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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第27話 嬉しそうな顔を、見たくないわけじゃない


 月曜日の朝、天野ひよりが目を覚まして最初に意識したのは、カーテンの隙間から差し込む冬の光と、枕元に置いていたスマートフォンだった。


 昨夜、真樹と交わした最後のメッセージは「おやすみ。また明日」。最近では珍しくもなくなってきた言葉なのに、画面を点けて履歴を確認すると、昨夜のやり取りまで一緒に思い出してしまう。


『連絡あるなら待つ』


 最初は帰ると言ったくせに、すぐに嘘だと訂正して送ってきた言葉だった。


(北条君、本当に前より素直になったよね)


 そう考えながら身体を起こしたところで、ひよりは今日が月曜日だったことを改めて思い出した。


 学校へ行けば、颯太に会えるかもしれない。


 その可能性を意識しただけで、真樹とのやり取りを思い出したときとは違う種類の緊張が胸の奥へ広がった。


(今日も話せるかな。先週みたいに、普通に話せたらいいんだけど)


 以前なら、話せるかどうかを考えただけで「無理かもしれない」が先に浮かんでいた。けれど最近は、自分から挨拶することもできたし、少しだけ一緒に歩くこともできた。


 だから今日も、機会があれば自分から声をかけてみたい。


 ひよりはベッドから降りると、いつもより少しだけ長く制服のリボンを整え、鏡の前で髪を確認した。


 水色の髪留めへ手を伸ばしかけ、そこで指を止める。


(またこれにしたら、北条君気づくかな)


 そんな考えが先に浮かんだ自分に、ひよりは鏡の中で眉を寄せた。


「いや、何で北条君基準なの」


 小さく呟いてから、結局その水色の髪留めを手に取った。


 気に入っているのだから使えばいい。それだけの話だ。


 今日は髪を低い位置で一つにまとめるのではなく、左右を少しだけ取って後ろで留める形にする。髪留め自体は同じでも、見た目の印象は昨日までとはかなり違った。


(これなら気づかないでしょ)


 なぜ自分が勝負のように考えているのかは分からなかったが、少しだけ楽しみになる。


 そのあと制服へ着替えて階下へ降りると、朝食の匂いが漂うダイニングで、美月がひよりの顔を見るなり髪へ視線を移した。


「今日は使い方変えたんだ」


「……お姉ちゃん早い」


「何が?」


「気づくの」


「妹だからね」


 美月は平然と答え、マグカップへ口をつけた。


 ひよりが自分の席へ座ると、向かいにいた悠一も新聞代わりに見ていたスマートフォンから顔を上げる。


「何が変わった?」


「気づいてないならいいよ」


「待て。髪か?」


「お姉ちゃんの反応見てから言っても遅い」


「兄妹で判定厳しくないか?」


「お兄ちゃんは私のこと見すぎるから、これくらいでちょうどいいの」


「見すぎてるなら気づくはずだろ」


「気づいてないじゃん」


 ひよりが笑うと、悠一は納得できない様子で髪を眺めてくる。


 そこへ朝食を運んできた由美が「朝から妹の髪を凝視しないの」と軽く注意し、浩介も苦笑しながら味噌汁へ手を伸ばした。


「今日も放課後は散歩?」


 美月が何気なく尋ねる。


「うん。たぶんいつもの時間」


「たぶん?」


「佐伯君と話せたら、ちょっと遅くなるかもしれないから」


 名前を出した途端、悠一が反応する。


「佐伯?」


「前から言ってるでしょ。去年同じクラスだった人」


「好きなやつだろ」


「朝から大きな声で言わないで!」


 ひよりが慌てて兄を睨むと、悠一は悪びれる様子もなくパンを齧った。


「でも、そのあと北条に会うんだよな」


「そうだけど」


「佐伯と話したことを北条に報告するんだろ?」


「昨日そういう話になったからね」


「……何なんだ、その関係」


「友達」


 ひよりは迷わず答えた。


 けれど、その横で美月だけが少し目を細めた。


 昨日も兄と似た話をした。


 ひよりは颯太を好きだと自覚している。その一方で、真樹へ颯太の話をすることも、真樹がそれをどう受け取るのか気にすることも、すでに日常になり始めていた。


 妹の中ではまだ矛盾していない。


 好きな人と、話しやすい友達。


 きれいに別々の場所へ置かれている。


 だから美月は何も言わなかった。


「遅くなるなら連絡だけしてね」


 由美がそう言うと、ひよりは素直に頷く。


「分かってる。北条君にも、遅くなるなら連絡するって言ってあるから」


「北条にも?」


 悠一がまた反応する。


「待っててくれるって」


 ひよりが何気なく続けた瞬間、悠一の眉間へ深い皺が寄った。


「待つの?」


「ノア散歩させながらね」


「それ、待ち合わせじゃないのか?」


「違うよ。いつも公園で会ってるだけ」


「時間分かってるんだろ?」


「大体ね」


「来なかったら連絡するんだろ?」


「たぶん」


「遅れるなら連絡するんだろ?」


「するけど」


「待ち合わせじゃん」


「違うってば」


 ひよりは笑いながら否定したものの、言われてみれば条件だけなら確かに待ち合わせに近い。


 それでも、自分の中では何となく違う気がした。


 約束してどこかへ遊びに行くわけではない。真樹はノアの散歩をしていて、そこへ自分が加わる。それが最初だった。


(でも最近は、北条君も私が来る前提でいるんだよね)


 昨夜の「待つ」という言葉を思い出す。


 胸の奥が少し温かくなったところで、美月と目が合った。


「何?」


「別に」


「その『別に』、北条君みたい」


「最近ひより、北条君の話多いね」


「お姉ちゃんまで!」


 朝のダイニングへ笑い声が広がり、ひよりは頬を膨らませながら朝食へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 青葉高校へ到着したひよりは、教室へ入るなり千夏に髪を指差された。


