第21話 水色に気づく人
火曜日の朝、ひよりは洗面台の鏡の前で髪を整えながら、昨日買ったばかりの水色のヘアゴムを手に取った。
派手な飾りがついているわけではなく、細い布地に小さなリボンがあしらわれただけのものだ。普段使っている黒や茶色のヘアゴムと比べれば少しだけ目立つものの、わざわざ人へ見せるほど特別な品ではない。それなのに今日は、鏡の中の自分を何度も確認してしまう。
(北条君、もう色知ってるんだよね……)
昨夜のやり取りを思い出すと、少し悔しくなる。
今日つけていくヘアゴムの色を当てさせようと思っていたのに、真樹は前日にひよりが送った写真の端へわずかに写り込んでいたものを覚えていた。本人は「たまたま見えた」と言っていたが、ひよりなら同じ写真を見ても気づかなかった自信がある。
髪を後ろでまとめてから角度を変え、もう一度鏡を見る。
「……普通だよね」
「何が?」
「うわっ!」
開いていた洗面所の扉から美月が顔を覗かせており、ひよりは肩を跳ねさせた。
「お姉ちゃん、びっくりさせないでよ」
「普通に来ただけだけど。何をそんな真剣に見てたの?」
「髪」
「それは見れば分かる」
美月は妹の後ろへ立つと、鏡越しに髪を眺めた。すぐに普段とは違うものへ気づいたらしく、水色のヘアゴムへ視線を止める。
「それ、新しい?」
「昨日買ったの」
「可愛いじゃん。似合ってる」
「ほんと?」
「うん。ひより、水色似合うよ」
姉から素直に褒められ、ひよりの頬が緩む。
「よかった」
「誰かに気づいてほしいの?」
「え?」
あまりにも自然に尋ねられ、ひよりは鏡越しに美月を見返した。
美月は特に意味深な顔をしているわけではない。ただ、妹が普段より念入りに髪を確認しているから聞いただけなのだろう。
「別にそういうわけじゃないよ。昨日、北条君に気づくか試すって話しただけ」
「……北条君には気づいてほしいんだ?」
「試すだけだって」
「ふうん」
「その『ふうん』やめて」
ひよりが振り返ると、美月は小さく笑って洗面台の横へ寄った。
「でも北条君、気づくんじゃない?」
「もう色まで知られてるの。昨日送った写真にちょっとだけ写ってたらしくて」
「それを覚えてたの?」
「そう。怖くない?」
「怖いっていうより……」
美月は一度言葉を止めた。
ほんの少しだけ写り込んでいた妹の買い物を覚えている男子。それだけで何かを決めつけるつもりはないが、少なくとも興味の薄い相手へ向ける注意力ではないような気がする。
もっとも、目の前の妹はそこに別の意味など見つけていない。
「よく見てるんだね、ひよりのこと」
「人の話もすごい覚えてるよ。お兄ちゃんが二十四歳なのまで覚えてたし」
「それは……北条君、可哀想に」
「なんで!?」
「二十四歳のシスコン情報なんて覚えたくなかったでしょ」
「お姉ちゃん!」
二人の笑い声が廊下まで響き、階下から悠一の「何の話!?」という声が飛んでくる。
美月は何も答えず、ひよりの肩を軽く叩いた。
「ほら、早く行かないと遅れるよ」
「お姉ちゃんが話しかけてきたんじゃん」
「北条君に水色、ちゃんと見てもらってきな」
「だからそういうんじゃないって!」
否定しながらも、ひよりは最後に一度だけ鏡を確認してから洗面所を出た。
◇ ◇ ◇
教室へ入った瞬間、千夏はひよりの顔より先に髪を見た。
「お、新しいやつ」
「早い!」
「昨日買ったって言ってたじゃん。水色なんだね、可愛い」
「ありがとう。……やっぱ千夏は気づくよね」
「そりゃね」
ひよりが席へ鞄を置くと、昨日から付け始めた黒犬のキーホルダーが机の横で小さく揺れた。千夏はそちらにも目を向け、指先で軽く触れる。
「こっちも付けてきたんだ」
「うん。可愛いでしょ?」
「ノアとはだいぶ違うけどね」
