたいんだよね。北条君の昔の話聞きたいし」
「ひより、最近北条君のこと知りたがるね」
千夏の言葉に、ひよりは瞬きをした。
「そうかな?」
「そうじゃない?」
「だって私ばっかり学校の話してるし。北条君が学校で何してるか、私ほとんど知らないもん」
「だから知りたい?」
「うん」
ひよりは迷わず頷いた。
千夏はそれ以上何も言わなかった。
ひよりの中では、まだ単純な興味なのだろう。
自分のことを話すようになったから、相手のことも知りたい。
友達として自然な感情だと言われれば、それまでだ。
ただ、千夏には少しだけ分かる。
ひよりは誰に対しても、ここまで相手の知らない時間を知りたがるわけではない。
「今日は聞くんでしょ?」
「うん。昨日約束した」
「北条君、ちゃんと話すかな」
「逃げたら聞き続ける」
「強くなったねえ」
「北条君には遠慮しなくていいって言われたから」
「本人、絶対ちょっと後悔してるよ」
千夏の言葉に、ひよりは声を立てて笑った。
◇ ◇ ◇
昼休み。
桜陵学園の食堂では、真樹が昼食を前にしながら、蓮の話を半分ほど聞き流していた。
「だから来月の校外活動、提出期限が金曜なんだって」
「聞いてる」
「じゃあ何でスマホ見てるの」
「見てない」
「今見た」
「通知来たから」
「誰?」
「お前に関係ない」
蓮は箸を止め、面白そうに真樹を見る。
「天野さん?」
「違う」
「じゃあ誰」
「家」
「本当に?」
「何で嘘つく必要あんだよ」
「最近、真樹がスマホ見ると大体天野さんだから」
「大体って何だよ」
「大体は大体」
真樹が睨むと、蓮は楽しそうに笑った。
実際、今の通知は北条家の使用人から届いた連絡だった。
ひよりからは何も来ていない。
それなのに通知が来た瞬間、ひよりかもしれないと思った自分がいる。
(……面倒くさ)
誰に対しての言葉なのか、自分でも分からない。
「真樹」
横から玲奈が声をかける。
「昨日の話だけど、ノアのお散歩、本当に都合のいいときでいいからね」
「ああ」
「急に行ったら天野さんも困るでしょうし」
「何で天野が困るんだよ」
「いつも一緒なんでしょう?」
「いつもってわけじゃない」
反射的に否定したものの、真樹はそこで止まった。
平日はかなりの頻度で会っている。
休日も、この前は二日続けて会った。
雨で中止になった日ですらメッセージをして、翌日に会う約束をした。
「……最近はいること多いけど」
言い直すと、蓮の口元が上がる。
「素直になった」
「うるさい」
玲奈は少しだけ笑った。
「じゃあ、天野さんの都合も聞いてもらえる?」
「何で俺が」
「真樹が一番連絡取ってるから」
「……」
「違うの?」
真樹は否定できなかった。
玲奈はひよりの連絡先を知らない。
蓮も知らない。
自分だけが知っている。
その事実に、なぜか少しだけ気分がよくなる。
(何でそこで優越感出てんだよ)
自分で気づいて、余計に嫌になる。
「聞くだけ聞く」
「ありがとう」
玲奈が微笑む。
そのとき蓮が何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば真樹、今日天野さんに学校の話するんだっけ?」
真樹の動きが止まる。
「何で知ってる」
「昨日帰りにメッセージ来たとき、俺らの話聞かれるかもって言ってなかった?」
「そこまで言ってない」
「でも天野さん、真樹の学校のこと知りたがってるんだ」
玲奈も少し興味を示した。
「何を聞きたいって?」
「知らない」
「真樹の学校での様子じゃない?」
蓮が答える。
「教えてあげればいいじゃん。真樹は学校でも感じ悪いって」
「お前の話は絶対しない」
「ひどいなあ」
「余計なことしか言わないからだろ」
「天野さんに俺から直接教えようか?」
「連絡先ないだろ」
「今度会ったら交換する」
「必要ない」
即答だった。
蓮が一瞬黙り、そのあと玲奈を見る。
玲奈も真樹を見る。
「……何だよ」
「いや」
蓮は笑いを堪えるように口元を押さえた。
「まだ駄目なんだなと思って」
「何が」
「俺と天野さんの連絡先交換」
「必要ないだろ」
「必要かどうか、真樹が決めること?」
「……」
正論だった。
真樹は返事に詰まる。
以前も同じような話になった。
蓮とひよりが直接連絡を取る理由などないと思った。
今もそう思う。