「今日それ、使い方違う」


「やっぱり千夏も気づくんだ」


「当たり前でしょ。毎日見てるんだから」


「お姉ちゃんも一発だった」


「北条君は?」


「まだ会ってないよ」


「今日も試験する気?」


「試験じゃないって」


 ひよりは鞄を机の横へ掛けた。黒犬のキーホルダーが小さく揺れ、それを見た千夏が口元を緩める。


「昨日も北条君と夕方までいたんでしょ?」


「うん。千夏もメッセージしてきたじゃん」


「だって暇だったし」


「『独占されてる』って何?」


「そのまま。最近、放課後も休日も北条君に取られてるから」


「取られてないよ。千夏と遊ぶときは遊んでるでしょ」


「じゃあ今度、私もノアの散歩行こうかな」


「いいんじゃない?」


 ひよりはあっさり答えた。


 その返事に、千夏は少しだけ悪戯っぽく目を細める。


「北条君、嫌そうな顔しない?」


「何で?」


「さあ?」


「ノアも千夏のこと覚えてると思うよ」


「そこじゃないんだけどなあ」


 千夏はそれ以上説明しなかった。


 ひよりは不思議そうにしながら席へ座り、教科書を机へ入れる。


「そうだ。今日、佐伯君に会えたら話しかけようと思ってる」


 声の調子が変わった。


 千夏にはすぐ分かる。


「お、頑張る?」


「うん。無理に探したりはしないけど、会えたら」


「いいじゃん。最近ちゃんと話せてるし」


「前よりはね」


 ひよりは少し照れたように笑う。


 その表情は、真樹について話しているときとは違う。好きな相手へ少しずつ近づけていることへの緊張と期待が、そのまま顔に出ている。


 千夏はそれを見ながら、机へ肘をついた。


「告白はまだ?」


「まだ無理!」


「即答」


「もうちょっと普通に話せるようになってからがいい。今告白しても、佐伯君からしたら急だと思うし」


「まあ、ひよりが納得できるタイミングでいいと思うよ」


「うん」


 ひよりは頷いた。


 以前より前向きになっている。


 バレンタインの日に渡せなかったことを引きずり続けるのではなく、次はちゃんと自分から動こうとしている。その変化を千夏は嬉しく思っていた。


 だからこそ、真樹とのことを今ここで余計に意識させるつもりもない。


 ひより自身がまだ何も分かっていないなら、外から名前をつける必要はない。


「話せたら北条君にも報告するんでしょ?」


「うん」


「そこは決定なんだ」


「昨日、話していいって言ってたから」


「北条君、聞きたくないんじゃなかった?」


「聞きたくないときもあるけど、知らないほうが嫌なんだって」


「へえ」


 千夏は短く返したものの、内心では少しだけ真樹へ同情した。


(それ、本人が一番大変なやつじゃん)


 ひよりが颯太を好きなのは、真樹も知っている。


 それを聞けば面白くないのに、ひよりが自分へ話さなくなるのも嫌で、知らないところで颯太との距離が縮まることも嫌なのだろう。


 もちろん、それだけで恋だと断定するつもりはない。


 ただ、少なくとも「何とも思っていない友達」の反応としては、ずいぶん忙しい。


「千夏?」


「何でもない。佐伯君と話せたら教えてね」


「もちろん」


 ひよりが笑ったところで予鈴が鳴り、教室の空気が授業へ切り替わっていった。


     ◇ ◇ ◇


 二時間目と三時間目の間の休み時間。


 ひよりは教科書を抱えて廊下を歩いていた。


 次の授業は移動教室で、千夏は先に友人から呼ばれている。ひよりも急ぐ必要はなかったため、窓から差し込む薄い冬の日差しを感じながら階段へ向かっていた。


 その途中で、見覚えのある横顔が視界へ入った。


(佐伯君)


 颯太は少し先で、一人で歩いている。


 友人たちはいない。


 以前なら、見つけても声をかけるか迷っているうちに距離が開いていたかもしれない。


 ひよりは教科書を抱える腕へ少し力を込めた。


(話したいなら、話しかければいい)


 自分へそう言い聞かせ、歩幅を少しだけ広げる。


「佐伯君」


 呼ぶと、颯太が振り返った。


「あ、天野」


 自然に名前を呼ばれただけで、胸が跳ねる。


「次、移動教室?」


「そう。天野も?」


「うん。私は選択のほう」


「ああ、そっちか」


 颯太は立ち止まるのではなく、ひよりが追いつくのを待ってから歩調を合わせた。


 それが嬉しくて、ひよりは口元が緩みそうになるのを少しだけ抑える。


「この前の写真、宮田君大丈夫だった?」


「めちゃくちゃ喜んでた。あいつ、自分が写ってる写真ほとんど持ってなかったみたいでさ」


「よかった」


「天野、結構残してるよな。去年のやつ」


「千夏といっぱい撮ったから。クラスのも消してないし」


「俺、機種変したとき結構消えたんだよな」


「そうだったんだ」


「だから助かった。ありがとな」


「ううん。役に立ったならよかった」


 会話が続いている。


 しかも、自分だけが必死に話題を探している感じではない。


 颯太のほうからも自然に言葉が返ってくる。


(普通に話せてる)


 それだけで嬉しかった。


 階段へ差しかかったところで、颯太がひよりの髪へ一瞬視線を向けた。


「天野、髪型ちょっと変わった?」


「え?」


 足を踏み外すほどではなかったが、ひよりは一瞬だけ階段へ置く足を迷った。


「今日?」


「うん。何かいつもと違う気がした」


「……変えた」


 声が少し上ずる。


「へえ。そっちも似合うな」


「……ありがとう」


 今度こそ、頬が熱くなった。


 颯太は特に深い意味がある様子もなく、そのまま階段を下りていく。けれど、ひよりにとっては十分すぎるほど大きな出来事だった。


(佐伯君が気づいた)


