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『黒犬が運んできたのは、不幸ではなく恋でした』  作者: 伊佐波瑞樹


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第19話 会えない日にも、君がいる


 日曜日の朝、ひよりが目を覚まして最初に見たのは、枕元に置いていたスマートフォンだった。


 カーテンの隙間から差し込む冬の朝日はまだ弱く、暖房を切って眠っていた部屋には布団から出るのをためらう程度の冷気が残っている。ひよりは毛布を肩まで引き上げたままスマートフォンへ手を伸ばし、時刻を確認した。


 午前八時十二分。


 通知はいくつか届いていた。


 千夏から一件。


 家族のグループから一件。


 そして、それ以外には何もない。


「……何確認してるんだろ、私」


 誰からの連絡を期待していたのか自覚してしまい、ひよりは小さく息を吐いた。


 真樹は今日、家の交流会に参加すると言っていた。


 何時からなのかは聞いていない。


 会場がどこなのかも知らない。


 ただ、昨日の夜に服や会場の写真を撮れたら送ってくれることになっている。


 正確には約束ではないらしい。


 真樹本人が何度もそう主張していた。


(でも、待ってるって言ったし)


 ひよりはトーク画面を開く。


 昨夜最後に交わした「おやすみ」が残っている。


 何か送ろうかと思ったものの、今日の真樹は普段とは違う予定がある。朝から準備があるかもしれないし、家族や家の人と行動しているかもしれない。


 邪魔をするほどの用事でもない。


 ひよりはスマートフォンを伏せ、布団から出た。


「今日は千夏と遊ぶんだから」


 自分へ言い聞かせる必要などないはずなのに、なぜか声に出してしまった。


     ◇ ◇ ◇


「ひより、今日何時に出るの?」


 朝食の席で由美に聞かれ、ひよりは味噌汁のお椀を置いた。


「十二時半くらい。千夏と一時に駅前」


「お昼は?」


「千夏と食べる」


「分かった」


 向かいに座る美月がトーストを食べながらひよりを見る。


「今日は北条君じゃないんだ」


「千夏だよ」


「昨日聞いた」


「じゃあ何で聞くの」


「確認」


「何の?」


「別に」


 姉の口からその言葉が出た瞬間、ひよりは思わず眉を寄せた。


「……その言い方やめて」


「え?」


「北条君みたい」


 一瞬の沈黙のあと、美月が吹き出した。


「そこまで染まってるの?」


「染まってない!」


「今の一言だけで北条君出てくるんだ」


「だって本当にすぐ『別に』って言うんだもん」


「へえ」


 美月の目が面白そうに細められる。


 ひよりは失言に気づき、味噌汁へ視線を落とした。


「そういう意味じゃないからね」


「何も言ってないけど」


「顔が言ってる」


「お姉ちゃんの顔を勝手に解釈しないで」


「絶対楽しんでるじゃん」


 姉妹のやり取りを聞いていた浩介が、新聞から顔を上げる。


「北条君は今日は来ないのか?」


「来ないっていうか、会わないよ。北条君も予定あるから」


「昨日言ってた交流会?」


「うん」


 由美が何気なく尋ねる。


「何の交流会なの?」


「家同士の付き合いとか、学生同士の顔合わせとかあるみたい。でも私も詳しく知らない」


「そう」


 由美はそれ以上追及しなかった。


 家族はすでに真樹が桜陵学園へ通っていることも、北条家が大きな企業グループと関係しているらしいことも知っている。それでも、ひよりが本人の話していないことを勝手に調べたくないと言って以来、少なくとも彼女の前で詳しく調べようとする者はいなかった。


 もっとも、一人だけ落ち着かない人物はいる。


「交流会って、女もいるのか?」


 悠一だった。


「いるでしょ」


「何で即答できるんだ」


「一ノ瀬さんが行くって聞いたから」


「一ノ瀬さん?」


 悠一の眉がぴくりと動く。


「北条君の幼馴染。同じ桜陵の女の子」


「幼馴染の女の子?」


「うん」


「……そうか」


 妙に納得したような顔で、悠一は味噌汁を飲んだ。


 ひよりは首を傾げる。


「何?」


「いや。幼馴染がいるなら、まあ……」


「何が?」


「何でもない」


「今日みんな『何でもない』多くない?」


 ひよりが不満そうに言うと、美月が再び笑った。


 悠一は内心、ほんの少しだけ安心していた。


 北条真樹という少年が妹だけを見ているわけではなく、昔から親しい女の子がいる。それなら、ひよりと毎日のように会っていることにも深い意味はないのかもしれない。


 しかし、その考えを口にすれば、そもそも自分が何を心配しているのか追及されそうだった。


 だから黙っておく。


 一方、ひよりは兄の考えなど知らず、焼き鮭を箸でほぐしながら昨日のことを思い出していた。


 玲奈も今日の交流会に参加する。


 蓮もおそらく参加する。


 真樹の知っている人たちがいるのなら、本人が言うほど退屈ではないのではないか。


(……別に私が気にすることじゃないけど)


