第22話 褒めるところを探すのは難しい
水曜日の朝、天野ひよりは制服へ着替え終えると、机の上に置いてあった二つのヘアゴムを見比べていた。
一つは昨日使った淡い水色で、もう一つは以前から使っている黒色のものだ。昨日の夜、真樹からわざわざ『今日の水色は似合ってた』と送られてきたせいで、何となく水色へ手を伸ばすのが気恥ずかしい。
(昨日と同じにしたら、気に入ってるみたいに見えるかな。いや、実際気に入ってるから買ったんだけど……)
誰に対して言い訳しているのか分からなくなり、ひよりは鏡の中の自分へ困ったように眉を寄せた。
結局、昨日とは少し髪型を変え、水色のヘアゴムを使って低めの位置で髪をまとめる。昨日とまったく同じではない。それだけで何となく納得すると、黒犬のキーホルダーがついた鞄を持って部屋を出た。
階段を下りる途中から、味噌汁の香りと家族の話し声が聞こえてくる。
「おはよう」
「おはよう、ひより」
台所に立つ由美が振り返り、浩介は新聞から顔を上げた。悠一はすでに朝食を食べながらスマートフォンを見ており、美月は眠そうにマグカップを両手で包んでいる。
ひよりが椅子を引いたところで、美月の目が髪へ向いた。
「今日も水色なんだ」
「気に入ったから」
「北条君に似合うって言われたからじゃなくて?」
「お姉ちゃん!」
悠一の手が止まった。
「待って。今、北条って聞こえたんだけど」
「聞こえてても黙ってて」
「何を似合うって言われたの?」
「ヘアゴム」
「髪を見てたの?」
「ついてたら見えるでしょ!」
ひよりが呆れて答える一方、悠一は朝食の箸を持ったまま真剣な顔になっている。
「でも普通、女子のヘアゴムなんて気づくか?」
「昨日は橘君も気づいたよ」
「橘君って誰!?」
「学校の友達」
「男?」
「そうだけど」
「ひよりの周りに男が増えてない!?」
「増えてないよ!」
兄妹の声が大きくなり、由美が味噌汁の椀をひよりの前へ置きながら悠一を見る。
「朝からうるさいわよ。ひよりに男の子の友達がいたって普通でしょう」
「普通だけど、把握はしておきたい」
「どうして?」
「兄だから」
「理由になってない」
由美に即座に切られ、悠一が黙る。
浩介は新聞を畳みながら苦笑した。
「悠一、あんまりやると本当にひよりから何も教えてもらえなくなるぞ」
「父さんは心配じゃないの?」
「心配はするけど、ひよりが自分で付き合う相手を選べない年齢でもないだろ」
「お父さん……!」
ひよりが感動して父を見る。
浩介は優しく笑ったあと、少しだけ表情を改めた。
「ただ、夜遅くなるときは連絡してくれ」
「うん」
「相手が男の子なら名前と住所と電話番号と保護者の連絡先も――」
「お父さんも同じじゃん!」
食卓に笑いが広がる。
美月は笑いながらひよりの水色のヘアゴムを眺めた。
昨日、ひよりは「北条君に気づくか試す」と言っていた。帰宅後に詳しい報告を聞いたわけではないが、今朝の反応を見る限り、真樹はきちんと気づいたらしい。
しかも「似合う」とまで言った。
(北条君、思ったよりちゃんと見てるんだな)
それが恋愛感情なのかどうか、美月にはまだ判断できない。
ひより自身は颯太という男子を好きだと言っているし、真樹について話すときの表情はそれとは少し違う。浮ついた照れよりも、もっと自然で安心した笑顔をする。
だからこそ、美月は急いで名前をつけるつもりはなかった。
「ひより、冷めるよ」
「あ、うん」
美月に言われ、ひよりは味噌汁へ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
青葉高校へ着くと、ひよりは昇降口で靴を履き替えながら、廊下の先に颯太の姿を見つけた。
今日は一人だった。
昨日は友人と話していたため声をかけられなかったが、今なら大丈夫かもしれない。
