第23話 雨の日に会う理由
木曜日の朝、天野ひよりが目を覚まして最初に確認したのは、時刻ではなく天気だった。
枕元のスマートフォンを手に取り、まだ眠気の残る目で予報を開く。午前中は曇りだが、午後から降水確率が上がり、夕方には傘の印が表示されていた。
「やっぱり降るんだ……」
小さく呟いてから、ひよりは昨夜の真樹とのやり取りを思い出した。
『雨ひどくなければ行く』
『私も!』
『北条君が来るなら行きたいかも』
そこまで思い出したところで、布団の中に顔を埋める。
(私、何であんな言い方したんだろ)
送ったときは深く考えていなかった。
ノアの散歩へ行けるなら行きたいし、真樹が来るならいつものように話したい。ただ、それだけを伝えたつもりだった。
しかし翌朝になって読み返すと、「北条君が来るなら行きたい」という言葉だけが妙に目立って見える。
(友達なんだから普通だよね。会えるなら会いたいって、別に変じゃないよね)
自分へ言い聞かせながら起き上がり、カーテンを開ける。
空は一面の灰色だった。
今にも降り出しそうというほどではないが、昨日までの冬晴れとは明らかに違う。
「降らないといいなあ」
今度は声に出して呟いた。
誰に会いたいからなのかまでは、考えなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席でも、ひよりは窓の外を何度か見ていた。
由美が焼き魚を皿へ取り分けながら、その様子に気づく。
「ひより、今日は傘持っていきなさいよ」
「うん。折り畳みじゃなくて普通の持ってく」
「夕方結構降るみたいだぞ」
浩介も天気予報を確認していたらしく、スマートフォンを見ながら言う。
「部活もないんだから、降ってきたら寄り道しないで帰ってきなさい」
「……はーい」
返事がわずかに遅れた。
その変化を美月は聞き逃さなかった。
「何か予定あるの?」
「予定っていうか……」
「北条?」
悠一が即座に反応する。
「何でお兄ちゃんが答えるの!」
「最近のひよりの放課後予定、大体そいつじゃん」
「大体ってほどじゃないよ」
「今週何回会った?」
「……月曜と火曜と昨日」
「大体じゃん!」
悠一が箸を置く。
ひよりは反論しようとして、少し考えた。
確かに今週は毎日会っている。
日曜日だけ会わず、月曜日から昨日まで三日続けて公園で話している。それ以前も学校帰りに会うことは多かった。
「でもノアの散歩だから」
「北条本人にも会ってるだろ」
「そりゃ飼い主だからいるよ」
「ノアだけならまだ安心なんだけどな……」
「北条君も危ない人じゃないって」
「そこを判断するためにも一回会いたい」
「まだ言ってるの?」
「言ってる。兄として」
ひよりが呆れた顔をすると、美月がコーヒーを飲みながら悠一を見る。
「だからって勝手に公園行ったら、本当に嫌われるからね」
「分かってる」
「尾行も駄目」
「しない」
「偶然を装うのも駄目」
「……しない」
「今の間は何?」
「何でもない」
美月が目を細め、悠一は視線を逸らした。
由美は二人を見てため息をつく。
「ひより、雨が強かったら公園はやめなさい。ノアちゃんだって散歩しないでしょうし」
「分かってるよ」
「北条君にもそう言っておきなさい」
「うん」
ひよりは素直に頷いた。
危ない思いをしてまで会うつもりはない。
ただ、窓の外を見ながら、できれば夕方まで降らないでほしいと思った。
◇ ◇ ◇
青葉高校へ着いたころも、雨はまだ降っていなかった。
教室へ入ると、千夏が窓際で空を見上げている。
「おはよう」
「おはよ。今日降るね、これ」
「やっぱり?」
「天気予報も夕方から雨」
ひよりは鞄を机へ置き、窓の外を見る。
「夕方かあ……」
「そんな残念そうな顔する?」
「だって」
言いかけて、千夏を見る。
千夏はすでに何か分かったような顔をしていた。