けれど、それを決める権利が自分にないことくらい分かっている。
「交換したいなら勝手にしろ」
真樹は低い声で言った。
「お?」
「ただし俺を巻き込むな」
「紹介してくれないの?」
「しない」
「じゃあ偶然会うしかないか」
「わざと来んなよ」
「何で?」
「面倒だから」
蓮は笑う。
玲奈はそんな二人を見ながら、ふと尋ねた。
「真樹、天野さんが神崎君と仲良くなるの嫌なの?」
「嫌じゃない」
「じゃあ何でそんなに止めるの?」
「こいつが面倒だから」
「俺だけ?」
「お前だから」
真樹はそう答えた。
けれど、自分でも分かっている。
蓮だからという理由だけではない。
ひよりと蓮が自分の知らないところでメッセージをする。
自分を通さずに話す。
そういう場面を想像すると、妙に落ち着かない。
(……またこれか)
颯太。
海斗。
蓮。
相手が変わっても似たような感情が出てくる。
昨日から考え続けている疑問が、また胸の奥へ浮かんだ。
自分は、ひよりのことを気にしすぎているのではないか。
「真樹?」
玲奈に呼ばれ、真樹は顔を上げる。
「何」
「考え事?」
「別に」
「最近増えたよね」
蓮が言う。
「何が」
「ぼーっと考えてる時間」
「お前がうるさいだけ」
「天野さんと知り合ってからじゃない?」
「……黙れ」
真樹はそれ以上話さず、昼食へ意識を戻した。
蓮も追及はしなかった。
ただ、幼いころから真樹を知る玲奈は、わずかに視線を落とした。
以前の真樹なら、誰かの名前一つでここまで反応を変えることはなかった。
それを一番近くで見ているからこそ、胸の奥へ小さな痛みが残った。
◇ ◇ ◇
午後の授業を終えたひよりは、帰り支度をしながら窓の外を見た。
朝より雲が増えているものの、雨が降る気配はない。
今日は予定通り公園へ行けそうだ。
「天野」
海斗の声に振り返る。
「何?」
「今日、時間ある?」
ひよりは一瞬だけ時計を見る。
「どうしたの?」
「昨日の小テストで間違えたとこ、一問だけ分かんなくて。ほんと五分でいい」
「一問?」
「うん」
「じゃあいいよ」
ひよりは頷き、鞄から筆箱を出した。
「北条との約束大丈夫?」
「約束っていうか、いつもの散歩だけど」
「でも待ってるんだろ?」
「遅くなるなら連絡すれば待っててくれるって」
何気なく答えると、海斗の手が少し止まった。
「待っててくれるんだ」
「うん」
「へえ」
「何?」
「いや。ほんと仲いいなと思って」
「友達だからね」
ひよりは自然に答える。
海斗はそれ以上何も言わず、問題集を開いた。
「ここなんだけど」
「ああ、これね」
ひよりは隣から問題を覗き込む。
内容はそれほど難しくなく、途中式の一か所で符号を間違えているだけだった。
「ここ、マイナスになってるでしょ?」
「あ、本当だ」
「だからそのあとの答え全部ずれてる」
「うわ、単純ミスじゃん」
「でも分からないままよりいいでしょ」
「助かった。ありがとう」
「どういたしまして」
本当に五分ほどで終わった。
ひよりは時計を確認し、スマートフォンを取り出す。
『今から出るね』
真樹へ送る。
すぐに既読がつく。
『分かった』
続けて、
『今日は遅くないんだな』
と届いた。
ひよりは少し笑う。
『橘君に一問だけ教えてた』
送った直後、既読。
数秒。
『そう』
「短い」
思わず声に出すと、まだ隣にいた海斗が首を傾げる。
「何?」
「北条君」
「ああ」
「橘君に教えてたって言ったら、返事が『そう』だけ」
「嫌われてんのかな、俺」
「そんなことないと思うよ。北条君、橘君のことちゃんと覚えてるし」
「それ逆に怖くない?」
「何で?」
「会ったことないんだろ?」
「ないよ」
「なのに俺の名前覚えてるんだ」
「神崎君も佐伯君も覚えてるよ」
「……それ、天野の周りの男だけじゃない?」
「え?」
ひよりは瞬きをする。
海斗は言ってから自分でも少し妙なことを言ったと思ったのか、笑って手を振った。
「何でもない。待たせると悪いし、行ってきなよ」
「うん。また明日」
「また明日」
ひよりは教室を出た。
海斗はその背中を見送り、閉じた問題集へ目を落とす。
「……待ってる、か」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞かれなかった。
◇ ◇ ◇
