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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第24話 昨日会えなかったから



 金曜日の朝、雨上がりの空には薄い雲が残っていたものの、その隙間から差し込む日差しは昨日よりずっと明るかった。


 天野ひよりは通学路の途中に残る水たまりを避けながら歩き、時折、鞄につけた黒犬のキーホルダーへ目を落としていた。歩くたびに小さく揺れるそれを見ると、昨日真樹から送られてきた、玄関で退屈そうに伏せていたノアの写真を思い出す。


 昨夜、寝る前にも一度その写真を見た。


 大きな黒犬なのに、散歩へ行けず不満そうにしている姿が妙に可愛かった。


(今日はいっぱい撫でよう)


 そう考えた直後、昨夜のやり取りまで一緒に思い出す。


『今日会えなかったから』


 自分で送った言葉だ。


 そのときは素直にそう思ったから送っただけなのに、朝になって改めて思い返すと少しだけ恥ずかしい。


 しかも真樹は、


『分かった』


『行く』


 と返してきた。


(北条君も、ちょっとくらい会いたかったのかな)


 そんな考えが浮かび、ひよりはすぐに首を横へ振った。


「いやいや、何でそうなるの」


 小さな独り言が漏れる。


 真樹にはノアの散歩がある。


 自分が公園へ行くかどうかとは関係なく、雨が上がれば散歩へ行くつもりだったのかもしれない。


 けれど、昨夜のやり取りを思い出すと、それだけとも思えなかった。


(今日こそ言わせよう)


 ひよりは少し笑う。


 ここ数日続いている、真樹に「会えて嬉しい」と言わせる遊び。


 最初はただの冗談だったはずなのに、真樹が頑なに言おうとしないせいで、いつの間にか本気で勝ちたくなっている。


「今日は逃がさないからね」


 誰もいないところで宣言し、ひよりは青葉高校へ向かう足を少しだけ速めた。


     ◇ ◇ ◇


 教室へ入ると、千夏はすでに自分の席で友人と話していた。


 ひよりに気づくと軽く手を上げ、相手との会話を終えてからこちらへやってくる。


「おはよ。今日は朝から機嫌いいね」


「おはよう。そう?」


「昨日は窓見ながら『雨止まないかな』って顔してたのに」


「そんな顔してないよ」


「してた」


 千夏は笑いながら、ひよりの鞄についた黒犬のキーホルダーを指先で軽く揺らす。


「今日は会えるんでしょ?」


「うん。雨上がったから」


「よかったね」


「ノア、昨日散歩行けなくて退屈だったみたい。北条君が写真送ってくれたんだけど、すごく可愛かったよ」


「見せて」


「いいよ」


 ひよりがスマートフォンを取り出し、昨日送られてきたノアの写真を表示する。


 千夏は画面を覗き込み、すぐに頬を緩めた。


「ほんとだ。でっかいのに拗ねてるみたい」


「でしょ? 可愛いよね」


「北条君は?」


「何が?」


「写真ないの?」


「頼んだけど断られた」


「頼んだんだ」


「だって日曜日は送ってくれたし」


「それ、交流会の服見たいってひよりが言ったからでしょ?」


「そうだけど」


 千夏は少しだけ笑みを深くした。


「それで、今日は北条君に何させるの?」


「『会えて嬉しい』って言わせる」


「まだ続いてたんだ」


「昨日会えなかったから、今日は言いやすいと思う」


「どういう理屈?」


「一日空いたから」


「日曜日も一日空いてたよね?」


「その次の日も言わなかった」


「強敵だね」


「強敵なの」


 ひよりが真剣な顔で頷くため、千夏はとうとう吹き出した。


「何で笑うの!」


「ごめん。でも二人が何と戦ってるのか分かんなくて」


「私は北条君の素直じゃなさと戦ってる」


「北条君は?」


「私のしつこさ?」


「そこは自覚あるんだ」


「北条君に何回も言われたからね」


 ひよりは頬を膨らませながらスマートフォンをしまう。


 その様子を見ながら、千夏は少しだけ目を細めた。


 昨日、ひよりは「北条君とも話したかった」とごく自然に言った。


 以前ならノアを前へ出して誤魔化していたところを、今は真樹に会いたかったことまで認められるようになっている。


 それでも、ひよりが颯太を好きだという気持ちに嘘はない。


 恋をしている相手と、気を許している相手。


 今のひよりの中では、二人はきちんと別の場所にいるのだろう。


(でも、北条君の場所はどんどん大きくなってるんだよね)


 千夏はそこまで考え、口には出さなかった。


 友達の気持ちを、本人より先に決める必要はない。


「今日言わせられたら報告して」


「もちろん」


「言わせられなかったら?」


「明日に持ち越す」


「終わらないじゃん」


「北条君が悪い」


「本人に聞かせたいな、それ」


 千夏が笑ったところで予鈴が鳴り、二人はそれぞれの席へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 午前中の授業が二つ終わった休み時間。


 ひよりが廊下へ出ると、少し先に颯太の姿を見つけた。


 昨日は朝と放課後に話せた。


 今日も声をかけたい。


 そう思った瞬間、胸の奥に昨日とは違う緊張が生まれる。


(大丈夫。昨日だって普通に話せたんだから)