「北条君?」
「……ノアの散歩」
「北条君?」
「ノア!」
「はいはい」
「ほんとにノアにも会いたいからね?」
「分かってるって」
千夏は笑いながら自分の席へ戻る。
ひよりも椅子へ座った。
「昨日、雨ひどくなかったら行こうって話してたの」
「約束したの?」
「天気見て決めるって」
「じゃあ連絡待ち?」
「うん。たぶん放課後かな」
千夏はひよりの横顔を眺める。
最近のひよりは、真樹と会えるかどうかをかなり自然に一日の予定へ組み込むようになった。
本人にとっては「友達と放課後会う」程度の認識なのだろう。
それ自体は間違いではない。
ただ、雨が降るかもしれないというだけで朝から何度も空を気にするほど、その時間を楽しみにしている。
(本人が気づくの、まだまだ先かな)
千夏はそう思ったが、何も言わなかった。
そのとき、教室の入口から海斗が入ってくる。
「おはよ」
「おはよう、橘君」
「おはよー」
海斗は自分の席へ向かいかけ、窓際の二人を見て足を止めた。
「何、天気会議?」
「ひよりが雨降るの嫌なんだって」
「藤崎!」
「何で?」
海斗に聞かれ、ひよりは少し迷ってから答える。
「放課後、公園行くかもしれないから」
「ああ、北条?」
「うん。ノアも」
「今日も会うんだ」
海斗の声は普段と変わらない。
ただ、昨日に続いてその名前が出たことで、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
「雨なら無理じゃね?」
「強かったらやめるよ」
「そりゃそうか」
海斗は笑って自分の席へ向かった。
ひよりは特に気にせず、千夏へ「何で言うの」と小声で抗議する。
千夏は肩をすくめた。
「隠すことじゃないでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃん」
「千夏、最近楽しんでるよね」
「ちょっとだけ」
ひよりは頬を膨らませた。
◇ ◇ ◇
二時間目が終わった休み時間。
ひよりが次の授業の教科書を出していると、教室の前方から声をかけられた。
「天野」
顔を上げる。
入口に颯太が立っていた。
「佐伯君?」
思わず声が弾む。
颯太は手に一冊のノートを持っている。
「ちょっといい?」
「う、うん」
ひよりは立ち上がり、入口へ向かった。
教室の何人かがこちらを見るが、今は気にする余裕がない。
「どうしたの?」
「去年の文化祭のことで聞きたいんだけど」
「文化祭?」
「宮田がさ、クラスの出し物で使った看板の写真探してて。天野、持ってない?」
「ああ、あの入口に置いてたやつ?」
「そう。それ」
「たぶんあると思う」
「マジ? また頼んでいい?」
「もちろん」
ひよりはすぐにスマートフォンを取り出した。
「今探す?」
「急がなくていいよ。昼休みとかでも」
「じゃあ見つけたら送るね」
「助かる」
颯太が笑う。
それだけでひよりの胸が跳ねる。
「天野、写真いっぱい持ってて助かるわ」
「千夏と撮りすぎたから」
「今度俺も何か撮っとこうかな。全然残ってないんだよな」
「今年の文化祭はいっぱい撮れば?」
「そうする。天野も一緒に撮ろうぜ」
ひよりの呼吸が一瞬止まった。
「……え?」
「藤崎とか、去年のメンバー集めてさ。せっかくだし」
「あ、うん! 撮ろう!」
颯太に特別な意味はない。
去年同じクラスだった友人たちとの写真を残そうというだけだ。
分かっている。
それでも、「一緒に撮ろう」と言われたことが嬉しかった。
「じゃ、写真よろしく」
「うん」
「ありがと。またな」
「またね」
颯太が自分の教室へ戻っていく。
ひよりは数秒その場に立ったままだった。
頬が熱い。
(嬉しい……)
文化祭はまだ先だ。
それでも、そのとき一緒に写真を撮れるかもしれない。
教室へ戻ると、千夏が何も言わずにこちらを見ている。
「……何?」
「顔」
