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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第20話 「また明日」の続き


 月曜日の朝、ひよりは玄関で靴を履き終えたところで、背後から母の声に呼び止められた。


「ひより、手袋」


「あ」


 振り返ると、由美が靴箱の上に置かれていた紺色の手袋を指さしている。ひよりは一瞬だけ固まり、それから慌てて手を伸ばした。


「危なかった……」


「昨日、自分でそこに置いてたでしょう?」


「朝ちゃんと見えるところに置いとこうと思って」


「見えてても忘れるのね」


「今日は忘れてないよ。今持ったから」


 苦しい言い訳をしながら手袋をはめると、階段を下りてきた美月がその様子を見て笑った。


「北条君に怒られるところだったね」


「何でそこで北条君なの?」


「昨日、手袋忘れるなって言われたんでしょ」


「……何で知ってるの」


「リビングで『もう忘れません!』って言いながらスマホ打ってたから」


「見ないでよ!」


「画面は見てない。声が聞こえたの」


 ひよりは頬を押さえた。昨夜、真樹とのやり取りに夢中になり、途中から声に出していたらしい。


 由美が楽しそうに笑いながら、「行ってらっしゃい」と送り出してくれる。ひよりは逃げるように玄関を出たものの、門を抜けたところで手袋を見下ろし、昨日届いたメッセージを思い出した。


『明日寒いらしいから手袋忘れんな』


(ちゃんと持ってきたからね、北条君)


 わざわざ報告するほどのことではない。それでも放課後に会ったら、最初に見せてやろうと思った。


 白い息を吐きながら駅へ向かう足取りは、いつもの月曜日より少しだけ軽かった。


     ◇ ◇ ◇


 県立青葉高校の教室へ入ると、すでに千夏が自分の席で鞄を整理していた。


「おはよう、千夏」


「おはよ。……手袋ある」


「第一声それ?」


「昨日あれだけ北条君と手袋の話してたから」


「千夏まで!」


 ひよりは鞄を机へ置き、手袋を外して中へしまった。


「ちゃんと持ってきました」


「偉い偉い」


「子供扱いしないで」


「でも昨日、北条君にも同じこと言われてたよね」


「なんでみんな北条君基準なの……」


 ひよりが椅子へ座ると、千夏は楽しそうに机へ肘をついた。


「で、今日言わせるんでしょ?」


「何を?」


「『会えて嬉しい』」


「……覚えてたの?」


「昨日聞いたからね」


 ひよりは少し恥ずかしくなって視線を逸らした。


「ただの冗談だよ。北条君、絶対言わないし」


「ひよりは?」


「私?」


「北条君に会えて嬉しい?」


「そりゃ嬉しいよ。昨日会ってないし、ノアにも会いたいし」


 迷いなく答えてから、ひよりは千夏の顔を見る。


「何、その顔」


「別に?」


「最近それ流行ってる?」


「北条君から感染したんじゃない?」


「やめてよ」


 二人で笑っていると、教室の前方から海斗が近づいてきた。手には返却された小テストを持っている。


「天野、おはよ。藤崎も」


「おはよう」


「おはよー」


「この前教えてもらったところ、また出た。今度はちゃんと満点」


 海斗が答案を見せる。赤い丸が並び、右上には大きく百点と書かれていた。


「すごいじゃん!」


「天野先生のおかげ」


「先生じゃないって」


「じゃあ今度ジュース奢る」


「そこまでしなくていいよ」


「俺がしたいだけ。前も助かったし」


 海斗は気軽に笑う。ひよりもいつもの調子で返し、千夏はその二人を眺めていた。


 海斗はもともと誰とでも話せる。ひよりへの態度も今のところ特別だと断言できるほどではない。ただ、最近ひよりへ話しかける回数が少し増えているように見えるのは、千夏の気のせいとも言い切れなかった。


