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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第25話 二時より少し早く



 土曜日の午後一時三十二分。


 天野ひよりは自室の鏡の前に立ち、肩へ掛けた鞄を一度下ろしてから、髪の毛先を指で整えていた。


 学校へ行くわけではないので制服ではなく、白いニットの上に淡いベージュのコートを羽織り、下は濃紺のスカートに黒いタイツという格好をしている。特別にお洒落をしたつもりはなかったが、家を出る直前になってから髪が少し気になり、結局もう一度鏡の前へ戻ってきてしまった。


「……これでいいよね」


 鏡の中の自分へ確認するように呟く。


 今日は午後二時に、いつもの公園で真樹とノアに会う約束をしている。


 正確には、最初から「待ち合わせ」と決めたわけではなかった。真樹が二時ごろ散歩へ行くと言い、ひよりが自分も行くと決め、昨夜になって真樹から『明日二時でいい』と連絡が来た。


 結果としては、どう考えても待ち合わせだった。


(昨日、北条君が先週待ったって言ってたし、今日は絶対遅れない)


 むしろ少し早く着いてやろうと思っている。


 そうすれば、いつも待つ側のような顔をしている真樹へ一つ言い返せる。


 ひよりは机の上に置いていた小さな袋を確認した。中には『ブーランジェリー陽だまり』で買った、ノア用の犬用クッキーが二枚残っている。


「よし」


 今度こそ鞄を肩へ掛け、部屋を出た。


 階段を下りてリビングへ顔を出すと、美月がソファで大学の資料らしい冊子を読んでいた。由美は台所で夕食の下ごしらえをしており、悠一はダイニングテーブルにノートパソコンを広げている。


「行ってきます」


 その一言で、三人の視線がひよりへ向いた。


「気をつけてね」


 由美が最初に答える。


「うん」


「何時くらいに帰る?」


「夕方。暗くなる前には帰るよ」


 ひよりが答えた直後、悠一がノートパソコンから顔を上げた。


「公園?」


「そうだけど」


「北条もいる?」


「いるよ。ノアの散歩なんだから」


「二人?」


「ノアもいるって言ったじゃん」


「ノアは人数に入れない」


「入れるよ。家族なんだから」


 ひよりが当然のように言い返すと、悠一は一瞬言葉を止めた。


 以前なら、ひより自身も「犬なんだから」と軽く扱っていたかもしれない。だが真樹がノアを家族として大切にしていることを知ってからは、自分の中でもノアの存在を以前とは違うものとして考えるようになっている。