胸の奥が少しだけ速くなる。
(行こう)
鞄の持ち手を握り直し、ひよりは歩き出した。
「佐伯君、おはよう」
颯太が振り返る。
「あ、天野。おはよう」
名前を呼ばれただけで嬉しい。
昨日の公園で真樹と話していたときとは違う緊張があり、頬のあたりが少し熱くなる。
「今日、早いね」
「天野もじゃん」
「私はいつもこれくらいだよ」
「そうだっけ?」
「去年同じクラスだったのに覚えてないの?」
「朝からそこまで見てないって」
颯太が笑う。
ひよりもつられて笑った。
以前なら、挨拶ができただけで何を話せばいいのか分からなくなっていたかもしれない。それが今は、短いながらも自然に言葉を返せている。
「そういえば、宮田に写真渡した。ありがとうって言ってた」
「ほんと? よかった」
「天野、去年の写真結構持ってるんだな」
「千夏といっぱい撮ったからね」
「藤崎とずっと一緒だもんな」
「中学からだから」
そんな会話をしながら階段まで歩く。
そこで颯太の教室とひよりの教室は方向が分かれた。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
颯太が手を軽く上げ、廊下を進んでいく。
ひよりはその背中を見送ってから、自分の教室へ向かった。
(話せた)
昨日できなかったことが、今日はできた。
それだけなのに足取りが軽い。
教室へ入ると、先に来ていた千夏がひよりの顔を見ただけで眉を上げた。
「何かいいことあった?」
「分かる?」
「分かる。顔が『ありました』って言ってる」
ひよりは鞄を机へ置き、千夏のそばへ寄った。
「今、佐伯君と話せた」
「おお」
「向こう一人だったから、私からおはようって言ったの」
「昨日できなかった分、今日は行けたんだ」
「うん」
千夏は嬉しそうな友人を見て、素直に笑う。
「よかったじゃん」
「ちょっとだけだけどね」
「ちょっとずつでいいんじゃない? 前より普通に話せるようになってるし」
「うん。私もそう思う」
ひよりは椅子へ座った。
颯太へ近づきたい。
もっと話したい。
いつかきちんと気持ちを伝えたい。
その願いは今も変わっていない。
「そういえば」
千夏が机へ肘をつく。
「北条君はヘアゴム気づいた?」
「気づいた!」
「でしょうね」
「しかもね、夜にもう一回似合ってたって送ってきた」
「……へえ」
千夏の声が少しだけ変わる。
「昼にも言われたんだけど、私が『明日は何か褒めて』って言ったら、夜になって『今日の水色は似合ってた』って」
「ひより」
「何?」
「北条君と何の遊びしてるの?」
「褒める練習?」
「何それ」
「昨日から、北条君に『会えて嬉しい』って言わせる勝負もしてる」
「勝負になってるの?」
「なってるよ。まだ言わないの」
千夏はしばらく黙った。
本人たちに恋愛の自覚がないことは分かっている。
ひよりは颯太の話をするとき、明らかに恋をしている女の子の顔になる。今朝だって颯太と話せただけで、教室へ入ってきた瞬間から嬉しさが表情に出ていた。
けれど真樹の話をするときのひよりは、別の意味で無防備だった。
(こっちはこっちで、ずいぶん距離近くなってるんだけどなあ)
千夏はそれを言葉にはしなかった。
今のひよりへ「それって好きなんじゃない?」などと尋ねても、本人の気持ちを勝手に決めつけるだけになる。
「今日も会うの?」
「うん。いつもの時間」
「そっか」
「昨日は橘君に数学教えてて遅れたから、今日は普通に行ける」
「じゃあ北条君にいっぱい褒めてもらってきな」
「一個でいいよ」
「一個は欲しいんだ」
「だって約束したし」
「北条君は約束したつもりあるのかな」
千夏が笑い、ひよりもつられて笑った。
◇ ◇ ◇
午前の授業が終わり、昼休みになる。
ひよりが千夏と机を合わせようとしていると、海斗がこちらへやってきた。
「天野、昨日ありがとう」
