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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第26話 待ち合わせじゃないはずなのに



 日曜日の午後一時二十一分。


 天野ひよりはリビングのソファに座りながらスマートフォンを眺め、画面上部に表示された時刻を確認したあと、何事もなかったように端末を伏せた。


 テレビでは昼の情報番組が流れており、ダイニングテーブルでは悠一がコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいる。窓から差し込む冬の日差しは明るいものの、ガラス越しに見える庭木の枝が風に揺れている様子を見る限り、外はそれなりに寒そうだった。


 ひよりは膝の上に置いたクッションを抱え直し、数分ほどテレビへ視線を向けていたものの、やがてもう一度スマートフォンへ手を伸ばした。


 一時二十三分。


(まだ二分しか経ってない)


 自分でも少しおかしくなり、ひよりは小さく息を吐いた。


 真樹と会うのは午後二時ごろ。


 昨日の別れ際に、月曜日にまた会うのかと尋ねたところ、真樹のほうから「明日は?」と聞いてきた。そのまま今日もノアの散歩へ行くことになり、夜のメッセージでも「また明日」と確認している。


 だから、今日会えること自体は分かっている。


 分かっているのに、なぜか朝から時間が進むのが遅く感じた。


(昨日も会ったのにね)


 平日なら学校があるので、授業や千夏との会話をしているうちに放課後になる。けれど休日は自宅で過ごしているせいか、二時という時刻を意識する時間が長い。


 ひよりがクッションへ顎を乗せたところで、向かい側から悠一の声が飛んできた。


「何時?」


「え?」


「さっきから時計見てるだろ」


「見てないけど」


「見てる。スマホ三回くらい確認してた」


「お兄ちゃんこそ私のこと見すぎ」


「妹が日曜の昼から落ち着かないんだから気になるだろ」


「落ち着いてます」


 ひよりは言い切ったものの、悠一の視線がじっと向けられているのを感じ、わざとテレビへ顔を向けた。


 しかし、すぐ横のソファで大学の課題をしていた美月が小さく笑う。


「一時二十三分だったよ」


「お姉ちゃん!」


「今は二十四分」


「実況しなくていいから!」


「二時だっけ?」


「……そうだけど」


 ひよりが渋々答えると、悠一は雑誌を閉じた。


「今日も北条と?」


「昨日言ったでしょ」


「確認」


「ノアの散歩だよ」


「二日連続で?」


「ノアは毎日散歩するでしょ?」


「北条だけでもできるだろ」


「私も行きたいの」


 そこまで言ってから、ひよりは兄の顔を見る。


 悠一の眉がわずかに上がった。


「……何?」


「いや」


「その顔やめて」


「俺、何も言ってないぞ」


「言いたそうな顔してる」


 悠一は口を開きかけたものの、隣から美月の視線を受けて黙った。


 昨日から何度も同じやり取りをしている。


 ひよりにとっては、ノアと散歩することも、真樹と話すことも、もう特別な説明を必要とするものではなくなっていた。放課後になれば公園へ行き、休日でも予定が合えば会う。それが最近の自分の日常へ自然に入り込んでいる。


「そろそろ準備しようかな」


 ひよりが立ち上がると、悠一が壁の時計を見た。


「まだ一時二十五分だぞ」


「着替えるの」


「昨日も十二分前に着いたんだろ?」


「何で知ってるの?」


「昨日自分で言ってた」


「……そうだっけ」


「今日も早く行く気か?」


「別にいいでしょ」


「二時の約束なのに?」


「約束っていうか、大体二時」


 そう答えながら、ひよりは階段へ向かう。


 背後から美月の声がした。


「ひより」


「何?」


「昨日と同じ服にしないの?」


「しないよ。昨日着たもん」


「北条君に似合ってるって言われたのに?」


 ひよりの足が階段の一段目で止まった。


「……何でそこ拾うの」


「嬉しそうに報告してたから」


「普通に話しただけ!」


「ふうん」


 美月の声には明らかに笑いが混じっている。


 ひよりは頬が少し熱くなるのを感じながら、逃げるように階段を上った。


     ◇ ◇ ◇


「なあ、美月」


 ひよりの部屋のドアが二階で閉まったあと、悠一が低い声で妹へ話しかけた。


「何?」


「昨日より早く準備してないか?」


「してるね」


「何で?」


「本人に聞けば?」


「聞いたら怒るだろ」


「分かってるなら聞かないほうがいいよ」


 美月は膝の上のノートパソコンへ視線を戻した。


 悠一はしばらく黙っていたが、納得できないらしく、腕を組んでソファへ深く座り直す。


「佐伯ってやつが好きなんだよな?」


「ひよりがそう言ってるならね」


「じゃあ北条は何なんだよ」


「友達でしょ」


「毎日会う?」


「会う友達もいるんじゃない?」


「休みの日も二日連続?」


「いるんじゃない?」


「服褒められて喜ぶ?」


「友達に褒められたら嬉しいでしょ」


「明日も会うか向こうから聞かれて喜ぶ?」


 美月の指がキーボードの上で止まった。


 兄の質問を一つずつ否定していけば、どれも友達同士で成立する範囲ではある。けれど、それらが全部重なっていることまで無視するほど、美月は鈍くなかった。


「お兄ちゃん」


「何だよ」


「ひよりがまだ何も考えてないんだから、お兄ちゃんが先に答えを決めないほうがいいよ」


「答え?」


「友達なのか、それ以外なのかってこと」


 悠一が黙る。


 美月は画面から目を離し、二階へ続く階段へ視線を向けた。


 ひよりが颯太を好きなのは疑っていない。颯太を見かけた、話せた、連絡が来たと話すときのひよりには、昔から分かりやすい恋をしている女の子らしい緊張と喜びがある。


 一方で、真樹について話すときの妹には、それとはまったく違う近さがあった。


 格好いいと褒めたことも、感じが悪いと腹を立てたことも、ノアを大切にしているところを好きだと思っていることも、くだらないメッセージをしたことも、ひよりは同じ温度で話す。


 好きな相手の前で失敗しないよう慎重になるひよりが、真樹に対しては失敗すること自体をあまり恐れなくなっている。


(まだ本人が気づく必要はないけど)