「また?」
「分かりやすすぎ」
ひよりは両頬を押さえた。
「だって、今年の文化祭で一緒に写真撮ろうって」
「佐伯君と?」
「みんなでだけどね!」
「それでも嬉しい?」
「嬉しいよ」
ひよりは素直に頷いた。
その笑顔を見て、千夏も笑う。
「よかったじゃん」
「うん!」
雨のことを気にしていた気持ちは、その瞬間だけすっかり頭から消えていた。
◇ ◇ ◇
昼休みになるころ、窓ガラスへ小さな水滴がつき始めた。
「あ」
ひよりが窓を見る。
まだ傘を差すか迷う程度の弱い雨だったが、灰色の空を見る限り、このまま止む保証はない。
千夏も外を見る。
「思ったより早かったね」
「うん……」
ひよりはスマートフォンを確認した。
真樹から連絡はない。
こちらから送ろうか迷ったものの、授業中かもしれないと思ってやめる。
代わりに颯太から頼まれた写真を探すことにした。
去年の文化祭フォルダを開き、千夏と一緒に大量の写真を確認していく。
「あ、これじゃない?」
「違う。これは教室の中」
「じゃあこっち」
「それ看板半分しか写ってない」
「撮りすぎなんだよ、ひより」
「千夏もいっぱい撮ってたじゃん」
「私は人物中心」
「私もだよ」
写真を送りながら笑っていると、ようやく目的の一枚が見つかった。
「これだ!」
「ちゃんと全部写ってる」
ひよりは颯太へ送信する。
『これかな?』
数分後、返事が届いた。
『これ!ありがとう!』
続いて、
『天野ほんと助かる』
というメッセージも来た。
ひよりは思わず頬を緩める。
「嬉しそうだね」
「うん」
「雨は?」
「あ」
千夏に言われ、窓を見る。
さっきより少しだけ強くなっていた。
「……止まないかな」
「放課後までまだあるよ」
「そうだね」
ひよりは自分へ言い聞かせるように頷いた。
◇ ◇ ◇
桜陵学園でも、昼前から雨が降り始めていた。
真樹は教室の窓から外を見ながら、机の上に置いたスマートフォンへ何度目か視線を落とした。
昨夜は「明日また連絡しよう」と話している。
だから、放課後になればひよりから連絡が来るだろう。
自分から送ってもいい。
それだけの話なのに、なぜかタイミングを考えている。
「散歩無理そうだな」
隣の席へ来た蓮が窓を見る。
「まだ分からない」
「結構降ってるぞ」
「夕方弱くなるかもしれない」
「天気予報だと逆じゃない?」
「……」
真樹は黙る。
蓮が横から顔を覗き込んだ。
「散歩したいの、ノア?」
「当たり前だろ」
「天野さん?」
「何でそこで天野が出る」
「最近セットだから」
「セットにすんな」
蓮は笑う。
「会えないと寂しい?」
「殴るぞ」
「怖い怖い」
蓮は両手を軽く上げながら離れた。
真樹はもう一度窓を見る。
確かに、ノアを無理に雨の中へ連れ出す必要はない。
家の敷地内でもある程度運動できるし、雨の日の散歩は状況を見て控えることもある。
なら今日は公園へ行かない。
それで終わる話だ。
(……昨日は日曜一日会わなかっただけで変な感じしたんだよな)
日曜日にはメッセージをしていた。
それでも翌日、ひよりの姿を見たときに安心した。
今日会わなかったところで、明日がある。
分かっているのに、窓を流れる雨粒が妙に気になる。
「真樹」
別の声に呼ばれ、振り返る。
玲奈が教室の入口に立っていた。
「何?」
「先生から。午後の委員会資料、預かってきた」
「ああ。ありがと」
真樹が受け取る。
玲奈はすぐには去らず、窓の外へ目を向けた。
「雨、強くなってきたね」
「そうだな」
「今日はノアのお散歩無理そう?」
「多分」
「そっか」
玲奈は少し考えてから微笑む。
「ノア、雨の日嫌いだったものね」
「今も嫌い。濡れるのは平気なくせに、雨降ってると玄関で止まる」
「昔から変わらないんだ」
「そういうところはな」
自然に共有される昔の記憶。
玲奈にとっては嬉しい会話だった。