「……いや、そういう意味じゃなくて」


「じゃあどういう意味?」


「人間として二人なのかって聞いてる」


「そうだと思うよ。誰か来るって聞いてないし」


「土曜の午後に?」


「何?」


「それ、普通に――」


「お兄ちゃん」


 美月の静かな声が割って入った。


 悠一が口を閉じる。


「余計なこと言わない」


「でも」


「ひよりは友達と犬の散歩に行くだけでしょ?」


「そうだよ」


 ひよりがすぐに頷く。


 美月は冊子を閉じると、ひよりを上から下まで一度見た。


「その服、可愛いね」


「ほんと?」


「うん。似合ってる」


「ありがと」


 ひよりは嬉しそうに笑う。


 その反応を見た悠一が、今度は別の意味で眉を寄せた。


「待て。服選んだの?」


「選ぶでしょ、普通」


「いつもの公園だろ?」


「だからって部屋着で行かないよ!」


「いや、それはそうだけど……」


「悠一」


 由美まで名前を呼ぶ。


「ひよりが何を着て出かけてもいいでしょう」


「分かってるって」


「分かってない顔してる」


 美月が淡々と指摘すると、悠一は不満そうに口を閉じた。


 ひよりはそんな兄を見てため息をつき、玄関へ向かおうとする。


「じゃあ行ってくるね」


「あ、ひより」


 美月に呼び止められた。


「何?」


「昨日雨だったから、日陰はまだ濡れてるかもしれないよ。座るところ気をつけてね」


「うん」


「あと、寒くなったら無理しないで帰ってきなさい」


 今度は由美だ。


「分かってる」


「暗くなる前な」


 最後に悠一が付け加える。


「それも分かってるってば」


 ひよりは呆れながら靴を履いた。


 それでも、玄関を出る直前には自然と笑っていた。


「行ってきます!」


 三人からそれぞれ返事が聞こえ、ひよりはドアを閉めた。


     ◇ ◇ ◇


「……なあ」


 玄関が閉まってから数秒後、悠一が口を開いた。


「何?」


 美月は再び冊子へ目を落とす。


「今の、デートじゃないのか?」


「本人たちがそう思ってないなら違うんじゃない?」


「本人たちって、お前北条に会ったことないだろ」


「ないけど」


「じゃあ向こうがどう思ってるか分からないじゃん」


「お兄ちゃんにも分からないでしょ」


「だから会いたいんだよ」


 悠一は真剣だった。


 妹が最近頻繁に会っている同い年の男子。


 別の学校に通い、大きな黒犬を飼っていて、土曜日にも二人で会う。


 兄として気にならないはずがない。


「一回くらい偶然――」


「駄目」


「まだ最後まで言ってない」


「偶然を装って公園へ行くのは駄目って、前にも言ったよね」


「分かってるよ」


「ならいいけど」


 美月は兄へ冷たい視線を向ける。


 悠一は諦めたようにノートパソコンへ戻ったが、数秒後にはまた口を開いた。


「でもさ、ひより、最近北条の話多くない?」


 美月の指が冊子のページをめくる途中で止まった。


「多いね」


「だよな?」


「佐伯君の話もするけどね」


「佐伯?」


「ひよりが好きな子」


「……は?」


 悠一の顔が固まった。


 美月はゆっくり兄を見る。


「知らなかったの?」


「聞いてない」


「お母さん」


「私は知ってるわよ」


 台所から由美が平然と答える。


「何で俺だけ知らないんだよ!」


「聞かれなかったからじゃない?」


「そういう問題!?」


 悠一の声が大きくなり、由美が振り返る。


「本人が自分から話していないことを、私たちが何でも教える必要はないでしょう」


「いや、でも好きな男がいるって重要情報だろ」


「お兄ちゃんにとってはね」


 美月が淡々と返す。


 悠一は頭を抱えた。


「北条じゃないのか……?」


「今のところは違うみたい」


「じゃあ何で毎日のように北条と会ってるんだよ」


「友達だからでしょ」


「分からん……」


「男女でも友達にはなれるよ」


「それは分かる。でも土曜の午後二時に二人で公園だぞ?」


「ノアもいる」


「ひよりと同じこと言うなよ」


 美月は小さく笑い、再び冊子へ視線を戻した。


 ただし、兄ほど騒がないだけで、美月自身も何も感じていないわけではなかった。


 ひよりが颯太を好きなのは知っている。


 その話をするときの妹は分かりやすい。頬が赤くなり、声が少し上ずり、些細な会話一つで一日機嫌がよくなる。


 一方、真樹の話をするときのひよりは違う。


 もっと自然で、もっと無防備だ。


 相手の悪口に近いことまで平気で言いながら、その実、細かな言葉や出来事をよく覚えている。


(どっちが恋とか、そういう話じゃないんだろうけど)


 今のひより自身がそう思っているなら、それでいい。


 美月はそう考え、何も言わなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後一時四十八分。


 ひよりが公園の入口へ到着すると、そこに真樹とノアの姿はなかった。


「勝った」


 思わず小さく呟く。


 まだ勝負など始まっていないが、今日は自分が先だ。


 ひよりは入口近くの時計を確認し、スマートフォンを取り出した。


『着いた』


 送信する。


 すぐには既読にならない。


「十二分前だもんね」


 むしろ自分が早すぎる。


 ひよりは公園の中へ少し入り、昨日の雨が残る地面を眺めながら待つことにした。日向の遊歩道はほとんど乾いているものの、木陰にはまだ湿った落ち葉が残り、土の匂いがいつもより強い。


 休日らしく、平日の夕方より人が多かった。


 小さな子どもを連れた家族や、ジョギングをしている人、ベンチで話している老夫婦もいる。


 ひよりがそんな風景を眺めていると、背後から低い声がした。


「早すぎだろ」


 振り返る。


 真樹がいた。


 その隣にはノアもいる。


「北条君!」


 ひよりの顔が一気に明るくなる。


 ノアもひよりに気づき、尻尾を大きく振りながら近づいてきた。


「ノア、おはよう……じゃない、こんにちは!」


 ひよりはしゃがみ込み、寄ってきたノアの首元を撫でる。


「昨日ぶり。今日はちゃんと晴れたね」


「昨日も会っただろ」


「ノアに言ってるの」


「俺も昨日いた」


「知ってるよ」


 ひよりはノアを撫でたまま真樹を見上げる。


「それより私の勝ち」


「何が」


「今日は私が先だった」


「十二分も前に来るほうがおかしい」


「北条君も早いじゃん。今まだ五十分くらいでしょ?」


「……」


 真樹が黙る。


 ひよりは立ち上がり、スマートフォンで時刻を確認した。


 一時五十一分。


「九分前」


「ノアが早く出たがっただけ」


「ほんとかなあ」


「ほんと」


「昨日、遅れるなって言ったの北条君だよ?」


「遅れるなとは言った。早く来いとは言ってない」


「じゃあ褒めて。ちゃんと早く来たから」


「何で」


「昨日から褒める遊び続いてるでしょ」


「まだ続いてたのかよ」


「当然です」


 ひよりは得意そうに胸を張る。


 真樹は呆れたように見ていたが、ふとひよりの服装へ視線を移した。


 制服姿ではない。


 先週の土曜日にも私服では会っているが、今日は白いニットに淡い色のコートを合わせているせいか、学校帰りに見るときとは少し雰囲気が違った。


 髪も下ろしている。


(……似合ってる)