 美月はそう思った。


 何より、ひよりは人の顔色をよく見る。


 家族には遠慮しないが、外では明るく振る舞いながら、嫌われないように言葉を飲み込むことも多い。そんな妹が、最近は真樹の話をするときだけ「こんなこと言ったら変かな」と悩む様子をあまり見せない。


 その変化が何を意味するのか、美月にもまだ決めつけるつもりはなかった。


「とりあえず、尾行は禁止だからね」


「してないだろ」


「今日もしないでね」


「しないって」


「偶然を装うのも」


「分かってるよ」


 悠一は不満そうに答え、再び雑誌を開いた。


 美月はそんな兄を横目で見ながら、もし本当に真樹と会う日が来たら、悠一より自分のほうが相手をよく見るだろうなと思った。


     ◇ ◇ ◇


 午後一時四十三分。


 北条家の玄関前では、ノアがすでに外へ出る気満々で真樹を見上げていた。


「まだ早い」


 真樹がそう言っても、ノアは玄関の扉から離れようとしない。


 首輪とリードは装着済みで、あとは出発するだけだ。


 真樹はスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、画面には一時四十三分と表示されている。


(昨日、あいつ十二分前に来たんだよな)


 同じことをするなら、一時四十八分には公園へいるかもしれない。


 別に競争ではない。


 昨夜もそう言った。


 ひよりが勝手に「明日も勝つ」と宣言しただけで、自分には付き合う義理などない。


 それでも真樹はスマートフォンをポケットへ戻すと、玄関の扉へ手を掛けた。


「……行くか」


 ノアが嬉しそうに尻尾を振る。


 敷地を出ていつもの道へ向かうと、冷たい風が頬を撫でた。昨日より雲が少し増えており、日差しが隠れるたびに体感温度が下がる。


 真樹は歩きながら、無意識にスマートフォンの入ったポケットを気にした。


 まだひよりから連絡はない。


(別に来るって分かってるんだから、連絡なくてもいいだろ)


 そう思い直した直後、ポケットが震えた。


 反射的に取り出す。


『今から出る』


 ひよりだった。


 続けて、


『今日は走らないで行きます』


 と届く。


 真樹は歩きながら返信した。


『最初から走るな』


 数秒後、


『北条君もう出た?』


 と来る。


 真樹は少し迷ったあと、


『出た』


 と返した。


『早くない?』


『お前が言うな』


『今日は私が先に着く予定なのに』


『知らん』


『急がないでね』


『指図すんな』


 真樹は画面を閉じた。


 隣を歩くノアがこちらを見上げる。


「何だよ」


 当然返事はない。


「別に急いでないからな」


 ノアは何も気にせず前へ進んでいく。


 真樹も歩調を変えなかった。


 少なくとも、自分ではそのつもりだった。


     ◇ ◇ ◇


 午後一時五十一分。


 ひよりが公園の入口へ近づくと、遠目にも大きな黒い姿が見えた。


「あっ」


 思わず声が漏れる。


 ノアが先にひよりへ気づいたらしく、耳を動かしたあと、隣にいる真樹を見上げてから尻尾を振り始めた。


 真樹もこちらを見る。


「……負けた」


 ひよりは思わず呟き、歩く速度を少し上げた。


 走るなと言われたばかりなので、ぎりぎり早歩きに留める。


「早い!」


 近づくなり抗議すると、真樹はスマートフォンで時刻を確認した。


「一時五十二分」


「二時って言ったじゃん」


「大体な」


「昨日は私が十二分前で早すぎって言ったのに」


「俺は八分前」


「四分しか違わない!」


「四分違う」


「細かい!」


 ひよりは頬を膨らませながらも、すぐにノアの前へしゃがんだ。


「ノア、こんにちは。北条君がずるしたよ」


「何もしてない」


「私より先に来た」


「それの何がずるいんだよ」


「勝負だったのに」


「俺は一回も参加してない」


 ノアは二人の言い争いなど気にする様子もなく、ひよりの手へ鼻先を寄せる。


 ひよりはその頭を撫でながら、ふと鞄へ手を入れた。


「そうだ。昨日買ったやつ持ってきたよ」


 取り出したのは、『ブーランジェリー陽だまり』で新しく買った犬用クッキーの袋だった。


 真樹がすぐに手を出す。


「見せて」


「昨日と同じやつだよ」


「一応見る」


「はいはい」


 ひよりは素直に袋を渡した。


 真樹は原材料表示を確認し、前回と同じ商品であることを確かめてから返す。


「一枚ならいい」


「やった。ノア、昨日の続きしよう」


 ひよりは袋を開けて一枚だけ取り出し、ノアの目線近くへ持っていく。


「待て」


 ノアはクッキーを見つめたまま、きちんとその場で待った。


 ひよりの表情が明るくなる。


「今日もできた」


「もう覚えてるな」


「私のこと?」


「『待て』をだろ」


「そこは私って言ってよ」


「何で」


 ひよりは数秒待たせてから「よし」と声をかけ、ノアへクッキーを与えた。食べ終えたノアの頭を両手で撫でると、黒い毛並みの感触に自然と笑みがこぼれる。


「でも嬉しいな。最初は北条君が言わないと駄目だったのに」


「お前が何回もやってるからな」


「信頼関係できたってことだよね?」


「まあ、それもあるんじゃない」


「よし」


「何でお前が達成感出してんだ」


「だってノアと仲良くなりたいもん」


 ひよりは当然のように答えた。


 真樹はその横顔を見る。


 最初からノアはひよりを気に入っていた。


 けれど今は、単に初対面で懐いたというだけではない。ひより自身もノアの食べられるものを覚え、真樹へ確認し、散歩の途中でノアの様子を見るようになった。


 ノアだけが一方的に懐いているわけではなくなっている。


「北条君?」


「何」


「今日、私のこと何か褒めるんじゃなかった?」


「……まだ覚えてたのか」


「昨日の夜に言ったばっかりでしょ」


「毎日褒める約束なんかしてない」


「でも昨日、今日の分って言ったよ?」


「水色のやつは一昨日だろ」


「じゃあ昨日は服」


「だから今日は終わりでいいだろ」


「何で一日飛ばすの」


「義務じゃないから」


 ひよりは立ち上がりながら不満そうな顔をした。


「じゃあ探してね」


「探さない」


「散歩してる間に一個くらい見つけて」


「面倒」


「北条君ならできる」


「変な信頼寄せるな」


 そんな会話をしながら歩き出す。


 日曜の公園には昨日と同じく家族連れが多く、遊具のある広場からは子どもたちの声が聞こえていた。遊歩道を歩く人も平日より多いため、ノアが人とすれ違うたび、真樹はリードを少し短く持ち直している。