 ひよりは一度だけ息を整え、颯太へ近づいた。


「佐伯君」


 呼びかけると、颯太が振り返る。


「天野。おはよ」


「おはよう。昨日、宮田君の写真大丈夫だった?」


「大丈夫。あいつ、昔の写真全然持ってなくてさ。めちゃくちゃ助かったって」


「よかった」


「俺も今度からちゃんと撮っとこうかな」


「昨日も言ってたね」


「だって本当に何もないんだよ。去年の文化祭とか、天野に送ってもらったやつくらい」


 颯太が苦笑する。


「今年は撮ろうね」


「うん。みんなで撮ろう」


 昨日も聞いた言葉なのに、やはり嬉しい。


 ひよりは笑顔で頷いた。


 そのとき、颯太の視線がひよりの鞄へ向く。


「それ、犬?」


「え?」


「キーホルダー」


「あ、うん」


 ひよりは黒犬のキーホルダーを持ち上げた。


「この前買ったの」


「犬好きだったっけ?」


「最近ね。友達が大きい黒犬飼ってて、すごく可愛いの」


「へえ。大型犬?」


「かなり大きいよ。でもすっごく優しいの」


 ノアの話になると、自然と声が弾む。


「へえ。見てみたいな」


「写真あるよ」


「マジ?」


 ひよりはスマートフォンを取り出し、昨日真樹から送られてきたノアの写真を見せた。


「でかっ」


「でしょ?」


「これ家の中?」


「うん。昨日雨で散歩行けなくて、拗ねてたみたい」


「可愛いな」


「可愛いでしょ!」


 颯太と一緒にノアの写真を見ている。


 それだけで、ひよりは何だか不思議な気持ちになった。


 自分が好きな人へ、最近仲良くなった友達の大切な家族を見せている。


 少し前までは絶対になかった場面だ。


「飼い主って、男?」


 颯太が何気なく聞く。


「うん。同い年の男の子」


「同じ学校?」


「違うよ」


「じゃあどうやって知り合ったの?」


「ノアが迷子になってて、それで」


「犬から友達になったんだ」


「そうそう」


 ひよりは笑う。


 詳しく説明しようと思えばいくらでも話せる。


 けれど休み時間は短い。


「今度また写真見せるね」


「おう」


 そこで次の授業を知らせる予鈴が鳴った。


「やば。戻るわ」


「うん」


「またな、天野」


「またね」


 颯太が廊下の向こうへ走っていく。


 ひよりはその背中を見送りながら、胸元へスマートフォンを軽く抱えた。


(今日も話せた)


 少しずつ。


 本当に少しずつだが、以前より自然に話せるようになっている。


 それが嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み、ひよりは千夏と弁当を食べながら、先ほどのことを話した。


「佐伯君にノアの写真見せた」


「へえ」


「可愛いって」


「そりゃ可愛いでしょ」


「あと、飼い主が男か聞かれた」


「え」


 千夏の箸が止まる。


「何で?」


「犬好きだったっけって聞かれて、最近友達が飼ってるって言ったから。同い年って言ったら男かって」


「それで?」


「男だよって」


「北条君の名前は?」


「言ってない。予鈴鳴っちゃったし」


 千夏は少し考える。


 颯太の質問に特別な意味があるかどうかは分からない。


 単純に会話の流れで聞いただけかもしれない。


 ここで余計な期待を持たせるべきではないだろう。


「そっか」


「何?」


「別に」


「その言い方、ほんと北条君みたい」


「うわ、やめて」


 千夏が嫌そうな顔を作る。


「最近ひよりが北条君の話しすぎるから移ったのかも」


「私のせい?」


「半分くらい」


「じゃあ残り半分は?」


「北条君のせい」


「会ったの一回だけじゃん」


「一回で十分濃かった」


 千夏は以前、公園で真樹と会ったときのことを思い出す。


 ひよりのことをよく見ている男子。


 口は悪いのに、結局ひよりへ合わせてしまう男子。


 そして、ひよりと自分の距離が近いと妙にこちらを見る男子。


 本人に自覚があるとは思えなかったが、観察する側としては面白い相手だった。


「また会いたいな、北条君」


「来れば?」


「いいの?」


「私はいいけど、北条君が何て言うかな」


「嫌がりそう」


「たぶん」


「じゃあ余計会いたい」


「何で!」


「反応面白いから」


「北条君で遊ばないでよ」


「ひよりが一番遊んでるじゃん。『会えて嬉しいって言って』って毎日迫ってるんでしょ?」


「遊んでない。勝負」


「何が違うの?」


 ひよりは答えられず、弁当の卵焼きを口へ運んだ。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、桜陵学園の食堂では、真樹が蓮と向かい合って昼食を取っていた。