真樹と自分にしか分からないノアの幼いころの話は、今も確かに存在する。
「今度、久しぶりに会いに行ってもいい?」
「家に聞けば」
「またそれ?」
「俺に聞いても予定分からないし」
「真樹がいる日に行きたいんだけど」
「何で」
「幼馴染に会いに行くのに、本人いなかったら変でしょう?」
玲奈が笑う。
真樹は少し考えた。
「じゃあ予定分かったら連絡する」
「ほんと?」
「ああ」
「ありがとう」
玲奈は嬉しそうに教室を出ていった。
真樹は資料を机へ置き、再びスマートフォンを見る。
通知はまだなかった。
◇ ◇ ◇
放課後になるころには、雨脚がかなり強くなっていた。
校舎の窓へ雨粒が絶え間なく当たり、グラウンドにはいくつもの水たまりができている。
ひよりは帰り支度をしながら、窓の外を見てため息をついた。
「これは無理だね」
千夏も隣で空を見る。
「ノアの散歩は無理そう」
「うん」
ひよりはスマートフォンを取り出した。
ちょうどその瞬間、画面が震える。
真樹からだった。
『雨強いから今日はやめる』
短い一文。
ひよりは少しだけ唇を尖らせた。
『うん。その方がいいね』
送信する。
すぐに既読がつく。
『お前もまっすぐ帰れよ』
『分かってる』
『傘ある?』
『あるよ』
『ならいい』
会話が終わる。
ひよりは画面を見つめたまま、少しだけ動かなかった。
「中止?」
千夏に聞かれ、頷く。
「雨強いから」
「残念?」
「……ちょっと」
ひよりは素直に答えた。
「ノアにも会いたかったし」
「北条君にも?」
昨日までなら、すぐ「ノアに」と強調したかもしれない。
けれど昨夜、自分から「北条君が来るなら行きたい」と送っている。
今さら否定するほうが不自然だった。
「うん。北条君とも話したかった」
千夏は一瞬だけ目を丸くした。
ひよりはそれに気づかず、鞄を肩へ掛ける。
「昨日、褒めるところ探す遊びしてたから、今日も何か言わせようと思ってたのに」
「まだ続ける気だったんだ」
「会えて嬉しいもまだ言わせてないし」
「そっちが本命の勝負?」
「うん」
ひよりは笑った。
千夏も笑いながら立ち上がる。
「じゃあ今日は諦めて帰ろ」
「そうする」
二人は一緒に教室を出た。
◇ ◇ ◇
昇降口へ向かう途中、ひよりは階段の踊り場で颯太と会った。
「あ、天野」
「佐伯君」
「写真ありがとな。宮田めっちゃ喜んでた」
「よかった」
「今日雨すごいな」
「ね。朝はまだ降ってなかったのに」
「傘ある?」
「あるよ」
「ならよかった。俺、朝忘れてコンビニで買った」
颯太が透明なビニール傘を持ち上げる。
「忘れたの?」
「天気予報見てなかった」
「駄目じゃん」
「母親にも同じこと言われた」
二人で笑う。
千夏は少し先で待ちながら、二人の会話を邪魔しないようにしていた。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
颯太が昇降口を出ていく。
ひよりはその背中を見送り、胸の奥に小さな嬉しさを感じる。
今日は朝も話した。
写真も送った。
放課後にも少し話せた。
(今日は結構話せたな)
恋が少しだけ前へ進んだような気がして、嬉しかった。
「よかったね」
千夏が戻ってくる。
「うん」
「今日二回目?」
「朝も話したからね」
「順調じゃん」
「まだ全然だけど」
ひよりは照れながら傘を開いた。
二人で校舎を出る。
雨は強い。
今日は公園へ行かない。
真樹にもノアにも会わない。
その事実を少し残念に感じながらも、颯太と話せた嬉しさは別のものとして胸に残っていた。
◇ ◇ ◇
家へ帰ったひよりは、濡れた傘を玄関先で水切りしてから中へ入った。
「ただいま」
「おかえり」
由美の声が台所から返ってくる。
「結構濡れた?」
「足元だけ」
「タオル使いなさい」
「はーい」
玄関に置かれていたタオルで靴下の上から軽く足を拭き、自室へ向かう。