 ひよりはその動きを横から見ていた。


「北条君って、ノアの散歩中ずっと周り見てるよね」


「当たり前だろ」


「人来るとリード短くするし」


「大型犬苦手なやつもいるからな。ノアが何もしなくても、怖い人には怖い」


「そっか」


「子どもが急に触ろうとすることもあるし」


「この前もいたね」


「ああ。ノアが平気でも、相手が犬の触り方知らないことあるから」


 真樹は前方から走ってくる小学生くらいの男の子二人に気づき、自然にノアを自分の外側へ寄せた。


 ひよりも邪魔にならないよう真樹の反対側へ少し寄る。


 二人の子どもが通り過ぎたあと、ひよりはしばらく黙っていた。


「何」


「見つけた」


「何を」


「北条君の褒めるところ」


「頼んでない」


「ノアのことちゃんと見てるところ」


「普通だろ」


「北条君にとっては普通でも、いいところはいいところだよ」


 真樹は返事をしなかった。


 ひよりは気にせず歩き続ける。


「だから次は北条君の番ね」


「何で交換制になってんだよ」


「私だけ褒めるの不公平だから」


「別に褒めなくていい」


「私が褒めたいの」


 昨日、パンを買ったときと似た言い方だった。


 真樹は少しだけ横を見る。


 ひよりは何か見返りを求めているわけではない。


 パンを渡したいから渡す。


 褒めたいから褒める。


 会いたいから公園へ来る。


 そういうところは、真樹がこれまで周囲で見てきた人間とは少し違っていた。


(……こいつ、こういうの本当に何も考えてないんだよな)