公園へ向かう途中、ひよりは海斗に言われた言葉を思い返していた。
『それ、天野の周りの男だけじゃない?』
真樹が覚えている名前。
颯太。
海斗。
蓮は自分の友人だから当然としても、ひよりの学校関係では颯太と海斗の名前を特によく覚えている。
(千夏のことも覚えてるけどね)
だから男だけというわけではない。
ただ、颯太や海斗の話をするときに真樹が少し不機嫌になることは、自分でも気づいている。
(何でなんだろ)
昨日聞いても、真樹自身が分からないと言った。
なら今考えても答えは出ない。
ひよりは深く追及することをやめ、公園へ向かった。
入口が見えるころには、すでにノアの黒い姿があった。
真樹もいる。
今日はベンチへ座っているわけではなく、ノアとゆっくり入口付近を歩いていた。
「北条君!」
声をかけると、真樹がこちらを見る。
ノアの尻尾が大きく揺れた。
ひよりは走らないよう気をつけながら歩みを速める。
「お待たせ」
「五分しか遅れてない」
「待ってた?」
「散歩してた」
「北条君は?」
「俺も散歩してた」
「ノアと同じ扱い?」
「何で俺だけ別なんだよ」
ひよりは笑いながらノアの頭を撫でた。
「ノア、こんにちは。今日も会えたね」
ノアが鼻先をひよりの手へ寄せる。
真樹はその様子を見てから、ひよりへ視線を戻した。
「橘に教えてたって?」
「うん。一問だけ」
「昨日も頼まれてなかった?」
「昨日は小テストの報告だけ。今日は間違えたところ聞かれたの」
「ふうん」
「北条君」
「何」
「今の『ふうん』、ちょっと嫌なやつ?」
「分類増やすな」
「だって分かりやすいんだもん」
「分かりやすくない」
「橘君がね、北条君に嫌われてるのかなって言ってたよ」
「会ったこともないのに嫌うわけないだろ」
「だよね」
「ただ――」
真樹はそこで言葉を止めた。
「ただ?」
「……何でもない」
「気になる」
「いいから」
「今日、北条君の話を聞くって約束したよね?」
「それとこれ関係ないだろ」
「逃げた」
「逃げてない」
ひよりは楽しそうに笑いながら、真樹の隣へ並んだ。
「じゃあ今日は北条君の学校の話ね」
「本当に覚えてたのか」
「当たり前でしょ」
「何が聞きたいんだよ」
「いっぱいある」
「帰っていい?」
「待って!」
「ノア、帰るぞ」
真樹が冗談半分にリードを引くと、ノアは一度真樹を見上げたあと、なぜかひよりの横へ寄った。
「ほら! ノアは帰りたくないって!」
「お前は誰の味方だよ」
真樹が呆れたように言う。
ひよりは勝ち誇ったようにノアの首元を撫でた。
「今日は私」
「勝手に決めんな」
「じゃあ質問一個目」
「もう始めるのかよ」
「北条君、学校でどんな感じなの?」
「どんなって何」
「友達多い?」
「普通」
「その『普通』信用できない」
「神崎くらい」
「一人?」
「話すやつは他にもいる」
「でも一番仲いいのは神崎君?」
「たぶん」
「神崎君から友達になったんだよね?」
「ああ」
以前、少しだけ聞いた話だ。
中学生のころ、蓮のほうから真樹へ話しかけた。
「最初、神崎君のことどう思った?」
「うるさい」
「ひどい!」
「今も思ってる」
「もっとひどい!」
「本人にも言ってる」
「神崎君、よく友達続けてるね」
「俺もそう思う」
真樹は平然と答えた。
ひよりは笑いながら、次の質問を考える。
「学校では休み時間何してるの?」
「適当」
「適当禁止」
「スマホ見たり、蓮と話したり」
「玲奈さんとも?」
「たまに」
「お昼は?」
「蓮と食うこと多い。一ノ瀬が来るときもある」
「三人で?」
「まあ」
「そっか」
ひよりは頭の中でその光景を想像した。
制服姿の真樹。
隣に蓮。
そこへ玲奈が加わる。
自分が知らない学校の中で、三人は自然に会話をしている。
玲奈は幼いころから真樹を知っていて、蓮は中学からの親友だ。
(北条君、どんな顔してるんだろ)
自分といるときと同じように、感じの悪いことを言うのだろうか。
それとも、もっと違う顔をするのだろうか。
「何」
真樹がひよりを見る。
「学校の北条君見てみたいなって思って」
「何で」
「気になるから」
「来れるわけないだろ」
「分かってるよ。学校違うもん」
「交流行事とかなら可能性あるけど」
「交流行事?」
「学校同士で何かやることあるだろ。合同の行事とか」
「青葉と桜陵で?」
「知らない。例え」