 今日は玲奈の姿がない。


 別の友人たちと食べているらしく、少し離れた席にいるのが見える。


「今日、公園行くんだろ?」


 蓮が唐突に聞く。


「何でお前に報告しなきゃいけないんだよ」


「昨日雨だったから行けなかったって言ってたじゃん」


「言ってない」


「雨見ながら散歩無理そうって話したら、すげえ嫌そうな顔してた」


「してない」


「してた」


 蓮は楽しそうに笑う。


 真樹は箸を置き、面倒そうに息を吐いた。


「今日はノアの散歩行く。それだけ」


「天野さんは?」


「来るんじゃない」


「約束した?」


「昨日連絡した」


「真樹から?」


 真樹が黙る。


 蓮の笑みが深くなった。


「へえ」


「何」


「いや、真樹から連絡したんだなと思って」


「天気の話しただけ」


「わざわざ明日晴れるって?」


「そう」


「天野さんに?」


「そうだよ」


「会いたかった?」


「黙れ」


 真樹が低い声で返す。


 蓮は肩を揺らして笑った。


「で、天野さんは?」


「何が」


「会いたかったって?」


 真樹は答えなかった。


 昨夜のメッセージが頭に浮かぶ。


『今日会えなかったから』


『多分じゃなくて来て』


 あの言葉を蓮へ教える気にはなれない。


「普通」


「何が普通なんだよ」


「友達なんだから、一日会わなかったら次の日会うくらい普通だろ」


「毎日会う友達って結構仲いいけどな」


「お前とも学校で毎日会ってる」


「学校違うじゃん」


「……」


「わざわざ放課後に待ち合わせてるようなもんだろ?」


「待ち合わせてない」


「でも大体同じ時間に公園行くんだろ?」


「ノアの散歩の時間が同じだけ」


「天野さんも?」


「……」


 また答えが止まる。


 蓮は追及しすぎない程度に笑い、食事へ戻った。


「まあいいけど」


「何なんだよ」


「真樹が楽しそうなら」


「楽しそうに見える?」


「前よりは」


 真樹は少しだけ眉を寄せる。


「どこが」


「スマホ見る回数増えたし、天野さんの話になると返事長くなるし、最近ノアの散歩の時間を前より気にしてる」


「気のせい」


「そういうことにしとく」


 蓮はそれ以上言わなかった。


 真樹は食事を再開したものの、少ししてスマートフォンへ目を向ける。


 まだ、ひよりから連絡はない。


(別に放課後になれば会うんだから、連絡いらないだろ)


 そう思いながらも、画面を確認した自分へ小さく苛立つ。


 そのとき通知が一件入った。


 真樹の指がすぐに動く。


 だが表示されたのは玲奈からのメッセージだった。


『今度ノアに会いに行く件、来週あたりどう?』


「……」


 真樹は一度画面を閉じた。


「今の、天野さんじゃなかった?」


「何で分かる」


「顔」


「どんな顔だよ」


「期待したのと違った顔」


「してない」


「はいはい」


 蓮は笑いながら水を飲んだ。


 真樹は数秒置いてから玲奈へ返信する。


『予定確認する』


 それだけ送った。


 玲奈がノアへ会いに来ること自体は珍しいことではない。


 幼いころからノアを知っているし、以前にも北条家へ来たことがある。


 それなのに、ふと別のことが頭に浮かぶ。


(天野がいる日に来たらどうなるんだ)


 以前、河川敷で偶然会ったとき、ひよりの表情が少し変わった。


 あれが何だったのか、真樹にはまだ分からない。


 ただ、本人が隠そうとしていたように見えたことだけは覚えている。


(別に、わざわざ同じ日にする必要ないか)


 そこまで考え、真樹は自分がなぜ予定を分けようとしているのか分からなくなった。


     ◇ ◇ ◇


 放課後。


 ひよりは授業が終わると、今日は誰かに呼び止められることもなく教室を出た。


 昇降口へ向かう途中、スマートフォンを確認する。


 真樹から連絡はない。


 けれど昨夜、「行く」と言っていた。


(今日は私が先かな)