 だから困る。


 真樹が何かを疑っても、ひよりの側には疑われるような意図そのものがない。


「北条君?」


「何」


「また黙った」


「考えてただけ」


「何を?」


「お前はうるさいなって」


「それ絶対違うでしょ」


 ひよりが笑い、真樹もわずかに口元を緩めた。


     ◇ ◇ ◇


 公園の奥にある池の近くまで来たところで、二人は歩調を落とした。


 冬の水面は風が吹くたび細かく揺れ、岸辺の木々から落ちた枯れ葉が何枚か浮かんでいる。日差しが雲へ隠れたことで急に寒さが増し、ひよりはコートの襟元を少し寄せた。


「寒い?」


 真樹が聞く。


「ちょっと。でも大丈夫」


「手袋は?」


「今日は持ってきたよ」


 ひよりは得意げにコートのポケットから手袋を取り出した。


「ほら」


「何で褒められるの待ってる顔なんだよ」


「分かった?」


「分かる」


「じゃあ褒めて」


「手袋持ってきただけで褒める年齢じゃないだろ」


「お母さんみたい」


「それ昨日も言った」


「じゃあお兄ちゃん」


「それも嫌だ」


「お父さん」


「もっと嫌」


 ひよりは笑いながら手袋をはめた。


 真樹はその様子を見てから、少しだけ歩く速度を落とす。


「……ちゃんと持ってきたのは偉いんじゃない」


 ひよりの手が止まった。


「え?」


「もう言わない」


「待って!」


「言っただろ」


「今の褒めた?」


「今日の分終わり」


「そんな適当な!」


「一個見つけろって言ったのお前だろ」


「そうだけど、もっとこう……」


「注文多いな」


 ひよりは不満そうにしながらも、口元には笑みが浮かんでいた。


「でもありがとう」


「どういたしまして」


「今日も素直」


「お前がしつこいから」


「理由は何でもいいです」


 二人は池沿いの遊歩道を進む。


 しばらくすると、ひよりがふと思い出したように口を開いた。


「そういえば明日、佐伯君に会えるかな」


 真樹の歩調がわずかに変わった。


 ほんの少しだけだったため、ひよりは気づかない。


「学校なんだからいるだろ」


「いるけど、クラス違うから話せるか分かんないんだよね」


「……そう」


「この前、友達と一緒に歩いてるの見たときは声かけられなかったし」


 ひよりは手袋をした両手をコートのポケットへ入れ、少し先の水面を見た。


「でも、前よりは話せるようになったと思うんだ」


「何が」


「佐伯君と」


 声が少し柔らかくなる。


 真樹は横目でひよりを見る。


「前はね、見かけただけでどうしようってなってたし、話しかけられたら頭真っ白になってた。でも最近は、まだ緊張するけど、ちゃんと話せるときも増えたから」


「……へえ」


「連絡先も交換できたし」


「知ってる」


「写真も送ったし」


「それも聞いた」


「北条君、覚えてるね」


「何回も聞いてるから」


 少し棘のある言い方になった。


 ひよりはようやく真樹の顔を見る。


「嫌だった?」


「何が」


「佐伯君の話」


「別に」


 その返事を聞いたひよりが、少しだけ目を細める。


「今の『別に』、ちょっと嫌なやつ」


「何だそれ」


「前にも言ったでしょ。北条君の『別に』、種類あるって」


「勝手に分類すんな」


「でも合ってる?」


 真樹は答えなかった。


 ひよりはその沈黙を見て、からかうような笑みを少し引っ込める。


 以前なら、そのまま話を変えていたかもしれない。


 相手が嫌そうなら、それ以上踏み込まない。


 嫌われたくないし、空気を悪くしたくない。


 けれど真樹は、自分に「言いたいことがあるなら言えばいい」と言った。


 ひよりは少し迷ったあと、足元へ視線を落としながら口を開いた。


「北条君って、私が佐伯君の話すると、たまに変になるよね」


 真樹の眉が動く。


「変って何だよ」


「返事短くなるし、ちょっと不機嫌そうになる」


「なってない」


「なってるよ」


「お前の気のせい」


「橘君の話でもたまになる」


「ならない」


「神崎君と連絡先交換するって言ったときも嫌そうだった」


「神崎は面倒だから」


「それは分かった」


「ならいいだろ」


 真樹は前を向く。


 ひよりもすぐには続けなかった。


 風が水面を渡り、近くの枝を揺らす音が聞こえる。少し離れた場所では、幼い子どもが父親と一緒に池の鳥を指差していた。


 ひよりは数歩歩いたあと、静かに言った。


「嫌なら、話さないほうがいい?」


 真樹が止まる。


 ひよりも二歩ほど進んでから足を止め、振り返った。


「何でそうなる」


「だって嫌なんでしょ?」


「……」


「前にも聞いたけど、北条君、『聞きたくないときもある』って言ったじゃん」


 真樹は覚えていた。


 ひよりが颯太の話をするのを、聞きたくないときもある。


 けれど知らないのも嫌だ。


 自分でそう言った。


 今考えても、意味の分からない言葉だった。


「でもね」


 ひよりは少し困ったように笑った。


「北条君には話しやすいんだよ」


 真樹は何も言えなかった。


「千夏にはもちろん何でも話すけど、北条君にも最近いろいろ話しちゃうし。佐伯君と話せたら嬉しかったって言いたくなるし、逆にうまく話せなかったら、それも言うと思う」


 ひよりはそこで一度言葉を切り、真樹の表情を確かめた。


「だから、本当に嫌なら言って。私、そういうの気づかないで話し続けるの嫌だから」


 その言葉には、ひよりらしい慎重さがあった。


 真樹は少し前に聞いた話を思い出す。


 ひよりは、相手の顔色を見る。


 こんなことを言ったら嫌われるかもしれない、変だと思われるかもしれないと考え、言葉を飲み込む。


 自分に対してはそれが減ったと、ひよりは言っていた。


 今もきっと、以前なら黙っていたことを口にしている。


(ここで嫌だって言ったら、こいつまた俺の前でも考えてから喋るようになるのか)


 それは嫌だった。


 颯太の話を聞くと面白くない。


 橘の話が増えても気になる。


 神崎がひよりと連絡先を交換したがるのも面倒だ。


 けれど、それを理由にひよりが自分へ話す内容を選ぶようになることは、それ以上に嫌だった。


「……話せばいいだろ」


 真樹はそう答えた。


 ひよりが瞬きをする。


「いいの?」


「お前が話したいなら」


「でも嫌なときあるんでしょ?」


「ある」


 そこだけは否定しなかった。


 ひよりは少し驚いた顔をする。


「じゃあ何で?」


「知らない」


「知らないって」


「俺も分かんないんだから仕方ないだろ」


 真樹は眉を寄せたまま、視線を池へ向ける。


 胸の中にあるものを説明しろと言われても、自分にも説明できない。


「聞きたくないときあるけど、だからってお前が話さなくなるのも……何か違う」


「違う?」


「……知らないほうが嫌だし」


 以前と同じ結論だった。


 ひよりはしばらく真樹を見ていた。


「北条君って難しいね」


「お前に言われたくない」


「私、そんな難しい?」


「難しい」


「どこが?」


「人の顔色気にするくせに急に遠慮なくなるし、勝手に勝負始めるし、毎日褒めろとか言うし」


「最後二つは性格の問題じゃない?」


「十分性格だろ」


 真樹の言い方に、ひよりは吹き出した。


 重くなりかけていた空気が少し緩む。


「じゃあ今まで通り話していい?」


「ああ」


「佐伯君のことも?」


 真樹は一瞬だけ嫌そうな顔をした。


 それを見たひよりが笑う。


「ほら、その顔」


「うるさい」


「でもいいんだよね?」


「……好きにしろ」


「分かった」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


 その笑顔を見た真樹は、胸の奥に残る引っかかりを抱えたまま歩き出す。


(何で俺、佐伯の話なんか聞きたいんだよ)


 正確には、聞きたいわけではない。


 聞けば嫌になる。


 けれど知らないのはもっと嫌だ。


 そして、ひよりが自分に話さなくなるのはさらに嫌だった。


 真樹は答えの出ない感情を、また「友達だから」という言葉の中へ押し込めた。


     ◇ ◇ ◇


 公園を一周して入口近くへ戻ったころ、時刻は三時を少し過ぎていた。


「今日、パン屋行かないの?」


 ひよりが聞く。


「昨日行っただろ」


「今日は行こうって言ってないよ。聞いただけ」


「行きたいの?」


「うーん」


 ひよりは少し考え、首を横へ振った。


「今日はいいかな。クッキーもあるし」


「ならいいだろ」


「その代わり、もうちょっと歩く?」


「好きにすれば」


「北条君は?」


「俺は散歩に来てるんだから歩く」


「じゃあもう一周」


 二人は自然に入口を通り過ぎ、再び遊歩道へ入った。


 そこへ、ひよりのスマートフォンが震える。


 画面を見ると、千夏からだった。


『暇ー』


 続けて、


『ひより何してる?』


 ひよりは歩きながら返信する。


『ノアの散歩』


 すぐに既読がついた。


『北条君も?』


『いるよ』


『でしょうね』


 ひよりは笑った。


「何」


 真樹が横から聞く。


「千夏」


「藤崎?」


「うん。何してるって」


「何て言った」


「ノアの散歩って」


「俺は?」


「いるって言った」


「何で後付けなんだよ」


「だってノアの散歩だもん」


「……別にいいけど」


 真樹はそう言いながら、なぜか少し不満そうだった。


 ひよりが画面へ戻ると、千夏から新しいメッセージが届く。


『昨日も一緒じゃなかった?』


『一緒だったよ』


『二日連続じゃん』


『そうだね』


 少し間が空き、


『仲良しだねえ』


 と返ってきた。


 ひよりは素直に、


『友達だからね』


 と打つ。


 送信しようとしたところで、なぜか指が一瞬止まった。


(何で止まったんだろ)


 友達。


 それで間違っていない。


 ひよりはそのまま送信した。


 すぐに千夏から、


『はいはい』


 という返事と、にやにやした顔のスタンプが届く。


「何その顔」


 真樹が言う。


「千夏が変なスタンプ送ってきた」


「見せて」


「いいけど」


 ひよりは画面を真樹へ向ける。


 真樹はメッセージの流れを全部読むつもりはなかったが、視界に最後の二行が入った。


『友達だからね』


『はいはい』


「……」


「千夏、何か勘違いしてるのかな」


「知らない」


「昨日のお兄ちゃんみたいにデートだと思ってたりして」


「違うだろ」


「だよね」


 ひよりはあっさり同意した。


 昨日と同じ、小さな引っかかりが真樹の胸に生まれる。


(だから俺が先に否定してんだろ)