 そう考えたところで、また真樹の口癖が頭に浮かび、ひよりは一人で少し嫌な顔をした。


「ひより?」


「何でもない」


「ほら、ひよりまで」


 美月に指摘され、朝から天野家の食卓に笑い声が広がった。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ。


 北条家では、真樹が鏡の前に立っていた。


 濃紺のジャケットに白いシャツ、落ち着いた色合いのネクタイ。普段の制服とも休日の私服とも違い、家の付き合いへ同行するときのために用意された服装だった。


 鏡の中の自分を見ても、特別な感想はない。


 これまでも似たような格好をしたことは何度もある。


 しかし今日は、ポケットに入れたスマートフォンの存在が妙に気になっていた。


『北条君の服』


『見たいだけ』


『じゃあ待ってる』


 昨夜のやり取りが頭に残っている。


「……写真ってどう撮るんだよ」


 自分で自分を撮る趣味などない。


 鏡越しに撮ればいいのか。


 それとも誰かに頼むのか。


 どちらも馬鹿らしい気がする。


「真樹様、お時間です」


 扉の外から声をかけられ、真樹は考えるのをやめた。


「ああ。今行く」


 部屋を出る前、スマートフォンを取り出す。


 ひよりからの連絡はない。


(まあ、朝から送ってくるような用事もないか)


 そう思いながら画面を閉じる。


 階下へ降りると、玄関前にはすでに相沢直人が待っていた。


「おはようございます、真樹様」


「おはよう」


「本日は十時半までに会場入りの予定です。道路状況を考えまして、少々早めに出発いたします」


「分かった」


 外へ出る。


 ノアは今日は留守番だった。


 真樹がしゃがんで首元を撫でると、ノアは鼻先を腕へ押しつけてくる。


「悪いな。今日は一緒に行けない」


 ノアの耳の後ろを撫でながら、昨日のひよりの言葉が浮かぶ。


『明日は会えないけど、月曜ね』


「……明日は散歩行くから」


 ノアへ言ってから、真樹は自分で少し眉を寄せた。


 昨日も同じようなことを言った気がする。


 月曜日の散歩が、いつの間にか自分の中でも明確な予定になっていた。


     ◇ ◇ ◇


 交流会の会場は、都心寄りにあるホテルだった。


 高い天井から大きな照明が下がるロビーには、落ち着いた色合いの絨毯が敷かれている。休日の午前中にもかかわらず正装した人々が行き交い、スタッフが静かな声で案内を続けていた。