「北条君と同じこと言わないで」
「飼い主目線だと許せないんじゃない?」
「黒いところは同じなのに」
「そこしか同じじゃないじゃん」
笑いながら話していると、登校してきた海斗が二人の前を通りかかった。挨拶を交わしたあと、そのまま自分の席へ向かいかけた海斗が、ふと振り返る。
「あれ、天野、髪のやつ変えた?」
ひよりは思わず目を丸くした。
「気づいたの?」
「昨日そんな色じゃなかった気がする。違った?」
「違った。昨日買ったの」
「へえ。似合ってんじゃん」
「ありがとう」
何気ない一言だった。
海斗自身も深く考えずに口にしたらしく、「じゃあ放課後よろしく」と続けて自分の席へ戻っていく。
ひよりはその背中を見送ってから千夏へ顔を向けた。
「橘君まで気づいた」
「ね」
「男の子って意外と見てるんだね」
「人によると思うけど」
千夏はそう答えながら、海斗のほうを一度だけ見る。
最近の海斗は、以前よりひよりへ目を向けることが増えている。本人がその変化を意識している様子はまだないし、千夏も今の段階で何かを言うつもりはなかった。
「これで北条君が気づかなかったら面白いね」
「色まで知ってるから気づくに決まってるよ」
「じゃあ勝負にならないじゃん」
「だから悔しいの」
ひよりは唇を尖らせながら椅子へ座った。
そのとき教室の前を何人かの生徒が通り過ぎ、その中に見覚えのある横顔を見つける。颯太だった。
昨日は自分から声をかけられた。
今日も、と一瞬思う。
けれど颯太は友人二人と話しており、楽しそうな会話へ割って入るほどの勇気はまだない。ひよりが迷っているうちに、その姿は廊下の向こうへ消えていった。
(今日は無理だったな)
少しだけ残念だった。
それでも以前なら、声をかけられなかった自分を必要以上に責めていたかもしれない。今は昨日話せたことを思い出し、また次に機会があればいいと思える。
焦らなくていい。
バレンタインの日にできなかったことを、少しずつ取り戻していけばいいのだから。
◇ ◇ ◇
桜陵学園では、一時間目が始まる前から蓮が真樹の机へ寄りかかっていた。
「今日も放課後、公園?」
「多分」
「多分なんだ」
「天野が同じクラスのやつに勉強教えるって言ってたから、少し遅れるかもしれない」
答えた直後、蓮が黙った。
その沈黙が気になり、真樹は教科書から顔を上げる。
「何」
「いや。詳しいなと思って」
「昨日聞いたから」
「誰に?」
「天野」
「わざわざ?」
「昨日、今日教えるって話してただろ」
蓮は記憶を探るように目を細めたあと、楽しそうに笑った。
「橘君だっけ?」
「……そう」
「名前まで覚えてる」
「何回も聞いてるからな」
「佐伯君と橘君なら、どっちが嫌?」
「何の話だよ」
真樹の声が低くなる。
蓮は椅子を引き寄せて座ることまではせず、机の端へ手をついたまま真樹を観察した。
「天野さんの周りの男子」
「別にどっちも嫌じゃない」
「じゃあ俺は?」
「お前は面倒」
「即答なんだ」
「藤崎と会いたいとか言い出すからだろ」
「まだ根に持ってる?」
「持ってない」
以前、公園でひよりと初めて直接会った日のことを思い出す。
蓮はひよりとすぐ自然に話し始め、連絡先まで交換しようとした。結局交換しなかったものの、あのとき感じた妙な落ち着かなさは、今も理由が分からないままだ。
蓮は真樹の表情を見ながら、それ以上追及しなかった。
代わりに話題を変えるように、自分のスマートフォンを取り出す。
「そういえば昨日の写真、天野さん何か言ってた?」
「お前にありがとうって」
「お、ちゃんと伝えてくれたんだ」
「今伝えた」
「昨日言えよ」
「調子乗るから嫌だった」
「ひどいな」
蓮は笑ったあと、少しだけ表情を和らげる。