 それなのに、ひよりが「だよね」と即座に同意すると気になる。


 自分でも矛盾している。


「北条君?」


「何」


「また嫌そう」


「別に」


「それ、今のは本当に別に?」


「……お前、面倒になってきたな」


「北条君が分かりやすくなったんだよ」


「なってない」


「なってる」


 ひよりは楽しそうにスマートフォンをしまった。


     ◇ ◇ ◇


 そのころ、藤崎千夏は自宅のベッドへ寝転がりながら、ひよりとのメッセージ画面を眺めていた。


「友達だからね、ねえ」


 口に出すと、余計に面白く感じる。


 ひよりが嘘をついているとは思わない。


 むしろ本気でそう思っているからこそ、千夏は何とも言えない気持ちになる。


 ひよりは颯太が好きだ。


 それは間違いない。


 颯太の話をするときのひよりは、長くそばにいる千夏から見ても分かりやすい。目が合った、少し話せた、名前を呼ばれたというだけで喜び、いつか告白したいと本気で考えている。


 だから真樹に対する気持ちを、外側から勝手に恋愛だと決めるつもりはなかった。


 ただし、それとは別に気づいていることはある。


 ひよりは最近、真樹に会うことを予定として数えている。


 学校が終わったあとに会う。


 休日にも会う。


 メッセージをする。


 翌日も会うか確認する。


 その一つ一つを、ひより自身は特別なことだと思っていない。


(そこが一番すごいんだけどね)


 千夏は枕へ頬を押しつけた。


 颯太に会うとき、ひよりは「どうしよう」と悩む。


 真樹に会うときは「何時に行こう」と考える。


 この違いをひより本人がどう受け取るのかは、まだ分からない。


 だから千夏も答えを教える気はなかった。


『楽しんできなー』


 それだけ送る。


 少し考えてから、


『北条君にひより独占されすぎると私が暇なんだけど』


 とも送った。


 送信した直後、千夏は自分で笑う。


「今度会ったら言お」


 真樹がどんな顔をするのか、少し楽しみだった。


     ◇ ◇ ◇


 ひよりのスマートフォンが再び震えた。


「また千夏」


 画面を見たひよりが笑う。


「何だって」


「『北条君にひより独占されすぎると私が暇なんだけど』だって」


 真樹の眉がわずかに動く。


「独占してない」


「分かってるよ」


「お前が勝手に来てるだけだろ」


「それ言い方ひどくない?」


「事実」


「じゃあ明日から行かない」


「……」


 真樹が黙った。


 ひよりはすぐにその顔を覗き込む。


「北条君?」


「何」


「今、何で黙ったの?」


「別に」


「また!」


「うるさい」


「行かなくていい?」


「好きにすれば」


 返事はいつも通りだった。


 しかし、ひよりは以前より真樹の反応を見るようになっている。


 視線がわずかに逸れたことも、返事まで一拍空いたことも気づいた。


「本当に?」


「何が」


「私、明日から来なくてもいい?」


「……何でそんな話になってんだよ」


「北条君が勝手に来てるだけって言ったから」


「それは事実だろ」


「じゃあ来なくても困らない?」


 真樹は答えに詰まった。


 困るかと聞かれれば、困らない。


 ノアの散歩は自分一人でもできる。


 ひよりが来なかったところで、生活上の問題など何もない。


 けれど、明日の放課後に公園へ来てもひよりがいないと考えると、胸の奥にすぐ物足りなさが浮かんだ。


 数日前なら、それを認めることすら避けたかもしれない。


 今は少なくとも、自分がひよりに会えることを楽しみにしている事実までは分かっている。


「……来ればいいだろ」


 真樹は低い声で答えた。


 ひよりが瞬きをする。


「来てほしい?」


「そこまでは言ってない」


「でも来ればいいって言った」


「いつも来てるんだから、急に来なくなる必要ないだろ」


「ふうん」


 ひよりの口元が上がる。


「何だよ」


「ちょっと嬉しい」


「何で」


「北条君、私が来なくてもいいとは言わなかったから」


「……」


「今日こそ言えるんじゃない?」


「何を」


「会えて嬉しい」


 真樹は露骨に嫌そうな顔をした。


 ひよりは笑う。


「惜しい!」


「何も惜しくない」


「かなり近づいてると思う」


「近づいてない」


「だって昨日は明日も会うか北条君から聞いたし、今日は私が来なくてもいいって言わなかったし」


「こじつけ」


「楽しかったとも言った」


「スクショ消せ」


「嫌です」


「今すぐ消せ」


「絶対嫌」


 ひよりは笑いながら少しだけ真樹から距離を取る。


 真樹は追いかけるわけでもなく、呆れたように見ていた。


 その間をノアがゆっくり歩き、ひよりのほうへ寄る。


「あ、ノアが私の味方してくれた」


「してない」


「ノア、北条君が素直じゃないよ」


「ノアに言うな」


「どうしたらいいと思う?」


「答えるわけないだろ」


 ひよりがノアの首元を撫でる。


 真樹はその様子を眺めながら、ふと昨日の会話を思い出した。


 ノアが自分よりひよりを好きになったらどうする、と彼女は冗談を言っていた。


 あのときはあり得ないと即答した。


 今もそれは変わらない。


 ただ、ひよりがノアと親しそうにしている光景を見ていると、不思議と落ち着く。


(最初からこいつがいるみたいになってきたな)