 真樹にとっては珍しくもない光景だった。


「真樹」


 受付へ向かう途中で呼ばれる。


 振り返ると、玲奈がいた。


 淡い色のワンピースに濃い色のジャケットを合わせ、普段の制服姿より大人びて見える。髪も少し整え方を変えており、周囲を歩く大人たちの中にいても自然に馴染んでいた。


「おはよう、玲奈」


「おはよう。今日はちゃんと早いのね」


「遅刻したことないだろ」


「学校ではね。こういう集まり、いつもぎりぎりまで嫌そうにしてるじゃない」


「今日も嫌だよ」


「でしょうね」


 玲奈は小さく笑う。


 二人が並んで受付へ向かっていると、後方から聞き慣れた声がした。


「朝から幼馴染二人で絵になるな」


 蓮だった。


「うるさい」


「おはようくらい言えよ」


「おはよう」


「雑だな」


 蓮は苦笑しながら隣へ並ぶ。


「玲奈、おはよう」


「おはよう、蓮君」


「真樹、昨日は天野さんと何時まで?」


「何で朝一番にそれ聞くんだよ」


「気になったから」


 玲奈の視線がわずかに真樹へ向く。


「昨日も会ってたの?」


「ああ」


「ノアの散歩?」


「そう」


 真樹が答えると、蓮が口元を緩めた。


「二時間くらいな」


「お前に時間まで言ってないだろ」


「じゃあ二時間くらいだったんだ」


「……」


「自白ありがとう」


「蓮、お前今日帰れ」


「まだ受付もしてないんだけど」


 玲奈は二人のやり取りを聞きながら、静かに真樹を見る。


 以前より明らかに、ひよりの名前が真樹の周囲へ存在するようになっている。


 それも誰かに聞かれたときだけではない。


 蓮がからかう材料にする程度には、日常の一部になっているらしい。


「天野さん、今日は?」


 玲奈が尋ねた。


「藤崎と出かけるって」


 真樹は自然に答えた。


 蓮が足を止めかける。


「……何で知ってるんだ?」


「昨日聞いた」


「友達の休日予定まで把握してるんだな」


「話の流れで聞いただけだ」


「どこ行くかも?」


「駅前らしい」


「へえ」


「その顔やめろ」


 蓮は何も言っていないのに、真樹が先回りして睨む。


 玲奈は笑わなかった。


 胸の奥に、ほんのわずかなざわつきが生まれていたからだ。


 真樹は昔から、必要のないことを積極的に覚えるタイプではなかった。


 もちろん記憶力が悪いわけではない。


 むしろ一度聞けばよく覚えている。


 けれど、誰が休日にどこへ行くかという話を、翌朝まで自然に覚えている相手は多くない。


(天野さんだから、なのかな)


 玲奈はそう考えたものの、口には出さなかった。


 真樹自身がまだ何も分かっていないように見える。


 そこへ自分が答えを与えるのは違う気がした。


     ◇ ◇ ◇


 交流会が始まって一時間ほど経った。


 前半は大人たちを含めた挨拶が中心で、その後、同世代の参加者が自由に交流できる時間が設けられた。


 真樹は窓際に立ち、飲み物のグラスを手にしていた。


「退屈そうだな」


 隣へ来た蓮が言う。


「退屈だからな」


「天野さんいたら違った?」


「何でここに天野が来るんだよ」


「仮定の話」


「意味ないだろ」


 真樹はそう答えながら、会場を見渡す。


 華やかな服装の学生たちがいくつもの輪を作っている。家同士で面識がある者も多く、完全な初対面ばかりではない。


 玲奈も少し離れた場所で知人と話していた。


 見慣れた光景だ。


 そのとき、窓の外に広がる景色が目に入った。


 高層階から街を見下ろせる。


 冬晴れの空の下に建物が並び、遠くまで見渡せた。


(写真)