制服から部屋着へ着替え、鞄を置いたところでスマートフォンを見る。
真樹から新しいメッセージはない。
(まあ、今日は会わないって決まったし)
そう思いながらベッドへ座る。
数分後。
スマートフォンが震えた。
『帰った?』
ひよりの表情が緩む。
『今帰ったよ』
『濡れた?』
『ちょっとだけ』
『風邪ひくなよ』
『北条君は?』
『家』
『ノアは?』
『玄関で雨見て諦めてた』
ひよりは思わず笑った。
『かわいい』
『散歩行けないから不満そう』
『写真ちょうだい』
少し待つ。
送られてきたのは、玄関の上がり框付近で伏せているノアの写真だった。
黒い大きな身体を床へ預け、いかにも退屈そうな顔をしている。
「かわいい……」
ひよりはすぐに保存する。
『かわいすぎる』
『普通』
『送ってくれてありがとう』
『別に』
『北条君も写って』
『嫌だ』
『昨日は写真送ってくれたのに』
『あれは頼まれたから』
『今日も頼んでる』
『無理』
ひよりは笑いながら返信する。
『じゃあノアだけで我慢する』
『そうしろ』
そこで会話が一度止まった。
ひよりはノアの写真を眺める。
今日は会えなかった。
それでも、こうしてメッセージをしている。
日曜日もそうだった。
直接会わなくても、完全に相手の存在が消えるわけではない。
少し前まで、真樹は公園で偶然会う別の学校の男子だった。
今では雨で会えない日に、帰宅したか確認するメッセージが来る。
(ほんと、変わったなあ)
関係が、という意味だ。
それ以上のものではない。
ひよりはそう思いながら、ノアの写真へもう一度目を向けた。
◇ ◇ ◇
北条家では、真樹がリビングのソファへ座り、足元のノアを見ていた。
先ほどひよりへ送った写真のまま、ノアは退屈そうに伏せている。
「お前、天野に可愛いって」
名前を聞いた瞬間、ノアの耳がわずかに動いた。
「……やっぱ分かってるだろ」
尻尾が床を一度叩く。
真樹は少し笑った。
「今日は来ないぞ」
ノアが顔を上げる。
「雨だから」
もちろん、どこまで言葉を理解しているのかは分からない。
ただ、「天野」という音へ反応することだけは確かだった。
真樹はスマートフォンを確認する。
ひよりからの最後のメッセージは、
『じゃあノアだけで我慢する』
だった。
(俺は別にいらないってことかよ)
そこまで考え、眉を寄せる。
(何でそうなる)
自分で写真を拒否したのだから当然だ。
それなのに、ひよりがあっさり引いたことへ少しだけ引っかかる。
真樹はしばらく画面を見たあと、何となくメッセージを打った。
『今日何してた?』
送ってから、自分でも唐突だと思った。
しかし取り消す前に既読がつく。
『学校?』
『うん』
『普通だよ。授業受けて、千夏と話して、佐伯君と話して、写真探してた』
真樹の目が止まる。
『佐伯?』
送る。
『うん。去年の文化祭の写真頼まれたの』
続けてメッセージが来る。
『朝も話せたし、帰りも話せた!』
ひよりが嬉しそうに打っている姿が想像できる。
真樹の気分が少しだけ沈む。
『よかったな』
送るまでに数秒かかった。
『うん!』
さらに、
『今年の文化祭でみんなで写真撮ろうって言われた』
真樹は画面を見つめる。
(また佐伯か)
学校が違う。
当然ながら、自分はひよりの学校での生活を知らない。
教室で誰と話しているのか。
休み時間に何をしているのか。
颯太とどれくらいの頻度で会うのか。
海斗がどれくらい近くにいるのか。
自分が知らない時間のほうが圧倒的に長い。
その当たり前の事実が、今日は妙に気になった。
『楽しみだな』
それだけ送る。
『うん。まだ先だけどね』
真樹はスマートフォンを伏せた。
ノアがこちらを見る。
「何だよ」
もちろんノアは何も言わない。
「別に機嫌悪くないからな」
誰にも聞かれていないのに言い訳する。