「数学?」
「うん。今日の小テスト、たぶんいけた」
「ほんと?」
「さっき答え合わせした感じだと、昨日教えてもらったとこ合ってた」
「よかったじゃん」
ひよりが笑うと、海斗も嬉しそうに頷いた。
「また分かんないとこあったら聞いていい?」
「私で分かるところなら」
「じゃあ頼む」
「でも毎日は無理だよ」
「分かってるって」
海斗は苦笑し、それからひよりの髪へ視線を向けた。
「今日もそれなんだ」
「水色?」
「うん。気に入った?」
「気に入った。昨日買ったばっかりだし」
「似合ってると思う」
「昨日も言ってくれたよ」
「そうだっけ?」
「言ったよ!」
「じゃあ二回褒めたってことで」
海斗は笑いながら自分の席へ戻っていく。
ひよりも特に深く考えず、千夏と昼食の準備を始めた。
その一連のやり取りを見ていた千夏は、何も言わない。
ただ、海斗がひよりの髪へ自然に目を向けたことだけは覚えておいた。
◇ ◇ ◇
同じころ、桜陵学園の食堂では、真樹が昼食のトレーを前にしながらスマートフォンを見ていた。
向かいには蓮が座っており、その隣には玲奈がいる。
「真樹、昨日から何回スマホ見てるの?」
玲奈に指摘され、真樹は画面を伏せた。
「時間見てるだけ」
「壁に時計あるけど」
「癖」
玲奈はそれ以上追及しなかった。
昨日の交流会でも、真樹は普段よりスマートフォンを気にしていた。今日も同じような様子を見せている。
誰からの連絡を待っているのか。
玲奈には一人しか思い浮かばない。
「天野さん?」
蓮が何の遠慮もなく尋ねた。
「違う」
「じゃあ橘君?」
「何で橘から俺に来るんだよ」
「佐伯君?」
「来るわけないだろ」
「名前出しただけでちゃんと反応するの面白いな」
「お前が出すからだろ」
真樹が睨む。
玲奈は二人のやり取りを聞きながら、箸を持つ指へ少し力を込めた。
佐伯と橘。
どちらも知らない名前だ。
けれど、真樹が覚えているということは、ひよりの周囲にいる男子なのだろう。
(真樹が、女の子の周りの男子をこんなに覚えてるんだ)
胸の奥へ小さな重さが落ちる。
それでも、玲奈は表情を崩さなかった。
「天野さん、学校では人気あるの?」
「知らない」
真樹が即答する。
「同じ学校じゃないし」
「そうよね」
「でも友達多そうだったよな」
蓮が続ける。
「話しやすいし」
真樹の視線が蓮へ向く。
「一回会っただけだろ」
「一回でも分かることはあるだろ。実際、話しやすかったし」
「そう」
「何、その顔」
「普通」
蓮は笑いを堪えるように口元を押さえた。
玲奈はその様子を見ていた。
真樹本人は気づいていないのかもしれない。
けれど、ひよりの話題になると反応が多い。
自分が幼いころから知っている真樹は、興味のない相手の人間関係をここまで覚えたりしない。
「私も天野さんと、また話してみたいな」
玲奈がそう言うと、真樹がこちらを見た。
「何で?」
「前に会ったとき、あまり話せなかったから。感じのいい子だったし」
「別にいいんじゃない」
「今度ノアの散歩に一緒に行ってもいい?」
玲奈はできるだけ自然に尋ねた。
真樹の返事がわずかに遅れる。
「……家に連絡すれば?」
「真樹に聞いてるの」
「俺が決めることじゃないだろ。ノアの散歩は予定決めてやってるわけじゃないし」
拒絶ではない。
しかし歓迎でもなかった。
玲奈は小さく笑う。
「分かった。予定が合ったらね」
そのまま話題を変えた。
胸に残ったものを、表へ出すことはしなかった。
◇ ◇ ◇
午後の授業を終えたひよりは、今日は寄り道せずに学校を出た。
昨日とは違い、真樹へ「遅れる」という連絡を送る必要もない。
それでも校門を出たところでスマートフォンを開き、短いメッセージを打った。
『今学校出たよ』
送ってから数秒後、自分で首を傾げる。
(これ、送る必要あった?)