 真樹は思い出した。


「……」


「どうした?」


「何でもない」


「スマホ出して」


「景色撮るだけ」


「俺まだ何も言ってないけど」


「うるさい」


 真樹は窓越しに街の景色を撮影した。


 確認する。


 悪くない。


 そのままひよりとのトーク画面を開き、送る。


『こんな感じ』


 数秒後。


 既読。


 早い。


『すごい!!』


『高い!』


『ホテル?』


『そう』


『きれいだね』


 連続して届く。


 真樹の口元がわずかに緩んだ。


『会場は?』


 聞かれ、真樹は人の顔があまり入らない角度から会場内を一枚撮る。


『豪華!』


『北条君こういうところにいるんだ』


『いるだけ』


『服は?』


 来た。


 真樹は画面を見つめる。


「蓮」


「ん?」


「写真撮って」


「……は?」


 蓮が珍しく本気で聞き返した。


「俺の」


「熱でもある?」


「ない」


「真樹が自分から写真撮ってって言った?」


「一回で聞け」


「誰に送るの?」


「……」


「天野さん?」


「もういい」


「待て待て、撮る。絶対撮る」


 面白がっているのが明らかだった。


 真樹は嫌そうな顔をしながら窓際へ立つ。


「普通でいいからな」


「笑って」


「嫌だ」


「じゃあ天野さんが笑ってって言ってたってことで」


「言ってない」


「はい、撮るぞ」


 蓮が数枚撮影する。


 確認すると、一枚は真樹が露骨に嫌そうな顔をしており、もう一枚は蓮へ文句を言う直前でわずかに表情が崩れていた。


「こっちのほうがいいな」


「何で」


「怖くない」


「どっちでもいい」


「天野さんに送るならこっち」


「お前が決めるな」


 言いながらも、真樹はその写真を選んだ。


 送信する。


 既読がつく。


 返事が来ない。


「……」


「何?」


「いや」


 一分。


 二分。


「遅くない?」


「何が?」


「返事」


「まだ二分だぞ」


「知ってる」


 蓮が笑いを堪えるように口元へ手を当てる。


「お前、かなり面白くなったな」


「何がだよ」


「いや、別に」


「その言い方やめろ」


 さらに少しして、ひよりから返事が来た。


『北条君じゃないみたい』


「……は?」


 真樹の眉が寄る。


『どういう意味』


『いつもと全然違う』


『ちゃんとお坊ちゃんに見える』


『普段は何に見えてんだよ』


『感じ悪い人』


『送るんじゃなかった』


 すぐに、


『嘘嘘!』


 と返ってくる。


『似合ってるよ』


 真樹の指が止まった。


 続けてもう一通。


『かっこいい』


 画面を見つめる時間が少し長くなる。


「真樹?」


 蓮に呼ばれ、真樹はスマートフォンを下げた。


「何」


「耳赤いけど」


「暑いだけ」


「この会場、結構涼しいけどな」


「黙れ」


 蓮は笑った。


 少し離れたところにいた玲奈も、その様子を見ていた。


 誰と連絡しているのか、聞かなくても何となく分かる。


 真樹はスマートフォンを見て、怒ったような顔をしている。


 けれど、本当に嫌なときの顔ではない。


 玲奈は幼いころからそれを知っていた。


 少しだけ胸が痛む。


(私、あんな顔させたことあったかな)


 考えても答えは出なかった。


 だから玲奈は、目の前の知人との会話へ意識を戻した。


     ◇ ◇ ◇


「ひより」


「ん?」


「さっきから顔にやけてる」


「にやけてない!」


 駅前のカフェで、千夏がストローをくわえながら笑った。


 ひよりは慌ててスマートフォンを伏せる。


 二人は昼食を済ませたあと、雑貨店へ行く前に飲み物を買って休憩していた。


 ひよりの前にはミルクティー、千夏の前にはカフェラテが置かれている。


「北条君?」


「……うん」


「素直」


「隠すことじゃないし」


「何話してたの?」


「今日の交流会の写真送ってくれた」


「へえ。見たい」


「いいけど、勝手に人の写真見る?」


「本人の写真もあるの?」


「ある」


「見たい」


「そこ食いつくんだ」


 ひよりは笑いながらスマートフォンを開き、まず景色と会場の写真を見せる。


「すごくない?」


「すご。ホテル?」


「そうだって」


「さすが北条君の世界」


「やっぱりそう思うよね」


 ひよりの声がほんの少しだけ弱くなる。


 千夏はそれを聞き逃さなかった。


「ひより?」


「何?」


「何かあった?」


「別に何もないよ」


 笑った。


 千夏には分かる。


 いつもの笑顔とは少し違う。


「北条君がすごい家だから?」


「……ちょっとだけ」


 ひよりはミルクティーへ視線を落とした。


「別に嫌とかじゃないの。北条君は北条君だって思ってるし、それは本当に変わってないんだけど」


「うん」


「でも、知らない世界だなって思うことはある」


 ストローで氷を小さく動かす。


「一ノ瀬さんとか神崎君は、ああいう場所に普通にいるんだよね」


「二人とも今日いるの?」


「多分。神崎君は分かんないけど、一ノ瀬さんは行くって聞いた」


「そっか」


「私が気にすることじゃないんだけどね」


「何で?」


「だって友達だもん」


 ひよりは自然にそう答えた。


「友達の家がすごいからって、私が悩んでも仕方ないでしょ?」


「まあね」


「ただ、北条君のこと結構知った気になってたけど、知らないことのほうが多いなって」


 千夏はひよりの表情を見つめる。


 嫉妬しているようには見えなかった。


 少なくとも、ひより自身が颯太へ向けている恋愛感情とは明らかに違う。


 けれど、真樹の知らない部分を知りたいと思っている。


 自分の知らない真樹を玲奈や蓮が知っていることに、ほんの少し寂しさを感じている。


 それだけでも、以前のひよりからすれば十分な変化だった。


「で、北条君本人の写真は?」


「話変えた?」


「ひよりが深刻そうじゃないからいいかなって」


「適当だなあ」


「ほら、見せて」


「はいはい」


 ひよりは真樹から送られてきた写真を開いた。


 千夏が画面を見る。


「……おお」


「ね、違うでしょ?」


「これはモテそう」


「でしょ?」


 ひよりが即答する。


 千夏は画面からひよりへ視線を移した。


「ひよりさん?」


「何?」


「何でちょっと自慢げなの?」


「自慢してないよ!」


「今、『でしょ?』って」


「北条君が普段よりちゃんとしてるって意味!」


「普段も顔はちゃんとしてるでしょ」


「性格がちょっと」


「本人に言える?」


「言える」


「強い」


 千夏は笑いながら写真をもう一度見る。


「でも本当にかっこいいね」


「うん」


 ひよりは迷わず頷いた。


 千夏が黙る。


「……何?」


「いや、素直だなって」


「前から北条君の顔はかっこいいって言ってるじゃん」


「そうだったね」


「好きとかじゃなくても、かっこいい人はかっこいいでしょ?」


「はいはい」


「何その返事!」


 ひよりが抗議する。


 千夏は笑いながらカフェラテを飲んだ。


 まだ違う。


 ひよりの中で、真樹は恋愛対象ではない。


 颯太の話をするときとは反応が違う。


 ただし、だからといって何もないとは、千夏にはもう思えなかった。


(ひより本人が一番気づくの遅そう)