 しかも、似合うと言われた。


 教室が違う颯太が、自分の普段の髪型を覚えていた。


 それだけで心臓が落ち着かない。


「じゃ、俺こっちだから」


 一階へ下りたところで、颯太が廊下の反対側を指した。


「うん。授業頑張ってね」


「天野も。またな」


「またね」


 颯太が離れていく。


 ひよりはすぐに歩き出したものの、数歩進んだところで頬へ手を当てた。


(どうしよう。嬉しい)


 鏡がなくても、自分がかなり笑っていることは分かった。


 そのまま移動教室へ向かう途中、スマートフォンを取り出したくなる。


 千夏に言いたい。


 けれど授業前なので、あとにしたほうがいい。


 そしてもう一人、報告すると約束した相手が頭へ浮かんだ。


(北条君にも言おう)


 昨日、話していいと言ってくれた。


 嫌なときもあるのに、それでも知らないほうが嫌だと言った。


 なら今日のことも、放課後に話そう。


 ひよりはそう決めると、頬に残る熱を冷ますように窓の外へ一度だけ目を向けてから、授業へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み。


「似合うって!?」


 千夏が思わず声を上げたため、ひよりは慌てて身を乗り出した。


「声大きい!」


「ごめん。でもそれはテンション上がるでしょ」


「上がった……」


「顔見れば分かる」


 ひよりは弁当箱を前にしながら、朝より明らかに機嫌がいい。


「しかも佐伯君から気づいたんだよ。私、何も言ってないのに」


「よかったじゃん」


「うん」


 ひよりは嬉しそうに頷いたあと、水色の髪留めへそっと触れた。


「これにしてよかった」


「北条君にも見せるんでしょ?」


「見せるっていうか、普通にこのまま行くからね」


「気づくかな」


「どうだろ。髪留め自体は知ってるし、今日違うのは髪型だけだから」


「この前も位置変えただけで気づいたんでしょ?」


「そうなんだよね」


「じゃあ気づくんじゃない?」


「でも今日は佐伯君も気づいたから」


 その言葉に、千夏は箸を止めた。


「……ひより」


「何?」


「それ、北条君にそのまま言う?」


「言うよ。佐伯君が髪型気づいてくれて、似合うって言ってくれたって」


「そっか」


「何?」


「いや、頑張れ北条君って思って」


「何で北条君が頑張るの?」


「こっちの話」


 千夏は笑って誤魔化した。


 真樹がどんな顔をするか、簡単に想像できる。


 しかも本人は、その理由をまだよく分かっていないらしい。


(今日は荒れそうだなあ)


 もちろん、顔には出さないだろう。


 あの真樹なら、せいぜい少し返事が短くなり、「別に」と言う程度かもしれない。


 それでもひよりは、最近その違いを読めるようになってきている。


「何笑ってるの?」


「何でもないよ。午後も頑張ろ」


「うん」


 ひよりは素直に頷き、弁当へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、桜陵学園の食堂では、真樹が昼食を取りながらスマートフォンへ一度だけ目を向けた。


 通知はない。


 別に連絡が来る予定ではない。


 ひよりは学校にいる。


 自分も学校にいる。


 放課後になれば、いつもの公園へ来ると言っていた。


 それだけだ。


「今日まだ来てないの?」


 向かいから蓮が言った。


 真樹は視線を上げる。


「何が」


「天野さんから連絡」


「何でお前が気にしてんだよ」


「真樹が気にしてそうだから」


「してない」


「今、スマホ見たじゃん」


「時間見ただけ」


「壁に時計あるけど」


「……うるさい」


 蓮が笑う。


 少し離れた席から合流していた玲奈も、二人のやり取りを聞きながら静かに飲み物へ口をつけた。


「今日も会うの?」


 玲奈が尋ねる。


「誰と」


「天野さん」


「たぶん」


「またノアのお散歩?」


「ああ」


「最近よく一緒なのね」


 責めるような口調ではない。


 玲奈は事実としてそう言っただけだった。


 けれど真樹は、返事をするまでにわずかな間を置いた。


「向こうが来るから」


「へえ」


 蓮が面白そうに声を漏らす。


「何だよ」


「いや。昨日もその言い方したのかなと思って」


「何が」


「『向こうが勝手に来る』みたいな」


 真樹の眉が寄る。


「何で分かる」


「言ったんだ」


「……」


「で、天野さん何て?」


「別に」


「真樹が今ここで不機嫌になったってことは、何かあったな」


 蓮は楽しそうだが、玲奈は少し違うところを見ていた。


 真樹は昔から、自分に必要のないことをわざわざ説明しない。


 誰かと会う予定についてからかわれれば、以前なら「関係ない」で終わらせていたはずだ。


 それが今は、「向こうが来るから」と理由まで口にする。


 しかも、ひよりが来ること自体を否定していない。


「私も今度、ノアに会いたいな」


 玲奈がそう言うと、真樹は彼女を見る。


「家に連絡すればいいだろ」


「お散歩のときは?」


「何で散歩」


「天野さんとも、もう一度話してみたいし」


 真樹はすぐに答えなかった。


 玲奈はその沈黙を見ながらも、笑みを崩さない。


「嫌なら無理にとは言わないわ」


「嫌とは言ってない」


「じゃあ、今度都合が合ったら」


「……まあ」


 真樹は曖昧に返し、昼食へ視線を戻した。


 玲奈はそれ以上押さなかった。


 ただ胸の奥に、わずかな重さが残る。


 自分は真樹と長く知り合っている。


 ノアが小さかったころも知っているし、北条家との付き合いもある。


 それでも最近、真樹が日常の中で誰を待っているのかと考えれば、そこへ自然にひよりの名前が入る。


(焦っても仕方ないわよね)