 そう思った瞬間、真樹は自分の考えに少し驚いた。


 実際には、知り合ってからそれほど長い時間が経っているわけではない。


 それなのに、公園でノアと歩く時間の中へ、ひよりの姿があることを自然だと感じ始めている。


     ◇ ◇ ◇


 午後四時前。


 雲が増えたことで気温が下がり、ひよりは手袋をした両手を擦り合わせた。


「そろそろ帰る?」


 真樹が聞く。


「北条君寒い?」


「俺じゃなくてお前」


「まだ大丈夫だよ」


「手冷たそうじゃん」


「手袋してるから平気」


「顔寒そう」


「顔はどうしようもないよ」


 ひよりが笑う。


 真樹は少し迷ったあと、公園の出口近くにある自動販売機へ視線を向けた。


「何か飲む?」


「え?」


「温かいやつ」


「北条君が?」


「俺も飲む」


「じゃあ飲む」


 二人は自動販売機へ向かった。


 ひよりは財布を出そうとしたが、真樹が先に硬貨を入れる。


「何飲む」


「え、いいよ。自分で買う」


「昨日パン奢られたから」


「パンのお返し?」


「そう」


「じゃあ……ココア」


 真樹がボタンを押すと、取り出し口へ缶が落ちる音がした。


 ひよりは受け取った缶の温かさを両手で包み込む。


「暖かい」


「熱くない?」


「大丈夫。ありがとう」


「どういたしまして」


 真樹は自分用に温かいコーヒーを買った。


 二人は近くのベンチへ移動したものの、昨日の雨が残っている場所を避け、日当たりのよい端へ少し間を空けて座る。ノアは二人の前で伏せ、行き交う人を静かに眺めていた。


「昨日は私がパンで、今日は北条君がココア」


「だから何」


「何か友達っぽいね」


「友達なんだから普通だろ」


「そうだけど」


 ひよりは缶のプルタブを開け、一口飲む。


 甘いココアの味と熱が口の中へ広がり、冷えていた身体が少しずつ緩む。


「美味しい」


「よかったな」


「北条君、コーヒー苦くない?」


「子どもじゃないんだから」


「私も飲めるよ」


「じゃあ何でココア」


「好きだから」


「なら聞くな」


 ひよりは笑い、もう一口飲んだ。


 少しして、視線をノアへ落としたまま呟く。


「こういうの、いいね」


「何が」


「何でもない休日」


 真樹が横を見る。


「散歩して、くだらない話して、飲み物飲んで。昨日もそうだったけど」


「お前、パン屋行っただけで楽しそうだったもんな」


「楽しかったよ」


 ひよりは素直に答える。


「私ね、こういうの結構好き」


「買い物?」


「それもだけど、予定決めすぎないやつ。どこか行かなきゃとか、何かしなきゃじゃなくて、歩いてて気になったところあったら寄るとか」


「へえ」


「北条君は?」


「嫌いじゃない」


「じゃあ一緒だ」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


 真樹はコーヒー缶へ視線を落とす。


 自分もこういう時間は嫌いではなかった。


 誰かと休日を過ごすなら、もっと予定が必要なのだと思っていた。何時にどこへ行き、何をして、何時に帰るのか。家の関係で顔を出す場では、最初から目的が決まっていることが多い。


 ひよりとは違う。


 公園を歩き、パン屋を見つければ寄り、寒ければ温かいものを飲む。


 何をするかより、誰といるかによって時間が続いている。


 そこまで考え、真樹は眉を寄せた。


(……誰といるかって何だよ)


 自分の中から出てきた言葉に、自分で引っかかる。


「北条君?」


「何」


「今日、考え事多くない?」


「お前がずっと喋るから疲れた」


「ひどい」


「冗談」


 ひよりが目を丸くした。


「今、冗談って言った?」


「言ったけど」


「北条君、自分でフォローした!」


「そんな驚くことかよ」


「だっていつも放置するじゃん」


「お前が本気にしそうな顔したから」


 真樹は何気なく答えた。


 ひよりの表情が少しだけ変わる。


「……分かったの?」


「何が」


「私がちょっと気にしたの」


「顔に出てた」


「そっか」


 ひよりはココア缶へ視線を落とす。


 嬉しい、と思った。


 自分は人の顔色をよく見る。


 けれど、見られる側になることはあまり意識したことがなかった。


 明るく笑っていれば大丈夫だと思われることも多い。


 千夏や家族は例外として、ちょっとした表情の変化を拾われることには慣れていない。


「北条君、前より私の顔見るようになった?」


 真樹の手が止まった。


「……は?」


「だって今分かったし。この前も、私がちょっと変な笑い方したとき気づいたでしょ?」


 一ノ瀬玲奈と会ったあと。


 あのとき真樹は、ひよりの様子が少し違うことを気にしていた。


 ひよりはそれを覚えている。


「見てない」


「見てるよ」


「普通に視界に入るだけ」


「それでも気づくのすごいね」


「お前が分かりやすいんじゃない」


「千夏にはよく言われる」


「ならそうなんだろ」


 真樹はコーヒーを飲む。


 けれど、自分でも分かっていた。


 以前よりひよりを見ることが増えた。


 笑っているか。


 怒っているか。


 何かを我慢していないか。


 誰の話をしているときに嬉しそうなのか。


 何を身につけているのか。


 いつ公園へ来るのか。


 気づけば、そういうことを覚えている。


(友達なら普通……なのか?)


 最近、その説明に少しずつ自信がなくなっている。


 だからといって、代わりの答えがあるわけでもなかった。


「北条君」


「何」


「ありがと」


「何が」


「冗談って言ってくれたこと」


「……別に」


「今のは照れてる『別に』?」


「新しい分類増やすな」


 ひよりが笑う。


 真樹は呆れたように息を吐いたが、その笑顔を見ている自分には気づいていた。


     ◇ ◇ ◇


 午後四時二十分を過ぎたころ、二人は公園の入口まで戻ってきた。


 冬の日は短く、まだ夕方と呼ぶには早い時刻なのに、空の色は少しずつ薄くなり始めている。


「今日はお兄ちゃんから連絡来ないね」


 ひよりがスマートフォンを確認する。


「昨日言われた時間守ったからじゃない」


「それならいいけど」


「帰ったら今日も何してたか聞かれるだろ」


「絶対聞かれる」


「ココア飲んだとか言うなよ」


「何で?」


「またデートって言われるだろ」


「言われるね」


「面倒」


「でも隠したら余計怪しまれるよ」


「何も怪しいことしてないだろ」


「そうなんだけどね」


 ひよりは笑ったあと、ふと真樹を見る。


「北条君、本当にお兄ちゃんと会いたくない?」


「会いたくない」


「即答だね」


「何聞かれるか分かんないし」


「たぶん『妹をどう思ってる』とか?」


「……」


 真樹が止まった。


 ひよりは冗談のつもりだったらしく、くすくす笑っている。


「困るでしょ?」


「……友達って言えばいいだろ」


「そうだね」


 また、ひよりはあっさり同意する。


 真樹は小さく眉を寄せた。


「何でお前、毎回そんな即答なんだよ」


「え?」


「……いや、何でもない」


「何?」


「忘れろ」


「気になる」


「いいから」


 真樹自身にも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。


 友達なのだから、ひよりが友達だと答えるのは当然だ。


 それ以外の答えなど、今の自分にもない。


 なのに、その言葉を聞くたび胸の奥へ小さな棘のようなものが残る。


(俺、何が不満なんだよ)