「でも、天野さんといるときのお前、学校と結構違うよな」
「何が」
「喋る」
「お前相手にも喋ってるだろ」
「俺は付き合い長いし。天野さんとは最近だろ?」
真樹は返事をせず、窓の外へ目を向けた。
確かに、ひよりと知り合ってからそれほど長い時間が経ったわけではない。それなのに、今では今日会えるかどうかを自然に把握し、遅れる理由まで知っている。
(友達なら普通だろ)
昨日と同じ結論を頭の中で繰り返す。
その直後、スマートフォンが震えた。
画面にはひよりからのメッセージが表示されている。
『今日、橘君に数学教えるから昨日よりちょっと遅くなるかも』
真樹は数秒画面を見た。
『分かった』
それだけ打って送る。
続けてもう一件届いた。
『終わったら連絡するね』
真樹の指が止まる。
『別に急がなくていい』
送信したところで、向かいから蓮の声がした。
「天野さん?」
「……何で分かる」
「顔」
「どんな顔だよ」
「自分で鏡見れば?」
真樹は答えず、スマートフォンを伏せた。
◇ ◇ ◇
放課後の青葉高校では、部活動へ向かう生徒たちの声が廊下を行き交っていた。
ひよりは自分の席へ数学の教科書とノートを広げ、その隣へ椅子を持ってきた海斗に問題の解き方を説明していた。千夏は先に帰る予定だったが、教室を出る前に二人のところへ寄ってくる。
「ひより、私先帰るね」
「うん。また明日」
「橘君、ひより先生をあんまり長時間拘束しないように」
「分かってるって。今日は二問だけ」
「この前も二問って言ってなかった?」
「数学には二問が多いんだよ」
「何それ」
三人で笑ったあと、千夏はひよりの鞄に揺れる黒犬のキーホルダーへちらりと目を向けた。
「じゃあ、次の予定に遅れないようにね」
「分かってるよ」
ひよりは軽く手を振った。
千夏が教室を出ていくと、海斗はシャープペンシルを指先で回しながら問題集へ視線を戻した。
「次の予定って、北条?」
「うん。ノアの散歩」
「毎日なんだな」
「毎日っていうか、行ける日はね。会えない日もあるよ」
「昨日も会ったんだろ?」
「うん」
海斗は「そっか」と答え、問題へ目を落とす。
ひよりは特に気にせず、途中式を指した。
「ここ、符号逆になってるよ」
「あ、本当だ」
「だから答え合わないんだよ。ここ直せばたぶんいける」
「なるほど。……天野、教えるの上手いな」
「私より頭いい人いっぱいいるよ」
「頭いいのと教えるの上手いのって別じゃね?」
海斗は間違えた部分を書き直し、今度は正しい答えへ辿り着いた。
「できた」
「うん、合ってる」
「よし」
嬉しそうに笑った海斗につられ、ひよりも笑う。
そのとき、机の端に置いていたスマートフォンの画面が点灯した。通知ではなく、時刻表示だった。
ひよりは反射的に時間を確認する。
海斗がその視線に気づいた。
「時間大丈夫?」
「うん。まだ大丈夫」
「急いでるなら今日はここまででもいいぞ」
「あと一問でしょ? やろうよ」
「北条待ってんじゃないの?」
「急がなくていいって言われてるから」
答えてから、ひよりは少し笑った。
「でも終わったら連絡する約束だから、あんまり遅くならないほうがいいかな」
「約束してんだ」
「うん」
海斗の手がほんのわずかに止まった。
昨日もひよりは真樹との予定を「約束」と呼んでいた。別の学校の男子と、ほとんど毎日のように放課後会い、遅れるときには連絡をする。
友達なら不自然ではない。
そう思う一方で、自分が同じことを別の学校の女子としているところを想像すると、少し違う気もした。
(……何なんだろ)
胸の奥に引っかかったものへ名前をつけられないまま、海斗は問題集へ視線を戻した。
「じゃあ早く終わらせるか」
「うん。ここはさっきと同じ考え方で――」