 昨日会えなかったせいか、いつもの公園へ向かうだけなのに少しだけ足取りが軽い。


 靴を履き替えて校舎を出る。


 雨上がりの空気は冷たく、日陰にはまだ湿った匂いが残っていた。グラウンドの端には水たまりがあり、運動部の生徒たちがそれを避けながら準備を始めている。


「天野」


 背後から声がして、ひよりが振り返る。


 颯太だった。


「佐伯君」


「もう帰る?」


「うん」


「駅?」


「あ……途中までは」


 公園は駅へ向かう道とは少し方向が違う。


 颯太は気にした様子もなく、自分の鞄を肩へ掛け直した。


「俺、駅行くから途中まで一緒に行く?」


 ひよりの胸が大きく跳ねた。


「いいの?」


「何で駄目なんだよ」


「いや、駄目じゃない!」


 声が少し大きくなり、ひよりは慌てて笑う。


「じゃあ途中まで」


「おう」


 二人で校門を出る。


 以前にも一度、颯太と途中まで一緒に帰った。


 あの日も嬉しかった。


 今日も同じように、隣を歩くだけで意識してしまう。


「天野、今日このあと何かあるの?」


「友達と会うよ」


「昨日言ってた犬の飼い主?」


「うん」


「仲いいんだな」


「最近はよく話すかな」


「男なんだろ?」


「そうだよ」


 颯太の口調は普通だった。


 特に何かを気にしているようには見えない。


「犬の散歩に付き合ってる感じ?」


「最初はそんな感じだったけど……」


 ひよりは少し考える。


 今はどうなのだろう。


 ノアに会いたい。


 それは変わらない。


 でも昨日は、自分から真樹へ「会えない?」と聞いた。


 さらに「北条君が来るなら行きたい」とまで送った。


「今は普通に話しに行ってるのかも」


「へえ」


「北条君、最初すっごい感じ悪かったんだけどね」


「本人に言ってんの?」


「言ってるよ」


「強いな、天野」


「本当のことだもん」


 颯太が笑う。


 ひよりも笑った。


「でも、優しいところもあるよ」


「ふうん」


「口悪いけど」


「結局そこに戻るんだ」


「だって本当に口悪いから」


 ひよりが笑っていると、分かれ道が見えてきた。


「私こっち」


「そっか」


「佐伯君、駅だよね」


「うん」


 颯太は少し先の道を指す。


「じゃあまた月曜な」


「うん。またね」


「犬にもよろしく」


「ノアに?」


「そう。写真しか見てないけど」


「分かった」


 ひよりは笑顔で手を振る。


 颯太も軽く手を上げ、駅の方向へ歩いていった。


 ひよりはその背中を見送り、胸の奥に残る嬉しさを抱えたまま反対方向へ歩き出す。


(今日も一緒に帰れた)


 途中までとはいえ、好きな人と二人で歩けた。


 嬉しくないはずがない。


 足取りはさらに軽くなった。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ着いたとき、真樹とノアはすでに入口近くにいた。