 けれど、それを教えるつもりはない。


 ひよりが自分で気づくまで待てばいい。


「それより、北条君に何て返したの?」


「似合ってるって」


「それだけ?」


「かっこいいって」


「へえ」


「何?」


「北条君、どんな顔したかなって」


「メッセージだから分かんないよ」


「惜しい」


「何が?」


 千夏は答えず、楽しそうに笑った。


     ◇ ◇ ◇


 午後の交流会では、学生同士の簡単な紹介や、今後予定されている学校外活動についての説明が続いていた。


 真樹は必要な話だけ聞きながら、時折スマートフォンへ視線を落としていた。


『かっこいい』


 ひよりの言葉は、まだ画面に残っている。


 返事を考えた末、


『どうも』


 とだけ送った。


 すると、


『反応薄い』


 と返ってきた。


『じゃあ何て返せばいいんだよ』


『ありがとうとか』


『言っただろ』


『どうも、だった』


『同じだろ』


『違うよ』


 くだらない。


 本当にどうでもいい会話だ。


 それなのに、交流会で誰かと形式的な会話を続けるより、ひよりとの数行のやり取りのほうがずっと気楽だった。


「真樹」


 玲奈に呼ばれ、顔を上げる。


「次、移動するって」


「ああ」


 スマートフォンをしまう。


 玲奈と並んで別室へ向かう途中、彼女が少しだけ迷ってから尋ねた。


「天野さん?」


「何が」


「さっきから連絡してる相手」


「……ああ」


 否定しなかった。


「写真送ってたの?」


「昨日、見たいって言われたから」


「そうなんだ」


 玲奈は前を向く。


「仲いいのね」


「友達だから」


「うん」


 玲奈は笑った。


 嫌味ではない。


 ただ、その言葉を自分の中へ落とし込むための笑顔だった。


「真樹が学校以外の友達とこんなに連絡取るの、珍しいなって思っただけ」


「そう?」


「そうよ」


「蓮とはするけど」


「蓮君から来るのを返してるだけでしょう?」


「まあ」


「天野さんには真樹から送ることもあるんでしょ?」


「……ある」


「ほら」


 玲奈は少し笑う。


 真樹は眉を寄せた。


「何なんだよ」


「別に悪いって言ってないわよ」


「ならいいけど」


 それ以上、玲奈は踏み込まなかった。


 聞けば聞くほど、自分の胸の中にある小さな不安が形になりそうだったからだ。


 幼いころから知っている。


 家同士の付き合いがある。


 同じ学校に通っている。


 真樹の昔を知っている。


 それらは確かに玲奈だけが持っている時間だった。


 けれど今、真樹が新しく積み重ねている時間の中には、自分の知らない少女がいる。


(焦っても仕方ない)


 玲奈はそう自分へ言い聞かせる。


 ひよりは何も悪くない。


 だから、敵のように扱う理由もない。


 ただ、自分が真樹を好きだという事実まで消えるわけではなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午後四時。


 ひよりと千夏は駅前の雑貨店を出た。


 ひよりの手には小さな紙袋がある。新しいヘアゴムとノート、それからノアを思い出して見つけた黒い犬の小さなキーホルダーが入っていた。


「結局買ったね」


「可愛かったから」


「完全にノアじゃん」


「黒い犬見たらノアに見えるようになっちゃった」


「重症」


「何の?」


「ノア病」


「何それ」


 二人で笑いながら駅前を歩く。


 日が傾き始め、ビルの隙間から差し込む光が歩道を橙色に染めていた。休日らしく人通りは多く、親子連れや学生の集団が行き交っている。


 信号待ちで立ち止まったとき、ひよりのスマートフォンが震えた。


「あ」


「北条君?」


「何で分かるの」


「顔」


「まだ見てないよ!」


「通知見た瞬間の顔」


「そんな分かりやすくない」


「私には分かる」


 千夏が得意そうに言う。


 ひよりは少し不満そうにしながら画面を見る。


『終わった』


 それだけだった。


 でも、ひよりは笑った。


『お疲れさま!』


『疲れた?』


『少し』


『ノアに癒やしてもらって』


『今から帰る』


『ノア喜ぶね』


 そこまで送ってから、ひよりは少し迷う。


『私もお疲れさまって言っといて』


 送信。


 すぐ返ってくる。


『自分で月曜言え』


「……それもそうだ」


「何?」


「ノアにお疲れさまって言ってって頼んだら、自分で言えって」


「北条君らしい」


「月曜まで言えないのに」


「明日じゃん」


「そうだけど」


 言ったあと、ひよりは少しだけ黙った。


 明日。


 たった一日会わなかっただけなのに、月曜日が少し待ち遠しい。


 以前にも似た感覚はあった。


 会えるかどうか分からなかったころ。


 同じ公園へ行けばノアに会えるかもしれないと期待していたころ。


 けれど今は違う。


 明日は会うと分かっている。


 だから待ち遠しい。


(ノアにも会いたいし)