ひよりは再び説明を始めた。
海斗はその横顔を一瞬だけ見たあと、今度こそ問題へ集中した。
◇ ◇ ◇
最後の問題を終えたのは、それから十五分ほど後だった。
「ありがとう、助かった」
「どういたしまして。次は自分でやってね」
「先生厳しい」
「先生じゃないって」
教科書を鞄へしまいながら、ひよりはスマートフォンを開いた。
『今終わったよ』
真樹へ送る。
すぐには既読がつかなかった。
「じゃあ帰るか」
「うん」
海斗と一緒に教室を出て昇降口へ向かう。途中で別のクラスの友人に呼び止められた海斗とは校舎を出たところで別れ、ひよりは一人で公園へ向かった。
数分歩いたところでスマートフォンが震える。
『分かった。もういる』
「もういるんだ」
思わず声が漏れた。
『待ってて』
送ってから、すぐにもう一件追加する。
『急がなくていいは禁止』
真樹からの返事は短かった。
『何で』
『今日は待たせる側だから』
『意味分からん』
ひよりは笑いながらスマートフォンを鞄へ戻した。
走りはしない。
以前、真樹に急ぐなと言われたことも覚えている。
それでも足取りは自然と少し速くなった。
◇ ◇ ◇
公園の入口が見えてくると、ノアが先にひよりを見つけた。
大きな黒い身体がこちらへ向き、尻尾が左右へ揺れ始める。その隣でリードを持っていた真樹も、ノアの反応につられるように顔を上げた。
ひよりは手を振る。
「お待たせ!」
「走るなって」
「走ってないよ」
「最後ちょっと走ってただろ」
「小走り」
「同じだ」
ひよりが到着すると、ノアがすぐそばまで寄ってくる。
「ノア、ごめんね。待った?」
しゃがんで首元を撫でると、ノアは嬉しそうに鼻先をひよりの肩へ寄せた。
「北条君も待った?」
「別に」
「昨日は待ったって言えたのに」
「今日はそんな待ってない」
「何分?」
「十分くらい」
「待ってるじゃん」
「ノアの散歩してたから待ってない」
「また逃げた」
ひよりは立ち上がり、真樹を見る。
その瞬間、真樹の視線がひよりの顔から髪へ移った。
ほんの一瞬だった。
しかし、昨日からその反応を待っていたひよりは見逃さない。
「今見た!」
「何を」
「髪!」
「見えるだろ、普通に」
「気づいた?」
「水色」
「知ってたくせに!」
「自分で昨日言っただろ」
「でも実物見てすぐ分かった?」
「まあ」
ひよりは少し悔しそうにしながらも、口元が緩むのを止められなかった。
「どう?」
「何が」
「似合う?」
真樹の動きが止まる。
ひよりは答えを待った。
昨日の「会えて嬉しい」と同じような勝負の延長にすぎないつもりだったが、真樹にとっては少し違った。
水色のヘアゴムでまとめられた髪は、普段より少しだけ印象が違う。ひより本人が嬉しそうにこちらを見ているせいもあり、似合っていると思う。
問題は、それをそのまま言うかどうかだった。
「……普通」
「それ一番嫌なやつ!」
「似合ってないとは言ってない」
「じゃあ似合ってる?」
「何で言わせたがるんだよ」
「感想聞いただけじゃん」
「藤崎とか橘にも聞いたんだろ」
「千夏には聞いてないけど褒めてもらったよ。橘君も朝気づいた」
真樹の眉がわずかに動いた。
「橘が?」
「うん。『変えた?』って」
「……へえ」
「その反応何?」
「別に」
ひよりは首を傾げる。
真樹自身も、なぜ海斗が先に気づいたと聞いて面白くないのか分からなかった。
(別に誰が気づいてもいいだろ)
その通りだ。
ひよりの髪を見る権利が自分にだけあるわけではないし、海斗は同じクラスなのだから、自分より先に見ているのも当然だった。
それでも妙に負けたような気分になる。
「で?」
ひよりがまだ待っている。
「何」
「感想」
「……似合ってるんじゃない」