「そっか」
ひよりは少し残念そうに答えた。
その顔を見て、真樹は自分でも分からないまま言葉を続ける。
「別に学校でもそんな変わらない」
「本当に?」
「ああ」
「神崎君にはもっと口悪そう」
「お前にも十分悪いだろ」
「最近ちょっと優しいよ」
真樹の足がわずかに遅れる。
「……どこが」
「いっぱいあるよ」
「例えば」
「待っててくれる」
「ノア散歩させてるだけ」
「寒いと帰るか聞いてくれる」
「風邪引かれたら面倒だから」
「ココア買ってくれた」
「パンの返し」
「私が本気にしそうになると、冗談ってちゃんと言うようになった」
真樹が黙る。
ひよりは少し笑った。
「前より優しいよ」
「前が感じ悪すぎただけだろ」
「それはある」
「否定しろよ」
「だって最初、ほんとに感じ悪かったもん」
「お前も失礼だったけどな」
「私はノア助けただけです」
「勝手に知らない犬のリード持ってた」
「迷子だったんだから仕方ないでしょ」
「危ないって言っただろ」
「今なら北条君が心配した理由分かるけど」
ひよりはノアを見る。
最初は大きな黒犬が一頭で歩いていた。
放っておけなかった。
あの日ノアへ手を伸ばしていなければ、真樹と知り合うこともなかったのだろう。
「何か不思議だね」
「何が」
「ノアがいなかったら、北条君と絶対知り合ってないじゃん」
「学校も違うしな」
「住んでる世界も結構違うし」
真樹が少しだけ眉を寄せる。
「世界って大げさだろ」
「だって北条君、桜陵だし。交流会とか行くし、玲奈さんみたいな家同士の付き合いある幼馴染もいるし」
「それが俺の全部じゃない」
真樹の返事は思ったより早かった。
ひよりは彼を見る。
「分かってるよ」
「……ならいいけど」
「だから知りたいんだもん」
「何を」
「北条君のこと」
ひよりはごく自然に答えた。
真樹の足が止まりかける。
ひよりは気づかず続けた。
「私、北条君のことまだ知らないこと多いし。学校のことも、昔のことも、家で何してるかも」
「家で何してるかまで知る必要ある?」
「気になる」
「何で」
「友達だから?」
疑問形だった。
真樹はその言葉に胸の奥を軽く刺されたような感覚を覚える。
また「友達」。
間違っていない。
なのに最近、その言葉を聞くたびに何かが引っかかる。
「北条君?」
「……何でもない」
「また考えてる」
「お前が変なこと言うから」
「どこが変?」
「普通、友達が家で何してるかまで気にするか?」
「千夏が家で何してるかは気になるよ」
「藤崎は親友だろ」
「北条君も友達だよ」
「……そうだな」
真樹は前を向いた。
その返事が少しだけ低く聞こえ、ひよりは首を傾げた。
「嫌だった?」
「何が」
「聞かれるの」
「嫌なら答えてない」
「じゃあもっと聞く」
「加減しろ」
「家では何してるの?」
「早速かよ」
ひよりが笑う。
真樹は呆れながらも答え始めた。
「普通に勉強したり、スマホ見たり、ノアといたり」
「ゲームする?」
「たまに」
「何の?」
「色々」
「漫画読む?」
「読む」
「えっ、読むの?」
「何で驚く」
「何か北条君、漫画読まなそう」
「どういう偏見だよ」
「小難しい本しか読まなそう」
「お前の中で俺何歳なんだ」
「お兄ちゃんより大人っぽいときある」
「二十四歳のシスコンより?」
「年齢まで覚えてる!」
「前も言っただろ」
ひよりが声を立てて笑う。
真樹も、今度は隠すほどではない小さな笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
遊歩道を歩きながら、ひよりの質問はしばらく続いた。
好きな教科。
苦手な教科。
昼食は学食が多いのか。
休日はノアの散歩以外に何をするのか。
蓮とはどんな話をするのか。
玲奈とは昔どんな遊びをしたのか。
真樹は途中で何度も「質問多すぎ」と文句を言ったものの、本当に答えたくないこと以外は意外なほど答えた。
「北条君、数学得意なんだ」
「普通」
「また普通」
「苦手ではない」
「橘君に教えてあげられるね」
「何で俺が橘に教えるんだよ」
「すごい嫌そう」
「会ったことないやつに勉強教える状況が意味分かんないだろ」
「じゃあ私なら?」
真樹がひよりを見る。
「何が」
「私が数学分かんないって言ったら教えてくれる?」
「内容による」
「難しいやつ」