 もちろん、それは本当だ。


(北条君にも……まあ、会いたいよね。友達だし)


 その結論に自分で納得する。


 千夏は隣で何も言わなかった。


 ひよりが今、自分の中で何かを整理したらしいことだけは分かった。


「明日、佐伯君に会えるといいね」


 千夏がわざと別の名前を出す。


 ひよりの表情が変わった。


「うん!」


 分かりやすく頬が明るくなる。


「今日ね、ちょっと考えてたんだけど、前より普通に話せるようになったし、もう少ししたらちゃんと……」


「告白する?」


「……したい」


 声が少し小さくなる。


 けれど、そこには確かな恋心があった。


 千夏は頷く。


「そっか」


「怖いけどね」


「うん」


「でも、バレンタインみたいに何もできないまま終わるのは嫌だから」


 ひよりは前を見る。


「ちゃんと伝えたい」


「応援してるよ」


「ありがとう」


 千夏は笑った。


 そして同時に、少し複雑な気持ちにもなる。


 ひよりは間違いなく颯太が好きだ。


 その気持ちは本物だ。


 けれど今日、真樹から写真が届いたときに見せた顔も嘘ではない。


 種類が違うだけで、どちらもひよりにとって大切な感情なのだろう。


 それがいつか変化するのか、それともこのままなのか。


 千夏にも分からない。


 だからこそ、今は見守るだけでいい。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、北条家へ戻った真樹を最初に迎えたのはノアだった。