ひよりの目が大きくなる。
真樹は言った直後に顔を逸らした。
「ほんと?」
「聞いたのお前だろ」
「北条君が普通に褒めた」
「もう帰るぞ」
「まだ来たばっかり!」
「散歩行くって意味だよ」
真樹が歩き出すと、ひよりは笑いながらその隣へ並んだ。
「ありがとう」
「何が」
「似合ってるって言ってくれたから」
「……別に」
「出た」
「うるさい」
ノアが二人の間を歩きながら、どちらを見ればいいのか迷うように顔を上げた。
◇ ◇ ◇
いつもの遊歩道へ入ると、ひよりは学校であったことを話し始めた。
「橘君、今日の問題はちゃんと自分で最後まで解けたよ」
「そう」
「教えた甲斐あった」
「よかったな」
「北条君、橘君の話になると反応薄くない?」
「いつもこんなもんだろ」
「佐伯君のときも変になる」
「なら男の話が面倒なんじゃない」
「神崎君は?」
「あいつは元から面倒」
「ひどい」
ひよりは笑いながら、ノアの歩調に合わせて歩く。
「でも神崎君、話しやすかったよ。また会ったら今度こそ連絡先交換しようかな」
「必要ない」
「また言った」
「何の用があるんだよ」
「友達になったら連絡するでしょ」
「まだ友達じゃないだろ」
「北条君の友達だから、私とも友達になれるかもしれないじゃん」
「なら俺経由でいい」
「何で北条君を経由するの?」
ひよりが不思議そうに見上げる。
真樹は答えに詰まった。
自分でも分からない。
蓮がひよりと連絡を取ることの何が嫌なのか。海斗が髪の変化へ気づくことの何が面白くないのか。颯太への告白が近づくことを想像すると、なぜ今の関係が変わる未来まで考えてしまうのか。
どれも明確な理由を説明できない。
「……蓮、うるさいから」
「それ本人にも言ってたね」
「実際うるさい」
「でも仲いいよね」
「長いからな」
「私も北条君と長く友達だったら、もっと遠慮なくなるのかな」
「今でも十分ないだろ」
「あるよ!」
「どこが」
「いっぱいある」
ひよりは頬を膨らませた。
真樹はその横顔を見ながら、少し考える。
「……別に、遠慮しなくていいけど」
ひよりが足を緩めた。
「え?」
「言いたいことあるなら言えばいいって意味」
「北条君に?」
「他に誰がいるんだよ」
「怒らない?」
「内容による」
「そこは怒らないって言ってよ」
「無理」
「じゃあ遠慮する」
「好きにしろ」
ひよりは少し笑った。
そのあと何歩か進んでから、前を向いたまま小さく口を開く。
「でも、ありがと」
「何が」
「私、結構人の顔色見るから」
真樹は横を向いた。
ひよりの表情には、いつもの明るい笑顔が浮かんでいる。ただ、その声は少しだけ静かだった。
「言いたいことあっても、これ言ったら嫌かなとか、変に思われないかなとか考えること多いの。千夏とか家族にはだいぶ平気だけど」
「……俺にもそうなの?」
「最初はね」
「今は?」
ひよりは少し考えた。
「前より全然平気」
その答えに、真樹は何も言わなかった。
「北条君、感じ悪いけど」
「余計だ」
「最後まで聞いてよ。感じ悪いけど、嫌なことは嫌って言うでしょ?」
「まあ」
「だから分かりやすいの。怒ってないのに怒ってるみたいな顔してるときはあるけど」
「それ分かりにくいだろ」
「最近ちょっと分かるようになってきた」
ひよりは楽しそうに笑う。
「『別に』にも種類あるよね」
「ない」
「あるよ。ほんとにどうでもいい『別に』と、ちょっと気にしてる『別に』と、答えたくないときの『別に』」
「適当言うな」
「当たってると思うけどなあ」
真樹は否定しようとしたものの、思い当たる節が多すぎて言葉が出なかった。
ひよりはそんな真樹を見て、さらに笑う。
その笑顔を見ながら、真樹は昨日ひよりから言われた言葉を思い出していた。