「お前が分からないなら教える」
「本当?」
「分かる範囲なら」
「優しい」
「普通」
「またそれ」
ひよりは笑った。
「じゃあ今度分かんないところあったら北条君に聞こうかな」
「藤崎とか橘に聞けばいいだろ」
「北条君に聞いちゃ駄目?」
「駄目とは言ってない」
「じゃあ聞く」
「……好きにしろ」
「今のはいいよって意味」
「勝手に翻訳すんな」
ひよりは楽しそうに歩く。
真樹はその横顔を見ながら、ふと気づく。
海斗がひよりに勉強を教えてもらうことは気に入らない。
けれど、ひよりが自分へ勉強を聞くと言うと嫌ではない。
むしろ少し嬉しい。
(分かりやすすぎるだろ、俺)
昨日から、自分の感情を観察し始めたせいか、今まで見ないふりをしていた違いまで目につく。
「次、北条君から質問して」
「何で」
「私ばっかり聞いてるから」
「お前のことは結構知ってる」
「そう?」
「家族のこと、藤崎のこと、佐伯のこと、橘のこと、学校のこと」
「本当だ」
「お前が勝手に喋るから」
「じゃあ聞きたいことない?」
真樹は少し考える。
聞きたいこと。
ある。
ひよりは颯太のどこが好きなのか。
いつから好きなのか。
もし告白して付き合うことになったら、自分とは今まで通り会うのか。
そういうことばかりが頭へ浮かぶ。
けれど、どれも聞きたくない。
「……ない」
「考えたじゃん」
「ない」
「絶対何かあった」
「ないって」
「じゃあ私が当てる」
「何を」
「佐伯君のこと?」
真樹が黙る。
ひよりは目を丸くした。
「当たった?」
「……」
「北条君、本当に佐伯君気にするね」
「お前がずっと話すからだろ」
「聞きたいことあるなら聞いていいよ」
ひよりは穏やかに言った。
真樹は数歩、黙って歩いた。
「……どこが好きなの」
ひよりの足が止まりかけた。
「え?」
「佐伯の」
真樹は前を向いたままだった。
「お前、ずっと好きって言ってるけど、何がそんなにいいの」
言ってから、自分でもかなり踏み込んだ質問だと思った。
ひよりは少し驚いた顔をしていたが、嫌そうではない。
「どこって言われると難しいな」
「じゃあいい」
「待って。考える」
ひよりは本当に考え始めた。
真樹は聞かなければよかったと少し後悔した。
しかし今さら止めるのも変だった。
「去年同じクラスだったときね」
ひよりがゆっくり話し始める。
「私、最初のころ今よりもっと周り気にしてたんだ。高校入ってまだ慣れてなかったし、明るくしなきゃって頑張ってたところもあって」
真樹は黙って聞く。
「文化祭の準備で、私が一人で残って作業してた日があったの。別に頼まれたわけじゃなくて、終わらなかったからやってただけなんだけど」
「うん」
「佐伯君、友達と帰るところだったのに気づいてくれて、『一人でやる量じゃないだろ』って手伝ってくれた」
ひよりは少し懐かしそうに笑った。
「たぶん佐伯君は覚えてないと思う。普通に手伝っただけだから。でも私には嬉しかったんだ」
「……それで好きになった?」
「それだけじゃないよ。そのあとも話すと楽しかったし、誰にでも自然に優しいし。変に気を遣わせないし」
真樹は胸の奥へ鈍い重さを感じた。
聞いたのは自分だ。
だから不機嫌になるのは筋違いだと分かっている。
「そっか」
「うん」
ひよりは少し照れながら笑う。
「だから、ちゃんと告白したい」
その言葉が、真樹の胸へ思った以上に強く落ちた。
「……いつ?」
「え?」
「告白」
「まだ決めてないよ」
「そう」
「もう少し普通に話せるようになってからかな。今は前より話せるようになったけど、まだ緊張するし」
「……付き合いたい?」
今度はひよりが完全に足を止めた。
真樹も数歩先で止まり、振り返る。
「北条君、今日すごい聞くね」
「お前が聞いていいって言った」
「言ったけど」
ひよりは少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……付き合えたら、嬉しいと思う」
真樹は何も言えなかった。
分かっていたことだ。
好きな相手へ告白する。
受け入れてもらえれば付き合いたい。
当然の話だ。
それなのに、具体的な言葉として聞いた瞬間、頭の中へいくつもの場面が浮かぶ。
ひよりが颯太と放課後を過ごす。
休日に会う。
メッセージをする。
今、自分と歩いているこの時間が減る。