昨日は海斗へ数学を教えるため遅れると伝える必要があった。
今日はいつもの時間だ。
真樹もそう言っていた。
それなのに、自然に連絡してしまった。
少しして返信が届く。
『俺も今出た』
ひよりの頬が緩む。
『じゃあどっちが先かな』
『学校の距離違うだろ』
『勝負』
『勝手にしろ』
『負けたら会えて嬉しいって言う』
『俺に何の得がある』
『私が喜ぶ』
『知らん』
歩きながら打つのは危ないため、ひよりは道端で立ち止まって返信を読む。笑ってからスマートフォンを鞄へしまい、再び歩き始めた。
駅へ向かう人の流れから外れ、いつもの公園へ続く道へ入る。
冬の午後の日差しは弱く、住宅の屋根から伸びた影が道路へ長く落ちていた。冷たい風が吹くたび、街路樹の枝が乾いた音を立てる。
公園の入口が見えた。
まだノアの姿はない。
「勝った」
誰もいないのに小さく呟き、ひよりはベンチへ向かった。
座る前に時計を見る。
いつもの時間より数分早い。
昨日は待たせる側だった。
今日は待つ側だ。
それが何となく嬉しく、ひよりはベンチへ腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
数分後、公園の入口へ大きな黒い影が現れた。
ノアだ。
「ノア!」
ひよりが立ち上がる。
ノアもすぐに気づき、歩調が速くなる。
「走るな、ノア」
真樹がリードを軽く引きながら歩いてくる。
ひよりはベンチの前で待ち、二人が近づくと得意そうに笑った。
「私の勝ち」
「何が」
「先に着いた」
「勝負してない」
「メッセージで言ったじゃん」
「お前が勝手に始めただけだろ」
「じゃあ罰ゲーム」
「何でだよ」
「会えて嬉しいって言って」
「帰るぞ、ノア」
「待って待って!」
真樹が本当に向きを変えようとしたため、ひよりは笑いながらその前へ回り込んだ。
「冗談だって」
「目が本気だった」
「半分本気」
「ほぼ本気だろ」
ノアが二人の間で尻尾を振っている。
ひよりはしゃがんでノアの首元を撫でた。
「ノアは会えて嬉しかった?」
問いかけると、ノアがひよりの頬へ鼻先を近づける。
「ほら、ノアは素直」
「そいつ喋ってないだろ」
「態度で分かるもん」
「じゃあ俺も態度で分かれよ」
真樹が何気なく言った。
ひよりの手が止まる。
「……え?」
真樹も、自分が何を口にしたのか一拍遅れて理解した。
「違う」
「今のどういう意味?」
「何でもない」
「態度で分かれって、会えて嬉しいってこと?」
「違う」
「じゃあ何?」
「知らない」
「北条君、自分で言ったんじゃん!」
ひよりが立ち上がる。
真樹は明らかに面倒そうな顔をしながら視線を逸らした。
(何言ってんだ、俺)
ひよりに会えて嬉しかったかと聞かれれば、答えはもう自分の中では分かっている。
昨日も今日も、姿を見つけたときに少し安心した。
今日に至っては、学校を出たというメッセージが来ただけで、到着時間を無意識に考えていた。
それでも口にするのは別だった。
「ほら、散歩行くぞ」
「誤魔化した」
「行かないなら置いてく」
「行く!」
ひよりは笑いながら隣へ並んだ。
◇ ◇ ◇
いつもの遊歩道を歩き始めて少しすると、ひよりは昨夜の話を持ち出した。
「そういえば、今日褒めるところ探してくれるんでしょ?」
「約束してない」
「昨日『何を』って聞いたじゃん」
「聞いただけ」
「じゃあ探して」
「面倒」
「友達なんだから一個くらいあるでしょ」
「友達と褒めるところは関係ないだろ」
「私は北条君の褒めるところ言えるよ」
「聞いてない」
「ノアに優しい」
「それ俺じゃなくてノアが好きなだけだろ」
「人の話覚えてる」
「普通」
「困ってる人放っておけない」
「蓮に聞いたやつだろ」
「私も見てるよ」