 自然にそう思った。


 しかし口に出すより先に、ひよりが顔を覗き込む。


「今、褒めるところ探した?」


「探してない」


「見たじゃん」


「何を」


「服」


「見てない」


「絶対見た!」


「気のせい」


「じゃあ変?」


「そうは言ってない」


「じゃあ似合ってる?」


「何で二択なんだよ」


「似合ってるか似合ってないかでしょ?」


「普通」


「普通は禁止!」


「いつ決まった」


「今」


「勝手にルール増やすな」


 真樹が歩き出す。


 ひよりは笑いながらノアの反対側へ並んだ。


「北条君、今日も素直じゃないね」


「お前が面倒なだけ」


「でも昨日、ほぼ負けたもんね」


「負けてない」


「『今日会えた方がよかった』って認めた」


「言い方変えるな」


「意味は同じ」


「違う」


「今日こそ完全勝利するから」


「好きにしろ」


 真樹はそう返したが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。


     ◇ ◇ ◇


 三人で遊歩道を歩き始める。


 今日は平日より時間が早いため、冬の日差しがまだ公園の中へしっかり差し込んでいた。昨日までの雨で空気が澄んでいるのか、木々の間から見える青空もいつもより鮮やかに感じられる。


「そうだ」


 ひよりは鞄から小さな袋を取り出した。


「最後の二枚」


「もうやるの?」


「一枚だけ。もう一枚はあとで」


「ちゃんと分けるんだな」


「一気に食べたら楽しみなくなるでしょ」


「ノアは一気に食べたいと思うけど」


「駄目です」


 ひよりはしゃがみ、クッキーを一枚だけ取り出す。


「ノア、待て」


 真樹が何も言わずに見ている。


 ノアはひよりの手元をじっと見つめたまま、その場で待った。


「えっ」


 ひよりが驚く。


 以前、「いつか私の『待て』も聞いてくれたらいいな」と話していた。


 今日は真樹が指示していない。


「ノア、待ってる!」


「聞こえてる」


「私の言うこと聞いてる!」


「最近何回もやってるから覚えたんじゃない」


「すごい! ノア、すごい!」


「待たせたまま褒めるな。早くやれ」


「あ、ごめん。よし!」


 ひよりが許可すると、ノアは差し出されたクッキーを丁寧に口へ入れた。


 ひよりは嬉しそうに頭を撫でる。


「北条君、見た? 私の『待て』聞いてくれた!」


「見てた」


「嬉しい!」


「よかったな」


「うん!」


 ひよりは満面の笑みで頷いた。


 その表情を見て、真樹は少しだけ目を細める。


 ノアがひよりへ懐いていることは、もう疑いようがない。


 最初に会った日から異様なほど気に入っていたが、今ではひよりの声を聞き分け、名前を聞けば反応し、指示まで受け入れ始めている。


「ノア、私のことかなり好きだよね」


「自信満々だな」


「だってそうでしょ?」


「まあ」


「北条君より私のほうが好きになったらどうする?」


「ならない」


「分かんないよ?」


「なるわけない」


「何で言い切れるの?」


「俺が何年一緒にいると思ってんだよ」


「歴史で勝負するのずるい」


「ずるくない」


 ひよりが笑いながらノアへ顔を向ける。


「ノア、私と北条君どっちが好き?」


「聞くな」


 ノアは何も答えず、二人の間を歩いている。


「ほら、迷ってる」


「違う」


「じゃあ私かな」


「何でそうなる」


「北条君かな」


「そこは当然」


「自信満々じゃん」


「お前が言うな」


 二人の声が重なり、ひよりが先に笑い出した。


     ◇ ◇ ◇


 公園を半周ほどしたころ、ひよりが不意に言った。


「今日ね、お兄ちゃんにまた北条君のこと聞かれた」


「……また?」


「うん。今日もいるのかって」


「何て言った」


「いるよって」


「そのまま言ったのか」


「隠すことじゃないでしょ?」


 真樹は少し考える。


「まあ、そうだけど」


「お兄ちゃん、まだ北条君に会いたいみたい」


「何で」


「私が最近よく会ってるから気になるんじゃない?」


「面倒くさ」


「本人に言わないでよ」


「言わない」


「でも会ったら絶対そういう顔すると思う」


「どんな顔だよ」


「今みたいな顔」


 ひよりが笑う。


 真樹は眉を寄せた。


「お前の兄貴、俺に何聞く気なんだ」


「分かんない。たぶん学校とか、家とか、何で私と会ってるのとか」


「最後のやつ俺が聞きたい」


「え?」


「何でもない」


 真樹は前を向く。


 なぜひよりと毎日のように会っているのか。


 最初はノアだった。


 迷子になったノアを保護してくれた女の子。


 それから偶然公園で会い、ノアがひよりを気に入り、何度も顔を合わせるようになった。


 連絡先を交換してからは、会えない日にもメッセージをするようになった。


 今ではノアがいなくても話せる。


 むしろ、以前にはノアを家へ帰したあとでひよりに会いに行ったことさえある。


(何で会ってるか、か)