「そういえば天野、今日放課後空いてる?」


「今日?」


「数学の次の範囲、ちょっとだけ聞きたいところあってさ」


 ひよりは反射的に答えかけ、口を止めた。


「あ、ごめん。今日は用事ある」


「そっか。じゃあ明日でもいい?」


「うん。明日ならたぶん大丈夫」


「助かる」


 海斗はそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。


 千夏が横からひよりを見る。


「用事」


「何?」


「北条君とノア?」


「うん」


「もう完全に予定なんだね」


 ひよりは少し考えた。


「……そうだね」


 以前なら、公園へ行けば会えるかもしれないという程度だった。今は違う。何時ごろ行くのかを互いに知っていて、行けない日は連絡し、休日には時間まで決めることがある。


 それを改めて指摘されると、不思議な感じがした。


「友達と放課後会う予定って普通じゃない?」


「普通だよ」


「じゃあ何」


「ひよりが普通だと思ってるなら普通」


「言い方が怪しい」


「気のせい」


 千夏が笑う。


 そのとき、廊下から聞き覚えのある声がした。


 ひよりの意識が自然にそちらへ向く。


 颯太だった。


 別のクラスの男子と話しながら廊下を歩いている。ひよりは一瞬迷ったものの、最近少しずつ話せるようになってきた自分を思い出し、席から立った。


「佐伯君、おはよう」


 教室の入口近くまで出て声をかける。


 颯太が振り向いた。


「あ、天野。おはよう」


 それだけで胸の奥が跳ねる。


「今日はちゃんと寝られた?」


「寝た寝た。もう完全復活」


「よかった。この前すごい眠そうだったもんね」


「そんなひどかった?」


「ちょっとだけ」


「マジか。恥ずかしいな」


 颯太が笑う。


 ひよりもつられて笑った。


 短い会話だったが、以前のように声をかけるだけで何分も迷うことはなくなってきている。颯太が友人に呼ばれて手を上げると、ひよりも「またね」と返した。


 席へ戻る途中、頬が熱い。


(やっぱり好きだなあ)


 それは迷う必要のない気持ちだった。


 話せただけで嬉しい。


 少しでも可愛く見えていたらいいと思う。


 もっと長く話したかったと思う。


 いつか、ちゃんと伝えたい。


 自分の席へ戻ると、千夏が柔らかく笑っていた。


「今日は自分から行けたね」


「うん」


「進歩してる」


「ちょっとずつね」


 ひよりは照れながら頷いた。


 放課後には真樹と会う。


 それも楽しみだった。


 けれど今、颯太と話したあとに残っている胸の高鳴りは、やはり真樹といるときの安心感とは違う。


 ひよりの中では、その違いはまだとても分かりやすかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ朝、私立桜陵学園。


 真樹が教室へ入ると、先に来ていた蓮が露骨に手元を見た。


「何」


「手袋」


「あるけど」


「天野さんに言われた?」


「俺が天野に忘れるなって言ったんだよ」


「へえ」


「何だよ」


「世話焼くようになったなと思って」


「昨日寒いって話してただけ」


 真樹は自分の席へ鞄を置く。


 蓮が振り返り、にやにやしながら続けた。


「で、昨日は結局どれくらい連絡取ってた?」


「知らない」


「交流会中もずっとスマホ気にしてたじゃん」


「ずっとじゃない」


「写真まで撮らせたし」


「頼まれたからだ」


「天野さん、何て?」


「……」


 真樹は教科書を机へ入れながら無視する。


 蓮は少し待ったあと、わざとらしく頷いた。


「なるほど。言いたくないこと言われたんだな」


「何でそうなる」


「じゃあ教えて」


「嫌だ」


「ほら」


 真樹は舌打ちしたくなるのを堪えた。


『かっこいい』


 思い出したくないわけではない。


 むしろ、昨日から何度も勝手に思い出している。


 だからこそ蓮には言いたくなかった。


「今日も会うの?」


「誰と」


「天野さん」


「ああ」


 今度は隠す必要もなく答えた。


「放課後、ノアの散歩」


「日曜会わなかっただけなのに?」


「散歩は散歩だろ」


「はいはい」


「その返事やめろ」


 蓮は笑いながら前を向いた。


 真樹は窓の外へ視線を移す。


 冬の青空が広がっている。


 昨日の夜、ひよりと交わしたやり取りを思い出す。


『北条君にも会うのちょっと楽しみ』


『北条君は?』


 結局、まともには答えなかった。


 そのあと始まった妙な勝負も覚えている。


(会えて嬉しい、なんて言うわけないだろ)