あるいは、なくなる。
(……嫌だ)
考えるより先に感情が出た。
真樹は自分でその強さに驚く。
「北条君?」
「……何」
「すごい嫌そうな顔してる」
「してない」
「してるよ」
「……」
ひよりは少し困ったように笑った。
「やっぱり佐伯君の話、やめる?」
「やめなくていい」
「でも」
「お前が話したいなら話せばいい」
「北条君、本当に難しい」
「知ってる」
真樹は自嘲するように答えた。
ひよりは少しだけ迷い、それから真樹の隣へ戻る。
「じゃあ北条君も、好きな人できたら教えてね」
「何で」
「私ばっかり話すの不公平だから」
「いない」
「今はいなくても」
「できる予定もない」
「そういうの予定立てるものじゃないでしょ」
「面倒だからいい」
「恋愛が?」
「ああ」
「でも好きになったら面倒とか言ってられないんじゃない?」
真樹はひよりを見る。
ひよりは何気なく言っただけらしい。
「……知らない」
「北条君、知らない多いね」
「経験ないんだから仕方ないだろ」
「え?」
ひよりが目を丸くする。
「北条君、彼女いたことないの?」
「ない」
「本当に?」
「何で疑う」
「だってモテそうだし」
「知らない」
「告白されたことは?」
「……ある」
「やっぱり!」
「声でかい」
「何回?」
「覚えてない」
「そんなに!?」
「数えてないだけ」
ひよりは驚いた顔で真樹を見る。
「全部断ったの?」
「ああ」
「何で?」
「好きじゃないから」
「そっか」
ひよりは納得したあと、少しだけ考える。
「玲奈さんは?」
真樹の眉が動いた。
「何で一ノ瀬」
「幼馴染だし、綺麗だし、北条君のことよく知ってるし」
「関係ないだろ」
「好きじゃないの?」
「そういう目で見たことない」
即答だった。
ひよりの胸の奥にあった小さな何かが、ふっと軽くなる。
その変化に、自分自身が一番戸惑った。
(何で安心したんだろ)
玲奈が真樹を好きだとは知らない。
ただ、幼馴染の二人が恋愛関係なのか少し気になっただけ。
違うと分かって安心するのも、友達として普通なのかもしれない。
「何」
真樹がひよりを見る。
「ちょっと安心した顔した」
「してないよ」
「した」
「北条君の真似しないで」
「お前が分かりやすい」
「そんなことない」
「ある」
立場が逆になり、ひよりは少し困ったように笑った。
「ただ、玲奈さんが北条君のこと好きだったら、私が毎日一緒に散歩してるの嫌かなって思っただけ」
真樹の足が止まる。
「……何で一ノ瀬が俺を好きって話になるんだよ」
「もしもの話」
「知らない」
「聞いたことないの?」
「ない」
「そっか」
ひよりはそれ以上言わなかった。
真樹も玲奈の気持ちには気づいていない。
ただ、ひよりが「玲奈が自分を好きかもしれない」という可能性を口にしたことより、そのあとに続いた言葉のほうが気になった。
「天野」
「何?」
「一ノ瀬が俺のこと好きだったら、お前は散歩来なくなるの?」
ひよりは目を瞬かせた。
「え?」
「今そういう話しただろ」
「来るの嫌かなって思っただけだよ」
「誰が」
「玲奈さんが」
「何で一ノ瀬が嫌なら、お前が来なくなるんだよ」
「だって……好きな人が毎日ほかの女の子と会ってたら嫌じゃない?」
真樹は黙った。
それは今、自分が感じているものに少し似ている気がした。
ひよりが好きな颯太と話す。
一緒に歩く。
髪を褒められる。
それが嫌だ。
(……いや)
真樹はそこで思考を止めた。
まだ、その先へ進むには抵抗があった。
「北条君?」
「……一ノ瀬がどう思うかは知らない」
「うん」
「でもお前が来るかどうかは、お前が決めればいいだろ」
「玲奈さんが嫌でも?」
「本人に言われたわけでもないのに勝手に決めるなよ」
「それはそうだけど」
「それに――」
真樹は言いかけて止まる。
「それに?」
「……お前が急に来なくなるほうが面倒」
ひよりの目が少し大きくなる。
「面倒?」
「ノアが探すだろ」
「ノアだけ?」
「……」
「北条君は?」
真樹は答えなかった。
ひよりは待つ。
風が二人の間を抜け、枯れた木の枝を揺らす。
「……俺も」
小さな声だった。
ひよりは聞き返さなかった。
聞こえていた。
「そっか」
それだけ答える。
けれど、口元は自然に緩んでいた。
真樹はその顔を見て、少しだけ視線を逸らした。