 玲奈は自分へそう言い聞かせた。


 ひよりが悪いわけではない。


 真樹だって、まだ何かを決めたわけではない。


 だから自分も、自分の気持ちだけで二人の関係へ勝手な意味をつけるつもりはなかった。


「ところで真樹」


 蓮が再び口を開く。


「天野さん、佐伯君と今日話せたかな」


 真樹の箸が止まった。


「……知らない」


「気になる?」


「ならない」


「報告されるんでしょ?」


「何で知ってんだよ」


「前にそういう話してたじゃん」


「お前、本当に余計なことだけ覚えてるな」


「真樹ほどじゃないよ」


「何が」


「天野さんの予定とか、髪留めとか、クラスメイトの名前とか」


 真樹は蓮を睨んだ。


 蓮は笑いながら両手を軽く上げ、それ以上は追及しない。


 ただ、その横で玲奈は「髪留め」という言葉だけを静かに拾っていた。


 知らない話が、少しずつ増えている。


 その事実に寂しさを覚えながらも、玲奈は表情へは出さなかった。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 ひよりは教室で帰り支度をしながら、いつもより少しだけ時計を気にしていた。


 今日は海斗から勉強を教えてほしいとは頼まれていないため、そのまま帰れる。


「天野」


 名前を呼ばれて振り向くと、海斗が自分の席から手を上げていた。


「何?」


「この前の小テスト、九十四だった」


「よかったじゃん!」


「百じゃなかったけどな」


「十分でしょ」


「天野先生のおかげ」


「先生じゃないから」


「また分かんないとこ出たら頼むわ」


「毎日は駄目だよ」


「分かってるって」


 海斗は笑ったあと、ひよりの髪へ目を向ける。


「今日また髪違う?」


「橘君も気づいたの?」


「も?」


 ひよりは「あ」と声を漏らした。


「誰かにも言われた?」


「佐伯君」


「へえ」


 海斗の返事がほんの少しだけ遅れた。


 本人もその間に気づいたのか、すぐに笑う。


「佐伯、よく気づいたな」


「うん。似合うって言ってくれた」


「そっか」


 ひよりの表情が明るい。


 海斗はそれを見て、胸の奥へ小さな引っかかりを覚えた。


 何が気になるのか、自分でもよく分からない。


 ただ、以前からひよりが颯太のことを意識しているらしいことは、何となく察していた。


「橘君?」


「ん?」


「どうしたの?」


「いや。俺も似合うと思うよ」


「ありがとう。橘君、最近髪褒めてくれるね」


「気づいたから言ってるだけ」


「そっか」


 ひよりは素直に笑い、鞄を肩へ掛けた。


「じゃあ私、行くね」


「北条?」


「うん。ノアの散歩」


「今日もか」


「今日も」


「ほんとよく会うな」


「そうかな」


「毎日って結構じゃない?」


「でも、気づいたらそうなってたかも」


 ひよりはそこで初めて少し考えるような顔をした。


 最初はノアに会いたくて公園へ行っていた。


 それが今では、真樹に会うことまで含めて当たり前になっている。


「じゃあまた明日」


 海斗の声で思考が戻る。


「うん。また明日」


 ひよりは教室を出た。


 海斗はその背中を見送ったあと、自分の机へ視線を落とす。


(北条、今日もか)


 ただの友達なら、それ自体はおかしくない。


 それでも最近、ひよりの放課後を思い浮かべると、かなりの頻度で「北条」という名前が入ってくる。


 なぜそれを気にしているのか、海斗はまだ考えないことにした。


     ◇ ◇ ◇


 校門を出たひよりは、少し歩いたところでスマートフォンを取り出した。


『今学校出たよ』


 送ってから数十秒ほどで返信が来る。


『俺も出た』


『今日は遅くならなかった』


『佐伯は?』


 ひよりは歩きながら足を止めそうになった。


 真樹のほうから聞いてきた。


『話せたよ!』


 すぐに送る。


 続けて、


『詳しくは公園で』


 と打った。


 既読はすぐについた。


『別に詳しくなくていい』


「絶対気になってるじゃん」


 ひよりは笑いながら、


『じゃあ言わない』


 と返す。


 少し間が空いた。


『好きにしろ』


 ひよりは画面を見つめ、口元を緩めた。


(これ、たぶん聞きたい『好きにしろ』だ)


 自分が真樹の言葉を勝手に分類しているだけなのに、最近は少しずつ当たっている気がする。


『やっぱり言う』


『勝手にしろ』


『待っててね』


『急ぐな』


『はーい』


 スマートフォンをしまい、ひよりはいつもの道を歩き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ近づいたころ、ひよりは遠くからノアの姿を見つけた。


 その隣に真樹もいる。


 今日はどちらが早かったのか分からない。


 けれど、真樹が入口の方向を向いていることにはすぐ気づいた。


(待ってた?)


 そう思うと、少し嬉しくなる。


 ノアが先に反応して尻尾を振り始め、ひよりは自然と笑顔になった。


「お待たせ」


「別に待ってない」


「昨日、待つって言ったじゃん」


「連絡あるならな」


「今日は連絡したよ」


「だから帰ってないだろ」


 真樹はそう言いながら、ひよりを一度上から下まで見る。


 制服。


 鞄。


 黒犬のキーホルダー。


 そして髪。


 ひよりはその視線に気づいたが、あえて何も言わなかった。


「ノア、こんにちは」


 しゃがんでノアを撫でる。


 真樹はまだ何も言わない。


(気づいてない?)