 口に出す必要がない。


 ただ、放課後を楽しみにしていること自体は、もう否定しなかった。


     ◇ ◇ ◇


 昼休み。


 ひよりは千夏と弁当を食べながら、朝の颯太との会話を何度目か思い返していた。


「今日、結構普通に話せたよね?」


「話せてた」


「変じゃなかった?」


「全然」


「髪大丈夫だった?」


「今さら?」


「だって朝ちゃんと鏡見たけど、学校来る途中風強かったし」


「佐伯君の前だと急に乙女になるね」


「だって好きな人だもん」


 言った直後、ひよりは自分で照れて弁当箱へ顔を近づけた。


 千夏は笑う。


「前より言えるようになったね、それ」


「千夏にだけだよ」


「本人にもそのうちね」


「……うん」


 ひよりは箸を止めた。


「怖いけど、ちゃんと告白したい」


「タイミング決めてる?」


「まだ。もう少し普通に話せるようになってからかな」


「そっか」


「急いで変な感じになるのも嫌だし」


 その判断はひよりらしいと千夏は思った。


 バレンタインに渡せなかった悔しさは残っている。それでも、その反動だけで勢い任せに告白するのではなく、少しずつ颯太との距離を縮めようとしている。


 千夏は応援したい。


 本気でそう思っている。


「そういえば今日、橘君に勉強教えないんだ?」


「明日にした。今日は北条君と約束あるから」


「約束って言った」


「え?」


「今、自分で」


「……言った?」


「言った」


 ひよりは少し考えてから、肩をすくめた。


「まあ、約束みたいなものでしょ。昨日も明日って言ったし」


「北条君、喜ぶね」


「ノアがでしょ?」


「北条君も」


「何で?」


「さあ?」


「千夏、最近すぐそうやって意味ありげにする」


「面白いから」


「私で遊ばないでよ」


 ひよりは頬を膨らませたが、本気で怒ってはいない。


 千夏もそれ以上は言わなかった。


 まだ、ひより自身が何も疑っていない。


 その段階で答えを押しつける必要はなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後の授業が終わると、ひよりは帰り支度をしながらスマートフォンを確認した。


 真樹からはまだ連絡がない。


 自分から送ろうかと思ったところで、画面が震える。


『今出る』


「……同時」


 思わず笑った。


『私も今終わった』


『じゃあいつもくらい』


『了解』


 そこまで打ってから、ひよりは手袋の写真を撮った。


『ちゃんと持ってきた!』


 数秒後。


『当たり前』


『褒めてよ』


『何で』


『忘れなかったから』


『小学生か』


『ひどい』


 ひよりは笑いながら鞄を肩へ掛ける。


「北条君?」


 隣から海斗に声をかけられた。


「うん」


「よく連絡取ってるな」


「最近はね」


「そっか」


 海斗は一瞬だけひよりのスマートフォンへ視線を落とし、それから普段通りに笑った。


「じゃあ明日、数学頼む」


「うん。分かるところなら」


「十分十分。ありがと」


「また明日」


「おう」


 ひよりが教室を出たあと、海斗は自分の机へ視線を戻した。


 最近、北条真樹という名前をよく聞く。


 別の学校の男子。


 黒い犬の飼い主。


 ひよりが放課後に会う相手。


 それだけだ。


 ただ、以前なら放課後に勉強を頼めば比較的すぐ付き合ってくれていたひよりに、今日は先約があった。


(まあ、友達なら普通か)


 海斗はそれ以上考えず、友人に呼ばれて教室を出た。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ向かう道を歩きながら、ひよりは何度か時刻を確認した。


 急いでいるつもりはない。


 昨日、真樹にも「急がなくていい」と言われた。


 それでも自然と足が速くなる。


 角を曲がり、いつもの公園が見えてきた。


 入口近くに大きな黒い姿がある。


「ノア!」


 呼ぶと、ノアがすぐにこちらを向いた。


 尻尾が大きく揺れる。


 その隣に立っていた真樹も振り返った。


 ひよりは小走りになりかけ、昨日の勝負を思い出して速度を落とした。


(よし)