 友達だから。


 今ならそう答えられる。


 ただ、それだけで全部説明できるのかと考えると、なぜか少し引っかかった。


「北条君?」


「何」


「また考え事?」


「してない」


「今、絶対してた」


「お前の兄貴面倒だなって」


「ひどい」


「事実だろ」


「否定はしないけど、私が言うのと北条君が言うのは違う」


「理不尽」


「家族ってそういうものです」


 ひよりは当然のように答えた。


 真樹は横目で彼女を見る。


「仲いいんだな」


「うん」


「うざいって言ってるくせに」


「うざいと好きは両立するよ」


「何だそれ」


「するの。お兄ちゃんもお姉ちゃんも大好きだけど、過保護はうざい」


「本人に言ってる?」


「言ってる」


「容赦ないな」


「北条君にも感じ悪いって言ってるでしょ」


「一緒にすんな」


 ひよりは楽しそうに笑った。


「北条君の家は?」


「何が」


「家族仲いい?」


 真樹の表情がほんの少しだけ変わった。


 ひよりはすぐに気づく。


「あ、言いたくなかったらいいよ」


「……別に、言いたくないわけじゃない」


「ほんと?」


「普通」


「また普通」


「お前の家みたいに毎朝騒がしくはない」


「騒がしいって言わないで」


「話聞いてる限り騒がしいだろ」


「否定できないけど」


 ひよりは笑い、それ以上詳しく聞かなかった。


 真樹が話せる範囲だけ話せばいい。


 その距離を崩さない。


 真樹はそれに気づきながら、少しだけ続けた。


「親は忙しい。家にいないことも多い」


「そっか」


「別に珍しくない」


「北条君の家では普通なんだね」


「まあ」


「じゃあノアがいてよかったね」


 真樹がひよりを見る。


「何で」


「家に誰もいないときでも、ノアいるんでしょ?」


「ああ」


「寂しくないじゃん」


 ひよりは何気なく言っただけだった。


 真樹は少し黙ったあと、前を歩くノアを見る。


「……そうかもな」


 ノアは昔からいる。


 家が静かな日も、両親が忙しい日も、何も関係なくそばにいた。


 だからこそ、真樹にとってノアは「飼っている犬」ではない。


「やっぱ家族だね」


「最初からそう言ってるだろ」


「うん。今ならもっと分かる」


 ひよりが柔らかく笑った。


 真樹は返事をしなかったが、その言葉は嫌ではなかった。


     ◇ ◇ ◇


 公園を出て川沿いへ向かう道に差しかかったところで、ひよりが立ち止まった。


「北条君」


「何」


「陽だまり行かない?」


「今日?」


「クッキー最後だし」


 鞄の中には残り一枚。


 ひよりは袋を軽く持ち上げる。


「また買いたい」


「一人で行けるだろ」


「昨日また一緒に行こうって言ったじゃん」


「そのうちって言った」


「今日がそのうち」


「便利に使いすぎだろ」


「時間ある?」


 真樹はスマートフォンで時刻を確認した。


 まだ二時半を少し過ぎたところだ。


 急いで帰る必要はない。


「……まあ、ある」


「じゃあ行こう」


「即決かよ」


「嫌なら嫌って言って」


 ひよりが真樹を見る。


 真樹は一瞬黙った。


 嫌ではない。


 むしろ、ひよりが一緒に行こうと言ったことを断る理由が見つからない。


「行けばいいだろ」


「やった」


 ひよりは嬉しそうに歩き出す。


「クリームパンも買おうかな」


「また?」


「美味しかったもん。北条君は?」


「店行ってから決める」


「絶対買うよ」


「何で決めつける」


「この前美味しそうに食べてた」


「普通に食ってただけ」


「北条君、何でも普通って言うね」


「お前が何でも意味持たせすぎなんだよ」


 そんなやり取りをしながら、三人は商店街へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


『ブーランジェリー陽だまり』の黄色い看板が見えてくると、ひよりの歩調が少し速くなった。


 土曜日の午後ということもあり、店内には前回より客が多い。入口近くまで焼きたてのパンの香りが漂い、ガラス越しにも何人かがトレーを持って商品を選んでいるのが見えた。


「混んでるね」


「ノア連れて入れないし、俺外いる」


「じゃあ私買ってくる」


「犬用のやつ、前と同じのにしろよ」


「分かってる。原材料も見る」


「あと買いすぎるなよ」


「お母さんみたい」


「誰がお母さんだ」


「お兄ちゃんは嫌なんでしょ?」


「どっちも嫌」


 ひよりは笑いながら店へ入った。


 真樹は店先の邪魔にならない場所へ移動し、ノアと一緒に待つ。


 ガラス越しに、ひよりがトレーを持って店内を歩いているのが見えた。


 クリームパンを一つ。


 何か別のパンを一つ。


 犬用クッキーの棚でも立ち止まる。


 真樹はぼんやりその姿を見ていた。


(何で俺、普通に買い物待ってんだ)