 ひよりは少しだけ期待していた自分に気づき、ノアの毛を撫でながら苦笑した。


 今日は颯太が気づいてくれた。


 それだけでも十分嬉しい。


 真樹まで気づく必要はない。


「じゃあ行くか」


「うん」


 二人で歩き始める。


 ひよりは真樹の隣へ並び、少し待ってみた。


 何も言わない。


「……北条君」


「何」


「今日、何かない?」


「何が」


「何でもない」


「意味分かんない」


 ひよりは少し頬を膨らませる。


 その顔を見た真樹が眉を寄せた。


「髪のこと?」


 ひよりが勢いよく顔を上げた。


「気づいてたの!?」


「会ったときから」


「じゃあ言ってよ!」


「何で」


「私、今ちょっと残念だったんだけど!」


「知らねえよ」


「北条君、意地悪!」


「聞かれなかったから」


「昨日から褒めるところ探す話してるでしょ!」


「まだ続いてんのかよ」


 真樹は呆れたように言う。


 ひよりは髪へ触れながら、少しだけ顔を背けた。


「今日は使い方変えたの」


「見れば分かる」


「似合う?」


「……」


「北条君?」


「自分で聞くのやめろ」


「だって言わないから」


 真樹は一度視線を逸らし、それからひよりの髪へ戻した。


「似合ってるんじゃない」


「ほんと?」


「ああ」


 ひよりの顔が明るくなる。


「今日、二人目」


 真樹の表情が止まった。


「……二人目?」


「うん」


 ひよりは嬉しさを隠すことなく続ける。


「佐伯君も気づいてくれたの。今日、廊下で会って少し一緒に歩いたんだけど、髪型違うって言ってくれて」


「……へえ」


「それでね、似合うって」


「……そう」


 ひよりは真樹の横顔を見る。


 さっきまでより明らかに返事が短い。


「北条君」


「何」


「今、嫌な『別に』になる前の顔してる」


「そんな顔ない」


「あるよ」


「お前の妄想」


「でも今ちょっと不機嫌でしょ」


「別に」


「出た」


 ひよりが笑う。


 真樹は前を向いたまま歩いていた。


 胸の奥が、分かりやすいほど面白くない。


(何で佐伯まで気づいてんだよ)


 ひよりの髪型が変わった。


 それに気づいたことを、真樹は少しだけ自分だけのもののように感じていた。


 もちろん、美月や千夏、海斗も気づくことがあるのは知っている。


 それでも颯太だけは別だった。


 ひよりが好きな相手。


 ひよりが褒められれば、こんな顔で笑う相手。


(しかも似合うって言ったのかよ)


 自分も今、同じことを言った。


 けれど、ひよりの反応は颯太の話をしているときのほうが明らかに嬉しそうに見える。


 それがまた気に入らない。


「でもね」


 ひよりの声が続く。


「すごく嬉しかった」


「見れば分かる」


「分かる?」


「顔に出てる」


「そっか」


 ひよりは照れたように笑った。


「前だったら、佐伯君に髪型のこと言われたら何も返せなかったと思う。でも今日はちゃんとありがとうって言えたんだよ」


「……よかったな」


 今度は少しだけ、言葉が柔らかかった。


 ひよりが真樹を見る。


「北条君、ちゃんと聞いてくれるんだね」


「話していいって言っただろ」


「嫌じゃない?」


「嫌なときもある」


「今日も?」


「……ある」


 真樹は正直に答えた。


 ひよりは驚いたあと、少し困ったように笑う。


「じゃあ何で聞いてくれるの?」


「昨日言っただろ。知らないほうが嫌だから」


「難しいね」


「俺もそう思う」


 ひよりはしばらく黙った。


 ノアの足音が遊歩道へ一定のリズムで響き、冷たい風が制服のスカートを揺らしていく。


「でも、ありがとう」


「何が」


「嫌なのに聞いてくれて」


「……別に」


「今のは?」


「分類すんな」


「照れてる?」


「違う」


 ひよりは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、真樹の胸に残っていた不機嫌さが少しだけ薄れる。


 颯太に褒められて嬉しそうなひよりを見るのは、面白くない。


 それでも、ひよりが嬉しかったこと自体まで否定したいわけではなかった。


(……何なんだよ、本当に)


 嫌なのに聞きたい。


 聞けば腹が立つのに、話してくれると少し安心する。


 颯太に向ける笑顔は面白くないのに、ひよりが嬉しそうにしていること自体は嫌ではない。


 自分の中で、矛盾したものばかりが増えていく。


     ◇ ◇ ◇


 公園を半周ほどしたところで、ひよりは昨日買った犬用クッキーを一枚だけノアへ与えた。


 真樹がいつものように原材料表示を確認してから許可し、ひよりが「待て」と声をかけると、ノアは今日も素直にその場で待った。


「よし」


 合図とともにクッキーを食べるノアを見て、ひよりは満足そうに笑う。


「完璧」


「もうお前の『待て』も普通に聞くな」


「信頼されてる?」


「されてるんじゃない」


「やった」


 ひよりはノアの頭を撫でる。


 真樹はその姿を見ながら、昨日自分が考えたことを思い出していた。


 最初からひよりがいるように感じ始めている。


 公園を歩くとき、自分の横にひよりがいる。


 ノアがひよりへ寄っていく。


 くだらない話をする。


 別れ際には翌日のことを確認する。


 それが普通になりすぎていた。


「北条君」


「何」


「今日もココア買ってくれる?」


「調子乗るな」


「冗談だよ」


「お前なら本気で言いそうなんだよ」


「じゃあ今日は私が買おうか?」


「いらない」


「コーヒー」


「昨日飲んだ」


「毎日飲めるでしょ」


「何で毎日奢り合うんだよ」


「友達っぽくない?」


 昨日も聞いた言葉だった。


 真樹は一瞬だけ黙る。


「……そうかもな」


「でしょ?」


 ひよりは満足そうに頷く。


 その「友達」という言葉が、今日も胸の奥へ引っかかった。


 真樹は昨日から、その理由を少しずつ考え始めている。


 友達なのは間違っていない。


 ひよりもそう思っている。


 自分もそう思っているはずだ。


 それなのに、ひよりが「友達」と口にするたび、何かをきれいに線引きされたような気分になる。


(俺は何を期待してんだ)