 まず普通に行こう。


 そして何とか「会えて嬉しい」と言わせる。


 何をどうすればいいのかは決めていない。


「お待たせ」


「別に待ってない」


「早速それ?」


「何が」


「昨日の続き」


 ひよりは真樹の前まで来ると、得意そうに両手を上げた。


「見て」


「何」


「手袋」


「……見れば分かる」


「忘れなかった」


「だから当たり前だろ」


「褒めて」


「偉い偉い」


「適当!」


 真樹は呆れたように息を吐く。


 けれど、ひよりの手に紺色の手袋があることを確認すると、ほんの少しだけ表情が緩んだ。


 その変化にひよりは気づかなかった。


 ノアが待ちきれないようにひよりへ近づき、身体を寄せる。


「ノアー! 一日ぶり!」


 ひよりはしゃがみ込み、首元を撫でる。


「昨日お疲れさまって聞いた?」


 ノアが尻尾を振る。


「聞いたの? 北条君ちゃんと伝えてくれた?」


「言ったって昨日送っただろ」


「確認」


「何の」


「北条君、たまに適当だから」


「お前に言われたくない」


 ひよりは笑いながらノアの頭を撫で続けた。


 鞄から小さな袋を取り出す。


「あと、これ」


「クッキー?」


「うん。ちゃんと持ってきた」


 昨日から鞄へ入れておいたノア用のクッキーだった。


 真樹が受け取り、成分表示を確認する。


「一個だけな」


「私があげてもいい?」


「いいよ」


 ひよりが一枚取り出して手のひらへ乗せると、ノアはきちんと待った。


「待て」


 真樹の声に従う。


「……すごい」


「いつもやってるだろ」


「私が持ってても待てるんだね」


「俺が言ってるからな」


「じゃあ今度、私の『待て』でもできるか試したい」


「調子乗るな」


「いいじゃん」


「まずお前が待てを覚えろ」


「私?」


「すぐ先に行くだろ」


「行かないよ!」


「土曜、ノアと走ってた」


「あれはノアが行ったから!」


「お前も楽しそうだったけど」


「楽しかったけど!」


 真樹が笑う。


 その笑顔を見て、ひよりはふと思い出した。


「あ」


「何」


「今、会えて嬉しそう」


 真樹の笑顔が止まる。


「は?」


「私の勝ち?」


「違う」


「笑ってたじゃん」


「ノア見てただけ」


「私見てたよ」


「見てない」


「見てた!」


「証拠は?」


「私が見た」


「証拠にならない」


 ひよりはむっとして立ち上がる。


「じゃあ絶対言わせるから」


「無理」


「今日中に」


「期限までついたのかよ」


「うん」


「くだらない」


「逃げるの?」


 ひよりが少し挑発するように笑う。


 真樹は眉を寄せた。


「……いいよ。やってみれば」


「言ったね?」


「言わせられるならな」


「よし」


 ひよりは妙にやる気を出した。


 真樹はその顔を見ながら、昨日より少しだけ気分が軽い自分に気づいていた。


(会えて嬉しい、か)