 先週も似たようなことをした。


 あのときは散歩の途中で偶然店を見つけ、ひよりが入りたいと言ったから寄った。


 今日は違う。


 二人で再び来ることを、昨日の夜から話していた。


 しかも、ひよりは「また一緒に行こう」と言った。


 それを自分は断らなかった。


「……」


 ノアが真樹を見る。


「何だよ」


 尻尾が揺れる。


「お前のクッキー買ってんだぞ」


 名前を出していないのに、ノアは店の中へ顔を向けた。


 しばらくすると、ひよりが紙袋を抱えて出てくる。


「お待たせ」


「買いすぎ」


「三個しか買ってないよ」


「犬用含めて?」


「含めない」


「四個じゃねえか」


「細かい」


 ひよりは紙袋を覗き込む。


「クリームパンと、チーズのパンと、お家用にあんパン。それとノアのクッキー」


「食うな」


「犬用は食べないよ!」


「お前ならやりそう」


「やらないから!」


 ひよりは抗議しながら、別の小さな紙袋を差し出した。


「はい」


「何」


「北条君の」


「……は?」


「クリームパン」


 真樹が紙袋を見る。


「頼んでない」


「でも食べるでしょ?」


「自分で買う」


「もう買っちゃった」


「金」


「いいよ。この前付き合ってくれたし、今日も来てくれたから」


「そういうのいいから」


 真樹が財布を出そうとする。


 ひよりは紙袋を胸元へ引いた。


「じゃああげない」


「は?」


「お金払うならあげない」


「意味分からん」


「私があげたいの」


 ひよりはそう言ってから、少し考えて付け足す。


「友達にパン一個くらい奢ってもいいでしょ?」


 真樹の手が止まる。


「……」


「嫌なら私が食べるけど」


「二個食う気かよ」


「食べられるよ」


「太るぞ」


「最低!」


 ひよりが睨む。


 真樹はわずかに笑い、結局財布をしまった。


「……もらう」


「最初から素直に言えばいいのに」


「お前が勝手に買ったんだろ」


「ありがとうは?」


「要求すんな」


「ありがとうは?」


「……ありがと」


 ひよりの顔がぱっと明るくなる。


「どういたしまして」


「何でそんな嬉しそうなんだよ」


「北条君が素直だったから」


「返せ」


「嫌です」


 ひよりは笑いながら歩き出した。


 真樹は紙袋を片手に持ち、ノアのリードを握ったままその隣へ並ぶ。


     ◇ ◇ ◇


 商店街の端にある小さな広場のベンチは、午後の日差しで乾いていた。


 二人は少し間を空けて腰を下ろし、ノアは真樹の足元で伏せる。


「いただきます」


 ひよりがクリームパンの袋を開ける。


 真樹も受け取ったものを取り出した。


「やっぱり買ってよかった」


「まだ食ってないだろ」


「美味しいの知ってるもん」


 一口食べると、ひよりは満足そうに目を細める。


「美味しい」


「知ってる」


「北条君も美味しい?」


「普通」


「また!」


「美味いよ」


 思ったより素直に言われ、ひよりが目を丸くした。


「今日どうしたの?」


「何が」


「素直」


「パンの感想くらい言う」


「じゃあ私の服も」


「関係ないだろ」


「朝からまだ答えてない」


「朝じゃない」


「会ったときから」


「どうでもいい」


「似合ってる?」


「……」


 真樹はクリームパンへ視線を落とす。


 ひよりは待つ。


「北条君」


「うるさい」


「似合ってる?」


「しつこい」


「似合ってない?」


「そうは言ってない」


「じゃあ?」


 真樹は逃げ道を探すように周囲を見る。


 休日の商店街には買い物客が行き交い、誰も二人の会話など気にしていない。


 それなのに、ひより本人へ「似合っている」と言うだけで妙に抵抗がある。


「……変じゃない」


「それ褒めてない」


「十分だろ」


「足りない」


「面倒くさ」


「昨日、諦めないの褒めるところって言ったの北条君だからね」


「それを武器にすんな」


 ひよりが楽しそうに笑う。


 真樹は小さく息を吐いた。


「……似合ってる」


 ひよりの笑いが止まった。


「え?」


「聞こえただろ」


「もう一回」


「絶対言わない」


「待って、今ちゃんと言った?」


「忘れろ」


「言った!」


 ひよりは嬉しそうに自分のコートを見る。


「お姉ちゃんにも似合ってるって言われた」


「じゃあ俺に聞く必要なかっただろ」


「北条君にも聞きたかったから」


 何気ない一言。


 真樹は返事に詰まった。


 ひよりは自分の服を見ながら、まだ嬉しそうにしている。


(何で俺に言われてそんな喜ぶんだよ)