『私もこれから北条君のこと、もっと知っていけたらいいなって』
もう少しずつ知られている。
自分が思っていたよりもずっと。
(……嫌じゃないんだよな)
普通なら、自分の内側を勝手に読まれるのは好きではない。
それなのに、ひよりが自分の「別に」の違いを知っていることは、不思議と不快ではなかった。
◇ ◇ ◇
遊歩道を抜けるころ、前方から冷たい風が吹き抜けた。
ひよりは首をすくめ、マフラーへ顎を埋める。今日は手袋も忘れていないため、真樹から注意される理由はない。
「今日は完璧」
「何が」
「手袋もマフラーもある」
「自慢することか?」
「昨日までの私と違う」
「一日しか経ってないだろ」
「成長は一日でもできるの」
ひよりが胸を張ったところで、ノアが急に歩道脇へ寄った。
何かの匂いが気になったらしく、植え込みの手前で鼻を動かしている。二人も足を止めることになり、ひよりはしゃがんでノアの背中を撫でた。
「何かある?」
「多分他の犬の匂い」
「分かるの?」
「ノア見てれば大体」
「さすが飼い主」
「家族」
「あ、そうだった」
ひよりはすぐに言い直した。
「さすが家族」
真樹はそれ以上何も言わなかった。
ひよりがノアを「ただの犬」と扱わないことは、出会ったころから変わっていない。ノアへ話しかけ、気持ちがある相手として接し、真樹が大切にしていることも理解している。
ノアがこれほどひよりを好きになった理由は分からない。
けれど、今となっては不思議ではない気もした。
「そういえばさ」
ひよりがノアを撫でながら顔を上げる。
「昨日の勝負、今日も続いてるからね」
「まだ覚えてたのか」
「忘れるわけないじゃん」
「諦めろ」
「嫌」
ひよりは立ち上がり、真樹の前へ回る。
「今日、私に会えてどうでしたか?」
「質問が雑になってるぞ」
「嬉しかった?」
「普通」
「ヘアゴム似合ってた?」
「さっき言った」
「私が遅れてる間、待ってた?」
「十分くらい」
「早く来ないかなって思った?」
「思ってない」
「ほんと?」
「……ノアは思ってた」
「またノアに逃げた」
ひよりがじっと見つめる。
真樹も視線を逸らさずにいたが、数秒で面倒になったように息を吐いた。
「何でそんな言わせたいんだよ」
「北条君が言わないから」
「普通言わないだろ」
「私は言えるよ」
「じゃあ言ってみろ」
真樹は軽い反撃のつもりだった。
ひよりが少し困ればそれで終わると思っていた。
しかし、ひよりは一度瞬きをしたあと、特に迷うことなく笑った。
「今日も北条君とノアに会えて嬉しかったよ」
真樹の表情が止まった。
ひよりは続ける。
「昨日も楽しかったし、今日も会えるって分かってたから学校終わるのちょっと楽しみだった。橘君に勉強教えるのも楽しかったけど、終わったら公園行こうって思ってたし」
「……お前」
「ほら、言えるじゃん」
「そういうの普通に言うなよ」
「何で?」
「何でもない」
真樹は顔を逸らした。
耳が少し赤い。
寒さのせいだと言えば通せる程度だが、ひよりは昨日から真樹の反応をよく見ている。
「あ、照れた」
「照れてない」
「照れた!」
「うるさい」
「じゃあ北条君も言って」
「嫌だ」
「ずるい!」
ひよりが抗議する横で、ノアは再び歩き始めた。
真樹はそのリードに引かれるように先へ進む。
ひよりもすぐに隣へ追いついた。
その後もしばらく「言って」「言わない」のやり取りは続いたが、真樹は最後まで折れなかった。
ただし胸の中では、ひよりの言葉が何度も繰り返されていた。
(学校終わるの、ちょっと楽しみだったって……)
自分も同じだった。
ひよりから「終わった」と連絡が来るまで、何度かスマートフォンを確認した。公園へ早めに来たのも、ノアの散歩時間だけが理由ではない。