 口に出すつもりはない。


 ただ、ひよりが公園へ入ってきた瞬間、思ったより早く来たと感じた。


 姿を見つけたとき、自然と目で追った。


 ノアが嬉しそうに尻尾を振ったのを見て、自分も少し安心した。


 それを「嬉しい」と呼ぶのなら、ひよりの勝負は始まる前から答えが出ている。


 もちろん本人へ教える気はなかった。


     ◇ ◇ ◇


 三人で歩き始める。


 冬の夕方は日が落ちるのが早い。まだ完全に暗くなる時間ではないが、傾いた光が遊歩道の木々を長く伸ばしていた。


「昨日の交流会、結局どうだった?」


 ひよりが尋ねる。


「普通」


「普通じゃ分かんない」


「人多かった。挨拶して、話聞いて、終わり」


「一ノ瀬さんもいた?」


「いた」


「神崎君は?」


「いた」


「やっぱり」


 ひよりは少し嬉しそうにする。


「神崎君、写真撮るの上手だね」


 真樹の足がわずかに止まりかけた。


「……何で蓮が撮ったって分かった?」


「自撮りじゃなかったし、一ノ瀬さんに頼んだ感じもしなかったから」


「何で」


「何となく」


「意味分からない」


「当たってる?」


「当たってるけど」


「やった」


 ひよりが笑う。


「神崎君にありがとうって言っといて」


「嫌だ」


「何で?」


「調子乗るから」


「写真一枚で?」


「お前が褒めたって言ったら絶対うるさい」


「じゃあ言わなくていい」


「最初からそうしろ」


 歩きながら、ひよりは真樹を横目で見る。


「でも本当に昨日、いつもと違ったね」


「服?」


「うん。ちゃんとしてた」


「普段もちゃんとしてる」


「服はね」


「お前な」


「昨日はちょっと大人っぽかった」


 真樹が黙る。


 ひよりはその反応を見て、昨日送った言葉を思い出した。


「あと、かっこよかった」


「……もう聞いた」


「直接言ったら照れるかなと思って」


「照れない」


「今ちょっと目逸らした」


「前見てるだけ」


「耳は?」


「寒いから」


「便利だね、寒いって」


「お前も赤いけど」


「私は寒いから」


「同じだろ」


 二人の間で笑いがこぼれる。


 ノアは何も気にせず、一定の速度で歩いていた。


 ひよりはしばらくしてから、今度は真樹へ尋ねる。


「北条君、私の昨日のこと全然聞かないね」


「藤崎と駅前行ったんだろ」


「覚えてた」


「昨日話しただろ」


「何買ったかは?」


「黒犬のキーホルダー」


「それは送ったから知ってるでしょ。他にも買った」


「知らない」


「聞いて」


「面倒くさいな」


「会えて嬉しいって言わないなら、せめて興味持って」


「別の話だろ」


「いいから」


 真樹は呆れながらも尋ねる。


「何買ったんだよ」


「ヘアゴムとノート」


「普通」


「感想薄い」


「ノートにどう感動すればいいんだよ」


「新しいヘアゴムは明日使う予定」


「そう」


「気づいてね」


「何で俺が」


「友達だから」


「藤崎に頼め」


「千夏は絶対気づくもん」


「じゃあいいだろ」


「北条君が気づくか試したい」


 真樹は横を見る。


 ひよりは本気で楽しそうだった。


「……色は?」


「今教えたら意味ないじゃん」


「じゃあ知らん」


「明日ね」


「覚えてたらな」


「絶対忘れないでよ」


 また明日の予定が一つ増えた。


 真樹はそれに気づいたが、何も言わなかった。


     ◇ ◇ ◇


 遊歩道を半分ほど進んだところで、ひよりが急に鞄を探り始めた。


「そうだ。これ見せたかった」


 取り出したのは、昨日買った黒犬のキーホルダーだった。


 丸い目と短い脚をした、かなりデフォルメされた犬である。


「ほら」


「……やっぱ似てない」


「黒いじゃん」


「ノアもっと格好いいだろ」


「これは可愛い系なの」


「じゃあ別物」


「飼い主厳しいなあ」


 ひよりは笑いながらキーホルダーをノアの顔の横へ持っていく。


「ノア、弟だよ」


「勝手に家族増やすな」


「じゃあ友達」


「それも勝手に決めるな」


 ノアはキーホルダーの匂いを嗅ぎ、興味を失ったように前を向いた。


「本人に振られた」


「当然」


「でも鞄につけるから」


「好きにすれば」


「学校にも連れてく」


「ノアじゃないけどな」


「気分はノア」


 ひよりは大切そうに鞄へ戻す。


 その仕草を見ながら、真樹は妙な感覚を覚えた。


 自分の知らない場所で、ひよりがノアを思い出した。


 それだけのことだ。


 けれどノアは真樹にとって家族であり、自分の日常の大きな部分を占めている。


 そのノアが、少しずつひよりの日常にも入り込んでいる。


(……変な感じだな)