ひよりは歩きながら指を折っていく。
「意外とちゃんと話聞いてくれるし、嫌なことは嫌って言うし、約束したら守るし、ノアのことすごく大事にしてるし――」
「もういい」
「まだあるよ?」
「何でそんな出てくるんだよ」
「友達だから見てるもん」
真樹の足がほんの少しだけ遅くなる。
ひよりは気づかず、そのまま隣を歩いている。
(友達だから見てる、か)
昨日、自分も似たようなことを考えていた。
ひよりのヘアゴムを覚えていたこと。
表情の違いを少しずつ気にするようになったこと。
颯太や海斗の名前を覚えていること。
どれも友達だからだと説明している。
なら、ひよりが自分を見ていることも同じなのだろう。
そう考えれば簡単なはずなのに、胸の奥に生まれたものは、なぜか少し物足りなかった。
「北条君?」
「何」
「今聞いてた?」
「聞いてた」
「じゃあ私の褒めるところ」
「しつこい」
「それ悪口!」
「事実」
「ひどい!」
ひよりが頬を膨らませる。
真樹はその顔を横目で見た。
褒めるところ。
探せと言われれば、思い浮かばないわけではない。
ノアに優しい。
人のことをよく考える。
自分が失敗したときに笑って誤魔化す癖があるくせに、他人が困っていると真面目になる。
家族のことを口では面倒そうに言いながら、本当は大切にしている。
颯太へ気持ちを伝えることから一度逃げた自分を責めながら、それでも次は逃げたくないと前を向いている。
昨日、海斗へ勉強を教えるため遅れるときも、約束した自分へきちんと連絡してきた。
そして何より、真樹の家のことを知りたがりながらも、本人が話さないことを勝手に調べようとしない。
(……普通にあるな)
問題は、どれを口にするかだった。
「天野」
「ん?」
「お前、変に詮索しないだろ」
「え?」
「人のこと」
ひよりは少し驚いた顔をした。
「それ褒めてる?」
「一応」
「分かりにくい」
「ならなし」
「待って! ちゃんと聞く!」
ひよりは慌てて真樹のほうへ身体を向ける。
歩きながらでは危ないため、真樹が「前見ろ」と言うと、ひよりは素直に前へ向き直った。
「続きは?」
「ない」
「絶対ある言い方だったじゃん」
「……知りたいことあっても、勝手に踏み込まないところは、いいと思う」
ひよりの表情から、からかうような笑みが少し消えた。
真樹が何を指しているのか分かったからだ。
家のこと。
将来のこと。
父親の会社のこと。
日曜日に参加した交流会のこと。
ひよりは知りたいと思っている。
けれど、真樹が話したくないことまで無理に聞くつもりはなかった。
「……ありがとう」
今度の声は、さっきまでより静かだった。
「北条君が話したくなったら聞くよ」
「うん」
「話したくないなら、無理に聞かない」
「ああ」
「でも、聞いてほしいときに私が気づかなかったら言ってね」
真樹がひよりを見る。
「それ自分で言うの?」
「だって昨日、お姉ちゃんに言われたの。聞かないことが優しさになるときもあるけど、相手が話したいのに聞かないのも違うって」
「姉ちゃん、まともだな」
「お兄ちゃんもまともだよ!」
「それはまだ信用してない」
「会ったこともないくせに!」
「聞いてる情報が全部ひどい」
「シスコンなだけだから」
「それをひどいって言ってんだよ」
真面目になりかけた空気が緩み、ひよりが笑った。
真樹もほんの少し口元を緩める。
◇ ◇ ◇
遊歩道の途中にある小さな広場へ着くと、二人はベンチで少し休むことにした。
ノアはひよりの足元へ座り、彼女が持ってきた残りの犬用クッキーを期待するように見上げている。
「一枚だけね」
ひよりが鞄から『ブーランジェリー陽だまり』で買った袋を取り出す。
真樹が確認してから頷き、ひよりは一枚だけノアへ渡した。
「まだ残ってるな」
「うん。あと何枚かあるよ」