「ただいま」


 玄関まで来たノアの頭を撫でる。


「今日は留守番ありがとな」


 ジャケットを脱ぐ前に、ノアが鼻先を手へ寄せてくる。


「何だよ」


 真樹はしゃがむ。


 そのとき、ひよりのメッセージを思い出した。


『私もお疲れさまって言っといて』


「……天野がお疲れさまだって」


 言った直後、自分で妙なことをしている気がした。


 ノアは嬉しそうに尻尾を振る。


「分かってんのか?」


 さらに振る。


「お前、天野って言うと反応するようになってない?」


 試しにもう一度言う。


「天野」


 ノアの耳が動いた。


「……マジかよ」


 真樹は思わず笑った。


 その様子を少し離れた場所から相沢が見ていた。


 長く北条家に仕えている彼にとって、真樹がノアへ話しかける姿自体は珍しくない。しかし最近、その会話の中に一人の少女の名前が増えたことには気づいていた。


 相沢は何も尋ねない。


 真樹が自分から話さないことへ踏み込むつもりもない。


 ただ、以前公園まで車を回した雨の日のことを思い出す。


 真樹はノアを連れずに車を降りた。


 理由は、雨の中で一人の少女が待っているかもしれないから。


 それだけでも、相沢には十分珍しいことだった。


「相沢」


「はい」


「何」


「いえ、何も」


「今何か言いたそうだっただろ」


「気のせいでございます」


「……そう」


 真樹は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上追及しなかった。


 相沢はわずかに口元を緩め、仕事へ戻っていった。


     ◇ ◇ ◇


 夕食後。


 ひよりは自室の机に向かっていた。


 明日の授業の準備を済ませ、教科書を鞄へ入れる。


 スマートフォンが震えた。


『ノアに言っといた』


「本当に言ったんだ」


 思わず笑う。


『何て?』


『天野がお疲れさまだって』


『ノア何て言ってた?』


『尻尾振ってた』


『かわいい!』


『お前の名前に反応した』


 ひよりの手が止まる。


『ほんと!?』


『多分覚えてる』


『嬉しい』


 素直にそう送った。


『月曜いっぱい撫でる』


『やめろ。帰らなくなる』


『私の家に来てもいいよ』


『駄目に決まってるだろ』


『お兄ちゃん喜ぶかも』


『絶対喜ばないだろ』


 ひよりは吹き出した。


 確かに、ノアだけなら悠一も喜ぶかもしれない。


 その後ろに真樹がいたら話は変わりそうだが。


『北条君も一緒だったら警戒すると思う』


『知ってる』


『会ったことないのに』


『お前の話だけで分かる』


『でもお兄ちゃん優しいよ』


『それも知ってる』


 ひよりは少し驚いた。


『なんで?』


『お前がいつも文句言いながら好きそうだから』


 画面を見つめる。


 少しだけ胸が温かくなった。


 真樹は覚えている。


 自分が家族の話をしたことを。


 悠一をうざいと言いながら、本当は大切に思っていることを。


『北条君って意外と人のこと見てるよね』


 返事には少し時間がかかった。


『普通』


『それ絶対普通じゃない』


『知らん』


『褒めたのに』


『どうも』


『またどうも!』


 しばらくやり取りを続けたあと、ひよりは今日買ったキーホルダーを思い出した。


 紙袋から取り出し、机の上に置く。


 丸い目をした黒い犬。


 ノアほど大きくも格好よくもないが、どこか愛嬌がある。


 写真を撮って真樹へ送った。


『今日買った』


 すぐ既読になる。


『ノア?』


『似てたから』


『全然似てない』


『黒い犬!』


『それだけだろ』


『かわいいからいいの』


『本物のほうがかわいい』


『飼い主馬鹿』


『うるさい』


 ひよりは笑いながら、キーホルダーを通学鞄につけた。


 明日これを見せよう。


 そう思ってから、ふと気づく。


 今日一日、真樹とは会っていない。


 それでも朝から何度も真樹のことを考えた。


 交流会は始まったかな。


 どんな服だろう。


 玲奈や蓮と話しているのかな。


 写真まだかな。


 終わったかな。


 ノアに会えたかな。


 会わなかったのに、完全に離れていた感じがしない。


(連絡先知ってるからかな)


 きっとそうだ。


 以前なら、会えない日は何をしているか分からなかった。


 今は少しだけ知ることができる。


 それが友達らしくて嬉しい。


 ひよりはそう思い、スマートフォンへ視線を戻した。


     ◇ ◇ ◇


 同じころ、真樹も自室でスマートフォンを見ていた。


 ひよりから送られてきた黒犬のキーホルダー。


 どう見てもノアには似ていない。


 それなのに、ひよりが店で黒い犬を見てノアを思い出したことは、少し嬉しかった。


 さらに考える。


(ノアを思い出しただけだろ)


 自分は関係ない。


 そう思ったところで、今日の写真のやり取りが頭に浮かぶ。


『かっこいい』


 また思い出した。


「……」


 スマートフォンを伏せる。


 数秒後、また手に取る。


 ひよりとのトーク画面を開く。


 今日だけでもかなりの数のメッセージを交わしていた。


 会っていないのに。


 むしろ会っていないからなのかもしれない。


 いつもなら公園で話すことを、今日は文字で話している。


(別に変じゃないだろ。連絡先交換したんだから)


 友達なら連絡くらいする。


 蓮ともする。


 ただし、蓮から来たメッセージは面倒ならしばらく放置することもある。


 ひよりから来たものは。


「……」


 ほとんどすぐ返していた。


(たまたまだ)


 スマートフォンを持っていたから。


 交流会が退屈だったから。


 そういう理由で説明できる。


 画面が震える。


『明日何時くらい?』


 ひよりだった。


『いつも通り』


『分かった』


『授業終わったら行くね』


 真樹は少し考える。


『急がなくていい』


『待たせるじゃん』


『待ってない』


 送ってから、自分でも見慣れた言い訳だと思った。


 案の定、


『またそれ』


 と返ってくる。


『じゃあ北条君が先にいたら待ってたってことにする』


『勝手に決めんな』


『私が先だったら私が待ってる』


『それも違う』


『じゃあ同時に着こう』


『無理だろ』


『頑張ろう』


『何をだよ』


 真樹は笑った。


 誰も見ていない部屋で、今度は否定する必要もない。


 少しして、


『今日会わなかったから、明日はいっぱいノア撫でる』


 と届く。


『好きにしろ』


 返してから、真樹は一度指を止めた。


 続けて文字を打つ。


『クッキー忘れんなよ』


 昨日ひよりが持ち帰った、ノア用のクッキー。


『覚えてるよ』


『鞄に入れてある』


『ならいい』


 そこで終わると思った。


 しかし、


『北条君にも会うのちょっと楽しみ』


 と届いた。


 真樹の視線が止まる。


 昨日も似たことを言われた。


 友達だから。


 話すのが楽しいから。


 ひよりにとって、それ以上の意味はない。


 分かっている。


 なのに、胸の奥がわずかに軽くなる。


 返事を打つ。


『俺も』


 そこまで入力した。


 見つめる。


 消した。


『そう』


 打ち直す。


 それも消す。


(何返せばいいんだよ)


 数十秒悩んだ末、


『ノアは喜ぶだろうな』


 と送った。


 逃げた。


 自分でも分かる。


 ひよりから返事が来る。


『北条君は?』


「……」


 真樹はベッドへ背中を預けた。


 聞くな。


 そう思う。


 けれど、嫌ではない。


 むしろ。


(俺も会いたい、ってことか?)