 嫌ではない。


 むしろ逆だった。


「北条君?」


「何」


「ぼーっとしてた」


「してない」


「してたよ」


「お前が変な犬買うからだろ」


「可愛いでしょ?」


「まあ」


「認めた」


「ノアには似てないけどな」


「そこ譲らないね」


 ひよりが笑う。


 真樹も少しだけ笑った。


     ◇ ◇ ◇


 公園の奥にあるベンチで休むことになった。


 ノアが足元へ座り、ひよりと真樹は少し間を空けて腰掛ける。


 冷たい風が通り抜けた。


「寒っ」


 ひよりは肩を縮め、手袋をした両手を擦る。


「だから寒いって言っただろ」


「手袋あるから大丈夫」


「マフラーは?」


「今日はしてる」


「ならいい」


 ひよりが横を見る。


「北条君って、本当にお兄ちゃんみたいなこと言うよね」


「やめろ」


「何でそんな嫌なの?」


「嫌だから」


「理由になってない」


「二十四歳のシスコンと一緒にするな」


「お兄ちゃんの年齢まで覚えてるの?」


 真樹が固まる。


 ひよりは目を丸くした。


「私、言ったっけ?」


「前に聞いた」


「……ほんとに人の話覚えてるね」


「普通だろ」


「普通じゃないと思う」


 ひよりは少し嬉しそうに笑った。


「私の家族のことまで覚えてくれてるの、なんか嬉しい」


 真樹は返事をしなかった。


 また「嬉しい」という言葉だ。


 今日は妙に多い。


 ひよりはベンチの背もたれへ軽く身体を預け、空を見る。


「私も北条君のこと、もっと知りたいな」


「昨日も言ってただろ」


「うん。でも交流会の写真見て、改めて思った」


「何を」


「私の知らない北条君、いっぱいあるんだなって」


 真樹は黙って聞く。


「一ノ瀬さんは昔から知ってるし、神崎君は中学から友達なんでしょ? 二人とも私の知らない北条君をいっぱい知ってるんだろうなって」


「そりゃ付き合い長いからな」


「うん。だから別に嫌とかじゃないよ」


「分かってる」


「でも、私もこれから知っていけたらいいなって」


 ひよりは自然に言った。


 真樹の胸の奥に、昨日とは違う形でその言葉が落ちる。


 ひよりは自分の過去を知らない。


 家のことも、学校でのことも、蓮や玲奈ほど知らない。


 けれど、「知らないから遠い」で終わらず、「これから知りたい」と言う。


 それが真樹には思っていた以上に嬉しかった。


「……じゃあ聞けば」


「いいの?」


「答えられることなら」


「またそれ」


「何でも話すとは言ってない」


「分かってるよ」


 ひよりは少し考える。


「じゃあ、子供のころどんな子だった?」


「急だな」


「一ノ瀬さんが知ってる北条君」


「何で玲奈基準なんだよ」


「だって幼馴染だし」


 真樹は少し考えた。


「今とそんな変わらない」


「絶対嘘」


「何で」


「小さい北条君が今みたいに『別に』『うるさい』『知らん』って言ってたら嫌だよ」


「言ってない」


「じゃあ違うじゃん」


「……今よりは喋らなかったかも」


「人見知り?」


「それとは違う」


「大人しかった?」


「多分」


 真樹自身、幼いころの自分を詳しく説明するのは得意ではない。


 ただ、ひよりが興味深そうに聞いているので、記憶を辿る。


「玲奈とは家同士で会うこと多かったから、気づいたらいた感じ」


「幼馴染って感じだ」


「そうだな」


「神崎君とは?」


「中学で同じクラスになった」


「北条君から話しかけた?」


「蓮から」


「やっぱり」


「何でやっぱりなんだよ」


「北条君、自分から友達作りに行かなそう」


「失礼だな」


「当たってる?」


「……まあ」


 ひよりが笑う。


「じゃあ私、珍しい?」


「何が」


「北条君が学校以外でできた友達」


 真樹は答える前に少し考えた。


「珍しいかもな」


「ほんと?」


「ああ」


 ひよりの表情が明るくなる。


「じゃあちょっと特別じゃん」


 真樹の呼吸がわずかに止まった。


 ひより本人は、まるで珍しい種類の友達という程度の意味で言っている。


 分かっている。


 それでも「特別」という言葉だけが妙に残る。


「……分類としてはな」


「何その言い方」


「学校外の友達って意味だろ」


「そうだけど」


「なら合ってる」


「北条君って本当に素直じゃないね」


「お前に言われたくない」


「私は素直だよ」


「佐伯には?」


 名前が出た瞬間、ひよりの表情が変わる。


「……それは」


「ほら」


「今頑張ってるもん」


「今日も話した?」


 聞いてから、真樹は少しだけ後悔した。


 しかし、ひよりは嬉しそうに頷く。


「うん。朝ね、私から声かけた」


「そう」


「前より普通に話せるようになったと思う」


「よかったな」


 言葉は出た。


 以前より自然に。


 けれど胸の奥には、やはり小さな重さが残る。


「もう少し話せるようになったら、ちゃんと告白したいなって思ってる」


 真樹の指先が膝の上でわずかに動いた。


「……そっか」


「怖いけどね」


「なら無理しなくてもいいだろ」


「でも言わなかったら後悔するから」


 ひよりはまっすぐ前を向いている。


「バレンタインも結局渡せなかったし。このままずっと何も言えないのは嫌なの」


 その横顔を見ながら、真樹は何も言えなくなる。


 応援するべきなのだと思う。


 友達なら。


 ひよりが好きな相手へ気持ちを伝えたいと言っているのだから。


 それなのに、「頑張れ」と言うだけのことが難しい。


(何でこんな嫌なんだよ)