「ノア!」


 ひよりが呼ぶ。


 ノアがすぐに反応し、尻尾を大きく振った。


「待って、今行くから!」


 ひよりは駆け出しかけ、濡れた地面を見て歩調を落とす。


「走るな。滑るぞ」


 真樹の声が飛んでくる。


「分かってるよ」


「今走ろうとしただろ」


「途中でやめたもん」


「最初からやめろ」


 いつもの調子だ。


 それだけなのに、ひよりは何だか嬉しくなった。


 近くまで行くと、ノアが身体ごと寄ってくる。


「ノア、昨日会えなかったね」


 ひよりはしゃがみ、首元から背中へ両手を滑らせるように撫でた。


「写真可愛かったよ。ちゃんと保存したからね」


「本人に言っても分からないだろ」


「分かるよね、ノア」


 ノアが尻尾を振る。


「ほら」


「何でも尻尾で肯定扱いすんな」


「北条君より素直だもん」


「またそれかよ」


 真樹が呆れた顔をする。


 ひよりは立ち上がり、満面の笑みを向けた。


「北条君」


「何」


「会えて嬉しい?」


「帰るか、ノア」


「早い!」


「予想してた」


「まだ来たばっかりじゃん!」


 真樹が歩き出そうとするため、ひよりは笑いながらその横へ回る。


「昨日会えなかったんだよ?」


「知ってる」


「一日ぶりだよ?」


「普通」


「昨日、明日晴れるって北条君から送ってきたじゃん」


「天気の話しただけ」


「私が『今日会えなかったから』って言ったら『行く』って言ったじゃん」


「だから来ただろ」


「じゃあちょっとくらい嬉しかったでしょ?」


「……散歩行くぞ」


「誤魔化した!」


 ひよりが笑いながら隣へ並ぶ。


 真樹は面倒そうに前を向いているが、歩き出す速度はひよりに合わせてゆっくりだった。


     ◇ ◇ ◇


 雨上がりの遊歩道には、まだところどころ濡れた落ち葉が残っていた。


 ノアが水たまりへ近づこうとするたび、真樹がさりげなくリードを調整する。


「ノア、濡れるの平気なのに雨嫌いなんだね」


「上から降ってくるのが嫌なんじゃない」


「不思議」


「風呂も別に嫌がらないしな」


「お風呂入ってるノア見たい」


「普通だぞ」


「絶対可愛い」


「でかいから大変だけどな」


「北条君が洗うの?」


「家の人に手伝ってもらうこともあるけど、俺もやる」


 ひよりは少し想像する。


 いつも制服や落ち着いた服装でいる真樹が、大きなノアを洗っている姿。


「見てみたい」


「嫌だ」


「何で?」


「何で見せなきゃいけないんだよ」


「面白そう」


「面白がるな」


「写真でいいから」


「撮らない」


「じゃあ今度ノアのお風呂の日に――」


「家来る気か?」


「……駄目?」


 ひよりが何気なく聞く。


 真樹の足がほんの少しだけ緩んだ。


「駄目っていうか」


「うん」


「家族いるし」


「そりゃいるでしょ」


「そうじゃなくて」


 真樹は言葉に詰まる。


 ひよりを北条家へ連れていく。


 それ自体、絶対に駄目という理由はない。


 蓮も玲奈も家へ来たことがある。


 しかし、ひよりが来るところを想像すると妙に落ち着かない。


 家の規模を見れば、自分がこれまで曖昧にしてきた家のことも、かなり伝わってしまうだろう。


「……そのうちな」


「ほんと?」


「勝手に来るなって意味」


「行くときはちゃんと聞くよ」


「当たり前」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


「じゃあいつかノアのお家見せて」


「ノアの家っていうか俺の家だからな」


「北条君の家でもあるね」


「俺がついでみたいに言うな」


「だってノアのお家のほうが興味ある」


「失礼すぎるだろ」


 真樹が呆れる。


 ひよりは笑った。


 真樹の家がどんな場所なのか、興味がないわけではない。


 日曜日の交流会で見た景色や服装からも、自分とは違う世界があることは感じている。


 それでも、真樹が自分から話すまでは無理に聞かないと決めていた。


 だから「そのうち」という返事だけで十分だった。


     ◇ ◇ ◇


 少し歩いたところで、ひよりは今日の学校での出来事を思い出した。


「そうだ。今日、佐伯君にノアの写真見せたよ」


 真樹の視線が動く。


「何で?」


「キーホルダー見て、犬好きだったっけって聞かれたから」


「それで?」


「最近友達が黒犬飼ってるって話したら、見たいって」


「……ふうん」


「ノア大きいってびっくりしてた」


「そりゃそうだろ」


「可愛いって言ってたよ」


 ひよりはノアの頭を撫でる。


「あとね、今日も途中まで一緒に帰った」


 真樹の足が少しだけ遅くなった。


「佐伯と?」


「うん」


「……そう」


「昨日もいっぱい話せたし、最近ちょっとずつ普通に話せるようになってきた気がする」


 ひよりは嬉しそうだった。


 真樹は前を向く。


 さっきまで雨上がりの公園を歩くことが少し楽しいと思っていた。


 それが、たった一つの名前で微妙に変わる。


(また佐伯かよ)


 朝も話す。


 学校でも会う。


 今日は一緒に帰った。


 同じ学校なのだから当然だ。


 分かっている。


「北条君?」


「何」


「急に静かになった」


「別に」


「また機嫌悪い?」


「悪くない」


「ほんと?」


「ほんと」


 ひよりが横から顔を覗き込もうとする。


 真樹は少しだけ顔を反対へ向けた。


「前見ろ。濡れてるから転ぶぞ」


「誤魔化してない?」


「してない」


「怪しい」


 ひよりは疑いながらも前を向く。


 少しして、真樹が聞いた。


「佐伯、何で犬の飼い主のこと聞いたんだよ」


「え?」


「男かって聞かれたんだろ?」


 ひよりが驚いて真樹を見る。


「何でそこまで分かるの?」


「今の話で何となく」


「北条君、怖い」


「何が」


「当たってる。男かって聞かれた」


「……そう」


「でも普通に気になっただけだと思うよ」


「知らない」


「名前までは言ってないけどね」


「別に言ってもいいだろ」


「今度聞かれたら言うよ」


 真樹はそれ以上何も言わなかった。


 しかし胸の奥には、説明できない引っかかりが残った。


 颯太がひよりの男友達を気にした。


 ただの会話かもしれない。


 それなのに、なぜかその事実まで面白くない。


(何なんだよ、これ)


