夕立の軒下
市場の日だった。
「カイも来て。荷物持ちが要るの」
リラがそう言った時、カイは薪割りの手を止めて露骨に嫌な顔をした。
「目立ちたくないと言っただろ」
「大丈夫よ。翠野農場の手伝いの人で通っているもの。それに——」リラは籠を持ち上げてみせた。「あなたの獲った魚、燻したのが売れるの。物乞いはしないんでしょう? だったら売り上げの半分はあなたの稼ぎだわ」
カイは黙った。黙ったまま斧を薪の山に立てかけた。
リラは知っていた。この人は理屈が通っている時だけ負ける。
* * *
村の市場は狭い広場に露店がひしめいて、麦と土と揚げ菓子の匂いがした。
「あーっ、リラだ!」
麦わら帽子が人混みを割って飛んできた。隣の畑のクロエだった。クロエはリラの腕を掴み、それからカイを見て、またリラを見た。にんまりと笑った。
「へえ。この人が、噂の」
「く、クロエ! 噂って何よ」
「農場に住み着いた無口な色男。エルマさんが市場で自慢してた」
「自慢……」
カイが低く呻いた。リラは慌てて話を変えようとして失敗した。クロエはそういう時、絶対に逃がしてくれない幼馴染だった。
「ふうん」クロエはカイを上から下まで眺め、それからリラの耳元に口を寄せた。「……あんたの好きな本の、騎士様みたいじゃん」
「ちがっ……そういうのじゃないの」
言ってからリラは自分で驚いた。
いつもならここで物語が始まるはずだった。そうよ、彼は身分を隠した影の守護騎士で——と、いくらでも言葉が出てくるはずだった。なのに今、口をついて出たのは否定だった。物語の言葉で包む前に、素の言葉が先に出た。
クロエはそれを聞き逃さなかった。
「……へえ?」
「な、何よ」
「別に」クロエは麦わら帽子を目深に直して笑いを隠した。「魚、三つちょうだい。うちのお父さんの晩酌用」
* * *
帰り道の途中で空が鳴った。
夏の空はせっかちだった。頭上の青が残っているうちに西から灰色が走ってきて、最初の一粒が地面で弾けたと思った次の瞬間にはもう滝だった。
「こっちだ」
カイの判断は速かった。リラの籠ごと腕を引いて、街道脇の古い納屋の軒下へ滑り込む。二人ぶんの息と、屋根を叩く雨の音だけが残った。
「……すごい降り」
「すぐやむ。雲の流れが速い」
カイは軒の外を見たまま言った。濡れた前髪から雫がひとつ落ちた。リラは自分の肩を見た。ほとんど濡れていなかった。引かれた時、カイが雨側に立ったからだった。本人は気づいてもいないようだった。
雨が世界の音を全部消していた。
市場のざわめきも鳥も虫も聞こえない。軒下の狭い乾いた場所だけが、切り取られたように残っていた。
(これって——)
物語なら、とリラは思いかけた。夕立の軒下にふたりきり。恋物語の定番、第十二章あたりの——
そこで言葉が止まった。
定番の続きが思い出せなかった。思い出せないのではない。要らなかった。今、隣にある体温と雨の音と、少しだけ速い自分の鼓動。それでもう手一杯だった。物語の言葉が入り込む隙間がどこにもなかった。
「……リラ」
「は、はいっ」
「籠。傾いてる。燻製が落ちる」
「あっ」
リラは慌てて籠を抱え直した。カイは前を向いたままだった。けれどその横顔がほんの少しだけ、笑いを噛み殺した形をしていた。
「……今、笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑ったわ」
「……雨、弱くなってきたな」
露骨に話を逸らして、カイは軒の外へ手のひらを出した。雨粒がその手の上で弾けて砕けた。リラはその手を見ていた。魚を握らせてきた手。薪を割る手。さっき自分を雨から引き込んだ、手。
(あたたかいのは、どうしてかしら)
濡れてもいないのに、肩のあたりがずっと温かかった。
「やんだ。行くぞ」
「……うん」
軒下を出ると、洗われた夕方の光が水たまりの一つ一つに落ちていた。二人の影が濡れた道の上に伸びた。少しだけ、朝より近い距離で。
道の先で傘を差したクロエが待っていた。二人を見て、傘の下でそれはそれは楽しそうに笑っていた。
「な、何よ! 雨宿りしてただけよ!」
「あたし、まだなんにも言ってないじゃん」