 その疑問と同時に、別の感覚が胸の奥へ生まれる。


 自分が言ったことで、ひよりが笑った。


 それが思っていたより悪くない。


 むしろ――。


「北条君」


「何」


「今ちょっと嬉しそう」


「気のせい」


「私の服褒めて、私が喜んだから北条君も嬉しくなった?」


「ならない」


「怪しい」


「食え」


「食べてるよ」


 ひよりはまたクリームパンを一口食べた。


 その横顔を見ながら、真樹は自分のパンへ視線を戻す。


 否定した。


 けれど完全な嘘でもなかった。


     ◇ ◇ ◇


 パンを食べ終えて公園へ戻る道すがら、ひよりのスマートフォンが震えた。


「あ、お兄ちゃん」


「例のシスコン?」


「例のって言わないで」


 ひよりは画面を見る。


『暗くなる前に帰ってこいよ』


 それだけだった。


「まだ三時半なのに」


「早いな」


「でしょ?」


 ひよりは返信する。


『分かってる』


 送った直後、さらにメッセージが届く。


『迎え必要なら言え』


「……過保護」


「迎え来るの?」


「いらないよ。まだ明るいし」


「帰り遅くなるなら呼べば」


「北条君までお兄ちゃんみたいなこと言わないで」


「二十四歳のシスコンと一緒にすんな」


 ひよりが吹き出す。


「まだ覚えてる」


「一回聞いたら普通覚えるだろ」


「北条君って、ほんと変なところ記憶いいよね」


「変って言うな」


「じゃあ、いいところ」


「適当」


「褒めてるよ」


 ひよりはスマートフォンをしまい、少ししてから真樹を見る。


「いつか本当に会う?」


「誰に」


「お兄ちゃん」


「……嫌だ」


「即答!」


「面倒なの分かってる相手に会いたいと思うか?」


「でも逃げ続けたら余計怪しまれるかも」


「何を怪しまれるんだよ」


「私と何してるのかとか」


「散歩」


「今日パン屋行ったけど」


「散歩の途中」


「二人でパン食べた」


「ノアもいた」


「ノア食べてないよ」


「そういう意味じゃない」


 ひよりはくすくす笑う。


「お兄ちゃんに今日のこと言ったら、絶対デートって言うと思う」


 真樹の足が一瞬止まりかけた。


「……は?」


「前から何でもデートって言うの。公園行くだけでも」


「違うだろ」


「うん。友達と散歩してパン食べただけ」


 ひよりはあっさり答える。


 その言葉に、真樹はなぜか少しだけ胸の奥が引っかかった。


 自分でも「デートではない」と思ったばかりなのに、ひよりが迷いなく否定すると面白くない。


(何なんだよ)


 最近、こういうことが増えた。


 自分で否定したことを、ひよりにも同じように否定されると妙に気になる。


 理由は分からない。


「北条君?」


「何」


「嫌そうな顔してる」


「お前の兄貴に勝手にデート扱いされるのが嫌なだけ」


「じゃあ会ったら自分で説明して」


「何で俺が」


「友達ですって」


 真樹はひよりを見る。


「……お前が言え」


「言ってるよ」


「ならいいだろ」


「でも信じないんだもん」


「知らない」


 真樹は前を向いた。


 ひよりはその反応を特に不思議とも思わず、隣を歩き続けた。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ戻ったころには、三時五十分を過ぎていた。


 ひよりは最後に残していた一枚のクッキーをノアへ見せる。


「ノア、これで最後ね」


 ノアの耳が動く。


「待て」


 今度も、ノアはきちんと待った。


 ひよりは嬉しさを抑えきれず、真樹を見る。


「今日二回ともできた!」


「覚えたな」


「私の言うこと?」


「多分」


「やった」


 ひよりは少し長めに待たせてから、「よし」と声をかける。


 ノアがクッキーを食べ終えると、ひよりは頭から首元まで丁寧に撫でた。


「また買ってきたからね」


「甘やかすなよ」


「量は北条君に聞く」


「ならいいけど」


「私、ちゃんとしてるでしょ?」


「まあ」


「褒めて」


「また?」


「今日はまだ一回しか褒めてもらってない」


「服で一回使った扱いなのかよ」


「もちろん」


「回数制じゃないだろ」


「じゃあ無制限?」


「増やすな」


 真樹が呆れ、ひよりは笑う。


 そのまま二人は再び歩き始めた。


 土曜日だから、平日より時間に余裕がある。


 それでも夕方は少しずつ近づいてくる。


「北条君」


「何」


「今日楽しい?」


 真樹は警戒するようにひよりを見る。


「何だよ急に」


「普通に聞いただけ」


「お前の普通は信用できない」


「ひどい」


「どうせまた『会えて嬉しい』につなげるだろ」


「……ばれた」


「分かりやすすぎ」


 ひよりは笑った。


「でも本当に楽しい?」


 今度は少しだけ声が柔らかい。


 真樹は前を見る。


 公園を歩いて、ノアのクッキーを買いにパン屋へ行って、ひよりにクリームパンを奢られた。


 服を褒めろとしつこく迫られ、兄の話を聞かされ、くだらないことで何度も言い合った。


 特別なことは何もしていない。


 それでも。


「……まあ」


「まあ?」


「退屈ではない」


「またそれ!」


「事実」


「『楽しい』って言えばいいじゃん」


「嫌」


「何で!」


「言わされるのが嫌」


「じゃあ自分から言って」


「もっと嫌」


「難しい!」


 ひよりは笑いながら頭を抱える真似をする。


「北条君を素直にするの、すっごく大変」


「頼んでない」


「私が勝手にやってる」


「知ってる」


「でも昨日より進歩したよね」


「何が」


「服似合ってるって言えた」


「……忘れろ」


「絶対忘れない」


「忘れろ」


「お姉ちゃんと北条君に褒められた服として覚えとく」


「何だそれ」


「大事な記憶」


 ひよりは笑っている。


 真樹は視線を逸らした。


 たった一言で、そこまで喜ぶとは思わなかった。


(……また言えば喜ぶのか)