 答えは出ない。


 出そうともしていなかった。


     ◇ ◇ ◇


 いつもの広場へ着くと、ベンチはまだ少し湿っていた。


「座れないね」


「こっちなら大丈夫」


 真樹が屋根のある休憩スペースを指す。


 二人はそちらへ移動し、乾いているベンチへ腰を下ろした。


 ノアは二人の前で伏せる。


 ひよりは鞄を開け、『ブーランジェリー陽だまり』で買った犬用クッキーの袋を取り出した。


「今日も一枚いい?」


「いいよ」


 真樹が頷く。


 ひよりはノアへ一枚だけ渡し、嬉しそうに食べる様子を眺めた。


「あとちょっとになっちゃった」


「また買えば?」


「じゃあ今度また陽だまり行こうよ」


 真樹がひよりを見る。


「俺も?」


「一緒に行ったお店じゃん」


「お前一人でも行けるだろ」


「行けるけど、一緒でもいいでしょ?」


 ひよりは何でもないことのように言う。


 真樹は少しだけ視線を逸らした。


「……まあ、別に」


「じゃあまた行こう」


「いつとは言ってないからな」


「そのうち」


「便利だな、その言葉」


「北条君もさっき使ったじゃん」


「何で覚えてんだよ」


「人の話覚えてるの、私の褒めるところじゃない?」


「自分で言うな」


「じゃあ北条君が言って」


「嫌」


「今日の褒めるところまだ聞いてない」


「毎日やるの?」


「昨日できなかったから、今日は二個ね」


「何で増えるんだよ」


「昨日の分」


「宿題じゃないんだから繰り越すな」


 ひよりは声を上げて笑う。


 真樹も呆れながら、わずかに口元を緩めた。


「じゃあ一個でいい」


「妥協したみたいに言うな」


「早く」


「……」


 真樹はひよりを見る。


 褒めるところ。


 昨日は会っていない。


 今日だってまだそれほど長く一緒にいるわけではない。


 それでも、探そうと思えばいくつか浮かぶ。


「ノアのクッキー、ちゃんと量守ってるところ」


「それ?」


「褒めてるだろ」


「褒めてるけど、ノア関係じゃないのない?」


「注文多いな」


「だって私自身を褒めてほしい」


 真樹の動きが止まる。


 ひより本人には深い意味などない。


 分かっている。


 それでも「私自身を褒めてほしい」という言葉が妙に耳へ残る。


「……今日、楽しそう」


「え?」


「朝から何かいいことあったんだろ」


「何で分かるの?」


「顔」


 ひよりが目を丸くする。


「それ褒めてないじゃん」


「楽しそうなのは悪いことじゃないだろ」


「そうだけど」


「ならいいだろ」


 ひよりは少し考え、笑った。


「じゃあ褒められたことにする」


「勝手にしろ」


「ちなみに、佐伯君と話せたからだよ」


「聞いてない」


「北条君がいいことあったんだろって言ったんじゃん」


「聞かなきゃよかった」


「何で?」


「別に」


「今日それ多いよ」


 真樹は答えない。


 ひよりはしばらく彼を見ていたが、やがて小さく笑った。


「でも北条君、ほんとに私の顔見るようになったね」


「何それ」


「前より気づくじゃん。髪型とか、楽しそうとか」


「……普通だろ」


「私、北条君がいつもより機嫌悪くても分かるよ」


「いつも機嫌悪いみたいに言うな」


「違うの?」


「違う」


「じゃあ今日は?」


 真樹がひよりを見る。


「普通」


「ちょっと機嫌悪い」


「普通」


「佐伯君の話してから」


「気のせい」


「ほんとかなあ」


 ひよりは首を傾げる。


 けれど、それ以上追及しなかった。


 昨日もそうだった。


 真樹が話したくないなら、無理には聞かない。


 その代わり、いつか本人が話したくなったときに聞けばいい。


 真樹はそんなひよりの横顔を見て、また昨日と同じ感覚を覚えた。


 踏み込まない。


 でも離れすぎない。


 それがひよりの距離の取り方なのだと、少しずつ分かってきた。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく休んでから、二人は公園の出口へ向かって歩き始めた。


 雨上がりの空はすでに夕暮れへ変わりつつあり、西の雲だけが淡い橙色に染まっている。


「今日、会えてよかったね」


 ひよりが何気なく言う。


「昨日会えなかったし」


「そうだな」


 真樹が返す。


 ひよりがすぐに振り向いた。


「今の!」


「何」


「もう一回!」


「何で」


「『そうだな』って言った!」


「言ったけど」


「私が『会えてよかったね』って言ったら『そうだな』って!」


 真樹は数秒黙った。


 何を喜んでいるのか理解した瞬間、嫌そうに眉を寄せる。


「違う」


「何が違うの?」


「昨日会えなかったってところに返した」


「無理あるよ!」


「ない」


「ある!」


 ひよりは楽しそうに真樹の横へ並ぶ。


「半分言ったようなもんじゃん」


「言ってない」


「『会えてよかった』に同意したんでしょ?」


「してない」


「じゃあ昨日会えなくてよかった?」


「それは違う」


「じゃあ今日会えてよかった?」


「……」


 真樹が黙る。


 ひよりの笑顔がさらに大きくなった。


「ほら!」


「うるさい」


「言って!」


「嫌」


「何でそこまで嫌なの?」


「お前が喜ぶから」


「いいじゃん、喜ばせてよ」


「嫌だ」


「友達でしょ?」


「友達だから何でも言うわけじゃない」


「ケチ」


「何とでも言え」


 真樹は前を向いたまま歩く。


 しかし、ひよりは諦めない。


「北条君」


「何」


「昨日会えなくて寂しかった?」


「別に」


「私はちょっと寂しかったよ」


 真樹の足がわずかに止まりかけた。


 ひよりは気づかず続ける。


「メッセージできたけど、公園で話すのとは違うじゃん。だから今日会えて嬉しかった」


 今度こそ、真樹がひよりを見る。


 ひよりは笑っていた。


 照れているわけでもない。


 ただ思ったことを、そのまま言っただけの顔だった。


(……何でこいつは普通に言えるんだよ)