 答えは出ない。


 ひよりは少し不思議そうにしていたものの、無理に追及しなかった。


 代わりにノアへしゃがみ込み、その頭を撫でる。


「ノア、また明日ね」


 真樹がひよりを見る。


「明日も来るの?」


 ひよりが顔を上げた。


「行っちゃ駄目?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ行く」


「即決」


「学校終わったらね。たぶんいつもの時間」


 ひよりは立ち上がり、制服ではない自分の服を見てから笑った。


「明日は制服だね」


「学校なんだから当たり前だろ」


「今日みたいに褒めるところ探しにくいね」


「探さない」


「今日、手袋褒めたじゃん」


「あれを褒めた扱いにすんな」


「私の中では一回です」


「勝手に数えんな」


「じゃあ明日も一回」


「毎日やる気かよ」


 真樹は呆れながらも、昨日のように完全には拒絶しなかった。


 ひよりはそれに気づいたのか、楽しそうに笑う。


「あと、会えて嬉しいもね」


「まだ続けんの?」


「北条君が言うまで」


「一生言わない」


「じゃあ一生会わなきゃね」


 ひよりは冗談として言った。


 しかし真樹の表情が一瞬だけ止まる。


「……それは意味分かんないだろ」


「え?」


「何で言わないと会えなくなるんだよ」


 ひよりは数秒、真樹を見た。


 それから、ゆっくり笑う。


「北条君、会えなくなるの嫌?」


「……」


「ねえ」


「そういう話じゃない」


「じゃあどういう話?」


「お前が勝手に条件変えたって話」


「でも今、すぐ否定したよね」


「うるさい」


「顔赤い?」


「寒いから」


「耳も?」


「寒いから」


「今日そんなに寒いかなあ」


「帰れ」


「追い出された!」


 ひよりは笑いながら数歩離れる。


 真樹は額へ手を当てたくなるのを我慢した。


(何であんな言い方に反応してんだよ)