けれど、それを口にしてしまうと何かが変わるような気がして、まだ言えなかった。
◇ ◇ ◇
公園へ戻ったころには、冬の空は深い青へ変わり始めていた。
入口近くで足を止めると、ひよりはスマートフォンを確認する。母から「夕飯は七時ごろ」と連絡が入っているだけで、急いで帰る必要はなかった。
「明日は橘君に教えなくていいから、普通の時間に来られると思う」
「別に報告しなくてもいい」
「でも今日、遅れるって報告したじゃん」
「今日は約束あったからだろ」
「明日も会うでしょ?」
ひよりは何の迷いもなく言った。
真樹は一瞬だけ黙る。
「……まあ」
「じゃあ言うよ。明日は普通の時間」
「分かった」
「北条君は?」
「多分いつも通り」
「了解」
あまりにも自然に明日の予定が決まった。
どちらから誘うでもなく、確認するでもなく、「会う」ことを前提に時間だけを合わせている。
ひよりはそこへ特別な意味を見つけていない。
真樹もまだ、それを恋愛と結びつけてはいない。
ただ、以前とは違うことだけは二人とも何となく分かっていた。
「じゃあまた明日」
ひよりが手を振る。
「ああ」
真樹も短く返した。
ひよりは数歩進んだところで振り返る。
「北条君!」
「何」
「今日、会えて嬉しかった?」
「まだやるのかよ」
「最後のチャンス」
真樹は呆れたような顔をする。
それから少しだけ考え、口を開いた。
「……明日も来るんだろ」
「え?」
「なら明日言わせれば」
ひよりは目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「分かった! 逃げないでよ!」
「知らん」
「また明日!」
「はいはい」
今度こそひよりは帰っていく。
その姿が見えなくなるまで、真樹はノアとその場に立っていた。
隣のノアが見上げてくる。
「……何だよ」
尻尾が一度だけ揺れる。
「言わないからな」
ノアは当然返事をしない。
真樹はポケットへ手を入れ、家へ向かって歩き始めた。
(でも、明日も来るんだよな)
それを確認できたことに、少しだけ安心している自分がいる。
その感情を何と呼ぶのかは、まだ考えなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、ひよりは机へ向かって宿題をしていた。
水色のヘアゴムはすでに外し、机の隅へ置いてある。その横には黒犬のキーホルダーが付いた学校鞄があり、視界へ入るたびに今日の公園を思い出した。
スマートフォンが震える。
『宿題やった?』
真樹だった。
『今やってる』
『ならスマホ見るな』
『北条君が送ってきたんでしょ!』
『確かに』
ひよりは思わず笑う。
『今日ヘアゴム褒めてくれてありがと』
『まだ言うのか』
『だって珍しいから』
『もう二度と言わない』
『えー』
少し考えてから、ひよりは文字を打つ。
『じゃあ明日は何か褒めて』
すぐには返事が来なかった。
『何を』
『自分で探して』
『面倒』
『友達でしょ』
『友達って毎日褒めるものなのか?』
『知らない』
『知らないのかよ』
ひよりは笑いながらベッドへ身体を預けた。
そのとき、今日の朝に颯太へ声をかけられなかったことを思い出す。
明日は話せるだろうか。
話せたら嬉しい。
できれば少し長く話したい。
その気持ちは今も変わらない。
(佐伯君には、ちゃんと近づきたい)
好きだから。
いつか気持ちを伝えたいから。
それとは別に、真樹とのやり取りも楽しい。
こちらは頑張って距離を縮めようとしなくても、いつの間にか毎日の中へ入り込んでいた。
ひより自身、その違いをまだ不思議に思うことはなかった。
スマートフォンがもう一度震える。
『明日は遅れないんだよな』