 佐伯が悪いわけではない。


 会ったことすらほとんどない。


 ひよりが好きなのも、最初から知っている。


 それでも、告白が現実に近づくほど胸の奥が落ち着かなくなる。


「北条君?」


「……何」


「また難しい顔してる」


「してない」


「してるよ」


「寒いだけ」


「また寒さのせいにした」


 ひよりが笑う。


 真樹はその笑顔を見て、余計に言葉が詰まった。


     ◇ ◇ ◇


 休憩を終えて歩き始めると、ひよりは先ほどの少し真面目な空気を変えるように、ノアへ話しかけた。


「ノア、北条君今日まだ一回も『会えて嬉しい』って言ってないよ」


「言うわけないだろ」


「勝負中だからね」


「勝手に始めた勝負な」


「北条君も受けたじゃん」


「言わせられるならって言っただけ」


「同じだよ」


 ひよりは少し考え、突然真樹の前へ回り込んだ。


「北条君」


「危ないから前歩け」


「質問です」


「聞いてない」


「昨日と今日、どっちが楽しい?」


「比べるものじゃないだろ」


「逃げた」


「交流会と散歩比べてどうすんだよ」


「じゃあ今日」


「何」


「楽しい?」


 真樹は答えず、ひよりを見る。


 期待した顔をしている。


 その後ろでノアが足を止めている。


「……まあ」


「まあ?」


「退屈ではない」


「昨日と同じ!」


「本当のことだろ」


「もっとあるでしょ」


「ない」


「じゃあ私帰ろうかな」


「は?」


 ひよりは笑いを堪えながら一歩後ろへ下がる。


「退屈じゃない程度なら、私いなくてもいいかなって」


「お前な」


「じゃあノア、また明日」


 もちろん本当に帰るつもりはない。


 真樹も冗談だと分かっている。


 それでも、ひよりが背を向けた瞬間、口が先に動いた。


「待てよ」


 ひよりが振り返る。


「何?」


「……まだ散歩途中だろ」


「ノアと行けば?」


「お前も来たんだろ」


「北条君が会えて嬉しいって言ったら行く」


「言わない」


「じゃあ帰る」


「天野」


「何?」


 ひよりは完全に楽しんでいる。


 真樹は眉間を押さえた。


「……会えて」


 ひよりの目が輝く。


「うん」


「……」


「うん?」


「やっぱ無理」


「ええー!」


 ひよりが声を上げる。


 真樹は笑いを堪えきれず、顔を逸らした。


「今絶対言いかけた!」


「言ってない」


「『会えて』まで言った!」


「続きは『会えても別に普通』だった」


「絶対嘘!」


「証拠は?」


「またそれ!」


 ひよりが悔しそうに追いかける。


 真樹は少しだけ歩調を速めた。


 ノアも二人の間を楽しそうについていく。


 結局、ひよりの勝負はまだ決着しなかった。


     ◇ ◇ ◇


 公園へ戻るころには、空はかなり暗くなっていた。


 街灯が点き、白い息が昼間より濃く見える。


「今日も負けた……」


「勝負になってない」


「『会えて』までいったのに」


「忘れろ」


「忘れない。次もやる」


「続くのかよ」


「北条君が言うまで」


「一生終わらないぞ」


「じゃあ一生?」


 ひよりが何気なく返した。


 真樹の足が一瞬だけ止まる。


「……言い方考えろ」


「何で?」


「何でもない」


「またそれ」


 ひよりは首を傾げたが、深く考えなかった。


 真樹は小さく息を吐く。


 ひよりに悪気がないのは分かっている。


 分かっているから余計に困る。


「そうだ」


 ひよりは鞄から黒犬のキーホルダーを取り出した。


「明日からこれ付けてく」


「さっき聞いた」


「北条君、学校で見られないから報告」


「別に報告いらない」


「明日は新しいヘアゴムもね」


「それも聞いた」


「気づいてね」


「覚えてたら」


「本当に?」


「しつこい」


「じゃあ何色か当てて」


「知らないって言っただろ」


「予想」


「……白」


「違う」


「答え言うなよ」


「言ってないよ」


「反応で分かる」


「じゃあ明日まで内緒」


 ひよりは満足そうに笑った。


「また明日」


「ああ。また明日」


 歩き出したひよりを見送りながら、真樹は今日何度目か分からないほど自然に、その言葉を返していた。


 ひよりの姿が角を曲がって見えなくなる。


 隣でノアが真樹を見上げる。


「……何」


 ノアは何も答えない。


「今日はお前のせいだからな」


 何が、とは自分でも分からない。


 ノアがいなければ、ひよりとは出会っていない。


 毎日こうして会うこともなかった。


 明日のヘアゴムの色を気にすることもなかった。


 佐伯への告白の話を聞いて、妙な気分になることもなかった。


 真樹はポケットへ手を入れ、歩き始める。


(会えて嬉しい、か)


 言わなかった。


 言えなかった。


 けれど、ひよりが帰るふりをしたときに引き止めたのは自分だった。


 その事実だけは消せない。


     ◇ ◇ ◇


 家へ帰ったひよりは、夕食後に自室で明日の準備をしていた。


 机の上にはいくつかのヘアゴムが並んでいる。


 昨日買った新しいものは、淡い水色だった。


「白って言ってたなあ」


 真樹の予想を思い出して笑う。


 明日、本当に気づくだろうか。


 千夏なら確実に気づく。


 美月も気づきそうだ。


 母もたぶん。


 真樹はどうだろう。


(気づかなそう)


 でも、気づいてほしい。


 そう思った。


 理由は単純だ。


 真樹が意外と人のことをよく見ていると知ったから、自分の小さな変化にも気づくか試してみたい。


 スマートフォンが震える。


 真樹からだった。


『家着いた?』


 ひよりは少し目を丸くする。


 これまでにも帰宅後の連絡はあった。


 それでも今日は、真樹のほうから確認してきた。


『着いたよ』


『今部屋』


『そっちは?』


『帰った』


『ノアは?』


『寝てる』


『早い』


『散歩で疲れたんだろ』


『私のせい?』


『半分くらい』


『じゃあ半分北条君』


『何で俺』


『一緒にいたから』


 ひよりは送ってから、ふと思う。


 今日は楽しかった。


 真樹が「会えて嬉しい」と言わなかったことは悔しいが、追いかけるようなやり取りも、ベンチで話したことも、全部楽しかった。


『今日は楽しかった』


 送信する。


 少しして返事が来る。


『そう』


「またそれ……」


 ひよりは頬を膨らませる。


『北条君は?』


 既読。


 返事が来ない。


 一分。


 さらに少し。


(また逃げる気だ)