 そんな考えが自然に浮かび、真樹は自分で戸惑う。


 なぜ、ひよりを喜ばせることを考えているのか。


 答えはまだ分からない。


     ◇ ◇ ◇


 午後四時半を過ぎると、日が少しずつ傾き始めた。


「そろそろ帰ろうかな」


 ひよりが空を見上げる。


「兄貴うるさそうだしな」


「うん。迎えに来るとか言い出す前に帰る」


「来てもらえばいいだろ」


「公園まで来たら北条君見つかるよ」


「……帰れ」


「急に!」


「面倒なの来る前に帰れ」


「お兄ちゃんを災害みたいに言わないで」


「俺にとっては似たようなもんだろ」


「まだ会ってもないのに」


 ひよりは笑いながらノアの頭を撫でる。


「ノア、またね。新しいクッキーは今度ね」


 ノアが尻尾を振る。


「今日は私の『待て』聞いてくれてありがと」


「ノアに礼言うやつ初めて見た」


「いいでしょ」


「好きにしろ」


 ひよりは立ち上がり、真樹を見る。


「北条君も、今日はありがと」


「何が」


「パン屋付き合ってくれたし」


「俺もパン食った」


「あと服褒めてくれた」


「それは忘れろ」


「嫌」


「しつこい」


「それが私のいいところです」


「自分で言うな」


 ひよりは楽しそうに笑った。


 そして数歩後ろへ下がる。


「じゃあまたね」


「ああ」


「月曜日?」


 真樹は一瞬黙った。


 明日は日曜日。


 特に予定を話していない。


 先週の日曜日は交流会があり、会わなかった。


 今日は土曜日で、長い時間一緒にいた。


 普通なら次は月曜日でもおかしくない。


「……明日は?」


 口から出ていた。


 ひよりが目を丸くする。


「明日?」


「いや、別に」


「北条君、明日も散歩する?」


「するけど」


「何時?」


「今日と同じくらい」


 ひよりの顔が明るくなる。


「じゃあ行こうかな」


「好きにすれば」


「また二時?」


「大体」


「じゃあ大体二時」


「またそれかよ」


 ひよりは笑う。


「北条君から明日って聞いたんだからね」


「散歩するか聞いただけ」


「私は聞いてないよ。北条君が『明日は?』って」


「……」


「会いたい?」


 真樹が黙る。


 ひよりはすぐに楽しそうな顔になる。


「チャンス!」


「違う」


「北条君から明日も会おうとした!」


「してない」


「した!」


「散歩の話」


「じゃあノアに会いに行くね」


「……」


「北条君はついででいい?」


「何でそうなる」


 反射的に返してから、真樹は口を閉じた。


 ひよりも一瞬止まり、そのあと笑顔を大きくする。


「ついで嫌なんだ?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ北条君にも会いに行く」


「勝手にしろ」


「うん。勝手にする」


 ひよりは満足そうに頷いた。


「また明日、北条君」


「ああ。また明日」


 今度は自然に返せた。


 ひよりは手を振り、公園を出ていく。


 真樹はその背中を見送りながら、数秒その場に立っていた。


「……明日もか」


 隣でノアが尻尾を揺らす。


 真樹はその頭へ手を置く。


「お前が会いたいんだろ」


 ノアが真樹を見上げる。


「俺じゃなくて」


 言い訳のように付け加えた。


 しかし、自分から「明日は?」と聞いたことまでは消せなかった。


     ◇ ◇ ◇


 ひよりが家へ帰ると、玄関を開けてすぐに悠一の声が聞こえた。


「おかえり」


「ただいま。まだ明るいでしょ?」


「それは偉い」


「子ども扱いしないで」


 靴を脱ぎながら答える。


 リビングへ入ると、美月もまだソファにいた。


「楽しかった?」


「うん」


 ひよりは素直に頷いた。


「ノアがね、私の『待て』聞いてくれたの!」


「へえ。すごいじゃん」


「でしょ? 二回ともできたんだよ」


 美月は笑う。


「よかったね」


「あとパン屋行ってきた」


 悠一が反応する。


「パン屋?」


「前にも行ったところ。ノアのクッキーなくなったから」


「北条と?」


「うん」


「二人で?」


「ノアもいる」


「だからノアは――」


「お兄ちゃん、それ今日二回目」


 ひよりが呆れる。


 美月は兄を無視し、ひよりを見る。


「何買ったの?」


「クリームパンとチーズのパンと、あんパン。あんパンはみんなで食べようと思って」


「ありがと」


「あと北条君にもクリームパン買ってあげた」


 悠一の表情が変わる。


「何で?」


「一緒に来てくれたから」


「それデートじゃないのか?」


「違うよ」


「散歩して、二人でパン屋行って、パン買って一緒に食べたんだろ?」


「友達でもするでしょ」


「するけど!」


「じゃあいいじゃん」


「何で明日も会うんだよ」


「……え?」


 ひよりが止まる。


「今、明日も会うって言ったか?」


「言ってないけど」


「顔に書いてある」


「書いてない!」


「会うの?」


 美月まで尋ねる。


 ひよりは少し迷ってから頷いた。


「たぶん。今日と同じくらいに」


「北条君から?」


「え?」


「明日も会おうって」


「会おうとは言ってないよ」


 ひよりは今日の別れ際を思い出す。


「私が月曜日かなって聞いたら、北条君が『明日は?』って聞いてきて、散歩するっていうから私も行くって」


 美月の眉がほんの少し上がった。


「ふうん」


「何、その反応」


「別に?」


「また北条君みたい!」


 ひよりが抗議する。


 悠一はもっと分かりやすく頭を抱えていた。


「向こうから明日も会おうとしてるじゃん……」