 答えは浮かばない。


 ただ、以前なら考える前に押し込めていた疑問が、最近は消えなくなっていた。


「そういえば」


 ひよりが歩きながら真樹を見る。


「千夏が今度、散歩一緒に行こうかなって」


「……藤崎が?」


「うん」


「何で」


「ノアに会いたいんじゃない?」


「本当に?」


「たぶん」


 真樹は以前会った千夏の顔を思い出した。


 ひよりのことをよく見ている。


 そして自分の反応まで面白がっているようなところがある。


「嫌?」


「別に」


「また嫌そう」


「藤崎はお前よりうるさそうだから」


「失礼だなあ。千夏いい子だよ」


「知ってる」


「一回しか会ってないのに?」


「お前見てれば分かる」


 ひよりが足を少し緩めた。


「どういう意味?」


「お前があれだけ信用してるんだから、悪いやつじゃないだろ」


 真樹は何でもないことのように言った。


 ひよりはすぐには返事をしなかった。


「……北条君」


「何」


「今日の褒めるところ見つけた」


「また?」


「私じゃなくて千夏のことだけど」


「何が」


「私が大事にしてる人のこと、ちゃんとそういうふうに見てくれるところ」


 真樹はひよりを見る。


「千夏は私の大事な親友だから。北条君が悪く言わないの、嬉しい」


「うるさそうとは言ったけど」


「そこは事実だからいい」


「いいのかよ」


「私も千夏に言うし」


 ひよりは笑った。


「じゃあ今度、本当に一緒に来てもいい?」


「俺に許可取ることじゃないだろ」


「北条君もいるから聞いてるの」


「……好きにすれば」


「これは来てもいい『好きにすれば』?」


「分類やめろって」


「じゃあ来てもいいんだ」


「ノアが嫌がらなきゃな」


「ノア、千夏のこと嫌いじゃなかったよ」


「ならいいだろ」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


 その様子を見ながら、真樹は昼休みに玲奈も同じようなことを言っていたのを思い出す。


「一ノ瀬も来たいって言ってた」


「え?」


 ひよりの反応がわずかに遅れた。


「玲奈さん?」


「ああ」


「今日?」


「昼に」


「そっか」


 ひよりは前を向いた。


 胸の中に浮かんだものは、嫌という感情ではなかった。


 玲奈は真樹の幼馴染で、ノアが小さかったころから知っている。


 散歩へ来たいと言うのも自然だ。


 むしろ自分よりずっと前から、真樹とノアのことを知っている。


(玲奈さんが来たら、どんな感じなんだろ)