 ひよりが来なくなる。


 会えなくなる。


 ただの冗談だと分かっているのに、その言葉を受け入れたくなかった。


 それだけははっきりしている。


「じゃあ帰るね」


 ひよりが手を振る。


「明日、学校で佐伯君と話せたら報告する」


「……好きにしろ」


「嫌な顔した」


「してない」


「でも聞いてくれるんでしょ?」


「聞く」


 今度は迷わず答えた。


 ひよりが少しだけ目を丸くし、そのあと嬉しそうに笑った。


「うん。じゃあまた明日」


「ああ。また明日」


 ひよりは公園を出ていく。


 真樹はノアと一緒に、その背中が見えなくなるまで同じ場所に立っていた。


     ◇ ◇ ◇


 帰宅したひよりは、予想通り悠一に捕まった。


「今日は何してた?」


「尋問?」


「会話」


「散歩」


「それだけ?」


「ココア飲んだ」


「誰と」


「北条君」


 悠一が天井を見上げる。


「何でそうなるんだ……」


「何が?」


「昨日パン、今日ココア」


「昨日私がパン買ったから、今日は北条君がお返ししてくれただけだよ」


「それを世間では――」


「お兄ちゃん」


 ダイニングにいた美月が静かに遮る。


「言わなくていい」


「でもさ」


「ひよりが違うって言ってるんだから今は違うの」


「今はって何だよ」


「言葉通り」


 ひよりは二人のやり取りを見ながらコートを脱ぐ。


「明日も会うよ」


 悠一が固まった。


「……今何て?」


「明日も。学校終わったらノアの散歩」


「三日連続!?」


「平日は前からよく会ってるって言ってるでしょ」


「そうだけど、何か今聞くと違う!」


「何が違うの?」


「分からないけど違う!」


 悠一自身も説明できないらしい。


 ひよりは呆れながら、美月の隣へ座った。


「お姉ちゃん、お兄ちゃん面倒」


「知ってる」


「お前らな……」


 美月は兄を無視し、ひよりを見る。


「楽しかった?」


「うん」


「昨日より?」


「比べるものじゃないよ」


「そっか」


「今日はね、北条君にココア買ってもらって、佐伯君の話もした」


「北条君に?」


「うん」


 美月は少し意外そうにする。


「恋愛相談?」


「相談じゃないよ。明日会えたらいいなって話」


「北条君、何て?」


「何かちょっと嫌そうだった」


「……へえ」


「でも話していいって」


 ひよりは手袋を外しながら続ける。


「北条君、佐伯君とか橘君の話するとたまに不機嫌になるんだよね。神崎君と連絡先交換するって言ったときも嫌そうだったし」


 悠一の表情が変わる。


 美月は兄が口を挟む前に視線だけで黙らせた。


「ひよりは何でだと思う?」


「分かんない」


「聞かなかったの?」


「聞いたよ。北条君も分かんないって」


「そっか」


「でも、聞きたくないときはあるけど、私が話さなくなるのも違うって。知らないほうが嫌なんだって」


 美月はすぐには返事をしなかった。


 ひよりは真樹の言葉をそのまま受け取っている。


 美月にはいくつか思い当たる可能性があったが、それを妹へ教える気はなかった。


 本人たちが自分で知るべきことだ。


「じゃあ、ひよりは今まで通り話すの?」


「うん。北条君がいいって言ったから」


「佐伯君のことも?」


「もちろん」


 その答えに迷いはない。


 美月は小さく笑った。


「明日、話せるといいね」


「うん!」


 ひよりの表情が明るくなる。


 颯太への気持ちは、まだきちんとそこにある。


 それと同時に、真樹へ何でも話せるようになっていることもまた、今のひよりにとっては自然なことだった。


     ◇ ◇ ◇


 夜十時を過ぎたころ。


 ひよりは自室のベッドへ座り、明日の授業の準備をしていた。


 鞄には黒犬のキーホルダーが揺れている。


 時間割を確認し、教科書を入れ替えたところでスマートフォンが震えた。


『宿題終わった?』


「また聞いてる」


 ひよりは笑う。


『終わったよ』


『北条君は?』


『終わってる』


『偉い』


『お前に褒められることじゃない』


『今日私も手袋持ってきて偉いって褒められたからお返し』


『あれ褒めてない』


『褒めてた』


『違う』


 ひよりはベッドへ座り直す。


『今日は楽しかった?』


 送信したあと、昨日のやり取りを思い出した。


 真樹は昨日、初めてメッセージで「楽しかった」と認めた。


 今日はどう答えるだろう。


 少し待つと返信が来る。


『楽しかった』


 ひよりは目を見開いた。


「えっ」


 昨日より早い。


 しかも「まあ」も「退屈ではない」も付いていない。


『北条君!?』


『何』


『どうしたの!?』


『聞いたのお前だろ』


『そうだけど素直すぎて怖い』


『じゃあ取り消す』


『駄目』


『面倒くさ』


『でも私も楽しかった』


 ひよりは自然にそう返した。


 そのあと少し考え、


『明日も楽しみ』


 と付け足す。


 送ってから、自分でも何を楽しみにしているのか考えた。


 学校へ行けば千夏がいる。


 颯太と話せるかもしれない。


 海斗とも同じ教室で過ごす。


 そして放課後には、真樹とノアに会う。


 全部が別々に楽しみだった。


(佐伯君と話せたらいいな)


 思い浮かべると、胸が少し高鳴る。


 明日は自分から声をかけられるだろうか。


 いつか告白したいという気持ちは変わっていない。


 バレンタインの日のように、渡せなかった、言えなかったと後悔するのはもう嫌だった。


 スマートフォンが震える。


『明日も来るんだろ』


『行くよ』


『なら急ぐなよ』


『分かってる』


『佐伯君と話して遅くなったら?』


 送信してから、ひよりは少し意地悪だったかなと思った。


 数秒後、返事が来る。


『連絡すればいい』


 ひよりは画面を見つめる。


『待っててくれる?』


 今度は少し間が空いた。


『ノア散歩させてるから』


 ひよりは笑った。


『北条君も待っててくれる?』


 既読がつく。


 しかし返信が来ない。


 一分ほど経ってから、


『帰るぞ』


 と届いた。


「何それ」


 ひよりは声を出して笑った。


『嘘だ』


 すぐに二通目。


 ひよりの笑いが止まった。


『連絡あるなら待つ』


 画面の文字を、もう一度読む。


 胸の奥が少し温かくなる。


 真樹は、こういうところがある。


 最初は突き放すようなことを言うのに、ひよりが本気にしそうになると訂正する。


 今日も公園でそうだった。


(北条君、ほんとに前より分かりやすくなったなあ)


 それが嬉しい。


 自分の前では、少しずつ素直になってくれている気がするから。


『ありがと』


『でもなるべくいつもの時間に行くね』


『急ぐなって言ってんだろ』


『はいはい』


『転ぶなよ』


『お父さん』


『やめろ』


『お兄ちゃん』


『もっとやめろ』


 ひよりは笑いながら、しばらく真樹とやり取りを続けた。


 最後にはいつものように、


『おやすみ。また明日』


 と送る。


 今夜はすぐに、


『おやすみ。また明日』


 と同じ言葉が返ってきた。


 ひよりは満足そうにスマートフォンを枕元へ置いた。


     ◇ ◇ ◇


 北条家では、真樹がベッドへ腰掛けたまま、ひよりとのメッセージ画面を閉じられずにいた。


『連絡あるなら待つ』


 自分で送った文章が目に入る。


(普通に待つって言ってんじゃん、俺)


 以前なら絶対に書かなかった。


 待っていると思われることが嫌だったわけではない。


 正確には、自分自身が「待っている」と認めるのが嫌だった。


 けれど今は、ひよりが来ると分かっているなら待つことくらい、そこまで否定する必要がない気がしている。


 ノアが部屋へ入り、真樹の近くまで来た。


「天野、明日も来るって」


 名前を聞いたノアの尻尾が揺れる。


「お前ほんと分かってるだろ」


 真樹はノアの頭を撫でる。


 今日、ひよりは颯太の話をした。


 明日会えたら嬉しい。


 前より話せるようになった。


 いつか告白したい。


 その気持ちが変わっていないことを、真樹は知っている。


 聞けば面白くない。


 けれど、ひよりに「話さないほうがいい?」と聞かれた瞬間、それはもっと嫌だと思った。


(俺に話さなくなるのは嫌なんだよな)


 その理由なら少し分かる。


 友達だから。


 ひよりは自分にいろいろ話す。


 自分も以前より、ひよりには話している。


 それがなくなるのが嫌なのは、友達ならおかしくない。


 ただ、颯太や海斗や蓮の話だけで妙に機嫌が悪くなる理由までは、やはり説明できなかった。


 そしてもう一つ。


 今日、ひよりが「一生会わなきゃね」と冗談を言った瞬間、真樹は考えるより先に否定していた。


 会えなくなるのは嫌だった。


 その事実だけは、もう誤魔化せない。


(……友達だからだろ)


 また同じ言葉を使う。


 まだ、それで説明できる。


 少なくとも真樹はそう思うことにした。


 スマートフォンを机へ置こうとしたところで、画面に最後のメッセージが残っているのが見えた。


『おやすみ。また明日』


 昨日も見た。


 今日も見た。


 明日になれば、今度は学校帰りのひよりがいつもの公園へ来る。


 その前に、颯太と話せるかもしれない。


 そして、話せたならひよりは自分へ報告すると言った。


 真樹はそれを聞きたくないと思う自分と、必ず聞きたいと思う自分の両方を抱えたまま、ベッドへ横になった。


 明日ひよりがどんな顔で公園へ来るのか。


 颯太と話せて嬉しそうにしているのか、それとも話せずに少し落ち込んでいるのか。


 そんなことまで考えている自分に気づき、真樹は枕へ顔を押しつけるようにして目を閉じた。


(俺、天野のこと気にしすぎじゃないか?)


 初めて浮かんだ疑問は、すぐに答えへはつながらなかった。


 ただ、「友達だから」という説明だけでは収まりきらないものが少しずつ増えていることを、真樹自身もようやく感じ始めていた。

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