◇ ◇ ◇
公園をもう半周したころ、ひよりは昨日までより少し静かになっていた。
嫌な沈黙ではない。
真樹から聞いたことを頭の中で整理している。
学校では蓮と過ごすことが多い。
玲奈とも時々昼食を取る。
数学は得意。
漫画も読む。
ゲームもする。
恋人がいたことはない。
告白された経験はあるが、好きではないから断った。
玲奈を恋愛対象として見たことはない。
そして、自分が急に散歩へ来なくなるのは、真樹も嫌らしい。
(北条君のこと、昨日よりいっぱい知った)
そう思うと嬉しかった。
「北条君」
「何」
「今日聞いてよかった」
「質問多すぎ」
「でも答えてくれたじゃん」
「途中から面倒になった」
「じゃあ明日続きね」
「まだあるの?」
「あるよ」
「何聞くんだよ」
「子どものころの話とか」
「一ノ瀬に聞け」
「さっき余計なこと言うって止めてたじゃん」
「じゃあ聞くな」
「嫌です」
「お前、本当に遠慮なくなったな」
真樹が呆れたように言う。
ひよりは一瞬だけ目を丸くし、そのあと柔らかく笑った。
「北条君がいいって言ったんだよ」
「言ったけど」
「嫌?」
真樹は少し考える。
「……嫌じゃない」
「じゃあいいじゃん」
「限度はある」
「頑張ります」
「何を頑張るんだよ」
ひよりが笑う。
真樹も小さく息を吐きながら、口元をわずかに緩めた。
ひよりが自分へ遠慮しなくなった。
以前なら気にしたかもしれないことを、そのまま聞いてくる。
勝手に勝負を始める。
褒めろと言う。
学校の話を知りたいと言う。
面倒ではある。
けれど、その距離を戻したいとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
別れ際。
ひよりはノアの頭を撫でながら、ふと思い出したように真樹を見た。
「そうだ。玲奈さんの散歩、いつにする?」
「まだ決めてない」
「北条君、連絡するって言ったんでしょ?」
「ああ」
「私はいつでもいいよ」
「何でお前の予定が基準なんだよ」
「だって私もいるんでしょ?」
真樹は一瞬、答えに詰まった。
「……来る気なんだ」
「駄目?」
「駄目とは言ってない」
「じゃあ行く」
「即決」
「玲奈さんとも話したいし、ノアもいるし」
「俺は?」
真樹の口から、ほとんど反射的に言葉が出た。
ひよりが瞬きをする。
真樹自身も固まった。
「え?」
「……何でもない」
「今、北条君はって聞いた?」
「聞いてない」
「聞いたよ」
「忘れろ」
「何で?」
「いいから」
真樹は明らかに顔を逸らす。
ひよりは数秒その横顔を見たあと、少しだけ笑った。
「北条君もいるから行くよ」
真樹がひよりを見る。
「ノアだけじゃなくて?」
「うん」
ひよりは当たり前のように頷いた。
「北条君とも話したいから」
昨日も、雨で会えなかった日に似たことを言った。
けれど今日は目の前で、何の迷いもなく言われた。
真樹は返事ができない。
「北条君?」
「……分かった」
「何が?」
「もういい」
「また顔赤い?」
「寒い」
「今日そこまで寒くないよ」
「うるさい」
ひよりは楽しそうに笑う。
「じゃあまた明日ね」
「ああ」
「明日も北条君の話聞くから」
「忘れろ」
「忘れません」
「佐伯の話でもしてろ」
真樹は半ば投げやりに言った。
ひよりが少し驚いたあと、笑う。
「北条君がいいならするよ」
「……やっぱいい」
「どっち?」
「知らない」
「難しいなあ」
「お前にだけは言われたくない」
いつものようなやり取りをして、ひよりは手を振った。
「また明日」
「また明日」
ひよりが公園を出ていく。
真樹はその姿を見送りながら、先ほど自分が口にした言葉を思い返していた。
『俺は?』
(……何聞いてんだよ)
ひよりが散歩へ来る理由の中に、自分がいるのか確かめた。
ノアだけではなく。
玲奈と話したいだけでもなく。
自分に会いたいから来るのか。
それを知りたかった。
そしてひよりは、
『北条君とも話したいから』
と答えた。
真樹は額へ片手を当てる。
「……駄目だろ、これ」
何が駄目なのか。
まだ言葉にはできない。
ただ、ひよりの一言でここまで嬉しくなっている自分は、さすがに以前と同じではない。
隣でノアが真樹を見上げる。
「見るな」
ノアは当然、目を逸らさない。
「分かってるよ」