 自分が知らない真樹の話を、玲奈はたくさん知っている。


 それを聞いてみたい気持ちもある。


 けれど同時に、いつもの散歩へ玲奈が加わった光景を想像すると、胸の奥へ説明しづらい落ち着かなさが生まれた。


「嫌?」


 今度は真樹が聞いた。


 ひよりは顔を上げる。


「何で?」


「ちょっと顔変わった」


 また気づかれた。


「嫌じゃないよ」


「本当に?」


「うん。玲奈さんとも話してみたいし」


「ならいいけど」


 真樹はそれ以上追及しなかった。


 ひよりも自分の中の小さな違和感を深く考えなかった。


 玲奈のことをまだよく知らないから、少し緊張するだけだろう。


 そう考えれば自然だった。


「北条君」


「何」


「玲奈さんが来たら、昔の北条君の話聞いていい?」


「駄目」


「何で!」


「余計なことしか言わないから」


「神崎君も同じこと言われてたよね」


「あいつらは信用できない」


「幼馴染と親友なのに?」


「だからだよ」


 真樹の即答に、ひよりは声を立てて笑った。


     ◇ ◇ ◇


 日が傾き始めたころ、二人は公園の入口へ戻ってきた。


 今日は休日ほど長く歩いていない。


 制服姿の学生が帰宅する時間帯でもあり、近くの道路からは車の音が途切れず聞こえている。


「明日も来る?」


 ひよりがノアを撫でながら尋ねた。


 真樹は昨日、自分から同じようなことを聞いたのを思い出した。


「ああ」


「じゃあ私も来る」


「学校は?」


「普通。たぶん遅くならないと思う」


「橘に教えるとかないの」


「今のところないよ」


「佐伯は?」


「会えたら話したいけど」


 真樹の眉がわずかに動く。


 ひよりはそれを見逃さなかった。


「また嫌な顔した」


「してない」


「でも聞いてくれるんでしょ?」


「……聞く」


「今日よりもっと話したら?」


「聞く」


「一緒に帰ることになったら?」


 真樹の返事が止まる。


 ひよりは少しだけ笑った。


「ほら」


「……連絡しろ」


「え?」


「遅くなるなら」


「待っててくれる?」


「昨日も言っただろ」


「もう一回聞きたい」


「面倒」


「北条君」


 真樹はしばらく黙っていた。


 ひよりは急かさず、ノアの首元を撫でながら待つ。


「……連絡あるなら待つ」


 昨日と同じ言葉。


 それでも、直接聞くと少し違って聞こえた。


「ありがとう」


「別に」


「会えて嬉しいは?」


「言わない」


「まだ駄目かあ」


「何でそこだけ諦めないんだよ」


「いつか言いそうだから」


「言わない」


「でも楽しかったは言えるようになったじゃん」


「……」


「今日も楽しかった?」


 真樹は一瞬だけ迷った。


 昨日なら、メッセージで答えた。


 今日は目の前にひよりがいる。


 ひよりは期待するようにこちらを見ている。


「……楽しかった」


 真樹が答えると、ひよりの目が丸くなった。


「言った!」


「うるさい」


「直接言った!」


「聞いたのお前だろ」


「だって北条君、こういうの絶対ごまかしてたじゃん」


「最近お前がしつこいから」


「じゃあしつこくしてよかった」


 ひよりは本当に嬉しそうだった。


 真樹はその顔を見て、視線を少し逸らす。


「私も楽しかったよ」


「そう」


「佐伯君と話せたのも嬉しかったし、北条君と話せたのも楽しかった」


 並べられた名前に、胸の奥がまた少しだけざわつく。


 けれど、今度は「佐伯」の部分だけへ反応するのをやめた。


 ひよりが今日嬉しかったこと。


 その中に、自分と過ごした時間も入っている。


 それなら今は、それでいい。


「じゃあまた明日」


 ひよりが立ち上がる。


「ああ」


「明日は北条君から何か話してね」


「何を」


「学校のこと。私ばっかり話してるから」


「話すことない」


「神崎君と何話したとか」


「絶対嫌」


「玲奈さんは?」


「何でお前に報告すんだよ」


「私だけ佐伯君とか橘君の話してるの不公平じゃない?」


 真樹は言葉に詰まった。


 確かに、ひよりは自分の学校で起きたことをかなり話している。


 千夏のこと。


 颯太のこと。


 海斗のこと。


 授業のこと。


 自分は蓮や玲奈のことを話すことはあっても、ひよりほど細かくはない。


「……気が向いたら」


「約束?」


「してない」


「じゃあ明日聞く」


「人の話聞けよ」


 ひよりは笑いながら手を振った。


「また明日、北条君。ノアもまたね」


 ノアの尻尾が揺れる。


 真樹も片手を軽く上げた。


「また明日」


 ひよりが歩き出す。


 数歩進んだところで、何かを思い出したように振り返った。


「北条君!」


「何」


「今日、髪気づいてくれてありがとう!」


 周囲に聞こえるほど大きな声ではないものの、少し離れた場所からまっすぐ届いた。


 真樹は一瞬だけ目を見開く。


「……別に!」


「それ、照れてるやつ!」


「帰れ!」


 ひよりは楽しそうに笑い、今度こそ公園を出ていった。


 真樹はその背中を見送りながら、息を吐く。


 隣ではノアが静かに座っていた。


「……何だよ」


 ノアは真樹を見上げる。


「佐伯も気づいたんだってさ」


 当然、ノアは何も答えない。


「別に俺のほうが先に気づいてたとか、そういう話じゃないからな」


 言ってから、真樹は自分で眉を寄せた。


(何を犬相手に言い訳してんだ、俺)


 ノアの頭を一度撫で、帰路へ向かう。


 けれど歩き始めても、ひよりが颯太の話をしたときの笑顔が頭へ残っていた。


 同時に、自分が「似合ってる」と言ったときの笑顔も残っている。


 どちらがどう違うのかまで比べ始めそうになり、真樹は考えるのをやめようとした。


 それでも完全には消えない。


(佐伯に褒められたほうが、嬉しそうだったよな)


 当たり前だ。


 ひよりは颯太が好きなのだから。


 それを知っている。


 分かっている。


 なのに面白くない。


 真樹はポケットへ片手を入れながら、隣を歩くノアへ目を向けた。


「……俺、やっぱ天野のこと気にしすぎじゃないか?」


 昨夜初めて浮かんだ疑問を、今度は声に出していた。


 ノアは真樹を一度見上げたあと、何事もなかったように前を向く。


「お前に聞いても分かんないよな」


 真樹も前を向いた。


 ただ、その疑問だけは昨夜より少し重くなっていた。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


 ひよりは自室の机で宿題を終え、スマートフォンを手に取った。


 真樹からはまだ何も来ていない。


 自分から送ろうか迷っていると、ちょうど画面上部へ通知が表示された。


『宿題』


「またそれ」


 ひよりは笑いながら返信する。


『終わりました』


『北条君は?』


『終わった』


『偉い』


『またそれか』


『今日の褒めるところ』


『いらない』


『私は今日髪褒めてもらった』


 送信してから、少し考える。


『佐伯君と北条君に』


 既読がついた。


 返信が来ない。


「……あ」


 ひよりは口元を押さえた。


(これ、嫌なやつだ)


 少し待つと、


『よかったな』


 とだけ届く。


 やはり短い。


『北条君』


『何』


『不機嫌?』


『違う』


『ほんと?』


『ほんと』


『佐伯君の話したから?』


 今度は既読がついてから少し間が空いた。


『それもある』


 ひよりは驚いた。


 否定されると思っていた。


『正直』


『お前が聞くからだろ』


『嫌だった?』


『少し』


 ひよりはベッドへ移動し、画面を見つめる。


 真樹がここまで素直に答えるのは珍しい。


『ごめん』


 送ると、すぐに返事が来た。


『何で謝るんだよ』


『嫌なのに話したから』


『話していいって言っただろ』


『でも』


『お前が話さなくなるほうが嫌』


 ひよりの指が止まった。


 昨日、直接聞いた内容とほとんど同じだ。


 それでも文字で見ると、不思議なくらい胸へ残る。


『何で?』


 送ってから、ひよりは少し迷った。


 真樹自身も分からないと言っていた。


 だから答えられないかもしれない。


 案の定、しばらく返信は来なかった。


 やがて、


『分からない』


 と届く。


 続けて、


『でもお前が何してたか知らないのは嫌』


 ひよりは画面を見つめたまま動けなかった。


(友達だから……だよね?)