 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 真樹には、同じ言葉を返すことができなかった。


 昨日、会えないと分かったときに残念だった。


 今日、公園でひよりの姿を見つけたとき、確かに嬉しかった。


 それをもう自分でも否定しきれない。


 ただ、口に出してしまうと何かが変わるような気がした。


 何が変わるのかは分からない。


 だから言えない。


「……天野」


「うん?」


「昨日よりうるさい」


「それ褒めてない!」


 ひよりが抗議する。


 真樹は少しだけ笑った。


「でも」


 そこで言葉を止める。


「でも何?」


「……昨日よりはマシ」


「何が?」


「今日のほうが」


 ひよりが瞬きをする。


「今日のほうが……何?」


「知らない」


「そこまで言ったなら最後まで言って!」


「自分で考えろ」


「ずるい!」


 真樹は答えない。


 それでも、ひよりはしばらく考えたあと、ぱっと顔を明るくした。


「今日のほうが楽しい?」


「言ってない」


「絶対そうだ!」


「違う」


「じゃあ何?」


「忘れた」


「今言ったばっかりじゃん!」


 ひよりが笑いながら追及する。


 真樹は逃げるように少し歩調を速めたが、ひよりが遅れそうになると結局速度を戻した。


     ◇ ◇ ◇


 公園の入口まで戻るころには、街灯が点き始めていた。


 ひよりはノアの頭を最後にもう一度撫でる。


「今日は会えてよかったよ、ノア」


 ノアが尻尾を振る。


「ほら、ノアは返事してくれる」


「尻尾だろ」


「十分」


 ひよりは立ち上がり、真樹を見る。


「北条君は?」


「何が」


「今日は会えてよかった?」


「まだやんの?」


「帰る前にもう一回だけ」


「嫌」


「じゃあ明日また聞く」


「明日?」


 真樹が少し眉を上げる。


 ひよりも「あ」と声を漏らした。


 明日は土曜日だ。


 平日のように学校帰りへ自然と公園へ寄る日ではない。


「……明日どうする?」


 ひよりが聞く。


 真樹は少し考える。


「ノアの散歩は行くけど」


「何時?」


「午後。いつもより早いと思う」


「じゃあ私も行っていい?」


「好きにすれば」


「何時くらい?」


「二時くらい」


 先週の土曜日も、二時に会った。


 そのことを二人とも思い出していた。


「じゃあ二時ね」


「勝手に決めたな」


「北条君が二時って言ったんじゃん」


「大体って意味」


「じゃあ私も大体二時」


「適当すぎる」


「北条君が言ったんでしょ」


 ひよりは笑う。


「また明日」


「ああ」


「明日こそ言わせるからね」


「もう諦めろ」


「嫌」


「しつこい」


「諦めないの褒めるところって昨日言ったじゃん」


「言わなきゃよかった」


「遅いです」


 ひよりは満足そうに笑い、手を振った。


「じゃあね、北条君。ノアもまた明日」


「ああ。また明日」


 真樹が答える。


 ひよりは数歩進み、振り返った。


「北条君!」


「何」


「今日、会えて嬉しかったよ!」


 夕方の公園に、ひよりの声が届く。


 真樹が目を見開く。


 ひよりは返事を待たず、楽しそうに手を振って歩き出した。


「……何なんだよ」


 真樹は小さく呟いた。


 ノアが隣で尻尾を振る。


「お前は嬉しかったんだろ」


 ノアの尻尾がもう一度動く。


「分かりやすくていいな、お前は」


 真樹はひよりの背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。


     ◇ ◇ ◇


 その夜。


 ひよりが自室で髪を乾かしていると、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。


 ドライヤーを止めて確認する。


 真樹からだった。


『明日二時でいい』


 ひよりはすぐに返信する。


『やっぱり約束になった』


『お前が勝手に決めた』


『北条君も今決めたじゃん』


『時間ずれると面倒だから』


『はいはい』


 ひよりは笑いながらベッドへ腰を下ろす。


『明日もノアのクッキー持ってくね』


『あと何枚?』


『二枚くらい』


『じゃあ明日で最後だな』


『また買いに行かなきゃ』


『好きだな、あの店』


『北条君もクリームパン食べてたじゃん』


『普通』


『また一緒に行こうね』


 少し間が空く。


『そのうち』


 ひよりは画面を見て笑った。


 昨日までなら、真樹の「そのうち」は逃げるための言葉だと思ったかもしれない。


 でも今日、家の話をしたときも同じ言葉を使った。


 完全な拒絶ではない。


 今すぐではないけれど、いつかなら。


 そんな意味なのだろうと、少しずつ分かるようになってきた。


『楽しみにしてる』


 送る。


 返事はすぐには来なかった。


 ひよりはスマートフォンを置き、途中だった髪を乾かし始める。


 数分後。


 再び通知が鳴った。


『天野』


「ん?」


 名前だけだった。


 ひよりは首を傾げる。


『なに?』


 既読がつく。


 しかし、なかなか返事が来ない。


『北条君?』


 さらに少し待つ。


 ようやく届いた。


『明日も来るなら遅れるなよ』


 ひよりは思わず笑った。


『分かってるよ』


『先週待った』


『金曜日は橘君に勉強教えてたからでしょ』


『待ったのは同じ』


『じゃあ明日は先に行く』


『勝負じゃないからな』


『私が先だったら会えて嬉しいって言って』


『寝ろ』


『まだ寝ない』


『じゃあ勉強しろ』


『もうした』


『知らん』


 いつものやり取り。


 けれど、ひよりはふと気づく。


 真樹は最初に何を送ろうとしていたのだろう。


 わざわざ名前だけ送ってきた。


 何か言いたいことがあったのではないか。


『最初、何言おうとしたの?』


 送る。


 しばらく既読がつかなかった。


     ◇ ◇ ◇


 真樹は自室のベッドへ座り、スマートフォンを見ていた。


『最初、何言おうとしたの?』


 やはり聞かれた。


 当然だ。


 名前だけ送って、別の話へ変えたのだから。


 真樹は画面から目を逸らす。


 本当は、公園でひよりに言われた言葉がずっと残っていた。


『今日、会えて嬉しかったよ!』


 返せなかった。


 その場では。


 帰宅してからも何度か思い出した。


 だから先ほど、何となく名前を送った。


 そのあとに、


『俺も』


 と打とうとした。


 けれど結局、送れなかった。


(何でこんな一言が言えないんだよ)