何を分かっているのか、自分でもまだはっきりしない。
それでも真樹は、もう「何も分からない」と言い切ることだけはできなくなり始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
ひよりは宿題を終えたあと、真樹とのメッセージ画面を開いた。
今日は自分から送る。
『今日はいっぱい教えてくれてありがとう』
少しして返信が来る。
『質問多すぎ』
『明日も聞く』
『嫌だ』
『じゃあ神崎君に聞く』
既読。
すぐに返信。
『何で神崎』
ひよりは笑った。
『北条君の学校でのこと知ってそうだから』
『聞く必要ない』
『じゃあ北条君が教えて』
今度は少し間が空く。
『内容による』
『やった』
『何が』
『明日も答えてくれる』
『答えるとは言ってない』
『でも嫌なら答えなくていいよ』
送ったあと、ひよりは少し考え、
『無理に知りたいわけじゃないから』
と付け足した。
真樹からの返事はすぐには来なかった。
やがて、
『別に聞けばいい』
と届く。
『答えたくないのは答えない』
『うん』
『それでいい』
ひよりは画面を見ながら笑った。
少しずつ知ればいい。
以前、美月にもそう言われた。
真樹が自分から話したくないことまで、無理に聞く必要はない。
でも、話してくれることは知りたい。
『北条君』
『何』
『今日、私が来なくなるの北条君も嫌って言ったよね』
既読がついた。
返信が来ない。
ひよりは少し待つ。
『言ってない』
「嘘」
思わず声が漏れる。
『言ったよ』
『聞き間違い』
『「俺も」って』
『忘れろ』
『嫌』
『何で』
ひよりは少し考えた。
『嬉しかったから』
送信する。
真樹からの返信が止まった。
一分。
二分。
(言いすぎた?)
ひよりが少し不安になり始めたころ、ようやく画面が震えた。
『そう』
たった二文字。
けれど、ひよりには何となく分かった。
これは嫌な「そう」ではない。
『北条君』
『何』
『今照れてる?』
『寝ろ』
『まだ早い』
『宿題終わったなら寝ろ』
『お父さん』
『やめろ』
『お兄ちゃん』
『もっとやめろ』
昨日と似たやり取りに、ひよりは声を殺して笑った。
『じゃあ友達』
送ってから、少しだけ指が止まる。
なぜ止まったのか、自分でも分からない。
真樹からも、すぐには返事が来なかった。
やがて、
『それでいい』
と届いた。
ひよりはその文章を見つめる。
(何か変なの)
「友達」で合っている。
なのに、真樹の返事も、自分の胸の中も、なぜか少しだけすっきりしなかった。
『じゃあおやすみ』
『また明日』
ひよりは送る。
『おやすみ』
少し間を置いて、
『また明日』
真樹から返ってきた。
ひよりはスマートフォンを枕元へ置いた。
今日、自分は真樹の知らなかったことをいくつも知った。
学校でのこと。
蓮や玲奈とのこと。
家での過ごし方。
恋人がいたことがないこと。
それらを思い返すと、不思議なくらい満足感がある。
(明日は何聞こうかな)
そう考えている自分に気づき、ひよりは布団へ入りながら小さく笑った。
◇ ◇ ◇
同じころ。
真樹はベッドへ横になりながら、最後のやり取りを見ていた。
『じゃあ友達』
『それでいい』
自分で返した言葉なのに、妙に引っかかる。
「……よくないのかよ」
誰もいない部屋で呟く。
友達。
それ以外の関係ではない。
ひよりは颯太が好きだ。
自分は恋愛なんて面倒だと思っている。
だから、それでいいはずだった。
けれど今日、ひよりから「付き合えたら嬉しい」と聞いたとき、はっきり嫌だと思った。
玲奈が自分を好きだったら散歩へ来なくなるかもしれないと聞いたとき、それも嫌だった。
ひよりが散歩へ来る理由の中に自分がいるのか、思わず確かめた。
そして「北条君とも話したいから」と言われて、嬉しかった。
友達なら全部説明できる。
そう思いたい。
けれど、颯太や海斗や蓮に向ける感情まで、友達という言葉だけで説明するのは苦しくなってきている。
真樹はスマートフォンを伏せ、目元へ腕を乗せた。
(好きになったら、面倒とか言ってられないんじゃない?)
公園でひよりに言われた言葉が蘇る。
「……知らねえよ」
小さく返しても、今度はその言葉で逃げ切れなかった。
答えはまだ認めていない。
けれど、答えがある方向だけは、少しずつ見え始めていた。