『うん』
『じゃあいつもの時間』
『了解!』
ひよりは少し迷い、最後に付け加えた。
『明日こそ会えて嬉しいって言わせるからね』
既読がつく。
しばらくして返ってきたのは、
『無理』
という二文字だった。
ひよりは声を出して笑った。
「絶対言わせる」
誰もいない部屋でそう呟き、宿題へ戻ろうとしたところで、もう一件メッセージが届く。
『今日の水色は似合ってた』
ひよりの指が止まった。
昼間にも似たことは言われている。
それでも、わざわざ夜になってもう一度送ってくるとは思わなかった。
『急にどうしたの?』
少し待っても返事が来ない。
『北条君?』
さらに待つ。
ようやく届いた。
『今日の分の褒めるやつ。これで終わり』
ひよりは画面を見つめ、それから小さく笑った。
『ありがとう』
今度は追いかけるような質問を送らなかった。
机の上に置いた水色のヘアゴムへ指先で触れる。
朝、美月にも褒めてもらった。
千夏にも、海斗にも似合うと言われた。
どれも嬉しかった。
なのに、真樹から届いた最後の一言だけが、なぜか少し長く胸の中へ残った。
(北条君、やっぱり思ってるより素直なのかも)
ひよりはそう結論づけ、宿題へ戻った。
その胸に残った温かさへ、別の名前を探すことはまだなかった。
◇ ◇ ◇
一方、真樹は自室のベッドへ腰掛けたまま、送ってしまったメッセージを見つめていた。
『今日の水色は似合ってた』
消したい。
しかし、当然ながら送信したものはもうひよりに読まれている。
(何でわざわざ送ったんだ、俺)
昼間に聞かれたとき、すでに「似合ってるんじゃない」と答えている。それで十分だったはずなのに、ひよりから「明日は何か褒めて」と言われたあと、なぜか今日の分まで残っているような気がした。
自分でも意味が分からない。
ただ、ひよりが朝からそのヘアゴムをつけ、海斗にも気づかれたという話を思い出すと、また少しだけ面白くなくなる。
(橘が先に気づいたからって、何なんだよ)
同じクラスなのだから当然だ。
ひよりが颯太を好きなのも知っている。
海斗とは友達で、蓮とも普通に話す。
その一つ一つへ自分が口を出す理由などない。
それでも最近、ひよりの周りにいる男子の名前を以前より簡単に覚えるようになっていた。
颯太。
海斗。
そして、自分の友人である蓮まで、ひよりと近づくと妙に気になる。
(……面倒くさ)
誰に対しての言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、足元で寝ていたノアが身体を起こし、真樹の膝へ鼻先を押しつけてきた。
「何だよ」
頭を撫でると、ノアは気持ちよさそうに目を細める。
「明日も会うってさ」
口にしてから、真樹は少し黙った。
ノアへ報告する必要などない。
それでも自然に言っていた。
「……お前も嬉しいんだろ」
ノアの尻尾が床を軽く叩く。
真樹はその様子を見て、口元をわずかに緩めた。
「俺は言わないからな」
誰に向けた宣言なのかは明らかだった。
けれど今日、公園でひよりの姿を見つけたときに安心したことも、遅れると分かっていて先に待っていたことも、明日また会えると聞いて嬉しかったことも、もう自分の中で否定するほどではなくなっている。
ただ、それを恋と呼ぶ理由だけは、今の真樹にはまだなかった。
友達だから会いたい。
友達だから待つ。
友達だから、他の男の話が少し面白くないこともある。
真樹はそうやって、まだ自分の中で説明できる範囲へ押し込める。
その説明が少しずつ苦しくなり始めていることには、気づかないふりをしたまま。
明日もまた、いつもの時間に公園で会う。
今の二人にとって、それはもう約束を作らなければ成立しない予定ではなくなりつつあった。