「湿気る前に食わせないとな」
「じゃあまた今度」
何気なく口にしたあと、ひよりは袋を閉じて鞄へ戻す。
また今度。
最近はその言葉を使うことが増えた。
次に会うことを確認しなくても、残ったクッキーがあるからまた渡せると思っている。
真樹もそれを当然のように受け入れている。
「そういえば今日ね、佐伯君と朝話せた」
ひよりが嬉しそうに言った。
真樹の指が、ノアの頭を撫でたまま止まりかける。
「……そう」
「昨日は友達と一緒だったから声かけられなかったけど、今日は一人だったから私からおはようって言えた」
「よかったな」
「うん」
ひよりの声は明るい。
その表情を見れば、本当に嬉しかったのだと分かる。
真樹はベンチの背もたれへ身体を預け、前方へ視線を向けた。
「前より普通に話せるようになった?」
「ちょっとずつね」
「なら、そのうち告白すんの?」
ひよりは膝の上で手を組んだ。
「……したいよ」
真樹の胸の奥がわずかに重くなる。
「いつ?」
「まだ決めてない。もう少し普通に話せるようになってからかな」
「そっか」
「怖いけどね」
「何が」
「振られるの」
ひよりは苦笑する。
「好きな人に好きって言って、駄目だったらやっぱり悲しいじゃん。バレンタインのときも、それが怖かったのかもしれない。渡して何か変わるのが怖くて、結局何もできなかった」
真樹は黙って聞いていた。
「でも次は、ちゃんとしたい」
ひよりは前を向いた。
「結果がどうでもいいって思えるほど強くはないけど、何もしないまま終わるのは嫌だから」
「……そう」
「北条君、また機嫌悪くなった?」
「なってない」
「ほんと?」
「ほんと」
完全な嘘ではない。
ひよりが頑張ろうとしていること自体を邪魔したいわけではなかった。
むしろ、怖くても逃げたくないと言うひよりを応援するのが友達なのだろう。
ただ、その先を想像すると胸の奥が落ち着かない。
颯太がひよりの気持ちを受け入れたら。
朝だけでなく、放課後も一緒に歩くかもしれない。
休日に出かけることもあるかもしれない。
ひよりが今のように公園へ来なくなる可能性だってある。
(またこれか)
昨日も考えた。
考えても答えは出なかった。
「北条君?」
「何」
「ぼーっとしてた」
「してない」
「してたよ」
ひよりは少し心配そうに顔を覗き込む。
「疲れてる?」
「違う」
「じゃあ何考えてたの?」
真樹は答えられなかった。
ひよりが颯太と付き合ったら、自分たちの関係がどうなるのか考えていた、などと言えるはずがない。
「……ノアのこと」
「絶対嘘」
「何で」
「ノア見てなかったもん」
「見なくても考えられるだろ」
「怪しい」
ひよりはしばらく疑うように見ていたが、やがて追及をやめた。
「まあいいや。北条君が話したくなったら聞くって、さっき言ったばっかりだし」
その言葉に、真樹が目を向ける。
ひよりは本当にそれ以上聞かなかった。
だからこそ、余計に胸の奥が妙な感覚になる。
(こういうところなんだよな)
先ほど褒めたばかりの部分を、すぐに見せられた。
「天野」
「ん?」
「……ありがと」
「何が?」
「別に」
「またそれ!」
ひよりが笑う。
真樹も今度は否定せず、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
広場を出て公園へ戻る途中、今度はひよりが真樹へ質問した。
「北条君は好きな人できたら告白する?」
「またその話?」
「私ばっかり話してるから」
「できたことないから分からない」
「もしできたら」
「仮定が面倒」
「考えてよ」
真樹は少し黙る。
「……言わないかも」
「なんで?」
「関係変わるの面倒だろ」
ひよりが意外そうな顔をする。
「北条君もそういうの考えるんだ」