「散歩だってば」


「ひより」


「何?」


「俺、一回そいつに会う」


「何で話戻るの!」


「必要性が上がった」


「何の必要性!?」


「兄として!」


「意味分かんない!」


 リビングに兄妹の声が響き、台所にいた由美が「騒ぐなら夕飯できてからにしなさい」と呆れた声を飛ばす。


 美月はそのやり取りを眺めながら、小さく笑った。


 ひよりはまだ気づいていない。


 おそらく真樹も気づいていない。


 けれど、昨日会えなかったことをきっかけに、二人は翌日も会うことを以前より自然に選ぶようになっている。


 美月はそれを口には出さなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夜。


 真樹は自室でスマートフォンを見ていた。


 ひよりから届いたのは、帰宅報告と一枚の写真だった。


『ただいま』


『あんパン家族に出したら好評だった』


 写真には皿へ切り分けられたあんパンが写っている。


『よかったな』


 そう返すと、すぐに次が来た。


『お兄ちゃんに今日のこと話したらまたデートって言われた』


 真樹の指が止まる。


『違うだろ』


『私もそう言った』


 胸の奥に、昼間と同じ小さな引っかかりが生まれた。


 真樹はしばらく画面を見た。


『友達と散歩してパン食っただけ』


 自分で送る。


 事実だ。


『そうそう』


 ひよりから返ってきた。


 また、少し面白くない。


(だから何でだよ)


 自分が否定した。


 ひよりも否定した。


 意見は一致している。


 何も問題はない。


 それなのに、なぜか完全に納得できない。


『でも楽しかった』


 ひよりから続けて届く。


 真樹の視線が止まる。


『北条君は?』


 昨日までなら、「退屈ではなかった」と返しただろう。


 今日もそれでいい。


 そう思って入力欄を開く。


『退屈では』


 そこまで打って、止めた。


 昼間、ひよりは何度も「楽しい?」と聞いていた。


 服を褒めたとき、ひよりは本当に嬉しそうだった。


 パンを渡したときも、「ありがとう」と言っただけで笑った。


(……言ったらまた喜ぶのか)


 その考えが浮かぶ。


 真樹は一度全部消した。


 そして、


『まあ、楽しかった』


 と打つ。


 送信する前に数秒迷った。


 それでも、今度は消さなかった。


 送る。


 既読がついた。


 十秒ほど返事がない。


「……何だよ」


 自分から送ったくせに、反応が気になる。


 やがて通知が来た。


『え!?』


 続けて、


『北条君が楽しかったって言った!』


『記念日!?』


「……」


 真樹は眉を寄せた。


『やっぱ取り消す』


『駄目!保存した!』


『消せ』


『スクショした』


『何でだよ』


『北条君が素直だった記念』


『うざい』


『褒め言葉?』


『違う』


 真樹は呆れながらも、口元が緩んでいることに気づいた。


 ひよりからさらにメッセージが来る。


『私も楽しかったよ』


『明日も楽しみ』


 真樹は画面を見る。


 明日も。


 自分から聞いた。


 明日はどうするのかと。


 ノアの散歩を理由にすることはできる。


 けれど、ひよりが「月曜日?」と言った瞬間、自分が「明日は?」と返したのは事実だった。


(俺、何で聞いたんだ)


 会いたかったから。


 そんな単純な答えが、一瞬だけ頭に浮かぶ。


 真樹はすぐに否定しようとした。


 だが昨日、自分は「今日会えた方がよかった」と認めた。


 今日も、一緒にいて楽しかったと送った。


 友達なら、それでいいのかもしれない。


(……友達なら、明日も会いたいと思っても普通だろ)


 まだ、その説明が使える。


『遅れるなよ』


 真樹は送る。


『今日は私の方が早かった!』


『早すぎ』


『明日も勝つ』


『勝負じゃない』


『じゃあ北条君も早く来ないでね』


『何で指示されなきゃいけないんだよ』


『私が先に着きたいから』


『知らん』


 真樹は笑いながら返信する。


 やがて会話の最後に、


『おやすみ。また明日』


 と届いた。


 真樹も、


『おやすみ』


 と返す。


 少し迷ってから、もう一つ送った。


『また明日』


     ◇ ◇ ◇


 ひよりは布団の中で、その四文字を見つめた。


 昨日までも何度か交わしている言葉なのに、今日は少しだけ嬉しかった。


 真樹のほうから明日のことを聞いてきた。


 楽しかったとも言った。


 最後には「また明日」と送ってきた。


(やっぱり北条君、ちょっとずつ素直になってる)


 ひよりは満足そうに笑う。


 自分が「会えて嬉しい」と言わせる日も、案外近いかもしれない。


 ただし、その言葉を言わせたい理由については、まだ考えていなかった。


 勝負だから。


 真樹が素直ではないから。


 言わせたら面白そうだから。


 今はそれで十分だった。


 ひよりはスマートフォンを枕元へ置き、目を閉じる。


 明日も午後二時ごろ。


 同じ公園で、真樹とノアに会う。


 それが休日の予定として自然に決まったことを、不思議だとは思わなかった。


 そして同じころ、真樹もまた、翌日の散歩へ出る時間をいつもより少しだけ気にしながら眠りにつこうとしていた。


 二人ともまだ、その時間を恋とは呼ばない。


 ただ会えば楽しく、会えなければ少し物足りず、別れれば次に会う日を確かめる。


 そんな変化だけが、本人たちの自覚より少し先を歩くように、静かに積み重なっていた。

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