◇ ◇ ◇
夜になっても雨は降り続いていた。
ひよりは夕食と入浴を終え、自室で宿題をしていた。
数学の問題を一通り終えたところでスマートフォンを見る。
真樹とのやり取りは夕方から止まっている。
颯太からは文化祭の写真について、もう一度『ありがとう』と来ていた。
そのメッセージを見ると、やはり嬉しい。
ひよりは返信を終え、スマートフォンを机へ置いた。
その直後、別の通知が入る。
真樹だった。
『まだ雨降ってる』
『こっちも』
『明日は晴れるらしい』
ひよりは少し笑う。
『じゃあ会えるね』
送ってから、今日はもう迷わなかった。
会える。
ノアにも。
真樹にも。
それが楽しみだと思うことを、友達なのだからと素直に受け入れている。
返事が来る。
『多分』
『多分じゃなくて来て』
既読がついた。
少し待つ。
『何で』
ひよりは考える。
昨日までなら「ノアに会いたいから」と答えたかもしれない。
もちろん、それも本当だ。
でも今日は一日会えなかった。
メッセージはした。
ノアの写真も送ってもらった。
それでも、公園で直接話すのとは違う。
『今日会えなかったから』
送る。
真樹からの返事が止まった。
◇ ◇ ◇
真樹はベッドの上で、その一文を何度も見ていた。
『今日会えなかったから』
たったそれだけだ。
友達なら普通の言葉なのかもしれない。
けれど、昼間から雨を気にしていた自分には、妙に強く響いた。
(俺も同じだろ)
今日、公園へ行けないと決めたとき、残念だった。
帰宅したか気になった。
ノアの写真を送った。
ひよりが学校で何をしていたのか聞いた。
そして、明日は晴れるとわざわざ伝えた。
全部、自分からだ。
真樹は画面へ指を置く。
『分かった』
それだけでは足りない気がして、続ける。
『行く』
送信する。
すぐに返事が来た。
『やった』
その三文字を見ただけで、胸の奥が少し軽くなる。
『ノアも連れてきてね』
真樹は思わず笑った。
『俺だけじゃ駄目なのかよ』
打ってから、指が止まる。
(……いや、何送ろうとしてんだ)
まだ送信はしていない。
すぐに全部消した。
代わりに、
『当たり前』
とだけ返す。
『明日は会えて嬉しいって言わせるから』
『まだ諦めてなかったのか』
『今日会えなかった分、明日はチャンス』
『意味分からん』
『おやすみ、北条君』
『おやすみ』
会話が終わる。
真樹はスマートフォンを置き、天井を見る。
雨音が窓の外から聞こえてくる。
今日一日会わなかった。
たったそれだけだ。
それなのに、明日会えることが昨日までより少し楽しみに感じる。
(……友達だからだ)
まだ、その説明でいい。
真樹はそう思う。
◇ ◇ ◇
翌朝。
夜の間に雨は上がっていた。
ひよりが家を出ると、道路にはまだ水たまりが残っているものの、雲の切れ間から淡い朝日が差し込んでいた。濡れたアスファルトが光を反射し、いつもの通学路が少しだけ明るく見える。
ひよりは傘を持たずに空を見上げた。
「晴れた」
鞄についた黒犬のキーホルダーが、歩くたびに小さく揺れる。
今日は学校へ行く。
颯太に会えるかもしれない。
千夏と話す。
授業を受ける。
そして放課後には、昨日会えなかった真樹とノアに会う。
ひよりは自然と笑った。
(今日は絶対、『会えて嬉しい』って言わせる)
そんな小さな目標を胸に、駅へ向かって歩いていく。
同じころ、真樹も北条家の玄関で靴を履きながら、足元にいるノアの頭を撫でていた。
「今日は行けるぞ」
ノアの尻尾が大きく揺れる。
「……天野も来るって」
さらに尻尾が揺れた。
真樹は呆れたように笑う。
「お前、分かりやすすぎ」
そう言いながら立ち上がった真樹自身も、昨日より少しだけ軽い足取りで玄関を出た。
雨で一日途切れたはずのいつもの時間は、二人にとって、途切れたからこそ少しだけ待ち遠しいものへ変わり始めていた。