 友達なのだから、普通に言えばいい。


 ひよりはそう言っている。


 自分も今日会えて嬉しかった。


 それだけの話だ。


 真樹はもう一度入力欄を開く。


『別に何でもない』


 そこまで打って止まる。


 昨日も今日も、そればかりだ。


 ひよりから「別に」が多いと言われたばかりだった。


 全部消す。


 今度は別の文章を打つ。


『今日』


 止まる。


『今日、』


 また止まる。


「……面倒くさ」


 自分自身に対して呟く。


 足元ではノアが伏せていた。


 真樹はノアを見る。


「お前ならどうする」


 当然、返事はない。


「聞いた俺が馬鹿だった」


 ノアが顔を上げ、尻尾を一度だけ床へ打ちつけた。


 真樹は小さく息を吐き、スマートフォンへ視線を戻す。


 結局送ったのは、


『今日のこと』


 だった。


 すぐに返事が来る。


『今日?』


『会えなかった昨日よりは』


 そこまで送る。


 また止まる。


 ひよりから疑問符だけのスタンプが届いた。


「……」


 真樹は眉間を押さえる。


(ここまで送ったら同じだろ)


 逃げるほうが余計に不自然だ。


 それでも、「会えて嬉しかった」とそのまま書くことには妙な抵抗があった。


 少し考え、送る。


『今日の方がマシだった』


 数秒。


 既読。


 さらに数秒後。


『それ公園でも言ってた!』


『だから何』


『意味教えて』


『そのまま』


『今日会えた方がよかったってこと?』


 真樹は画面を見つめた。


 逃げ道を探す。


 しかし、もうほとんど残っていない。


『まあ』


 送信する。


 ひよりからの返事は早かった。


『勝った!』


「……は?」


 真樹が思わず声を出す。


『勝ってない』


『ほぼ会えて嬉しいじゃん!』


『違う』


『同じ!』


『違う』


『北条君が今日会えた方がよかったって認めた』


『よかったと嬉しいは違う』


『細かい!』


『日本語の問題』


『じゃあ明日完全勝利する』


『しない』


『する』


 真樹はしばらく画面を見たあと、笑いを堪えきれず口元を緩めた。


 結局、言わされたようなものだ。


 それでも、直接「嬉しかった」とは言っていない。


(何でそこ守ってんだ、俺)


 自分でも分からなかった。


『もう寝ろ』


『北条君もね』


『おやすみ』


『おやすみ。また明日』


 真樹は最後の一文を見つめる。


『また明日』


 最近、何度も交わすようになった言葉。


 明日会うことが特別な予定ではなくなりつつある。


 それなのに、今日はその言葉が少しだけ違って見えた。


 雨で一日会わなかったからなのかもしれない。


 ひよりが「会えて嬉しかった」と言ったからなのかもしれない。


 あるいは、自分がとうとう「今日会えた方がよかった」と認めてしまったからなのかもしれない。


 理由はまだ分からない。


 ただ一つだけ、真樹にも認められることがあった。


 明日の午後二時。


 ひよりが公園へ来る。


 それを自分は、もう楽しみにしていた。


     ◇ ◇ ◇


 一方、ひよりはベッドの上でスマートフォンを胸元へ抱えていた。


「勝った」


 小さく呟く。


 完全勝利ではない。


 真樹はまだ「会えて嬉しい」とは言っていない。


 けれど、


『今日会えた方がよかった』


 という意味のことは認めた。


 それだけで十分嬉しかった。


(北条君、ほんと素直じゃないなあ)


 ひよりは笑いながら、明日の予定を考える。


 午後二時。


 ノアの残りのクッキーを持っていく。


 真樹とまた話す。


 もしかしたら、また『ブーランジェリー陽だまり』へ行く日についても話せるかもしれない。


 その途中で、ふと今日の颯太との帰り道を思い出した。


 胸の奥が別の形で跳ねる。


 好きな人と一緒に帰れた。


 今年の文化祭では一緒に写真を撮ろうと言ってもらえた。


 颯太への気持ちは、今も変わらず嬉しさと緊張を連れてくる。


 それに対して、真樹と過ごす時間は少し違う。


 緊張するより、笑っていることのほうが多い。


 何を言えば嫌われるだろうと考えることも少ない。


 少しくらい失礼なことを言っても、真樹なら言い返してくると思える。


(友達って、こういう感じなのかな)


 ひよりはそう考えた。


 中学から一緒にいる千夏とはまた違う。


 真樹とは出会ってからまだそれほど長くないのに、ずいぶん話しやすくなった。


 人との関係にはいろいろな形があるのだろう。


 ひよりは深く考えすぎず、スマートフォンを枕元へ置いた。


「明日こそ言わせよう」


 そう決めて布団へ入る。


 窓の外には、昨日の雨が嘘だったように雲の切れ間から月が覗いていた。


 ひよりは好きな人と少しずつ話せるようになっている。


 真樹は、そんなひよりの話を聞くたびに理由の分からない不機嫌を覚えるようになっている。


 それでも二人はまだ、その違いへ名前をつけない。


 ただ、会えなかった一日を挟んだことで、いつもの公園で顔を合わせる時間が以前より少しだけ待ち遠しくなったことだけは、二人とも同じだった。

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