 そう思ったところで、画面が震えた。


『俺も退屈じゃなかった』


「……惜しい!」


 ひよりはベッドの上で笑った。


『そこまで言えるなら楽しかったでいいじゃん』


『同じようなもんだろ』


『違う』


『細かい』


『明日も勝負続行ね』


『まだやるのか』


『言わせるまで』


 少し間が空く。


『好きにしろ』


 ひよりは満足してスマートフォンを置こうとした。


 しかし、もう一度震える。


『明日のヘアゴム』


『何?』


『水色』


 ひよりは固まった。


 机の上を見る。


 淡い水色のヘアゴム。


『なんで!?』


 返事はすぐだった。


『昨日送ってきた買い物の袋から少し見えてた』


「……見てたの?」


 ひよりは昨日送った写真を開く。


 黒犬のキーホルダーを撮った写真。


 確かに画面の端に、買ったばかりのヘアゴムがほんの少しだけ写り込んでいる。


 意識して見なければ気づかない程度だ。


『北条君怖い』


『何でだよ』


『細かいところ見すぎ』


『たまたま見えた』


『じゃあ明日気づいても勝ちにしない』


『何の勝ちだよ』


『私の』


『意味分からん』


 ひよりは笑いながら、もう一度写真を見る。


 ほんの少しだけ写った水色。


 真樹はそれを覚えていた。


(本当に、人のことよく見てるなあ)


 胸の奥がじんわり温かくなる。


 颯太に可愛いと思われたいときの緊張とは違う。


 もっと静かで、安心するような嬉しさだった。


『でも覚えててくれてありがとう』


 送る。


 今度は少し長く待った。


『どういたしまして』


 ひよりは目を丸くした。


『素直!』


『うるさい』


『今日一番素直』


『寝ろ』


『まだ早いよ』


『明日起きれなくなるぞ』


『お兄ちゃん』


『やめろ』


『お父さん』


『もっとやめろ』


 ひよりは声を殺して笑った。


 明日も学校へ行く。


 颯太に会えたら、また話したい。


 海斗には数学を教える約束がある。


 千夏とはきっと朝からくだらない話をする。


 そして放課後には、真樹とノアに会う。


 以前なら別々だったはずの日常が、少しずつ同じ一日の中へ並び始めていた。


     ◇ ◇ ◇


 真樹は自室で、ひよりとのやり取りを終えたあともスマートフォンを手にしていた。


 水色のヘアゴム。


 本当にたまたま写真へ写っていただけだった。


 ただ、なぜ覚えていたのかと聞かれれば、自分でも説明しづらい。


 ひよりが送ってきた写真だったから、少し長く見ていた。


 黒犬のキーホルダーを見て、ノアに似ていないと思った。


 その横に水色が見えた。


 それだけだ。


(明日つけてくるんだよな)


 もう知っている。


 だから気づいても意味はない。


 けれど、実際につけてきたひよりを想像してしまう。


 似合うかどうか。


 髪型は変わるのか。


 そんなことまで考え始め、自分で眉を寄せた。


「何考えてんだ」


 スマートフォンを伏せる。


 それでも今日の別れ際に言われた言葉が残っている。


『また明日』


 明日も会う。


 それが当然のようになっている。


 そして、ひよりが颯太へ告白しようとしていることも、同じように現実として近づいている。


 真樹は天井を見上げた。


(告白したら、どうなるんだ)


 佐伯が受け入れたら。


 ひよりに彼氏ができたら。


 今までと同じように放課後、公園へ来るのだろうか。


 休日に二人で歩くことはあるのだろうか。


 夜にくだらないメッセージを続けるのだろうか。


 真樹の胸の奥に、またあの重い感覚が広がる。


(……何でそこまで考えてんだよ)


 まだ告白すらしていない。


 先のことを考える意味はない。


 それでも、ひよりの隣に自分ではない誰かがいる場面を想像すると、素直に「よかったな」と言える気がしなかった。


 真樹は目を閉じる。


 今日、ひよりから問われた。


『北条君は?』


 会えて嬉しいか。


 答えは言わなかった。


 けれど今なら、自分の中だけでは認められる。


 会えて嬉しかった。


 一日会わなかっただけなのに、姿を見た瞬間、ほっとした。


 くだらない勝負をして、笑って、明日の話をして、それが楽しかった。


(友達だからだろ)


 そう結論づける。


 今の真樹には、それ以外の名前をつける理由がなかった。


 ただ、その「友達」という言葉の中で、ひよりが他の誰より少しずつ大きな場所を占め始めていることだけは、もう否定しきれなくなっていた。

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