 自分で考えた瞬間、落ち着かなくなった。


 一日会わなかっただけだ。


 学校の友達なら土日に会わないことなど普通にある。


 それなのに、明日ひよりに会えることを、自分も楽しみにしている。


 認めること自体は、それほど難しくない。


 友達なのだから。


 ただ、その気持ちが思っていたより強いことだけが引っかかった。


 真樹はしばらく画面を見つめたあと、ようやく返信する。


『退屈はしない』


 送った。


 すぐに、


『またそれ!』


 と返ってきた。


 真樹は思わず笑う。


『十分だろ』


『全然素直じゃない』


『うるさい』


『明日素直に言わせる』


『無理』


『じゃあ勝負ね』


『何の勝負だよ』


『北条君が「会えて嬉しい」って言ったら私の勝ち』


『絶対言わない』


『じゃあ私が言わせたら勝ち』


『同じだろ』


『あ、ほんとだ』


「馬鹿」


 呟きながらも、真樹の口元には笑みが残っていた。


     ◇ ◇ ◇


 ひよりはベッドの上で、真樹からの『馬鹿』というメッセージを見ながら頬を膨らませた。


『また馬鹿って言った』


『事実』


『明日覚えてて』


『何を』


『仕返しする』


『怖くない』


『ノアをいっぱい撫でて北条君のところに帰さない』


『それ俺じゃなくてノアが得するだけだろ』


「確かに」


 ひよりは一人で笑った。


 今日、直接顔を合わせることはなかった。


 声も聞いていない。


 それでも、思っていたよりずっとたくさん話した。


 交流会の写真を見た。


 普段とは違う服装の真樹を見た。


 知らなかった世界をほんの少しだけ知った。


 そして真樹も、ひよりが千夏と出かけていたことや、黒犬のキーホルダーを買ったことを知っている。


 会わなければ何も共有できなかったころとは違う。


 少しずつ互いの日常がつながっている。


 ひよりはそれを恋とは思わない。


 明日学校へ行けば、颯太に会えるかもしれない。


 そう考えれば今でも胸が高鳴る。


 いつか告白したいという気持ちも変わっていない。


 真樹に対する感情は、それとは違う。


 緊張より安心が強い。


 どう見られているかを考えるより、何を話そうかと考える。


 格好悪いところを見せても、多少馬鹿なことを言っても、真樹なら呆れながら返してくれる気がする。


(友達って、こんな感じなのかな)


 千夏とはまた違う。


 海斗とも違う。


 もちろん颯太とも違う。


 同じ「友達」という言葉の中にも、距離はたくさんあるのかもしれない。


 ひよりはそこまで考えてから、スマートフォンを枕元へ置いた。


 明日は学校。


 颯太に会えたら話したい。


 授業が終わったら公園へ行く。


 ノアへ昨日買ったクッキーをあげる。


 黒犬のキーホルダーも真樹へ見せる。


 そして、真樹に「会えて嬉しい」と言わせる。


「……最後のはいらないか」


 自分で笑いながら布団へ入る。


 スマートフォンがもう一度震えた。


『天野』


 真樹からだった。


『何?』


『明日寒いらしいから手袋忘れんな』


 ひよりは目を細めた。


 昨日、わざわざ見せた紺色の手袋。


 ちゃんと覚えている。


『分かった』


『北条君もね』


『俺は忘れない』


『私だって忘れないよ』


『昨日まで忘れてただろ』


『もう忘れません!』


『ならいい』


 少し迷ってから、ひよりは最後に送った。


『おやすみ。また明日』


 今度の返事は早かった。


『おやすみ。また明日』


 同じ言葉。


 ひよりは画面を見つめ、それから満足して目を閉じた。


 会わない日だった。


 それなのに、以前より相手のことを知った一日だった。


 同じころ、真樹も自室で最後のメッセージを眺めていた。


『また明日』


 それはいつの間にか、二人の間でごく自然に交わされる言葉になっている。


 偶然会えたら嬉しかったころとは違う。


 会うつもりで一日を終える。


 互いの明日の中に、最初から相手がいる。


 真樹はまだ、その変化に名前をつけようとはしなかった。


 ただ、明日の放課後を楽しみにしていることだけは、もう自分にまで誤魔化す必要がない気がしていた。

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