「俺を何だと思ってんだ」
「何でも気にしない人」
「気にすることくらいある」
「そっか」
ひよりは少し考えながら歩く。
「でも、好きになったら伝えたくならない?」
「知らない」
「私もバレンタインまでは、渡せればそれでいいって思ってたんだけどね」
「結局渡せなかったけどな」
「それ言わないで!」
「事実だろ」
「次は頑張るから」
「はいはい」
「北条君も好きな人できたら教えてね」
以前にも似たことを言われた。
真樹はそのときと同じように、そんな相手はできないと思っている。
「できたらな」
「約束」
「勝手に約束にするな」
「じゃあ私が先に教える」
「もう知ってる」
「あ、そうだった」
ひよりが笑う。
真樹はその横顔を見たあと、すぐ前へ視線を戻した。
ひよりの好きな相手を知っている。
だからこそ、今の自分がひよりに対して抱く妙な感情は、友達として適切な範囲へ収めなければならない気がした。
まだ、それ以上考える理由はなかった。
◇ ◇ ◇
公園へ戻ったころには、空の色が夕方へ変わり始めていた。
ひよりはノアの頭を撫でてから、真樹へ向き直る。
「今日の褒めるやつ、ちゃんと言えたね」
「もうその遊び終わりな」
「明日もあるよ」
「ない」
「じゃあ『会えて嬉しい』のほうだけ続ける」
「そっちも終われ」
「まだ私勝ってないもん」
「何をもって勝ちなんだよ」
「北条君が素直に言う」
「なら一生終わらないな」
「ひどい!」
ひよりは笑いながら手袋をはめ直す。
「でも今日、『態度で分かれ』って言ったから半分くらい勝ちかな」
「あれは忘れろ」
「無理」
「忘れろ」
「絶対忘れない」
真樹は深く息を吐いた。
「……ほんとしつこいな」
「それ今日二回目の悪口」
「褒めてる」
「どこが!」
「諦めないって意味」
ひよりが口を閉じた。
真樹も、自分が自然に言ったことへ少し遅れて気づく。
「それ、今日二個目の褒めるところ?」
「違う」
「二個目だ!」
「違うって」
「やった!」
「何がそんな嬉しいんだよ」
「北条君が二個も褒めた」
ひよりは本当に嬉しそうに笑っている。
その顔を見た真樹は、もう否定する気を少し失った。
「……好きにしろ」
「うん」
ひよりは笑顔のまま頷いた。
しばらくして二人は公園の入口まで歩き、いつもの場所で足を止める。
「じゃあまた明日」
「明日も来るの?」
真樹が尋ねる。
「行くよ。北条君は?」
「行く」
「じゃあまた明日」
「ああ」
ひよりが歩き出す。
数歩進んだところで、真樹がふと気づいた。
「天野」
「何?」
振り返ったひよりへ、真樹は一瞬迷ってから言う。
「今日、髪昨日と違うだろ」
ひよりが目を丸くする。
「気づいてたの!?」
「最初から」
「何で言わなかったの?」
「聞かれなかったから」
「昨日は聞かなくても気づいたって言ったじゃん!」
「水色なのは同じだろ」
「結ぶ位置変えたの!」
「知ってる」
「じゃあ言ってよ!」
「今言った」
真樹の口元がわずかに上がる。
ひよりは悔しそうに頬を膨らませたものの、すぐに笑ってしまった。
「北条君、ほんとよく見てるね」
「……たまたま」
「はいはい」
ひよりは手を振る。
「また明日!」
「ああ。また明日」
今度こそひよりは帰っていった。
真樹はその背中を見送りながら、先ほど言われた言葉を思い返す。
『ほんとよく見てるね』
否定した。
たまたまだと言った。
けれど実際には、公園へ来たひよりを見た瞬間から髪型が昨日と違うことへ気づいていた。
(……何で気づくんだろうな)
自分でも分からない。
ただ、最近はひよりの変化が目に入る。
笑い方。
声の調子。
無理をしているかもしれない表情。
髪型。
そして、颯太の話をするときだけ少し違う顔。
それらを覚えようとしているつもりなどないのに、勝手に残っている。