 そう考える。


 自分だって真樹の学校でのことを知りたい。


 今日も、明日は真樹の学校の話を聞くと言った。


 蓮や玲奈とどんな話をしているのか。


 真樹が学校でどんな顔をしているのか。


 自分が知らない時間の真樹を、少し知りたい。


 なら同じなのかもしれない。


『私も北条君の学校の話知りたいよ』


 ひよりは送った。


『明日聞くからね』


『覚えてたのか』


『もちろん』


『面倒』


『でも話して』


『気が向いたら』


『神崎君の話』


『嫌』


『玲奈さんの話』


 今度は少し間が空いた。


『何で一ノ瀬』


『幼馴染だから学校でもよく話すのかなって』


『普通』


『どんな話するの?』


『家のこととか学校のこととか』


『そっか』


 ひよりは返信したあと、胸の奥にまた小さな違和感が生まれるのを感じた。


 玲奈は真樹と同じ学校にいる。


 家同士の付き合いもある。


 幼いころから知っている。


 自分には分からない話を、二人なら自然にできる。


(何か、ちょっといいな)


 羨ましい。


 たぶんそれだけだ。


 自分も真樹の昔を知りたいから。


『今度玲奈さんが散歩来たら、昔の北条君の話聞く』


『やめろ』


『絶対聞く』


『余計なこと吹き込まれるぞ』


『楽しみ』


『来させるのやめるか』


『それは駄目』


『何で』


『玲奈さんとも話したいから』


 送ったあと、ひよりは少し考えた。


『北条君のことも知りたいし』


 真樹からの返信が止まった。


 一分ほどして、


『俺に聞けばいいだろ』


 と届く。


 ひよりは少し笑う。


『じゃあ聞いたら答えてくれる?』


『内容による』


『じゃあ明日聞く』


『何聞く気だよ』


『秘密』


『嫌な予感しかしない』


『楽しみにしてて』


『しない』


 ひよりは笑いながら枕へ背中を預けた。


 そのあと何度かやり取りを続け、最後には今日も同じ言葉を送る。


『おやすみ。また明日』


 少しして、


『おやすみ。また明日』


 と返ってきた。


 ひよりはスマートフォンを胸元へ置き、天井を見上げた。


 今日は颯太と話せた。


 髪型にも気づいてもらえた。


 似合うと言われた。


 思い出すだけで今も嬉しくなる。


(やっぱり佐伯君のこと好きだな)


 その気持ちははっきりしている。


 いつか、自分の口で伝えたい。


 今度こそ逃げたくない。


 それなのに、そのすぐあとで浮かんだのは、真樹が少し不機嫌そうに「嫌なときもある」と認めた顔だった。


 そしてメッセージの言葉。


『お前が話さなくなるほうが嫌』


 ひよりは胸元のスマートフォンへ指を添える。


(北条君って、ほんと難しい)


 でも、その難しさを少しずつ分かるようになっていることが嬉しい。


 明日は何を話そう。


 真樹の学校でのことを聞いてみたい。


 蓮や玲奈のことも。


 今日みたいに自分のことばかり話すのではなく、真樹のことをもう少し知りたい。


 そんなことを考えながら、ひよりは部屋の灯りを消した。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、真樹は自室でスマートフォンを握ったまま、ひよりとのやり取りを何度も見返していた。


『北条君のことも知りたいし』


 その一文で指が止まる。


(何でこれで嬉しくなるんだよ)


 自分でも分からない。


 ひよりが颯太に髪型を褒められたと聞いたときは、あれほど面白くなかった。


 けれど、自分のことを知りたいと言われただけで、今度は気分が上向いている。


 感情が忙しすぎる。


 真樹はベッドの背もたれへ身体を預け、目を閉じた。


 今日のひよりの笑顔が浮かぶ。


 颯太の話をするときの、照れたような笑顔。


 自分が髪型に気づいたと知ったときの、驚いて嬉しそうにした笑顔。


 ノアへクッキーをあげるときの笑顔。


 別れ際、「楽しかった」と言った自分へ向けた笑顔。


 全部同じひよりなのに、自分はその一つ一つを妙に覚えている。


(気にしすぎだろ)


 昨夜も思った。


 今日、公園から帰る途中にも思った。


 もう偶然では済ませにくいくらい、ひよりのことを考えている時間が増えている。


 学校にいても、放課後に会うことを思い出す。


 通知が来ればひよりかもしれないと思う。


 颯太や海斗の名前を聞けば気になる。


 蓮がひよりと連絡先を交換しようとすれば止めたくなる。


 玲奈が散歩へ来たいと言えば、なぜかすぐには頷けない。


 そしてひより本人から「友達」と言われれば、それで合っているはずなのに少しだけ引っかかる。


(……何なんだよ)


 今までなら、その疑問を面倒だと切り捨てていた。


 けれど今日は、もう少しだけ考えてしまう。


 ひよりが颯太を好きだから、自分は応援すればいい。


 友達なら、それが普通なのかもしれない。


 けれど真樹は、ひよりに「頑張れ」と言えたことが一度もない。


 颯太とうまく話せたと聞けば嬉しそうなひよりを見ることはできる。


 その笑顔が消えてほしいとは思わない。


 ただ、その笑顔の理由が颯太であることだけが面白くない。


(……これ、何だ)


 胸の奥へ浮かびかけた答えを、真樹はまだ言葉にしなかった。


 そもそも、言葉にできるほど確かな形にはなっていない。


 ただ一つ分かるのは、以前のように何も考えず「友達だから」で全部を片づけることが、少しずつ難しくなっているということだった。


 真樹はスマートフォンを枕元へ置き、部屋の端で伏せているノアへ視線を向ける。


「明日も天野来るって」


 ノアが顔を上げた。


「……俺も知ってるけど」


 自分で言ってから、真樹は苦笑する。


 ひよりが来る。


 それを楽しみにしている。


 その事実だけなら、もう否定する必要はない。


 けれど、その先にあるものへ名前をつけるには、真樹はまだ少しだけ臆病だった。

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