ノアが隣で歩き始める。
「帰るか」
真樹も後を追った。
◇ ◇ ◇
その夜、ひよりはベッドへ寝転がりながら千夏とメッセージをしていた。
『北条君、今日も髪気づいてた』
『昨日と同じ水色でしょ?』
『結び方変えたの』
『そこまで?』
『うん。最初から気づいてたって』
少し間が空く。
『北条君、ひより観察日記でもつけてる?』
『怖いこと言わないで(笑)』
『冗談。でもよく見てるね』
朝に美月からも似たようなことを言われた。
ひよりは自分の髪へ触れる。
真樹は人の話をよく覚えている。
細かいところにも気づく。
きっとそういう性格なのだろう。
『今日ね、褒めるところ二個言わせた』
『何してるのほんとに』
『勝った』
『会えて嬉しいは?』
『まだ』
『そっちは強いね』
『絶対言わせる』
千夏から笑っているスタンプが届く。
ひよりも笑いながらスマートフォンを置こうとしたところで、別の通知が入った。
真樹だ。
『明日雨らしい』
ひよりは窓のほうを見る。
カーテンの向こうは見えない。
『ほんと?』
『夕方から』
『じゃあノア散歩無理かな』
『降り方次第』
『会えない?』
送ってから、ひよりは少しだけ指を止めた。
ノアの散歩ができないかどうかを聞けばよかったのに、自然に「会えない?」と打っていた。
既読がつく。
返事はすぐには来なかった。
◇ ◇ ◇
真樹は自室で、その一文を見つめていた。
『会えない?』
ノアに、とは書いていない。
自分に、なのか。
自分とノアの両方になのか。
そんなことを考えている時点でおかしい気もする。
(普通に答えればいいだろ)
指を動かす。
『雨ひどくなければ行く』
送信する。
すぐに返事が届いた。
『私も!』
真樹はその文字を見つめ、少しだけ口元を緩めた。
『無理して来るなよ』
『北条君もね』
『俺はノア次第』
『私は?』
真樹の指が止まる。
『何が』
『私は誰次第で行けばいい?』
「知らねえよ……」
思わず声が漏れる。
それでも、少し考えてから打った。
『自分で決めろ』
『じゃあ行きたいと思ったら行く』
『雨ひどかったらやめろ』
『はーい』
会話はそこで終わるかと思った。
しかし、数秒後にもう一件届く。
『北条君が来るなら行きたいかも』
真樹は完全に動きを止めた。
胸の奥が、ほんの少しだけ強く鳴る。
(……こいつ、本当にこういうの普通に言うよな)
ひよりに深い意味がないことは分かっている。
今日だって颯太の話を嬉しそうにしていた。
好きな相手は別にいる。
だから、この言葉へ自分だけが妙な意味を持たせるのは違う。
真樹は何度か文章を打っては消し、最終的に短い返事を送った。
『なら天気見て決める』
ひよりからすぐに返る。
『うん。明日また連絡しよ』
『分かった』
『おやすみ』
『おやすみ』
画面が静かになる。
真樹はスマートフォンを伏せ、ベッドへ背中を預けた。
明日の夕方は雨。
それだけなら、散歩へ行けない可能性があるというだけの話だった。
けれど今の真樹が気にしているのは、ノアが散歩できるかどうかだけではない。
ひよりに会えるのか。
自分でも、それを考えていることはもう分かっていた。
ただし、なぜそこまで会うことが当たり前になったのか、その理由まではまだ追いかけない。
一方のひよりも、スマートフォンを枕元へ置きながら、明日の天気予報を開いていた。
夕方の欄には傘の印が並んでいる。
「降らないといいな」
ノアに会いたい。
真樹とも話したい。
今日の続きを、また明日もしたい。
それはもう、ひよりの日常の中へ自然に入り込んでいた。
窓の外ではまだ雨の気配すらなく、冬の夜空が静かに広がっている。
けれど二人はそれぞれの部屋で、まだ降ってもいない明日の雨を気にしていた。




